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えーっと、質問が多いので少しだけつけつわえときますと、、知性を通すけれども『観つづける』ってのは知性の動きをとらえつづけながら、さばかない(知性の動きを善悪に分類しない)かつ意味づけにとらわれない(判断してしまわない、わかったと思いこまない)ということです。もう少し、進めば少し変化する可能性もありますが、とりあえずこれが最低条件。考えないは観ないに等しいので、ちょっと違う。数十年生きてきた過程で知性的活動につけてしまった、強力な方向性を解くことを目的としているものです。これができないと、上の層のエネルギーはほぼ使えない。一瞬つかっているように見えるものもあるんですが、ほとんどが知性層のエネルギーもしくは肉体層のエネルギーですね。知性層のエネルギーをたくさんつかっているものの代表は『願い』です。いわゆる神社とかでもそうですし、妄想的なものもそうですが、思い込みの力です。強力ですね。びっくりするくらい。しかも、物や空間に固着します。(敏感な人はとりつかれたりするので注意しましょう)どのくらい強力かっていうとそれだけで生きていけるくらい強力です。頼りたくなるのも十分理解できます。こういったものの特徴は、自己完結しないことです。自己の内的な活動でおさまっていてくれると無害なのですが、大体、他人にも同じような思い込みを強制してきます。これをなぜ、推し進めようとする人が多いのか?はよくわかります。小さなものも、たくさん集まるとすごいことになるからです。自己実現の一環なので、その人だけをみていると一見よさそうに見えるんですが、大枠でとらえてみると大いなる災いになることが多いように思います。いわゆるエゴの塊ですから、、そんなものが大きくなっても、、。別に、だれがどんな考えをしてもいいんですが、人に強制するのはやめましょう。そうならないといけない、とか、そうであるべき、とかが、どれほど無執着から離れているものか?はわかるでしょう。ま逆なので完璧にハート層(愛)とは打ち消しあいます。自己を正しいと思い込んだ人は、強烈なまでの攻撃性をもちます。(最近だと教育などのクレーマーとかがそうかもしれません。戦争とかもこの力をつかいますね)自己を悪と思い込んだ人は、知的意味や、正しい(答え)ということ探しつづけたり、他人の目がきになってしかたなくなります。(悪というより、裁くことのほうが多いですが)たとえば、『人生の意味を探している』って人がいるとしましょう。でも、人生はすでにあるんですよね。生きている限り、人生を今もってリアルタイムに感じ続けているわけですから、意味をわざわざ持たせようが持たせまいがあるんです。これまでの人生に意味があったか?なかったか?あろうがなかろうが、今、生きてるんですね。だから、これからの人生に意味をつけようが、つけまいが、どっちにしたって人生を生きていくんです、命尽きるそのときまで。ようは、知性はそんな答えがしりたいんじゃなくて、別の何かを知りたい、解決したいってのをそんなものに転用しているっていう動きを観ようってことなんですが、、、文章では複雑になってしまってうまく伝えられませんね。言葉にするとこの状態は複雑すぎて、理解するまえに飽きてしまいます。で、話はもどりますが、結局は、知性の動きをとらえつづけながら、さばかない(知性の動きを善悪に分類しない)かつ意味づけにとらわれない(判断してしまわない、わかったと思いこまない)です。そうすると自動的に動いていた知性の動きを意識できるようになります。さらに、それを続けていれば動きの『もと』も探れるようになってきます。でも探るとこは別に目的でも結果でもないです。ただ、自己というものの深さ、自分を理解するということの本当の意味なんてことや、そこに脈々と流れている『愛』みたいなものを発見していきます。そう、ただ発見していくだけです。ほんとうにただ発見していくだけです。冗談ではないですが、発見していくだけです。うそのように、ただ発見していくだけです。なのにそれが、感情的、知性的な問題を解決しうる強力な存在なのです。(とーぜんのように理屈ぬき!!、、、いいんですかね~)そりゃ、執着なく観れるならそうかもしれないけど、それって楽しいの?なんかそれを突き詰めてもいいことにはならないんじゃない。そーですね。そんなきもしますねー。ただ、表面的に表れている欲求は、予想以上に簡易に解決できます。大体ですが、ないから欲求するという状態のはずなのに、よくよく観ていくとすでにもっているっていうパターンが想像以上に多いからです。いわゆる失って初めて気づくパターン。よくありますね~これ、ほんとに。(青い鳥パターンとでも呼びましょうか、、)これできるだけでも、ずいぶん違う気がします。頑張った結果得られても、それがいらないものだったり、その過程で失ってしまったり、、悲しいですね、でも物語としては楽しめますが、、。執着しないと、またやってくる?だから、執着なく手放そう?違う、違う、すでにあると気づくんです。(無論、ないときもあるでしょうけど)無いと思うから欲しがる、有ると思うと手放したくなくなる。(失う恐怖がでてくる)でも、いつ失っていいように『今』があることも知る。そんな感じでしょうか。しょーもない文章につきあっていただきありがとうございました。毎度ですが、あくまで参考にして、自己と現実で進んでください。あとすいませんが、書き込みには返信してないのでご了承ください。理由はないんですが、なんとなくそのほうがいい気がするからといったわがままですが、すいません。
2010年04月24日
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ほんとに久々に更新。最近、いろいろ発見、わかってきたことを書いときます。なんか文章に残すように指示されているような気がするのでとりあえず。まず本題の説明をする前に前提の説明です。人のオーラの構造ってのは、肉体、感情、知性、ハート(愛?)のような順番でできてます。それぞれがエネルギーという名の構造をもっていてそれぞれが密接に関係しています。上のエネルギーを使う場合に下層のエネルギーが邪魔をすることがあります。例えば、イライラしている(感情層)ときに考え事(知性層)をしにくくなります。感情的な落ち着きがなければ、うまく知性(上層のエネルギー)を使いにくい状態になるというわけです。ここ2000年くらいの人類の動きは、感情的不満や不安を知性を使って解決してきました。ようは外的にアクセス、変化をもたらすように努力してきました。ただ、欠点としては外的要素を思いのままに変化させることは簡単に上限に達します。ようは無理が起こります。そのときの人の行動は、思い込みを強める(自己正当化に走る)か、自己の行動を見直し努力しなおす(現実的には努力がみのらず挫折することも多い)のどちらかを繰り返します。おそらくですが、現在は外的要素の変化によっての内的不安や不満の解消が人類的上限に達しているんでしょう(個人的上限はまだまだありますが、種として人類の上限がきているんでしょう)。ようは、環境によるしっぺ返しとでもいうものが許容を超えてきている。とまあ、話がすこしそれましたが、ようは下層のエネルギー問題(感情層)を上層のエネルギー(知性層)で解決しようとしたんですね。結果はみなさんご存知の通り、そして、今現在社会が抱えている構造そのものです。さて、問題です。感情層でも知性層でも解決できないものをどうしたらいいでしょうか?簡単ですね、さらに上の層のエネルギーを使って解決すればいいんです。(そんなんでいいんですかっ!!)上の層とはハートの層、エネルギーとしては無執着を保持している場所です。しかし、この場所のエネルギーを使うことはとても難しい。困難を極める。なぜならば、知性が邪魔をするからです。最初にいったように、下の層が上の層のエネルギーを使用するのを邪魔するのです。つまり、考えていてはハートの層のエネルギーを使えないということです。(なんて無茶!)これをクリアするのはとてつもなく難しいことです。なぜならば、今の世界は知性を使って解決することが一般的だからです。つまり知性を使うことに慣れすぎてしまっていて、手放せない、落ち着かせられない、すぐに知性的な意味に捕らわれてしまう、外部(環境や人)の責にしてしまう。など数限りありません。つまり感情的不安や不満が起こったときに、なにも考えず(正確には善悪や捌きをせずに)ただ、それを見守り,とらえ続けることが必要になるからです。この場合、知性は状況を『観る』というものに徹してもらいます。これができるようになった瞬間からハートの層のエネルギーが使えはじめます。分かりやすくいうと『愛』をもって解決するということができるようになります。これをいいはじめるときりがないのですが、世間一般的にいう『愛』とは若干違うのでご了承ください。おそらくですが、これを2000年前に発見して言い始めた人がいるんでしょうね。キ〇ストさんとかではないのかと思います。ようは人類が持ってしまった問題点を『愛』をもって解決しようという概念です。たぶんですが、そこころ初めて人類がそのエネルギー層を保有し始めたのでは?とも考えています。進化の過程ってやつでしょうか。知性を使って感情を落ち着かせるというのは、ようは意味を持たせるということです。わからないことや、いやなことを説明される、実はこういうことだったんだよ~だから大丈夫なんだよ~みたいな感じでしょうか。たしかに落ち着きますし、効果があります。ですがこれを手放すことができるなら、その上の層の恩恵を受けれます。もう一度言いますが、ハートは無執着のエネルギーを多く保持しています。つまり分かりやすく言うと無執着をもって不安を解決しようってことです。(乱暴ないいかただな~)しかし、大事なのは知性を通さないとこのエネルギーを使えないところです。つまり、無視するのではこのエネルギーは使えないのです。知性はひたすらに、現実とそれにともなう自己を『観つづける』のです。ようは意識をむけることなくしては、愛のエネルギーは使えないのです。わかりにくいでしょうけれども、この世界にはこのエネルギーを保持しているものがたくさんあるます。まずはそれに触れてみましょう。一部の美術品、自然、自然にひたって生きている生き物、など特に自然は安易にふれることができるのでオススメです。美術品でよかったのは、ミケランジェロのピエタ(ヴァチカン)、本物のペルシャ絨毯、キリムの一部ピカソの作品なんかは、個人的にはとっても良かったです。一時的にでも触れれば、少しコツがわかってくると思います。最良は、すでにそういうエネルギーを使って生きている人のそばにいるとこですが、現実的には難しいので、その他のを探すほうが簡単です。もし、人を探そうというなら、ポイントとしては、・無執着つまり無償の愛を持っている。・癒しが進んでいる(不安や不満が行動の原理になりにくい)この2点をよく観ていればいいかと。まあ、自然の保持しているエネルギーのほうがブレがないんでいいかもしれませんが。ながながと説明しましたが、とりあえずこんなところで納めておきます。まだまだ説明たりないのですが、まあ要点は伝えられたでしょう。これは、この文章を読んでいるあなた、がんばってください。この責任を負った人が世界にマイノリティですがいます。こんな更新されないブログを呼んでいるあなた。たぶん、あなたもこれをおっています。参考にしてください。あくまで参考にして、自己と現実で進んでください。
