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明け方祖父を母と私と息子で病院に迎えに行きました。祖母共々よくお世話になっているドクターは14日の危篤の知らせの前日、かたときも離れず高熱で苦しんでいた祖父の側についていてくれていましたがその日も偶然に祖父をみっとってくれました。「力及ばずで・・・」と何度も申し訳なさそうにするドクターに母も私も「本当にありがとうございました」と力強く自然に答えていました。母はお世話になった看護士さんと固く抱き合っていました。「本当にありがとう」と。祖父の表情は穏やかで安らかなきれいな顔をしていました。表情をみて「本当にきれいな顔だね」とだけ母に言いました。母も同じ気持ちだったと思います。病院に向かう途中、何件かピックアップしていた葬儀社から直感で母が良いと思った葬儀社に電話しており迎えが来ました。高知の梅雨は見事な激しい雨に見舞われる日が続きますが祖父と共に出た外はすがすがしくて少し夏の匂いのする6月とはおもえない朝でした。実は葬儀社は祖父が足を切ったとき、足だけだびにふすためにある大きい葬儀社にお願いしていました。同じくターミナルでがんで数年前亡くなった母のおじの葬儀のとき感じが良かったからです。ところが祖父の足のお葬式を依頼したときの担当者が「なんだ足だけか?」というような横柄な態度を取った為母はちょっと怒っていました。結果全く違った本当に心ある葬儀をしてくれると評判の葬儀社に突然、しかも明け方五時前にかけていました。「ご予約されていますか?」との問いに私は「いえ、今日突然かけたのですが」と言ったのですが「すぐに準備してお迎えにあがります」といってくださいました。祖父はすぐ家に到着しましたが対応してくださった女社長さんが焼き場などのスケジュールなども踏まえゆっくりご家族とお別れできるからと提案してくださりお通夜は二日後にしてくだしました。祖父の好きな日本酒をそなえ、妹とこっそりお水取りの要領で祖父の口に飲ませ、(その家にたまたま唯一あったお酒が金箔入りの『祝い舟』というおちもありましたが)仏さんの御飯をこんもり丸く盛るのが趣味の妹がお相撲さんの御飯のようにたっぷり盛って大騒ぎになったり家紋が途中で誰かが変えたから分らんと祖母が言いわざわざお墓まで確認しにいったりと相変わらずにぎやかな上に・・・。お通夜までの二日は仕事からこっそり抜けてきたやんちゃな婦長やお世話になった訪問看護士さん、仕事の合間に婦長に内緒でこっそりやってきた院長(鉢合わせでばれましたが)そして倒れてからお世話になっていた老健の施設長から相談員さんからりはの先生、介護士さんまで想像もつかない人々が沢山お別れに来てくださり祖父が倒れて丸9年以上本当に沢山の人の心と体に支えつづけられてきた事を実感しました。そして葬儀屋さんの素晴しさ、死に化粧の技術。きれいな顔を十分にしていた祖父の顔は「こんな男前だったのか」と思わせるぐらい美しい顔と元気な頃に気に入って着ていたさむえとなくなった足がまた生えてきたかのように足も授けられ人形のようではなく今にも起きだしそうな風貌でした。葬儀屋さんは祖父の元気な頃の本やカメラや活動の事を母から雑談で聞いて、「お元気な頃のお写真を沢山貸してください」とおっしゃいました。何をするのかと思っていましたが通夜会場にいってびっくり。入り口は結婚式のウエルカムボードのように写真が飾られたボードがあり祖父の書いた本のDVDがお花と共にディスプレイされていたり会場に入ると後ろの壁一面に祖父の元気な頃の写真が手作りのボードの上に貼られ飾られ本当ににぎやかでお通夜の会場とは思えない光景でした。その中で作成してもらったDVDが祖父の紹介のナレーションと共に流され何だか今まで見た事も無いお葬式。今ってどこもああいう感じなのでしょうか?そして何よりもお通夜、お葬式共に本当に沢山の方々が来てくださったのがびっくりでした。十年近く外部と交流が無かった祖父。その間に祖父の動けないところで祖父の本ややってきた事に評価があり動いてきたものはありましたが十年近く交流のない人のお葬式に沢山の方が来てくださった事に感謝。そして私は母に感謝の言葉をもらいました。「色々あったけどこんなにバイオリンを続けさせておいて良かったと思った事は無い。よく持って帰ってきておじいちゃんに弾いてくれた。ありがとう」と。