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2017.03.27
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カテゴリ: 歴史
今回ご紹介するのは小早川秀包、合戦時筑後久留米13万石でした。


合戦時
関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、8月に大坂城玉造口を守備した。9月3日には京極高次の籠る大津城を兄の末次元康や立花宗茂らと共に攻め、6人の部将を失い3人の重臣が重傷を負う痛手を蒙りながらも落城させた。しかし秀秋の内応や吉川広家・毛利秀元の日和見行為により西軍が敗れたため、大津城を撤退して大坂城に帰還する。この時、国許でも戦が起こっており、10月14日に久留米城は黒田如水、鍋島直茂率いる37,000の軍に攻撃を受けていた。城中には宿老・桂広繁、白井景俊以下わずか500の兵しか残っていなかったが、数日城は持ちこたえた後、両人は開城勧告に応じて城を明け渡した。秀包の娘のおさてが黒田家の人質に、桂広繁の四男・黒寿丸が鍋島家の人質とされ、秀包の正室桂姫や嫡男毛利元鎮らは長門国豊浦郡川棚へと移った。

合戦後
関ヶ原の戦い後は改易され、毛利輝元より長門国内に所領を与えられる。その頃、小早川秀秋の裏切りへの謗りを避けるため、小早川姓を捨てて毛利姓に復し、大徳寺で剃髪して玄済道叱と称した。帰国後は体調が悪化し、長門赤間関の宮元二郎の館で療養したが、翌慶長6年(1601年)に喀血し35歳で病没。遺体は当時の秀包の知行地で、館があったと伝えられる現在の山口県下関市豊北町滝部に安置される。後に久留米には秀包を祀る小早川神社が建てられた。

一族のその後
長男 元鎮
一門家老吉敷毛利家の始祖となった。

元就の九男として生まれ叔父隆景からも才能を認められ、合戦時は大津城攻略で活躍するも、他一門の中途半端な行動により憂き目を味わうことになった。その本心はいかようであったのでしょうか?




本姓:大江氏季光流
家祖:大江季光
種別:武家、華族(公爵)
出身地:相模国愛甲郡毛利莊、森庄(もりのしょう)[注釈 1]
主な根拠地:越後国佐橋庄南条、安芸国高田郡吉田庄(よしだのしょう)、長門国萩、周防国山口
著名な人物:毛利元就、毛利輝元、毛利敬親
支流、分家:越後毛利氏(武家)、徳山毛利家(武家)、長府毛利家(武家)、清末毛利家(武家)、安芸坂氏(武家) など

引用:Wikipedia


こんなに面白いとは思わなかった!関ケ原の戦い





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Last updated  2017.03.27 10:59:06
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