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34歳5か月で、初土俵から実に所要114場所にしての十両昇進。年齢、所要場所ともに史上1位のスロー出世だ。出羽海部屋には1986年、15歳のときにスカウトされて入門。相撲取りとしては体格にも恵まれて比較的スムーズな入門だったが、「引っ込み思案」な性格が災いしてか、その後の道のりは長かった。7人の関取に付き人としてついて19年。後輩に次々と抜かれていく気持ちは、どんなものだったのだろう。「幕下」に昇進してはじめて、「関取」と称される。やっとプロになれたということでもある。しかし幕下に昇進したのも、10年前、やっと1995年のことだ。幕下になって初めて給料が支給されるが、これでも2ヶ月ごとに15万円という安さらしい。これが十両になれば一気に月給104万円に跳ね上がるという。苦節19年にして、やっとここまできた。本当に厳しい世界なんだなと思う。しかも、まだまだ頂点への道は遠いのだ。十両から上の階級順序は次のとおりである。十両 ――> 幕内 ――> 小結 ――>関脇 ――> 大関 ――> 横綱少々古いデータだが、2002年6月現在、幕内40人、十両26人、幕下120人、三段目200人、序二段234人、序ノ口97人の力士がおり、合計717人を数えるhttp://homepage1.nifty.com/zpe60314/monogoto5.htm34歳といえば、普通はとっくに横綱が引退している年である。貴乃花などがいかにスピード出世して、さっさと横綱になり、さっさと辞めていったかを考えてみれば、やはり「別格」なのだと思う。しかし、出羽の郷のような「粘り出世」も味があっていいなと思う。どちらかというとこちらのほうが努力好きな日本人の心に訴えるものがあるかもしれない。先日インタビューに答えて出羽の郷は、「相撲とは忍耐です」と言っていた。なんだか、長年司法浪人を続けてやっと司法試験にうかったという例にも似ているが、通訳者への道にも似ていなくもないなと思う。通訳は角界ほど厳しくはないし、頂点もあってないようなもんだし、資格もいらない。しかし、プロになるまで、そしてなった後からも、非常に長年の努力を強いられる。もちろん、貴乃花タイプも10年に一人くらいはあらわれるが、出羽の郷タイプのほうが多いだろう。出羽の郷の例を引き出して、「努力すれば報われる」といいたいのではない。19年続けてやっと中堅になったとしても、その後は保証されないという点では、通訳に限らずどの仕事も一緒だと思う。通訳志望者はまずこの現実を冷静に見つめて進路の選択をすべきだと思う。その上で、やはり挑戦したいと思えばすればいい。その時その時の実力に見合った仕事というものを素直に受け止めて自分の役割を果たしていく。そうすることで自分の道ができてくるだろう。それはもしかして頂点に至らない道かもしれないが、その自分の道に満足できなければ続けることはできない。その道を楽しみながら進める人が結局一番強いのかもしれない。
May 12, 2005
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「狭き門よりはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいっていく者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:13,14) これは有名な新約聖書の一節であるが、もともとは命を賭してキリスト教の布教を行おうとするキリスト者に対する喝破のようなものと理解している。迷ったら勇気のいるほうを選らんでみよ、Bet on a risk.という言葉もこれに近いかもしれない。キャリアを選ぶのも一緒だと思う。予想がだいたいできるものは予定調和的で面白くない。安全かもしれないが面白くない。なんとなく本気になりにくい。リスクを承知で一歩踏み出せば、本気になれる。人生はコースの決まったマラソンレースではなく、フィールドオリエンテーリングみたいなものだと思う。最低限のリスク管理は必要だが、そればかりしているとつまんなくないだろうか。
May 11, 2005
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あれはもう随分昔の話になるが、NHKテレビの英語講座で放送・会議通訳者の篠田顕子さんのインタビューがあった。全て英語で答えられていたのだが、ご本人の話の中で、今となっては原文は忘れたのだけれど、「私はバイリンガルじゃありません。なぜなら自分の確立された英語のスタイル、個性を持っているわけじゃないから。」というような意味の、興味深い発言をされていた(この辺、記憶が曖昧なのでもしご存知の方いらっしゃったら訂正してもらえると有り難いです。)世間一般の眼からすれば、篠田さんはバイリンガルだ。幼少のころから、香港やイギリス、アメリカ、オーストラリアと海外生活を送り、今では押しも押されもしない一流の会議通訳者である。普通の人からみたらバイリンガル以外の何者でもない。でもご本人がおっしゃているんだから、しょうがない。理由はいろいろあると思う。まず比較的早く海外に出たのは事実だが、母語は日本語であるという点。またバイリンガルの定義をどこに置くかという点によっても、見方は異なってくると思う。それを踏まえた上で、なぜバイリンガルといえないかというと、英語を話すときは自分独自のスタイルや個性を持って話しているとはいえないから、だという。つまり、恐らく英語をいくら流暢にしゃべっていても、やはりSecond Launguageとして身についたコトバは、自動的に言葉が出てこないということかもしれない。他人から見たら、完璧に流暢に喋っているように見えても、やはり頭の中では考えて、組立てて、しゃべらざるを得ないため、結果として独自の発話スタイルというまでには言語を操作できないのかもしれない。いや、操作という感覚すらもたないのが母語の母語たる所以なのだろう。これは感覚的にはとてもよくわかる。英語を理解し、正しく話すことは、長年の訓練で誰でも達成できることだと思う。しかし、そこにオリジナルの英語スタイルがあるか、といわれれば…。結局、訓練によって、限りなく自動的に発話できるようにはなるが、やはりそこでは「考え、文を組み立て、間違えないように注意しながらしゃべる」という意識がどうしてもあると思う。母語というのは、話すときにこういう意識は持たない。いわゆる「考えなくても自然に出てくる」ものだ。これは発音が上手いとか、リスニングがすごいとか、そういう問題じゃない。発音もリスニングも、訓練次第でネイティブレベルまで引き上げていくことは、かなり困難ではあるが全く不可能ではないと思う。しかし、英語名人と呼ばれている人々の英語を聞いてみると共通して言えることは、その人達が日本語を喋っているときと英語を喋っているときのスタイルが、殆ど同じであるということだ。英語自体は確かに凄いが、しゃべるスピード、リズム、声の大きさなどは、その人が日本語を喋ってるときと同じなのだ。逆に、生まれたときからアメリカ育ちで英語で育ったような日本人の英語を聞くと、やはり日本語を喋るときとは別人格になってしまう。独自の発話スタイルを持っているという感じがする。そんなわけで、完璧に英語と日本語それぞれに、オリジナルな別の発話スタイルを持つ人にはめったに出会わない。おそらくこれが狭義のバイリンガルであろう。英語も日本語も、考えずに同じ知的レベルの発話ができる人。そんな人はめったにいないし、そして目指そうとすべき目標ではない。むしろ、そういう現実を踏まえて、日本語という母語に影響された英語スタイルであると自覚し、むしろそれを楽しむくらいの気持ちで英語の習得に励んでいけばいいのだと思う。
March 25, 2005
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通訳という仕事を成功させるために必要なのは読むことだ。これは考えてみれば当たり前のことだけど、通訳の仕事に興味を抱く人はだいたい「英会話好き」、そう、英語を話すことが好きというのを出発点にしている人が多いので、中には読書嫌いの人もいる。しかし、はっきり言って、本を読むのが嫌いな人は通訳という道はスッパリあきらめるべきだ。通訳というのは、ある人が伝えたいことがあって、でもそれを異言語の人には自分では伝えられないから通訳の手を借りて伝える、という時に初めて発生する仕事だ。つまり、通訳あるところには、必ず伝えたい中身があり、情報があり、思いがある。「中身と情報」については、話し手が持っている背景知識や専門知識であり、その人に代わってそれを伝えるには、できるだけ話し手の持っている知識レベルに近づく努力をしなければならない。そして、それができるのは読んだり聞いたりというインプットがどうしても必要だが、現実的には「読むこと」だけが唯一の選択となる。そして「思い」に関して言えば、スピーカーの感情表現を上手く通訳して伝えるには、日頃から様々な感情表現に触れておく必要が出てくる。例えば「うれしい」という表現一つとっても、どのようなレベルの嬉しさか、ただ単に儀礼的にうれしいのか(Nice to meet you.)、涙が出るほどうれしいのか(I nearly wept for joy.)、さらに飛び上がるほど嬉しいのか(Nothing could make me happier!)、その時々のスピーカーの感情レベルを推し量って適切に訳出できなければ、本当の意味でコミュニケーションの目的が達成されたとはいえないだろう。この感情レベルの様々な表現の習得には、個人的な生活経験が寄与する部分も多いと思うが、映画や小説などの文学的な言語表現を学ぶことで自分の中にとりいれることができる(これは英語だけでなくて、日本語にもあてはまる)。なので、ここでも「読むこと」が如何に重要かということがわかる。また、上記に加えて、一般教養、時事など、話し手が当然知っている知識については、通訳者もできる限りフォローしておきたい。なので、新聞や週刊誌などを通訳をする両言語において、可能な限り読む努力が必要だ。人間には24時間しかない。これは全人類に平等な数少ない条件の一つだ。この中で上記のものを如何に効率的に読み、自分のものにしていくか。まさに日々活字との戦いに明け暮れなければならないし、そのためのストラテジーをどうやって立てていくかも、通訳者にとって恐らく最も重要なスキルだろう。
March 24, 2005
