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形意拳のページ
形意拳・・・・私はこの拳法が大好きです。
今日も、五行拳をひたすら繰り返す。
劈、金賛、崩、火包、横、のひとつひとつにおもいのありったけをこめて、1回、1回繰り返す。
全身の神経をのびのびと体中にはりめぐらせ、師匠の動きを頭に思い浮かべ、どうしたら、その動きのニュアンスを体現できるか繰り返す、繰り返す。
あっ、こんな感じ・・・あっ!全然ちがう、・・・今少し合った・・・そうそう、こんな感じ・・・・もっと極端にやる・・・もっと大きく表すと・・・・この動き、体のなかに隠して・・・・・
この感覚、ああ、また遠のいた・・・・。
ひたすら、自問、自答を繰り返しながら、師匠の身につけている「ケイ」をさぐる。
拳を1回、2回と繰り返すが、そこには、二回目、三回目の拳はなく、常に一回目の拳だけが繰り出される。
ただ、1回、その場限りの1回っきりの拳をひたすら繰り返す。
だんだん、心が澄み切ってくる。
形意拳とは、武術というだけのものではなく、ひとつのライフスタイルなんだと思います。
形意拳からのメッセージ
形意拳で大切なことは、相手の体とその肉体のまわりの空気まで、全部一緒に相手の体のその向こう側に向けて貫きとおしていくことだと思います。
形意拳を使うときに、陥りやすいことは、相手に向かって技をかけるときに、手や足だけが先行してしまって体が引けてしまうことです。また、相手の体に勁力を打ち込もうとして、威力が発揮できないため、非常に小手先の攻防に陥りやすい。
形意拳の勁力は、相手の攻撃したい部分に打ち込むのではなくて、その打ち込む場所のさらにその向こう側に向けて発してこそ威力がでるものです。
そうすると自分の手が相手の体に接触した時点で、相手は体全体のバランスを崩され、崩れて踏ん張れないところに、さらに貫通力のある勁を打ち込まれるため、車に轢かれたように撥ね飛ばされてしまいます。もちろん、ここで暗勁をもちいれば、その場に崩れおちてしまいます。これが形意拳が一打必倒と呼ばれる所以です。
しかし、このように技を使うためには、相手と自分との空間を一体のものと考え、その空間と相手の肉体とも一体と考え、自分の体の動きが相手との空間、相手の体と全く一体化しているようにイメージし、その全てのものを引き連れて相手の体の向こう側に向けて発
勁するつもりでなければ、技は効力を発揮しません。
日常生活においても、しっかりとしたよりよいヴィジョンを遠くに定め、そこにむかってひたすら突き進むことによって、夢がかなうものだと思います。
目先の小さなことにこころをとどめ、日々忙しい毎日をおくるだけでは、ちょうど、拳法の攻防において、小手先でちょうちょうはっしとやるだけで、なかなか攻撃の間合いに入っていけないのと同じで、なかなか、自分の思うようなものは手にはいらないのではないかと思います。
武術の稽古においても、少し上のレベルの人を目標にするのではなく、もっとレベルの高い、達人クラスの方々を目標に頑張っていけば、たとえそこまで行けなくても、それに近い技量が手にはいるのではないでしょうか?
目標を日常の雑多なことの向こう側に設定すれば、いろいろなわずらわしいことも、その目標に達するための一つの過程に過ぎなくなるわけですから、なんとかのりこえられるものだと思います。
形意拳は、いつも私にそんなメッセージをささやいてくれています。
半歩郭崩拳、天下を遍く打つ
形意拳の達人に郭 雲深という人がいました。
彼は、どんな相手に対しても崩拳一発で相手を倒すことができました。世間の人達は、彼の技を称えて「半歩郭崩拳、天下を遍く打つ」と言っていたそうです。
崩拳というのは、空手でいうところの中段突きのようなものなのですが、どんな敵に対しても中段突き一発で倒したなんて信じられるでしょうか?
