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2024年23日(日)曇りのち雨7時前には全員が目を覚ましそれから徒歩2分の鴻の湯へ温泉に入りに・・幸いなことに雨は降っていませんでした・・・鴻の湯城崎温泉街の7つの外湯の一つです・・1400年前 足を怪我したコウノトリが傷を癒やしていた場所に温泉が湧き出していたことが名前の由来の「鴻の湯」・・庭園露天風呂が魅力的です・・ほとんど人がいなくて露店風呂は一人しめ・・朝からのんびり温泉にはいっていい気分・・朝食は宿の目の前にある「Cafe Uturoi」で8時から・・このCafeはもとは消防署だったところをリノベーションしたところです・・お洒落で素敵なCafe でした・・2種類から選択です・・クマさんと長男はベーコンエッグ付きのトースト私はフレンチトースト・・橋を渡ると目の前が宿です・・雨がパラパラし始めました・・10時前にチェックアウト・・外は本降りの雨になって・・長男が車を前に回してくれるのを待ってました・・宿のサービスで温泉卵がついていたので長男が車を取りに行った際に卵を茹でておいてくれましたネットに入れた卵をそのまま温泉の中に漬け込んで10分だそうです・・10分経ったので卵をひきあげて・・上を金具でぱちんとして割って・・塩をかけてスプーンで・・いい具合の半熟で美味しかったです・・眼の前には源泉が・・雨も本降りだし長男も今日帰らないといけないので帰宅することに途中にあった津山商店(地魚を扱っているお店)によって雨がすごくて外観が撮れませんでした雨のため不漁であまり魚がありませんでした・・岩牡蠣と甘エビ・鯵を購入・・帰宅したのは1時半それから鯵のフライ・岩牡蠣・甘エビなどでお昼に岩牡蠣が美味しかったぁ・・甘エビも流水で溶かしてとっても甘かったです・・新鮮な鯵は刺し身でも食べれるお品フライにしても当然美味しかったぁ・・長男は4時過ぎの新幹線で帰っていきました・・今度はいつ会えるかな・・o(*^▽^*)o~♪終わりFC2・・はこちらから
2024/07/18
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城崎温泉の宿についたのは4時過ぎ・・出石を出てから雨になりました・・宿についたのが4時過ぎ・・浴衣に着替えて外湯めぐりをすることに・・泊まった宿は一番奥の鴻の湯の近くにありました・・城崎温泉には外湯が鴻の湯・まんだら湯・御所の湯・一の湯・柳湯・地蔵湯・さとの湯と7つあります・・宿泊客は外湯は無料ではいれます・・QRコードの札を首かぶら下げて入る前にスキャンします・・雨が降ってなければぶらぶらと温泉巡りするのが楽しいのですが雨が降っていたので大変でした最初に地蔵湯に行き柳湯・一の湯まで入ってそこで夕食の時間が迫ってきていたので宿に戻りました・・外湯はそれぞれに特徴があって面白いんです・・海外の方もけっこういらしててマナーも良かったです・・ご夕食・鮮魚お造り3種・但馬牛すき焼き120g、野菜一式・カニの陶板焼き1/2匹・胡麻豆腐・煮物・お蕎麦・ごはん・デザートお風呂上がりのビールでお疲れさま・・( ^_^)/□☆□\(^_^ )カンパーイ!従業員は海外の方が多かったです・・日本語もとっても上手でした・・宿のお風呂を予約していたのですがクマさんと長男はお酒が入ってて眠そう私が一人で入ってきました・・外湯でシャンプーをしていなかったのでちょうど良かったです・・部屋に戻るとふたりとも爆睡・・窓は二重窓になっていて眼の前を流れる川の音も聞こえなくて静かでした・・ちょっと窓を開けてみると川の流れる音が結構していました雨も降っていたので水量も多かったのでしょう・・おやすみなさい~♪(⌒∇⌒)ノ""FC2・・はこちらから
2024/07/14
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坑道から出てきたあとは左側にあった階段を登っていきます空はかなり曇っていましたがまだ雨は降っていません・・金香瀬旧坑の坑道外には江戸時代に鉱石を求めて出入りした手掘りの跡が多数残されています・・往復30分の坑道外コースを歩きました・・南無阿弥陀仏像のような線刻がありました・・この線刻は坑内作業の安全を神に念じながら掘った跡だと思われます・・画像右真ん中・・ここにも生野代官所跡があり代官は坑道外の作業を監視していました・・画像右下・・石段を上った所に滝不動尊が祀られています・・坑夫は坑内の安全と鉱業の繁栄を祈念しました・・露天掘り跡慶寿𨫤(けいじゅひ)慶寿𨫤(けいじゅひ)は生野銀山最大の鉱脈である千珠𨫤の一部で非常に品質の高い銀(自然銀)を産出しました・・この鉱脈が発見されたのは室町時代末期の永禄十年(1567)頃と記録されています・・ここから見える堀跡は慶寿𨫤の一部で江戸時代末期までの三百年間休むことなく採掘され地下二百メートルの深部まで達しています・・ ここから戻ることに長男が時々振り返っては大丈夫?と声をかけてくれます・・お土産物屋さんをちょっと覗いて長男はお土産に坑道で熟成させたウィスキーを私は日本酒を購入・・これは長男に持って帰ってもらいました・・ノブにはお菓子を・・続く・・FC2・・はこちらから
2024/07/11
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生野銀山は大同2年(807)に発見されたと伝えられ室町年間の天文11年(1542)には山名菅豊時代に銀鉱脈の本格的な採掘が始まりました・・織田・豊臣の各時代を経て江戸時代にに幕府が「銀山奉行」を設置その後「生野代官」が置かれやがて生野銀山は最盛期を迎えます・・明治元年(1868)政府直轄鉱山となった生野銀山にフランス人技士ジャン=フランソワ・コワニェが着任し軌道や巻揚機の新設など数々の先進的施策にによりまざましい近代化を成し遂げました・・明治22年(1889)には宮内省御料局の所管へ移され皇室財産に・・次いでめ宇治29年(1896)に三菱合資会社へ払い下げられ国内有数の大鉱山として移行しましたが昭和48年(1973)に閉山し長い歴史に幕を閉じました・・ その間に掘り進んだ坑道の総延長は350キロメートル以上深さは880メートルの深部にまで達しており採掘した鉱石の種類は70種以上にも及んでいます・・平成29年(2017)日本遺産「播但つらぬく銀の馬車道石の道」に認定され近代化の礎となった鉱山の歴史を伝えています・・生野銀山観音岩・・観音様の横顔をわかりますか?この観音岩は調査の結果自然の力で造られたものであり落石防止として張った金網が幸いして浮き出てきたものと推測されるようです・・ 金香瀬坑入口の抗口は明治・鉱山の近代化のためフランスより招聘されたジャン・フランソア・コワニェが築造したフランス様式のアーチ型の抗口です・・ 中に入るとヒヤッとするくらい涼しいというより寒いくらいでした・・ 江戸時代の手彫り穴を使って日本酒とワインを熟成していました・・光栄立杭ケージ(エレベーター)最深部は地下730メートルまで坑内員などをのせて昇降していました・・外にでるとメガネが曇って真っ白に・・続く・・FC2・・はこちらから
2024/06/29
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2024年6月22日(土) 曇り後雨昨夜は長男の帰宅が遅かったのでビールを飲みながらお喋りしていたらベッドにはいったのが12時過ぎになりました・・翌朝はゆっくり起きて朝ご飯を食べ自宅を出たのは10時過ぎ次男は残念ながら仕事でいけなくてお留守番・・天気予報では雨だったのですが曇ってるだけで雨は降っていません・・バイパスから播但有料道路を通って生野銀山へ・・お手洗いに行っている間二長男が入場券を買っていてくれました・・第一村人発見・・生野銀山見石・・(画像右下のお祭りしている石です)白い塊・・なにかわかりますか?クマさんがモリアオガエルの卵や・・水のきれいなところでないといない・・画像はお借りしました銀山資料館・・大亀お見石山車(左下の画像)江戸時代の坑内略図を参考に当時・生野銀山で鉱石を掘り出す作業を再現したもの・・蟻の巣みたいになっていますね・・吹屋資料館徳川時代には幕府に献上する上納銀を作るための精錬所を「吹屋」その作業者を「吹大工」と呼んでいました続くFC2・・はこちらから
2024/06/27
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2024年6月21日(金)は長男が名古屋に出張にきていました・・その足で我が家に帰省してきてくれました・・夜の23時に駅まで迎えに行って・・6月20日は私達の48回目の結婚記念日でしたのでそれもあって来てくれたようです・・お祝いに城崎温泉を予約をしていてくれてました・・22日(土)10時ころ出発・・雨がまだ降っていなかったので良かったです・・生野銀山・播磨焼きのおせんべいの本店に寄ってお昼は出石のお蕎麦・・順不同になりますがまずは出石のお蕎麦から母がまだ元気だった頃長男も次男もまだ小学生だった頃に行ったお店「近又」最初に15皿注文・・追加で10皿クマさんと長男は11皿で私は8皿・・まず1皿は塩だけでこれが抜群に美味しい・・その後は薬味で・・とろろを追加して卵は最後に入れて食べます・・母を思い出しながら思い出話しに花が咲いてとっても楽しい時間となりましたおいおいに順を追ってアップしていきますぺこ FC2・・はこちらから
2024/06/24
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ハート石があるみたい・・ということでこちらから天守台に登ります・・石階段を登って探します・・が・・似たような石が沢山あってどれかわかりません・・ドンドン登っていくと津山城壁ハート型の石「愛の奇石」として隠れた津山の観光スポットとなっているのがここ・・天守台にあるこの石はご覧の通りのハート型・・この奇石に触れたカップルは恋が成就すると密かな恋愛スポットになっているそうです・・若い女性二人連れも一生懸命探していたのでこっちにあるよと教えてあげて・・彼氏はまだいないという二人にしっかりお願いして記念写真撮っておかないとねと・・媚中櫓が見えますね・・七番門跡・・天守曲輪の北西隅には虎口があり七番門が建てられていました・・二の丸から本丸への最短ルートが七番門ですが下の段とは3メートルの段差があるため普通は上り下りは出来ません・・どうやら梯子を架けていたらしいのですが殿様が梯子で上り下りしてたのかしら・・(~ヘ~)ウーン鐘の音がなっていたのでそちらに・・ 石垣が素晴らしいですね・・クマさんが小さく写っています・・上まで登ったのですが鐘つき堂にはいけません・・別に登る階段があったのですが立入禁止誰かが黙って入った鐘をついたのでしょうか・・粟積櫓跡栗積山から用材を調達した為に「栗積櫓」と名付けられたこの櫓は小天守とも呼ばれたそうです・・別のコースから降りていきました・・足元がゴロゴロしてて怖かった・・昔は平気で走ったりしていたのに年には勝てません(;^_^A アセアセ下まで降りてお土産物屋さんによってクマさんが大好物の高瀬舟を購入・・この羊羹・・お砂糖が固まって白くなってるのがわかりますか?それがカリカリしててとっても美味しいんです甘さも控えめ目になっています・・駐車場から見た桜・・ここが一番綺麗だったりして・・o(*^▽^*)oあはっ♪歩いた歩数 8322歩 登っった階段22階 約5.4km意外と歩いていないなと感じました石段ばかりだったからでしょうね・・終わり・・【岡山ご当地スイーツ落合羊羹】 羊羹 ようかん 岡山羊羹 岡山ようかん 落合羊羹 落合ようかん 元祖 落合羊羹 舟型 西口屋本店 24個入 岡山 ギフト お菓子 お取り寄せ 岡山県 グルメ 岡山土産 美作落合 和菓子 贈り物 練り羊羹 お茶 和菓子帰省 手土産 卒業祝い 退職祝い価格:1,555円(税込、送料別) (2024/5/1時点) 楽天で購入 FC2・・はこちらから
2024/05/01
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三の丸に出店していたキッチンカーで買ったトルティーヤを椅子に座って食べながら桜を見ていたクマさん(「・・)ン?この桜ソメイヨシノとちょっと違う・・桜の木に名札が・・オオシマザクラでしたソメイヨシノよりも一足早く満開を迎えるオオシマザクラは真っ白な花を咲かせます・・ 他の桜との見分け方は花が終わって葉っぱが出てくるソメイヨシノや河津桜に対し花と同時に緑の葉っぱが出ているのが特徴です・・クマさん花と葉っぱが一緒に出ていたから違うと気づいたようです・・表中門三の丸から二の丸に至る高石垣に囲まれた表中門跡・・幅14mの広い階段が続く登城道の入り口付近に重厚な櫓門があったそうです・・階段幅が広いのが特徴で城内最大の門・・門の形式は一階部分が城門・・二階部分が櫓となる「櫓門」でした・・櫓の東側は袖石垣上に載り西側は鉄砲櫓の高石垣に取り付いています・・姫路城の61棟をしのぐ77棟の櫓が建ち並んだ名城「津山城」津山城の規模の大きさは天守は4重5階地下1階の層塔型天守日本三大平山城のひとつだそうです・・姫路城に匹敵する本当に大きな城!外郭を含めて広島城の76棟・姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓が建ち並び雄大な城郭でした・・明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却されました・・城があると明治政府に逆らう者が出てくることを懸念して明治政府が必要とした城以外はすべて壊してしまったそうです・・これはクマさんの見解なのですが廃仏毀釈といい廃城令といい文化・芸術を理解できない無教養な明治政府の人間が行った愚かな行為だと・・備中櫓忠政の女婿・池田備中守長幸の訪城にちなみ「備中櫓」と名がついたということだそうです・・明治6年(1873年)の廃城令ですべて取り壊されましたが2002年築城400年記念行事の一環として備中櫓復元工事に着手し2005年完成・・城内最大規模の櫓で内部は畳敷きの御殿様式の特徴を持ちます・・朝は肌寒かったのですが日中は暑いくらいに・・桜もまだまだ残っていますね・・弓櫓下水の蓋の模様がカッパでした・・吉井川に生息していたという伝説のあるごんご(カッパ)・・でカッパなんでしょうか・・ね・・備中櫓備中櫓は本丸南面に張り出すように石垣の上に建てられました・・一風変わった2階建ての櫓です・・天守に次ぐシンボル性の高い建物だったようです・・外観だけでなく構造や装飾も特殊で外から見ると櫓なのですが内部は御殿のようになっています・・本丸御殿とは廊下で連結しておりどうやら御殿の一部として機能していたようです・・奥向御殿のさらに奥という場所にあり限りなく御殿建築に近いです・・津山城の本丸御殿はスペースが限られていたため櫓の内部までを御殿として利用していたのでしょう・・しつらえなどから備中櫓は藩主や近しい人々の私的な生活空間だったとみられています・・中に入ってみましょう・・狭くて急な階段を登って・・ここから見えたのが天守曲輪の天守台・・五層の天守は破風を持たない質実なものであったと伝わっています・・一般的に櫓の内部は板敷きあるいは土間ですが備中櫓の内部はなんと全室が畳敷きになっています・・また部屋を仕切る襖(ふすま)には「唐紙」と呼ばれる模様が刷り込まれた和紙で仕上げてあるのも特徴です・・2階の「御上段」はもっとも格式が高いことから森家の家紋をあしらった唐紙で復元されています・・床の間・違い棚を備えた「御座之間」や「御茶席」などがありました・・トイレこれ絶対に奥を向いて座るよね・・奥に見える棒って手を支えるものだと思ってました・・違うんだって!!衣掛といって着物の裾をかけるものだそうです・・(*゜.゜)ホ・(*゜。゜)ホーーッ!!なるほどねぇ・・たしかに着物の裾・・困るよね・・続く・・FC2・・はこちらから
2024/04/21
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観光案内所のすぐ左にお城に登る階段がありますお城には階段がつきもの・・さて登りますか・・忘れ去られた石登りきったところにあったのがこれ「忘去られた石」平成10年の台風10号通過後津山市大谷の石山登山道近くの谷川で津山城築城時に切り出されたと思われる石が見つかりました・・石の重さは約2.3トン・・近くにある「津山城石切場跡」にある矢穴(石を割るためにノミで穿った穴)と同じ大きさものが石の上下に計9か所残っています。津山城築場時に切り出された石に一部であることは間違いなく、何らかの理由で築城現場まで運ばれなかったようです。この石は「忘れ去られた石」と名づけられました。平成16年3月に谷川から引き上げられ、同年5月の津山城築城400年記念事業「津山歴史時代絵巻~築城大石曳き~」で大谷町内のみなさんによって"歴史石曳き"として修羅(巨石などを運ぶ木製のそり状の運搬具)に載せて市内中心部を約400メートル曳かれた後、津山城跡近くに約400年ぶりに届けられました。ということだそうです・・そんなことあるんですねぇ・・・本来なら8日までの桜祭りを14日まで延長したそうです・・森忠政森忠政は森可成の六男・・豊臣秀吉から徳川家康への政権交代に順応し森家を存続させました・・鶴山の町とお城の海の親である森忠政は織田信長の側小姓として本能寺の変で勇名を遺したあの森蘭丸の弟です・・信濃川中島の功で美濃から美作十八万六千五百石に封ぜられました・・森家はそのあと衆楽園を造った名君である2代長継公・・そして三代長武公・四代長成公と続いたあと元禄十年嗣子がいないために津山城を松平家に明け渡すことになりました・・親藩松平家は十万石・・康哉公・確堂公など数々の名君を送り以来大政奉還まで九代172年間津山城を守りました・・室町時代・美作の守護大名であった山名氏が築いた鶴山城・・応仁の乱のあと廃城となりやがて戦国の世も終わり江戸時代を迎えます・・慶長八年に森忠政公が美作十八万六千五百石に封ぜられ本格的な築城が始まりました・・忠政公は最初は現在の院庄の址に築城を始めましたが重臣同士の抗争も有りうまくいかず中止・・第2の候補地に山名氏の古城鶴山を選びました・・そして築城足掛け13年・・五層四庇の堂々たる天守閣を持つ巨城と五十年の歳月をかけて賑やかな城下町・津山が生まれのです・・徳守・大隈など守護神の勧進や他国の名城の調査など忠政公の築城にかける意欲はなみなみならにぬものであったと伝えられています・・津山(岡山県津山市)の地名の由来は津山城が築かれた丘陵が「鶴山(つるやま)」と呼ばれていたからだそうです・・壮大な石垣と広い通路が特徴です・・この階段を登りきった広場に屋台やキッチンカーが出ていました・・さっき食べたランチご飯が少なかったのでクマさんには少し物足らないと思い・・あれ食べてみる?って聞くと速攻で食べると・・可愛いお嬢さんがやってるキッチンカートルティーヤ・・チーズとはちみつをオーダーしました・・しょっぱいチーズとはちみつが絶妙な相性でとっても美味しかったです・・o(*^▽^*)o~♪FC2・・はこちらから
2024/04/14
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4月10日(水)晴れ津山城まで桜を見に行ってきました本当は日曜が一番綺麗だと思ったのですが混雑してそうでやめました月・火と雨になってしまって散ってる桜も多かった・・自宅から下道を通って約2時間・・観光案内所についたのが11時過ぎ・・近くのPに車を止めて徒歩でいけるお店をチェックしていたのでまずは腹ごしらえをしようとアイフォン片手にお店に行くと((゜m゜;)アレマッ!定休日は不定休になってましたがまさかまさかの定休になっていて観光案内所に戻るときに見えた津山城ちっちゃいけどわかりますか?!右前に建っていた古い建物のほうが目立ってますね・・森本慶三記念館(旧津山基督教図書館)もりもとけいぞうきねんかん(きゅうつやまきりすときょうとしょかん)1926(大正15)年に建築された木造三階建銅板葺・時計付の塔屋や細部の浮き彫り等に特徴が・・基督教文書伝道をを目的として設立された日本唯一の基督教公共図書館です・・創設者は森本慶三・内村鑑三の門に入った森本が内村の支持を得て開館したそうです・・現在は歴史民俗館として江戸期の富裕商人の暮らしを中心に展示しています・・中にははいりませんでした・・Pのおじさんにおすすめランチのお店を聞いたんですがそこも今日は定休日だそうで近くにはなさそうです仕方がないのでそずり丼と書いてあるのが目について興味を持ち観光案内所にあったお店に入りました・・お持ち帰りのお弁当を頼んでいる方もたくさんいましたよ・・上の画像がそずり丼・・骨のまわりをそぎ落とすことを津山市の方言で「そずる」と言うそうです・・牛バラのそずり肉を使用していて程よい歯ごたえがあって肉と脂身のバランスがいいのが特徴だそうです・・甘辛いしょう油ダレがよく絡んで美味しいです・・津山のB級グルメはホルモンだそうでホルモン丼も・・二人でシェアして食べました・・以外にあっさりしたお味・・ご飯の量は少なめでした・・ちょっと早めの時間だったのでちょうど良かったです・・腹ごしらえもできたし・・津山城にo(゜▽゜ヽ)(/゜▽゜)o レッツゴー♪続く・・FC2・・はこちらから
2024/04/11
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2024年1月4日に呉から来た友人と待ち合わせて初詣に行ってきました・・友人は加古川に住むお兄さんのところに来ていて・・会えないかと連絡してくれたのです・・御朱印を集めているので書写山に誘いました・・友人は車で来ているので車を出してくれるということでわかりやすいところで待ち合わせ・・私はクマさんに送ってもらいました・・前日に電話で込み具合を確認していましたのであまり混んでいないと教えていただいていました・・書写山ロープウエイのPにもすぐに止めることができ・・ロープウエーで上まで上り更にバスに乗って移動です・・バスは摩尼殿のそばまで行ってくれます・・境内は大きく3つに分かれています・・仁王門(におうもん)から十妙院(じゅうみょういん)までを「東谷」摩尼殿(まにでん)までを「中谷」大講堂や食堂・常行堂(じょうぎょうどう)から開山堂(かいざんどう)のある奥の院までを「西谷」と呼びそれぞれで風情が少しずつ異なります・・摩尼殿書写山上一帯が圓教寺の境内になっていてさすが「西の比叡山(ひえいざん)」と呼ばれるだけあって広いのが特徴です・・樹齢数百年の木や珍しい野鳥・苔・岩などこの地に宿る1000年のパワーを全身で感じながらゆっくりまわります・・大講堂・食堂(じきどう)ハリウッド映画「ラスト・サムライ」のエドワード・ズィック監督の心を一瞬にして奪ったのが「西谷」でした・・開山堂開山堂は開山の性空上人を祀るお堂です・・この開山堂の軒下を見上げるとまるで屋根を支えるようにふんばる力士像が!こちらの像は日光東照宮の眠り猫の作者としても有名な左甚五郎作と伝わっています・・四隅のうち西北隅の一つは重みに耐えかねて逃げ出したという伝説があります・・奥の院 護法堂戻りはバスにならずに徒歩で・・仁王門Pに戻ったときにはすでに1時を回っていて・・この近所にはランチするお店がないのでとりあえず姫路城まで行くことに・・P止めて徒歩で駅に向かって歩いていき海鮮家うさぎを発見・・美味しいのはわかっているので中に入ったのが13時30分ラストオーダーは14時・・穴子御膳・・穴子めし・てんぷら・酢の物・白焼き・茶碗蒸し・・穴子めしは最初はそのままで次に薬味を入れて最期に出しをかけてこれが最高に美味しかったです・・観光客の多い姫路大通り店だけのメニューだそうです・・食後は腹ごなしに寺社めぐり・・播磨国総社総社さん総社の神様と呼ばれていますが正式な神社名は射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)と云い射 楯大神(いたてのおおかみ)と兵主大神(ひょうずのおおかみ)を御祭神としてお祀りしています・・ 境内には総社の名の由来になっている播磨国内の大小明神をはじめ摂末社の神々を合わせ祀っています・・射楯大神(いたてのおおかみ)五十猛尊(いたけるのみこと)素戔嗚尊の御子神で全国に樹木を植え二本を緑豊かな国にされた神様です・・「日本の国をお護りいただいている神様」として信仰されています・・ 兵主大神(ひょうずのおおかみ)大国主命:縁結びの神様として有名です・・また少彦名神と一緒に様々な産業の発展をはじめ医薬の開発に取り組まれました・・この故事から「国造りの神さま」や「医薬の開祖の神さま」として信仰を仰いでいます射楯兵主神社拝殿を見たとき太鼓?があるのが特徴的だなと思いました・・あと護国神社へ向かいます姫路郵便局の前からの姫路城・・ここからのお城が一番綺麗だと言われています・・護国神社兵庫県姫路護国神社は天皇皇后両陛下が兵庫県を行幸啓なさいますときに必ず幣饌料をお供えになる姫路で唯一の神社です・・護国神社は明治維新以降日本が近代国家を歩む中で国に殉ぜられた兵庫県西部地域出身の戦没者を御祭神として祀られており建物はかつての武家屋敷だそう・・姫路城は別名「白鷺城(しらさぎじょう)」ともいわれますが姫路城のすぐそばにあることでこちらの神社も「白鷺宮(しらさぎのみや/しらさぎぐう)」とも呼ばれており現在も看板には「しらさぎのみや 姫路護国神社」と書かれています・・そろそろ16時を過ぎて寒くなってきましたお詣りを済ませてPへ・・その後我が家に一番近いバイパスの降り場まで送ってもらってクマさんに迎えに来てもらいました・・書写山の清々しい空気の中を歩きながらたくさんお喋りしてたくさん歩いて・・姫路に住んでいても一度も訪問したことのない播磨国総社・護国神社まで行くことができて一日たっぷり遊びました友人も初めてのところばかりで凄く喜んでくれたので良かったです・・o(*^▽^*)o~♪歩いた歩数・・13757歩 約4km8.3km でした・・FC2・・はこちらから
2024/01/18
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ホテルにチェクインする前に予約しているおかもと鮮魚店へ・・混むと嫌なので早めの午後5時の予約を取りました・・予定通り5時前に到着・・クマさんお疲れのようですね・・しんどそう・・このときはまだ空いていましたが・・この後からどんどんお客様が入ってきました・・早めにきてて正解・・揚出し白子豆腐・ホタテのグラタン・クジラの竜田揚げ・・海鮮丼・・揚出し白子豆腐・・めっちゃふんわりしてて美味しかったぁ・・グラタンは私が食べたかったから・・お味は普通・・クジラの竜田揚げはお店の方のおすすめ・・まだ車の運転をしないといけないのでアルコールはなしです・・海鮮丼はここの一番の人気メニュー・・ご飯は酢飯でなく白ごはんでした・・とにかくたくさん乗っててもうお腹ぱんぱん・・お店から車手10分の下関グランドホテルに向かいます・・チェックインして荷物をおいてからコンビニにビールを買いに・・おフロアがりにぐっと飲んで爆睡・・2022年11月25日(金)晴れ朝食は今回は洋食に・・結構なボリュームです・・食後・・目的の唐戸市場に・・まずはふぐのお店の雄次商店へ・・今回は真ふぐがなくてとらふぐ・ふぐ刺しを・・長男のところにはとらふぐ・ふぐ刺し・ふぐの唐揚げを発送・・たくさん買い込んで鰻の三代目さんのところに・・長男のところにも鰻をとらふぐと一緒に梱包してもらって送りました・・そうちゃんが鰻大好きなんです・・段取りをしてもらっている間に関あじ・カレイ等を購入・・いつも開いている漁師の奥様のお店がない・・海が荒れてて漁にでられないからだそうです・・何やかやと買っていると馬関街のほうが賑やかないなってきて・・あとはクマさんに任せて私は馬関街の方へ・・9時半スタートの前からすでに並んでいますたくさんの種類が並んでいます・・ここでお店の方にお願いしてパックに入れてもらいますマグロの色んな部位を詰めてもらいました・・海辺には馬関街で購入したお寿司を頬張っている人たちがたくさん・・今回は凄い人出でした・・私たちはさっさと退散・・クマさん運転してて同じ姿勢をしていると足が痛むみたい・・高速に入ってから私が運転を変わりました・・ヤリスクロス・・前について運転していると気がつくと120キロオーバーしてる・・120キロオーバーしても安定した走り・・そんなにスピード感がないんです・・プリウスなら振動して来るのでちょっと怖くなるスピード・・視界も広いし運転し易い車です・・買い替えて大正解・・後半はクマさんが代わってくれました・・帰宅したのは17時半・・お汁だけ作って買ってきたお寿司で夕食・・どれもとっても美味しかったぁ・・o(*^▽^*)o~♪FC2・・はこちらから
2022/12/28
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香山公園をあとにして向かったのは常栄寺 雪舟庭常栄寺は1563年毛利元就によって息子隆元(たかもと)の死を弔うため広島県の吉田郡山城内に建てられました・・しかし関ケ原の戦いに敗れて吉田郡山城を失った毛利氏は長州の萩城へ移されます・・その際に当時山口にあった国清寺(現・洞春寺)に寺を移して合寺し常栄寺としました・・さらに1863年長州藩が萩城から山口城へ移された際に常栄寺も現在の地に移され隆元の夫人・尾崎局(おざきのつぼね)の菩提寺である妙寿寺と合寺したのです・・しかし大正15年には火災によってほとんどが焼失してしまいました・・本尊である千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)や宝物などわずかに搬出されたものだけが焼失を逃れます・・そして昭和8年から27年にかけて再建整備され火災から40年以上もかけて復興されました・・無隠(前庭)境内の入り口を入ってすぐにある前庭は「無隠」と呼ばれています・・常栄寺二十二世である今井任桃(いまいにんとう)老大師がこの寺の新しい住職になった晋山式を記念して平成24年に作られた新しい庭です・・砂利を用いた枯山水で円形に造られていて滝を表す石組みを設置・・入り口である山門から庭を眺めながら歩くと左側には地蔵堂・右側には鐘楼門を見ることができます・・鐘楼門は大正時代の火災を逃れることができたため当時のままの建物です・・無隠という名の由来は今井任桃老大師の室号である「無隠窟」から摂られたものです・・本堂常栄寺の本堂には本尊である千手観音菩薩が安置されています・・もともとは山口市水の上町にあった国清寺の本尊でもあります・・千手観音菩薩は千の手と千の眼を持ち苦しむ人々を見つけ救いの手を差し伸べる大きな慈悲を持っている観音様です・・またそれぞれの手に様々な道具をもっていてあらゆる方法で私たちを救ってくれるとされています・・本堂の中には千手観音像の他に昭和天皇も祀られています・・そしてこの本堂から北側の雪舟庭と南側の南溟庭を眺めることができます・・雪舟庭もともとこの地にあったのは室町時代の有力大名である大内政弘(おおうちまさひろ)の別邸がありました・・そして別邸を立てる際に大内正弘は水墨画で有名な雪舟に庭を造るように命じ寺の北側に雪舟庭が作られました・・常栄寺が移転されてもこの庭はそのまま維持されたのです・・本堂の北側に約900坪の広さがある雪舟庭は中央に大きな池があり・・周回する遊歩道を歩きながら景観の変化を楽しむことができる池泉回遊式の庭園です・・本堂側からは石組みや地形を生かした枯山水の雄大な景色が眺められます・・庭園の周囲は木々に囲まれていて・・西側からは激流の滝を表した石組みを見ることができます・・南溟庭南溟庭は本堂の南側に広がる枯山水の庭園です・・昭和43年に常栄寺二十世である安田天山(やすだてんざん)老大師が重森三玲(しげもりみれい)に命じて造らせた庭です・・重森三玲は作庭家だけでなく日本庭園史の研究の基礎を築いた研究家としても功績を残している人物です・・安田天山は重森三玲に「雪舟より下手な庭を上手に作ってほしい」と依頼したエピソードもあります・・雪舟庭と見比べてみるのも面白いですね・・庭は雪舟が中国王朝の明から帰国まで渡った大海をイメージして造られました・・また北溟が陰の世界や北の暗い海を意味するのに対し南溟は陽の世界や光明の世界を意味しています・・雪舟が航海した旅路を想像しながら眺めてみるのもいいですね・・毘沙門天様が上のほうに・・外に出て登りかけたのですがクマさん・・この登りは止めておくとここで待っててもらうことに・・階段を登っていくと薬師如来様が・・更に登っていくと弘法大師様・・上を見るとまだまだ階段が続いています・・気合を入れて・・毘沙門天様・・毘沙門天様のお顔を拝見しているとここまで登ってきて良かったぁ・・しばらくキリッとしたお顔を眺めていました下に降りて本堂を裏側から・・クマさん・・結構時間がかかってたから登りがきつかったん?クマさん登らなくて正解!!階段ばっかりできつかったわ・・登っていたら足をもっと痛めていたと思う・・山口タウンを堪能して下関に向かいます・・続く・・FC2・・はこちらから
2022/12/17
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保寧山 瑠璃光寺を見学して更に奥に進むと香山墓地があります・・この墓地は萩藩主(毛利本家)の墓所で13代毛利敬親が居城を萩から山口に移して以降の墓地として使用するために造成されたものです明治4年(1871年)に敬親公が山口で亡くなってこの地に葬られ14代毛利元徳夫妻・15代元昭夫妻の墓があります・・うぐいす張りの石畳このあたりで手を叩くか強く足踏みをすると美しい音が返ってきます・・「うぐいす張りの石畳」と呼ばれ親しまれています・・人為的に造られたものではありませんが前方の石垣や石段等に反響して美しい音色を出すものと思われます・・手を叩いたり強く足踏みをしてみるとあら不思議・・反響して美しい音色が聞こえました・・更に奥に進むと洞春寺山口県庁の北に位置する第16番札所の洞春寺・・洞春寺は元々「三本の矢」の訓で有名な毛利元就公の菩提寺として開基されたのが始まりです・・山門や観音堂は国の重要文化財で本尊は聖観音・・本堂洞春寺は毛利元就の菩提寺で元亀3年(1572)に孫の毛利輝元によって現在の広島県安芸高田市に創建されました・・その後毛利氏とともに広島市・萩市・山口市へと移り明治4年(1871)に現在の地に移りました・・現在の地は応永7年(1400)に大内盛見が創建した国清寺があった地です・・観音堂この観音堂は上宇野令滝の観音寺にあったものです・・観音寺は大内義弘の子持盛が豊前国篠崎で戦死した後菩提寺としたところです・・観音寺は後に勝音寺と改まりさらに毛利氏の時代になってからは大通院と称していました・・堂は朽廃が著しかったのですが大正4年に洞春寺境内に移建しました・・桁行三間・梁間三間・一重もこし附入母屋造り銅板葺(修理前こけら葺)の建物です・・永享2年(1430年)建立ということが厨子裏の板銘にあります・・床は禅風の四半敷瓦です・・須弥壇は束の間に格狭間が入っていて純粋な禅宗様式とはいえません・・蹴込板には色彩を施した蓮の彫刻があり室町時代の特徴をよく出しています・・岩屋造り厨子も当初のままと思われます・・現在山門とともに重要文化財となっています・・山門山門は前後に控え柱のある四脚門で切妻造・屋根は檜皮葺です・・建立年代は明らかではありませんが室町時代中期に国清寺の山門として建立されたものと考えられていて昭和29年9月に国の重要文化財に指定されました・・昭和61~62年(1986~1987)の解体修理の際に調査が行われ建立当初の姿に近づける形で復原整備されました・・この際に屋根が修理前の桟瓦葺から建立時の檜皮葺に復原されました・・その後約33年が経過した令和2年に檜皮葺の摩滅や劣化が進行し修理を要する状態となったことから国・県・市の支援のもとで保存修理事業が実施されることとなり令和3年(2021)1月末 保存修理工事が完了しました・・修理工事が完了しても通り抜けはできませんでした・・続くFC2・・はこちらから
2022/12/13
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保寧山 瑠璃光寺中門には保寧山と山号が大きく掲げられています・・中門の両側には袖回廊が巡っています・・中門の左手前に大内弘世の銅像が建っています・・大内氏の始まりは百済国聖明王の第3皇子・琳聖太子と伝えられ推古天皇19年周防国(今の防府市)に着岸し聖徳太子より周防国大内県を賜り多々良を氏としたといわれています・・「大内」と称し始めたのは平安時代で16代盛房の頃で本拠地が「大内」という地名だったことが由来とされています・・長門・周防国の守護に任じられた24代大内弘世は1360年頃・政庁を山口に移し京に模した街づくりを始めたといわれています・・中央に本拠を置き街を縦横に区画・街路名を大路・小路と京風にしました・・一の坂川は京の鴨川に見立てられました・・第31代大内義隆はキリスト教宣教師サビエルに日本で最初に布教の許可を与えましたが重臣陶氏の反乱で自刃に追い込まれ大内氏は断絶・・山口市内には大内氏ゆかりの神社仏閣が数多く残り大内文化が色濃く香る街とされますがその大内文化の始まりが大内弘世ということです・・こちらの右側には最初にご紹介した国宝である五重塔・・中門のすぐ右手前に瑠璃光寺の鎮守石殿があります・・瑠璃光寺は古く吉敷郡仁保の地にあリましたが元禄3年(1690)にこの地へ移ってきました・・この石殿は当寺が仁保にあった頃当山16世重堂専宗和尚が寺の鎮守として慶安3年(1650)に造立したと刻銘からわかります・・石殿の右手に梵鐘の案内があります・・回廊の奥に鐘楼がありそこに吊るされている梵鐘は当寺が仁保から移転する前に瑠璃光寺の末寺であった光明禅寺が廃寺になったときに移ってきたもので天文元年(1532)に鋳造されています・・撞座の蓮華座の中房に花弁を造る作風は珍しいといわれています・・本堂の廊下のところにおいてあった鐘・・これなのかな?生前の罪過を懺悔し・世の為・人の為・善行を尽くすことを約束し「後生ですから、極楽浄土の道へお導き下さい」と後生車を回します・・1回廻す毎に罪過が浄化されるといわれています・・身代わり地蔵・・身代わり地蔵は本人に代わり悪縁・病気・縁談・不幸等に対して御身体を3つに切って身代わりになってくれるというあり難いお地蔵さんです・・さっさと上に上がっていっちゃうクマさんにクマさ~~~ん・・身代わり地蔵様に足の痛みをお願いすればぁ~~~クマさん降りてきて身代わり地蔵様の足を擦ってお願いしていましたあら不思議・・クマさんの足の痛みがなくなった!!なんてことにはなりませんでしたが・・ひどい痛みにならなかったことには感謝ですね・・水かけ地蔵水掛地蔵は水をかけながら心願をお願いすると叶うということでお地蔵さんに水をかけながらお願いをします・・クマさんはぼけないように頭を擦ってお願いしていました本堂本堂入り口の正面に向かって左には「布袋和尚」右には「寶頭廬善者(びんずろぜんじゃ)」像が出迎えてくれます・・本尊は薬師如来・・知足の手水鉢「吾唯足知」は釈迦の最後の説法の中で言われたことばです・・真ん中が口という文字ですがこれは「吾唯足知」でお経の中にある言葉です・・今の自分はこれ以上我欲を求めないで足ることを知るという意味でむやみな贅沢を戒めてます・・我欲を求めない・・足ることを知る・・心に響く言葉です・・以前ブロ友さんが書いてらした言葉を思い出しました私は人を羨まない・・決して人を羨まない・・その方はガンで亡くなってしまったのですが最後まで素晴らしい生き方をなさってました・・その言葉が頭の中に浮かんできて気がつくと手を合わせていました・・続く・・FC2・・はこちらから
2022/12/04
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お店を13時10分に出て向かった先は香山(こうざん)公園・・車で約10分のところにあります・・国宝瑠璃光寺五重塔のある香山公園内には様々な史跡が点在しています・・ゆっくり散策しても1時間30分もあれば十分でした・・画像左下・・クマさん何を見てるのかな??行ってみると目に飛び込んできたのが瑠璃光寺五重塔・・国宝瑠璃光寺五重塔嘉吉2年(1442年)応仁の乱で戦死した大内義弘の菩提を弔うため弟の盛見が供養塔として建立・・上層ほど塔身が細くなるすらりとした立ち姿と桧皮瓦葺き屋根の伸びやかな反りが美しく全国に現存する五重塔のうちで10番目に古くその美しさは日本三名塔の一つに数えられています・・全国に数多い五重塔の中でも桧皮葺きは4基のみで三名塔では唯一の檜皮葺です・・ちなみに日本三名塔の他2基は奈良県の法隆寺と京都府の醍醐寺にある五重の塔です・・裏に回ると階段があったので登ろうかというと・・クマさん足が痛いからここで待ってると・・ずっと同じ姿勢で5時間も車の運転をしていたから痛みが出たみたいです・・10月22日から痛めた足が未だに回復しませんノブにも長男にも高齢になったら一度痛めたら治りが遅くなるから痛めない程度で畑仕事もやめとかなあかんって言われてました・・もしもと思ってカバンの中にロキソニンの湿布を持ってきていて正解!続く・・FC2・・はこちらから
2022/11/30
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篠山城跡に着き車を駐車してからランチのお店探しお蕎麦が食べたいなと思っていたのですがどこのお店も休業・・地元の方らしき方にランチしたいのですが美味しいお店ないですか?と尋ねると・・あそこにあるお店のハンバーガーがとっても美味しいですよ・何度かお店の前を通過してちょこっと覗いてみたりしたのですがなにのお店かわからなかったところでした・・春日神社のとなりにある古民家を使ったハンバーガーショップ[OFF the record]オフザレコード・・スタッフさんに店名の意味を聞くと「オフレコ=秘密にしたいほど素敵な場所になってほしい」そんな思いから名付けたそうです・・丹波市市島町で人気のベーカリー「市島製パン研究所」監修のハンバーガーショップということもあって話題を呼んでいるそうです・・壁面には和菓子の型がたくさん並べています聞いてみると以前は和菓子屋さんだったそうです・・店内はとてもお洒落にリノベーションされていてゆったりと過ごせます・・喉が乾いていたのでコーラ・・ハンバーガーはスタッフさんおすすめのベーコンチーズバーガーとアボカドチーズバーガーをシェアしたいので半分に切っていただきましたベーコンチーズバーガーパンズは表面が少し固めでパリパリ・・噛んだときのパリパリ感がとっても美味しかった・・肉肉しいお肉はステーキでした・・アボカドチーズバーガーこちらもお肉はステーキ・・アボカドとの相性抜群・・クマさんになにか追加する?ってきいたけど食べごたえがあったからお腹いっぱいだと・・ハンバーガーはアボカドチーズバーガーが1280円・・ベーコンチーズバーガーが1380円・・私にしたら結構なお値段でしたが・・大満足!!美味しかったぁ・・o(*^▽^*)o~♪FC2・・はこちらから
2021/11/25
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文保寺をあとにして次に向かったのは高蔵寺大化二年(646年)法道仙人が黒頭峰(くろつぼ)の山腹に一宇を建立されたことにはじまるという古刹・・盛時は七堂伽藍を備え僧坊は二十一を数えましたが明智光秀の丹波攻めによって焼失文禄元年(1952年)現在地に本堂と西蔵坊・光源坊・泉蔵坊が再建されました・・その佇まいは大山八景の一つに「高蔵寺の晩鐘」として数えられているそうです・・山号の宝橋山は法道仙人が高頭峰に金銀珠玉の架け橋を見たことから名づけられたのだといわれています・・現在の本堂は江戸時代はじめに焼失したものを享保六年(1721年)に復元されたものでだそうです・・山門から本堂にかけて寺は春には桜・・夏にはあじさい・秋には紅葉・冬には椿と四季を通じて自然を楽しめるため花の寺として知られているそうです・・平成十三年(2001年)に建立された阿弥陀堂に祀られている阿弥陀如来画像はお借りしました黒頭峯の堂之尾(どのお)と呼ばれた中腹には七堂伽藍二十一ヵ坊の堂宇を誇っていましたが天正年中・明智軍の兵火に遭い消失・・その時氷上柚子村(ゆずむら)の人が雑兵にまぎれて守り奉ったのが現存本尊十一面観世音菩薩と伝えられています・・この十一面観世音菩薩は稽文会・稽首勲両仏師の作で大和(奈良)長谷寺の観音像と同木同作と伝承され普段は秘仏として宮殿(くうでん)の中にお祀りされていますが33年に一度御開扉されるそうです・・インスタ映えのおすすめスポットとかでクマさん(≧∇ノ■ゝハイ、チーズ♪クマさん・・こうしてみるとジジィになったなぁ・・ヾ(≧▽≦)ノギャハハ☆ここから右の道路を上っていきますその前にやすらぎ観音様・・観音水 この水は古えの昔より「黒頭(くろつぼ)の名水」「夏栗の冷水」として知られ観音水として親しまれています・・清くせせらぐ観音水を一滴口にすれば実にその味は神秘の味わいをもたらすものであります。何時の時も岩間から湧きいづる真水は「長寿の水」「美貌の水」として地元では重宝がられており実に自然の恩恵に感謝しているところであります。みなさんも、この”観音水”を口中にして感謝の気持ちと清らかな気分にひたって戴きたいものです。観音水はお手水兼ねていました・・お二人に許可を頂いて(-p■)q☆パシャッパシャ☆階段を登ると本堂・・階段の上からの紅葉がとっても綺麗でした・・大國寺・文保寺・高蔵寺・・もみじ三山めぐり初めての篠山の紅葉をたっぷり楽しみました・・今回のもみじ三山めぐりは各寺入山志納金が300円でしたもみじ三山めぐりをすると最後のお寺で御朱印がいただけます・・私は御朱印には興味がないのですがありがたく頂いてきました・時計を見ると13時過ぎお腹が空いたので・・篠山城跡まで移動してランチにすることに・・続く・・FC2・・はこちらから
2021/11/22