母はさぞかし祖父の枕元でピアノを演奏したかったでしょうがここ最近指に激痛が走りやがて動きづらくなる病気になりあまり演奏もできず、ピアノは持っていける楽器ではないので本当に良かったと心からおもいました。色々長々書いてしまいましたがこんなに色んなことを考えさせられ、経験させられ、周囲の人のありがたさが身に染みる人の死はありませんでした。それは身内だったからというだけでなく、出産を経験して生と死という正反対のものを見てきたからかもしれませんがなくなる瞬間まで色んな経験をさせてくれた祖父には感謝です。本当に本当にありがとう。じいちゃん。じいちゃんの孫であること本当に誇りに思います。小さい頃からじいちゃんに教わってきた色々な大切な事、思い出しながら次の世代に伝えるね。ありがとう。
2010.07.06
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遠いから来なくていいよ。の母のメールを見ても辛抱強い祖父はきっと私とひ孫である子供を待っていると思い夕方の飛行機で高知へ。不思議な事ですがこの前の週二歳間近の息子が突然、「本物の飛行機に乗りたい」と何度もいっておりまさかこんなに早く飛行機に乗ることになると思わなかったなあとびっくりしながらも昼から荷物をしていたら息子が突然バイオリンケースを指差し「ママバイオリン弾いてと。」実は私は祖父がターミナルと聞いたときから今の私が祖父に最期までにしてやれる事はなんだろうと考え続けていました。本当だったら職業柄ずっと帰省してずっと最期まで介護の手伝いをしようという覚悟も主人に相談していましたがこちらの生活を考えた母の意見もあり少し帰省したり相談に乗るといったことだけしていました。本当に最期を迎えるとき。私に出来たのは今まで仕事でお年寄りに弾いてきたバイオリンを弾いて痛みや不安を和らげる事ができるかな?と時々ぼんやり考えていました。あさからおしっこも止まったままで栄養も入らなくなったし点滴もやめたと聞いていたので間違いなく考えたくなくても祖父の最期はやってくると腹をくくり・・・。荷物が多く子供も抱えなくちゃいけないことでためらっていたバイオリン持参を子供の一声で思いなおし思い切って持参する事に。直感で通常の病院では不可能でしょうが、とはいえ絶対あの婦長は枕元での演奏を許可してくれると思っていました。夜到着し、祖父の顔を見ると意外にも呼吸器をつけた祖父の顔が穏やかでほっとしながらもおしっこの止まったままの状態でいつ訪れるかもしれないお別れに先に来てのんきにほか弁をほおばる妹一家とにぎやかに祖父の側でひと時を過ごし、「今日は遅いから弾けんけど明日バイオリン持って来るき」と起きているらしき祖父に告げ実家へ。夜になってもやはり中々寝付かれず睡眠不足のまま朝さわやかな顔の息子に起こされ朝を迎えました。「ああ、祖父は無事朝を迎えたんだ・・・」と実感しながら。昼前に母と息子と病院に向かい母が先にバイオリンを持ってきていることを婦長に告げてくれたらしく、「えいよ、えいよ弾いちゃって。他の患者さんも暇しちゅうき。」と快諾してくださり母と「何弾こうか?」と相談しながら唱歌を何曲か弾くと・・・。入り口に見物客が。しまいには「私、クラッシックが好きで・・・」とリクエストまで出る始末。肝心の祖父ははじめは寝ていましたがバイオリンの音にぱっと目に光が出てじーっと音を聞いているようでした。1日中側にいたかったのですが2歳満たない子ともが長いことおとなしくしてくれるわけはなく・・・。はじめは張り切って一緒に歌を祖父の耳元で歌っていた息子も弾いている横でかまってもらえないのですぐ泣き始めてしまい外に連れ出したり用事をしにいったりちょこちょこ弾いて疲れの残っていた息子と早めに病院を後に。祖父は何と危険だった血圧も昨晩より90以上を保ち数値が奇跡的に安定しているとの事。血圧を聞いておしっこもだなくなったままなのに確信のない安堵で「まだ明日も側にいられる。」となぜか思いました。その晩、病院から戻ってきた母と枕を共にしながら色んな話をしていて、祖父が桃が好きということを知りました。他に話せなくなっている祖父が今したいことは何だろうと一生懸命考えて次の朝が来たらいろうになって口から長いこと食べたり飲んだり出来てないから絶対冷たい桃を買ってきてやろうと思いながら眠りにつきました。そして何と三日目の朝を迎えました。正直驚きました。