まず、第一によほどの馬鹿でないかぎり、中段突きを見て、かわしたり、受けたり、逃げたりするはずです。
まして、拳法の使い手なら、その中段突きが来ると同時にカウンターで上段突きを決めているかもしれません。
極真空手などの猛者ならば、中段突きを打とうとして間合いを詰めてきた瞬間、バットもへし折るローキック一発で、相手の動きを止めることもできるでしょう。
しかし、郭 雲深は、どんな技を使う相手にも、崩拳一発で対処できたのです。
はたして、そんなことができるのでしょうか?
私も形意拳を修行する者として、長年この疑問に取り組んできました。この疑問を解決するために中国武術の伝書だけではなく、日本の伝統剣術の伝書なども読んできましたし、現代の武術家の方達の著書やビデオなども見てきました。
そしていろいろ探していった結果、幻の剣術「無住心剣術」というものがあることを知りました。
この流派は、残念ながら現在では伝承が途絶えており、どのような剣術であったのか想像の枠を超える事はできませんが、幸いにしてこの剣術の伝書をインターネット上で見ることができ、その内容についておぼろげながらも知ることができました。
それによると、この剣術の特徴としては、敵がどんな技を使ってこようといっさいおかまいなしに、間合いを詰めていき・・・・というよりは、自分の剣が相手に当たるところまで歩いていき、当たるところまできたら、剣を振り下ろし、一刀のもとに切り捨てるというものです。
その間、相手の攻撃を一切、受けもかわしもしないそうです。
受けもかわしもしないのに、相手の攻撃ははずれ、自分の攻撃だけが相手に届くという摩訶不思議な剣術です。
これは、まさに郭 雲深の崩拳とまったく一緒なのではないかと思いました。
それでは、その摩訶不思議な技のからくりは、一体どうなっているのか?
私もいろいろ考え、書物も漁り、試してもみましたが、どうも思うようにいかないというか、具体的なイメージが湧いてこないのです。
しかし、あるとき、あるビデオで、このからくりのイメージを確認することができたのです。
それは、沖縄の古武術「本部御殿手」の達人上原師のビデオでした。
そのビデオの撮影当時90歳だった上原師範は神技の持ち主で、四方八方から武器をもってかかってくる相手にたいして、まさに受けもかわしもせず、ただトコトコと歩いていって相手の間合いの中に入り、はいったかと思ったら、その間合いすらなくなって、なくなったときには、相手の喉首を鎖鎌や剣などで掻き切っているといった具合に、とても不思議な技を使っておられました。
相手がどんな武器を持ち、どんな打ち方をしてきても、一切関係ありません。相手の攻撃は、師範が相手に近づいていく間にはずされてしまい、師範は無造作に相手の首や腹などを打つだけです。相手の動作に関して、まったく無関心で、自分はただ自分の武器が相手にあたるところまで歩いていって、狙ったところを打だけ・・・・・といったとても不思議な技でした。
はたして、どうなっているのか?
何回も何回もビデオを巻き戻して、師範の動きを見てみました。
そこで気がついたことは、相手の動きに対して、ほとんど反応しないで、歩く速度もかえないで、相手に近づいていっているということです。普通の人ならば、相手が打とうとしたり、蹴ろうとした瞬間に動きが止ってしまったり、飛んだり跳ねたり変化したりするものです。しかし、上原師範の歩くテンポにほとんど変化はありません。そして、まったく重心のぶれも上下もないのです。
その様子は、水平に動くエスカレーターに乗っているような感じです。
つまり、上原師範の歩きは自分の攻撃があたる位置にくるまで、止らないし、その動きも一定の速度であるということです。
戦いにおいて、攻撃をする場合に、当然のこととして、相手の体に当たるように狙って攻撃を放ちます。でもそれが、絶えず動いていて止らず、それどころか自分に近づいてくるとしたら、人は狙いを定めることができず、攻撃の手が止ってしまうか、タイミングが狂ってしまって、うまく攻撃の動作を行うことができません。
しかし、いかに相手が上手く動き回っていても、自分の動きに反応して、テンポが変化するようなら、自分もその動きを予測して、攻撃を当てることが可能になります。
しかし、一定の速度で、重心の変化もなく、手足の動きすら一定の速度で迫ってきたら、もう、まともな反応はできなくなるでしょう。
その証拠に、エスカレーターを降りるときのことを思いだして見てください。
昇りのエスカレーターで昇っていって、終わりが近づき、さて、今降りようとして片足を踏み出すとき、なんともいえない不安感を覚えるでしょう?
