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黄身しぐれ、という、黄身しぐれ。 銘に由来する装飾や変形などが一切なく、ほぼ球形をしている。 種は、黒漉餡。 餡と黄身しぐれの口どけ感はほとんど区別なく、しっとり、ふんわり。 黄身しぐれの風味は控えめで、口溶け感同様、餡との調和は絶妙。 今まで食べてきた鶴屋吉信の黄身しぐれのなかでは、口どけ時の、しっとり感とふんわり感の調和がとてもよい。双方のピークとピークとが綺麗に交差している。どちらにも偏らず、かさつかず、ふわふわすぎず、枯れず、これぞ、鶴屋吉信の黄身しぐれのスタンダード、といった塩梅。 「黄身しぐれ」とそのままの銘にも頷ける。 *** 変形させていたり、装飾がなかったりすることで、こんなにも調和がとれた、穏やかで、円かな、言ってみれば、まったき風味(口当たりも含めて)になるとは、思いもしなかった。 逆に、変形させたり、装飾をすることで、風味のまったきさは失われているといえるのだ。 なにかの姿を形づくった上で、高い水準の風味をも保たなければならない上生というものが、とても危うい、繊細なバランスのうえに成り立っているものだと、この黄身しぐれを食べて強く感じた。 きんとんや宝珠型(スライム型)のこなしは、姿と風味という、ややもすれば相反する要求を、とても高い水準で満足させているもの、といえるのかも知れない。 そのもののまったき風味を犠牲にして、なにかの姿をかたちづくる上生。 だからこそ、銘と姿とがその犠牲となった風味以上のなにかを食べ手に喚起しなければ、上生である必要も、上生である理由さえ失われてしまう。 まったき風味の犠牲と引き替えに得られる、可憐であったり、可愛かったり、美しかったり、優美であったりする、上生のその姿。 一個のあの小さな世界の中に、姿と風味という永遠に相反する問題をはらみつつ両者の緊迫したせめぎあいが繰り広げられていている上生。しかもその歴史的な通過点としてのある結果が今日の洗練や優美さなどの上生の特質を形づくっているかと思うと、上生というものが、ただほっこりしたり和んだり癒されたりというだけのものではなく、とてもスリリングなものに感じられる(と、今回はなんだか、ハードボイルドチックな哲学的文体)。 *** 姿と風味。 と書いていて、「用の美」という、民芸派の例の理屈が頭をよぎった。 でも、この「用の美」という考え方は、僕には、単なる「退化」にしか思えない。 「用の美」ではなく、追求しなければならないのは、「用と美」であるはずだ。 「用の美」では「美」は「用」に従属することになる。「用」が優先し「美」は二の次。 だが、そういうレベルの低いものに人は満足できるはずがない。 「用」と「美」はどちらがどちらに従属するのでもなく、対価であり、その両者が高い水準で調和し、均衡を保ってこそ、素晴らしい、あるべき「器」が見いだされるのだ。 そして、すでに、少なくとも、遅くとも、そのひとつの素晴らしい答えが桃山時代には明瞭に示されている。 利休の楽茶碗だ。 そういう明らかな先例があるのに、明治になって今さら「用の美」などと、僕からするとそれは、技術的・思想的「退化」としか思えない。 むろん、それは「器」に限らないが。
2007/12/28
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花をのみ侍つらむ人に 山ざとの雪間の草の春を見せばや (花だけを楽しみにしている人に、山里の雪間から萌え出す若草の春を見せたいものだ) これは藤原家隆の歌。 利休が、自分の理想とする、わび茶の湯の世界を示すのにあげた歌でもある。 茶の湯に萌え~な、利休さん(笑 このこなしもこんな風情だろうか。 雪間からのぞく、蕗の薹、といった感じ。 この「花をのみ」の歌の心をかたどったような上生で、食べたことのあるもの(要するにこのブログ内から)をちょっとあげてみよう。 下萌きんとん 俵屋吉富 早春 外郎 鶴屋吉信 下萌 黄身しぐれ 笹屋伊織 雪間草 きんとん 俵屋吉富 雪間の春 きんとん 鶴屋吉信 こうしてみると、各菓匠工夫を凝らし、かなりいろいろとバラエティに富んでいる。 季節を先取りするのが上生だから、ただこの歌の風情というより、春を待つ心、春を楽しみにして、という気持ちが強くなる。 種は、黒漉餡。 こなしは、それほどねっとりしていなかった。 一方、利休の師である武野紹鴎のわび茶は、定家のこの歌。 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ 花も紅葉もない、海辺のあばら屋、その秋の夕暮れの風情。 紹鴎さんは、寂び枯れたワインがお好き? 利休好みの黒茶碗には、そのボディに秘められた生命力や華やかさを感じる。
2010/02/14
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