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先日、公開授業をしてきた。こういうの客寄せパンダっていうんだろうな、って思いつつ、でもいざやるとなんか自分が学校側のスタッフになったつもりになってしまって、思わず営業トークが出てきてしまう、そんな自分が怖かった(笑)さて最近は、こういう公開授業をすると、かなり参加者の中に通訳の経験を持っていたり、すでに別の学校に通ってたりする人がいる。向学心が強いのか、はたまたいろんな学校を渡り歩いて吟味してるのかわからないが、とにかく熱心さが伝わってきて、えらいなーと思う。しかし、なんせ小一時間のレッスンなのでやれることは限られている。どうしてもさわりだけちょこっとかじる感じになってしまうので逆にフラストレーションがたまってしまうのだけど、最後には予定してなかった英日の同通デモまでしてしまい、意外にノッていた自分にハッとして、そんな自分がまた怖かった(笑)でもまあ、終了後バンバン質問もあり、さっそく申し込みをして帰ったかたも多かったので、ひとまずうまくいったのかな?事務の人も喜んでたし(ギャラあげて下さいね 笑)しかし、テストに受かるのがまた大変なので、何人の方と4月からお目にかかれるだろうか。しかし、延べ人数でいくと何人くらい教えたことになるんだろう…。これだけ多くの受講生を見てきているのに、卒業していまバリバリやってます!と噂でも聞く人はほとんどいない。ことほど左様に、通訳というのは厳しい世界だ。しかも最初はペイもよくないし、吉本興業の芸人の世界のようだなぁ。いやしかし、吉本と違うのは、売れてもたいして儲けることはできないという世界だということ。通訳になろうって人は、決してそれで金持ちになろうなんてユメユメ思ってはならないのだ。まぁ、身一つで稼ぐわけだし、料金にも上限があるので仕方ないことなんですが、厳しさの先、イバラの道の先にある果実が大しておいしくないのに目指す人が多いっていうのは、金額以外の魅力が大きいということなのだろうか。「通訳は三日やったら辞められない」という言葉があるそうな。
March 17, 2005
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「14歳からの仕事道」(玄田有史 理論社)を読んだ。かつて「仕事の中の曖昧な不安」を読んだことがあるが、その著者でもあり、NEETについての考察などで、最近よく名前を聞くことの多い労働経済学者の方の本だ。なんかタイトルが村上龍のバカ売れ本のパクリそのものでチープだし、なんだかなぁと思ったけど、「仕事の中~」がなかなかによかった印象があったので、買ってみた。いいこと書いてあるじゃないの。いや、少なくとも村上さんの本より、特に仕事や進路に悩んでる人には、14歳でなくても参考になる部分があると思った。というか、自分自身がそもそも悩み体質なので、ストンと腑に落ちるというか、もやもやが晴れるというか、特に今、あらたなチャレンジに対峙しようとしている身には、大いに勇気づけられるものがあったのだ。振り返ってみると、ここ何年か常に「選択する」という状況に直面することが多くて、いつも頭の中、いや胸のあたりに「モヤモヤ~」とした気持ちがあったような気がする。もちろん、悩みの種はいつも尽きないわけだけど、それにも種類があって、大きな宿題をいつまでも抱えて、でもそれを完全に忘れて遊びに没頭してしまえる子供のように勇気があるわけじゃなくて、なんだかなぁ、冴えないなぁ、ってな気持ちがずっとあった気がする。しかし、「大きなモヤモヤ」がパッと晴れたときわかったことは、その原因そのものが解決したから、いい答えが出たからではない、ということだった。なんていうか、堂々巡りの中でもがいていた自分に、完璧な正解じゃないかもしれないけど、とりあえず、「決めた!」って言えたとき、なんとも言えない穏やかな気持ちが、心の中で広がっていく実感があった。喜びでもなく、悲しみでもなく、興奮でもなく、そう、Peacefulという言葉は、こういう時にあるものなんじゃないか、と思えるような気持ち。なんだろう、これは。そう考えていたときに、この本を手に取り、その中に書いてあったことばに、Peacefulな気持ちのわけを見出して膝を打ったのだ。(以下、引用)【悩みながら歩こう】『岡本太郎さんという芸術家は、「自分はあれかこれかと迷ったら、必ず自分にとってマイナスだな、危険だなって思うほうを選ぶことにしてきた」って言いました。人間は誰でも弱い。自分が大事だから、安心や安定のほうに逃げたがる。なんとかかんとか理屈をつけて安定のほうに逃げたがる。でも迷っていて、答えが出ないということは、危険な道を本当の自分が行きたい道なんだと考えることにしたって言うんです(『自分の中に毒を持て』より)。それに安定なんて、求めたからって手に入るものではないんです。これから起こるかもしれないリスク(思いがけない出来事)に対して想像力を発揮して、最悪の場合を具体的にイメージして、それに備えて自分にできる限りの準備だけはしておく。何かと不安なことがたくさんあるこの時代に、「安定」という言葉にすがりたい気持ちはよくわかります。もうこれ以上心配しなくてもいい、何も考えなくてもいい、ラクになりたいという気持ちは誰にでもあります。でも、いろいろと先の見えない不安定から逃げずに、悩みながら歩き続ける人のほうが、いい仕事もできるし、幸運にもめぐり会える。それだけは、まちがいありません。』【必ず本気になれる】『苦しいですよ、二つのうち、現在だけでなく、将来も含めて、どっちが自分にとって本当にハッピーな選択なのか。わかるわけがない。だから悩むしかない。私は、結局、大学院にどうして進もうと決心したのか、わからないし、覚えていない。覚えていないけど、ひとつだけハッキリ記憶にあるのは、バカみたいに悩んだこと、苦しんだことだけです。最後の最後は悩むこと自体にヘトヘトになって、答えが出ないんだから、もうどっちでもいいや、しょうがないや、くらいに開き直るしかなかった。でも、それで良かったんじゃないかと、今は思っています。二つのうち、どちらがいいかはわからない。その中で、選択をどちらかにする。選択した後に、いろいろなことがある。失敗もある。イヤなこともある。こっちの選択はまちがいだったかなって。けれど、迷うだけ、迷った挙句に開き直って決めた道だと、どこかで潔くなれるんです。こっちもたいへんだけど、あれだけ悩んだ末に決めたんだからしょうがないじゃない。向こうの道に行っていたって、多分、いろいろとそれなりに苦しいことはあったと思うよって、自分に言うことができる。悩むだけ悩んで、それで答えが出ないんだったら、悩んだ二つの道はどっちに行こうが成功だし、どっちに行こうが失敗もある。それはそれでしょうがない。そんな心境になれるんですよ。』【進路についてのアドバイスを、と若い人に言われて】『「苦しいけど、もっともっと苦しんでください、悩んでください、簡単に結論なんか出さないでください」なんて言います。少なくとも、安定だったりとか、他人の言うこととか、周りの常識だったりとか、そんなことで簡単に悩むことから降りないでほしい。寝られないくらいに、食事ができないくらいに、悩んでほしい。それで、ぎりぎり、締め切り間際まで真剣に、最後に決めてください。自分の力で。そこまで苦しめば、後はなんとかなりますよ。そのときの自分は本気だもの。人生の選択に答えなんかない。けど、答えなんかない、わからないからといって、最初に悩むことにあきらめるのは、できればしないでほしい。就職でも、恋愛でも、悩んで苦しむだけ苦しんだ人のほうが、どういう結果であれ、その姿は魅力的で美しいと思います。』(引用、終わり)つまりは、悩むことで答えはでない。確実な正解なんて、ない。でも、悩みきることで、自分を納得させ、次に進むことがはじめてできるようになる、ということだと思う。悩んでいい。悩んで、悩んで、悩んだ先に、道ができていくのだろう。
March 2, 2005
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先日パソコンを買い換えた際にも思ったが、今の時代ほんとうに「選ぶ」という行為は疲れるもんだとつくづく思う。つまり、情報があふれる今の時代に、「正しい選択」をするのはますます難しくなってきているということだ。選択をするということは、他の可能性を切り捨てることだけども、その過程で大きな心の葛藤が生じる。もちろん、どのクッキーを買おうかというレベルの選択であれば、あるものを選ぶことで別のものを選んだときに得られたであろう可能性の損失(経済学でいうところの「機会費用」)は、それほど大きなものではないので、大きな悩みが生じるほどのものではないだろう。だけど、例えばこれがパソコン、車、家と、どんどんとコストが高くなるものが選択の対象になればなるほど、機会費用は膨らみ、それに比例して「選択における迷い・心の葛藤」は増大していく。これはモノだけの問題じゃなくて、よりマクロな、人生における選択、例えば結婚や仕事選びの際にもあてはまる。キャリアの選択という問題。職業の選択肢が増えることは一見いいことのように思えるけど、選択肢が増えた分だけ、機会費用損失の可能性が大きくなり、「選べない」「決められない」「あきらめ切れない」という気持ちを持つ機会も多くなっていると思う。そこで、大事になってくるのが「折り合いをつける」「上手にあきらめる」という考えかただと思う。これについては「本のあしあと」に少しずつメモしていこうかな。スクールで教えていると、どうしてもプロへの道をあきらめきれなくて、それに固執して、貴重な時間を無駄にしそうな生徒さんが必ず毎年何人か出てくる。もちろん、「がんばれば誰でも一流のプロになれる」みたいに宣伝している学校、いや世間の風潮にも責任はあるだろうと思うし、教えているという立場からは、自分もその風潮に荷担しているんじゃなかろうか、という罪悪感もないわけではない。しかも、生徒さんには人生かけてるような人もいるわけなので、無責任なアドバイスなど簡単にできないのだ。何より、自分自身だっていつも迷いの渦中にいるわけだし…。その人その人に応じて、生徒さんが納得して「決めることができる」ようになるお手伝いができればいいのだけど、相手の考え方が「がんばります!」一点張りの「上手くあきらめられない」系の人だと、話が通じなくなってしまうので困るのだ。ふー。
February 24, 2005