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大國寺をあとにして向かったのは文保寺文保寺楼門元中二年(1385年)鎌倉建長寺の楼門を模して建立され天正年間(1573~92)の明智光秀丹波攻めで消失後現在の楼門は天正末期に再建されたものとされ篠山市内の楼門中最大規模のものだそうです・・重層楼門・三間一戸・八脚門・入母屋造・銅板葺・・初層両端に金剛力士・・肘木に唐様が見られますが全体的には和様を基調としています下層部は改修によって新しくなっていますが上層部に再建時の古い部材が認められます・・味間地区の鎮守社二村神社の参道口です・・ここを抜けて先に進みます・・ここから参道の始まりです・・紅葉には少し早かったようです・・今日あたりは真っ赤でしょうか・・オシャレな石の手水鉢・・水口がちょっと・・惜しい!!本堂への石段・・本堂 桁裄五間・梁間五間・宝形造・銅板葺・一間唐破風向拝付・・江戸中期に再興されました・・645年にインドより来降された法道仙人により孝徳天皇の勅命を受けて法道仙人自作の聖観世音菩薩を安置して開創されたのが起源とされ「聖備山長流寺」と名乗っていました・・その後天暦の兵乱によって荒廃しましたが花園天皇の御代(1308~1318)になって慈覚大師の千手観世音菩薩を比叡山より迎え1317年の伽藍完成を機に年号を賜り文保寺として再興・・以来・御本尊を二体お祀りして今日に伝えていますなで仏様(おびんずる様)病んでいるところ痛いところをなでると取り除く効用があるとされているそです・・お釈迦様の弟子で神通力の持ち主でお釈迦様の「この世にとどまって仏法を守り人間の病を治し多くの人々を救いなさい」との命を守り今に至っても人々を救う菩薩です・・呆けないように頭をしっかりなでてきました鐘楼銀杏がたくさん落ちていました・・静かな山の中にある文保寺・・ゆっくりした時間の流れ・・心が浄化されたような気がします・・o(*^▽^*)o~♪FC2・・はこちらから
2021/11/19
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2021年11月15日(月)晴れクマさんとどこかに紅葉を見に行きたいねと話していて丹波篠山でもみじ三山をしているのをみつけ行ってみることに・・最初に向かったのは大國寺お茶の生産地として知られている味間奥にあるお寺で国指定重要文化財の本堂は禅宗様式(唐様)と和洋式を折衷した建築学上珍しい様式をもった建物です鎌倉時代末期から室町時代初期に建立されたと推定されています14世紀初頭という速い時期の折衷様式を示す事例として極めて重要な建築だそうです・昭和40年代に解体修理され改造されていた部分が原形復元されて現在の姿になっているそうです・・肩に小さなネズミを乗っけている可愛いお地蔵様銀杏の絨毯の上でうたた寝かしら・・なんとも可愛いらしいお顔がいいですねぇ・・o(*^▽^*)o~♪FC2・・はこちらから
2021/11/17
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長府をたっぷり観光したあと・・クマさんが錦帯橋に行ってみたいけど無理かなぁ・・高速を途中でおりると近いよ・・行く?!ということになり錦帯橋に向けて13時20分出発そろそろお腹が空いてきたので美東SAへよったのが14時02分・・早速・・唐戸市場で買ってきた海鮮丼を・・左がクマさんのスペシャル丼中には鰻もはいっててご飯は1.5倍で1200円・・私はウニが大好きなのでこちら・・1000円・・ご飯は酢飯でとっても美味しかったです・・唐戸市場・・【壁】ョω-)+ スゴイヮ…コロナがなんとかなったらまた行きたいところになりました新鮮なお魚いっぱい買って・・美味しい海鮮丼やお寿司をたくさん食べたいぞ・・ここでクマさんの好きな高瀬舟(羊羹)とふぐのちくわ・・山口県萩のブランド牛「見蘭牛」を贅沢に使ったステーキ弁当見蘭牛とは和牛の原種で約2年間かけて大切に育て上げられた全国的に有名な「見島牛」の血を引いている牛だそうです・・お肉は注文してから焼いてくれます・・見蘭牛のステーキ弁当お肉が柔らかくて美味しかったぁ・・(夜に食べました)ノブは下関で買ったふく寿司と見蘭牛ステーキ弁当を美味しそうに平らげてました・・15時49分・・錦帯橋に到着・・日本三名橋のひとつ「錦帯橋」 (きんたいきょう) は日本を代表する木造橋で他に例を見ない特異な姿の五連の反り橋が特徴です・・1922年 (大正11年) には国の名勝に指定されました・・橋の長さは橋面にそって210m・直線で193.3m・・また幅5m・橋台の高さ6.64m・・1600年 (慶長5年) に岩国藩の初代藩主・吉川広家は1608年 (慶長13年) に蛇行した錦川に囲まれた天然の要害の地である横山の山頂に岩国城を築城しました山の上に小さくお城が写ってるのがわかりますか?その麓に居館や上級武士の屋敷を配置中下級武士の屋敷や町屋は錦川対岸の錦見(にしみ)に置き岩国城下町を形成しました・・横山と錦見は川幅約200mの錦川に隔てられていて藩政に橋は必須でした・・第3代藩主・吉川広嘉は暴れ川である錦川に流れない橋を架けることを決意・・橋脚のない甲斐の「猿橋」に着目しますが約30mの猿橋と約200mの錦川では条件が違いすぎ技術の応用は不可能でした・・その後広嘉は明の渡来僧である独立(どくりゅう)が持つ「西湖遊覧誌」にある島づたいに石橋が架かる図をヒントに錦帯橋の構想・・家臣の児玉九郎右衛門に架橋を命じ1673年 (延宝元年) 10月岩国藩の悲願であった錦帯橋が完成・・翌年洪水により一部が流失しましたがその年のうちに敷石を強化し再建・・以来276年の間・・老朽による補修や架け替えは何度も行われたものの流失することはありませんでした・・しかし長年不落を誇った錦帯橋も1950年 (昭和25年) 9月キジア台風による錦川の大増水により惜しくも流失・・その後1953年 (昭和28年) 1月に再建されましたが約50年を経て木部の傷みが全体的に目立つようになったため2001年 (平成13年) 秋より「平成の架け替え」が伝統を受け継ぐ岩国の匠の手により昔ながらの木組みの工法で行われました・・2004年 (平成16年) 3月・・五つの反り橋はアーチの美しさにこだわり生まれ変わりました・反り橋の構造は頑丈な組木の技法により橋上からの圧力で更に強度が増す仕組みとなっています・・経間35mを無脚で渡した技術は現代の橋梁工学からみても非のうちどころがないと言われ300年以上も前の技術力には非常に驚かされると共に畏敬の念を抱きます・・錦川の河原から錦帯橋の裏面を見上げると精緻な組木を巻金と鎹 (かすがい) で補強したダイナミックな構造美を見ることができます・・また水流に対して流線型をした橋台は水の圧力を軽減する効果があり橋台周囲に敷きつめられた敷石が橋台の根元を補強しています錦帯橋の滞在時間は30分ほど・・時間は短かったですが夕方という時間帯もあり観光客も殆どいませんでした16時20分自宅に向けて出発・・19時38分帰宅・・歩いた歩数16651歩・・約11キロ・・一泊二日の山口の旅・・短かったけど充実した旅となりました・・o(*^▽^*)o~♪FC2・・はこちらから
2021/04/23
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横枕少路をぶらぶら歩いていくと乃木神社が・・軍人として広くその名を知られ明治天皇大葬の日に殉死した乃木希典(まれすけ)を文武両道の神として祭り1920年(大正9年)1月30日に創建された神社です・・社殿は台湾・阿里山のヒノキ材を用いて建立されたものだそうです・手水舎コロナの関係で手水はつかえません・・変わりに消毒液が置かれていました・・拝殿前の狛犬さん・・拝殿乃木希典(のぎまれすけ)長府藩士・陸軍大将・・1849年11月11日江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれました・10歳の時長府へ帰り集童場で学びました・・学習院長などを務め祖国愛と忠孝の道義に徹した至誠の人で1912年9月13日明治天皇葬儀の時夫妻で殉死しました・・拝殿内部境内には乃木家が16年間過ごした旧宅が復元されています・・クマさんがなぜ乃木神社に来たかったのか私にはちょっと不思議で聞いてみました色んな意見があると思いますがクマさんが感じる乃木希典・・その前に希典の息子二人を紹介します・・野木希典の長男勝典は南山の戦いの中5月27日にロシア軍の銃弾が腸部に直撃し向こう側が丸見えになるほどの風穴があき出血多量で亡くなりました次男保典は203高地攻略ともいわれる戦いでロシア軍の砲弾を至近距離で受けその弾みで岸壁から滑落し岩場に頭部が激突し戦死・・保典の戦死を知った希典は「よく戦死してくれた・これで世間に申し訳がたつ」と・・息子や夫を戦地に取られ亡くしてしまった世間のことを思った言葉を発しました・・指揮官の殆どの人達は自分の身内を危険なところには行かせなかったように思います乃木希典は戦争によって多くの犠牲者をだしたということに対して責任を感じていたのではないかと思います・・野木希典は明治天皇の崩御後妻と共に自殺し殉死・・西南戦争時に連隊旗を奪われたこと日露戦争で数多くの犠牲者をだしてしまったことと遺言に・・指揮官としての能力はなかったと思います・・が・・希典の人間性は大変良かったので明治天皇に愛されていました・・だから殉死したのではないかと思います・・尊皇攘夷を旗印としながら明治維新を成し遂げた人たちの意志がどこまで尊皇攘夷であったのか疑問に感じていますその一つとして外人嫌いの孝明天皇を毒殺したといわれています孝明天皇は慶応2年(1866年)12月25日に急死・・死因は痘瘡と発表されましたが崩御の直後から毒殺の風評がたちました昭和15年医学博士佐伯理一郎が孝明天皇の死は岩倉具視による毒殺との見解を述べました・・幕末から明治維新にかけて志士たちの間で一世を風靡した「尊王攘夷(そんのうじょうい)」「尊王」すなわち君主ないし天皇を尊び「攘夷」すなわち異人つまり外国人を追い払えというものです このような考え方を持つ人間たちがのちに倒幕へと傾きそして明治維新の中心人物になっていったのです・・乃木希典はその人柄が天皇に気に入られ愛された人本来は教育関係に進むべき人であって軍人になるべき人ではなかったと思う・・そんな人間性豊かな野木希典を祀った乃木神社にお参りしたかった・・そう話してくれました私には難しくて理解しきれませんが・・クマさんが乃木将軍でなく乃木希典をお参りしたいと言った気持ちが少し理解できたと思います乃木神社をあとにして向かったのは忌宮神社御斎神事とかで12月7日の夕刻より15日の早暁まで境内は二重のしめ縄を張り巡らせ諸人の参入を禁じ神職は境内にて斎戒沐浴(心身を清め)忌(斎)籠りし古式に定められた神事を行いますということで中に入ることはできませんでした長門国二の宮で仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)神功皇后(じんぐうこうごう)が西国平定のおりここに豊浦宮(とよらのみや)を建て7年間滞在したといわれています車を止めた観光案内所に戻ります壇具川の鴨さんと鯉に別れを告げて次に移動です・・続く・・FC2・・はこちらから
2021/04/13
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毛利邸を見学したあとクマさんが乃木大将の乃木神社へ行きたいと・・古江少路(ふるえしょうじ)どっしりとした塗塀は合戦に備えた防壁でほとんどが当時のまま現存しています・・敵を混乱させるためわざと迷路のような組み方にした小道もあります・・古江少路に面したところにあるのが菅家長屋門(かんけながやもん)代々長府藩の藩医と侍講職を務めた菅家の長屋門は武家の屋敷構えとは趣が異なりますが建築当時の姿を完全に残す貴重な建物です・・菅家長屋門・練塀下関市指定有形文化財(昭和五十一年三月十六日指定)菅家は 長府藩祖毛利秀元に京都より招かれ 待医兼待講職を務めた格式のある家柄である 長屋門は門戸の間口が武家のそれよりもわずかに広く造られ また長屋門を中心に左右に延びた石垣の上の練塀は長府城下町の年輪を象徴する代表的なものであり 伏せ瓦の下に施された格子窓は 城下町の遺構をして貴重なものである。代々藩中医家随一の名門にふさわしい構えを見せ 武家の屋敷構えと比較し その趣を異にしている 城下町の風情が残る石畳の道を目一杯楽しみながら乃木神社へ向かいます・・続く・・FC2・・はこちらから
2021/04/01
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功山寺をあとにして毛利邸にむかいます昔の趣をのこした路地・・ツワブキの黄色がいいですね・・長府毛利邸長府毛利家第14代当主・毛利元敏公により明治36年(1903)に完成した邸宅です・・毛利秀元公銅像長府藩の初代藩主で毛利元就の4男・・穂田元清の次男として生まれましたその後毛利輝元の養子となり豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には毛利輝元名代として朝鮮出兵に渡って活躍しました秀元の秀は秀吉の秀をもらったそうです晩年は江戸に住み徳川三代将軍・家光の御伽衆を勤めました御伽衆とは主君のそば近くにあって話相手をする役です母屋・・明治35年には明治天皇がご宿泊され・・一部の部屋は当時のまま残されており往時が偲ばれます・・武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園の妙は新緑や紅葉の季節に一段と映えしっとりとした風情を感じさせてくれます・・静かな佇まいの母屋・・四季折々の表情を魅せる純和風の庭園・・母屋に生ける季節の山野草・・観光客は他にいなかったのでクマさんと二人でゆっくり内部を見学しました受付のかたが今日は甘酒を飲んで頂くと普段ついていない”ゆきごろも”が特別につきますよ・・中々手に入らないお菓子ですからどうですか・・ちょっと疲れていたので甘酒をいただくことに茶菓子は”ゆきごろも”松琴堂さんの阿わ雪を薄焼きのカステラで巻き黒胡麻入りのお砂糖でうすーくお化粧した半生菓子・・ほんわり・やんわり・ほわほわ・さふさふ・・・・・その独特の口あたり・・伊藤博文公が愛し命名した菓子「あわゆき」とっても美味しかったので売ってるお店をお聞きしたのですがいつも置いてるわけでないのであるといいのですが・・と教えて下さいました・・お店に行くと入ってないんですよと・・阿王雪(あわゆき)もありませんでした・・ほんとに残念・・続く・・FC2・・はこちらから
2021/03/27