2010年04月18日
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□最近、考えない時間ができてきた。これができるまで、2年かかった。不思議欲という存在がよくわかってきた。ある状態から、ある状態に変わるとき発せたれる衝動的なもの。そんなに悪いわけではないけど、状態変化を促進する存在。ここで、大切なのは変化後にはその欲求衝動自体はなくなるものの、欲求のもとはなくならないということ。これは、欲求そのものが衝動を呼ぶのだが、衝動は意味やはけ口を求めるだけでこれに安に流されい。衝動ははけ口として、意味や理由を求める。その結果として行動がうまれる。この流れ自体は不思議なことではないんだが、恐怖がこれに存在し始める。これを手放すことはそうとうな鍛錬が必要になる。恐れの克服というものが必要になってくる。想像以上に恐れとういものが厄介。恐れるなとは、自分自身が感じることに大きい。痛みや、苦しみ自体がいやだということはわかる。そのいやだというものが恐怖に育ち始める。痛みや、苦しみ自体は欲求という衝動を生みこれを回避しようとする。これは無限のサイクルなので、断ち切らなければ、無限に回転しつづけてしまう。痛みや、苦しみから逃れられやしない、しかし、そのことを恐怖することは克服できる。これは想像以上に自由を獲得できる。これは衝動に流されていては絶対にできない。つまり、欲求に対して対処すること自体がダメなことになる。これは想像を超える状態である。不思議。これは道かもしれないし、そうでないかもしれない。自然の力は偉大ではある。このあたりのことを助けてはくれる。解決はしてくれないが、援助はしてくれる。こういうのを外気功というのかもしれない。時間の流れは不思議だ。目で見えるものではないが、そうだと思えるときもある。まるで波のように見える。こりゃ~なんだろうね~錯覚かね~。と、話がそれたが、コツがつかめてきた。道か~なんだろね~。
2008年09月04日
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□無碍(むげ)なににもこだわらないさまなにかがおこり、それに対する対処(内的、外的に)がまったく不能になった場合、最終的にいたるところ。まあ、わかります。どんな対応も対処も不能になったら、いわゆるあきらめて受け入れるしかなくなる。受け入れるとは、許し、認めること。許すから、受け入れられるのか?受け入れられるから、許せるのか?の順番は不明。あえていうなら、許せると知っている、、からだろうか。許さないことは楽だ。何かのせいにしてほおって置けばいいから。許すのは苦痛と苦悩を伴う(ことが多い)本質的になにかを許すとき、それを凝視し、認識する必要があるからだ。自分的にイヤだとか、嫌いだとか思っているものを凝視するのはつらいことが多い。つらいから、イヤだとか、嫌いだとかになるともいう。ではなぜ、許すのだろうか?許すことの素晴らしさを知っているからじゃないんだろうか。絶対的な存在としてあるのかもしれない。ゆるがない存在としてあるのかもしれない。『許す』ということの素晴らしさがあるから、許せるんだろう。なんだそりゃ。そして、結果的にいたる、、無碍に。前提からすべてを根こそぎ変えてしまう方法。地球が、自然がもっている大いなる力、、ただ、無碍であるための必須項目がある。自分を知ること。これがなければ、無碍は何の役にもたたない。迷いがあっては、無碍にはなれず、自分を知らなければ、迷いは無限に生まれる。なぜ、迷うか?それは、絶対的な『思い』というものに気づかないからだ。『思い』に気づけば、思いを体現するだけだなと知れる。『思い』がすべてなのだともわかる。まあ、世の中で言うほど常識的でも、人情的でもないので、そこで迷う人はいるだろうけど。選択に迷うことはあれども、根本的な迷いでないことを知れる。『思い』は「思ったこと」や「考えたこと」、「感じたこと」などとは、全く違う。言葉の説明は難しいがあえていうなら、チョー純粋なエネルギー体だ。その純粋さ、エネルギーの密度の濃さ、繊細さに圧倒される。さらにその『思い』も変化する。いつなんどき変化するかはわからない。そもそも複数の『思い』があるのか。徐々に変化していくのかはわからない。だが、確実に変化していく、ゆえにそれを捉え続ける感性と、忍耐、先入観の取り除きが必要になる。まえの『思い』はこうだったから、、なんていうものは全く意味がない。常に新鮮にそれを捉えつづけるということが必須になる。さらには、『思い』を実行する無謀さというか勇気が必要になる。これは、社会通念と真っ向から位相するものだから、本当に勇気が必要になる。または、バカになる必要がある。トクをしようなんて打算をしていたら絶対に無理。ゆえに、非常に純粋な行動になる。『思い』のエネルギーそのものだからだが、純粋ゆえにむちゃくちゃだ。だが、圧倒的でもある。もし、人生に目的があるとするならば、『思い』のままに生きることだろうと思った。『思い』は『欲』なんかの不純なエネルギーとは全く違う。自分を守ろうとすらしない。あるがままだ。無碍になる必要もないのだが、必要に駆られることもある。それしか方法がないなら、自然とそれにいたる。ただ、それだけのこと。
2008年03月27日
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■欲求の元表面的な欲求(~がほしい、~がすき、~したいなど)には基本的に「元(もと)」があります。例えば、お昼に何かを食べたいというとき、最初の「元」は、「お腹が空いた」でしょうね。その「お腹が空いた」が変化していって最終的に「~を食べる」ということを決定します。面白いのが、最初の元の欲求(衝動)が最終的に決めたことに張り付くことです。つまり、お腹が空いたと同じくらい、~を食べたいと思うということです。このときだいたい、最初の衝動の元が何だったかは忘れます。この「元」と「最終決定、欲求」をつないでいるのが、「思考」です。この思考が練り上げられた状態だと、衝動から最終決定までがあっというまで自動的なように感じます。ここに人のパーソナリティーがあるんだなと感じます。もとの衝動は多分あんまり、人によって違いは出にくいものだと思います。しかし、その過程=思考が違うので結果は千差万別です。この元から、最終的な決定までの過程をつぶさに見ていると面白いです。逆に、最終的な気分などから元を探っていくと意外なことを発見できます。自分が、どんな思考をしているかがわかります。そのとき、過去の感情を沢山それにかぶせてくるのでその様子が妙で面白いです。その人の大切にしているものっていうのはここに出ます。この思考回路の違いこそが個別性に大きく関わってきます。(思考回路といっても感情が結びついているものも含んでの総体です。)年をとってくると、思考と感情の結びつきが多くなり、また思考の簡略化による思考の自動化が沢山おこってくるので、いらないものを沢山抱えてきます。コンピューターでいえばバグが多くなって、ウイルスなどに犯されやすく、全体的に使いにくくなったり、機能不全を起こしやすくなったりするみたいです。このバグは自分自身の思考なので、これを処理できるウイルスバスターも自分です。そのウイルスバスターが、「元」と「最終決定、欲求」をつなぐ思考をつぶさに見るという行為になります。
2007年08月27日
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■昔はみんな聞こえてた。自然の声が聞こえてた。なんで、聞こえなくなったの?必要がなくなったから。自然の声を聞かなくても生きていけるようになったから。みんな友達だったころを思い出す。みんな友達だった。星も、月も、太陽も、みんな友達だった。なんで話をしなくなったのかな。静かな時間がなくなったから。刺激的な楽しみができたから。簡単に手に入るものがたくさんあるとわかったから。欲望を追い求めてたら、かなうことがわかったから。みんなで夢をみてるんだ。欲望を叶えることが大切だって思ってる。必要だって考えている。なんで、夢をみてるんだろう?心地いいのかな?夢から覚めたら、話をしよう。いっぱい、いっぱい話したいことがあるんだ。聞きたいことがいっぱいあるんだ。ずっと、まってたよ。ず~~~と、まってたんだよ。
2007年08月21日
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■植物コミュニケーション植物は、自然はずっと歌ってる。さわいでる。人が歌を愛するのは、自然が歌を愛しているからかもしれない。自然が歌っていることを人の言葉に直せるだろうか?それは、あるときポエム(詩)となりあるときは歌となり、あるときはただの言葉となり、ぼくらにとどく。それは、あるときひらめきとなりあるときは、啓示となりあるときは、直感となりあなたにとどく。歌ってる、さわいでる。自然にうたってる。自然にさわいでる。耳を澄ませてごらん。ハートを感じてごらん。きっと聞こえるよ。風にのり、光となり、あなたに届く。
2007年08月20日
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■わからないことはそのまんまわからないことはそのまんまなぜ、あなたは生まれてきたの?わからないことはそのまんまなにが生きる意味なの?わからないことはそのまんまどうしてあの人はかわらないの?わからないことはそのまんまそのまんま、そのまんま。そのまんまがありのまま。ありのままがそのまんま。答えを出そうとしているあなたにきづいてごらん答えがないことのほうが自然だってわかるよあなたを苦しめてるのは、不自然なことじゃないのかな。自分で自分を苦しめている生き物なんてなんか変?そのまんま、そのまんま。そのまんまがありのまま。ありのままがそのまんま。なんでそれを知りたいの?それを知ったらどうなるの?それは本当?それを知ったって本当のあなたはなんにも変わらないよ。変わると信じているの?なぜ、今がイヤなの?どうしてそれをイヤだとしているの?そのまんま、そのまんま。そのまんまがありのまま。ありのままがそのまんま。不自然さに気づいてごらん。今にとどまってると、わからないことをそのまんまにしていると、不自然さに気づけるよ。その不自然さをしっかり見てみると、本当のあなたが見えてくるよ。なんで、そんないらないものを引っ付けたの?なんで、そんな不自然なことしてるの?不思議だな。そのまんま、そのまんま。そのまんまがありのまま。ありのままがそのまんま。
2007年08月19日
