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3歳からの闘病編 *てんかん*

 ~3歳からの闘病編~ *てんかん*

私が「てんかん」になったのは3歳ごろ。
私の場合は、一瞬動きが止まる程度の状態でした。
ですが、色々な薬の副作用でフラフラになったり、すぐ眠くなったりしていたそうです。
幼稚園時代は運動制限があり、大好きなプールも入れませんでした。
見た目は元気そのものなので、周りの子たちからは
「ずる休み!」とか「ずるい!」と言われイジメが始まりました。
市立の幼稚園だったので、中学校卒業するまでは、毎年イジメが広がり
小学生時代は6年生になって、1年から6年生まで全員にイジメを受けていました。
もちろん、不登校にもなりましたし、今の子供たちの様に自殺も考えました。
学校を転校したいと両親に訴えましたが、断られました。
市立の学校に行ってる間、ずっとイジメられていたので、信じるものは
自分しかなかったように思います。
時には、母に引きずられて学校に行かされた事もありました。

子供さんをお持ちの方なら解るかもしれませんが、
運動神経発達時期に運動制限されていたため、他の子よりもバランス感覚が養われませんでした。
そのため、周りからも教師からも「ノロマ」と言われたり、教師からは竹刀でたたかれたり、
列から引きずりだされたりもしました。また、小学校一年の担任からは、個人的にイジメを受けていました。担任からイジメを受けていた事実を知ったのは、母が担任に直接聞いたからです。


高校に行けば、全く違う人と関われると思い、自分の過去を知らない人ばかりのところを
選んで行こうと思ったのですが、
同じ中学から行く人がいて、結局は休みがちになりました。
でも、高校時代は、歌う事が楽しかったり、バンドをする事が楽しかったので
(嫌な事もありましたが)、今思えば良い時期でした。

中学卒業する頃から、「社会に出たい」という気持ちが大きくて
両親に伝えました。
当時、私が「社会に出たい」と思ったのは
「イジメた人達を、あっと驚かせて見返したいから」や
「早く社会に出て、社会の為になりたいから。人の為になりたいから」という想いからでした。
しかし、両親共「女の子が中卒じゃ、将来、何かの時に馬鹿にされる可能性があるから
駄目だ」と言う意見で、仕方なく女子校を選びました。
(本当は、工業高校に行きたかったのです)

高校卒業後、父が働いてる会社に縁故就職するはずが、卒業間際になって
父が反対をしだしたので、
結局、自分で探しました。
それ迄社会経験が無い私は、一生懸命頑張って働きました。
その頃になると「てんかん」という病気が世の中に浸透していて、
就職活動はしやすくなっていました。
てんかんの病状は安定していたので、一日8時間、一ヶ月22日程働いていました。
ブティックで働いていた事もありますが、入社早々、個人売上が店長と同じだったので
先輩方から(変に)虐められました。
でも、社会に出た私は、ある意味強気でした。
今思えば、何も知らないからかもしれないのですが、
「売上あげないと会社の利益にならないし、会社にも社会にも貢献できない」というポリシーを
持っていたので、先輩にも「売れば良いのではないでしょうか・・」と言っていました。
殆どの先輩が辞めて行きました。
流石の私も、責任感じて、辞めました。

その後、20歳で一旦、薬(当時、デパケン錠200mg 2錠/1日)の服用を辞める事になりました。
理由は、「脳波も安定してるし、お薬の影響で仕事に差し支えが出るといけないから」とのことでした。
しかし、19歳からは、アルバイト先で徐々に責任がある仕事を任されるようになり頑張っていました。
当時は音楽のコンテストやイベントに出る事が楽しくて
仕事から帰ってきて、食事とお風呂をすませると11時頃から曲作りを始め、
3時頃に寝て、5時半に起きるという生活をしていました。
そんな生活を半年以上していると徐々に体がおかしくなってきました。
当時、診察の時に主治医にいうと、すぐに血液検査をしてくださいました。
結果は、輸血寸前の貧血でした。
「しばらく、仕事をお休みしてください」と言われましたが、
当時は私以外で、お店をあけられる人もいないし、店長補佐もしていたので
その補佐役がいなくなるので・・との事で更に無理をしていました。
でも、少しずつ周りの人にお仕事を任せる事にしました。

てんかんが原因でイジメられたのは、学生時代でほぼ終わっていました。

そして、23歳の頃から、有る事が原因で心の病になりました。
それは、 こちらから


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