DANCE MAGAZINE 1997



「ロイヤル・バレエの90年代の王子さま
 ~イギリス・ロイヤルバレエで大抜擢されて脚光を浴びているアダム・クーパーは観客にも、批評家にも大受け」

Royal Ballet’s Prince for the Nineties
Adam Cooper’s fast rise to stardom at Britain’s Royal Ballet has pleased both audiences and critics.
by John Gruen


 異様にテンションの高いケネス・マクミランの全幕バレエ「マイヤリング」は前回ロイヤルバレエがメトロポリタン歌劇場に来て以来、アメリカでは上演されてないが、このバレエの主役の男性は、まさに高貴な存在でありながら、気性の激しい性格で、セクシュアルな面でも、政治的面でも苦悩に満ちているという状態を演じなければならない。端的にいえば、このバレエはオーストリアの皇帝、フランツ・ヨーゼフの息子で、皇位継承者であるルドルフ皇太子の物語である。おまけにルドルフは躁鬱病で、銃と死と自殺に取り付かれていて、麻薬中毒で、梅毒患者なのだ。10代の恋人マリー・ヴェツェーラとの情事は心中という形で終わる。このショッキングな出来事はハプスブルグ帝国を揺るがし、二人の自殺の本当の意味をめぐって、小説や映画の題材になったりして、いつまでもロマンティックな憶測を呼んだのである。

 「マイヤリング」が夢見ごごちの(OR消え入るような?)リストの音楽にのって1978年にロイヤル・バレエで初演されたとき、デヴィッド・ウォールがルドルフ役で、リン・シーモアがマリー・ヴェツェーラ役だった。このバレエがこのあいだメトで上演された時は、ウォールでもシーモアでもなく、ロイヤルバレエのプリンパルに昇格したばかりのアダム・クーパーがルドルフを演じ、ヴェツェーラはジリアン・レヴィが演じた。 (*1)

 クーパーはこの役が要求する大変な課題に完璧に応えてみせた。その若々しいタイツ姿(サポーター姿)とすんごくハンサムな顔で、彼は踊り、演じる。すぐに時代劇が説得力をもって浮かび上がり、ぞくぞくするような狂気の果てに連れて行かれる。実際にも、クーパーはロイヤルバレエのアグレッシブなニュー・ジェネレーションの一人である。ウィリアム・トレヴィットや熊川哲也、エロール・ピックフォードやスチュワート・キャシディといった面々だ。彼らは以前には堅苦しく決まりきったものだったカンパニーの様相を一変させた。新しい感覚と現代性が浸透し、それは疑いもなく、アンソニー・ダウエル芸術監督のおかげだろうが、ロイヤルバレエはいい意味で生意気盛りで情熱的な雰囲気を作り出しているようだ。

 ニューヨーク滞在時のインタビューで、アダム・クーパーはルドルフ皇太子のヒステリックな性向は自分とはまったく程遠いものであるとこう簡潔に語った。「この役はまったくぼく自身とは違います。」と彼は笑って言う。「つまりね、僕は、新婚の夜に妻を殴ってレイプするような役なわけです。ぶっ飛んだパ・ド・ドゥ揃いですが、これはその中でも一番お行儀の悪い振る舞いです。でも、信じてください、僕はそんなやつじゃありません。もちろん、僕の内面から出てくるものもあります。暴力というやつは僕の内面のどこかに存在するものです。そして実を言うと、邪悪な役柄を演じるのが大好きだったりしますが、僕自身はそんな性格ではありません。」

 1989年のデビュー以来、クーパーはロイヤル・バレエでさまざまな役を踊ってきた。「白鳥の湖」の王子役から、シルヴィ・ギエムと踊った、フォーサイスの激しく、ウィットに富んだ「ヘルマン・シュメルマン」まで。最初の役はマクミランの「パゴダの王子」の“南の王”。そしてバランシンの「アゴン」「ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲」「シンフォニー・イン・C」。1991年~92年シーズンにはマクミランの「ロミオとジュリエット」でロミオ役とティボルト役両方。「マノン」ではレスコー役。その他にも高度な多様化した役柄が彼のキャリアには付け加えられており、衆目の関心を集めるのは当然の成り行きといえよう。 

 クーパーは1971年7月22日にロンドンで生まれた。父は音楽家で、母はソーシャルワーカーだった。年子の兄のサイモンがいて、現在はランバート・ダンス・カンパニーに所属している。

