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2025年09月05日
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カテゴリ: カテゴリ未分類



6月だったか。夢グループのコンサートで「潮来笠」を歌いながら
涎を垂らしてたのを見たとき、何とも言えない寂しい気持ちになり、
「これ以上…ねぇ…」と思ったが…。

つい先ほど知った訃報に物凄く動揺したし、非常に寂しい気持ちに
なったが「お疲れさまでした!これ以上、晩節を汚さないうちに
逝けて良かったですね!」と声をかけたい気持ちにもなった。

不謹慎な言い方だと思う方もいるかもしれないが、江戸っ子らしい
キレイな引き際に「よかったなぁ」と思った気持ちに変わりはない。



橋幸夫さん。6月から入院をされていたそうだが、昨日(9月4日)の
23時48分、82歳で亡くなられた。

これは私個人の意見なんで、刑部教授やたけ平師匠がどう言うかは
分からないけども「最後の昭和歌謡の大スター」だったと言い切って
いい歌手だろう。

それは「両手に余るヒット曲があること」「映画に沢山出ていること」
「バラエティー番組でも名前が出ることが多い」、この3つを備えた
最後の人だと思うからだ。

昭和18年、荒川区の呉服屋の息子に生まれた。遠藤実先生の下で
歌のレッスンを受けていたが、吉田正先生の下に移り、ビクターの
専属となった。この直前、確かコロムビアのオーディションを受け

デビューすることになっていた!という秘話がある。

歌謡曲歌手のデビュー年齢を一気に引き下げたのが、橋さんだった。
昭和35年(1960)、17歳で「潮来笠」でデビュー。この歌がいきなり
大ヒットして、当時のルールでは「新人1年目では出られなかった」
紅白歌合戦に初出場(第11回)!


「シオクルガサ」と読んでしまい、吉田先生に怒られた…という
エピソードを聞いたことがある(苦笑)。

…と書いてて急に思ったのだが、「橋」という苗字、橋さん以外に
聞いたことがない。言い慣れてるから今まで何とも感じなかったが、

(2025.09.06追記)
ある落語仲間からメールが来て「浅草コメディアンで喜劇人協会の
会長もされていた橋達也さんがいますよ」との指摘が(苦笑)。

言われりゃ確かにそうでした!こちらの橋さんのご本名は「枦さん」
だそうで…これも珍名さんだな…。




その後はもう、股旅歌謡にリズム歌謡に青春歌謡に、今でも普通に
歌い継がれている大ヒット曲を数々飛ばした。ちょっと思いつく
だけでも…。

「おけさ唄えば」「木曽ぶし三度笠」「南海の美少年」「沓掛時次郎」
「江梨子」「中山七里」「いつでも夢を」「舞妓はん」「お嬢吉三」
「恋をするなら」「チェッチェッチェッ」「あの娘と僕」
「雨の中の二人」「霧氷」「殺陣師一代」「恋のメキシカン・ロック」
「佐久の鯉太郎」「若者の子守唄」「赤い夕陽の三度笠」「次郎長笠」
「子連れ狼」「今夜は離さない」 あたりが出てくる。

そういや20年ぐらい前に「盆ダンス」という、ワケわからない(苦笑)
歌も出していたっけ。

「紅白歌合戦」は、昭和35年の第11回から昭和51年の第27回まで
17回連続で出場。その後、平成になって2度出ており、そのときは
2度とも「いつでも夢を」での出場だった。
最後の出場は、確か吉田正先生の追悼だったような記憶がある。

「紅白」では、いわゆる股旅ものの歌唱時には軽く殺陣をやったり
ミニコントみたいな件があってから(あるいは曲間に)歌っていた…
そんな印象がある。去年の暮れに「第22回」を見たから、それが
記憶にこびりついているのかも。

あと初めて「レコード大賞」2冠を達成したのも橋さん。第4回が
「いつでも夢を」(吉永小百合とデュエット)、第8回で「霧氷」か。




平成になってからは、バラエティー番組でも、その姿を頻繁に
見かけていた印象もある。

やはり、清水アキラがフジテレビの「ものまね王座~」において、
セロテープで両目を吊り上げ、スイミングキャップにハイレグ水着
(もちろん女性もの)で「恋のメキシカン・ロック」を散々歌って、
ご本人登場でエライ空気が流れる(笑)という、あれを見た印象が
強いんだろうなぁ!

「クイズ!年の差なんて」や、日テレの「夜もヒッパレ」とかで
見た記憶もある。

あと1996年か1997年だったと思うが、これもフジテレビだったが
「27時間テレビ」で、たけし・さんま・SMAPと共演していて、
深夜のコーナーで、殿が橋さんの秘密(カ●●)をバラしてしまい、
大騒ぎになったのは覚えている。私ゃ腹ァ抱えて笑ったから(笑)。




2000年代は「日本歌手協会・歌謡祭」で、その姿を客席で何度も
見ることができた。その時期は歌手協会のお偉方だった橋さん、
水前寺清子が副会長で、それこそ2人で「歌謡祭」を引っ張って
おられた時期に、ゆうぽうとや中野サンプラザで何度もその歌声を
聴くことができたのは財産である。

でも、その後「アレ」との人間関係悪化(軋轢?)があったの
だろうか。歌手協会を辞められたのは、本当に残念だった。

その後は「夢グループ」の専属となって、例の通販のCMでも
姿を見かけてはいたが…。

夢グループの石田社長が悪いとは全く言わないが、あれだけの
大スターの橋さんが安く売られている…言葉が悪いが「バーゲン
セールみたいな感じ」で歌っていたのが、私はどうにもこうにも
納得できなかったというか…。カラオケ伴奏だし。

「たられば」の話ほどアホらしいものはないが、日本歌手協会に
残っておられれば、間違いなく会長になっていただろう。
陣頭指揮を執りつつ、歌謡祭のトリで「潮来笠」「いつでも夢を」
などを歌って大盛り上がりになることは、容易に想像がつく。
そして橋さんの「価値」も全く下がらずに、そしてひょっとしたら
認知症にもならずに、もっと頑張れたかもしれない。

そんなことを、先ほど聞いた訃報でついつい考えてしまった。

「現実は事実」だし、亡くなられてしまったわけだから、今さら
何を言っても仕方ないのだが…。




今となってみたら、あのコロナ禍での歌手引退宣言のとき、既に
アルツハイマー型認知症の兆候は出ていたということだろう。
その後、復帰宣言をしたときには、結構症状が進んでいたという
こともあったのかもしれない。

でも、そのような状態になっても、もう一度お客さん・ファンの
前に帰ってきて、不完全ながらもステージをギリギリまで務めて
天国に旅立った…というのは、良かったのかもしれない。

昭和35年(1960)デビュー。歌手生活65年!享年も歌手生活の
時間も、ほぼ藤山一郎先生と同じだったということか。

そう思うと、本当に大きな大きな歌謡界の星を失ったんだ…と
思わずにはいられない。

橋さん、長い間お疲れさまでした。そして闘病から解放されて、
ホッとしておられることでしょう。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。





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最終更新日  2025年09月06日 22時02分54秒
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