売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.11.19
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前項パリ在住フリーランスジャーナリストだった村上新子さんは自分が取材して書いた記事の掲載誌を よく送ってくれました。強く印象に残っているのは、元国際通貨基金専務理事で現欧州中央銀行総裁クリスティーヌ・ラガルド女史の単独インタビューと、高田賢三さん、島田順子さん、入江末男さんのパリ同窓会のような三者座談会、どちらも皆さんのお人柄がにじみ出て素敵な記事でした。



​島田順子 おしゃれも生き方もチャーミングな秘密 (マガジンハウス刊)​


昨日は南青山で開催していたジュンコシマダ展示会にお邪魔しました。パリから一時帰国中の島田順子さん、数日前には新著を上梓したばかりでお忙しいのでしょう、残念ながら今回は会場でお会いできませんでした。新著の帯には「いくつになっても自分が好きなことを大切に」とありますが、 80 歳を過ぎても自然体のデザイナーのまんま、いまも活動拠点はパリというのが凄いです。

私が島田順子という存在を初めて知ったのは 1983 3 月のパリコレ時、素材や下着を製造販売していた京都のルシアン野村の野村直晴社長からのオファーを受け、順子さんはパリでデビューしたばかりでした。ルシアン野村でイッセイミヤケ子供服の経験があった岡田茂樹さんがジュンコシマダ事業ルシアンプランニングのビジネス統括、アタッシュドプレスとして活躍していたフラッシュの小笠原洋子さんが広報とイメージ戦略、クリエイションはパリ島田順子さんの三権分立「トロイカ方式」(岡田さんが何度も口にしたセリフ)で事業は急成長しました。


(80年代後半、東京コレクション特設テント前にて)
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1980 年代初頭、日本ではアパレルメーカーが外部のデザイナーと組んで個性的なファッションブランドを次々立ち上げ、  D C (デザイナー&キャラクター)ブランドが大きなブームとなりました。が、その大半はデビュー数年以内に企業とデザイナーの軋轢が表面化してブランド解散するなどの失敗続き。その中にあってジュンコシマダはボディコントレンドの波にも乗って売上はあっという間に百億円に手が届きそうな勢い、アパレル企業とデザイナーとの協業では数少ない成功事例でした。

ところが、順子さんの良き理解者だったオーナーの野村社長が突然の病死、その先には契約更新時期が迫り、京都のルシアン本社、パリのアトリエ、東京の営業部隊との間に微妙な風が吹き始め、事業成長の功労者だった岡田さんはルシアングループを退職してしまいました。

あの頃東京コレクションのショー経費をめぐって開催日直前にルシアン側とパリのアトリエが対立、順子さんがキレそうになってパリ側で経費負担する代わりに会場で不思議なメッセージを配付しようかという話がありました。このとき東京コレクション運営責任者の私は順子さんに「観客には関係のないこと。ここはいつも通り普通にショーをやりましょうよ」とアドバイスしました。野村社長急逝、トロイカ方式が崩れ、数少ない協業成功事例だった企業出資のデザイナービジネスに暗雲が漂い始め、この関係は長くは続かないだろうなとこのとき感じました。

島田順子さんにとっては何でも相談できる岡田茂樹さんがしばらくしてジュンコシマダのゴルフウエアを提携制作していたダンロップスポーツ専務に就任、その関係で島田さんからさまざまな相談を受けていたのでしょう。岡田さんから「順ちゃんからこんな話があったけど、太田さんはどう思う」とよく相談されました。毎回相談というより、「決めた」という報告みたいなものでしたが、岡田さんは親身に順子さんをサポートしていました。

結局、そのあとジュンコシマダ事業はルシアンプランニングから独立、順子さんから頼まれた岡田茂樹さんが再びジュンコシマダ事業を経営することになり、岡田さんの引退とともに名古屋のクロスプラスに引き継がれました。現在順子さんの事業を担当しているのが、私が主宰していた私塾「月曜会」の教え子というのも不思議なご縁です。

岡田さんがダンロップスポーツで側面から順子さんをサポートし始めた頃、サッカーの J リーグがスタートしました。ある日銀座の小さなカウンターバーで繊研新聞早川弘と飲んでいたら、見知らぬ初老の紳士が突然話に割り込んできました。日本サッカー協会幹部、女子サッカーリーグ専務理事を名乗る紳士、私たちがファッション業界と知って相談を持ちかけたのです。女子サッカーを盛り上げるため、東西オールスター戦のためにカッコいいユニフォームを選手たちに着せてやりたい、デザイナーを紹介してもらえませんか、と。

女性選手のデリケートな心理を理解し、サッカーを身近に感じるデザイナーでないとこの話は無理。そこで思いついたのが、パリ在住でサッカーが身近なはずの島田順子さんでした。東西両選抜チームのデザインをお願いし、制作自体はダンロップスポーツ岡田さんに打診することになりました。当時女子サッカーリーグはマイナーな存在、協会側にデザイン料や制作コストを払う余裕はありませんでしたが、順子さんと岡田さんの好意でこの話は実現しました。 ​のちにワールドカップ女子大会優勝の立役者となる澤穂希さんがまだ年少さんの時代のことです。

完成した順子さんデザインの特別ユニフォーム(グランドコート含めフルセット)を着た選手たちはロッカールームで「東西対抗に選ばないとこんなカッコいいユニフォームは着られない。来年も出場できるよう頑張らないと」と大喜び、両軍それぞれ特徴があってなかなかカッコよかったです。


(2019年11月JUNKO SHIMADAイベントにて)

東京コレクションを運営している頃も百貨店に転職してからも、順子さんとはパリでも東京でもよく会食やカラオケをご一緒しました。パリのご自宅に招かれ、ディナーをご馳走になったこともたびたび。私は長くファッションデザイナーの方々とお付き合いしてきましたが、考えてみれば自宅ディナーの機会は順子さん以外ほとんどありません。自然体の気さくな人ですから、ご自宅に呼ばれるたびパリ出張の緊張から解放されホッとしたものです。

こんなこともありました。深夜パリのカラオケバーから出て順子さん運転の車に乗り込もうとしたら、順子さんがドアを開けた瞬間大きな声で「キャッ」、なんと車の中で浮浪者が寝ていたのでびっくりしました。カギのかかった車に潜入して浮浪者が寝ているとはなんともパリっぽいシーン、いまも鮮明に覚えています。

数シーズン前、松屋銀座でジュンコシマダのイベントがあった際、集まったたくさんのお客様が順子さんと歓談する場面に遭遇しました。恐らくお客様の多くはボディコン時代からの長い熱烈ファンでしょうが、まるでアイドル歌手を囲むファンクラブのような熱い光景でした。順子さんは80歳を過ぎたいまも現役バリバリ、毎シーズンパリで新作発表してから東京に来て展示会を開いています。パリに渡った1960年代、現地で親交のあった高田賢三さんや三宅一生さんはすでに鬼籍されましたが、順子さんにはずっと現役デザイナーとしてファンを楽しませて欲しいです。


(2023年春夏コレクション展示会にて)






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Last updated  2022.12.30 11:27:04
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