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笑山寺をあとにして功山寺へ向かいます壇具川沿いに石畳を200mほど歩くと正面に鬱蒼と茂った木立の中に古びた石段とひなびた平門が目に入ります・・功山寺総門です・・この地図を見ていただくとよくわかりますね功山寺総門功山寺の総門は木造・瓦葺き・間口4.4mですが仏殿の建立につづいて古く室町時代の建造物と考えられ平成16年6月15日に国の登録文化財(再現することが容易でないもの)に指定・・総門の特徴は本柱を棟木際までのばす禅宗様の四脚門で国宝仏殿のある伽藍東側正面にあります・・円形柱座をもつ礫石に円柱を立て貫で固め桁行方向の頭貫位置には舟肘木と軒桁を柱頭に入れ垂木を受ける・・軒廻りは大幅に改変されましたが輪郭は室町中期の形式を伝えています総門の正面には「海右第一峯」という扁額がかけられています総門をくぐるとそこは別世界・・足音は土に吸われ時が止まったかのように錯覚します・・参道から見上げる山門の壮麗さ・・山門を通して見る国宝の仏殿の微妙な曲線・・毛利勢に追われて無念の最後をとげた大内義長・三条実美ら五卿の潜居や高杉晋作の挙兵・・幾度かの動乱を見守って来た仏たちのつぶやきが聞こえてきそうです・・仏像を安置し礼拝する仏殿は柱の墨書により元応2年(1320年)の建立と判明し国宝に・・入母屋造(いりもやづくり)檜皮葺き(ひわだぶき)で禅宗様仏殿として貴重な存在です・・一見すると2階建てに見えますが屋根の1層目は裳階(もこし)と呼ばれる庇(ひさし)です・・柱に「此堂元応二年卯月五日柱立」という墨書があり建築年が元応2年(1320年)と確定している貴重な例で建築年代のはっきりしている禅宗様建築ではこの仏殿が日本最古のものだそうです・・一時期瓦屋根になっていましたが大正7年の解体修理で檜皮葺きに復元されました・・上枠を火炎形にしたベルのような形の禅宗様に典型的な火灯窓(かとうまど=花頭窓)が付いていることにも注目・・同じ禅宗様の円覚寺舎利殿などもこの火灯窓(花頭窓)です・・屋根に強い反りがあるのも鎌倉時代に隆盛した禅宗様の特徴で裳階屋根の反りは小さいです・・続く・・FC2・・はこちらから
2021/03/04
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壇具川沿いに散策・・少し残っている紅葉を楽しみながらしばらく登っていくと笑山寺・・階段の上に山門がみえます・・階段を登り山門をくぐると正面に本堂が・・本尊は如意観音・・斜めに伸びる参道が珍しいです・・右に動物供養塔・・左に石塔が・・笑山寺は曹洞宗の寺として元和年間(1615~23)に長府初代藩主毛利秀元が廃寺潮音寺をこの地に移したのが開基と伝えられています・・承応元年(1652)秀元の父穂田元清の霊位を移しその法名「洞霊寺笑山常快」にちなんで笑山寺と称しました・・境内には二代光広と七代師就の五輪塔があるほか1975年に下関市指定文化財となった「十三重石塔」が建っています十三重石塔(下関市指定有形文化財)高さ3.28mの花崗岩で作られていて上部の相輪が消失し他の宝珠が乗せられています・・一部に若干の欠損が見られますが軒部分の反りは優美で古い層塔の少ない山口県内では貴重な石塔です・・造作は鎌倉時代後期のころと見られています・・下部の重軸部に四方仏の梵字が彫られています・・瀧川辨三君彰功碑日本のマッチ王と称された瀧川辨三の顕彰碑・・長府藩士瀧川清の二男として生まれ乃木希典や桂弥一らと共に集童場で学んでいます・・長府報国隊に入隊し兄と共に北越戦争に参戦・・兄の瀧川六郎は長岡で戦死しました・・維新後は神戸でマッチ製造会社を営み販路を拡大して「日本のマッチ王」の異名を得ます・・実業家として関西の多数の企業の取締役を歴任し滝川中学校・高等学校も設立・・神戸市会議員・貴族院多額納税者議員も務めました・・大正期に荒廃していた笑山寺を復興し・・この縁から顕彰碑が建てられています・・題字は渋沢栄一・撰文は桂弥一・・ 長府藩二代光広・七代師就(もろたか)の五輪塔墓地の一角に西日本でも有数の大きさと言われる五輪塔が並んでいます・・画像右が二代藩主毛利光広の五輪塔・・初代秀元は享年72歳と長生きしましたが・・その子光広は家督相続の3年後に38歳で病没しています・・彼によってこの寺は笑山寺と改称されましたがここを墓所としたのはその縁からだそうです・・画像左が七代藩主師就の五輪塔・・ 享保10(1725)年7月28日のこと松本藩(長野県)6代藩主の「水野忠恒(ただつね)」は江戸城にて8代将軍徳川吉宗に拝謁する予定でした自分の婚儀の報告のためだとかでなんともめでたい話だったようです・・将軍に報告も済ませ無事に拝謁を終えた水野忠恒・・さあ退出というところで松の廊下に差し掛かったときのこと突然・理由もなく・・次に拝謁する長府藩(山口県)藩主の五男・毛利師就(もうりもろなり)とすれ違いざまいきなり相手を斬り付けたのです・・慌てる重臣たち・・斬り付けられた毛利師就はというとわけも分からないまま彼はなんとか刀を抜かずに刀の鞘(さや)で応戦・・忠恒はその場で幕臣らに取り押さえられたそうです・・当時江戸城での刃傷事件はご法度・・そんな大それた事件を起こすとは・・水野忠恒にはよほどの恨みがあったのだろうと・・ところが彼らは全く面識がなかったそうです・・自分の領地が取り上げられ師就に与えられると思いこみ切りつけたと供述しましたが実際にはそのような事実は無く忠恒はその日のうちに川越藩主に預けられることに・・その後松本藩の水野家に下った処分は「改易(かいえき)」・・武士の身分が剥奪され家禄・屋敷・領地が没収される非常に重い処分だったそうです・・川越藩の秋元喬房のもとに預けられた後叔父の水野忠穀の浜町の屋敷に移されて蟄居・・享年39歳で没・・師就は鞘に入ったままの刀で応戦したのでお咎めなしだったとか・・この事件が起こった松の廊下では24年前の元禄14年(1701年)に忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の刃傷事件も起こっています・・長府藩は赤穂事件の際四十七士のうちの十士を預かっていました・・同じく十七士を預かった熊本藩が彼らを厚遇したのに比べ普通の罪人のように扱って評判を落としたそうですが後に待遇を改善したそうです・・この笑山寺にある墓は遺骨の入っていない詣り墓で埋葬されたのは江戸の泉岳寺・・奇しくも浅野内匠頭及び四十七士と同じ場所でした・・調べているとこんな話が・・栗崎 道有(くりさき どうう)江戸時代中期の蘭学医・・外科医・栗崎正家の子として誕生・・寛文4年(1664年)に長崎で生まれたとされていますが生年については万治3年(1660年)寛文元年(1661年)とする説もあるそうです・・祖父・栗崎道喜から続く南蛮流の外科医術を取得しその後オランダ流の外科を習得・・元禄4年(1691年)江戸へ出て江戸幕府の官医と・・元禄14年(1701年)赤穂藩主・浅野長矩が江戸城内で吉良義央を斬りつけた際に義央の治療を行いまた元禄15年(1702年)に義央が赤穂浪士に斬られた際には首と胴体の縫合を行ったと・・享保10年(1725年)毛利師就が水野忠恒に斬りつけられた事件の際にも師就の治療に当たったそうです・・続く・・FC2・・はこちらから
2021/02/25
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10時40分・・ホテルをチェックアウトして出発まずノブの駅弁をゲットしに下関駅へ向かいますiPhoneで下関の駅弁と検索するとふく寿司がヒット駅の中のお土産物屋さんを探しても見つかりません・・お店の方に聞くと駅弁ってないですねぇ・・・・前のスーパーにもしかしたら置いてるかもしれません・・スーパーでやっと見つけたのがこれふく寿司・・この一種類だけで残り2個でした・・あとは普通のお弁当ばかり・・ぎっしり錦糸玉子の上に右から時計回りにふぐの切り身・・わかめ中華風・うにくらげ・皮・海老・・その下は椎茸の煮付け・とびこ・・これから目的の長府へ向かいますホテルで長府には駐車場がないから車をとめるなら観光会館へとめて徒歩で観光するといいと聞いていました途中・ガソリン補給して観光会館を聞くとそこからすぐ先のところでした駅から車で10分ほどで到着・・観光協会のマップ・・ココから徒歩での観光となります壇具川・・長府の歴史とともに流れている川で桜並木に縁取られ初夏はホタルが舞うそうです・・壇具川の名称は神功皇后が三韓鎮治のとき この豊浦の地(長府)で祭壇を築き天神地祇を祭りその祭壇に用いた道具を流した川ということからその名が付いたと伝えられています・・長府藩侍屋敷長屋(ちょうふはんさむらいやしきながや)上級藩士の屋敷の趣が残る長屋形式の建物で歴史を感じさせる重厚な佇まいの長府藩ゆかりの武家屋敷・・長屋は庶民の住いの建物と思っていたので家老職の分家の建物だったとは以外でした・・上級武士の家屋遺構を残しているとはいっても違和感が・・土塀の右の説明をアップしたものですこの長屋は長府藩家老職であった西家の分家(長府藩御馬廻役 二二〇石)の本門に付属していたものをこの地に移設し整備した建築年代は未詳であるが建築規模や格子窓の形態から江戸後期の建築物と推測される構造は桁行八間、梁間二間、単層、屋根入母屋造り桟瓦葺きである。特徴として屋根の形態があげられる。すなわち化粧垂木と野垂木を使い軒下勾配をゆるく、屋根面に反りをつけた社寺建築の技法がみられる。後年、表の建具まわり内部の一部を改造しているが、柱・梁・小屋組などは当初の材料を残している。特に共待ちとして使われた四畳。八畳の間や土間は原型を留めており、江戸後期の上級武家長屋の遺構を残している。長府藩侍屋敷長屋の庭にあった種田山頭火の詩碑・・ 「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆふべもよろし」この詩は山頭火が長府の近木圭之介の家で書いたものだそうです近木圭之介は自由律俳句の俳人で画家・・山頭火と親交があり山頭火の後姿を写した有名な写真の撮影者です・・山頭火はよく圭之介の家を訪ねていたそうでこの碑も圭之介が設計したものだそうです 山頭火と圭之介は30歳の歳の差があり・・山頭火は昭和15年(1940年)に58歳で死去・・圭之介は平成21年(2009年)に97歳で亡くなりました・・長府藩侍屋敷長屋は長府藩の家老・西家の分家の本門にあった建物です・・保存のために500mほど南から現在の場所に移築されたそうです中央に出入り口があり一見すると長屋風ですが重厚な構造や仲間部屋格子窓(ちゅうげんべやこうしまど)と呼ばれる格子窓の形態などは上級藩士の屋敷の趣を色濃く伝えています・・建築年代はわかりませんが建築規模や格子窓の形態から江戸後期の建築物と推測されます・・構造は桁行八間・梁間二間・単層・屋根入母屋造り桟瓦葺きです・・特徴として屋根の形態があげられます・・化粧垂木と野垂木を使い軒下勾配をゆるく屋根面に反りをつけた社寺建築の技法がみられます・・続く・・FC2・・はこちらから
2021/02/19
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まずは唐戸市場へ向かいます・・下関漁港や同市の特牛(こっとい)漁港長門市の仙崎漁港など県内各地で水揚げされた多種多彩な魚介が集まるのが「唐戸市場」唐戸市場は一般向けにも直接小売りが実施される全国でも珍しい形態の市場で古くから“関門の台所”として親しまれてるそうです8時40分・唐戸市場着・・セリもすでに終わってて市場内はガランとしています・・観光客もほとんどいません・・目的のトラ河豚を物色・・このお店は発送料金込みのセットのお品も扱っています欲しい物だけ購入もできますがトロ箱は別料金・・ここでは見るだけにして市場内を見て回ることにo(゜ー゜*o)=3=3ウロウロε=ε=(o*゜ー゜)o市場内をうろうろしていると朝仕入れたお魚をその場で捌いて売っているおばさんのお店が・・新鮮な鮟鱇が並んでいます・お鍋にすぐ使えるように捌いてあげるよと・・目の前で綺麗にさばいてくれました・・アカムツもフライにすると美味しいと・・トロ箱も無料で用意してくださいました・・鮟鱇・・1300円・・アカムツ・・500円その向かいのお店で特大のうなぎの蒲焼発見・・鹿児島産の養殖ですが一匹・1800円・・画像の上と下見比べてください・・上がふるさと納税で送ってきた鹿児島産養殖鰻蒲焼き大・・それを遥かに上回る大きさで1800円!!めちゃ安い!!新鮮わかめもゲットして・・さっと湯がいて一回分ずつ冷凍するといいと・・わかめこれ全部で500円・・10時過ぎになると・・唐戸市場で観光客に絶大な支持を集めている毎週金・土・日曜と祝日に限定して開かれている「活きいき馬関街」(「馬関」とは昔の下関の通称)が・・下関の新鮮魚介を美味しく味わってもらおうと始まったイベントで下関観光の目玉となっています・・その最大の魅力はなんといってもにぎり寿司の食べ歩き・・「ご当地」「旬」「定番」ネタなど多種多彩な寿司をイベントエリア内に並ぶ店ごとに1貫から購入できます・・私達が行ったのは金曜日だったので出店数は5店舗くらいでした・・朝食をたっぷり食べていた私達はお昼ごはん用に丼を購入・・握り寿司はパックをもらって好きなのを入れてもらいそれを精算してもらいます・・最初に覗いたトラ河豚のお店に戻ってトラフグとテッサを購入・・さっき鮟鱇を入れてもらったトラ箱に一緒に入れてもらいました・・冷凍保存したトラ河豚の解凍の仕方などを丁寧に説明してくださった陽気で明るいお店の方と・・(≧∇ノ■ゝハイ、チーズ♪GO TO トラベルでいただいた地域振興券が使えたのはこのお店だけでしたテッサ1000円・・トラ河豚二匹で5000円・・ここで6000円分地域振興券で購入・・持ち帰ったお魚はどれもとっても美味しくて機会があったらまた行きたいねとクマさんと・・あんなに新鮮で安くて美味しいお魚・・何年ぶりだろう・・ホテルのパーキングに行き・・購入したお魚をトランクに入れてからホテルの喫茶室で頂いていた無料ドリンク券でコーヒー・・ちょっと一息ついてから10時40分にチェックアウト・・次の目的地へ向かって出発です・・続く・・FC2・・はこちらから
2021/02/07
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2020年12月11日(金)晴れAM6時30分起床・・テラスにでると東の空が薄っすらと色づいてきて・・唐戸市場に電気が灯っています海が太陽に照らされて黄金色に・・朝食は7時30分からレストラン「ブルーフォンセ」洋食か和食を選択できます・・私達は和食に・・コーヒー・紅茶・ソフトドリンクはセルフ・・味噌汁やお醤油は甘て・・九州の影響が強いらしいです・・薄味の食事は私達の口にあって美味しかったぁ・・朝からお腹いっぱい・・はい・・もちろん完食です・・フキフキッ( ̄ーΑ ̄)ごちそうさまコーヒーは紙コップも用意されていてお部屋に持ち帰りましたチェックアウトは12時・・その前に唐戸市場へ向かいます・・ロビーにはクリスマスツリー人が殆どいなくてガランとしてます・・右の喫茶コーナーコロナの影響で営業時間が短縮されています・・10時~17時までとなっています・・昨夜・・戻ってきたときコーヒーを飲みたかったのですが飲めなかった・・続く・・FC2・・はこちらから
2021/01/31