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今日はこれから先週末に引き続き行われる会議の通訳。今日は終日同時なのだが、プレゼン資料なんかは何もないらしいので、タウンミーティング形式のものになりそう…。こういうのが一番きついんですけどね…。スピーカーは猛烈に早口だった。先週は「通訳の人がしゃべるのを聞きながら、ゆっくりしゃべって、ストップ入れながらしゃべるから安心して。」などと言っていたのだが、こういう人に限って通訳を使いなれていないことが経験上わかっていたので、「ブツブツと切って止りながらしゃべらなくていいですよ。同時通訳なので、ゆっくり普通にしゃべってくれたらいいです。」と言っおいた。打ち合わせのときからエライ早口なのはわかっていたのだが、さて案の定、蓋を開けるとまさに暴走スピーカー。「止る」「ゆっくりしゃべる」「通訳を聞きながらしゃべる」などという概念はどこかにすっとんでいるに違いない。まぁ、予測できていたことだけど。だいたい「ゆっくりしゃべるから」というコトバ程信用できないものはない。また「片方の耳で通訳の調子を聞きながらスピードを調整してしゃべる」なんてことは、普通の人間にはほぼ不可能だ。ていうか、こんな芸当するくらいなら、同時通訳をするほうが気が楽だ(笑)。通訳に全く気を払わないスピーカーも多いので、こんな風に気を遣ってくれるのは嬉しいのだけれど、大体その気遣いが実際の場面では活かされないことのほうが多い。でも人前でしゃべるときの緊張感という意味では、常日頃シンパシーを感じているので、終了後にはニッコリ笑って、「わかりやすいスピーチで通訳しやすかったですよ。」と、また言ってしまうのだった。そんなとき、ちょと自己嫌悪を感じる(笑)。
February 21, 2005
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うーん、明日はとっても専門的な会議の通訳があるのに、なかなか準備が進まない。夏休みの宿題のときもそうだったのかな。いや、違う。あの頃はどっちかというともらったらババっと済まして後は遊ぶ、みたいな嫌な子だったぞ(笑)いつから「面倒なことは後回し♪」みたいになっちゃんたんだろう…。ま、いいか。でも通訳の準備というのはこの夏休みの宿題に似ている。しかも、「夏休み明けテスト」という恐怖のテストのおまけつき。こんなことがずっと一年中続くのが通訳って仕事なのだ。だから、基本的に勉強嫌いな人には向いてないです。うーん、それって自分のことかも…汗
February 18, 2005
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英語を習得する、マスターする、なんでもいいけど、そういう人には、じゃああなたの日本語は完璧なんですか、と100万回問いたい衝動に駆られる(笑)日本語だってわからない単語いっぱいあるわけで、そういう厳密な意味では、一つの言語をマスターするなんてことはありえないのだ。逆にいうと、マスターとか習得とか、初めから気負うことはやめてリラックスしましょ♪ってこと。英語なんて、アメリカ行けば確かに4歳の子供でもしゃべってる。でもその子に日米関係について話せって言うと、果たして話せると思いますか?そういう意味ではその子もまだ英語をマスターしてるとは言えないでしょう。母語といえども、語彙と知識は永遠に学びつづけていかなくてはなりませぬ。それから英語って、アメリカやイギリスだけの英語が英語じゃない。世界にはいろいろな英語がある。Englishesと言ったりするくらいだもの。そして、英語話者同士でさえ、意志疎通が困難になることは多々ある。いわんや、Non Native Speakerの我々をや、だ。だからさ、もっと肩肘はらずにすればいいんじゃないかなぁ。闇雲に英会話学校に通う前に、冷静に考えてみる。1.なぜ英語ができるようになりたいか(モチベーション・意欲)2.どこまでできるようになりたいか(目標)3.どうやって勉強するのがいいか(手段)最低この3つがしっかり解っていなければ、結局なんとなく勉強初めて、なんとなく中途半端に終わることになるだろう。1.なぜできるようになりたいかしたいこと、欲望や欲求は、やる気・意欲・モチベーションの源、「燃料」。燃料がなければ車は走らない。だからここが一番大事。どうしてできるようになりたいの?具体的に。例えば、私は看護婦で最近病院に外国人の患者さんが増えてきて、もし英語ができたらもっと仕事もスムーズにまわるし、患者さんにもより安心してもらえるから、とか、より具体的なものを思い浮かべるようにするといい。2.どこまでできるようになりたいか(目標)車(自分)は元気、燃料(意欲)はある、さて出発だ!・・・ちょっと待って。どこにいくの?目的地は決ってるの?どれくらいかかりそうなの?燃料はたっぷりある?目的地が決っていない旅は放浪の旅。いつかは燃料も尽きてしまう。だから、英語を使えるとしたら、どの程度まで使えるようになりたいか、当面のゴールを決めなくちゃ。最初に言ったように「マスター」はないんだから。例えば、最初は「家から近所の駅まで」みたいな目標でいいし、それがクリアできたら「隣町の本屋まで」みたいに目標を少しづつあげていってもいい。それでも「最終的な理想型」は、自分の希望と必要性に合わせて設定しとくほうがいいと思う。3.どうやって勉強するのがいいかこれは2が決れば自ずとするべきことがわかってくるし、逆に言うと2が定まっていないと、焦点の定まらないダラダラした勉強になってしまう。まあ、良く考えてみれば、こういうことって何も英語だけに限らず、「学習」するっていうこと全般に当てはまることだよね。Know where you want to go. Learning with no goal will get us nowhere.なのではないかと。
February 17, 2005
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といっても走るんじゃなくて、リレー通訳のことなんだけど。こないだご一緒した中国語と韓国語の方もそうだったけど、大体AIIC(国際会議者連盟)のメンバーであらせられまする。日本じゃ数えるくらいのひとしかメンバーになってないこの組織、実際海外の通訳者とお仕事すると、結構皆さんメンバーでいらっしゃる。名刺に堂々と書いてるもんね。去年ご一緒した英仏通訳者のおばさまも、そりゃあエレガントで素敵な方でした。一般に通訳の人って気がきつくてやばい性格の人が多い気がするのだけど、本当にできる人ってやっぱり人格も優れてると思ってます。もちろん例外はいると思うが。しかし、こちらがスイッチ間違えようもんなら容赦なく横からガラス窓叩かれますから。ええ。怖いには違いないです。そしてやはりリレーの時には人一倍リレーを受ける通訳の方々に気を遣います。自分の英語が通じなくちゃ、しゃれになりませんから・・・。会議終了後に聴衆から、「あの、○○さんって中国語もわかるんですか!?」って。いやいや、それはですね、英中の通訳の人が中→英と訳したのを聞きつつ、こちらが英→日にして・・・と説明すると、「ああ、それでタイムラグが長いんですねぇ」と感心されていた。うーん、これってやっぱ、完璧伝言ゲームなのねと改めて認識した。遅れても、せめて正確に伝えないとと自戒をこめる。伝言ゲームみたいに、最後がおかしくなって大笑い、じゃ済まされないもんねー。ああ、やっぱり怖い仕事だ(笑)
February 16, 2005
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Yahooのコンピュータニュースに<「評価されない」悩めるエンジニアへ──来年は「まず一歩前へ」>と題されたニュースが載っていた。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041220-00000001-zdn_n-sci その中で、Tech総研の編集長がこんなことを言っているのでそのまま引用:(引用開始) 「将来への不安を解消するのは難しい。変化のスピードが劇的にアップした今、数年前まで通用していた処方箋も役に立たない。「ほんの5年前までは、キャリアに悩む人に対して『5年後、10年後の自分の姿を想像して今の自分の能力をたな卸しし、足りないものを一つ一つ埋めていけばいい』とアドバイスしていたが、今は5年後すらどうなるか分からず、将来像は描きにくい」。 解決策は、とにかく一歩進んでみることだという。「なんとなく面白そうとか、ハッピーになれそうな匂いがしたら、まずはそこに向かって一歩進むことが大切。少しでも前に進めば視界が変わり、新しい人に出会ったり、新しい才能に気づいたりする」。 この処方箋は、前川編集長の経験則に基づいている。「キャリアを極めた人に何人もインタビューしたが、はじめからビジョンや目標があった人はまずいない。やりたいことを、がむしゃらに頑張ってきたら、知らない間に今の位置にたどり着いていたという人がほとんど。10年後のあるべき姿を求めて自分を追い詰めないほうがいい」。(引用終了) 前に「計画された偶然」理論のことを書いたが、それとかぶっている内容だ。確かに今の時代、見通しがききにくいということは自分のまわりや会社の状況を見ても実感する。しかし、とにかく一歩、まず一歩、それはわかってはいるんだけど、その一歩が踏み出せずにいる人が多いのだ。見通しのない霧の立ち込める道で、むやみに一歩踏み出せば崖に落ちてしまうかもしれない。「未知の道」は恐いのだ。 それでも、そのままその場所に立ち尽くしてしまえばそのままだ。霧が晴れることもあるかも知れないし、ないかも知れない。霧の立ち込める中で、少しでも明かりを見つけることができたら、あるいは足元に少しでも道があることが見えたら、そちらに歩いていくほうがいいのかも知れない。 大袈裟な目的やビジョンは必要ないのだろう。というよりも、そんなモノすらも掲げたところで陳腐化し、変化の波にさらわれてしまう危険性があるんじゃないだろうか。遠くの灯台の光に向かって進むことは必要かもしれないが、もっと足元の明かりを見て進むことのほうが、より大切なんだと思う。
December 20, 2004
