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2017.02.20
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カテゴリ: 歴史
今回紹介するのは西軍に属し戦後蟄居を命ぜられた織田秀信、美濃岐阜12.3万石です。


合戦時
慶長5年(1600年)8月22日、木曽川沿いの米野で老臣・百々綱家、大番頭・飯沼長資らの2,500騎を先鋒とし木造長政らの兵1,000を中野村に配置、遊軍として佐藤方政の兵1,000を新加納村に配置し、木曽川を防衛線として池田輝政・福島正則らの東軍を迎え撃った(米野の戦い)。
その後、岐阜城に籠城した。諸将の配置は本丸は秀信と弟・秀則、稲葉山・権現山砦に三成からの援将・松田重大夫、瑞龍寺山砦に同じく援将・河瀬左馬之助ら、総門口に津田藤三郎、七曲口に木造長政父子、御殿・百曲口に百々綱家、水の手口に武藤助十郎であった。当初、援軍には島津右馬頭が赴くことが決定されたが、取り止めになっている。籠城戦は23日一日続いたが、前日の戦いで兵力が激減していた上、東軍にかつて岐阜城主だった池田輝政が城の構造を熟知していたこともあって敗勢は覆いがたく、秀信は秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で23日降伏開城した。

合戦後
城を出た秀信は、上加納の浄泉坊で剃髪して、尾張知多へと送られた。 岐阜城陥落後の逸話として、家臣・小林新六郎が関ヶ原より撤退する島津義弘の軍勢の道案内をしたことが伝わっている。降伏した秀信に対する助命はいかがなものかという声も上がったが、家中に秀信家臣の縁者も多かった福島正則が「自らの武功と引き換えに」と助命を主張したため、合戦終結後に岐阜13万石は没収されて高野山へと送られた。道中の警護は浅野家が務めた。岐阜城攻防戦を生き残った秀信家臣の多くは岐阜城攻防戦で戦った福島家、池田家や浅野家などに招聘された。

一族のその後
養子 八幡山秀綱(六角義郷の子ないし弟)
秀信には岐阜入部当初男子がなかったため、六角義郷の弟八幡山秀綱を養子とし、三郎と名乗らせている。秀綱の母は信長の娘ないし孫娘であるといい、秀綱は従兄弟ないし従兄弟の子にあたる。なお、秀綱は慶長6年(1601年)に没し、秀信が関ヶ原の戦いで敗北・改易されたこともあり、織田宗家の家督を相続することはなかった。


清洲会議時に羽柴秀吉に織田家相続者として持ち上げられ、その後完全に傀儡となった彼であったが豊臣政権下で羽柴姓を下賜され、従三位中納言にまで昇進した。そんな彼が石田三成から美濃・尾張2か国の領有を認められ西軍に属したのはごく当然の行動であったと考える。子息にめぐまれず織田信長直系の血統が絶えてしまったのは残念なことである。

織田氏


本姓:称・桓武平氏(藤原氏・忌部氏)
種別:武家
華族(子爵)
出身地:越前国織田庄
主な根拠地:尾張国 ほか
著名な人物:織田敏広、織田敏定、織田信秀、織田信長、織田有楽斎、織田信忠、織田信雄、織田孝一
支流、分家:津田氏(武家)


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Last updated  2017.02.20 11:50:59
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