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元旦以降は、穏やかなお正月休みを送れた。会いに行く度に擢斗は元気な顔を見せてくれたし、色々と滞りを見せていたミルクの量も又順調に飲んでくれた。指をギュッとしてくれる手の力も強くなった。指が動く様になったと歓喜に満ちていた頃は、小さな小さな少しだけ開いた指の間に皆自分の指を滑り込ませて幸せに浸っていた。それが、滑り込ませる事は変わらないまでも、スッと入れるとゆっくりゆっくりギュッと握るようになり、面会を終える時にはそっと小さな指を一本ずつ開いて隙間を作らないと指が抜けないようになっていた。少し調子が良くなると、新米両親の私達には思ってもみなかった新しい試みを先生や、看護師さん達から聞かされ喜ぶ事が多い。声を掛ける、身体を拭く、お湯に手を浸す、薬を減らす、ミルクを増やす、小さすぎるけど、新しいものだらけで、マイナスからのスタートだった私達家族にはとてもとても嬉しい一歩一歩。今回は、ミルクの温度だった。具合が悪くなりませんように。苦しみが減りますように。そればかりを考えるこの頃の私達にはいつもいつもなにか当たり前のものが欠けている事が多かった。だから、温かさや心地良さをスッカリ忘れている。温かいミルクを飲む。そんな初歩的な幸せを考えて上げられてなかった。だから、単純に嬉しかった。『擢ちゃんはゆっくり飲んでる内にミルクいっつも冷めちゃうから』と、優しく看護師さんが教えてくれた。今までの横置き型のものと、その日からの吊り下げ型のものと、一体何が違うのか、そんな事は分からなかったけど、嬉しい。面会を終えて、ICUを出るとミルクの温度の話がどれだけ私にとって嬉しいかを彼に説明した。『俺はずっと気になってたけどね。』…と、こちらも見ずに一言。何気ない台詞だったけど、妙に覚えている。普段の下らない会話だったら、まるで違ったと想う。『ハイきた。シッタカー』などと、もしかしたらチャカしたかもしれない。でもその時は、ごく自然に、『ふーん… 凄いね。私全然気にもした事なかった。』と、返した。もの凄くもの凄く、心の中が微妙だった。男であり、父親である彼と母親の私の視点の違いを感じさせる台詞なのか。それとも私が必死すぎて、気づけなかったのか。いや、単に私は小さなことに気づけないのか。気が利かない。大雑把。天然。私がよく昔から言われる台詞で、言われる癖に気にも止めなかった台詞。むしろ、その位が丁度良い…と、都合よく受け取っていた。その単語が頭の中をグルグルして、落ち込んだ。
2011.02.23
自分がハロウィンや大晦日・お正月を病院で過ごすなんて、考えた事も無かった。明けましておめでとうも、年賀状やメール・友人との夜中の神社へのお参りで言い合うのが当然で、出かけないイベントなんて当時20代の私には思いつきもしなかった。生まれて初めて、大切な人と一緒にいる事が1番の過ごし方だと知った。そして、温かな空間にも、その空間を日々維持してくれている人達にも。先生・看護師さん、季節ごとの飾りつけ、院内のどこもかしこも綺麗に掃除する人、心を支えてくれる家族、遠くから支えてくれる友人。どれか1つでも欠けちゃ駄目なもの。歳の初めに、擢斗の横で又新たに思い返し、感謝した。元旦の擢斗は、昨日までの様子とうって変わり、泣く事が多かった。午後には母と父が擢斗に可愛い小さなお守りを買ってきた。擢斗にとって初めてのお守り。擢斗の周りの、初めてのものはいつも父と母がくれた。いつもいつも院内にいる事しか考えない私たちには当たり前の事も思いつかない。困った時に当たり前にすがる、お守りの存在すら忘れていて、可愛らしい戌年のお守りがとんでもなく心強いものに思えたことを覚えている。