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■思いの蓋感情や思いには蓋ができる。それはできないのは~~だからだ。とか~~はやってはいけない。~~は~~だから悪いことだ。とか。周りとの協調ということも大切だが、こうあろうとすることを強化しすぎると思いに鈍感になっていく。感情にも鈍感になっていく。結果的に感情なり、思いなりに蓋をしていく。そして、蓋をすることを正当化して蓋をしていることに気づかなくさせていく。自分で蓋をしているのに、誰かや何かのせいにしたりする。問題は蓋をしていると気づかなくなっていくこと。蓋をしているとモヤモヤとしてやってきたり、わだかまりとして感じることがある。それをじっと見つめていると、それを言葉にしようとがんばっていると、ふっと、蓋が取れて思いや感情があふれてくる。何が蓋をしていたのか?何に蓋をしているのか?に気づくことができると、そのモヤモヤやわだかまりに悩まされなくなる。そんなことか、と思うこともある。感情や思いを大切にしすぎると、協調性を失ったり、子供っぽくなりすぎたりする。しかし、別にそれに蓋をする必要はない。以前は必要だったかもしれないけど、今もその蓋は必要?本当に?蓋をとると、きっとあなたが大切にしているものが見えてきます。また、大切にしなくていいものにすがっていたりするのが見えてきたりもします。大切なもの、忘れないためにもいらない蓋は取っておきたいですね。
2007年08月17日
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■昨日は終戦記念日ということで。一人の心の中の、怒りや、憎しみが争いとなり最終的に戦争を引き起こす。一人の心の内の、平安や、穏やかさが世界を平和にしていく。世界の争いの根源は、私たち一人一人の心の中にあるものの反映だと思います。世界の平和のためにいろいろ活動されている方々は素晴らしいことだと思います。ただ、それ以上に私たち一人一人の日々の生活の中に平和の「カギ」があるのではと考えます。誰かに対して寛容でいられること、争わずに仲良くいられること、あなたが何に対して怒り、傷つき、そしてそれに気づき許せるのか。一人一人の心の平和は、きっと世界の平和に繋がって行く。世界の平和は、今のあなたにかかっているのだということを。世界の平和を願うのもいいでしょう。しかし、さらに大切なのは、あなたのうちにある怒りや憎しみに立ち向かっていく勇気がきっと、世界の平和に繋がるのだということを。誰かの責にする(被害者に徹する)わけでもなく、出来事の納得できる意味をさがしたり、強く何かを思い込むわけでもなく、事実を変えようとやっきになるわけでもなく、その怒りや憎しみに立ち向かう勇気を。世界の平和は誰かになにかをさせたり、してもらったりすること以上に一人一人から発せられるのだということを。戦没者の方々のご冥福をお祈りいたします。
2007年08月16日
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■アルバムを買ったスキマスイッチのベストアルバム聞いているととてもこころに残る歌があったボクノート■ボクノート:スキマスイッチ(一部省略)耳を澄ますと微かに聞こえる雨の音思いを綴ろうとここに座って言葉さがしてる考えて書いてつまづいて消したら元通り12時間経って並べたもんは紙くずだった今僕の中にある言葉のカケラ喉の奥、鋭く突き刺さるきれいじゃなくたって 少しずつだっていいんだこの痛みを形にするんだ今僕がつむいで行く言葉のカケラ一つづつ折り重なってうたになるキレイじゃなくたって 少しずつだっていいんだ光が差し込む■こんな経験ありませんか?胸の奥にあるモヤモヤを言葉に直していく。でも、なかなかこれだという表現ができない。モヤモヤがとれない。キレイやかっこいい言葉にしようとしている自分に気づいた。そんなもの捨てて、ただただ言葉をカケラでいいからつむいでいってみる。矛盾していても、かっこ悪くても、あきらめずに言葉にしていってみる。そんなことをしていることを馬鹿にする自分もいる。でもあきらめない。そうすると、スッと心の奥のほうに光が差し込んでくるを感じるなんかモヤモヤが晴れて行く。わだかまっていた感情や、思い込みに気づく。それが「気づいて」っていっていたのがモヤモヤだと気づく。そんなのをうまい具合にメロディーにしてるな~って。大切なものはいつだって、ココロのオクにあるんだって。
2007年08月10日
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■知る知ることは大切です。情報しだいで、次に打つ手は変わってくる。が、落とし穴もある。知るとは=そう思い込むことひいては、思い込みたいことになっているときがある。定義すること=思い込むこと =そのものではなくなることがあるあなたという人となりを言葉で尽くしきることはできない。占いや人からこうだと決めても、違うこともあれば、大きく矛盾するものを抱えているほうが普通。それをあなたがやっても同じこと。だいたいこんな感じと言葉で定義できても、やはり、あなたという一側面でしかない。世の中そんなもので、言葉では言い尽くせない。何かを定義してしまった時点で、その一側面でしかなくなる。つまり全体性を欠いてしまうのがこれのデメリット。そのかわり、わかりやすい、理解しやすい、人に伝えやすい専門的な知識が必要ないなど、大きなメリットも沢山ある。全体を見るための方法は、「そこにとどまること」ありのままに気づき、ひたることとどまるというと、流れをとめている、停滞しているようにきこえるかもしれませんが、逆です。とどまるとは、流れをとめているものに気づくことです。つまり不自然なものに気づくこと。なぜか不思議ですが、とどまることでしか見えないものがあります。パターンの破壊はおそらく、これが一番有効化と。
2007年08月09日
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■キリスト教はい、今度は宗教ですか、、。まあ、なんでか最近やたらと縁があるので、それについてちょっとだけ。キリスト教はローマの時代に起こった。だから、当然ローマの時代のことが大きく関わってくる。ローマってのは紀元前750年くらいから始まって、AC800年くらいまで続いていた、まさに1000年大国2000年以上前に、民主主義や上下水道、道の整備をかなりのレベルでやっていたのには驚きです。この当時は、とっても自分勝手で動物チックに生きていたみたい。奴隷制度っていうのが完璧に根付いていて、人権とかどうにでもなっていたころ。どーも、そのアンチでうまれたらしいのがキリスト教。(詳しくは知らないんで個人的感想です)神の前ではみな平等。まあ、いいこといいます。人間として、権力者としてはとても不平等にできている世の中ですが、なぜか、神の前では平等。しかも、一夫一婦制など快楽的、倫理的なものにも厳しい。信じていれば、死んだときに助けてくれる。信仰ってやつですね~。日本人は葬式仏教になってしまっているので、仏教徒といっても信仰のかけらもないですからね。なじみがないです。おっと、ローマの時代にもどりますが、このころは、この考え方がともて斬新で進歩的、それまでの動物チックに生きていた人達に人間らしさっていうものを深く考えていかせたみたい。で、2000年たちました。人間考えることなんて、2000年たってもたいして変わってないんでしょうけど、2000年前の教えを有り難がってたら、ちょっと古い気もする。それが真理で変わらないことなら今後何年、何万年たとうとも変わらぬ教えとして存在するでしょうけど。少なくとも2000年間は、それに変わる新しい考えたかは有効に働かなかったみたい。ふ~ん。そうなんだね。新しいものってできるのかね。それともそういうものが真理なんだろうか?人の考え方ってのは対した変化はないんだろうけど、周りの環境は大きく変わっていく。たぶん、今必要なのは激変して行く環境へ対応できる考え方なんだろう。特に日本では、ここ数十年で生活スタイルが激変している。価値観もたぶん、激変している。環境の変化が激しすぎて、人間としてついていけなくなることもあるだろう。とどまりたい。変わりたくない。休みたい。とか、、。本能的に思っている人は多いんじゃないのかな。社会は方向性を強く持っているので、なかなか休ませてはくれない。消費もし続けないとだめ。そのための新しいもの、楽しいものを供給していってるのが今の社会の流れ。基本的に、売れれば良し、売れたものが正解で、正義。資本主義の根本になってるんだからしょうがない。ふ~ん。ほんとに?お金が手に入ると楽しいよね。楽しいこと沢山できるのは間違いないし。そのために楽しくないことやる?う~ん。これは事実の1側面だけだな。楽しくないことガンマンすればするほど、反動で楽しいことを求めるようになる。まあ、これは普遍的か。我慢せずに、楽しくないことができる能力ってのが、今の社会で必要な能力ってこと?おっと、堂々巡りが始まったので辞めとこう。宗教の話にもどるけど。締め付けるのが、どーも宗教のようだ。拡散して破綻気味の世界を、そのことによって、よくして行こうってわけだし。その理想なのかどうかよくわからないけど、なにかのためにがんばる?のが大切なわけだし。締め付けが欲しい時には最適だが、締め付けがきつい時は、その逆になるのかな。なんにせよ価値観だな。価値観が無いときには、そういう変わらない、しかも多くの人が信じているものが支えになったり、一本筋の通った自信になったりする。これでよい!なんて価値観を持ちにくい世の中ではあるけど、資本主義はお金様の宗教(価値観)といえなくもないか。お金の価値を妄信している気もするしね。妄信か~。何に対して今、妄信してるかな~。
2007年08月08日
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■内的なウソに気づく力。これが、一番いま、しっくりくるところか。内的なウソに気づくとなんかあんの?全てに気づいていく。自分のすべてに気づいて行くこと。すると、出来事のある側面が見えてくる。自分が巻き起こしている部分。自分が主たる行動をおこして、その結果を巻き起こしている事実がみえる。逆にいうと、事実のあらゆる側面に過去の自分の意図が見える。その意図は顕在意識になるときに、変更されたり、隠されたりする。そこを見分けるのが、内的なウソに気づくちから。何にウソをついて正当化しているのか?これをみると、自分が何を望んでいたのかがとてよく見えてくる。そして、その結果も。まだ過去の自分の意図に気づくだけで精一杯だが、これが、進めばもしかすると未来にかなり大きく関わることができるようになるかもしれない。ただ、この意図ってのは都合よくはできていない。そのときの魂の叫びといってもいいようなもの。都合よく未来を作れるというより、進んでいっているものが事前に確認できる程度かもしれない。これは、心の平安ということに関してはとても有効に働くようだ。心の平安とは、いわゆる自信というものに呼びかえられるかもしれない。自分の進んでいる方向、未来の出来事、今の自分、これらをひっくるめてわかっているっていうか大丈夫と思う。これが自信=心の平安ってやつかもね。そうなることがわかっている状態ってやつか。また事実で揺らぐことがあれば、その側面をしっていくだけ。過去の知りえなかった自己の意図を確認していくこと。落ち着きと平静、、。だから?あっそう。そういうこと。落ち着きと平静とかってどうでもいいのね。まあ、少なくとも今の段階でどうのこうのいうもんではないのね。目指すとか、手に入れるとかじゃなくて人生はすでにそうだってことね。はいはい、わかりましたよ。(爆
2007年08月07日