 「両親はもう別居して4年になります。」クーパーは語る。「父は音楽を教えていて、僕と兄が子どもの頃ずっと入っていた合唱団の指揮者でした。母は10代の若者達の問題を扱うソーシャルワーカーでした。両親はお互いに運命の相手ではなかったんです。子どものために一緒に生活していましたが、僕とサイモン兄さんが独立する時に、仮面夫婦は終わりにしたんです。

 僕はかなりいたずらっ子でした。いけないことをするのが大好きでした。なんでもいじりまわして壊してしまったものです。エネルギーがあり余っていたんです。いつも兄と喧嘩ばっかりしてました。それこそ昼も夜もおかまいなしに。でもおおむね幸せな子供時代でした。音楽は何でも、合唱団で歌う曲やなんかが、大好きでした。父もポピュラー音楽が好きで、時々ディナーダンスバンドで演奏していたものです。僕が8歳の時一度だけ父のバンドでドラマーをやらしてもらったことがありました。急だったんでほかに誰もいなかったんです。これはすごいことだったなあ!」

 何でもできる音楽家の常で、何がしかのお金も稼ぐため、クーパーの父は土曜日には地元のダンススクールでピアニストをしていた。アダムとサイモンもついて行って、期間限定のダンスレッスンにはまった。それが自分達でダンスを習いたいと思うきっかけだった。アダムは5回、サイモンは6回のレッスンを受けた。両親は反対せず、むしろ応援した。クーパー兄弟はタップダンスも始めた。バレエのレッスンがタップに取って代わり、アダムが11歳、兄が12歳になった時、兄弟はアート・エデュケーショナルスクールに入学した。

 「その学校はロイヤルバレエスクールにちょっと似ていたけど、もっと広範囲なものでした。」クーパーは述べる。「つまり、あらゆる種類のダンスだけでなく、学問も習った。演技や音楽や美術の勉強もした。バレエだけじゃなかったんです。これはいいことでした。だってバレエだけしか知らなければ極めて限られた可能性しかないですから。」

 兄弟が16歳と17歳になったとき、ロイヤルバレエのオーディションを受け二人とも合格した。これは二人の仲が良いということを意味するものではなかった。

 「12歳の頃からずっと、僕らはいわば、いがみあっていたんです。というのも僕らはライバルだったし、その競争は激烈でした。バレエのクラスで3年間ずっと毎日張り合い続けたんです。もう、たくさんだ! 僕らはお互い口も利かなかった。顔は全然似てないのに肉体的にはそっくりで、ダンサーとしてはまったく生き写しでした。」

 ロイヤルバレエスクールでアダムは生徒としても、同時に振付家のひよっことしても目覚めていく。17歳のとき、初めて参加した振付コンクールで優勝した。その時の使用楽曲はストラヴィンスキーの弦楽四重奏曲第3楽章だった。2年目には特別振付賞部門が設けられているローザンヌコンクールに参加するように招待された。しかしその時は彼の振付に「粗雑な部分がある」という理由で、自身の振付の代わりに、「まじに楽しいソロ」という、ロイヤルのプリンシパルのウェイン・イーグリングが彼のために振付けた、スニーカーにジーンズ、Tシャツ姿で踊るという作品をやることになった。

 「それでね、僕がプロフェッショナル・レベル賞をとっちゃったもんで、ロイヤルバレエの人たちはほんとに驚いたんです。」と、クーパーは振り返る。「彼らはダンサーとしては僕に着目してたわけじゃなかったんで。その年、僕は学校の演目でアシュトンの「二羽の鳩」の主役を踊ることになりました。そのリハーサルの間中ずっとケネス・マクミランがドアの陰から僕をじーと見ていたんです。僕は観察されているんだなあとわかっていました。学校の卒業公演でロイヤル・オペラ・ハウスで「二羽の鳩」を演じました。」

 「ロイヤル・バレエに入団する方法は一風変わっています。スタジオをウロウロしながら、自分がロイヤルバレエ団に入るのか、サドラーズウエルズ(現在のバーミンガム)ロイヤルバレエ団に入るのかを聞くために待ってるんです。兄も、僕も、他のみんなも所在無く待っていました。

 そしてついに僕らはロイヤルバレエ学校の校長、メール・パークさんに呼び入れられでかい部屋に入りました。彼女はどちらかのバレエ団に入団する者の名前を読み上げました。「誰々はロイヤルバレエ団、誰々はサドラーズウェルズバレエ団。以上です。」そしてさっさと退出しました。入団が決まった人々はその場に立ち尽くし、入団が決まらなかった者もその場に立ち尽くしていました。その中に兄もいたんです!」

 「ひどい瞬間でした。みんな僕にお祝いを言うために駆け寄ってきました。サイモンの方を見ると彼は誰も寄せ付けない雰囲気で佇んでいました。僕にはとても彼のところへ言って声を掛けようという勇気は持てませんでした。むしろそうしない方が良かったでしょう。それで僕は一言も兄と話ができなかったんです。最低ですよね。幸運なことに、二週間後、兄はイングリッシュ・ナショナル・バレエ団のオーディションを受け入団しました。現在はランバート・ダンス・カンパニーで踊っていますけど。」

 1989年9月、ロイヤルバレエ団に入団したアダム・クーパーは複雑な感情を抱いていた。バレエ団にはマダム(ニネット・ド・ヴァロワ女史(*2))がいまだにホールを歩き回っているような、30年前と同じ古色蒼然とした面があるように思えた。それにバレエ団の雰囲気には何かなじめないものを感じていた。

 監督のアンソニー・ダウエルについてはアダム・クーパーはこう語った。「僕は彼の事はそんなによくは知りません。彼自身はあんまり社交的人間ではありません。何でも秘密にしておきたがるし、団員とも付き合おうとはしません。一人でいるのが好きなんです。彼が僕たちとすごすのは自分が踊る時だけで、その時ばかりは彼はぼくらの仲間であり、そうしていられるのは好きなんですね。でもまあ、彼からは多くを学びました。すごい尊敬していますよ。」

 しかし、彼に最も強い感慨を与えたのはマクミランだった。「マクミランが1992年に急死した時、僕らは打ちのめされました。だってマクミランは発作を起こしたり心臓は悪かったんですが、とっても元気だったんです。こんなに小柄でひ弱な人間があんなに膨大なバレエ作品を生み出したなんて僕はいつも不思議な思いにとらわれます。」

 「マクミランと仕事をすると、びっくりさせられることばかりでした。彼は振付を自分でお手本をみせる事は全然できなかったんだけど、筋肉一本動かさずに自分の思いを伝えることができたんです。もうひとつ特筆すべきなのはリハーサルの雰囲気です。緊張で死んでしまいそうなぐらいでした。全員がいつもベストのパフォーマンスをみせました。彼は絶対的な権力者でした。マクミランに見られるだけですごく萎縮してしまうんです。ありがたいことに、僕には優しくしてくれましたけど、気難しい時もありました。マクミランからはたくさんのことを学びました。僕にとっては大変有益なことでした。」

 25歳になった今、クーパーは自分にとってより充実した生活を築きつつある。それは争いや心の葛藤とはまあ無縁の生活だ。お互いに競い合っていた兄弟だが、アダムとサイモンは今は同じアパートメントに住み、とてもうまくやっている。

 自身を「家にいるのがとても好きな人間」と評するクーパーは、映画を見たり、本を読んだり、音楽を聴いたりしてくつろいだ時間を過ごす。ロイヤルバレエのダンサーであるセアラ・ウィルドーとの「お付き合い」はある種の避けがたい緊張関係を生むこともある。「僕らは体の調子や、リハーサルの進行状況によって険悪な雰囲気になることがよくあるんです。いっしょにいられなくなるぐらいのこともしばしばで…。」

 クーパーは35歳をすぎたら踊るつもりはないというが、踊ることこそが彼の生きがいなのである。「僕は自分の体を動かすのが好きです。音楽と体の動きが渾然一体となるすばらしい状態が好きです。僕は、踊っている時は自分の体とその動きによって純粋な感情を表現しようとします。僕は自分のムーブメントに意味を持たせたいんです。「マイヤリング」のルドルフを踊ろうが、「白鳥の湖」の王子を踊ろうが、観客の心をうつ感情というものを演じることが僕の目的なんです。」

 「毎日の生活で自分自身からたがをはずすことは難しいです。実生活では僕はかなり、内向的でおとなしい人間だからです。でも舞台の上では、殻を抜け出して、自分ではなくなることがお茶の子さいさいなんです。いろんなアーティストにこの現象が起きるようです。舞台を降りたらめちゃくちゃ内向的な人間が舞台の上では突如変貌するのです。これはメイクや衣裳や、照明のせいでもあるんでしょう。おかげさまで誰か他の人間にいとも容易くなれるんですね。」

