売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.09.05
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私が初めて山本寛斎さんの名前を知ったのは確か大学2年生、NHK「新日本紀行」が原宿の変容ぶりを取り上げ、その番組の中で寛斎さんは異彩を放つ新進デザイナーとして登場しました。デヴィッド・ボウイが寛斎さんデザインの服を着て初来日(1973年)して話題となった前後のことです。

カンサイコレクションを初めてナマで観たのは、渡米して2年後の1979年、マンハッタンに新しくオープンする大型ローラーディスコで開催されたショー。モデルが全員ローラースケートを履いてスケートリンクに登場、アニマル柄の強烈な色彩のニットが非常に印象的でした。ニューヨークコレクション初参加のショーは演出もコレクションも大きなニュースになりました。


(1992年FEC賞にて)

翌年、ニューヨークの百貨店や主要ファッションストアはこの寛斎さんのニットを一斉に売り出し、どこのお店でもすぐに完売するほど消費者から絶大な支持を得ました。のちに私がお手伝いすることになるバーニーズニューヨークでも、虎のモチーフのニットがよく売れました。このことがバーニーズの幹部に「東京は次のリソース拠点としてイケそう」と思わせたと言っても過言ではありません。

あの頃、パリ、ミラノコレクションはモンタナ、ミュグレーに象徴される巨大なショルダーの逆三角形シルエットが大きな話題。でもこのトレンドは一般消費者の間で支持されず、ビジネスとしては成功とは言えませんでした。ヨーロッパ買い付け出張で予算を余して帰国するバイヤーが増え、ファッションストアは頭を抱えていたところ、そこへ東洋からの新しい風、東京は未知のリソース都市と期待できそうだ、と。言い換えれば、カンサイヤマモトのニットが爆発的に売れたことで米国バイヤーは東京を意識したのです。

そして1981年春、バーニーズニューヨークと、当時その最大のライバルだったシャリバリが新しいリソースを求めて東京にやってきます。バーニーズの創業者の孫ジーン・プレスマンに協力を約束した直後、シャリバリ創業者の息子ジョン・ワイザーからも私は声をかけられました(先にバーニーズと約束したので仲が良かったジョンの手伝いはできませんでした)。パリ、ミラノのデザイナーブランドを大量に導入する2つの競合店がほぼ同じタイミングで動き出した背景には、お店で爆発的に売れる寛斎ニットの存在があったのです。


私の松屋入りパーティーでの寛斎さん(右)

山本寛斎さんがマジソンアベニューに直営店を再オープンしたとき、私は初めてインタビューしました。このときの発言、いまもはっきり覚えています。寛斎さんは「私の服は、(トップスを)被る、(ボトムを)履く、単純なんです」。ロンドンやパリコレでこれまで発表してきた浮世絵や歌舞伎の派手なプリント柄、デヴィッド・ボウイの奇抜な衣裳からは想像しなかった「単純なんです」、この言葉にびっくりしつつ妙に納得もしました。

1985年突如デザイナーの任意団体を東京に作ろうとなったとき、寛斎さんにも設立準備デザイナーになってもらい、CFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立後は6人の幹事デザイナーに就任してもらいました。その事務局を預かる私は寛斎さんとお話する機会が増え、パルコ劇場でのパフォーマンス、九州・高千穂での屋外大イベントにも呼んでいただきました。が、ちょうどCFD発足した頃から、寛斎さんの関心はファッションデザインにとどまらずイベントプロデュースに向かい、海外でのビッグイベントを仕掛ける場合の資金集めの方法などを話し合う場面が増えました。

と同時に、ロシアやベトナムなど海外で大々的なパフォーマンスをプロデュースするうちにファッション業界やメディアの間でファッションデザイナー山本寛斎の存在感が薄れ始め、中には「変人扱い」するようなエディターたちも出始めました。また、寛斎さん自身もパリコレを継続することより別の表現方法で自らのクリエーションを世界に投げかけることに意味を感じ、パリコレ発表をやめました。寛斎さんがロンドンやパリコレでコレクションを発表していた時代のあとに生まれた次世代バイヤーやエディターには関心外の存在かもしれません。



第二次大戦後クリスチャン・ディオールが発表したAライン、ディオールから独立したイブ・サンローランのタキシードやモンドリアンなどは強いインパクトを与え、モード史に残るアイコニックな作品として人々の記憶に残りました。デヴィッド・ボウイが着た寛斎さんのつなぎ服もモード史に残る「時代を象徴する1点」と私は思います。が、そのことを知らない業界人があまりに多くて残念です。

寛斎さんは数十メートル先から手を振り、お辞儀を何度もしながら歩いてくる礼儀正しい人でした。頂戴するお手紙は何色ものカラーペンを行ごとに替えたカラフルなもの、寛斎さんなりの愛情表現だったのでしょう。いつも笑顔を絶やさず元気いっぱい、でも病に倒れ2020年この世を去りました。

ファッションデザインに携わる美術館学芸員の皆さんには、どこかのタイミングでファッションデザイナーとしての山本寛斎の仕事、役割をキチンと顕彰していただきたいです。





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Last updated  2023.08.18 18:35:13
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