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■さみしさを見る。大きな課題です。とても大きなさみしさを持っています。だれといても、なにをやっていても感じるものです。これがあると、自分が一人だけだと感じます。そのため、それを埋める何かをさがします。楽しさ、安心、心地よさ。一時的には埋めれることもあります、、がいつまでたってもキリがありません。孤独感。そう呼んでもいいでしょう。あなたはなに?なんでそこにあるの?それを苦しいと決めている私があるの?それが、なんなの?どれだけ蓋をしても、気にしなくても、解消しようとしても、何度も何度も現れるあなたはなんなの?私自身?これがあるから、大丈夫なんて思ってもすぐにはがれる。あれが手に入ればっていってもきりがない。あなたはなに?なんでそこにあるの?静かにこっちを見ているあなたは何も言いたそうにないね。満たされないから、さみしいの?行き詰るから苦しいの?あなたのカケを探しているの?探して欲しいの?あなたはカケているところはあるけど、カケてはいない。カケていると信じている心。それがさみしさ。そこを何かで埋められると信じているのもあなた。かけているものはどこからくるんだろうか?どこからくるの?事実。出来事。これがないからだめなんだ。これをしないといけないんだ。なにかをしないと。見るべきは、かけはどこからくるの?様々だね。それを一個、一個見てみようか。それがやってきたときは、それはきっとあなたといっしょにいたいときなんだろう。一個一個、見てみよう。知っていこう。それでいいや。いっしょにいるから、いっしょに見ていこう。嫌がったり、押さえつけたり、何とかしようとしないから、ただ、いっしょにいるから、いっしょに見ていこう。良い悪いを判断しないから、拒絶したり、無視しようとしないから、ただ、みていこう。いっしょに見てみよう。ただ、ただ、いっしょに。
2007年08月06日
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■自然という教師過剰に期待してもいかんが、自然はすばらしい教師ですね。別にかけらもやさしくはないですが、適確かつ、適正、そしてエネルギーに満ちてます。最近、感じるのは、自然と深く触れ合っていると、ネガティブなところとか、不自然なところ、過剰なところを、ズバッと指摘してきます。これには受け取る側の感性が必要で、それと気づく必要があるとはいえ、とても適確かつ適切です。妄信していたり、願望だったり、自分だけでは気づきにくことを容赦なく指摘してきます。向こうとしては、なんでそんな不自然なことしてんの?って質問してる程度でしょうけど。これは、まるでなにかの「理(ことわり」のなかにいるようです。(理ってバガボンドからもらいました)よくわからないけど、大切なものを教わっている気がします。正確には忘れていたものを思い出している気がします。大切なものってそんなものかもしれませんね、教わったりするよりも、そうなんだなって思い出す感じでしょうか。それを忘れさせているものに気づけば、思い出すことができる。だから、知るのではなく気づくんだろうなと。元気がないとき、自然に触れていると元気になってきます。エネルギーは高いところから、低いところに流れるからですかね。そう思うと、向こうにとっては迷惑なのかもしれませんが(^^
2007年08月04日
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■人とのコミュニケーションは楽しいですね。なぜでしょうか?面白いと感じます。いろんなやり取りをしながら、楽しむことができます。あの手この手で面白いですね。考え付かない発想をお互いに交わすからでしょうか?それに引き換え植物はなんとも静かですね。楽しさって変化のことなのかも知れませんね。変化を楽しんでいる。(楽しい理由はそれだけではないでしょうけど)短時間であっというまに発想は変化していく、情報は変わっていく。そういったものを楽しいと感じるんですかね。ぎゃくに自然は変わらないなにかを教えてくれる。つねに変化しつづけているんだけど、変わらないみたいな何か。だから、別に楽しいとかはあんまりというか全然ないです。不思議な感じはありますけどね。楽しいとかとはまったく違う次元です。自然との交流は、生命と私を教えてくれます。人との交流は、楽しさとつながりを感じさせてくれます。ありがとう。なんで、、。わかりません。いいんじゃないですか。違うこと思うこともあるでしょう。それもそれでよし。
2007年08月03日
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■芸術は爆発だっていっていた人がいます。生命は爆発だって思います。瞬間瞬間に爆発していく。なんで?わかりません。太陽みたいな感じですかね。輝いている間中、核融合して爆発している。爆発なんだけど、静かに開いて行くという表現はいいですね。好きです。本当に無条件、無目的にバーンと開いて行く。なんで?わかりません。生命のうねり、たくましさ、静けさ、、、、そう、、静かですね。生命はとても静かです。それを平安という人もいるかもしれませんが、思ったよりダイナミックな平安です。静かなのに、、、。面白いのが、植物はこの生命にあふれています。それに気づくと、、、。まあ、とんでも話ですが、、交流が始まります。植物と!?まあ、いいじゃないですか、主観ですし。交流、つまりコミュニケーションです。言っていることとかはよくわかりません。言葉が違うんですかね。言葉の知らない外人とコミュニケーションしている感じです。植物は、おもったよりおしゃべりですね。驚きです。なんかイルカといっしょに泳いだとき、あまりにイルカが鳴き続けているのに驚いたのを思い出します。で、、、。別に、、それだけです。交流したらどうなるのか?わかりません。どうなるんでしょうね。
2007年08月02日
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■生命人生には目的も、価値もない。いいんでしょうか、こんなこといっていて。これが真実であるか、事実であるかはわかりませんが、そうだろうなと考えています。ちなみに、二次的なものはありますよ。これやりたいとか、あれやりたいとかも含めて。本質的にって感じで捉えてください。目的も価値もないことは別に悪いことでもいいことでもありません。ただ、これにはなかなか慣れることができません。社会全体の通念や常識ではないからです。そうだなとおもってから、慣れるだけで半年以上かかりました。しかし、慣れてみるとわかってくることもあります。(相変わらず変なことしてますね~)生命の本質はなんだと思いますか?生きることの意味が、人生の意味であるならば、生命の本質が、人生そのものと解釈できなくもないです。生命の本質は、無条件、無執着、無目的(そのエネルギーそのもの)です。花が咲くのに目的や、執着をもっているようにはみえません。種を飛ばすために咲くとしても、その目的意識をもっているというよりは自然とそうなってるから、、みたいな感じでしょうか。種を飛ばす為に植物があるのであれば、種を飛ばせない生物は早々に死ぬだけである。目的が達せられないなら滅せよ、、、というわけではないでしょうに、という感じとも捉えられるかな。生きることに二次的な意味や価値はあっても、生きること自体の本質はなぜか、無条件、無執着、無目的です。基本的に、、。話はもどりますが、、人生には目的も、価値もない。に慣れると、生命のソースを発見しますというか、見えてきます、触れられるようになります。(そんな気がします)無条件、無執着、無目的が浸透するんですかね。生命のソースそのものは、本当に無条件、無執着、無目的です。エネルギーそのものです。エネルギーそのものなんだから、無条件、無執着、無目的なのは当たり前です。だから、生命そのものは無条件、無執着、無目的なんですかね。集中ではなく、拡散するのが自然です。これは物理法則も同じで、根本的には同じなんですかね。集中は目的、拡散や広がりは無目的ですかね。これに触れるとどうなるのか?わかりません。どうなるんでしょうね。これから、知って生きます。(はい、また着陸地点なし、、(爆)
2007年07月31日
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■「私」をしるまたまた~、禅問答のようなものを、、。まあ、趣味です。今回ちょっと難解です。わからないものは、わからないとほっときましょう。「私」をしるとはなに?私をしるとは、何かに対して感激したり、感傷したり、ブレたりしているあなたをありのままに見ることです。では、「私」をしるとどうなるの?ショックなどでブレている自分を客観的にみることになる。あ~こういうことがショックなのね。あっ、こんなに傷つくんだとか。それはなぜ?なぜ?と繰り返していく行為=私を知るということそのものです。それで?普通、自分がブレるとブレをなくして安定しようとします。その結果、対策を練ったり、紛らわしたり、意味づけで納得してみたり。要は自分の外側でなんとかしようとします。私を知る過程がそのものが、ブレをみていったりすることなので、ブレること自体がウェルカムになります。そこまでいかなくても、ブラさないようにすることで安定をとろうとがんばるんではなく、ブレてあたりまえ、しかもそこから情報を引き出していきます。で?それだけです、、。また、きましたね~着陸地点無し。なぜ?しかたないんですよ~(甘えた声で、、バシッ!!)方向性をなくさないと「私」がみえてこないんですもの。こうなる為に私をみようとかと思ったら、「私」そのものをみることができなくなってしまう。こうなる為の私しか見ようとしなくなるからなんですが、、。やっかいなのが「よくなるために」です。良くなるために、改善するために私をしっていこう!なんかよさそうに聞こえますが、「よくなるため」の自分しか見ないわけですから、これでは私をみてません。また、この声の裏には、「良い私があるはずだ」「何かを改善すればよい私がいるはずだ」「よくなれば、当面の~~という問題が解決するはずだ」なんてことがあるわけで、見るべきはこっちになります。どうしてそう思うのか?あ~まったくめんどくさい感じですね~。なんでそんなことしてるの?わかりません。まあ、いいんじゃないでしょうか(泣きながら、、)まあ、いろいろ小難しく書きましたが、私を知るってことは、自分のウソに気づくということひいては素直になるってことですかね~。何に素直になるかっていうところの「何」が大切ですが。衝動的や結果的におこっていることを受け入れ、その背景をみていくことです。自分に都合の悪いこと沢山でてきたりするんですが、がんばってみましょう。自分にウソのない素直さって難しい人には難しいもんです。
2007年07月30日
