鳥取藩主となった池田光政が、父利隆が亡くなり、跡継が9歳故、幼少だから無理と播州姫路からお国替えされたのは、徳川の血筋でなかったからでした。
池田家には、複雑なお家事情があり、徳川家の血筋とそうじゃない系統がありました。
池田家元祖信輝、彼の母が、織田信長の乳母だったことから、信長には信任厚く、信長直臣の武将でした。
天正10年6月、本能寺で信長が殺され、秀吉と力を合わせて、明智光秀をうち、勝入斎と名を改め、秀吉軍の重鎮として頭角をあらわしました。
破竹の勢いの豊臣秀吉と徳川家康の対決が、小牧・長久手の戦いで、用兵のうまさをしめした徳川家康に豊臣秀吉は和睦しましたが、池田恒興、之助親子は、秀吉軍として戦い,この戦いで戦死してしまいました。
次男の輝政が池田家を継ぎましたが、ここで、豊臣から徳川への懐柔策として、徳川家康の娘で、北条氏直に嫁して戻っていた督姫を輝政に嫁がせようと画策しました。だが輝政にはすでに利隆を生んだ糸子という嫁がありました。これを病気理由の離縁にして縁組にもっていきました。
徳川家と縁続きになった池田家は、関ケ原では東軍として参加、岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に増加移封、輝政は初代姫路藩主となりました。
輝政と督姫との間に忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興、振姫など5男2女もうけました。
そして、池田輝政死後には、利隆ー光政系統と徳川家の血を引く督姫(富子の子、忠継・忠雄系統ができてしまいました。利隆ー光政系統は徳川家よりは外様として扱われました。
利隆が元和2年(1616)6月13日33歳で亡くなると、翌元和3年3月、幸隆(光政)齢幼少の口実をもって播州姫路42万石より、因伯鳥取32万石に減封左遷されました。
「播磨は中国の要地なれば、領主幼少にては叶うべからず。依って因幡、伯耆両国に転ぜられしとなり。」
姫路城には、本多忠政(忠勝の子)が着任、その子、本多忠刻と徳川秀忠の娘天樹院〈豊臣秀頼のかっての正室千姫)がきました。肉親を抜擢し外様を追い出すという悪辣な仕打ちをした幕府には、光政を中心とした池田氏には深い憤りがあったでしょう。
この本多忠刻の祖父忠勝は、徳川が関東に転封の時、「譜代の将は敵が攻めて来る国境に配置する」との家康の策で上総大多喜城にはいり安房里見を見張りした因縁があります。
鳥取は小領主分立の地で、備前松山へ転封となった池田長幸は、関ケ原の戦いの軍功で賜った長吉(池田輝政の弟)の子で、6万石でした。減石され32万石とはいえ、家臣を残らずひきつれての住まいには足りません。城拡大工事等に莫大な財政支出を必要で池田家の危急存亡の領主光政でした。
元和9年(1623)15歳になった幸隆は家光の前で元服、光の一字を頂き光政と改名しました。一度は僻地に左遷はしたものの、この外様大名の将来を考えると危険なものを感じたんでは。そこで、再び婚姻政策で懐柔策が考えられました。
その相手が誰あろう姫路城の本多忠刻と豊臣秀頼の克て妻だった千姫の娘勝子でした。
光政は幕府の下心がわかっているので断りました。尊い大御所様の孫娘なれど田舎大名には勿体ない、国替えで財政不如意でもあるなど申しのべました。
しかし寛永5年(1628)1月26日に将軍の命令で勝子11歳光政20歳将軍の養女資格で江戸屋敷に輿入れしてきました。
将軍家と池田家との関わりをもつ縁組は、祖父輝元の時、北条後家と呼ばれた家康の督姫がありました。関ケ原では、東軍に加わり、姫路城を拝領する幸運にめぐまれました。
冷え切った新婚生活で、江戸の参勤が済むと、国へかえり、文もせぬ光政だったようですが、寛永7年(1630)12月、江戸で光政が疱瘡にかかり、生死の境になりました。家臣は勝姫に疱瘡が移っては大変と遠ざけました、勝姫は、妻が介抱せずどうすると怒り、寝ずの介抱をしました。
介抱のかいあって、命はとりとめましたが、疱瘡のあとが顔に醜く残りました。光政鏡をみて勝姫に「醜い顔、別れていいぞ」と述べると勝姫、『他の女が近寄らない、安心してあなたは、私のものです」と述べました。
これに光政改心し、勝姫を愛し、側室は持たなかったといいます。
肖像画をみても光政の顔は、あばたがあります。勝姫の母である天寿院(千姫)が金銭面でも、面倒みてくれたようで、将軍家のおぼえもめでたくなったようです。 (殿様生活参照)