あれです、あのときの感覚を技に利用しているのです。
だれでも見ていればわかります。
本当は不安なことなど何もないのです。
エスカレーターに乗ったら、全然自分は動かなくても、次の階まで、一定の速度で体を運んでくれるのですから、何の心配もありません。速くなったり、遅くなったりしないから、降りるタイミングは非常にわかりやすいはずなのです。
でも、エスカレーターで昇りきり、片足を床に踏み下ろす瞬間の、あの違和感は何なんでしょう?
人によっては、ひっくりかえってしまうのではないかというような不安すら感じるかもしれません。
そうです。
これが人間という動物の弱点なのだと思います。
一定の速度で迫ってくるものに対して反応しにくい。
(エスカレーターの場合は一定の速度で床が迫ってきます。)
相手がとびかかってきたり、走ってきたりた場合、人間はしっかりと反応できるのですが、自動的というか一定の速度で左右、上下にぶれることなく迫ってくる相手にたいしては、非常に反応が鈍くなるのです。
しかも、技術的にレベルの高い武術家ほど、しっかりと狙う箇所をピンポイントで狙ってきたりすると、見事に予測が外れて攻撃できなくなってしまいます。
なぜなら、今そこに存在していた急所などのターゲットが、一瞬の間に別のところに移動してしまうのですから、しかもそれは、ターゲットという存在から、一瞬にして自分を攻撃する武器となってせまってくるのですから。
逆に、とても不安な気持になるのではないでしょうか?
無住心剣術の伝書にこうあります。
「よく当たるものはよくはづれ、よくはづれるものはよく当たる」と・・・・・・。
まさに名言だと思います。
重心をぶれさせずに、一定の速度で相手に近づくこと。
手や腕の動きも左右にぶれないで一定の速度で相手に向かって近づいていくこと。
これさえできれば、「半歩郭崩拳」への道も開けてくるのではないかと思います。
もちろん、これは、形意拳だけではなく、八卦掌の奥義にも通じることだと思うので、八卦掌のほうでも、この術技の研究を続けていきたいと思っています。
平常心
形意拳の実際の攻防においては、構えるということを排除しなければならない。
自分が構えれば、相手にも構えをつくらせる。
自分が心の準備をすれば、相手は警戒心を働かせる。
そして、相手は緊張し、力を多用するようになる。
そこに抵抗感が生まれ、お互いが反発しあい、力やスピードの勝負となってしまう。
その場面で重要となってくるのは反射神経、運動能力、若さ(いろいろな意味で)などである。
結局、こういう闘いは、歳をとると不利になることは間違いない。
歳をとると使えないのは、それが武術ではなく、格闘技だからだ。
形意拳の場合は、そういった格闘技の闘い方を選ばない。
心構えを消す。
体の構えを消す。
そうすることによって相手の意識のすきまにはいりこんで行く。
相手を構えさせない。
警戒心のおこりぎわにはいっていく。
相手がこう打ってきたら、こう受けて、この技をつかって・・・・などと考えない。
いつのまにか始まり、いつのまにか進み、相手に自分の攻撃が当る間合いにはいったら、ただ打つ。
これが形意拳の極意だと思う。
また、それを可能にするためには、体の各パーツの動きを決してあともどりさせず、前方の空間に並べて展開していくことが重要であり、ばねをその場でたわめて、はじきだすような動作でも、たわめる動きは今いる自分の体の位置の後方に展開されるのではなく、前方に展開されていかなければならない。