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暑い日が続きますね。とろけそうな毎日です。昨日のつづき■自己統合では、自己統合はどうすればできるか?理屈は難しくないんですが、実際やると難しいです。それは、、分断してしまった自分とただいっしょにいることです。たとえば、あるショックな出来事によって悲しんでいるあなたがいたら、悲しんでいるあなたといっしょにい続けるんです。これは追体験をしてしまうので大変です。(追体験とはショックな出来事などを、また、同じように体験したかのように思い出すこと)ここで、逃げてしまっては元の木阿弥です。切り離し方によるでしょうけど、一時間もいっしょにいれば、あなたになじんでくるはずです。切り離したのもあなたなので、なじめばそんなものかと思うはずです。ポイントというかコツは3つ、・解決を意図しない(この苦しみから抜け出す為にとかやめる)・意味づけをしない(よくなるためにやってるとか思わない)・この体験や前の体験にひっぱられない(抜けるとすっきりして、またすっきりしたいと思い出すのですがそれもやめる)ただ、それだけです。やると難しいことがわかると思います。(ショックの追体験はイヤですからね~)さらに、落ち着いてやるとかではなく、そのショックを思い出しているリアルタイムにやらなければ意味がないところが、難易度を上げています。あとで、やろうなんて思ってもダメです。そのときにやらないとできません。また、3つのコツを守れないと思考のループに陥って前見たような答えにすがったり、どうどう廻りをしてしまいます。(ある意味づけで満足するか、他者や社会などの責にして被害者に徹するか、強い思い込みでなんとかしようとする)細かくはいろいろあるし、文面どうりでは説明不足ですが、ブログではこんなところでしょう。問題は、どれを統合としているか?にかかってくるんですが、体験なしに理解は不可能です、絶対に。別のものをそうだと考えてしまいがちです。(こんなの非日常ですからね~)こういった文字情報のみの欠点ですね~。どうしても誤解がうまれてしまいます。まあ、いいんですけどね(いいんかい!ビッシ!)自己統合する必要があるか?わかりません。これが自己統合なのかも含めて、、(そこ否定かよ!)まあ、いいじゃないですか。個人的なもんですし、、(爆
2007年07月27日
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■自己統合なんかかっこいいですね~。なにか特別な力をみにつけそうな題ですね~。相変わらずですが、自己統合は自己統合です。いいんでしょうか、こんなんで、、。自己を切り離す。の逆が自己統合です。なんで、自己を切り離すのか?なにかショックな出来事があったとき、それによってとても悲しんだとき。悲しみから逃れるために、対策を練ったり、紛らわしたり、意味づけで納得してみたり。まあ、普通の反応なんですが、そのとき悲しみから逃れたいあまり悲しみを拒絶してしまったりします。そうすると、「悲しんでいるあなた」を切り離すことになります。(全部が全部そうではないでしょうけど)その悲しみが何かの拍子に思い出されるたびに、押さえつけて切り離していきます。この悲しみは私が成長するためにあるんだ!!と強く自己暗示したりします。ここでもでてきますが、悲しみは悲しみです。よくもわるくもありません。(内的には)そこから逃れたい為に自分を切り離してしまうことがあるってことです。逆に「楽しいあなた」に固執するあまり、その他を押さえつけたり、切り離してしまうこともあります。楽しいあの時に戻りたい → 楽しい私が私だ → 今、楽しいと思えてない私は私じゃない。なんて感じに。この自己を分断していくことの問題点は、自分が何を考えているのかわからなくなるというところです。分断しているんだから、当たり前です。個々の枠の中のあなたで決定しても、あなた全体での決定ではないので迷うだけです。いろんなことを考えて、こうだと思えても、違う枠のあなたが、違う判断を下すからです。また、その分離したあなたを恐れるあまり正常な判断を阻害します。これは、迷う、もしくは、わからないという状態を生みます。自己の分断だけが理由ではないでしょうけど、自己の分断による弊害です。では、自己統合はどうすればできるか?
2007年07月26日
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■走ってます。最近、汗かくために走ってます。セミの鳴き声が聞こえてきます。これから暑い夏が来るんですね。このあたりでは桃の収穫が始まっています。(このへんはとても有名な白桃の産地です)袋を掛けているのは白桃です。日焼けをしないなので白いんですね。(日焼けをすると桃が赤くなります)袋がオレンジ色をしているのは、すべての光をさえぎると桃の生育がわるくなるからです。ある程度、光が差し込むことで桃の生育がよく、白い桃ができるんですね。袋をかけると、虫などからも守れます。薄い表皮が白桃の特徴で、そのため芳醇な香りと味を楽しめます。外側に袋をかけることで、もう一枚の皮で守られているような状態になるんですね。今年の桃のできはどうでしょうか!?ちなみに知合いの方には、個人的に桃の注文受けますよ。今年はたぶん、8/3くらいまでは取れるはずです。
2007年07月24日
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■「欲」またまた、きてますね~。過激な題ですね~。まあまあ、こういうのもアリということで。「欲」ってなんでしょうか?~たい という状態です。ここでの問題点は、「欲」を夢や希望、もしくは欲望などと無意識に分けてしまっていることです。つまり、良い「欲」、悪い「欲」にわけてしまっていることです。「欲」は「欲」です。そういわれるとなんだか悪いことのように聞こえますが、またまたですが、良い悪いはありません。そう決めたい自分がいるだけです。悪い欲っていうと、自分勝手で、わがままそうなもの。良い欲っていうと、良くなったり、成長したりするもの。というなぜか一般常識のようなものがあります。問題は、何かの「欲」を悪いと信じきっていたり、逆に、良いと信じきってしまっていることです。過度にそれを信じることによって、バランスを崩してしまったりします。「無我」にもどりますが、無我は欲が無い状態なので、無我になり『たい』とも、それによってよくなり『たい』とも考えていません。そういう状態になると、自分のもっている「欲」というものがわかってきます。そうとう強欲な自分を発見するはずです。。「欲」が私にはあまりないって言ってる人!そういう人が一番強欲だったりするので不思議です。「欲」を持ちたくないという「欲」をもっていたりするからです。で、、、。あいかわらず着地地点はないんですが、「欲」に気づくことはなんなのか?「私」を知っていきます。私ってこういうことが欲しいとか、こうなりたいとか思っているのね。ぎゃくにこれがイヤだとか、嫌いとか思ってるのね。そして、その理由を知っていきます。で、、、。「私」を知ることは「私」を知ることであってそれだけです。よくもわるくもありません。私を知って行く過程に「欲」ってものがあって、なにが「欲」ってものに気づく為には「無我」というかなんというか、フラットな状態が必要だってことです。で、「私」をしったらどうなるの?わかりません。どうなるんでしょうね?
2007年07月23日
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■無我なんでしょう。なんか、禅のような題ですが、、。無我ってなんだと思いますか?私が無い。では私って何?私なんて、有るような、無いような、、。いろいろあるとは思いますが、「欲」がないってことだと思います。では「欲」ってなんでしょうか?~たい という状態です。例えば、お金が欲しい。分かり易い欲ですね。他にももてたい。知りたい。聞きたい。理解したい。成長したい。良くなりたい。などなど、、ここにある問題点は、一般的に「欲」を悪いことと考えていることです。では、いいものなのか?いいえ、よくもわるくもなく、ただ「欲」は「欲」です。たとえば、「夢」といえばきれいですが、「欲望」といえばなんかダメなもののように聞こえます。でも本質的な違いはありません。それを、良いことか、悪いことかを決めたい自分がいるだけです。どっちでもないです、「欲」は「欲」です。では、元に返りますが、無我とは、「欲」の無い状態。欲望もないけど、夢も、期待もない。なんか、そういわれるとイヤな感じが、、、。そう、でもそれが真実です。では「無我」になるとなにがどうなるのでしょうか?「欲」がそぎ落とされるとどうなるのでしょうか?「私」がそこにたちあらわれてきます。なんで??わかりません。「欲」をそぎおとすと、なんでか知りませんが、確かな「私」を感じます。それで?いや~~それだけです。着陸地点はないですね~~。イヤすんません。あっ、あと別に無我で生きようとかってわけでもないっす。そういう時間があってもいいですけど。
2007年07月20日
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■温泉先週、温泉にいってきました。岡山には温泉郷がいくつかあります。そのなかでも美作は湯郷にあるポピースプリングスにいってきました。アロママッサージなんかもやってるスパリゾートです。ポピースプリングス温泉&アロママッサージの至福の時間を堪能しました。温泉にはいってリラックス、、、アロママッサージにうっとり、、、ハーブティーでほんのり、、、高級ソファーでゆったり、、、たまにはそんな休日もいいみたい。市内から車で1.5時間ほどです。岡山にいるなら、一度いってみるのもいいかと思います。■その温泉で感じたこと。「水の循環」温泉のお湯は地中深くにあった水が熱せられたもの。今、たまたま地上に湧き出してここにある。そして、その水は川へと流れ、海にたどり着き、蒸発して雲になって、また、雨となって降る。そのうちのいくつかがまた、地中に潜り温泉になるのかもしれない、、。人の体も70%が水。その水もたえず循環している。汗になったり、尿になったり、たまに涙になってみたり。体をめぐって、いらないものといっしょに外にでていく。その水がまた、海や、雲や、温泉になっている。天と地をつないでいるすごい水の循環。それは、ただただ循環している流れ。ず~~と昔からある流れ。今、飲んでる水はその昔、空だったり、海だったり、植物だったり、ライオンだったり、アメーバだったり、めだかだったり、鳥だったり、ホタルだったり、滝だったり、水たまりだったり、あなただったりしたかもしれない、いろいろだったんだね。でも、また流れて循環していく。あ~なんか知らないけどすごいな~と思った。
2007年07月19日
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■ハートの力というものがある。すべての葛藤を超えていく力だ。この世は矛盾だらけで、つじつまの合わないことは多い。自己の葛藤も理論的には解決不能なところに起因している。その葛藤を超えていく力がある。ハートの力だ。なにも無いけど、すべてがあるのがハートの力だ。ここにはすべてがある。でも、なんにもない。この力で葛藤を超えることができる。すべての出来事は、感情は自分の一部でしかない。なぜなら、すべてあるからだ。ここにはすべての感情がある。愛情も、悲しみも、憎しみや、苦しみ、やさしさや、慈しみや、幸せや不幸感、たのしさもすべてある。でも、今この瞬間にはほとんどどれもない。これがすべてあるけど、なにもない状態。でも、すべてあることを知っていて、今はその一部だとわかると葛藤を超えていける。なぜなら、その葛藤も自分という大きなものの一部でしかないからだ。ハートの力。これをしって、1年半。その力をやっと理解できた。ここにはすべてあるけど、なんにもない。
2006年12月31日