2011.02.22
小さい頃は毎年大雪が降るのは当然で、かまくらや雪だるまの未完成品が、近所の至る所に見る事が出来た。最近はもう積もる雪などめったに見ない。降っても次の日には溶けてしまう。あとちょっとあとちょっと結局雪かきは3時間近く続き、気づけば私も何年振りか分からない程の雪かきをした。高く大きく積まれたいくつもの雪山に興奮する旦那様。時間を知って驚く私。『明日、ハウスの人出勤したらびっくりするなー』『超天気いいから、全部溶たりして…笑』 『写真撮っとくか!』私たちは、何枚かの記念写真を雪山の前で取ると、雪まみれになったジーパンを代えて大急ぎで薬局へ向かった。本当は、多分誰よりも早く、薬局の初売りにも到着して、どこのパパやママよりも早く面会へ行く予定だったのに、薬局ではもうひと仕事終えたようなスタッフの顔が笑えたし、擢斗のベッドの上には、その日、院内で入院中の子供達が食べた食事のオマケに付いていたらしい小さな凧が釣って飾ってあった。
2011.02.20

時間が来ると、到着したからゲートを空けてと携帯に連絡が入った。私と違って、時間には恐ろしく正確な所は天候にも左右されないんだなとコッソリと感心しながら玄関に走る。自分が正確な分待たされるのは大嫌いで、こおいう時も走って行かないと、遅いと叱られる。外に出ると、窓から覗くよりも凄い雪の量に驚いた。深いところだと膝まであり、ジーパンの色が膝下から一気に色が変わる。一歩一歩何かをまたぐように歩き、駐車場のゲートを明けると積もった雪を一気に掻き分けて車が入る。運転席から嬉しそうな旦那の顔が覗く。雪が多くて重すぎて、車が進む程に雪がきしむような音がした。あまり普段表情豊かでは無いタイプの旦那がニコニコと、車から出てくると、挨拶も無く後ろのトランクに周り、雪かきセットをドカドカ出してる姿を見て唖然とした。『は?今からすんの?』『あたりめーだべー!思った以上の量だなー流石。ハウス誰もスタッフいねーんだろ?いつもお世話になってんだから、雪かき位するよ。明日驚かせるべ。』『…自分がしたいだけでしょ』『まーね。』『タックンは?』『薬局まだ開いてねーべ。それまで。』『寒いから(´・д・`) ヤダ』会話はそこで終わり、私はハウスの中に戻る。 新年早朝。誰も踏んでいない触っていない真っ白い雪の中に、ガタイのいいスコップおっさんが1人。暖かい室内から見るパパの姿は平和で笑えた。もうあと数時間。あけましておめでとうの言葉を言う時に擢斗が泣いていませんように。
2010.01.13

『よく分からないけど凄いよ!物凄い真っ白!』私はやっと旦那の興奮に追い着くように大きな声で騒いだ。ベランダの手すりには10cm近く細く高く雪が積もり、チョンとつついたらそのままの形で庭に落ちるのが想像できる程だった。『今からそっち向かってるからね。』『だから面会一緒に行こう。』『看護師さんにガーゼ買ってきてって言われてたじゃん。』大雪とお正月最初の面会に興奮するように言いたい事だけを伝言ゲームのように電話口で話すと、『あれ?今日は寝てこないの?』と、それを割って入った私の質問に、『当たり前でしょ。お正月だよ!いつもと違うんだよ!』と、分かってないなというようなちょっと面倒そうな口調で反論してから、じゃあね、あとでねと忙しそうに電話を切った。電話で聞いた予定は、1時間後、一緒に薬局の初売りでタックンのオムツにのせるガーゼを買ってから面会。私はバタバタと急いでいた時間に余裕が出来て、ハウスの廊下を歩き、共有スペースに行って沢山ある大きな大きな窓という窓のブラインドを開け、その度に各窓から見える雪にビックリして歩いた。