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同通(同時通訳)はやっぱコンスタントにやらねば勘を戻すのが大変だ。今回はパートナーの人は初めての人だったけれども、なかなか明るい感じの人で話も弾み、ブースの中でのストレスはなかったんだけど…。最近してなかったので、やはりエンジンかかるのに時間がかかったのだ。しかも、今回は日本語が流暢な英語ネイティブの日本語を英語に同時通訳したりして、何やってんだか途中でわかんなくなったり(笑)軽く後味の悪い仕事になってしまった。同時通訳というのは一種のスポーツみたいなもんだ、体育会系だって昔師匠が言ってたのを思い出す。ピアノなんかと一緒で毎日の練習が必要なんだろうな。でも最近はモチベーションも下がりまくりなので、していない。そして、やはりそれが現実に反映されているという有り様か(笑)。ところで、英語ネイティブの人の日本語を通訳をするという機会はあまりないのだけど、やっぱり妙な感じがする。だって、オリジナルでその人がしゃべったほうが、どうしたっていい英語がでてくるわけだから、なんか申し訳ないような…。その人にしたって、流暢とはいえやはり日本語は完全ではないので、もどかしさが残るでしょう。しかし、日本に長く滞在してる外国人のなかには、どちらの言語にスイッチするかというポイントが、話に熱中してる間にすっとんでしまって、いつのまにか自分がどちらの言語を話しているのかわからなくなってしまうようだ。なかなか興味深い現象ではある。一緒に参加した日本語を解さない英語人達も神妙な顔つきをしていた(笑)。会議翌日は、国際フォーラムで行われている「人体の不思議展」に寄ってみた。これはねぇ、一応お勧めと言っておくべきか。仕事柄というか何というか、どうしても展示物の説明書を逐一読んでしまうために、時間のかかったこと。それだけで消耗してしまったという感じ。しかもその説明が結構専門的で、一般の人がみてもよくわかんないよーって感じだったのだが、案の定ちゃんと読んでる人は殆どいなかった。もう少しわかりやすく書けばいいのに…。それに入場料1500円はあまりに高いんじゃありません?しかしまあ、ああいうものは写真ではなくて立体的に見たほうが理解が早いので、この分野に関心がある人にはやはり貴重だ。もともとはドイツで医学生向けに作成されたもんだもんね。展示人体のほとんどは、死刑になった人の献体と聞く。現世で罪を犯した人が、こうして現代版ミイラとなって蘇り、我々に惜しげもなく体内を披露してくれて、学習の機会を与えてくれる。そう考えれば、「あなたたちも社会に貢献したのだ」と言ってあげたいような気もするが(恐らくこの人体剥製を開発したドイツ人やら展示会の主催者はそんな風に思って自分を納得させているのではないかと思うが)、本人達にしてみれば、死んでから(殺されてから)死に恥晒したくねーよ、と思っているのかもしれない。何せ、いくらここまで精緻な再現ができても、結局話はできないのだからわからない。そう考えてみると、人体とはやはり器に過ぎないのだなぁと改めて思うのだった。
December 16, 2004
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世界観。この世の中をどうみているか。そして、その中で自分はどうしたいのか、どういう貢献をしてみたいか。職業や、資格や、役職や、勤め先。それらは全てツールに過ぎない。自分の世界観を実現していくための。世界観といっても、そんなに大袈裟なものではないと思う。今自分が、どうしてこの場所にいて、どうしてこの仕事をしているのか。それには自分の世界観が、大なり小なり反映しているだろう。その世界観と、現実とのギャップが大きくなると悩みに変わり、そこから逃げ出したくなる。どこへ?それがわからないからまた悩む。そんなとき、もう一度基本に立ち返る必要があるのかもしれない。きっと、自分は何者かになりたかった。なにかをしたかった。非力ではあるけれども、世界に何らかの影響や貢献をしたいと思ったはずだ。世界とは自分の身の回りのことから地域のこと、日本のこと、世界のこといろいろあるだろう。でも、自分を取りまくWorld全てが、それにあてはまるのだろう。小さな自分を感じながら、それでも自分の思いから目を逸らすことなく、考えていかなきゃいけないんじゃないか?
December 3, 2004
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日本語タイトルは「今を生きる」。ロビン・ウィリアムズ主演の12年くらい前のヒット映画だ。 洋画のタイトルは日本で上演される場合、そのまま英語をカタカナにして使う場合(ターミネーター)と、映画全体の雰囲気から全く違う日本語タイトルに変えてしまう場合と二つあるようだ。上の「今を生きる」は後者の典型。英語をそのまま訳すと「死せる詩人の会」となるが、これでは多分お客さんがこないと踏んだのだろう。 確かに、映画を貫く全体のテーマは、頻出してくるロビン・ウィリアムズの台詞「Seize the day.」に集約されている。seizeは「かなりしっかりグッと掴む」ようなニュアンスの単語で、力ずくでつかむような、非常にパワフルな意味を持つ。 dayに定冠詞theがついているのもポイントだ。日本人が最後まで習得が困難とされる英語の文法上の難関は、前置詞と冠詞だとよく言われる。基本的な冠詞の機能は「特定か不特定か」を明示するものである。a dayではなくthe dayとなっているので、特定の日を指す。そして、話者にとってそれとはっきりわかる物事を指す場合にもtheを伴うので、これらから、the dayとは「今現在生きてきる一日間」ということになる。そこから、「今という瞬間」という風に解釈できる。したがってSeize the day.は「今という一瞬一瞬を決して離さないように、しっかり全力で捕まえなさい。」という、短いけれども非常に強力なメッセージを含んだフレーズになるのだ。余談だが、大体において重要な言葉は短いことが多い。 そこから考えて、日本語では「今を生きる」という風に訳され、それがそのままタイトルになった。とてもよく考えられて作られたタイトルだと思うが、英語原文の台詞はもっと「我武者羅な一生懸命さ」を伴って迫ってくるようなことばだ。ところが、「今を生きる」とすると、さらりと「今をしっかり生きましょう」と、なんだか東洋的な自然の流れに逆らわずに、徒然なるままにやっていきましょう、というようなニュアンスで聞こえなくもない。もちろん、そこから深い、強いメッセージを受取る人もいるだろう。しかし、その逆を感じる、あるいはそのコトバから軽率さを感じる人もいるだろう。 言葉の意味は間違っていない。でもやっぱり正確なニュアンスではないような、歯がゆさが残る。じゃあどんな訳がいいのか、と言われると、本当にニュアンスまで汲んで訳すとどうしても説明的な訳にならざるを得ず、恐ろしく長くてコピーとしては到底使えないような文になるだろう。なので、究極的にいうと、完全なる翻訳は不可能だったということになる。「今を生きる」がベストの選択だったのだと思う。 うまい翻訳でも、原文のココロまで忠実に再現できるかどうかは、相当難しいと言えるだろう。翻訳にははじめから限界があるとも言える。そして、この限界を限りなく埋めていく作業に立ち向かう人々を「翻訳者」という。完全に埋められないことがわかっていても、その限界に挑もうとするココロザシを持った人達。そう考えると、ちょっと英語を活かして翻訳を、などと大それたことは考えられないと思うのだが…。
November 22, 2004
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久しぶりに名古屋に行ってきた。いつ訪れても整然とした町並みには感心するのだが、いま名古屋を中心とした東海経済圏は、日本経済低迷の中にあってとても景気がいいらしい。世界のトヨタはもちろんだけど、中部国際空港の開港と、来年には万博も控えて町が活気づいている印象だった。なのに、あののんびり加減はなんだろう。東京首都圏はさておき、関西経済圏と比べても規模では大して変わらないのに。「大いなる田舎」なんて言われてきたけど、その雰囲気は万博の開催を契機に変わっちゃったりするもんだろうか。タクシーに乗るとおじさんが親しげに話しかけてくる。そんなおじさん達は、みんな名古屋が大好き。I love Nagoya. まあ、名古屋を誉めちぎったらタクシー代まけてくれたりするので、いいんだけどね。例えば名古屋駅地下街のショップと飲食街。なんで、夜9時に一斉に閉まるのか。これって結構衝撃的だったりする。コンビニはさすがに24時間開いてるみたいだけど。ほのかに都会でほのかに田舎というスタイルは、そこに住む人にとっても心地よいに違いない。万博なんかを契機に急速に開発が進む地域は多いけど、名古屋はそんなものなくても経済発展してきたわけで、それを契機に急激に変わるとも思わない。なぜ東京や大阪のように大都市化(まあ、名古屋も大都市なんだろうけど、不思議とそう感じない)してこなかったのだろう。徳川以来の「質実剛健」をずっと守り続けている結果なんだろうか。
November 17, 2004
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久しぶりに某友人と飲みにいって話をしたんだけど、話のネタに、生活していくということは選択の連続だが、その選択の基準をどこにおくかという、まじめな話題になってしまった(笑)これは仕事に限らないことだけど、一番わかりやすいと思うので仕事選びをするという場面を念頭において考えてみると、まず「自分がやりたいことをやる。仕事選びにおいては、自分の意思を通すことが大事。」という意見が一方にある。また「自分がやりたいと思ってもやれないこともある。状況に身を委ねることも大事ではないか」という考えかたもある。さてどちらが正しい考え方なのだろうか。どちらが仕事選びをするときの基準として持っておくべき姿勢だろうか。結論から言ってしまえば、「たぶんどちらも正しいだろう」。あるいは「たぶんどちらが正しいとは言えないのだろう」となった。はっきり言ってよくわからない、というのが本当のところ。「やりたいことをする」というのは、仕事のモチベーションを高めるにはとても大事な要素だ。夢なんかもやりたいことの中に含めてしまえるかもしれない。自己実現ブームが起きて久しいが、好きなことをする、やりたいことをする、それ以外では満足感は得られないのだ、っていう感じの本もたくさん売れているようだ。だけど、やりたいことというのは、実際にやってみたら理想と違ってたってこともあるし、やりたいことに固執するあまりに、自分が持っている、まだ気がついていない才能を眠らせたままにする可能性もあるわけだ。