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■メンターにであった。メンターってのは人生の師みたいな感じの人のこと。この言葉を3年ほど前に知っていろいろな人をみてきたんですが、今回が最高値です。メンターの条件・金銭的に恵まれている。・自由な時間に恵まれている。・家庭が幸せである。(これが重要なポイント!)・精神的にバランスが取れている。などなどいろいろあるんですが、すべてを高次元でまとめている驚異的な人と出会えました。まさに奇跡!!大金持ちではないですが、だれでもいけるところにあり、仕事にほこりをもち、仕事の拘束時間は短い。精神的、家族的にも幸せにバランスがとれている。まさに僕がいたりたかった場所にいる。都会であったたくさんの人たちの中にはお金はあるんですが、なにか不幸な印象やきつい印象を受ける人が多かったです。執着が多いというか、自己顕示欲が強いというかどこかバランスを崩している印象がありました。それらがいっさいない驚異的に高次元にまとまっている、、。さらにその人からさまざまなことを吸収できる位置にいる。すばらしいです。こんな状態は初めて。出会いっていうのは本当に奇跡的ですね。
2006年12月11日
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■笑顔は力、力は笑顔笑顔を大切にしたいとおもった。あかるくなる一番の方法は笑顔だ。これを忘れないでいよう。なにがあっても受け取りかたで幸福も不幸もきまる。他人はなにをいっても、そういう意見があるときこう。自分の好きなものをふやそう。
2006年12月08日
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■この一ヶ月ほんとにいろいろなことがありました。さまざまなことを手放し、恐怖や執着、嫉妬や臆病さを体験し、悲しみ、苦しみ、楽しさ、幸せ感、充実、などこれまで味わったことの無いくら濃いものを感じ尽くしました。本当に苦しい一ヶ月でした。ですが、偶発的にある境地に達することができました。『なにがあっても大丈夫』多くの人が欲している欲求のようなきもします。ほんとに偶発的ですが行き着きました。だからといってなにがあるわけではないですが、こんなものが世の中に存在するとは思っていませんでした。いろいろ人から聞いたり、本などで読んではいたんですが、こんなものがあるとは、、。お金にも、地位にも、名誉にも、保険や、人脈などいっさい関係のない、この境地。どちらかというと上のものたちはこの境地の邪魔になります。必要があるときに、必要なものがくる。ホントにそう信じられます。あとは自分の意図、意識のみ。これだけしかない。すべてを受け入れ、そして、意識に身をおく。もちろんこれからも受け入れがたいことが数々おこるでしょう。ただ、もはや外部の現象はそのものを変えることができない。なんといったらいいか、、。ことばではおそらくこの感じを伝えることは不可能です。あえて言うなら『恐怖』のない状態です。恐怖心の克服でしょうか?なんだか形骸化した、既存のなにかの考えのひとつになってしまいそうで、、。うまく伝えることは不可能でしょう。この一ヶ月は、一年、10年にも匹敵する体験をしました。理解もしました。不思議な時間でした。
2006年12月06日
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■秋の味覚、柿の収穫をしている。あたご柿と呼ばれるシブ柿です。シブを抜く必要はありますが、とても大きくて食べ応えのある柿です。■果物は収穫が醍醐味ですね。秋の澄み切った空の下、たわわになった果物を一つ一つ収穫するのは一年の総括のような感じがします。柿の収穫は、はさみで一つ一つ丁寧にもぎ取っていきます。柿の木は丈夫なので、木に登って収穫することもあります。結構、上まですいすいと上れるので気持ちいいです。てっぺんからひょいと顔をのぞかせると、一気に景色が見渡せて別世界のようです。収穫を通して体の変化を感じました。非常にリラックスしている。リラックスとかいうと、なんだかありきたりですが、非常に深遠に身体のすみずみまでリラックスするのはまれです。身体全体がやわらかくなって、なんだかとろけているようです。果物の収穫は、農作物の中でも特別だな~と感じる今日この頃です。
2006年11月16日
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■お遍路のとき般若心経を教わった。基本的に各場所で般若心経は拝むので自然とその作法などはわかってくる。そこで教わったのは、ご住職『お経はリズムや!棒読みのリズムのないお経は、お経やない!』「ど、どんなリズムなんですか?」『こう、なんていか巻いていくんや。 くるくるくるくると言葉を巻いていくんや。 その小さな巻きと大きな巻きで唱えていくんや』む、むずかしい。3日も毎日やっていたので、だんだんコツはつかんできたんですが、言葉をアップダウンさせながら、巻いて?いきます。これをやってみていろいろ発見がありました。巻きのリズムをやっていると、ホントに巻いてきます(^^言葉もそうですが、体内というか身体の中というか、それも振動して巻いてきます。不思議ですね~。■般若心経をやってみて一番に感じたのが、呼吸器系が鍛えられる、ということです。細く長く出していく腹式呼吸と体内まで振動させる巻きのリズム、この二つが呼吸器を鍛えてくれていることがわかりました。ある種、昔の健康法だったのかもしれません。ありがたいお経を唱えながら健康になるとういうなんともすばらしいもんですな。そういえばお坊さんは長生きが多いような。
2006年11月07日
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■お遍路にいってきました。お遍路といっても四国を回るものでなく、香川県は小豆島、島遍路です。小豆島というのは、香川と岡山のあいだにある瀬戸内に浮かぶ島です。真言宗の開祖弘法大師空海が、讃岐から京都に帰郷の途中にご修行された霊跡です。小さいながらも小豆島にも88箇所(全94箇所)全長150kmの零場は、『ローソク、線香、オイズル、杖、笠、納札』を持ち同行二人の教えをもと全工程を読経、御詠歌をし、その証として納札を納め、宝印を捺していただくものです。今回は薬○寺の御住職と同行させていただいたので、いろいろ本格的にやってきました。般若心経のちゃんとした拝み方から、礼節や、その意味など、いろいろ教えていただきました。■小豆島には特にお接待の習慣が色濃くのこっているところで、行く先々にてみかんなどの果物や、昼食、お菓子などいろいろなものをいただくことができ、人の温かさを感じることができます。総評はまた後日いたしますが、全体的な感想としては仏教(特に真言宗)の教えに触れてきたな~というのが印象です。いろいろな仕組みや、有言実行している様は現代にはあまり正確に伝わってなかったり、どういう意義で仏教ができているのかというような事が、私的に理解できました。こういったものはロジックでなく体験からしかわからないことが多いな~と思います。問題は理論でなく実践ですからね~。人の優柔不断さや、いい加減差を加味しながら、しっかり作られている、守られているものは感動しました。理論をシコシコやっている方は是非実際をいろいろ体験していただきたいと思います。思わぬ発見や納得がありますよ。
2006年11月06日
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■いろいろ野菜の作り方を工夫している。その中でやっているひとつに永田農法がある。野菜もぼちぼちできてきて、永田農法のメリット、デメリットが見えてきた。メリットおいしい野菜ができる。特に甘味が増える気がする。成長が早い。デメリット高い、、(これにつきるかも)通常の有機農法に比べてコストが3~5倍。手間も同様に3~5倍かかる。コストのほとんどは液肥と呼ばれる肥料代。週に1度の割合で散布することになるんですが、これがコストを跳ね上げている。さらに手間もかかってしまう。当然、コストは値段に跳ね返るので野菜の値段そのものが高くなってしまう。とはいえ、通常の有機野菜に比べて味が劇的に変わるほどの物でもないので悩ましい。結論永田農法単体で行うにはコスト面に問題があり、続けるのは難しい。しかし、内容のスパルタ的な手法や、必要時の液肥の使用など一部の手法を取り込むことで、今までの作り方を改善できる。適地適作とともに、人と自然のかかわり方を考えていくことで少しずつ前進している気がする。特にこれをやらなければならないというものはないし、気の向くように気に入った作り方を確立していけばいいんだなと感じる。いや~、ファーストリテーリングが撤退した理由が実体験で身にしみます。
2006年10月31日
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■最近、いろいろな人にあっている。そこで聴いた良かった話し。『自然はすべてを教えてくれる。こちらが何か間違ったことをすると、すぐに反応してそれを教えてくれる。それは枯れたり、収穫が悪くなったり、葉を落としたりと、普通に考えると悪いことばかりだ。でも、良く考えるとそれは自分がやったことを具体的に見せてくれている。それを教師とするか、悪いことだと考えるのは君しだいだ。』『自然は、自然でないものを嫌う。でも、許容範囲もすごい。多少のミスは誤差の範囲内で抑えてくれる。少々の冒険や間違いは愛嬌程度だ。木一本一本の性質を良く見ることだ。何かこれをやればいいというものは、個体差がある。同じ場所に植えているものでも、やらなければならないことは違う。そして、これでなければならないという答えのようなものもない。』なんだかおおらかになるな~と思った。こういったものは子供を育てるのでもきっといっしょなんだろうな。個体差があるし、不自然さは嫌う。でも環境になじんでいくし、少々ほっといても育つ。自然に学ぶことは多いなと思った。そして、それが真理に近いのかもしれないとも思った。
2006年10月28日
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■野菜ができ始めました。一番早くできたのは、小松菜でした。タネを植えてから3週間くらいですが、早速収穫です。基本的に永田農法で育てた小松菜です。さっそく、炒め物にして食べてみました。油もつかわず、味付けも塩のみ。うん、うまいですね。なにもしてないのにバターソテーのような味がします。素材の味だけで十分です。あと、畑で不思議なことがありました。この前、出雲であったもののけ姫にでてくるコダマに似た声が山から聞こえてきました。両親に聴いても初めてみたいで、不思議な声?音?です。なんか最近、畑で出雲を思い出すな~なんておもっていたら、ついてきたんでしょうか(^^
2006年10月24日