蓄え、発するその動作そのものを、前方の空間に並べていくのだ。
肘の動き、膝の動き、腰の動き、すべての体のパーツの伸縮、螺旋、蓄発、上下、拡散、集中・・・などの動作を自分の前方の空間に並べていくことによって、いつのまにか、はじまり、いつのまにか進み、いつのまにか当るという「術」ができあがる。
しかし、心が構えれば、からだはそのように動いてくれない。
「平常心」・・・・形意拳において最終的に要求されるのは、まさにこれである。
形意拳とジェット・リー
形意拳は、中国拳法の真髄と言われています。
きわめて単純な動作で、おどろくべき破壊力を含んでいます。
しかし、この門派ほどカンフーアクションのイメージから遠いものはないでしょう。
套路においても他の門派の套路がいろいろな技を組み合わせたものであるのに対して、ただ単純な動作を繰り返すだけの套路です。
おんなじ動作を何回も何回も繰り返しながら技を磨いていきます。
単純だから、だれでもすぐに憶えられます。
それを組み合わせれば、初心者でも散打(空手でいうところの自由組み手)ができてしまうほど、使いやすく実践的な技です。
しかし、形意拳の目指すところは、相手がどんな技を使おうと、どんな複雑な戦法を使って来ようと、まったく関係ないかのように自分の技を決められることです。
たとえ、相手がこちらがどんな技を使ってくるかわかっている場合でも、その単純な技にかかってしまうのです。
それが形意拳の技です。
形意拳の拳諺に曰く「形家拳は人ありて人なきが如し。独り無人の荒野を進むが如し」というものがありますが、まさにそのとおりだと思います。
一意専心、一技多用、そういったところから見ると日本の武術と非常に似通った武術だと思います。
もっと、もっと、形意拳の存在を日本の武術を学んでいる人達に知ってもらえば、お互いに切磋琢磨していけるような間柄になるのではないでしょうか?
映画「ザ・ワン」でジェット・リーが八卦掌と形意拳の技を披露していますが、残念ながら彼は本格的に形意拳を学んではいなかったようです。
せっかく、映画で形意拳をアピールしていたのに残念です。
でも、ジェット・リーが形意拳の腕前が未熟でも、彼を批判する資格は私にはありません。
彼は、ほかのジャンルにおいて素晴らしい才能を発揮していると思います。
これからも頑張っていってほしいと思っています。
名人技のしくみ
形意拳の達人、郭 雲深は、崩拳の一技を得意とし、「半歩崩拳、天下を遍く打つ」と賞賛され、どのような相手でも、半歩進んで崩拳を打つだけで倒したといわれています。
八極拳の達人、李 書文は猛虎硬爬山の一手を得意とし、「李 書文に二の打ちいらず」と言われその威力を恐れられた。
なぜ、このようなことができるのか?
相手はどう動くかわからない。
どんな技を使うかもわからない。
それなのに、なぜ、そんな決まりきった技で勝つことができるのか?
そのしくみの一つは、相手が動こうとか技をかけようとか思わない状態にして、技をかける。
何も動こうとしない相手に技をかけるにのは、だれだってたやすいことです。
これは暗示にかけるのではありません。
人間の眼の使い方や意識の盲点を利用するのです。
それには、それなりの動きが必要であることは言うまでもありません。
では、この盲点のしくみについて理解している人間、いわゆる武術における中級者クラスにたいしては、どのように技をかけるか?