自分では考えてもないような仕事を頼まれたり、希望していない部署に移動になったり…なかなか自分の希望通りに物事は運ばないようにできている。しかし、自分一人の意思では選ばなかったであろう選択肢がやってきた場合、拒否するのは簡単だけれども、新たな自分の可能性を得るチャンスがきたとも言えるのかもしれない。 けれども、流れに身を任せた場合、行き先のない航海にでるような気がして、心細くなってしまうだろう。ゴールのないマラソンを走るようなものだ。でも、そう考えてしまうから行き詰まってしまうのかもしれない。だって人生にはゴールがないもんね。あるとすれば「死」がゴールと言えなくもないけど。しかし、そのゴールはいつ訪れるかわからないのだから、やっぱりゴールとは言えないでしょう。とすれば、人生って(重っ!)、ゴールに向かって一直線に進むレースではなく、寄り道をしながらオリエンテーリングしてるみたいなものと思ったほうが気が楽だ。ならば、寄り道の一つ一つを味わい、楽しむのも一つの生き方として、もっと推奨されてもいいような気がする。寄り道をしてる間に、新たな可能性の扉を開くことだってあるかもしれないし、おもしろい発見があるかもしれないし。しかし同時に、流れに身を任せると言っても、強引に流れを変えないとチャンスは巡ってこないじゃないか、とも思う。いきたいと思った方向にとりあえず行ってみないと、後で後悔することにもなるだろう。だから二項対立なのだ、このネタは…笑結論めいたことはよくわからない。でもわかっているのは、「やりたい」と本人が思っていても、周りが「やらせてくれない」とどうしようもない、ってことだ。「やらせてくれない」というのはいろんな要素が絡んでくる。実力が足りない、人脈が足りない、需要がない、人から認めてもらえていない、etc…。 逆に、自分の前に考えてもないのに現れた仕事は、もしかしたら、「たぶんあいつならやれるだろう。あいつが適任だろう」という風に考えられて、運ばれてきたものなのかも知れない。そう考えると、その運ばれてきたものを拒否するのは、なんだかもったいないような気もするのである。この二項対立のギャップを埋めるにはどうしたらいいのか、結局のところはわからないが、まず「やりたいこと」がある場合は、まずは、そのやりたいことが「本当にできるのか」ということを問いかけてみる。そして、できないのであれば、できるように勉強して、訓練してできるようになる。しかし、できるようになっても、そのやりたいことが実現できるかどうかは、他のいろんな要素で阻まれてしまう、という可能性があることを忘れないこと。人事を尽くして天命を待つ、という言葉を覚えておくこと。そして同時に、目の前に持ってこられた仕事に対しても、手をかけることを忘れないこと。もしかしたら、そっちが本当にできることになり、やりたいことに化ける原石なのかもしれないのだから。
November 8, 2004
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自分がまだ何者でもないのに、何でもできると思えること。これが若さなんだと思うけど、最近こう思えなくなってきたのは、若さがなくなってきた証拠だろうか(トホホ)。これは少し寂しくもあり、少し嬉しくもある。若さの前には無限の可能性がある(と思い込める)。少しずつ現実を知り、年を取って、自分よりも若い子たちが、次から次へと後ろを走ってくる。できることとできないこと、現実と夢の違いを知る。人生の選択肢が、少しずつ少しずつ狭まってくるような気がしてくる。タイタニック号で、船底に閉じ込められた人たちが必死の思いで徐々に降りていく防水扉に向かって走っていくような感じ。気持ちだけではない。駅の階段を少し駆け上がっただけで息切れがするとか、病気になりやすいとか、すぐ疲れるとか。いや、まだそんなトシじゃないんだけど(笑)、やっぱりピチピチフレッシュな頃とは違うよねってことを実感する。そうでしょ?そこのあなたも。根拠のない自信を失った代わりに、根拠のある自信を多少は得られただろうか。「何でもできると思える」ことは「何もできない」こととほぼ同義だ。若い心はなんでもできると思えるが、それは何もできないというあせりの心と同居している。自分もそうだったと思う。一生懸命生きていくなかで、少しずつ「できること」が増えていき、少しずつ「根拠のある自信」がついてくる。あせる気持ちが徐々に和らいでくる。これを成長と呼ぶのかもしれない。安定とも言えるかもしれない。しかし同時に、「何にでもなれる」という根拠のない自信が薄れてくるのは、やはりどこか寂しいものだ。未来に向かっての夢や、自信をつけていくためのプロセスを放棄してしまったとき、そして今できることだけに安住して安定の中だけに生きるとき、成長は止み、人は「今できること」を一定程度維持した後、退化へと進むのだろう。もう何にでもなれる、なんて青臭いことは素直には思えない。けれど、挑戦しようと思って先延ばしにしてることや、できるかどうかわからないけど、そもそも面倒くさくてやってないだけ、っていうことってたくさんあると思う。興味があるのになかなか手をつけてないこととか…。そういうこと放棄してしまったときに、本当の老後が訪れるんだろうなと思う。そして、それにはまだまだ自分は「若すぎる」と言っておこう。
November 5, 2004
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「吉本ばなな」って、いつのまにか「よしもとばなな」に改名してたんだ~。それはさておき、ばななさんはHPを持っていて、そこに読者からの質問コーナーのようなものがあるのだけど、その中に「人生における壁にぶつかったとき、どんな風にしてそれを乗り越えるか教えて下さい」というのがあった。 まあ、そんなもんは自分で考えろと思うんだけど(笑)、ばななさんの回答がいたってシンプル。いわく、「友達にグチり、プロに相談し、間を置き、自分で結論を出し、悔やまない」以上。 この人ってとっても論理的思考だなぁと思った。悩みが起きたときに友達に相談するって人は多いだろう。でも、結局それで悩みが解決できることって少ないんだよね。少なくともワタシの場合ですが。悩みは聞いてもらってる段階で半分は自己解決してることが多いよね。結局、相談というよりも、誰かに聞いてもらいたかったってのが多いわけで。 プロに相談するっていうのは、病気のことを考えたら一番わかりやすいだろう。どこか具合が悪くなって、これこれこういう症状だけど…っていうのを、親兄弟や友達に相談しても、ちゃんとしたアドバイスなんかもらえないし、答えるほうもヘタなこと言えないもんね。そもそも病気の診断っていうのは、医者でも難しいわけだから、なおさら素人に聞くということそのものが間違いなわけで。こういうのは他に、法律や税関係なんかでも言えることでしょうね。 気になったのは、「悩みを聞くプロ」に相談するってこともありなのかなってこと。ばななさんは占いを信じている人らしいので、結構占い師の話なんかでてくるんだけど、占い師ってある意味、悩みごとを聞くプロと言えないこともないんで、もしかしたらそういうことも含めて「プロに聞け」と言ってたのかなぁと思った。 さて、間を置く。これはその通りだと思う。恋愛なんかとくに顕著だと思うけど、頭に血が上ったりしたとき人間は冷静な判断能力を失う。メールなんかでも、そんな状態のときに書きなぐった文章は、後から見ると赤面したくなるようなことが多いけど、それと似ている。悩んでいるというのは、考えても結論が出ないということと一緒。ということは、ある一定以上考えても答えは出ないんだから、しばらくそのことを忘れて「寝かせておく」のも手かもしれないと思う。寝かせておくうちに、小さな悩みであれば忘れてしまうかもしれないし、その間に新たな出会いや経験をして、その中でひょんなことから解が得られる場合があるかもしれない。 自分で結論を出すこと。他の人にこう言われたから、ではなく最終的には自分で結論をだす。他人のアドバイスにそのまま盲従して結論を出せば、出した結論がまずかった場合に、その他人のせいにして怨んでしまう、ってこともあるからね。自分の悩みはホントのところ、自分にしかわからない。自分の人生には自分で責任を持つ。当たり前なことなんだけどね。 さて、これとつながっていると思うけど、考え抜いて、友達にも人にも相談して、間も置いて考えて、最終的に自分で出した答えには後悔しないこと。これだけたくさんのことやって出した答えでも、時には間違っていたとか、後悔するってこともあるだろう。悔やまないといってもやっぱ悔やんでしまうと思う。それが人間だもんね。でも、あの時、あれだけやって出した結論なんだから、あのときはあれ以外に選びようはなかった、って思えたら少しは楽になるのかも知れないなと思った。それに、あの時別の選択をしていたとしても、いい結果になっていた保証はどこにもないわけで。だから後悔というのは、やらなかったことに対する後悔は大きいけれども、悩みぬいて決断したことに対する後悔には、はっきりいって意味がないってことなんだよね。まあ、言うは易し…なんですけどね。
November 4, 2004