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■熊野大社スサノオを祀る一宮です。全体意的におごそかな古い感じのするところです。ここは社に近づくよりも、外からの方がいい感じのするところです。中は少し重い感じもします。時間がなくてサクッとまわってきたところでした。■長浜神社国引きの神を祀り、武道やスポーツ上達、勝利を願うところ。海に近いところで、昔は神社にお参りする前に海でミソギをしていました。そのミソギの証拠?として海草をお供えするんですが、その台が境内にあり、不思議な感じでした。ミソギは今では、手と口を洗う程度に簡略化されていますが、昔は、海や滝でみそぎをしてからお参りしていたんですね。ここは近くに工業団地があり、そこの作業の音がうるさく、それが少しうっと惜しい感じになっていました。開発によって神社の神聖さが失われているのは残念。■神魂神社イザニミ、イザナギを祀りしている神社。ここが一番の驚きでした。ひっそりとたたずんでいる古い神社なんですが、その神気は脅威的で、出雲大社なみです。感覚的には出雲大社よりも古いという感じを受けるところですが、そこにある雰囲気というか神気は、出雲大社に勝るとも劣らないすばらしいものでした。驚きですね。非常にひっそりしていて静かなところです。社自体も大変古く、室町時代にできている国宝にも指定されているものです。ここはホントにトンでも神社でした。面白いことがありました。もののけ姫にでてくるコダマという白くて顔を振って音を出していたのがいたとおもいますが、それとまったく同じ音が後ろの林から聞こえてきました(^^コロコロッコロコロッコロコロという音が聞こえてくるんです。虫やとりではなく、かえるの声に近い感じでした。が、明らかに木の上から聞こえてきます。かえるにしては高いところにいすぎるな~と不思議でした。映画にでてきたのはこの音をきいたのかな~とおもいました。どんな生き物かはわかりませんでしたが、まったくあの音でした(^^■今回の旅行を振り返って。出雲は、比較的霧がかることが多くまさに山陰という感じをうけました。出雲大社以外は、非常にひっそりとたたずんでいる神社が多いのですが、神社の規模は比較的大きく、守られている感じは大きく受けます。また、神社の周辺が大きな開発をされていないので人の繁栄が抑えられて神聖さが保たれている感じがしました。出雲は近いしまた行きたいですね。神様をいろいろいるんだな~といった感じです。
2006年10月22日
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■出雲に旅行にいってきました。出雲大社、須佐神社、八重垣根神社、熊野大社、長浜神社、神魂神社といろいろいってきました。すばらしいですね~、予想以上でした。●出雲大社大黒様がご祭神、縁結びまた神様が集まる大社として有名。すばらしかったです。まず最初に感じたのが、いっぱいいるな~(^^という感じ。神様がたくさんあつまるというだけあってか、いろいろなもの?(たぶん神様?)がおられました。一番眼につくのが、なんといったらいいか、、、そう、岡本太郎の絵に良く出てくる人型の白いもこっとしたような存在、、。たくさんいましたね~。また、めっっちゃデカイ大黒様みたいなのもいました。ちょ~でかいです。とまあトンでも話はおいといて、、(汗)なんともおごそかな感じです。全体に包み込むような感じのすることろで、やさしいというより、落ち着いているという感じの気がします。特にすばらしいのが摂社のそがの社。ここはすさまじく鋭く荒々しい感じのする、すごいところでした。全体的になんというか国家レベルといった感じのするところで、神様の集合場所というのは伊達じゃない、といった感じを受けました。神無月、神有月なんていいかげんなことを、、と思っていましたが、納得です。●須佐神社スサノオをまつっているひっそりとした神社神紀行(江原啓之)をみていってきた神社です。ここはなんというか本にかいてあるような神々しさはなかったです。そういう意味では出雲大社の摂社であるそがの社はすごかったですが。しかし一番感じたのが『この感じどっかといっしょだ』実は私の氏神がスサノオを祀りしている神社でして、そことほぼ同じ感じがしました。笑ったのがその神社とにおいがいっしょで、そんなバカなとおもいながらも懐かしい感じでした。今回の旅行で感じた一番のことは、祀ってある神様別で感じが違い。それは、同じ神様であれば別のところにあってもほとんど同じ感じがすることです。なんとも同じチェーンのファミレスやスーパーみたいだな~と思いました(^^●八重垣根神社稲田姫を祀る縁結びの神社ここはやさしい感じのするところでした。すこしピンクがかったなんとも弾む感じもするところです。さすが縁結びといったところでしょうか?たまたま行ったときに地元の人たちでお祭をしていて、とってもおごそかな感じでした。こうやって守ってきているんだな~とつくづく感じました。ここの裏手に森がありそこが本当にやさしい感じのするところです。ここの森にある稲田姫の社もそがの社に負けず劣らずすばらしい感じのするところです。さすが、夫婦といったところでしょうか。
2006年10月21日
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■いろいろ最近、人にあったりしている。農業をうまくやっている人や、一匹狼で仕事をしているような人、大企業のサラリーマンや、ベンチャーの社長など。それぞれ、面白い話がきけてありがたいです。そのなかのひとつで、適地適作ってのがあるな~というのがわかってきました。(当たり前ですが(^^)私の住んでいるあたりの土は川砂のような土で、比較的水はけがよく、あまり肥沃でない土です。さらに丘陵地が多く、広い平地がほとんどありません。ですが、それが果物を作るには非常に適していることがわかってきました。地域によって同じ品種の果物でも味が違います。でき方もまちまちで、見た目とイコールにはなりません。現実に糖度としてその違いが大きくでてきます。田んぼを埋め立てて作っているようなところや平地ではおいしい果物つくりが難しいようです。その最大の理由は水はけだと考えられます。丘陵地のそれとは比べ物にならないからです。改めて自分のいる土地の優位点が見えてきました。水はけが良く、あまり肥沃でない土。これは土柄なのでその地域のまさに適地適作になるのだなと実感しました。
2006年10月11日
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■相変わらず畑仕事を毎日のようにしている。おどろくのは、タネの発芽する速さだ。特に大根は早くて、2日くらいにはしっかり芽がでてくる。種ってこんなに早く発芽するんだっけ!?おそろしいほどのスピードで成長していってます。こういったものを見ると、すごいな~と感嘆しちゃいますね。■今、農法を3つ試しています。・永田農法・永田農法+有機農法・有機農法どれがいいのかはわからないので、全部平行して育てています。今のところ目に見えての変化はありませんが、有機農法も捨てがたいな~というのが印象です。わらを使った堆肥を作っているのですが、これがまたいい!においも無く、見た目もさらさら、もしかしたら人でもそのまま食べられるんじゃないのかと思うほど上質な堆肥です。つくりかたも簡単、わらを幾重にも重ねておき、上部に雨をよけられるシートをおき一年ほどほっとくとできるというテキトーさです。容量は見た目だと1/10くらいにへりますが、とってもいい堆肥ができます。いろいろ試しながらやっている今日この頃です。
2006年10月03日
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■野菜作りが順調だ。白菜やキャベツの芽が順調に育ってきている。さっそく、アオムシの被害が出始めた。まあ、人がおいしく感じるものは昆虫もおいしく感じるよねと。しかし、モンシロチョウがあんなにやっかいな害虫だと、この年でしった。やっかいですね~。ひらひらとんで、あっというまに卵を植えつけていってしまう。卵からは2~3日でアオムシが孵化して野菜を食べ始める。怪獣モスラのようだ。せっせと手で卵やアオムシをとっていく作業におわれている。■今日、感じたことがあった。自然は癒しというが、最近なんだかイライラしていた。なんで自然の中でイライラしたりするのかな~と思っていたらわかった。自然の中では正直になるんだな~。自分が今、抱えている状態や感情をありのままに見せてくれる。すると、イライラを抱えていたらイライラを感じるし、自己憐憫を抱えていたらそれを感じる。ウソがないんだな~ここには。鏡のようにはっきりと映し出される。そしてそれに気づくと、一気に癒される。許されるというか、愛されるというか。とにかく気づいた瞬間から一気に癒されていく。もっと正確にいうと、自分が抱えていたものが幻想であって、存在しすらしなかったということに気づかされる。自然の中ではすべてが自然になる。とどまっているものは流され、強さは力を増していく。これが自然の力なんだな~と実感。土を触って、植物を育てて、虫や動物と交流して、今、言われているような心地よい『癒し』とは一線を隔すというか、まったく違う次元にいるようなかんじだが、自然の力はすごいな~とおもった。
2006年09月30日
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■ひたすら家の整理整頓をしている。うちの家屋は古く、かるく100年はすぎているみたい。長年のすすをはらうということでひたすら掃除、整理整頓しています。でてくるはでてくるは、いらないものたち。約40年まえくらいのものがよくでてきます(^^いいかげんだったのかね~。うちは特に不潔というわけではないんですが、整理整頓できていない。やっていてよくわかったのが、『空いている部分に、あとで必要そうなものを取っておく』この習慣がいらないものを増やしていることに気づきました。分類わけをして、同じようなものは固めて置く。そうするといつでも取り出せるし、かぶってしまうようなものをとっておく心配もない。そうしていくと、荷物がだいたい2/3~1/2くらいにへります。そしてあとは、そこに物を返す、置く習慣さえつければ、整理整頓が完成します。部屋や家の中が片付かないな~と思っている方、とにかく分類をしてみてください。きっと整理がつきますよ。
2006年09月29日
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■近くに吉備津彦神社というのがある。ウラ(鬼)と戦って吉備を治めた人ってことで信仰されている神社だ。鬼を3人の家来たちと退治した。ということから、『桃太郎』のモデルとされている。(桃太郎のモデルは全国にいろいろ諸説あります)吉備の国のキビ団子などいろいろ残っているものもある。真相ははっきりとはわからないが、地方の豪族であったウラ(おそらく渡来人)を大和政権が打ち滅ぼしたことによるものらしい。このころ、ウラは鉄の生産地と技術を押さえていた地方でもかなり有力な豪族だったみたい。そのせいもあってかうちの近くではタタラの後があったりする。とまあ、由来はともかくその神社の後ろには山があり、そこの頂上付近には巨石があって昔はそれを信仰していたようです。そこで上ってきました、頂上まで。頂上にはポツリと巨石があって、あまり岩のない山肌にかなり異質に存在感をはなっている。頂上付近のほぼなにも無いようなところに突然あるのも不思議。この巨石、とっても神聖な感じがしました。御岳山のそれともにていて、一種独特の感覚があります。なんと言いますか神の気、神気みたいな感じでしょうか?繊細で、それでいてパワフルで、落ち着いていて、静かななんともいえない感じです。こういったものは日本各地にあるらしいですが、そのひとつなのかもな~と思った今日この頃です。