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美味しいとらふぐを満喫したあとは腹ごなしに下関まで船で向かうことに・・チケットはホテルからのサービス・・出港時間までまだ少しあったので(-p■)q☆パシャッパシャ☆唐戸1号桟橋発・・19時30分5分前に出港の案内がされます・・乗船して上のデッキに座って夜景を堪能・・風が冷たくて寒かったけど約10分の船を楽しみました・・この船は通勤通学にも使われているそうです・・車だと30分かかるところが船だと10分・・便利ですね・・桟橋を降りるとすぐに目の前に大正時代のレトロな姿を復活した門司港駅が・・100年の時を超え大正ロマンあふれる門司港駅が復活!駅としては日本で初めて国の重要文化財に指定された門司港駅・老朽化への対応や耐震補強を行うため2012年に保存修理工事が始まり翌2013年から駅舎を素屋根(囲い)で覆っての解体・修理・補強・組み立て工事が行われました約6年の歳月を経たその工事も2019年に完了・・大正時代の創建時の姿が甦りました・・現役の駅舎で国の重要文化財に指定されているのは門司港駅と東京駅の2つだけです・・風格ある外観とレトロな駅舎内・・駅の通りを隔てた真ん前にあるのは旧門司三井倶楽部大正十年に三井物産の社交倶楽部として作られました修復を経て門司港駅前に移築・・建物はハーフティンバー様式と呼ばれるヨーロッパ伝統の木造建築工法で作られたもので木造の骨組みの間を漆喰やレンガ・石などを使って埋めて壁が作られ木造の骨組みがそのまま外観デザインのアクセントに・・アインシュタイン博士が全国を講演する為に来日した際に三井倶楽部に宿泊したそうです・・博士が宿泊した部屋や門司出身の女流作家「林芙美子記念室」があります門司港駅と同様に国の重要文化財に指定されています・・入館は9時~17時までで残念ながら内部を見学することはできませんでした旧大阪商船かつて目の前が海で外国航路のターミナルとして利用されていました・・大正6年大阪商船門司支店として建築された木造洋風2階建・・オレンジ色のタイルを張った外観はヨーロッパで起こった「ゼツェシオン風」でまとめられ頂部の大きなアーチ型の窓とその上部の塔屋が印象的です・・1階は「わたせせいぞうギャラリー」「門司港デザインハウス」「カフェ・マチエール」があり2階は海峡ロマンホールとなっているそうです・・入館時間は9時~17時・・内部見学は駄目でした・・桟橋から見た夜景・・旧大阪商船の塔屋が右にみえます・・門司港発・・20時40分の船で戻ることに・・門司港からみた下関港・・ホテルに戻り冷えた身体をお風呂で温めて爆睡・・歩いた歩数・・10038歩・約6km・・FC2・・はこちらから
2021/01/24
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角島大橋をあとにしたのは16時28分ここから車で約1時間30分の下関にある今夜のお宿へ向かって出発です・・下関グランドホテル・・お部屋は7階の海側です・・お部屋の写真を取り忘れたのでHPから拝借しました・・バス・洗面・トイレがセパレートの海側ツイン・・お風呂も大きめでゆっくり入ることができました・・テラスから見える夜景は素晴らしく・・ハイカラット横丁の大観覧車のライトアップがひときわ目を引きます眼下には船着き場が・・この船着き場から門司港まで行けるそうです・・フロントでチケットを頂いたので食後門司港まで行くことに・・カモンワーフの隣が唐戸市場・・唐戸市場はすぐそこ・・夕食は18時30分からレストラン「花瀬」で・・席と席の間はかなり広くとっていました飲み物一杯がサービスでつくそうで・・生ビールを・・画像左上からふく白子豆腐・季節の前菜盛り合わせ・・サービスの生ビール・とらふく薄造り・・ふく一夜干し・とらふくのしゃぶしゃぶ・・とらふく白子入茶碗蒸し・・とらふくと安岡葱の天ぷら・・とらふくの握り寿司・吸い物・・水菓子・・お料理を持ってくるタイミングが素晴らしい・・私達の食事の進み具合をしっかりみてらっしゃいます・・一つを食べ終わる頃に次のお料理が運ばれてきます・・てんぷらも揚げたてでサクサクでした・・とらふぐが目的でやってきた下関大満足の食事でした・・フキフキッ( ̄ーΑ ̄)ごちそうさまいよいよコロナがこちら方面でも忍びよってきましたさっきクマさんがウォーキングから戻ってきて・・龍野で60数名・・太子で25名くらいの感染者がでていると聞いてきました徒歩圏内の喫茶店でも数名の感染者そのうちのお一人が亡くなったと・・一昨日はいつも使っているイオンモール・・美容院や・JTB・レストラン・おまんじゅうやさんなどで出ていると聞きました・・どんどん忍び寄ってくるコロナ・・病院の体制もどうなっているのかわかりませんとにかく必要な時以外は外出を控えています・・続く・・FC2・・はこちらから
2021/01/16
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瓦そばを食べたあと向かったのは車で約1時間の元乃隅稲成神社(もとのすみのいなりじんじゃ)・・15時03分・・元乃隅稲成神社着すごく空いてて車もすぐに止めれました上の鳥居から入ろうとすると駐車場の男性からここからは入れません・・下に降りて少し登ると階段がありますから・・で・・そのとおりに進むと・・*゚Д゚)*゚д゚)*゚Д゚)エエエエェェェΣ(=゜ω゜=;) マジ!?まさかの参拝休止!! 元乃隅稲成神社(もとのすみのいなりじんじゃ)は昭和30年に地域の網元であった岡村斉(おかむらひとし)さんの枕元に現れた白狐のお告げにより建立・・商売繁盛・大漁・海上安全は元より良縁・子宝・開運厄除、・円満・交通安全・学業成就などのご利益があるといわれています昭和62年から10年かけて奉納された123基の鳥居が龍宮の潮吹側から100m以上にわたって並ぶ景色は圧巻!神社敷地内にある高さ約6mの大鳥居の上部には賽銭箱が設置されていて賽銭を投げ入れることができたら願い事が叶うと言われています・・12月1日から参拝禁止・・全然密になってないのになぁ・・残念・・でも・・数人の男女が中に入って作業してる・・聞いてみると年明けのライトアップの準備で今日・試しに点灯するのでその準備をしている方たちでした今日来られたのはある意味ラッキーですよ・・暗くなると電気が点灯して綺麗ですから・・と言われても・・時間が・・これが一番マシな画像です・・下に降りる階段の途中で撮ったところです右奥に見えるいわばの向こう側にあるのが「龍宮の潮ふき」・・どこから潮が吹くのかわからなかったので知っている方に教えて頂いたのですが○で囲んだ穴のところから吹くそうです・・小高い丘のようになった断崖へ上るとそこには荒々しい日本海がダイナミックに開けている・・はずですが・・この日は穏やかな海で「竜宮の潮ふき」はみれませんでした・・この断崖は人類黎明期の玄武岩で出来ていて龍宮とよばれています・・で・・「竜宮の潮ふき」・・海食崖の特殊な地形が生み出した稀有な現象で・・海食崖の下部に縦約1m・幅約20cmほどの洞穴が空いていてそこに波が入るたびに圧縮された洞内の空気が海水を噴出するそうです・・この奇観は古くは龍神の為せる技として広く里人の間に信仰されとりわけ干ばつの際には雨乞いのため多くの人が集まったと・・「元乃隅稲成(もとのすみのいなり)神社」は昭和30年に島根県にある「太鼓谷稲成神社」が派生し建てられた本州最西北の稲荷神社です・・日本には全国で3万社以上の稲荷神社がありますがこの「稲成」という漢字が使われている神社は太鼓谷稲成とこの元乃隅稲成神社だけです・・「成」の字は〝成就〟に由来していて様々な願いが叶うといった意味が込められているのだそうですぐるっと見て回って4時頃にPに戻るとPの男性がまだ人が残っとおがな・・と不満げにぼそっと呟いた・・密にならない外にある元乃隅稲成神社が参拝禁止で狭くて密になってるお土産物屋さんが営業してる・・ちょっと覗いてみようかなと思ったけどあまりに狭くて人が密になってたのでやめました・・そのお土産物屋さんも戻った4時にはすでに閉店・・Pの男性(おじさん)は観光客がまだいることに不満をもらしてるし開館時間 5:30~17:30・・となってますけど・・なんだかなぁ・・・感じ悪!続く・・FC2・・はこちらから
2020/12/20
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2020年12月10日(木)晴れ本場のふぐが食べたくて山口へ・・Go To キャンペーンをつかって行ってきました・・予約を入れたのはコロナが激増するまえ・・キャンセルするかどうするかかなり悩んで山口のコロナ感染者が多くないのをみて行ってきました午前8時過ぎ出発・・山陽道・中国道を通り約5時間30分・・まずは有名な瓦そばを食べに・・午後13時22分着・・元祖 瓦そば たかせ 川棚南本店着・・川棚温泉名物「瓦そば」発祥の店です・・明治十年・西南の役において熊本城を囲む薩軍の兵士たちは長い野戦の合間に瓦を用いて野草・肉などを焼いて食べたという古老の話にヒントを得て創立者 高瀬慎一が数十年を経過した日本瓦を用い独自の製法にて開発したそうです・・お昼の時間を過ぎていたので空いていました・・京都の高級宇治茶を使用した茶そばを熱々にした瓦にのせて牛肉・錦糸卵・ねぎ・海苔・レモン・もみじおろしが乗ってますポットに入った熱々の秘伝のつゆを器にいれて・・もみじおろしとレモンも絞っていれ・・茶そばをつゆにつけて食べます・・やわらかな茹で加減のそばは瓦に接した部分がおこげのようにパリパリに焼けてとっても香ばしくて美味しかったです・・このお店でもう一つ有名なのがうな茶・・鹿児島産のうなぎの蒲焼を使ったうな茶・・まずはそのままで・・ヾ(@⌒¬⌒@)ノ ウマヒィ次にお茶を注いでお茶漬けに・・わさび・のり・ネギなどを入れて・・さっぱりしてていくらでも食べれます・・が・・遅いお昼だったので夕食が食べれなくなるのを恐れクマさんとシェアーしていただきました創業当時の実際の瓦だそうです・・民家の解いた瓦を譲ってもらっていたそうですが今は特注で瓦屋さんに焼いていただいているそうです店内にはお土産物屋さんも併設されていました・・瓦そばたかせさんは本店・南本店・東本店と3店舗が隣接して建っていました・・本店は土日の営業だそうで今回私達が行ったのは南本店でした・・土日ともなるとお昼時は満席で待ち時間があるそうです・・続く・・FC2・・はこちらから
2020/12/12
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2020年11月21日(土)晴れクマさんが養父神社の紅葉が綺麗やと・・テレビで放送されたのを見たらしい・・朝になって急にお天気いいし養父神社に行こか・・ヾ( ´( ェ )`)ノ フッ私は基本・クマさんには逆らいません・・本音は土曜日やし・人が多いと嫌やなぁ・・・( ̄。 ̄ )ボソ...すぐにおにぎり作って温かいコーヒーと冷たいお茶を用意・・ここから播但道をつかって2時間位・・カメラをかまえていると郵便屋さんが・・紅葉はちょっと遅かったけど紅葉の絨毯が真っ赤・・観光客は思ったほど多くなくてε-(´∀`*)ホッゆっくり境内を見て回ると入ったところは裏側で・・正面にでました天平9年(737)にはすでに古文書に名を残し但馬(たじま)5社のひとつに数えられる神社・・古くから「養父の明神(みょうじん)さん」と呼ばれ農業の神として地元の人に親しまれてきました・・また農耕に必要な牛の売買が養父神社の管理下にあったことから牛の神様もお祀りしています・・土地の人からの信仰があつい田舎の神社らしく境内はひっそりとした静けさに満ちています・・全体像が撮れなかったのでパンフレットから画像をお借りしました狛犬と狼像が見守っています・・養父神社の拝殿の前に尻尾を高く上げた狼の石像が・・口を開けているのが雌で閉じているのが雄・・日本狼は明治38年(1905)に絶滅しましたが養父神社では石像として残っています田畑を荒らす猪や鹿から作物を守る益獣として狼を守り神とする伝承が400年以上も昔から伝わっていますそろそろ戻ろうとしたときカメラを構えた男性が・・何気なく声をかけると話が弾んで・・カメラの設定を教えていただきました・・設定を変えて撮ったのがこの画像です・・このあと奥にある神の滝の撮り方も教えていただくことに神の滝・・超広角レンズを標準レンズに変えてなるべく近づき撮ったのがこれ・・とにかく撮ること・・できればカメラに詳しい方と一緒に撮るのが一番だとすごく楽しい時間になりました先に行ってしまったクマさん・・慌てて追いかけて行ったら・・何してたん?って・・これこれで教えてもらってたと説明すると良かったねと・・若い巫女さん・・(≧∇ノ■ゝハイ、チーズ♪これで今年の紅葉めぐりは終わりです今回つかったのはCanonの・eos kissx9・歩いた歩数・・7020歩・・約5km・・σ(*´∀`*)ニコッ☆FC2・・はこちらから
2020/12/03
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音水渓谷の続きです・・音水渓谷をあとにして自宅に戻る途中にある最上山公園(もみじ山)へ・・音水渓谷ではほとんど人にであうことがなかったのですがこちらは結構な観光客・・ちょっとびっくり旅行情報誌「じゃらん」11月号の紅葉ランキングで落ち葉が美しい「カーペット部門」関西・東海・北陸エリアの1位に兵庫県宍粟市山崎町の最上山公園もみじ山が選ばれたと・大台ヶ原(奈良、三重県境)や保津峡(京都府)など西日本の名だたる観光地に並んでの高評価で・・これまで「穴場スポット」を自認してきた地元関係者も知名度向上を喜んでいると・・もみじ山は口コミの評価が高かったほか樹木の本数や公園面積などのポイントが高く同部門で2位の下鴨神社(京都市左京区)4位の神戸市立森林植物園(神戸市北区)などを抑えて1位に輝いたそうです・・もみじ山は江戸時代から紅葉の名所として地元で親しまれ約30年前に「ふるさと創生1億円」を利用して遊歩道などを整備・・知名度は低く女性グループが2006年に「もみじ祭り」を始めた当初の来場者は300人程度だったと・・その後苗木を植えたり遊歩道を手入れしたり祭りのもてなしをしたり10年には主婦の友社の「日本紅葉の名所100選」に選ばれ近年は紅葉シーズンに約4万人が訪れるまでに・・しそう森林王国観光協会も「まだまだ紅葉の穴場だと思っている人も多いが最近は関東からも観光客が訪れるようになり密集・密接を避けて楽しんでほしい」と手応えを感じていると・近くの保育園児たちが落ち葉拾いをしていましたクマさん子ども達に声をかけて紅葉の種を教えてあげています・・しばらく一緒に探したけど見つからなくてクマさんが木についてる種をとり・・プロペらみたいやろ・・これが種で風でくるくる舞い落ちてくるんやで・・と説明していました・・若い先生も知らなかったらしく・・熱心に話を聞いていました・・子どもたちは手にした紅葉の葉をクマさんに見て・見てと持ってきて・・展望台に向かう途中に出会った風景です・・弁天池(通称・弁天さん)11月17日に歩いた歩数・・10204歩・・距離・・約7km・・FC2・・はこちらから
2020/11/29
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2020年11月17日(火)晴れ音水渓谷・・宍粟市北部にあり名瀑原不動滝や赤西渓谷などが点在する山深いに位置・・氷ノ山後山那岐山国定公園と音水ちくさ県立自然公園に指定され水源の森百選やひょうごの森百選などにも選ばれる景勝地です・またまた宍粟(しそう)まで足を伸ばしてきました音水川沿いに渓谷の奥への遊歩道が整備されています・・紅葉は残念ながら終わったあとでした・・ブナ・クヌギ・カエデ(モミジ)などの広葉樹を中心とする森林渓谷です・・明神滝最初に降りた場所から撮ったのがこれです・・クマさんがこっちに来ると滝が二本あるよ・・2本の異なる渓流が同じ滝壺へ落ちる明神滝・・紅葉は残念でしたが渓谷の音水川の水の流れの音や滝の音に癒やされてきましたσ(*´∀`*)ニコッ☆このあと向かった先は・・FC2・・はこちらから
2020/11/24
