福岡市個別指導塾慶應修学舎の記憶「石橋の思考」

福岡市個別指導塾慶應修学舎の記憶「石橋の思考」

2025.06.11
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テーマ: 学校・教育(258)
カテゴリ: 教育論
ある日の午後、小さな飲食店での出来事が、私の心に静かな波紋を広げました。

テーブルの隅に座っていたのは、3歳ほどの男の子と、少し疲れた表情の母親。料理が運ばれてきて間もなく、男の子の手がグラスに当たってしまい、ジュースがテーブルの上に倒れてしまいました。

「ほら!なんでちゃんと見てないの!だから言ったでしょ!」

母親の声が、店内に鋭く響きました。

泣きそうな顔で固まる男の子。周囲の客たちも気まずそうに視線をそらします。母親の怒りは、しばらく続きました。

でも、私はこのとき、こんなふうに思いました。

みっともないのは、ジュースをこぼした子どもではなく、それを怒鳴りつけた大人のほうだ――。

小さな「失敗」は、大きな「成長の芽」
教育現場でも、こうした場面は少なくありません。生徒がプリントを忘れた。宿題をやってこなかった。集中力が切れて、おしゃべりを始めた。教師や塾講師として、注意すべき場面は日々あります。



「これは、本当に怒るべきことだろうか?」

「相手は、どんな気持ちで今ここにいるのだろう?」

「この“失敗”の中に、どんな学びのチャンスがあるだろうか?」

子どもたちのミスは、成長過程における自然な一歩です。転ぶことで、足の運び方を覚える。間違えることで、正解への道筋を模索する。こぼしてしまったジュースも、もしかしたら「こぼさないように持つ」という感覚をつかむ、貴重な機会だったかもしれません。

怒りは「教育」ではない
人は、怒られると心を閉ざします。反省ではなく、防衛のモードに入ります。

「怒られないようにする」ための行動は、学びではありません。それは恐怖による抑制であり、主体的な思考や行動の芽を摘んでしまうこともあるのです。

もちろん、注意が必要なときはあります。ですが、「怒る」のではなく、「伝える」ことができる大人でありたい。失敗に対して、どのようにフィードバックを返すかで、その子の自己評価や自信のあり方は大きく変わります。

教師・講師だからこそ問われる「見守る力」
私たち教師や塾講師は、子どもたちの小さな失敗やつまずきを、日々目の当たりにします。授業中に居眠りしてしまったり、問題が解けずに投げ出してしまったり。でも、そのたびに怒っていては、子どもたちは次第に「挑戦」しなくなります。

むしろ、失敗に寄り添いながら、



と声をかけられる大人でありたい。

怒るより、笑って「もう一回やってみよう」と言えるほうが、ずっと難しくて、ずっと価値がある。

最後に:あの飲食店での、もうひとつの出来事
P.S.

ジュースをこぼしてしまったあの男の子に、店員さんがそっと、もう一杯のジュースを持ってきてくれました。



子どもは、嬉しそうに小さな手でグラスを持ち直し、こぼさないように真剣な顔で飲んでいました。

叱ることよりも、教えることよりも、「やさしくされること」が、子どもを一歩前へ進ませることがある。

私たち大人は、どうありたいか。

教師である前に、一人の人間として、子どもたちの「心の風景」に、どんな姿で映りたいか。

今日もまた、その問いに向き合いながら、教壇に立ちたいと思います。





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Last updated  2025.06.11 13:38:00
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