2006年09月26日
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■種まきをしてみた。白菜、キャベツ、ブロッコリー、コカブ、ミズナの作付けをした。秋から冬にかけて収穫できる野菜たち。無農薬で育てているので、それなりにうまいし安全。うねという土をもってつくった台地のようなところに等間隔にタネをまいたりしてみた。■実験的な要素をいれてみたいので、二つの農法を試してみる。ひとつは永田農法。スパルタ農法でもしられる、植物にできるだけ水や肥料をあたえない過酷な環境ほうが植物本来の力が出てきて、よい作物ができるという農法です。と、いままでやってきた農法。ふつーに植えて育ててみる。なにが違うのか、また適地適作なのかを見極める必要がある。■地元に帰ってきて思うが、市場というのは本当に大きくて形の綺麗なものを望むんだな~とおもった。それがどういった過程で育てられているかとか関係ないんだな~と。正直、でかすぎるぶどうとかを見るとゾッとする。どうやって育てているか想像がつくからだ。また、ひどい話だが、そういったものは作った本人は食べない。商品として高く売れるというものもあるんだろうけど、農薬の使用など、つくっている過程であまりたべたくなくなるのだろう。このへんが問題なんだな~と実感。大きくて、しかも綺麗なもの。甘くておいしいものが珍重されて、高く売買される。その過程はどうであれ関係なしと、、。今の経済社会のまさにそのまんまなんですが、これは市場が望む限りどうしようもない。市場的に価値のあるものをつくって行かなければ商売として成り立ちにくい=生業としにくい、っていうのがな~。安定供給、形がそろっていて、綺麗なもの、、。そんなもん普通じゃないよな~。ひとつとして同じものがないのが自然、普通だからな~。だけどそれがまんまコストに跳ね返ってくるからね~。まあ、考えてもしかたないので、いろいろやってみるしかないですね~。
2006年09月24日
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■引越しも一段落したので、さっそく畑仕事をしてきた。(といっても、整理整頓にはしばらく時間がかかりそう)いいですね~、天気もよくて。今日は、草を取り除いて冬の野菜を植える準備をしました。うちの畑は、除草剤などをつかってないので土地にとっても力があります。掘り起こすとミミズがたくさんでてきてちょっと引越しをしてもらうこともしばしば。こういう作業をやって思ったのは、『すなぼこりで、口の中がざらつくな~』という素朴なもんです(^^でも、ということはたくさんそこの『土』をたべてるんだな~とおもいました。だからこそ、土も除草剤や農薬がたくさんかかっているようなもんではいかんな~と。昔から、こうやって人はたくさん『土』も食べていたんだなと実感。それがどういう効果があるのかはわかりませんが、これが普通なんだなと。ちょっと、試してみました。草にいろいろお願いや説得をしてみて、抜いてみる。気持ちの問題かもしれませんが、了承をとるととても抜きやすい。なにかが手伝ってくれているような気もしないでもないでもないよな(^^まあ、こんなことをしながらやってます。また、倉庫をさがしていたら本物の醤油がでてきました。原料に大豆と小麦と塩しか使っていない、本物の醤油。今ではほとんど手に入らなくなっているので、貴重品です。普通の醤油(風味調味料)とくらべて、とてもドロっとしています。そして、なんとも甘い香りと味がするのが特徴です。驚いたのは、子供のころしか味わったことのなかった本物の醤油を一口なめただけで、すぐに味と記憶を思い出しました。人の記憶ってのはすごいな~と。
2006年09月23日
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■お彼岸ということもあり、お墓などにまいっている。ついでに地元にもどってきた報告を神社にしてきた。地元の氏神は須佐之男命(スサノオ)を祭っている。どーも、このあたりに縁がある人らしい。この人、悪神から一転善神になっている。黄泉の国の禊を落としたからではないかなどいろいろ諸説があるみたい。人も神もかわるもんだ。また、一ノ宮にもまいってきた。今度は総社にでもいってこようかと。また、家の横に巨石があって、地元ではお題目よう様と呼ばれている。法華経を彫られた巨石で、天保とかいてあるからたぶん1830年くらいに彫られているんだろう。もう少し調べてみるといろいろわかるかも。地元の地形をいろいろとみてみたけれども、このあたりいったいの地形を古いという印象をうける。山も杉林でなく、雑木の森林だ。飯盛山とよばれる低い山々が特徴だが、たまに巨木があったりする。まだ良くわからないけれどもしらべるといろいろありそうだ。
2006年09月21日
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■田舎にかえってきて、インターネットが開通しました。メールアドレスは手違いでまだとれてないんですが、とりあえず、ネット環境復活です!田舎にいると、ホントにメディアに触れないで生活することになるな~と。TVは別としてコマーシャルらしいコマーシャルがない。消費意欲というか、競争心っていうのがなくなるとこだな~ほんとに。土地も食べ物もあるとのんきなもんです。■ネット以外にもいろいろ調整。ちょっといい浄水器を田舎に持って帰って取り付けたんですが、水質がもともといいことを発見した。水のなかの不純物が東京に比べて3分の1だった。まあ、田舎でも場所によるんですが思ったより水質がいい。このくらいまで質がよくなってくると、そのまま飲んでもあまり違和感がないんですね。また、きつい塩素のにおいもなぜかほとんどしない。浄水器がいらないんじゃないかという話もあるけれども、まあ、せっかくだからな~。■あと、御岳山にいったとき塩をかってきたんですが、かえってきたし、せっかくなんで盛り塩をしてみた。おもったより、よい感じ。なめてもおいしいし、御岳に行くときがあれば、ぜひごしょうみあれ。(ちなみに金500円なり)■しかし、食事が格段によくなりますね。まさに地産地消。買ってくる食品すくね~~(^^その日にとってきたものをその日に食べる。米、味噌、しょうゆ、梅干、漬物、梅酒なども地産か自家製。野菜食べているだけで、満腹です。今は、ピーマンと、なす、かぼちゃがうまいですね。果物だとぶどうが旬です。なんだか普通ですが、東京からかえってきたばかりだと、とっても贅沢な気分。
2006年09月20日
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■ついに引越しまで1日となりました。東京に7年半、結構いましたね~。最近、いろんな人に言われるようになりました。『どっしりしたね』 『特に落ち着いてきたね』なんてことを。いろんな意味であせらなくなってきました。やりたいことも見つかったし、どうなるかわからないけど、大丈夫という感覚もあるし、体調も悪くない。引越しが決まってこの一ヶ月、バタバタしてたな~。会社を辞めてゆっくりしようかと思ってましたが、急展開。なかなか休ませてはくれないようですが、それでも十分楽しくやってます。なんでしょうかね、この間違いないというような感じ。なんにも未来はわからないんですが、そんな感じです。ホントにいろんな人にお世話になっていたんだな~と感じました。この一ヶ月でいろいろな方にお会いしましたが、充実した時間をすごせたなと。ありがとうございました!また、東京にも遊びにきます。そのときはどうぞよろしくお願いします。
2006年09月14日
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■いってきました峰中修行どんなものかというと、一泊二日の滝打ち&山歩きの行を神社の神主さんとかの指導のもの行うというもの。はじめてやってきましたよ、滝打ちなんて。この時期でも冷たいですね~滝の水。冷蔵庫で冷やしたかのようでした。10秒くらい打たれるのを3回やるんですが、初日はとくに、衝撃的です。打たれているあいだ何の余裕もありません。例えるなら、スーパー強制グランディングとでも言いましょうか。思考なんて吹き飛ぶし、しばらく考え事なんてできません。とってもクリアになります。身体が透明になったかのような感じをうけます。滝に打たれた後、自分の手を見たとき『透き通ってる!!』なんてばかなことを思いました。いっしょに滝に打たれた人は20人くらいいたんですが、行きと帰りの雰囲気が明らかにちがっていておもしろかったです。みんなすっきりしているので、なんかこう違和感がないんです。たぶん、あのメンバーで満員電車にのってもさほど不快感がないはず。通勤前にサラリーマンがみんな滝打ちをして、あんな感じになっていたら、そりゃー、通勤が快適だろうな~と思いました。また、基本的に浄化をになっているので、食べ物とかも気をつかいます。肉類は魚もあわせて一切でてきません。砂糖の入っているような食べ物も厳禁です。おなかは減るんですが、感覚器官はするどくなっていきます。いろいろ面白かったですよ~。しかし、本格的な行者のかたもしらしていて、話をきくと、冬が本番らしい。すごいですね~、真冬にあんなことするなんてすごすぎです。山歩きのときその方がほら貝を吹いてくれて、なんだか気分が盛り上がりました。
2006年09月11日
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■動物園にいってきた。パンダや、ライオン、その他のいろいろな動物をみてきました。壁には優しい感じの動物たちの絵が描かれてあって、子供たちも喜びそう。いろいろ眺めていて感じたことですが、動物の『眼』はどれも鋭くて、別に絵に描いているようにやさしそうやかわいいわけじゃない。ある子供がサルをみて、『あ~触りたい、触りたい』とだだをこねているのをみて、実際にさわったりしたら、えらい目にあっちゃうのにな~とかおもっていてフッと感じた。私たちは動物=やさしくてかわいい=危害をくわえず言うことをきくのように無意識に感じている。実際に、野生でサルや動物にあったらあんなに無防備に近づいていこうなんて思わないだろうし、友好を結ぼうなんてあまり考えないだろう。どちらかというと畏怖の念や気高さを感じて接するだろうな~と思った。私たちのまわりにいる身近な動物はペット。つまり愛玩動物(日本語にするとすごいですね)。かわいがられるのが仕事のような生き物がメイン。そこに野生の動物がもつ、何かは存在しない。悲しいかな、動物園の実際の動物を見るより、その横に展示してある野生の動物の写真のほうがはるかに迫力と威厳を兼ね備えている。人のエゴだな~と感じた。あと、不思議だったのが『かば』がとっても神聖な感じがした。不思議だな~とおもって看板を見ていたら、『かば』は『クジラ』の祖先と同じで、どちらかというと『かば』が『クジラ』進化していったようだ。あ~そ~。『クジラ』とおなじような感じを受けるから、神聖だったのかも。今度、動物園に行くときは『かば』に注目してみてください(^^
2006年09月03日
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