そしてやっと、旦那があんなに楽しそうに電話をしてきた意味が理解できた。タックンのパパは、雪かきが大好き。『俺さ、すんげー歳とったら近所のガキに、雪かきじじぃって言われんだろーな』毎年、必ずそんな事を言いながら雪が降ると仕事がある日でさえ、時間ギリギリまで家の周りをかいて回っていた。子供が生まれる頃には、一緒にかまくらをつくれる程仙台に雪が降るか心配していたのも思い出した。擢斗は他の子よりもこれからもゆっくりゆっくり大きくなる。何年か先までもずっとこのくらい雪が降ればいいと思った。
2009.12.18

新年。窓の外の明るさで目が覚めた。寝坊した事に気づき、モソモソと起き上がると、いつもより急いで朝の面会にいく準備をした。顔を洗って、着替えて…毎日の変わらない動き。ただカーテンを開けなくても外からの光が妙に明るいのが気になる位で、それでもカーテンを開ける時間を惜しむように部屋の中を走り回っていた。寝坊した日は、いつも物凄い自己嫌悪。そんなバタバタとした中、珍しく旦那からの着信音が鳴った。この頃になると、擢斗の落ち着いた様子に甘えさせてもらうように、パパも夜勤明けはほんの少し仮眠をとってからこちらに来れるようになっていた。電話が鳴るのは私の『擢斗連絡メール』がエラーで届いてない時のみ。メールが又届かなかったのかな。と、忙しいのに!という逆切れもある中、洗面所から慌てて部屋に戻り携帯を探した。『もしもしどうしたの!?』新年の挨拶も朝の挨拶すら無く電話に出た私に、旦那の方が少し驚いたようだった。『どうしたのって…。あけましておめでとう。おはよう。』『あー! おはよう。おめでとう。』新年初の会話は間の抜けた会話だった。そして一瞬笑った後に、『外すげーな!そっちもっと凄いんだろうな!どの位ある?』今度は私がビックリして言葉を探した。『…?』『…?』『…はぁ?』そう言ったのは旦那だった。『もしかしてまだ外知らないの?カーテンくらい開けろって。』そう言われて携帯を左に持ち替え、少し重い、大きなカーテンを一気に右にスライドさせると、外は信じられない程色が無い真っ白な世界だった。
2009.12.16

母は、驚きの声を上げながら体制を起こすと、『えーお母さんいつ寝たの?』『○○さんが唄ってるとこまではお母さん観てたのね。それって何時頃?』などなど、謝りながら、言い訳をしながら、疑問を口に出しながら、忙しく口を動かして、髪の毛をまとめ直した。********擢斗に会いに行ったのは0時半過ぎ。薄明かりだけが付き、ピコピコと電子音が鳴る中、本当に気持ち良さそうに眠っている顔を見て、私も母も、それを見た看護師さんもニッコリと笑って新年の挨拶を済ませた。『年越しの瞬間一緒にいたかったんですが…』と、申し訳無さそうに笑う母に、『タックン、本当にずっと今日は調子が良いんですね。起きても、泣いたりしませんし、吸引も頑張ってミルクも全部飲んで眠りましたよ。』と、看護師さんが笑った。新しい年明け、擢斗の側にはほんの少し。看護師さんからの嬉しい報告でホッとした事もあったし、雪が降り続く中、母を早く家に帰したい気持ちも外に出てみて大きくなったせいもあった。『今日は安心して休んで下さいね。』と心強い言葉をもらって擢斗にバイバイをした。『明日はパパにもみんなでご挨拶しよーね。』『婆ちゃん寝ちゃってごめんね。』『おやすみ。』病院の廊下は早足で歩いた。外はもう空からビックリする程の大きな粒の雪が降り続いていて、目を開けて見上げられない位だった。『気をつけて帰らないとね。』『でも少し寝たからスッキリした。』『だから大丈夫。』そして、ちょっとの瞬間無口になると、廊下のピンクの壁のずっと続く可愛らしいイラストを見て、『本当に病院じゃないみたいね。』と夜に面会に来た時には必ず言う台詞を小さい声で又つぶやいた。