それは、その技の成分を変化させることです。
たとえば、崩拳にしても、猛虎硬爬山の前段部分にしても、平易な表現をすれば中段突きに過ぎないのです。
しかし、中段突き一つにしても、いろいろ成分のバリエーションがあるわけです。
小さく鋭く使って瞬時に衝撃を相手に伝える。
大きく柔らかく使って、相手を遠くへ吹っ飛ばす。
全身の力を同時に発して、鉛のような重さにする。
点穴を使って、急所に小さく鋭く力を集中させる。
肩の縦回転を使って突く。
腰を左右に割ってその結果として突く。
脱力して、腕の重さを意識しながら突く。
特定の部位を追いかけながら突く。
各関節のモーションを意図的に空間に並べながら突く。
相手にわざと受けさせておいて、その腕ごと体ごと潰してしまうように突く。
中段突きでもこれだけのバリエーションがあるわけです。
でも、外から見れば、同じ崩拳であり、同じ猛虎硬爬山です。
こういったことから考えれば、同じ技で、どんな相手にも通用してしまうということは、充分ありうるわけです。
これが名人の技のしくみだと思います。
しかし、こんなことできたって、現代においてどんな意味があるのか?
これは、武術を知らない人達が、私達を見て抱く当然の疑問です。
なんで、そんなものに夢中になっているのか?
不思議でしかたがないという人もいるでしょう。
ある流派の剣術の書の中にこういうくだりがあります。
「阿修羅界をもって正覚の枕とす」と・・・・・。
この必殺技の一技を学ぶにしても、単純から複雑へ、そしてまた単純に戻っていくということの意味深さを学ぶことができます。
人の生き方も、物事の考え方も突き詰めていけば、こういうことになるのではないでしょうか?
人は生まれたら生きたいと思います。
生きていたら、いかに上手く、面白く生きようかと思い、そのために考え悩み、苦労もし、楽しみもします。
いわゆる複雑に考え、生きようとします。
そして、何かのきっかけで、ふと考えるのです。
楽しいときは、楽しめばいい。
悲しいときは悲しめばいい。
悩むときは悩めばいい。
考えるときは、考えればいい。
それ自体が生きているということなのだから・・・・・。
生きるということが大切なんだ。
ただ一心に生き、そして死を迎える。
つまり、単純なことに戻っていく。
それが一番いいんだと・・・・・。
もちろん、こんなことは武術でなくても学べることです。
でも、なぜだか私は武術が好きなのです。
せっかく好きなのだから、時代遅れの骨董品にしておくのは勿体ない。
だから、この好きな武術をそこまで高めていきたいと思っています。
手段はいろいろあっても、人の目指すところは同じだと思います。
昔の武術家達が、命のやりとりをする、その高温高圧の熱気を帯びた空間からあふれだしてくる境地、哲学・・・・そういったものの100分の一でも汲み取ることができたなら、私は、もっと強く優しく生きていけるような気がします。
そして、私だけではなく、もっと多くの人々にも生きる活力を与えることができると信じています。
形意拳~~拳法の奥儀
右に逃げようが、左にかわそうが、打ってこようが蹴ってこようが、相手のその動きとは関係なくひたすら前に突き進んでいく。
やぶれかぶれということではなく、目くらめっぽうということではなく、相手の動きにつられないでひたすら前に進むということ自体が、自動的に相手の攻撃からはずれていくということがよくわかっているからだ。
その拳法の名は形意拳。
拳法の奥義。
相手がいかに堅く守ろうが、いかに勇猛に攻めてこようが、形意拳の歩みの速度は変わらない。
防ごうが封じ込めようが、関係ない。
受けられれば、その受けた腕ごとつぶしていく。
かわしても、かわそうとしても当たってしまう。
けっしてしゃにむにつっこんでいくのではなく、冷静に進んでいくだけで、相手の思惑はすべてはずれていく。
形意拳・・・・拳法の極意。
これほど単純で複雑な拳法はない。
形意拳讃歌
形意拳の打撃の威力は空間に軽く腰掛けるところからくると思う。
そのときの腰の重さを拳に乗せる。
