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2017.02.22
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カテゴリ: 歴史
今回ご紹介するのは毛利勝信、合戦時は豊前小倉6万石でした。

合戦時
石田三成方について、息子勝永が伏見城を攻めた。豊前にいた勝信は、勝永に同行した家老・毛利信友(九左衛門)が伏見で戦死したので、支城・香春岳城の城主に自分の子を据えようとしたが、信友の郎従と遺子・吉十郎は激怒して香春岳城を黒田如水に譲ってしまい、その先鋒となった。

合戦後
黒田如水は勝信に石田方敗北を知らせて投降するように勧めた。如水とは旧知の仲であり、説得に応じて徳川家康へのとりなしを依頼し、勝信は剃髪して一斎を号した。ところが実は如水はすでに豊前一国の切り取り自由、安堵の約束を取り付けており、騙された勝信・勝永は戦後改易されて、肥後国へ追放されることになった。
毛利親子の身柄は加藤清正、次いで旧知の仲であった山内一豊が土佐国で預かった。これはもともと豊臣家臣団で上役の勝信が一豊の面倒を見てきたことに加えて、勝永が石田方にありながら一豊の妻の千代の保護に奔走していたためといわれており、土佐では大高坂城西郭で生活をしていた。また一豊に登用されて城の普請にも携わった。
慶長16年(1611年)5月6日、配所で死去した。翌日、小高坂山で荼毘に付され、尾戸山に葬られた。墓石の大きさは九尺四方で、山内忠義がこれを建立した。墓所ははじめは江ノ口尾戸山法華宗喜円坊にあったが、後に久万村に移された。

一族のその後

長男


子孫
森小弁
トラック諸島(現在のミクロネシア連邦チューク州チューク諸島)で活躍した実業家。

マニー・モリ
ミクロネシア連邦の第7代大統領。

早くから豊臣秀吉に仕えた古参の家臣で、黄母衣七騎衆の1人であった彼にとって、主人は豊臣家以外に考えられなかったのではないでしょうか?


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Last updated  2017.02.22 11:00:42
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