こんなに頑張っている祖父の表情を見ながら三日目、「祖父はこれで本当に望んだ最期なのだろうか」「まだしてあげられる事はないのだろうか」「こんなに頑張らせていいのだろうか」と葛藤しつづけながらも在宅で八ヶ月母や祖母と穏やかな日々を過ごし、それを支えてきた母や訪問看護さんや先生の事を思うとこれが今のせいいっぱいなんだろうな、来るべくして来た時なんだなと思いはじめていました。病院にいくと婦長が母に「ちょっと血圧が落ちてきてるからひょっとしたらひょっとね・・・」と告げました。ああ、きっと祖父と過ごせるのは今日日中のうちで次の朝は来ないだろうと経験上悟りました。午前中から今日もバイオリン片手に祖父の好きだった歌や子供の頃弾いて褒めてくれたコンチェルトを弾いてみたりし、何としまいには婦長も参加して『花』(はーるのうらーらーのー)を大合唱までしてしまい婦長の病室が壊れそうなほどの大きな美声に前日よりもギャラリーは増えさらににぎやか。この日は祖父はずっと目を開けて周囲の様子を伺っているようでしたし目の前で演奏している私をじっと見つめているようでもありました。朝から買出しに行ってきて地の産直市で出てきたばかりの桃を見つけてきてドクターに許可を頂き汁と小さなかけらを祖父の口に含ませました。祖父の表情は一瞬戸惑いを見せましたがすぐにしばらくしていなかったもぐもぐをし飲み込む口をしていました。表情では嬉しいのか分りませんがごっくんと祖父がした瞬間、目の前で祖父が自分の意思で口を動かした事に「目の前の祖父は力強く最期まで生きようとしているんだ」と強く実感し涙が出そうでした。覚悟を決め最期に会わせたい人に連絡をしていた母からの連絡を受け飛んできた人が夕方には二人訪れました。その人たちの話しかけに祖父は間違いなく耳と目を傾け、全身で何か告げているようでした。帰り際、朝が来ないことを確信しながらも「またあしたくるね」と告げた祖父の最後の表情は本当に安心した穏やかな表情でした。そして・・・・。朝、四時過ぎ、実家の電話が鳴りました。祖父が亡くなったとの知らせでした。
2010.07.05
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そんな心強い婦長に会わぬまま近況報告を心配しながら電話で受ける私を尻目に母は、「毎日楽しいがよ。」祖父の側にいていつ病院から来るかも知れぬ電話を待つよりはよいとは思いますが・・・。にぎやかなのが好きな母曰く、毎日かわるがわる訪問看護さん、ドクター、介護士、リハビリの先生、薬局さんがかわるがわる来て祖父や祖母の事を相談したり、はじめなれないうちは時間外でも婦長や看護士さんがいて夜中まで栄養やじょくそうの処置、薬について一緒に検討してくれたり指導してくれたりで毎日が生き生きしてるようなのです。そんなおかげで一時祖父の足は白くなり再生のきざしが見られるという奇跡的な状態にまでなりました。がしかし、ターミナルを宣告されている祖父の内臓の状態が良いわけは無く結局逆戻り。かわるがわる婦長が連れてきた名医が「お大事に」とだけ言い残し去っていく中、一人の先生が祖父の足を見て「こんりゃーかわいそうや。僕が切っちゃお。」と申し出てくれ内蔵をも蝕みそうな祖父の足は切断される事に。切断に対しての周囲の色んな気持ちをよそにターミナルを宣告されていた祖父は切断をきっかけに状態がとても落着き、穏やかな日々を過ごせるように。そんな婦長や周囲の人に会いたくて、祖父の介護を少しでも手伝いたくて今年二月に1ヶ月帰省。このときは結局婦長とは会えず。母の介護は私の想像を絶するもので、母以外三人が病人。母は1日中夜遅くまで動きづめ。母を手伝いながら母や看護さんやドクター、そして祖父本人の表情にまで学ぶ事が多く二月の帰省は私の人生においてとっても大切な事を学んだとおもいます。そして疲労困憊ながらも本当に振り返れば楽しかった!祖父はすでにその頃から肺炎を繰り返し、いろうも胃が細くなっているのかもれたり落ちなくなったりするように。五月にいとこの結婚式に出席する為祖父と祖母を病院に預かってもらう予定を祖父だけ四月の早いうちから入院させることに。そして帰ってきた母に婦長が「自宅に返せない状態だから」と母に告げ。祖父のここまでの辛抱強さを信じていましたが・・・。6月14日朝危篤の知らせを母より受けました。
2010.07.05
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