2009.12.13

時計を見ると0時を過ぎ、テレビから『あけましておめでとうございます』というフレーズが何度も聞こえてくるようになった。生き物はノンレム・レム睡眠を繰り返し、大体1.5~3時間区切りで体と脳を休ませ気持ち良く目覚める事が出来る。そんな雑学で計算した結果、勝手に割り出した母の起床時間まであと少し。********母の荷物をまとめ、面会を終えたら直ぐに帰れるように準備した後、『起きて』と、母の肩を揺らした。そして、案外パチリと目を開けた母に向かって『あけましておめでとうございます。』と、からかうように挨拶をした。
2009.12.12

父と弟は身長が180cm位、私は166cm、家族が皆一緒にいると、昔から母の小ささが際立った。若い頃は155cmあったよという身長も今はもっともっと小さく見える。小さく、人一倍働き者の母のせいで、母以外の家族、父、弟、私は、人一倍怠け者に育ったかもしれないなぁ。そんな事を想いながら、すこし離れたソファーでジャンパーとブランケットで丸く盛り上がった母のシルエットを見て突然空いてしまった時間をぼんやりと過ごした。********戦時中に生まれた父は家の中では男尊女卑が分かりやすくあった。幼心に家庭の中でのランク付けが何となく理解できて悲しかった。弟と大きな喧嘩をすると決まって私は別室に呼ばれ殴られた。180以上の大男に殴られた子供の私はその度部屋の隅へと吹っ飛ばされ、顔の半分を赤く腫らしていた。殴られた顔の半分はジンジンして、痛いというより熱い。大きな手は耳や頭まで被る為に、耳の奥も、頭も上も重りをのせられたような鈍痛だった。そんな時は必ず母が父と私との間に入って金切り声をあげてかばってくれた。私にとって唯一、母に絶対的に甘えられる瞬間でそれが嬉しかったのを覚えている。殴られる度に募る悔しさは、可愛いと思っていた弟もずるい嫌な奴にしか思えなくさせた。(弟には悪かったけど)実際、そんな事を想うひねくれた私よりも素直に笑う弟は他人から見ても可愛かったと思う。私は父や母が、どんな事を言えば喜ぶのか、褒められるのかいつも模索して知っていたし、素直に笑わない子だった。笑うよりも冷めた事を言う方が、母も喜んだ。たまにコントロールが効かなくなり、怒りを爆発させる私に母は困惑し、怒鳴り返した。そして又、冷めた子を演じた。予想外に褒められた時はどうして良いか分からずに顔が引きつった。そして、これも褒められるのかと覚えた。本当に可愛くない子だったし、ズルイ子だった。母はいつも父におびえていたし、父は時代劇に出てくるような父だった。『お母さんも、お父さんの目が怖くてあなたには辛く当たってしまった事が多かった。』と、結婚してから言われた事があった。そんな事ないよとは言ってあげられなかった。そんなちょっぴりすくってみただけで色々な葛藤がある中、私達親子は、仲が悪い訳では無かったが私の中だけでは、決して良い関係を築いてきたとは言いがたい関係だったし、父や母が理解している私は決して本物の私とは近くなかった。そして今。初めて、父も弟も関係なく、ほんの少し甘え、頼りにし、助けられていると感じるようになった。私たち夫婦が最も大切にする存在を同じように大切に重く扱ってくれる大切な存在になった母。母がいなかったと考えると、ゾッとした。『お母さんだって、頑張っていた!』私が責め立てた時そう言った母を、やっと許せると感じるようになった事にきづいた。擢斗のへその緒入れの桐のケース、オムツ、肌着、タオル…病院のベッドの上でおびえる私に笑顔でどっさりと大きな袋に入れて持ってきた母を想って、感謝で泣きそうになった。自分が親になって、やっと理解できた。縛られ、束縛されていた生活の中、絶対だと思わされていた親という存在は、決して絶対ではなかった。完璧ではない母として今私が存在するように母も、同じように生きてきただけだった。理不尽さを感じながらも愛情は日々感じてきた。まとまりの無い想いを静かな共有スペースで想い返した。そして又、様々な事を気づき、想うキッカケやチャンスをを与えてくれるICUで待ってる擢斗を想った。
2009.12.10

23時が近くなると机の上に広げたものを片付け、1度部屋に荷物を持ち帰った。毎日の擢斗の日記や、ランドリーでアイロンをかけた擢斗の肌着。携帯や、雑誌。2時間の間に丸テーブルは荷物だらけになっていた。母は相変わらず、同じ体勢で紅白を観ている。途中で私のコートもかぶり、寒さが落ち着いたせいか、丸まった姿勢は少し伸びていた。使っていたマグカップも洗い、面会後帰る母を見送る準備をし、23時を過ぎた時計を見て母に近づきながら声を掛けた。『そろそろ行くよ。』すると、まるでテレビに夢中になっているように見えた体勢のまま眠っている事に初めて気がついた。********結構長かったと思う。疲れが隠せない表情で眠っている母の目の前でずっと顔を見下ろしながら、起こそうと伸ばした手をしまって暫く考えた。今起こして面会に行って帰った方が良いのか。それとも今もう少し寝かせて面会は顔を見る程度で帰るのが良いのか。今起こして帰ったらと言っても絶対に帰らない事だけは分かる。私だけ面会に行っても、結局又ひとりで行くとも言いかねない。気を使って、母が私に10分置き位で話しかけてきていたのが無くなったのは何時頃だった?頭の中で大体いつ位から寝ているのかを想像したり、計算したりした。眠くてたまらないまま車を運転して帰らせるのも心配だったし、1人で面会に行って更に母が帰る時間が遅くなる可能性も考え、結局私が出した答えは、このままもう少し寝かせるだった。再度部屋へ戻り、ブランケットを持って来ると母の上にかけ、心の中で擢斗に謝った。ごめんねタックン。年越しの瞬間は一緒にいられないかも。
2009.12.10

マクドナルドハウスに戻ってからは、母との会話が少しづつ減った。1日中働き、車を飛ばし面会、買い物、料理…還暦を過ぎた母は顔を見ればどれだけ疲れているか分かりやすく、目の下のクマが目立ち、夕方よりもずっとシワも目立つ顔になっていた。『お母さんちょっと横になるね。』というと、ハウスの共有スペースのソファにコロンと寒そうにジャンパーを着たまま横になって胸の前で腕組みをして紅白を観始める。『部屋に戻って少し寝る?』私がそう聞くと、『いい。響ちゃんこそ寝てきてもいいよ。』と、寝た体勢のまま頭を振った。変に生真面目な母は、宿泊料金を払ってないのに部屋で休めないと、いつも必ず部屋に行くのを嫌がったし、行ったとしても早く共有スペースに戻ろうと私を急かした。沢山擢斗にも会いたいから、マクドナルドハウスにはこれからも沢山お世話になるね。だから、お母さんあまり良く思われないようなことなるべくしたくないの。いつもそう言って、長時間、ハウスに滞在した日は必ずロビーにおいてある募金箱に募金して帰った。もう1つのテレビの前には男性が1人。椅子に腰掛け、テレビを観ていた。静かな広い共有スペースで、人影が減るのは寂しい気がして、何となく、その男性が部屋に戻らなければいいと思った。次の面会まであと2時間。時間はまだ21時なのに、本当に静かな夜だった。
2009.12.10

外の景色はスッカリ白くて、マクドナルドハウスから病院までの徒歩5分の距離を私と母は車で行き来した。擢斗の調子も落ち着いていて、静かな大晦日。面会中は終始ずっと穏やかに過ごせた。むしろ、普段以上に気持ち良さそうに眠る擢斗に声を小さくして気を使う位だった。クリスマスツリーや、飾ってあったプレゼントをしまったせいか、ほんの少しサッパリしてみえる空間に、『まさかお正月飾りは飾れないしね…』と、眠ってしまった擢斗の横で、母とコソコソと小さな声で話したりした。擢斗は眠るのも、泣くのも、仕事だよねーとは言えない赤ちゃんで、スヤスヤと眠る顔は私達を本当にホッとさせてくれた。毎日痛いことや苦しいことの繰り返しの中、一体、どのくらいスヤスヤと眠れたんだろう。そんな事をふと、たまに今でも考える。********面会中は長期入院の中、勝手に少しづつ私たち家族の中に決まり事が増えたりもしていた。2人で面会が1時間なら、30分づつ擢斗の顔が向いている方の席を交代して座ったし、1人の面会の時は、擢斗の吸引と同時に向きが変わると、ベッドの右から左へ、左から右へと椅子を持って移動。いつも擢斗の真正面の席の取り合いだった。自分が擢斗の後頭部を見ている時に、ニッコリ笑ったりすると、『笑ってる!』のパパや母の声で、慌てて反対側の席にベッドの周りを回って駆けつけたり、悔しがったりした。ただ、この日は母と丸椅子を並べて擢斗の顔側に2人並んで過ごした。予定では、一緒にお年越しの瞬間を皆で迎える。2人で1回目の面会はいつもよりもずっと短く帰った。そうじゃないと、又来るのが少し悪い気がした。『あと又少ししたら、来るからね。その時はもっとのんびり一緒にいようね。』『パパがいない分婆ちゃんまだ帰らないでハウスにいるからね。』『パパお仕事頑張ってるからね。』『じゃあ又あとでね。』いつもいつも面会終わりの挨拶は、長くて、終わらない。
2009.12.10

年越しのマクドナルドハウスは、いつもよりずっとずっと静かで、キッチンではちょっとした音も響いた。私たちのように長期で宿泊している人達がパラパラとキッチンに来ては、適当に何かを作ってささっと食べては出て行った。ずうっとお茶を飲みながらテレビをぼんやり観ている人も2人程いて、何だかちょっとホッとした。そんな中、次の面会の時間を気にしながら急いで作った、母の選んだ高価な蕎麦があまり美味しくなくて、食べた後、2人で笑った。********昭和17年生まれの父と、19年生まれの母の元の我が家は昔からの行事ごとにウルサく育ったところが多く、小さい頃は、年末年始の決まり事から逃げる事が多かった。中でも嫌いだったのが大晦日は、夕飯後お腹がいっぱいの時に食べさせられた年越し蕎麦。元旦は、新年の早朝から飲まされるおとそで、苦いだけの美味しくないたったひとくちのお酒から、いつも弟とギリギリまで小さな家の中を逃げ回っていた。そんな私が今は又大切な家庭を持った。食べ終わった蕎麦の入っていない器を見ながら、そんな事を想い、初めて年越し蕎麦を食べてよかったなと、母に感謝した。細く長く長生きしますように。切れやすい麺のように、旧年の災いは切れますように。運が開けますように。年越しそばの意味を全て擢斗へと願った。
2009.12.06

『生協に行かなくちゃ!』唐突にそう言うと、母はカップに残っていたお茶を一気に飲み込み、バックに机の上に広げていた持ち物をしまいだした。なんの事だか意味が分からず、きょとんとしている私に『早くお買い物行かないと!』と、急かすような動きをして見せた。さっき立てた、面会時間の予定に合うように動くには相当急がなくてはならないらしく、顔が必死なのが少し笑えた。『何買いにいくの?』『お蕎麦!』『別にいいよ。冷蔵庫に色々入ってるし。』(ハウスには、各家庭ごとに使える冷蔵庫がキッチンにある)立ち上がって鞄に携帯をしまっている母を、座ったまま見上げて会話が続く。もう準備が整った母は立ち上がらない私を少しでも早く連れて出かけようとするような顔をしている。『駄目だよ。買いに行こう。』『えーいいってば。寒いし。』『駄目。』『いーよ。』『じゃあ、お母さん1人でお買い物行くからね。』『だからいいってば。』『駄目だってば。お母さんが食べたいの!』結局珍しく引かない母に負ける形になった。**********病院の近くにはスーパーが2つ。どちらも徒歩圏内とはいえない距離で、大体買い物というと、母が食材を買い足すか、車があるときに自分達で買いにいくかのどちらかだった。母のお気に入りはどちらかというと生協だった。私は決して裕福とは言えない母に1円でも多く使って欲しくなくて、いつも何かいるかと聞かれるといらないと答えていた。それが小さな買い物の蕎麦でさえ、嫌だった。だからこの日も、自分で買う気満々の母に、危険を感じ、1人で買い物にはいかせたくなかった。私が出すからと言っても絶対に聞かないし、無理やり渡したとしても置いていく。たまにいつものお礼と言って何かを渡すと、必ず倍になって返ってきた。そんな事の繰り返しで、パパもいつも(目を離すと大きな袋を抱えて帰ってくるから)『お母さんを1人にするなよ!』と真剣な顔で言っていた位だった。この日も、私が選んだ1番安い蕎麦をよけると、ちょっと高めの蕎麦を選んでかごに入れた。
2009.12.06
1時間もすると母がハウスに帰ってきた。『アレ?早いねー。』『だって、あんまり長くいると年越しまであと2回は会いたいのに、会えなくなっちゃうから。』そう言いながら靴を脱ぐ母を待ち、準備していたお茶をマグカップに注いでホッと一息。お茶をすすりながら私たち2人は、丸テーブルに向かい合い、面会と面会の間を2時間空けた場合、何時と何時に擢斗に会いに行けるかを計算し、相談した。いくら面会自由なICUだとはいえ、あまり行き過ぎると迷惑だよね。でも会いたいよね。いつもいつもそんな気持ちの間でものすごく揺れていた。それでも結局会いたい気持ちを優先させてもらっていた事がやっぱり殆どで、それは今も病院には本当に感謝している。あの病院じゃなかったら、私達にはこんなにも沢山の擢斗との思い出は残らなかった。***************母の右手にマグカップ、左手には携帯。左手の携帯には、パソコンから転送した擢斗の写真が写る。ついさっき面会をしてきた時の擢斗の事を口からマグカップを離す度に話した。どこにいても、話題の中心は擢斗以外無くて、勿論、他の話題を持ち合わせる程、私達も行動範囲が広い訳でもなかった。
2009.12.05
夕方過ぎ、外が暗くなる頃、ジャンパーとマフラーで丸々とした母がやってきた。ハウスの玄関で、靴を脱ぐ素振りも見せない母に『寒かったでしょ。温かいお茶でも飲もう。』と言うと、全く聞こえていない様に、『(擢斗には)会ってきたばっかり?』と、眼鏡を白く曇らせながら聞いてきた。『数十分前に会ってきたばっかりだから、ちょっと私は行きづらいかなー。』『分かった。じゃあお母さん擢斗に会ってくるね。』ものの数秒、情報交換のような短い会話が終わると、母はあっと言う間にせかせかとそのまま出て行った。父は歳のせいもあり、現代稀に見る程の亭主関白で、母がいつも家の事も仕事も完璧にこなさないと、家の中は瞬く間に夫婦喧嘩の嵐が吹き荒れる。きっとそんな父の世話と料理の準備全てを終えて来てくれたんだろう。化粧もせず、いつも気にしている顔のシミが濃く茶色に見えていた。