 「僕はロイヤルバレエで長年踊ってきて、いろんな役をやってきました。もちろん、もっといろんな役をやりたいし、自分の可能性を広げたい。どこかほかの踊れる場所でそれを模索している最中なんです。」これはロンドンの「アドヴェンチャーズ・イン・モーションピクチャーズ」というダンス・カンパニーでクーパーが最近、「白鳥の湖」のオデット役を踊ったことを指している。この作品は白鳥役は全部男で演じられるもので、ウエストエンドで満員御礼興行だった。(70ページ参照)(*3)

 「この先、僕が何に出会って何に夢中になるかなんてわかりません。指揮することになるかも。これにどんどん興味がわいてきたんです。ひとつには、ダンスに関しての傑出した指揮者ってほとんどいないじゃないですか。これは未開拓の分野ですよ。わかりませんよ。ダンスから引退したら僕の仕事は指揮者になるかもしれません。」(了)

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From the web-site"Fantasy Lake" , Articles
no.1456 [Adam Cooper]Royal Ballet’s prince for the nineties
uploaded date : 2003.07.16





preposterously ; ばかばかしく、不合理に、非常識に 奇妙に
overwrought; 神経などが)張りつめた、興奮しすぎた
manic-depressive; 躁鬱病
syphilitic; 梅毒患者
pact; 約束、協
jock=jockstrap; 男性用局部サポーター
demeanor= manner,behavior
prim; 堅苦しい、上品ぶった
infiltrate; 浸透する、潜入する
emit; 放つ、出す
sassiness; 生意気
chap; やつ(英略式、男性語 米ではboy,fellow)
depraved; 堕落した、邪悪な
diversify; 多様化する
charade; 見せかけ
naughty; 腕白な、いたずらな
fiddle; 弄ぶ。(about)勝手に触る
multifeceted; 多面体の、広範囲の
fall out; けんかをする
nascent; 発生期の、初期の、
bizarre; 風変わりな、奇怪な
wait around; ぶらぶらして待つ
outgoing; 外交的な、社交的な
mingle with; 交際する、参加する
devastate; 圧倒する、困惑させる、挫折させる
stroke; 発作
you could cut ~ with a knife; ~がひどい、(空気が)重苦しい
feel small; 肩身の狭い思いをする、気が引ける
forge; 努力して長足の進歩を遂げる OR (関係・友情などを)築く
turmoil; 騒ぎ、騒動、混乱
relatively; 比較的、相対的に、比べて、適度に、とても
strife; 争い、闘争、喧嘩、揉め事
live for; …に専念する、…を生きがいにする、…を待ち望んでいる

*1…アダム・クーパーは1994年1月、22歳の時にプリンシパルになっている(CLUB PELICANさんより)ので、「マイヤリング」のアメリカ公演は1994年初めであろうと推定される。

 *2… 9月24日 レッチェさんからニネット・ド・ヴァロワ女史について下記のように教えていただきました。

 >>>今更ではございますが・・・ヴァロワ夫人はロイヤルバレエの創設者です。二年ほど前に鬼籍に入ってらっしゃいますが、鉄の女(どっかで聞いたような笑)と呼ばれるほどすばらしい功績を残したマダムだそうですよ。

 レッチェさんありがとうございました。参考にさせていただきます。

 *3…この雑誌の次のページにAMP SwanLakeに関する記事があったらしい。

 実はこの雑誌が出た1ヵ月後、1997年2月、アダムはロイヤルを退団するわけです。アンソニー・ダウエルと決別して。だから彼の内心はかなり複雑だったであろうことが推察されます。かなり今後の行動について示唆的な部分もある。
 まだこのインタビュー時の1997年1月頃はAMP SwanLakeの米国公演は行われてなかった(と推定される)だから、彼のAMPに関するインタビューがまったく掲載されていないのがちょっと不思議ではあるが、何となく納得できる。でも1994年の、3年も前の「マイヤリング」の話から振るなんて、なんか解せない。
 1997年春にAMP SwanLakeはロス公演を行っているので(米国初公演?)この宣伝のための前振りのインタビューだったのかもしれないが、それだったらもっとAMP SwanLakeについて語るはずではないか? 70ページに秘密が隠されてんだなー、きっと。


 本日9月24日、入手していなかった記事の後半を頂きました。わたしは大ボケでした。youさん、美鳥さん、本当にご親切にどうもありがとうございます。感謝です!

And most of all, I express my gratitude to Ms. Juhyun Lee at "Fantasy Lake". Without your efforts, we would never met this article. Thank you very much.


Adam Cooper Index




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