気まぐれな夢旅人【本館】

気まぐれな夢旅人【本館】

2010/11/03
XML
ほぃ!!どぉも。

ね。あたりも色づいてきました。
赤や黄色など、それまで緑だった木々たちが
このときばかりは!と頑張って我々に見せつけております。


さ、こんな秋真っ只中にお送りする
風景印 広島西部篇 です。


それでは、どぞ。


22/08/06 「風景印」 広島・宮島局

広島県廿日市市 宮島局です。

JR山陽本線・宮島口駅前から

歩いて10分程度のところでございます。
ご近所はお土産屋さん等で賑わいをみせております。


さて、本日の図案意匠は・・・
厳島神社・平舞台に御神能、大鳥居


まずは 御神能 です。

桃花祭(とうかさい)が桃の節句の約1ヶ月遅れの
4月15日に行われる行事であり、
厳島神社の高舞台にて厳かに執り行われ、
夕方5時から神職たちが11もの舞楽を
神社に奉納します。


「桃花祭・御神能(ごじんのう」)です。
厳島の戦いで神聖を傷つけたお詫びのしるしとして
毛利元就が京都から能楽師を招き、奉納したのが起源とされています。

その能楽師さんが立っているのは
厳島神社の平舞台と呼ばれるところ。

何故に平舞台が意匠に登場するのかは分かりかねます。
平成3年と16年の時の台風で甚大な影響を受けたことも、
記憶にある方もいらっしゃるでしょう。


さて、昨日は
厳島神社の語源となった事柄をご紹介させていただきましたが、
本日は、その歴史や民俗史を。

ちょっと難しいですけどね。
せっかく行ったんだから、がんばりまひょか。
(喪中の為、鳥居は潜らず、神社内も入っていません)

593年に佐伯鞍職さんが創建したのではないかとされている厳島神社。
9世紀には「伊都伎嶋神社」と称していたそうで、
全国に500以上はある「厳島神社」の総本社であります。

現在の社殿の礎は平清盛が造営した(1168年)とされ、
平家の守り神として崇められました。
平家と共にこの神殿も栄え、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した後も、
源氏などその時の権力者に崇拝されます。
毛利元就が厳島の戦いでこの厳島一帯を支配、
崇拝するようになってくるとまた盛り返してきます。
勢いをそのままに社殿の修復も行い、
豊臣秀吉は九州遠征の途中でここに立ち寄り、大経堂を建立。

当神社だけで、国宝・文化財級の建造物は20基が存在しております。



さて、民俗史としては、
宮島の独特の風習がそこにはございましたので、
軽くご紹介しておきましょう。

まず一つ目は島全土が御神体とされたため、
血や死といったものは忌避されていました。
例えば、島の中で死亡者が出ると、
即、対岸(現在のJR宮島口駅西側=赤崎地区)に渡して葬っていたり、
島内には現在も墓地や墓は建立されていなかったり、
島の女性が出産間近となると、対岸に渡って、
産後100日以上は島に戻ってはいけなかったり。

機織や農作物も一切作ってはいけないというのが二つ目。
島自体が「女神の御神体内」であることが由来。
分かりやすく言えば、女性を畑と見立てているんでしょうか。

そして、古来からサルやシカとの共生がなされていたのが三つ目。
奈良県の春日大社の思想の影響を受けていたとされており、
神の遣いとして大切に扱っていたそうです。

最後四つ目は大鳥居付近で汲んだ海水を
それぞれの民家の前を清める「潮汲み」と呼ばれる習慣。
元旦のみ「新潮迎(わかしおむかえ)」と呼ぶんですって。
最近では、この習慣が見直され、復活の兆しがあるそうな。


こうやって、探してみると、
全国にまだまだ珍しい風習があるのかもしれませんね。



さ、最後は 大鳥居 なんですが、
これは明日にしておきましょうね。


へば、今日はこの辺で。

へばなッ






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2010/11/03 12:47:03 PM
コメント(4) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: