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ホ・オポノポノの4つの言葉のうちごめんなさい許してくださいのことなんだけれど、私は「私が悪い!私のせい!!」という、自分を過剰に責めるような意味にはとらえていません。なぜこう書くのかというと、「ごめんなさい」「許しくてください」を言う時なぜか、「ごめんなさい、許して下さい」=自己責任=自分のせいだぁあああ!!!私が悪いんだぁぁああ!!!駄目人間だぁあああ!!!私なんかぁ生まれてきてスミマセン!!!という自虐ループに繋がる人が意外に多いので^^;(や・・・ほんとに)(もし上記に思い当る人は↑のような想いとその原因をクリーニングしましょう。)私はヒューレン博士のセミナーに出たことはないけれど、本を読むとこの4つの言葉は「自分が聞く」必要があるのです、と彼は言っています。自分のチャイルド(ウニヒピリ)をずっと無視してきた、ないがしろにしてきた、放置してきたことを知れば、自然と自分=チャイルドに、例えばこんな風に伝えたたくなるのではないでしょうか。今までごめんね・・・(ずっとあなたを(自分を)大事にしてこなかったね、見捨ててきたね)許してね・・・(許されようという想いよりは、精一杯の誠意の表現として)ありがとうございます・・・(ずっとずっと見守ってくれていたんだよね)愛しているよ・・・(大切だよ・・・大好きだよ・・・)自分以外の誰かに謝ったり、誰かや何かを背負うことより、ただひたすら「自分」と深く関わっていこうとする姿勢、そして行動が自分を救うのだと思います。つまり「自己愛の確立」ですね。そうなるための具体的な行動の一つがクリーニングだと思っています。クリーニングって言うのは、ホ・オポノポノの専売特許ではなくて他にも色々あるけれど、比較的わかりやすくて続けやすいところが良いと思います。私は「ごめんなさい」「許して下さい」「ありがとうございます」「愛しています」の4つの言葉を、ひたすら自分と深く繋がるために、自分への愛として伝えています。結局はそれがクリーニングに繋がるではないでしょうか(詳しいクリーニングの方法は書籍が出ているので割愛します)誠心誠意自分と向き合っていく、深く関わっていく。私にとって、とても大切で愛おしい課題です。ありがとうございます愛しています千夏
August 5, 2010
流されなかった 沢山の涙を沢山 沢山 流したいと思っていますいつも胸の内にいた女神は私の理想でどこまでも あきらめることも手放すことも出来ずにくすぶっていますけれど もうすぐ来るであろう別れを前にして再度 振り返り正直な気持ちを あの時はできなかった 自分の味方になって伝えます幾度も幾度も伝えますそれが女神の逆鱗に触れることになったとしてもそれが女神を絶望させることになったとしてもたとえ女神が耳を塞いでも・・・私は私の立場で私は私の味方になって 伝えたいと思います遅すぎることは ありません手遅れも ありません遅すぎたと 今さらだと 取り返しはつかないと悔やんで座り込み すべてをあきらめてしまうには私は私の真実を知ってしまいました私は私の味方になっていいのです女神が私に投げかけた 解けることのない謎かけをいつか必ず解けるはずだと 期待してきましたしかしその謎かけごと 手放す日がもう 目の前に来ています愛していますありがとうございます千夏
August 1, 2010
私は これまでの 私の 在り方に拘らなくていい新たに 新たに瞬間 瞬間今それでいい愛していますありがとうございます千夏
August 1, 2010
過去の自分を支えてきた価値観を手放し新しく自分を見つめる時全ての先入観を眺めてみて 必要のないものを手放しましょうそうすれば 新しい世界が見えてきます今、私は怖い。なぜって? それは「生まれて初めての大冒険」をしようとしてるから。あぁあああああ~~~こわいよぉおおおおお~~~なぜって?だってリスクがあるし。私にとっては、ものすごい賭けになるわけで。あぁでもない、こぉでもないと考えてしまう凡人の私でございます。・・・で、最悪の結果になったら、どーなるわけ?そのリスクとやらは、そんなに大層なことなんですかね?と、チャイルドは鼻を鳴らす。そうそう、わかってますとも。別に、どうということはない。命取られるわけでもなく。誰に迷惑かけることでもない。ただねーーーわくわくすることって、同時に「こわい」ってことだったりする時ってあるじゃない?「こわい」くらいドキドキすることしなくちゃ、面白くないんだけどね、ホントは。「怖い」のは「魂」が望んでいることをやろうとしているから。って、誰かが言ってたっけ。忘れちゃったけど、本当にそうだと思う。面白いじゃない、やってやろうじゃん!びびってるけど。今は、こわがってる自分を横目に観ながら、ビール片手に覚悟を固めてるわけです。行きたいところに、自分の足で、自分で行く。やりたいことを、やる。やりたくないことは、やらない。そして、無理しない。先のことを考えるより、やってみたい気持ちが勝る。だから、やる。そんな、ありきたりのことを出来るようになってきた自分を褒めてあげたいと思う。気持ちがいいね。ちょっと泣けるほど嬉しいよ。
July 26, 2010
羽ばたく手を広げ上へと向かうその本質は地について充実しています 観音カードよりなんだか、とてもそんな心境じゃないのに、こんなカードが出て笑ってしまった。と、同時にとてもぴったりな気がしている。苦しい 私は今、とても苦しい手を伸ばす、どうしても外に伸ばそうとしてしまう違うだろう、そうじゃないだろうお前が触れるべき存在は、外にはいないよOK うん、わかってるわかってるけど、苦しいんだよ君から逃げているつもりも、逃げるつもりもない精一杯だった正直 まだ? どこまで続けるの? そんな思いがあるよそれは、君からしたら何万回か目の裏切りださぞ血を吐くような気持ちだろうその叫びにさえ、耳をふさいでいっそのこと幻の世界に浸りこんでしまいたいぐらいだよ・・・正直・・・そうなんだ一緒にいたら、いつか心を取り戻してくれるのではないかと思っていた「全部じゃなくていい、せめてこれだけは」「それが叶うなら、そのほかすべてのことを赦して、手放せるのに」その期待も手放したつもりでいた自分の浅はかさに笑いがこみ上げるとんでもない!!!無力感の波に堕ちてゆく自分それを観ている 自分止めようとは思わない今は多分、それが正解絶望しきるしかない所詮執着、未練でしかないことを骨身にしみるまで感じて受け止めろ認めろよ、いい加減でもその前に どんなことをしても必要ならこの世界を壊してでも認めたくないともがく自分に どこまでもつきあおう
July 24, 2010
わたしは罪悪感を捨てる。自分に向けられたあらゆる判断から、そして他者にこれまで向けたかもしれないあらゆる判断からも、完全に解放されて自由になる。すべてを許し、感情を鎮め、人生をありのままに受けとめる。どんな障害物も、わたしが成長し心の平安を得るために必要な体験とみなす。すべてが軽やかだ。 光のメッセージカードより今はまた、人生の棚卸の時期なのかもです。まぁはっきりとした、節目節目!みたいなもんじゃなくて、何か一つのことに取り組んでるときは、いつでも立体的で多義的な意義や意味があるもんですよね。自分と向き合うことが一生続くなら、棚卸もまた何度もすることになる。私は今まで、自分自身の暗い?ことはブログでは書きたくないし、あまり書いてこなかったように思う。(多分・・・)今は、自分のことを書くと、どうしても親のことが出てきてしまうし、それは決してかっこいい出方じゃぁない。けれど、別に意図的にではないのだけれど、自然に指が動いちゃってる。「別に、もういいでしょ」って思う。人目を気にする私の頭の中の親(IP:インナーペアレンツ)のいいなりになるのもねぇ。今まで散々そうしてきたしね。IPに好かれたくて、認められたくて、沢山の「あれも駄目・これも駄目」に縛られてきたわけだし。だからもちろん「絶対的に正しい親」に対する批判や文句(や、こっちにしてみたら批判や文句じゃあないんですけどねぇ)に繋がったり、それらしい匂いのする類はタブーなわけですよ親も自分のIPにがんじがらめになっているから、思いっきり「他人様からの評価」を気にしてますからね。それを我が子のしたことで、他人の目が自分に向いたら・・・そして、して欲しくない評価をされたら・・・それが、我が子の言動がそれを誘発したのだとしたら!!まさに「飼い犬に手を噛まれた」ってもんでしょうねぇ。それに、自分のしていることが表にでて、外の世界は広いですからね、実は自分が「子供の自律の芽を摘んでいる」なんてことばれちゃあこまるわけですよ。子供は無意識だけどそれを知ってるし、親が好きだしね、嫌われたくないし、怒られたら怖いし、もう密室に閉じ込められているような閉塞感です。それにねぇ、変だと思っていた自分が実は変じゃなくて、親が「変」なんだってってことに気がついたりしたら、それを認めちゃったら、「親から認めてもらえる可能性」が消えちゃうでしょう。だって、自分が「悪い、変なんだ」って思っている間は「自分がこうすれば、自分がああすれば、自分がもっと努力すれば、自分が変われば」って思えますからね。でも、実は自分がどうであろうが、相手は変わらないわけですよ。そもそも相手なんて変えようがないわけで。でもそれを認めたら・・・という悪循環スパイラルと、認めたら完全に一人ぼっちになっちゃう!それだけは嫌だ!!!という存在不安の後押しもアリ・・・まぁ、大変なもんです^^;だから、何を書くにも何をするにも、無意識だけど「IPの検閲」が入るわけですよ。もちろん、それを自分が受け入れてますしね。するとね、もう、IPの視線を気にしたものしか書けないわけです^^;当然、本当の気持ちなんかでるわけないです。特に、こういった人が見る可能性が高いブログなんかにはね。ですから、日記って自分の気持ちと向き合うのにすごく良いツールですけど、ブログは不向きだと個人的には思います。(特に最初の段階ではね)私は今こうして書いているのは、向き合うというよりは(結果としてそうなっているとしても)自分が見捨ててきた自分、闇に閉じ込めてきた自分、恥ずかしいみっともない、褒めることなんか一つもないと切り捨ててきた自分を明るい所に出して、抱きしめて、受け止めて、沢山褒めてあげたいからかなぁ。「おまえは、恥ずかしい子でも、みっともない子でもないよ」長い間・・・開いてない箪笥があって、開けてみたら懐かしいものや、古いものが沢山あって・・・そのなかには、これはもう「役割を終えてもういらないよね」っていうものを「沢山役にたってくれて、ありがとうね、御苦労さまでした」って言いたいな。そして、ありがとうございました、って感謝しながら手放すの。手放されたものは、大地や天に還ってゆくのさ。それで、また新しい豊かさとなって、私に巡ってくる。私はそれを、笑って受け取る。そうやって循環していくのね、きっと。ありがとうございます愛しています千夏
July 15, 2010
わたしは人生のそれぞれの段階を完全に受け入れ、じゅうぶんに生きてゆく。困難な状況は解放への喜びへといたる橋を築き、やがて心の平安をもたらしてくれる。わたしはあらゆある瞬間を歓迎し、つねに信念を保とう。この川の向こう岸には、かならず光があることを知っているから。 光のメッセージカードより私のIC(インナーチャイルド)は、いつも脅えがちでうずくまりながら震えていました。暗くて寒くて、そばに誰がいるのか、何があるのかわかりませんでした。それがもっと恐怖をよび、すくみあがり、身も心も堅くしました。当の私は笑顔を作りながら、優しさや労わりを外に向けるのに忙しかったものです。それがどれだけ、自分に無理を強いているのか・・・今思えばなんとハタ迷惑なことだったのかを気がづくことなく文字通り「頑張って」いたように思います。しかし、私はそれ以外の方法を知りませんでした。いえ、知ろうとしなかったし、知ってはいけませんでした。自分が喉から手が出るほど欲しいものを、自分が得ることを、とうにあきらめていたのですから。幼い日・・・あれはいつだったでしょうか・・・たしか小学校2年生ぐらいのときでしょうか。「私が愛されることは、今後一生ないだろう。私は一生愛されないかもしれないけれど、せめて私が(もし愛されたていたとしたらして欲しいこと)を他人にしてあげよう。」そんな悲壮な決意を唐突にした瞬間をはっきりと覚えています。なぜそう思ったのかは覚えていませんが、当時の私の環境からすれば、自分が自分の心を救うために、生き延びるために幼い私がそう決意したのも無理からぬことだったのでしょう。私は「駄目人間」という人生脚本を、見事なほど着実に生き演じていました。そして、より「駄目人間」になるべく(まぁ、そんな人間はいないし幻想なのですがね)自分が自分を「駄目人間」だと「信じることが出来るように」様々な環境、状況、人々を引き寄せては、命がけで演じていたのです。←(本人は演じているのなんて思っていません)願えば叶う(顕在意識では願ってないけれど)思考は現実化するって、本当です^^;そうすることで、あぁ、「私はやっぱり駄目人間」だという「証拠」をスタンプ集めしてきました。人生脚本は10歳前後でその土台が出来上がるといいます。私は親に認め、愛されるための「脚本」の土台をより強固にしようと必死だったのかもしれません。もちろん、無意識にです。「駄目人間」という脚本は、常に自分自身を最低に置くことによって、親を救おうとするためのものでした。私が駄目人間であれば、常に親は私を心配し続けることができます→自分自身の存在不安と向き合わなくてすみます。そして、子供と一生関わり続けることができます。私が駄目人間であれば、常に親は私に怒りを吐き出すことができるでしょう→長年溜まっている感情を吐き出し生き延びることが出来ます私が駄目であればあるほど、自分の方がましだと思えるでしょう→孤独感がほんの少しだけ薄れます他にもまだありますが、ざっとこんな感じでしょうか。救いというのも、無限の段階があるものですが、親の無意識の望みを、幼い私に出来る方法で精一杯やろうとしていました。当時の私の選択は「地の底に棲み、踏みつけられながら支えてゆくというものでした。」恐ろしいのは、その選択に気づかぬまま「一生の選択」になってしまうということです。しかし、自分でした選択は自分で変えることが出来るのです。そして、今私は幼い日にしたあの選択を後悔はしていません。それは素晴らしい体験だったのです。それは現在の私を支えてくれるのです。過去が私に微笑みかけてきます。私はその微笑みに満面の笑顔で応えハグします。ありがとうございます愛しています千夏
July 15, 2010
最近ようやく?楽しい習慣になってきた瞑想をしようとすると、2階の自室から何かが呼んでいる気がして、上に上がってみると以前F氏に作ってもらったワンドに引き寄せられた。常に身近に置いていたものの、数年手に取ることはなかった。(自分に還りたいな・・・)ふと、なんの脈絡もなくそんな思考がよぎった。ここに座って!と語りかけてくる場所に腰を下ろす。自らを観るためのサポートとして、手に取ったワンドから息遣いを感じた。数年前にはなかった感覚だった。胸が熱くなる。切ないような、泣きだしたい想いが溢れだす。「やっと、会えたね」そんな声が聞こえたような気がした。自らを道具として生きる者は、物を物質としてしか見れないので、その本質(いのち)を観ることが難しい。よってその物の本質的な恩恵を受け取りにくい。「我は神なり、神は我なり」として生きる者は、どんな物を手にとっても、そのいのちに出会い、触れることができるのだろうと思う。正直、現在の自分がその意識まで高まったとは到底言えないが、少なくともある日を境に、自律を目指して歩いてきた。現在でもその道程ではあるが、「自律」を目指して歩くことは、そう決めたその瞬間からそうなのであり、それは幾度も「我は神なり、神は我なり」に気付き続けながら生きることなのではないかと感じている。どんなパワーグッズやエネルギーグッズも、それを使う者の意識に応じたエネルギー、働きしか受け取ることが出来ない。まずは、自らを観ること、感じること、知ることの重要性と楽しさを再確認することが出来た。ありがとうございます愛しています千夏
July 12, 2010
「静かな時間を持つ中で、答えが現れるようにしましょう。」静かな熟考の時間を過ごすことがあなたの役に立つと勧めています。そうすることにより、次のあなたの計画の一部をはっきりとさせたり、あなたの未来に関するガイダンスを受け取ることができるかもしれません。あなたがすでに知っている答えにつながるには、あなたの内なる叡智に波長を合わせる必要があると提案してます。 ずいぶん長い間、自分と繋がるための休暇をとっていたように思います。休暇とはいっても、様々な肉体的感覚や思考・・・五感を通していつも騒がしく私に語りかけてきました。それらすべてに耳を傾け、受け止めるたびに、まるで新しい水が流れ込んでくるように、新鮮な気づきがもたらされてきました。内なる声と繋がることの重要性を、つくづく想います。外からの助けを求めている限り、内なる叡智との繋がりは断たれてしまいます。私はただ座り、自分を感じることから始めました。ただ、全身全霊で私でいることを感じていると、言葉にならない至高の悦びと、突き落とされるような苦痛や痛みが、河の流れのように、流れ星のように、打ち上げ花火のように訪れては消え、訪れては消え、最後には必ず魂の故郷のような場所に自らが溶け込み、一体となっているような感覚になります。その声に耳をすますと、必ず知っている答えを思い出します。ありがとうございます愛しています千夏
July 12, 2010
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