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五箇山の相倉集落を13時20分出発・・しばらく走ると同じ五箇山にあるもう一つの集落菅沼集落が・・菅沼集落を右に眺めながら・・私たちは白川郷へ向かいます・・ナビで白川郷と入れると案内された先はなんと白川郷道の駅・・エッ(゚Д゚≡゚Д゚)マジ?道の駅で尋ねるとこのあたりが全部白川郷でナビだとここに来るそうです・・簡単な地図を書いていただいて気を取り直してρ(^-^*)ノ イッテミヨー!無事・白川郷についたのが14時20分・・駐車場には観光バスがたくさん・・修学旅行のようでした・・学生さんたちは集合時間のようで私たちとは入れ違いに・・出会橋・・村営せせらぎ公園駐車場からこの「であい橋」を渡り世界遺産の合掌造り集落に行きます・・橋の長さは107m・・コンクリート製ですが一度に多くの人が渡るとなかなかの揺れ・・画像の奥が駐車場となっています・・集落の中は広くて整備された道路が・・先に五箇山の相倉集落を見学していたので観光地化された姿にちょっとがっかり・・茅葺屋根の吹き替えをしているのを発見見つけたときには職人さんたちがはしごで降りてくるところでした・・こちらは吹き替えが終わった茅葺屋根・・真新しい茅葺屋根と古い茅葺屋根・・和田家江戸時代中期に建てられ300年以上の歴史を誇る白川郷最大規模の合掌造りの民家で国指定重要文化財にもなっています・・「和田家」という名のとおり展示部分以外のスペースで現在も和田さんのご一家が住まわれているとのことです・・広い道路から1つ中に入ると日本の原風景が広がっています・・懐かしい電柱・・昔はこんな電柱でしたね・・一泊二日の短い日数で目一杯楽しんできました・・この旅で訪問したのは兼六園と永平寺を除くと始めてのところばかりでした・・永平寺は以前行ったときは内部見学をしなかったので今回始めてといってもいいかな・・σ(*´∀`*)ニコッ☆歩いた歩数・・15403歩・・約10km・・FC2・・はこちらから
2020/11/19
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11月に入ってクマさんと紅葉を見に行きたいねと話していました去年は原不動滝へ・・今年は福地渓谷へ・・11日の朝いきなりクマさんがお天気いいし福知渓谷に行こ・・ヾ( ´( ェ )`)ノ フッすぐにおにぎりと卵焼きやウィンナーで簡単なお弁当を・・福知渓谷は雪彦峰山県立自然公園に含まれる渓谷で作家の田辺聖子の著書にも登場するひょうご風景100選に選ばれた奥播磨の景勝の地です・・福知渓谷を流れる福知川は砥峰高原を源とする渓流で揖保川に合流し瀬戸内海へと注いでいます・・2009年8月の台風9号の豪雨による福知川の氾濫で被災した宍粟市一宮町福知・・災害で流された石灯籠の一部が新たに記念碑「復興の礎」として建てられたものですコロナの影響で施設はすべて閉館・・空いていたのは無人の休憩所とトイレだけ・・観光客も老夫婦が数組・・狂い咲きの桜・・どこに行っても人がほとんどいませんでした・・田辺聖子さんの碑・・作家・田辺聖子さんにも愛されたこの地はその著書「すべってころんで」の中でも賞賛された景勝地です・ このあたり、福知渓谷といって、 清い流れが岩をかんで、しぶきを散らし、 両側の緑が濃く、風もまっ青に感じられる 眺望絶景の場所である 小説「すべってころんで」より 田辺聖子 書FC2・・はこちらから
2020/11/12
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金沢をあとにして向かったのは山間にひっそり暮らしが続く隠れ里の富山の五箇山・・相倉(あいのくら)集落・・遊歩道の坂道を上って約5分人形山の展望所がありそこから集落を一望できます“ふるさと眺望点”とも呼ばれるここからの相倉集落はまるで日本昔話の光景のよう・・あらら・・クマ出没で立入禁止・・これ以上は行けません・・熊がでなければ1周40分ほどの散策が楽しめたのですが・・ちなみに人形山(1726m)には2人の幼子が吹雪に消えた悲しい伝説があり春になると残雪による人形の形をした雪形が現れそれが山の名の由来となっているそうです・・相倉合掌造り集落の入口には世界遺産登録記念碑が建っています・・地主神社相倉集落の守護神として崇敬されてきました・・大正年代に本殿造営が行なわれその際の木材に「雪持林」が使用されました雪持林とは雪崩防止の広葉樹群で古くから伐採が禁止されてきましたが当時の相倉の人々はお宮のためにやむなしとの思いで雪持林を伐採したと言われています・・集落内には史跡指定記念碑がありその真後ろに建っているのが原始合掌造り「三郎」(旧岩本家)です・・家屋の特徴は屋根だけの合掌造りで合掌造り家屋の原型と言われています・・このような家屋は「ナンマンダブツ建て」と呼ばれ江戸時代には五箇山農家住居として各所に見られましたが今では五箇山に残る原始合掌造りはこの「三郎」1棟のみとなっています・・現在は原始合掌造りの後方に位置する合掌造り民家「三五郎」が所有し物置として利用されているそうです・・民家の軒下にコキリコが・・「お休み処 茶店 まつや」お土産も販売しているお食事処・・お蕎麦を食べている方がいました・・美味しそうだったけど私達はお腹いっぱい・・お店の中でお土産探し・・新そばがあったのでお土産に・・続く・・FC2・・はこちらから
2020/11/08
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以前から気になっていた兵庫県北播磨山中にある名物巻きずし「天船巻き寿司」・・1日1500~2000本売り上げるという「マイスター工房八千代」の巻き寿司はメディアでも取り上げられる有名店・・平日でも予約のお客さんが次々と・・私も電話で予約していきましたぎっしり具が詰まっています・・キュウリ・椎茸・かんぴょう・高野豆腐・卵焼き!このボリュームで1本540円(税込)と聞いていたのですが1本700円(税込み)と値上がりしていました・・700円なら次はない・・な・・o(*^▽^*)oあはっ♪FC2・・はこちらから
2020/11/06
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兼六園をゆっくり散策したあとはちょっと早めのランチをしに車で5分程の近江町市場へ・・11時前に市場へ到着・・観光客は少なかったです・・ランチの前に新鮮なお魚がほしいとo(- ̄*o))))...ウロウロ...((((o* ̄-)oでもしまってるお店が多くて・・お目当ての海鮮丼のお店も閉まってました・・店の外まで並んでいたのはもりもり寿しさん・・ここはるるぶにも乗っていた回転寿司やさん・・今回は海鮮丼がお目当て・・で・・見つけたのがひら井さん・・地域振興券が使えるお店だったので2500円の海鮮丼を・・ご飯はあまり酸味の聞いていない酢飯でした・・お魚は新鮮でとっても美味しかった・・このお店の方に聞いてわかったのですが水曜日は漁がお休みで魚屋さんは閉まってるってこと・・ショック☆☆ショック新鮮なお魚が欲しかったのに残念・・干物やさんを覗いてみたけどさほど欲しい物もなく・・三方五湖でお持ち帰りのできるお店があると聞いていたのですがそこもお休みで・・仕方がないから金沢駅の鼓門を見に移動・・鼓門金沢の伝統芸能である能楽で使われる鼓をイメージしています高さが13.7mもある2本の太い柱に支えられた門構えは圧巻!!その後・構内のお土産物屋さんでノブに駅弁のカニ・いくら弁当と・・焼きのどぐろのお寿司・・お土産のお菓子やケーキなどいろいろ買い込んで五ケ所村へ・・続くFC2・・はこちらから
2020/11/04
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2020年10月14日(水)晴れ昨夜は温泉で疲れをほぐし爆睡・・6時過ぎには目が覚めて・・朝食は8時予定だったのですが7時に変更していただいて・・朝食の場所は昨夜と同じ場所・席で・・胡麻和え・切り干し・青芝のり・漬物(福井県産紅映梅)・・温泉たまご・・焼き魚・・焜炉(黒ごま麹鍋)・・畑のおさしみ(加賀野菜の旬のもの)味噌汁(加賀味噌・米みそ)牛乳か青汁を選択・・私達は牛乳に(ほとんど飲んでしまってから・・)とっても濃くて美味しかったです・・クマさん・・ご飯のおかわりしてました・・新米で美味しかったぁ・・コーヒーが飲みたかったのですが・・喫茶がまだ空いてませんでした・・7時45分チェックアウト兼六園に向けて出発です・・9時・・パーキングに駐車・・入場料は500円ですが65歳以上は無料・・私達は無料で見学できます・・一歩中に足をいれると・・緑がとっても美しい・・大和武尊の像・・明治10年(1877)の西南の役で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑です・・銅像の身長・5.5m・・台石の高さ6.5mで明治13年(1880)に建てられました自然石を積み上げその上に九州熊襲を討伐したとされる日本武尊の像を置いています・・石積の部分には「ナメクジ、蛇、ヒキガエル」の形の岩があり三すくみが表現されているそうです・・根上松(ねあがりのまつ)兼六園名物の一つに数えられる高さ約15mの黒松・・大小40数本もの根が地上2mにまでせり上がった迫力の奇観・・この松は13代藩主・前田斉泰(なりやす) の代に土に砂を混ぜて若松を植え・・成長後に土を除いて根を出したそうです・・雁行橋(がんこうはし)眺めるだけで長生きする橋?!上から見ると列をなした雁が空を飛んでいるかのよう・・1枚1枚が亀の甲の形をしているので別名”亀甲橋”ともいわれています・・渡ると長生きすると言われていましたが今は通行不可に・・見るだけもで効力があるとか・・水道の遺構兼六園内を流れてきた辰巳用水がここから逆サイホンの原理で金沢城二の丸へ導かれた水道の遺構です・・辰巳用水とは寛永九年(1632)に加賀藩三代藩主・前田利常が金沢城の防火用水を確保するために設置したもので犀川の上流・兼六園から約10kmほど離れた上辰巳町から取り入れられています・・後に兼六園の曲水として用いられることになり今も園内に水を運んで渓流や滝・池泉などの美しい景観を作り出しています・・徽軫灯籠(ことじとうろう)足の片方が短い灯籠は兼六園のシンボルです・・水面を照らすための雪見灯籠が変化したもので・・形が楽器の琴の糸を支え音を調整する琴柱(ことじ)に似ているためその名が付いたと言われています・・二股の脚は元々同じ長さでしたが何かの原因で折れてしまい石の上に片脚を乗せてバランスを保っています手前に架かる虹橋と傍らのモミジの古木との三位一体となった風景はとても絵になります・・紅葉の色づきがまだだったのが残念・・出口に向かう途中で出会った前撮りのカップル・・美男美女の素敵なカップルで思わずお写真とらせていただいてもいいですか?と声をかけていました・・おふたりとも素敵な笑顔でこたえてくださいました・・続く・・FC2・・はこちらから
2020/11/02
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永平寺をたっぷり2時間かけて観光した後はここから約1時間の今夜のお宿の山代温泉へ・・葉渡莉・・17時02分着・・中に入るとお馬さんがお出迎え・・このお馬さん・・いろいろな木を寄せて作っているんです・・ロビーでチェックイン・・ここで地域共通クーポンを8000円分いただきました・・お客様は増えましたか?とお聞きすると東京からのお客様が増えていますと・・(/||| ̄▽)/ゲッ!!!東京にお住まいの方には申し訳ないのですがついついそう思ってしまいました・・人( ̄ω ̄;) スマヌ私達が行った日は宿泊されている方も少なかったように思います・・大きな露天風呂は2つあるのですが一つが工事中で使えません今夜は女性専用となり明日の早朝から男性専用になると薬師の湯はつかえるそうですが私は前もって家族風呂を予約しておきました・・お部屋はツインベッドがついた和洋室本当は露天風呂つきが良かったのですが満室でした・・洗面所もトイレも余計なものは一切おいていません・・お茶も入り口を入ったところの横に電気ポットとお茶セットがおいてありました・・コロナ予防を徹底的になさってるのだと安心・・夕食は茶寮「烏月」で6時30分から・・加藤登紀子さん自筆の書が飾っていました・・食前杯(柚子蜜ジュース)アカシアの蜂蜜を使ったものです先付け(最中 生ハム白あえ・柿・ざくろ・紫菊)旬菜(松茸と水菜のお浸し・もってのほか)もってのほかは紫色の菊のことで皇室の御紋が菊であることから「捨てるなんてもってのほか」が由来・・鱒すし笹包・・零余子真蒸・・五郎島金時芋オレンジ煮・・お造り(鰆焼霜・鯛・鰤・甘海老)煮物(げんげ旨煮・エビ葛煮)うろこをもたないげんげはゼラチン質に覆われた深海魚だそうです焼物(鰰”ハタハタ”潮漬け・赤魚いしり漬け)焜炉(蕪みぞれ鍋・能登豚・鶏)酢の物(梶木燻製・豆乳ジュレ酢)加賀産こしひかり うづめ飯 香物水物(加賀葡萄のムース カシスソース)カニが一人に1杯ついていたので途中でお腹がいっぱいに・・どれも薄味だけどお出汁がきいてて美味しかったぁ・最後の締めのご飯(うづめ飯)これが優しいお出汁をかけていただくのですがクマさんめちゃくちゃ美味しいともう食べれないと思ったけど気になって違う器にご飯を少し入れて食べてみましたウ,ウマ━━━Ψ(°д°;!)━━━!!お世話をしてくださったお姉さんにこれ女性で完食する方います?って聞くと普段はカニ一杯はついていませんので完食される方は多いですよ・・カニ一杯つくとおおいでしょうね・・と笑ってました・・8時40分から和太鼓があるそうでお風呂の予約が9時だったので早めに行って見学してきましたすごい迫力でしたこの後家族風呂へ・・温泉にゆっくりつかって疲れをほぐして・・クマさん運転お疲れさまでした・・今日歩いた歩数・・12395歩・・8.4km・・続く・・FC2・・はこちらから
2020/10/26
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永平寺の七堂伽藍をしっかり見学し大満足・・永平寺散策にはこのほかにも「瑠璃聖宝閣(るりしょうぼうかく)」という宝物殿が・・ここが入り口になっています外に出ようとしたとき・・クマさんがここには門徒さんがいるのですか?と質問を・・全国で15000人ほどの檀家さんがいると・・いろいろとお話をしていると奥に寂光苑と滝があるのですが行かれましたか?と・・多くの人は見ないで帰ってしまうという寂光苑・・一葉観音参拝受付の通用門のすぐ手前には小さな池があり観音様がいらっしゃいます・・ゆるい感じのポーズが何とも素敵・・道元禅師が宋に行くため海を渡ろうとしたとき大時化に遭った際に船の上で観音経を唱えたところ波の上に現れたのがこの一葉観音・・一葉観音が現れると荒波も静まり無事に航海できたという言い伝えがあるそうです・・その前に寂光苑の立て札が・・矢印に従って進みます唐門唐門はかつて「勅使門」とも呼ばれ皇室から使者を迎える時に開かれた門です・・現在は皇族の入山時や貫首就任時のみに開門しています門扉には皇室の御紋章の菊花紋が飾られていて立ち入ることはできません・・通用門の向かいにある赤い橋「偃月橋」の下を流れる川は永平寺川・・その川の両岸は濃い緑の苔に覆われ橋の赤と対比をなしていますここから右手に川を見ながら進んでいきます・・唐門を過ぎると水が激しく滴る音が聞こえてきます・・さらに奥へ進むと左手に見えるのがこの玲瓏の滝・・小さな滝ですが水量も多く結構激しく流れていますマイナスイオンたっぷりのパワースポット・・永平寺川を挟んで右側に見えるのがNHKの「ゆく年くる年」の除夜の鐘で有名な寂照の鐘・・この鐘はついてもいいそうです・・道元禅師薙髪御像出家を決意した若かりし頃の道元禅師の姿を模した像です・・わらべ地蔵可愛らしいお顔をしたお地蔵様・・左でなく右を通って来るとよかったみたいです「寂光苑」と書かれた石碑が・・寂光苑は平成12年(2000年)に道元禅師生誕800年と第750回大遠忌の記念行事として整備された庭園です・・こちら側からみた玲瓏の滝・・ここまで来たのは私達だけ・・人の話し声などに気を取られることなく厳かな雰囲気の中に身をおくことができました・・教えていただいて本当に良かった・・続く・・FC2・・はこちらから