ジャブより重く、ストレートより速い。
そして、バネのような突きではなく、すべてが前方に展開して戻ってこないような攻撃のしかたに特徴がある。
関節も筋肉も単純にスプリングの勢いのような動きはしない。
はずみも勢いもすべて完全に意識を含んでいる。
したがってもののはずみとういようなことはなく、計算されたうえでのはずみを使う。
つまり、身体の勢いで拳が突き出されるということはなく、身体の勢いとは関係なく拳は発射され、腰の切れと拳がお互いに影響されることなく同時に到達する。
これによって、拳の威力は身体の勢いを一点で吸収し、同時に爆発させる。
これは、速くて重い攻撃をすることを可能にし、連続的に重い攻撃を発射させる。
しかし、形意拳に二の打ちいらず。
あえて連続的に打つ場合は、空砲にして相手の戦意だけを奪っていくか、または、実弾で打つ場合は、残忍な修羅の道に身を落としていく場合に限られる。
しかし、形意拳は単純をめざす。
ひたすら一撃に気と心を込めるのである。
螺旋と閉円の違い
形意拳には、五行拳と十二形拳がある。
五行拳は、威力を練り、十二形拳は、方法を学ぶ。
十二形拳には、それぞれ動物の名前がつけられているが、言われなければ、ほとんど、どんな動物の形なのかわからない。
思うに、先人達の実戦技術の蓄積が十二形拳なのだと思う。
五行拳は、あるていどクンフーがなければ使えないが、十二形拳は、使い方をおぼえただけで、クンフーがなくても、それなりに使えると思う。
五行拳は実力を養い、十二形拳はその実力の使い方を学ぶ。
五行拳のクンフーが深くなると、十二形拳の技は、技術と実力の両方を兼ね備えることになる。
形意拳上達の構造は、五行拳から練り、あるていどクンフーが身についてきたら、十二形拳を学ぶ。そしてひととおり学んだら、また、五行拳に帰ってくる。そして、五行拳と十二形拳の関連を学ぶ。それから、また五行拳に帰ってきて、限りなく単純に、かぎりなく自由になっていく。
人が成長していくうえにおいて、その根本は、生きるという意欲である。それは、何によって養われるか?
食べ物、運動、愛情など。
人が世間で生きていくうえにおいて、必要なものは、なにか?
知識、教養、世渡りの知恵、マナー、お金など。
とても、おおざっぱなわけかたをすればこんなことになるだろうか?
これを形意拳にあてはめれば、五行拳は、人が生きていくうえにおいて根本的に必要な力であり、十二形拳は、世間をわたいくうえにおいて必要な情報と技術である。
この両輪の輪、どちらが小さすぎても、かたよって、くるまは進むことができない。ぎゃくにどちらが大きすぎても、くるくるその場をまわるだけで、なかなか前にすすむことができない。
要は、バランスなのであり、技術のコレクターは、えてして実力がなく、技術を軽視して、精神論だけをふりまわす人は、自分にふりかかる火の粉も払えない。
べつの言い方をすれば、五行拳は、抽象的な力であり、十二形拳は、具体的な技術である。
人の成長も抽象と具体の往復によって、両方のバランスをとっていくというやりかたが自然なのだと思う。
どうも、武術界の周辺をうろつく人達のなかには、両輪のバランスが悪すぎて、その場でくるくるまわっているような生き方をしている、奇妙な人達が多いようだ。
螺旋と閉円では、天と地の開きがある。
形意拳術のしくみ
形意拳の要諦は、後足重心です。
それと腰を据えること。
腹を据えるといってもいいかもしれません。
そうすれば、自分と相手との間に丸い空間できあがります。
深い懐がうまれます。
たとえ体がくっつくほどの接近した状態でさえ、腰を据え、腹を据えれば一瞬で、丸い空間ができあがります。
そして、その空間の中心に丸い柱が立ちます。
この柱に寄りかかれば、強い力が身体から発射されます。
この柱のまわりを身体が巡れば、どんな強い攻撃も無力と化してしてしまいます。
腰も肩も肘も複雑に回転しますが、丹田の位置だけはぶれない。
これが形意拳術の根本的なしくみであり、全ての武術の共通する基本なのではないかと思います。
初心に繰り返しもどってくるのが稽古
私にとって形意拳の五行拳は、骨格あるいは関節の並べ方を確認していく、いわば武術体のチューニングをしていくような役割をはたしている。
特に崩拳は、からだのなかの働きを確認する意味において重要な拳である。
色々な動きをしていて、ちょっとおかしい。
武術のテンポからはづれてきたなと思ったら、五行拳に帰る。
そして、またそこからいろんな動きを応用して、太極拳になる。
そして、さらに、移動する土台(脚、腰)からでも安定して勁がだせるようになると八卦掌に進む。
そして、また、おかしくなると五行拳にもどる。
その繰り返し、繰り返し・・・・・・。
稽古とは、何回も初心に返り、何回も挫折してまた初心にかえることの繰り返し。
最近、つくづくそう思います。
形意拳についての仮説
今日は、形意拳についての覚書です。
何言ってるのかわかんないでしょうが、ご容赦くださいませ。
形意拳は初太刀の拳。
連続攻撃のなかで繰り出す拳ではない。
したがって、相手の攻撃がすべて初太刀になるように導くことが大切だ。
初太刀で制し、相手が倒れなければ、限りなく攻撃しつづける。
相手が反撃してくれば、初太刀になるまでかわし、迎え入れる。
そして、斜めに進み、相手の死角から反撃する。
このとき、後足をひきずるようなすリ足を使う。
このすり足の使い方を工夫すること。
相手の目を狙う突き受けは、相手が突いてきたら、まっすぐ前足をすり足で進める。そして、腕は直線に近い螺旋で、相手の突きをかるくこすりながら、指先を相手の目に進める。
姿勢はうつむかず、むしろ偉そうな態度の姿勢を使うこと。
すり足と腕の動きは、お互いにつられることなく、同時に進めることが大事だ。
形意拳
形意拳はひたすら五行拳を繰り返します。
お寺の境内の石畳を往復したり、その場で一歩進んでは一歩さがるを繰り返して行います。
ただひたすら、単純な動きの中に勁力がこめられるように繰り返し繰り返し行います。
あまりに難しすぎて、単純に繰り返してしまいがちですが、それではいくら稽古しても技にはなりません。
たとえ100回くりかえそうとも、一回目の次は2回目ではなく、99回目の次も1回目であるように、
一回、一回試行錯誤をくりかえしながら稽古します。
思考回路も神経も筋肉も骨も全開で稽古することが大切です。
根性で何千回繰り返しても、できないものはできない。下手なものは下手・・・・そんな世界です。
つぎに五行拳の用法の稽古です。
2人で五行拳の劈拳の用法から順番に繰り返し稽古していきます。
単純な技ばかりなので、技をかけられるほうは、相手の技がかからないような動きをしたくなります。
技をかける方は、「おい、おい、、稽古なんだから、それはないだろ!」とつっこみたくなるところですが、
そこはこらえてください。
相手に技を読まれて防御されたり逃げられたりしても、それでも技がかかる!いや、かけてしまう。
それが形意拳の特徴です。
したがって、とにかく難しい。
頭の中が何度爆発しそうになったか。
しかし、西忍寺の石畳の上でひたすら五行拳を繰り返していると、いつのまにか日常のわずらわしいことも忘れて無我夢中になっている自分に気づきます。
稽古が終るとスッキリ爽やか!
爽快な気分になります。
形意拳感情論
降る降るとは言っていましたが、やっぱり降りましたね。
きのうとはえらい違いです。
なんで?どうしてこうなっちゃうの?
昨日の青空を返せ!
・・・・・と叫んでばかりいてもしかたがないので、武術のお話はじめます。
今日は形意拳と五行説のお話です。
形意拳の五行拳と言えば、形意拳の中核をなす技です。
そして、五行と言えば、「金、水、木、火、土」となるわけですね。
五行説によれば、世の中のあらゆるものが、この五つの要素で構成されていて、お互いにいろいろ関係しているというわけです。
この五行説を拳法にあてはめたものが五行拳です。
すなわち、劈拳=金、?拳=水、崩拳=木、炮拳=火、横拳=土ですね。
ところで、みなさん、この五行説って感情面にもあてはまること知ってました?