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おいしいものが食べたいから、以前人から聞いたある店の場所と地図を調べて、わざわざ車や電車に乗って出かけていく。お母さんに褒められたい一心で子供が一生懸命勉強してテストでいい成績をとる。評価や報酬を得るために仕事で成果を出そうとする、etc...人がなにかをしようとするとき、原動力となるのは動機だ。動機がないと朝起きるのもおっくうになる。登校拒否や出社拒否の原因も多くは動機の欠如かもしれない。評価や報酬といった、目に見えてわかるものが動機の源泉だとするのは一番分かりやすい。先日テレビでラーメン屋のチェーン店で若手の店長候補を競争にのせ、やる気を出させるために必要なものは何かと聞かれた幹部が、「報酬とポスト」と言っていた。この人が本当に心からそう思っているのであれば、あまりこのラーメン屋には行きたくないなぁと違和感を持った。報酬とポストには、確かにある程度人を引き付ける魅力があり、動機になりうる。報酬はいわばイルカショーでイルカに与える魚みたいなもの。ポストは自尊心や名誉欲を満たすもの。どちらも典型的なモチベーターである。しかし、ポストバブルの世代にとって、この二つは旧来の価値観を反映した典型的なモチベーターなのではないか。いずれ報酬は頭打ちとなり、ある一定以上までいけばポストも限られているという現実に直面したとき、その若者はどうなるのか。いや、ポストバブル世代に限らず、今旧来の価値観の転換が言われている時代に、上記の言葉はなんとなく時代錯誤な違和感を感じてしまったのだ。目に見える評価や報酬は、ある程度まで行けば自ずとマンネリや満足感を行動するものに与え、強力なモチベーターでは有り得なくなるのではないかと思う。例えば、年を取ってなお、報酬やポストが欲しい欲しいと言いつづける人は、政治家や天下り官僚の一部を除けばそんなにいないのではないか(と思いたい)。では、本当に人を動かす動機とはなんだろうか。子供の頃を思い出すと分かりやすいのかもしれない。人の評価を気にすることなく、自分の興味に向かって生きていた日々。好きかどうか、なんてことを考える間もなくやってしまっていたこと。つまり、そこにある動機とは、「それがただやりたいから」。そこにここが面白いからやる、という余計な理由づけはない。もちろん、社会に出て人と交わり仕事をしていけば、自分のやりたいことだけやってりゃいい、なんてわがままができる人は限られてくるだろう。でも、周りを見渡せば、やりたくないことを多く抱えている人が結構多いような気がする。それって必然なのだろうか。もっと抱えている荷物を減らすことはできないのだろうか。年間最多安打記録が間近に迫ったイチローの言葉より:「第三者の評価を意識した生き方はしたくない。自分が納得した生き方をしたい。」「これでいいやってならない理由は、ぼくの場合は、野球が好きだから、です。」「ヒット一本って、飛びあがるぐらいにうれしいんですよ。2003年のときの200本安打なんて、涙が出ましたから。」「苦しいシーズンで、経験できなかったことをくぐり抜けると、もっと野球を好きになる。野球の魅力っていうのは、終わりがない。」「畑違いのことは、やるべきではないでしょう。」「妥協をたくさんしてきたし、自分に負けたことも、いっぱいあります。ただ、野球に関しては、それがないというだけで。」「これ以上やっても抜きんでることはできない。だから勉強を捨てました。」「決して、人が求める理想を求めない。人が笑ってほしいときに笑わない。自分が笑いたいから笑う。」嬉しい、楽しい、わくわくする。もちろんその中でも苦しいこともあるし、ちょっと嫌なこともあるだろう。でも基本は、こうした気持ちが動機の源泉になったとき、永続的なモチベーターが生まれるような気がする。報酬やポストはそれに付随するおまけに過ぎないのだと思う。
September 30, 2004
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友人の一人が独立してフリーになったのは、今年の春。最近は会っていないので直接話はしていないが、HPを持っているので覗きに行った。まだまだ日本では浸透していないような分野の仕事なので、なかなかストレートに収入には結びついていないようだけど、傍目にはそれなりに順調にいっているようにみえる。しかし、内情はやはり本人にしかわかり得ないだろう。日記にはそんな複雑な心情の吐露が垣間見えて、ああがんばって欲しいなあ!って瞬間思った。しかし、思い直した。この「がんばって」って言葉も、簡単に使ってしまってはだめなのかもしれない。基本的にあまり好きな言葉ではないが、何気なく出てしまう。ものすごく適当な言葉だと思う。いまがんばってる人に使うと、これ以上どうがんばればいいの?っていうプレッシャーにもなってしまう言葉だ。多分、友達は今「がんばって」いるのだと思う。でもあんまりがんばりすぎても欲しくない。がんばらねばならない社会って一体なんなんだろうか。人生とはがんばらねばならないものなのだろうか。がんばりを必要以上に要請される社会は、やはり健全ではないような気がするのだけれど。資本主義自由社会とは、自由の名のもとに「がんばり」を強制されてしまう構造になっている気がする。そんな社会がこの先続くとも思えない。疲れるもの。共産主義が否定され、資本主義の勝利が叫ばれて10年以上経ったけれど、人間が幸福にならない社会はやっぱり成功した社会とは言えないと思う。もちろん「がんばり」とその「見返り」に達成感や幸福感があるのも認める。でも「がんばる」という価値観は、人を根本的には疲れさせるものだろう。がんばる人が増えれば増えるほど、社会全体としてはストレス過多となり、歪みが生じてしまうのではないか。休憩室で休んでいる人を観察していると、多くの人が疲れた切ったような表情をしている。楽しそうではない。なんでそんな暗い顔をしているんですかと、一人一人に問い掛けてみたい衝動にかられた。がんばらずに楽しんでいれば、そんな顔にはならないはずなのに。がんばらずに楽しむ。この方向でなんとなくいいような気がしている。社会のシステムもこの方向に沿って変わっていってくれればいいんだけどな…。ただのわがまま、絵空事だろうか。
September 29, 2004
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プロとアマの違いを分けるのはなんなのだろうと考えてみるに、やはり基本は、それが続けられるかどうか、につきると思う。自分の思い描いていた仕事も、現実にはうまくいかないことがたくさんでてくるだろう。その時に、「もうこりごり、絶対いや」と思うか、「それでも続けたい」と思うかどうか。どんな分野でも10年続ければ、いっぱしのプロになれるというのは本当だと思う。続けられないということは、もともと適性や能力がなかったからということだろう。千里の道も一歩から。コツコツ積み上げていくしかない。ただ、だらだらと時間だけ10年過ぎてもあまり身にはつかないというのも確かだろう。自分が納得できるよう、懸命にやってみるという気持ちを持って続けるという意志が大事だ。ただ、こうして努力を続けていても、道が開けないこともあるという自覚はしておいたほうがよい。その10年の経験や出会いを通してまた違う道が開けていることもある。だから、10年やったこと自体は決して無駄にはならない。そう考え、いさぎよく「あきらめ」て、次の扉を叩くことも必要だろうと思う。
September 28, 2004
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最近読んだコーチング関係の本の中のことば。通常、我々は「しなかった」ことや「言わなかった」ことを後悔するものだ。人を許さなかった、謝罪しなかった、愛する者と一緒に時間を過ごさなかった、一生に一度の機会を逃してしまった、など。そうとわかれば、山のようなお金を節約することができる。自分にとって本当に重要なものはなにか、望んでいるものはなにか。欲しいものはたくさんあるようで、ない。試しにここに1000億円自由に使えるお金があるとして、何でも好きなことをしてよいので100項目あげてみてと言われる。30までで途端に苦しくなってくる。本当に欲しいものは、そんなにないのかも知れない。そう考えると余計なことに心を煩わせることも少なくなるのではないだろうか。
September 27, 2004
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糸井さんと欽ちゃんの対談の中で、「不本意こそが人生だ」というようなことを言っていた。本意というのは、何でも自分の思い通りになるということ。しかし、これはおもしろくないという。例えていうなら、仇役のいないドラマのようなものであると。人はみな不本意の中で生きている。周りを見渡せば、皆自分より幸せに生きているように見える。しかし、殆どすべての人が不本意な中を歩いている。それが人生。でもその不本意の中にいる人生こそが、一番おもしろいんだと。「今日も不本意だった。おもしろかったなあ。」と言える強さ。たくましさ。それがあれば、きっと人生の大半のことは乗り切れてしまうんじゃないかなぁと思った。子供のときに、欲しいと思ったおもちゃを何でも手に入れられた、という思いを巡らせた人は多いと思う。でも、あの時、ホントになんでもすぐに買ってもらえてたとしたら、お金を貯めてものを買うという経験、それを達成したときの嬉しさ、やっと手に入れたおもちゃを大切に大切に宝物みたいに扱ったこと…こういうった感動を味わえただろうか?オリンピックの選手が死にもの狂いでがんばって金メダルを目指す。勝てない。どうしてもあのライバルに勝てない。必死でまた練習する。また負けた。そして背水の陣で望んだオリンピック本番。奇跡の逆転勝利。ずっと勝てなかったアイツに勝てたんだ!かたや、生まれてこのかた誰にも負けたことがなく、出る試合はすべて一番。オリンピックでも無敵。楽勝。感動は、どちらのほうにこそ多いだろうか。自分にとっても、それを観ている観客にとっても。もしも金メダルが取れなかったとしても、どちらの人生のほうがストーリーとしておもしろいだろうか。同じストーリーであれば、なるべく面白いほうがいいに決っている。ウルトラマンには怪獣がいたり、時にはカラータイマーを取られて死んじゃったりするから面白いんだ。恋だっていつもうまくいくとは限らないから面白いんだ。テストだってなにも勉強せずにいつも100点ばっかりとれたら、どんなにつまらなく思えるだろうか。だれもが不本意な人生を歩んでいる。それを楽しみながら、寄り道しながら歩くか。ずっと腐った顔をしてうつむきながら歩くか。その違いだけなんだと思う。そしてやっぱり、どっちにしても不本意な人生なら、楽しみながら歩いたほうがいいんだと思う。メモ:ふほんい(不本意)本意でないこと。望むところでないこと。「―ながら従う」「―な成績」不本意な成績[結果] a disappointing [an unsatisfactory] result[record, performance]不本意ながら against one's will; unwillingly; reluctantly甚だ不本意ながらこの処置を取らざるを得ません。We have been obliged to take this step(though it is) very much against our will.我々は不本意ながらその提案に同意した。We gave our reluctant consent to the proposal.不本意入学 involuntary attendance
September 16, 2004
