ラッキィセブンティライフ

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伊木半兵衛正春


 伯耆の里見忠義は、池田藩が国替えとなり、家老伊木忠貞が、倉吉を領することになって、身はお預けとなりました。しかし池田藩自体が幕府の厳しい監視の目のもとにあり、里見主従の取り扱いも、下手なことすると命とりになります。
 そこで記録には、つとめて乗せず、上げ足をとられないように勤めてることが察せられます。里見の記録がない理由です。

 里見忠義が、下田中、関金堀に転居したことは語られますが、居住地においての記録もなく、何ゆえに転居し何をなしたかもわかりません。

 預かりした池田藩の方も、家老伊木忠貞が倉吉を管掌しますが、姫路から鳥取にお国替え中に大事件があり、国替え責任家老池田由之が、家中の武士に正条川(現揖保川)の渡し場で殺害されてしまいます。

 これを伊木忠貞が、家中に禁口令を敷き、急死したとの自然死として幕府に届出手続きし、事なく国替えを果たし、殺された池田由之は、継息由成に相続させ、米子管掌家老として着任させました。
 これらの記録も、倉吉にはありません。
 もしこれらの事実が幕府に知れたら、藩の命運にもかかわります。

 倉吉15年を終え岡山に国替えとなり、岡山虫明での回顧録から判明したことです。

 更に、伊木長門守忠貞は、倉吉に着任しては、洪水対策の長門土手、池田家の始祖池田信輝(勝入斎)を祀る勝入寺の建設を行ったスーパー手腕を果たしています。現在地名として長門土手があり、勝入寺も残っています。

 時に伊木忠貞6歳ということがわかり、優秀な家臣団の存在があったろうとの疑問。しかして、当地には記録はなんにもありません。


 岡山虫明の資料で、忠貞の祖父初代伊木家当主忠次の弟、教春の子で伊木半兵衛正春がいた事がわかりました。

 伊木半兵衛は、前任地三木で、すでに家老伊木忠次のもとで、池田家始祖勝入斉の霊を祭り、伊木家の菩提寺とする、勝入寺を建設し城郭普請を手掛けています。

 忠貞も、優秀なる統治と豪腕の将として有名ですが、それも手腕発揮は、倉吉在住15年の内、後半頃からか、岡山に国替えになってからのことでしょう。

 そこで、初代伊木豊後守忠次とその弟であり正春の父である、伊木半兵衛教春の生い立ちを探れば伊木半兵衛正春の人物像が浮き上がりましょう。

 記録にない里見忠義主従の取り扱いも、無碍に罪人扱いであったかどうか、あるいは幕府から同じ冷たい仕打ちをうけた者同士の同病哀れむ丁寧な扱いだったかもが、ベールをぬいで判明しましょう。

伊木家の輝かしい系譜


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