こんなふうになるんです。
金=悲、水=恐、木=怒、火=喜、土=思
悲しんでばかりいると、いろいろ怖くなってくる。
怖くなると、「なんで自分がこんなめに・・・」なんて腹が立って怒りがこみ上げてくる。
怒りが著点に達するとばかばかしくなる。開き直ってしまえば、なんとかなるもんだと喜ぶ。
喜んでいるうちに、ほんとにこんなんでいいのか?といろいろなことを思う。
いろいろ思い悩んでいるうちに悲しくなる・・・・・。
と、いうふうに繰り返すわけです。
おもしろいでしょ?
・・・・ということは、五行説を五行拳と感情面にあてはめることもできるんじゃないかな。
すなわち、劈拳=悲、?拳=恐、崩拳=怒、炮拳=喜、横拳=思
いかがですか?形意拳をやっておられる方なら、なんとなくわかるんじゃないですか?
劈拳は打ちおろす=一気に悲しみの底に落ちる。
?拳は突きあげる=怖いものを遠くに行けとばかりに突き飛ばす。
崩拳は中段突き=怒り心頭に達して膨れ上がる。
炮拳は両腕をひらいて跳ね上げながら突き出す=気持ちがパッと開いてはじける。
横拳は斜めに進んで、相手の死角を突く=いろいろ思い、考えて攻撃する。
そういえば、あの崩拳で有名な郭 深雲も怒りっぽくてケンカっぱやい人だったとか・・・・。
そう言われてみればそうでしょ?
おもしろいですよね。
それで、こういったことを日常生活のなかで活かしていくことできると思うんです。
たとえば、いやなことがあって悲しいとしますよね。
そんなときは、悲しみに勝つ拳を稽古すればいいんです。
五行相克説を応用すると・・・・悲しみ(金)に勝つ拳とは、炮拳(火)ですよね。
縮こまって下を向いていても、思い切り両手でパッと爆発すれば、悲しみも吹っ飛んでいきます。火は金を溶かしますからね。
会社でいやなことがあって怒りがこみあげてきたときは、怒りに勝つ拳、すなわち劈拳を稽古すればいいんです。
金属でできた斧は木を切ることができますよね。
劈拳で思い切り打ちおろし、気を下に沈めれば、怒りも収まることでしょう。
まあ、ふだん特別なことがなければ、かたよりなく五行拳を順番に稽古していけばいいと思います。自然に五行の感情を順番に経験していけばいい。
いつでも喜んでいる、いつでも悲しんでいるなんて不自然ですからね。
でも、こういったことを考えていると、形意拳をやっていて悲しそうな奴がいたら、「あ、こいつ劈拳が得意かも・・・・」なんて判断材料になるかもね。
はははははっ、それは言いすぎか・・・。
なんだか高度なんだかいい加減なんだかわからない話になっちゃいましたが、形意門の方たちの日頃の稽古の参考にしていただければ幸いです。
また気温が急に低くなってきました。
みなさま、お風邪など召しませぬよう、ご自愛くださいませ。
形意拳ってわりと好きなんです。
形意拳ってわりと好きなんですよね。
とにかく単純な動きなんだけど、その運動成分は複雑で、味わい深い。
必要な動作しかしない。
相手が追ってこようが、逃げていこうが、ひたすら前に進む。
技が磨かれてくればくるほど、まっすぐに進む。
回り道しない。
寄り道しない。
見ようによっては、こだわっている。
柔軟性がない。
定型的で応用がない。
しかし、それはいろんなものを研究して、不要なものを極限まで削ぎとった結果、そういうスタイルができあがったもので、決して無知からきた単純さではない。
「一に止どまるを『正しい』と云う。」
そんな言葉が、たしか「易経」だったかな?
あったと思うんだけど、形意拳をやってよくわかる。
広範なものを集約して「一」に還っていく。
そして、まっすぐ行くことが正しい。
形意拳を稽古するたびに、先人達の声が聞こえるような気がするんです。
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