2020/10/23
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13時36分・・永平寺着・・まずは腹ごしらえ・・駐車場の目の前にある「井の上」へ10割そばの定食を・・そば汁はそのまま飲んでも美味しいお味・・お蕎麦をつけて食べるにはもう少し濃くてもいいかな・・炊き込みご飯も薄味で美味しかったぁ・・天ぷらは残念ながら揚げたてでなくて残念・・炊き込みご飯の半分以上と天ぷらはクマさんに手伝ってもらいました・・ここから上に上がっていくと曹洞宗の大本山永平寺に到着・・木々が生い茂る参道に一歩足を踏み入れると空気がスッと変わり一気に参拝モードに・・背筋を伸ばしたくなるような雰囲気が漂っています・・コロナの影響で手水も自動で・・手をかざすと勢いよくお水がでてきました・・永平寺は道元禅師(どうげんぜんじ)によって開かれた坐禅修行の道場で曹洞宗の大本山です・・244(寛元2年)道元禅師45歳の時に傘松峰大仏寺として建立されその2年後の1246(寛元4年)に吉祥山永平寺と改められました770年以上経った今も永平寺の修行は禅宗の中で最も厳しいと言われ約160名の雲水(うんすい)と呼ばれる修行僧が修行生活を送っています・・画像右下が参拝入り口です・・最初にお坊様からの説明を聞きます・・注意事項が書いています・・写真は雲水に直接カメラを向けなければ自由に撮影していいそうです・・回廊で結ばれている永平寺・・永平寺は33万平方メートルの敷地に70を超えるお堂と楼閣がありなかでも「七堂伽藍(しちどうがらん)」という修行に欠かせない7つの建物が回廊で結ばれています・・こちらが長い回廊で毎朝・雲水がぴかぴかに磨き上げています・・その7つとは「山門」・「仏殿」・「僧堂」・・「大庫院(だいくいん)」・「東司(とうす)」・・「浴室」・「法堂(はっとう)」のことです・・建物の並びは坐禅を組んだ人の形にも例えられ法堂は頭・仏殿は心臓などとも言われているそうです・・最初に向かったのが230枚の日本画が美しい「傘松閣(さんしょうかく)」別名「絵天井の間」1階は参拝の方々のための控室や研修宿泊のための部屋ですが2階は156畳敷きの大広間がありその天井には昭和初期の有名な画家144人による230枚の日本画が埋め込まれています・・そのほとんどが花鳥風月をあらわした日本画です・・東司(とうす)お手洗いのことです・・一番奥に洋式トイレがあります・・ほとんどが和式でした・・山門・・生涯でたった2回だけ通ることが許される「山門」・・永平寺最古の建物で雲水が正式に入門する時そして修行を終えて永平寺を出る時にしか通ることが許されないまさに「永平寺の玄関口」・・山門の両側には仏教の守護神である四天王が祀られていますすごい迫力です・・雲水たちの台所「大庫院」(だいくいん)大庫院には雲水の食事をつくる台所があります1階には「典座寮(てんぞりょう)」と呼ばれる場所があり食事担当の雲水は毎日午前1時半頃に起きて皆の料理をつくるそうです・・大庫院の正面に祀られているのは足の速いことで有名な守護神「韋駄尊天(いだそんてん)」温かいものは温かく・冷たいものは冷たい状態で食事を運べるように火事が起こったときにいち早く火を消せるようになどさまざまな説があるそうです・・大庫院の前に掛けられた長~い「すりこぎ」も見所の一つ!左側にあるのが「大すりこぎ棒」なんと全長4m!もともとは黒だったのがみんなに撫でられすっかり木目が現れていました・・説法の場「法堂」次に向かったのは説法の道場である法堂・・朝のおつとめなどの各種法要がこの建物で行われます・・中央には「聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)」が祀られています・・法堂は七堂伽藍の最も高いところに位置しているのでここから四季折々の美しい景色が眺められます・・仏殿現在・過去・未来の仏が祀られている「仏殿」よく見ると三体の如来が確認できます明治35年(1902)の改築です・・中央には曹洞宗のご本尊であるお釈迦様が祀られています向かって右側から過去・現在・未来の三世を現していますまた正面上に「祈祷」の額が・・昼や晩のおつとめでは世界平和や万民安楽をお祈りしています・・曹洞宗の聖地「承陽殿」法堂から西の回廊を進むと永平寺でもっとも神聖な場所と言われる「承陽殿(じょうようでん)」があります・・道元禅師の御真廟(ごしんびょう)つまりお墓にあたるもの・日本曹洞宗発祥の根源であり聖地ともいえるとても大切な場所で永平寺歴代住職の位牌も祀られています・・道元禅師は「承陽大師」とも呼ばれていたことからこの名前がついたそうです・・続く・・FC2・・はこちらから
2020/10/21
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2020年10月13日(火)曇時々晴れ自宅をAM8時前に出発・・山陽道から播但道・中国道・舞鶴若狭道に入り・・レインボウーラインを通って向かった先は三方五湖・・11時20分三方五湖着・・梅丈岳山頂公園に行くにはケーブルカーまたはリフトを利用します・・私たちはリフトを利用しましたちょうどロープウェイも降りてきました・・梅丈岳山頂公園から南に5つの湖・・北に若狭湾が一望できます幸せの鐘・・和合神社・・レインボーラインの鐘は全国でも珍しい前後双方から一社礼拝でお参りする和合神社と深く関わっています・・まずは和合神社でお参りした後・・二人で一緒に1回鐘を鳴らすとより御神徳にあやかれるそうです・・バラ園約110種・600株のバラが・・大きなたぬきさんの前でたぬきさんに負けないお腹になってきたクマさんと(≧∇ノ■ゝハイ、チーズ♪クマさん小腹が空いたと・・鯖カツが挟んでる鯖バーガーを食べたいと・・私はあまりほしくなかったのでクマさんのを少し分けてもらいました・・鯖のくさみがなくて美味しかった・・三方五湖はたまにお日様が顔をだす曇り空・・涼しくて歩きまわっても汗をかかなくて気持ちよかったです・・続く・・FC2・・はこちらから
2020/10/18
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カフェラテまさに名前のとおり珈琲にミルクを足したカフェラテ色の花色・・シックで大人の魅力があります開花時の花形も花色に合ったクラシカルな雰囲気・・独特のスパイシーな香りがあります・・今月はじめのこと去年孫たちといった鳥取砂丘で海鮮丼で超人気のお店が定休日+翌日も休日で行けなかったのを思い出しクマさんに海鮮丼食べに鳥取に行かない・・と話すと海鮮丼なら近江町市場やで・・ということでGO TO キャンペーンを使って行くことに・・ツアーなら安く行けるけど電車を使うのが嫌で車で行くことにいろいろ検索していたらホテルと北陸・飛騨周遊コース(2日間)がトラベルキャンペーの対象になるのを知って・・早速ホテル探し・・予約したのは山代温泉の葉渡莉対象ホテルでないと周遊割引ができません・・北陸・飛騨周遊コース2日間乗り放題が料金(利用車種):¥9,200(普通車)お支払い実額 5,980円(給付額:3,220円)となります・・宿泊代はスタンダード和室 ツインベッド付大人@ 21,450 円 x 2 名-----------------------------------------------------------合計 42,900 円 (サービス料込・消費税込)が・・【宿泊補助額:15,015円】【割引後お支払い料金:27,885円】【地域共通クーポン額:8,000円】すごくお安くなりました・・ついでだから・・いろいろ観光しながら目的地に行くことに・・そのアップはぼちぼちに・・σ(*´∀`*)ニコッ☆FC2・・はこちらから
2020/10/16
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木の根橋をまっすぐに進みすぐに左折すると左に小さな神社がありますそれが「建勲(たけいさお)神社」です鳥居をくぐると建勲神社についての案内板があります建勲神社の創建は元禄8年(1695)柏原藩初代藩主織田信休が柏原陣屋内に勧請したのが始まりとされます祭神は織田家の先祖である織田信長で明治2年に豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた京都の地と柏原と同じく信長の後裔が藩主を勤めた山形県天童市に建勲神社が鎮座しています当社は明治2年(1869)に建織田社となり明治3年(1870)に建勲神社に改称明治13年(1880)に現在地に遷座しました小ぢんまりとした社殿ですが・・軒丸瓦にはしっかりと織田家ゆかりの木瓜紋が付いています散策を切り上げてそろそろ戻ることに地元まで帰ってきてケーキ屋さんの菓子の樹さんへ以前から気になっていたケーキ屋さんです・・左上がクマさんの私は右のいちじくのケーキノブにはバスチーを甘さ控えめでとっても美味しいケーキでした・・夕食には神戸牛の焼き肉を準備していたのですがランチの量が多くて夕食が食べたくない・・私はケーキだけですませちゃいましたクマさんは軽くお茶漬けでノブには豚のしょうが焼きを準備して焼き肉は翌日にいただきました口の中にれるとお肉溶けちゃったぁ・・ウ,ウマ━━━Ψ(°д°;!)━━━!!夜には孫のそうちゃんとみぃ~ちゃんからLINEで”おめでとう”のメールが・・とっても楽しいお誕生日になりましたクマさん一日付き合ってくれて゚.+:。(´∀`)゚.+:。ありがとう!FC2・・はこちらから
2020/09/25
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柏原八幡宮の目の前には画像左の自動販売機のところに観光案内所・・その目の前に織田神社織田神社「織田権現」は織田信勝を祭神として祀られています・・信勝には子が無く柏原藩主織田家は三代52年で廃絶・・信勝の母は除封されたことを嘆き其の邸跡に霊廟を祀り織田神社・織田権現として町衆からも篤く信仰されてきたそうです元禄8年(1695)大和宇陀から織田信休が転封されてくるまでの45年間は幕府の天領となっていました現在地の古市場には文政年間(1818~30)に東奥大谷から移され信勝の命日5月17日に例祭が行われるそうです・・その前には天然記念物「木の根橋」樹齢1000年とも推定される巨木で目通り幹径6.4m・・樹高21m・・枝張各25mを測る丹波市内では最大のケヤキで本樹の根の一本が太く成長し直下を流れる奥村川をまたいで対岸の地下にもぐり込み長さ10mにも及ぶ自然の橋梁を形づくっていることから「木の根橋」と呼ばれています画像は丹波市のホームページからお借りしましたその形成過程については明らかではありませんが本樹の縁辺は万寿元年(1024)に創建された柏原八幡神社の参道にもあたり奥村川に架けられていた土橋に沿って根が延びたものと考えるのが妥当なようです・・現在の奥村川は織田信包(のぶかね)の開いた第一次城下町時代に堀割として利用するため拡幅され深くなったもので今・・我々が目にする木の根橋をとりまく景観はこの時代に形づくられたと言ってもいいのかもしれません・ケヤキは奥村川の水を養分にすくすくと育ちましたがまわりには道路があり車も多く通るという環境の中で病気を抱えています・・これまでの道や橋の工事で根を切ってしまったためそこからナラタケモドキというキノコの菌が根に入り込んで根を枯らしていますこのキノコの菌は木が成長している形成層(樹皮のすぐ下)を食べていくので木にとって一番大切な生きている部分がダメになってしまうそうですこの菌が入って形成層を食べつくしてしまうとその後から木の中の方の芯材を食べる新たな菌が侵入し最後にはスポンジのようなドロドロ・スカスカの状態になってしまうそうですケヤキの周辺はアスファルト等で地面が覆い尽くされ地中の根がどうなっているのかわからなかったそうです数年前の町道舗装工事に際して道路下の根の張り具合を調査したところ太い根はほとんど見つからなかったそうですそこで丈夫な根の育成を行うとともに病気にかかっている根を治療しいつでも根の状態が観察できるようにまた根に空気や水が届く状態にすることを目的として観光案内所横の道路と織田時神社前の道路の下に高さ最大1m程度の空洞を設けることにしました川のない橋のような状態です・・道路下の根を調査した結果周囲にはこれだけの大きな幹を支える根がほとんどないことがわかりました・・もし・強風等で幹が折れるようなことがあればこのケヤキにとっては致命傷となるため支柱を設置したそうです現在このナラタケモドキ菌を死滅させる特効薬はありませんしかし・・そのままにしておくと菌がどんどん生きている部分を食べていってしまうため菌が入り腐っているところをできるだけ取り除きナラタケモドキ菌の天敵である菌を散布し菌の勢いを弱め本来ケヤキが持っている生命力を助ける治療を行っているそうです・・続く・・FC2・・はこちらから
2020/09/23
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お腹いっぱいになったところで腹ごなしにちょっと散策・・近くにあった観光案内所に車を止めて目の前にある柏原八幡宮社伝によると舒明天皇の御代(629~641)に出雲連が入船山(当宮の鎮座する山)に素戔鳴尊(すさのおのみこと)を奉祀したのが当宮の創始と伝えられていますその後萬寿元年(1024)に入船山周辺の3箇所から霊泉の湧出を奇瑞とし後一条天皇の勅意により国家鎮護の社として京都の石清水八幡宮より御分霊を勧請し丹波国「柏原別宮」として創建されました境内には兵庫県指定重要文化財に指定されている三重塔と釣鐘が現存し神仏習合当時の景観を今日に伝える全国でも極めて珍しい神社です手水のところには新型コロナウィルス感染防止のため当分の間・柄杓を撤去いたします恐れ入りますが、流水で手を濯いで手水をおすませください 柏原八幡宮社務所流水で手を濯いで社殿へ・・社殿現在の社殿は天正13年(1585)に羽柴(豊臣)秀吉によって再々建されたもので三間社流造りの本殿に入母屋造の拝殿を連接した複合社殿です この建築様式は「権現造」の先駆けとなる建築様式として貴重で大正2年に特別保護建造物に指定現在は国の重要文化財に指定されています狛犬さん愛嬌のあるお顔しています・・三重塔現在の三重塔は文化10年(1813)~文化12年(1815)にかけて建立されたもので全国で神社に塔が現存する18例の1つに数えられる貴重な建築です兵庫県の指定重要文化財に指定され古来より柏原のシンボルとして親しまれています釣り鐘この釣り鐘は古来より3回鳴らすと難をのがれ福を授かるといわれているそうです心静かに願いを込めて3回鳴らしてきました・・続く・・FC2・・はこちらから
2020/09/19
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