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外注した翻訳のチェックをしている。これがとーーっても面倒くさい。ああ、だれか代わってよ~。と世界の中心で叫びたいくらい。(ベタですな 汗)そもそも人の翻訳を校正するというのは、自分が初めから翻訳するよりも手間がかかるものだ。それに何が正しいかという基準は、個々人によってバラバラなので、ある翻訳がいいか悪いかという客観的な基準を決めるのは、とっても難しい。それに今回は量が膨大で、最終的には何百ページ、いや何千ページにもなるので、原文と比較して細かくチェックしていたら、全く他の業務ができなくなってしまう。幸い今回の資料どもは、直接お客様の手にすぐに届けるような類のものではないので、チェックの方法を短縮化することにした。どうしたか。とりあえず原文を読まないようにした。完全に文章の「読み手」となって、まずはざざっと通読し、あれれという部分を赤でマークしていく。最近はすべてデータ納品なので、フォントを赤で変えていくわけだ。こういうやり方は、基本的にはしないほうがよいとは思う。あくまでも原文と比較しながら、情報の漏れがないか、内容理解は正しいかどうかを逐一チェックしていくのがいいのだろう。もちろん、翻訳された資料が、契約書その他お客様の手元に直接届くような類のものであればそうするだろう。いや、そうしないといけないと思う。でもね。結局翻訳されたものを読む人間は、原文を念頭に読むのではない。翻訳を普通の文章として読む。だから、その普通の文章としてすんなり頭に入ってくるような、理解できる翻訳でなければいけない。そういう観点から、翻訳文のみの通読でチェックしていくことにした。専門用語のチェックはもう一人の専門家に任せる体制だ。通訳もそうだが、「訳の評価」は概ねアウトプットできまるものだ。そもそも理解がきちんとしていなければ、アウトプットもきちんとしたものにはならない。中には理解がめちゃくちゃなのに、アウトプットが非常に美麗な場合もあるが、それは業界用語でいうところの「不実な美女」というやつで、内容がわかる人には、デタラメな訳であることはたいていバレてしまう。というようなスタンスで、「読者」になりきってチェックを進めていこ~、って思った矢先に、いきなり次の第1文に出くわした。「…を使用する前に、以下の警告を記憶してください。」あらら、いきなりかよ(笑)。ああ、多分原文はremember to read the following warningとかkeep in mindとか、もしかしてmemorizeナントかとか、書いてあるんだろうな、というのがまざまざとわかる好例(否、翻訳の悪い例その1、みたいなやつ)ではないか。こういうのを直訳と言って、プロとアマを見分ける一番わかりやすい部分なんだけども、パッと読んだ瞬間に「へっ?」って思うでしょ。これですよ、これ。このアウトプットの日本語としての違和感。警告を記憶するって、あなたそんなもの暗記できる量じゃないし(笑)これって、ああ、こういう場合は、普通は日本語ではこう言うよね、っていう等価表現(例えばこの場合だと、「よくお読みください」とか「ご注意ください」のような表現で十分)で移しかえたらいいのだが、原文の単語の意味に思いっきり引きずられて直訳してしまっているのだろう。こういうのを「英文和訳」といい、「翻訳」でやってはいけない基本中の基本である。と、基本中の基本で最初にコケている文章。この時点ですでにこの翻訳に対する信頼度はかなり、というか殆どゼロにまで下がっている。いや、でもここだけかも?後はちゃーんとできてるかも、という、うっすい期待を胸に読み進めると…「それらの原因および意味を対象としている項をお読みいただき」「手で感じられる収縮より微妙な収縮」それぞれ、「(それらの)原因および意味について述べた項を参照」とか「手で感知できない程の微妙な収縮」などと、なぜすっきりできないのか?こういうのがずーーーーっと続く続く…。ね。原文読む必要ないでしょ?もちろん訳抜けの可能性はあるが、たぶんあまりないだろうと予想している。なぜならここまできちんと「英文和訳」してる=単語の一つ一つの意味にとらわれいるということは、「木を見て森を見ず」的に、個々の木(単語)への執着はすごいものがあるだろう、だから情報の漏れはないだろう、と思えるからである。しかし、日本語の文章としては不自然。翻訳として売り物になるレベルではない。上の例のとおり、何も業界知識とか専門用語とか、そういうことは関係のない普通の日本語の文章の常識として、おかしい文なのだ。たしかにね。比較的安いんですよ、この翻訳会社。でもね業界ではイチニを争うとこなんだぜぃ。やっぱ翻訳駆け出しの人にやらせて、コスト下げているんだろうな~。結構専門的な分野なんですけどね(笑)。もう少し様子を見てから、価格引き下げの要求を出すことにしようかな。なんてね。
September 15, 2004
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1999年にスタンフォード大学のクランボルツ教授により「計画された偶然理論」(Planned Happenstance Theory)という理論が発表された。その基本概念は、変化の激しい時代には、キャリアは基本的に予期しない偶然の出来事によって、その8割が形成されるというものだ。ただし、何もかも運まかせというのではなくて、個人が自律的にキャリアを切り開くためには、自分にとって偶然の出来事がより起るように、能動的かつ継続的に自ら仕掛けていくことが必要になってくるという。つまり、『キャリアは作りこもうと思っても作れない。自分に好ましい偶然を必然化するような動きをし続けることが大事である』さて、自分にとって好ましい形で偶然を必然化するには、次の5つの行動・思考パターンを持つ事が重要であるらしい。1.好奇心(Curiosity)自分の直接的な目標に関連するしないに関わらず、多様な事柄に幅広く好奇心をもつこと。→好奇心は成長の源だと思う。新しいものに対して抵抗を持たないって大事だ。しかし、新しいもの=いいものとは限らない。その辺の目を養うことも重要。なんでも飛びつけばいいというもんではないだろう。 2.こだわり(Persistence)自分の考え・価値観にこだわりを持ち続け、簡単にあきらめたりしないこと。かといって意固地なのはいけない。→要するに「譲れないもの」を持てということか? 3.柔軟性(Flexibility)環境の変化に対応し、自分の計画のみにとらわれずに想定外のチャンスを活かすことができること。→環境の変化にことごとく反応していては自分というものを見失ってしまう危険もありそう。2.とのバランスが必要ということか。4.楽観性(Optimism)どのような結果になろうとも、自分のキャリアにとって、それなりに役立つ部分があったと、ポジティブにとらえることができること。→これはよくわかる。仕事って無駄なことはあまりない。全ての経験はつぎのステージで活きてくることがある。5.リスクを取る(Risk Taking)変化が激しく、先行きの見えない時代には、自らリスクを取ることができること。受身でもリスクは向こうからやってくる。→そう。リスクは避けていても勝手にやってくる場合もあるよね。 まとめると、「好奇心を持って幅広い視野で物事を捉え、基本的な自分の価値観はしっかりと持ちながらも環境の変化に応じて柔軟に対応し、全ては自分の糧になると前向きな姿勢で生き、リスクを取ることも厭わないこと」ということですね。って、そりゃこれだけのパワーとマインドがあれば、なにかしら成功できないほうがおかしいよ(笑)これって結局成功した人の特質を並べてるってことだと思う。なんかキャリアを形成するためにというよりは、あらゆる職業においてこれがあれば成功するだろう、みたいな条件ではないだろうか。それって、ちょっと個々人のキャリアプランニングにおいては、あんまり直接的に関係ないような気が…。しかしまあ、キャリアというものは自分の描いた通りにはなかなか行かないし、行ったとしてもそれが本当にその人にとってそれでよかったのか、っていうのはわからない。仕事って、他人がいてこそ成り立つものだから、一人よがりにこうしたい、ああしたい、っていっても周りがそれを認めなければ仕事として成り立たないわけで。こういうことを考えてないと、「やりたいこと探し」のトラップからいつまでも抜けられなくなるんだろうね。
September 9, 2004
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通訳が仕事の大きな一部を占めいる。同時通訳の場合、一番の難関は猛烈なスピードで話すスピーカーに振り落とされないようについていって、聞き取りながら即訳す、というアクロバティックな動作を一定時間続けなければならない、という点に尽きるだろう。 しかし、通訳を聞いている人はそんな通訳者の影の努力など、なかなか心が及ばない様子。 通訳を評価する場合、特に同時通訳のときに聴衆が通訳を評価する際の大きな基準のひとつは、「訳されて耳に入ってくる言葉が正確でわかりやすいかどうか」だろう。例えば英語から日本語に訳している場合は、その日本語がいかにわかりやすいかということがポイントになる。 でもこの「わかりやすい」というのもクセもので、わかりやすくても当然不正確であってはだめだから、わかりやすい日本語を話す人が必ずしも有能な通訳者だとは限らない。しかし、今までの経験上、通訳を評価する聴衆の反応として、もっとも好意的な評価を集約すると「日本語がわかりやすい。上手。」ということになることが多い。 聴いてわかりやすい…つまりそれは、耳に心地よい日本語が入ってくるということだろう。耳に心地よい、すんなり入ってくるのは、ゴツゴツした論文調の書き言葉ではなく、平易な話し言葉である。それを心地よい落ち着いた声調で聴いたときに、人はそのコトバを心地よいと感じるのではないだろうか。 「わかりやすい」の中身を分ければ、適切で平易な語彙選択、落ち着いて比較的ゆっくりしたスピード、耳障りのよい音(高すぎず、低すぎず)、適切な間のとりかた、などがあげられるだろう。特に、日本人は胸式呼吸で発音する人が多いためか、若い女の人はキンキン声で話す人がいる。これは非常に聞き手をいらいらさせるもので、通訳する場合、意識して複式呼吸で声を落とすよう指導されるくらいである。テレビの同時通訳などを聴いていても、時々ものすごい早口で声もキンキンな人がいるが、いくら正確であっても通訳を聞いてる人にとっては苦痛以外の何者でもない。 人は何か難しい言葉を覚えると、それを使ってみたくなる、というクセがあるような気がする。自分にもその傾向があるからそう思うのかもしれない。しかし、それを他の人が知っているとは限らないし、自分がたまたま知った言葉を得意げに使ってしまうのは、ただの自己満足・自慢みたいなもので、相手とのコミュニケーションを全く念頭に置いた行為とは言えないと思う。 もちろん何事もTPOというのがあるから、非常に格式ばった会議の場で、出席者のほとんどが難しい格式ばった言い回しをしているのに、通訳の日本語だけが、井戸端会議のおばちゃんみたいな話し方では困るが、一般的にはそれほど高尚な物言いを必要とする場はごく希である。それに、わかりやすい=幼稚、稚拙、下品な言葉、では決してない。 一般に言葉、特に語彙を増やそうと思えば、英語であれ日本語であれ、新しく覚えた単語なりを、様々な文脈で使ってみることが重要であるとされている。それはその通りだ。しかし、人とのコミュニケーションの手段として言葉を使う場合は、状況と相手のレベルを見極めて、多くの場合できるだけわかりやすい話しかたをするよう心がけるべきだと思う。これはなにも通訳だけに限らず、一般のコミュニケーションに関わる人すべてに言えることだろう。適切でわかりやすく耳に心地よい話し言葉は、大変有効なビジネスコミュニケーションのツールになり得ると思う。
September 8, 2004
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「○○さんがあなたのことXXだって言ってたよ~」という会話。 そもそも人のことをあれこれ言ってみたくなるのが人間の性みたいなもんだと思うんだけど、昨日このことでちょっと考えさせられた。 ある人曰く、「“○○さんがあなたのことXXだって言ってたよ”っていうけれど、たぶんそれを言っている本人がXXだって思っているからこそ、そんなこと言えるんだよ」と。 つまり、AさんとBさんとCさんがいるとする。AさんがBさんに対して、「CさんてBさんのことXXだって言ってたよ」と言う場合、実はAさんもBさんのことをXXだと思っているから易々とそうBさんに伝えられるのではないかと。 XXがいい事なら全然OKなんだけど、悪口だった場合(まあ大体こういう場合は悪口だよなぁ)、AさんがXXと思ってないなら、自分の口からBさんを不快にさせるようなこと言いたくないから言わないんじゃないか、ていうこと。なんか自分で書いててわけわからないけど(笑)、そういう意見。んー、どうなんでしょう? そこまで深く考えてしゃべるのかな。でも、確かにAさんがCさんの意見に合意しないのであれば、Bさんを不快にするようなXXは言わないような気がするし、AさんがCさんの名を借りてBさんの悪口を言っているという図式は成立するかなぁ。 とまあ、ここで言いたいのは、「他人の言葉を伝えることがいかにリスキーか」 ってことなわけです。他人の言葉を伝えるのが職業の身にとっては、これは心しなければならないこと。それがいい事であれ悪い事であれ、受取る側の反応はわからないし、もし上記のような感受性(というか猜疑心)の強い人が受け手である場合は、「ふーん、そうなんだ。あの子そんなことを。でもあんたもそう思ってんだろうね。」という風に取られて、三者間の信頼関係が崩れてしまう危険性があるのかも知れない…。 そう考えると、あの人がこう言ってたよ~などと、ゆめゆめ口に出すものではないのかもしれない。自分の意見じゃない、と本人は思っていても、受け手はそうは思っていないかもしれないから。要は相手に対する気遣いがあれば、こんなことは起こらないんだけどね。 ま、でもやっぱ褒め言葉は、逆にどんどん伝えていいと思うんですけどね。
September 3, 2004
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努力すればなんでもできる!自分を信じてがんばれば道は開ける!…というもんでは、ないのかも…。 実は某職能系スクールで時々講師をしているワタシなのですが、昨日テストの採点をやっていてつくづく思ったのです。何年も勉強・訓練しているのに、確かに最初と比べれば上達はしているものの、多分この先その道で大成し得るかどうかと聞かれると、うーむ(汗)と言わざるを得ない人がやっぱり多いのだ。もちろん、才能ある人でも努力はしなくちゃだめだよ。でもね、最初から才能(適性といってもいいかも)のある人と全くない人がいた場合、同じ量の努力をしたら、数年後はやっぱり才能のある人のほうが上にくるわけで…。んじゃ、才能のない人はある人の何倍も努力したら凌駕できるじゃん、って思うんだけど、その「人の何倍も努力できる」っていうのもある種の才能みたいなもので、平均的な人はやっぱり平均的な努力しかできないから、結局才能ある人の何倍も努力する、ってこと自体が現実的ではないのかもしれないよね。…ってなことをウダウダ考えていました。だって秀才努力型で東大入る人って、一日10時間とか勉強できる人みたいだし。これがいいか悪いかは別にして、これって「忍耐力」という名の才能じゃありません? で、ですね。その才能とかっていうのは「向き不向き」にも大きく左右されるのではないかと思うのです。その人が基本的に持っている特性というか、強みや弱み、志向、その他もろもろの要素ね。資格とか取るのが相変わらずはやっている昨今ですが、この部分を良く考えてから勉強を始めたほうがいいのかもしれないし、勉強している過程で「あ、ちょっと違うかも」って感じたら、早めに撤退したほうが時間とお金と心の健康のためにいいんじゃないかなって思います。個人の特性や志向って、殆ど変わらないらしいんだよね。 ギャラップ社が行っているストレングスファインダー(strengthfinder)っていう、自分の強みを発見するテストがあるんだけど、この各個人が持っている強みというのは、殆ど生涯に渡って変わらないという研究結果に基づいているらしいです。だからね、その強みがいかせるものを考えること。それはつまり、自分に向くかどうか、ってことだと思うんです。自分を客観的にみながらその上で適切な努力をするってことが大事なんじゃないかな…。 試しに、たくさんの人がやっていると思われる某サイトの「志向検査」を受けてみました。こういうテストってその時の状況に左右され易いとは思うんだけど…んで、結果です。↓ここからあなたは「自律志向」や「創造志向」や「注目志向」や「変化志向」が強い傾向にあります。あなたは、他人にあれこれ口をはさまれるのを好まず自分のやり方でものごとを進めたがり、オリジナリティにこだわりこれまでにない新しい価値を生み出したいと思い、表舞台に立って多くの人から注目されることを好み、たえず刺激に富んだ変化のある環境に身を置くことを好みます。また、あまりものごとを複雑に考えたがらないほうでしょう。あなたのパーソナリティタイプに合う仕事は、対人面では、「人前に出る」傾向が強く、「折衝調整する」傾向がやや強く、「深く接する」傾向や「顧客に働きかける」傾向がどちらかといえば強い仕事です。「広く接する」傾向はやや弱い仕事です。また、課題面では、「アイデアを生み出す」傾向や「成果が見えやすい」傾向が強く、「複雑な問題を分析する」傾向や「臨機応変に対応する」傾向がどちらかといえば強い仕事です。「手順どおりに進める」傾向が弱く、「時間に厳密に行う」傾向や「責任が大きい」傾向がやや弱い仕事です。対人面では、人前に出て多くの人から見られる仕事があなたのパーソナリティタイプにマッチしており、満足感を得やすいでしょう。そして、社内外の関係者との交渉や利害調整を行う仕事においては、比較的満足感を得やすく、特定少数の人と関係を深める機会が多い、顧客に対してこちらから働きかける仕事では、どちらかといえば満足感を得やすいと思われます。一方、不特定多数の人と接する機会が多い仕事では、どちらかといえば満足感を得にくいと思われます。また、課題面では、発想豊かにアイデアを生み出していく、自分の成果がはっきりとわかる仕事があなたのパーソナリティタイプにマッチしており、満足感を得やすいでしょう。そして、複雑な課題を分析し構造を把握していく、状況の変化に臨機応変に対応していく仕事において、どちらかといえば満足感を得やすいと思われます。一方、決められた手順に従って課題を処理していく仕事では、満足感を得られない可能性があり、締め切りや納期が厳しく時間に正確に行う必要がある、会社全体の業績や多くの関係者に及ぼす影響が大きい仕事では、どちらかといえば満足感を得にくいと思われます。あなたのパーソナリティタイプに合う会社や職場は、「変革志向性」や「ビジョン志向性」や「共同体志向性」が強く、「情報開放性」がやや強い組織風土です。「規律志向性」はやや弱い組織風土です。現状を改革する取り組みに積極的である、組織のビジョンや将来像が描かれ語られている、メンバーの仲がよく仲間意識が重視されている組織風土があなたのパーソナリティタイプにマッチしており、あなたの持ち味を活かせる可能性が高いでしょう。そして、社内の情報やノウハウを積極的に共有していくことが求められる組織風土においては比較的なじみやすいと思われます。一方、ルールやマナーを守ることが重視されている組織風土には、どちらかといえばなじみにくいと思われます。↑ここまで… まあ、あたってるとこも、そうじゃないなあと感じるところもあるわけですが、要は資格にしても勉強にしても、要求されるものはそれぞれ違うわけなので、そのrequirementsに自分が適合するかどうかを見極める目を持って努力する。しかしそれだけではだめで、その努力の過程で「運」と出会ったときにマッチングが起こって、成果なり仕事なりで好循環の波に乗ることができる、ということでしょうか。なかなか人生、思うようにはいかないもんですねぇ~。
September 2, 2004
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何か新しいことでも…と思って日記開きます。いつまで続くかは不明だし、別に誰に読んでもらいたいってのはないんですが、最近日々の出来事を記憶にためるだけじゃなくって、ちゃんと記録に残せたらいいなと思いだしたのだ。ボウビロクですな。これって年ってことかなぁ? 夏休みはなんとなくだけど夏休みらしくもなく終わってしまったた。とある勉強会や送別会なぞに参加したもんだから。しかし、いろんな人に会うと刺激を受けますねぇ。 さて、なにを書いていこう…笑
August 30, 2004
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