2009.12.05
パパは『次会うのは来年だね。』と言って、仕事へ向かった。夜には、お婆ちゃんが来る。私は、擢斗と一緒に年を越せる事が幸せで一杯だった。9月26日、あの子が産まれてから、毎日が緊張で、次の日、来週、来月が来る事にいつも感謝していた。それが、とうとう新しく年を越せると思うと、なんだかもっともっと嬉しかった。勿論ずっとずっと一緒にいるつもりでいたけれど、それでも、擢斗と一緒にいる年が1つ増える喜びが大きかった。そんな風に浮かれていたせいか、私は擢斗の右足から左足へ移った太い大きな針に気づかなかった。『さっき擢ちゃんとっても頑張ったんですよ』と看護師さんに言われて、答えを聞くまでそれに気づく事が出来なかった事に少し落ち込んだ。産まれてからずっとずっと右足の付け根あたりに刺さっている針は血圧をみるもので、まだまだ取る訳には行かないという説明を受けていた。点滴よりも遥かに太くて大きな針。痛くて泣いたと聞いて、胸が痛かった。そしてそんな頑張った事に気づかなかった自分に落ち込んだ。
2009.11.27

大晦日のお年越しはパパが夜勤だった。マクドナルドハウスはいつも通り。手術の患者さんが流石に年末年始、少ないのかいないのか、宿泊者が少ないだけで私達のように長期で泊まっている人達には何も変わりはなかった。擢斗は増えた薬のお陰か、予想通り又調子を取り戻し、出なかったおしっこもシッカリと出て、浮腫みも引いた。その上薬とは関係のないウンチまで沢山出して、周りを驚かせた。増えた利尿剤量は戻り、半量は点滴ではなく、お水に溶いてお鼻からになった。点滴ではなくお鼻からと聞いてちょっと嬉しくなった自分が後で笑えた。点滴よりは鼻からの方が健康っぽく聞こえた。外は大きな雪玉が物凄い勢いで降っていて、とてもとても静かだった。積もりそうだねぇ。みんな口々に同じ事を言って窓の外を見た。例年よりも寒い寒い冬。雪も沢山降ったし、道路も歩道も凍結していて、病院の隣にある高校の生徒達が毎朝慎重に歩いているのを、この年は沢山見た。擢斗は胸に大きなガーゼを貼って、オムツをつけていつも裸ん坊。そんな格好でも充分に温かいICUでは、到底言葉で冬の寒さを伝えるのは難しく、むしろICUの温かさに満足すら覚えていた私は、『は~あったかくて気持ちいいねー』という台詞ばかり擢斗に言っていたような気がする。クリックよろしくお願い致します
2009.11.26

ドルミカムと利尿剤がそれぞれ増やされ、年末を迎える。オシッコの量も元に戻り、浮腫みはあっと言う間に引いたし、眠ってる事が多くなったせいで、苦しくなる事も減った。目の前に穏やかに気持ち良さそうに眠る顔を見て、安心と寂しさを、同時に感じながら先生や看護師さんのいつもの台詞を、右側から聞いた。『いつもの事ですがー…、擢斗君は本当に難しくて。あー調子が良くなってきた。次のステップに進めるかもと思うと、こんな感じで又最初に戻っちゃうんですよね。』『擢ちゃん、又ご機嫌損ねちゃったのかなー。』3歩進んで2歩下がる。たまに4歩位下がっちゃう。調子が良い日はいつもそう長くは続かなくて、それでも数日に1度、必ず良い日がやってくる。毎日つけてる日記を読み返すと何となく変動的ながらちゃんとサイクルがあって、それも又不思議だった。だから、何となく、ご機嫌を損ねるという表現もシックリくるような感じだった。多分数日したら、又いつも通り『急に今日から又調子がいいんですよー!』と言われる。それまで、ちゃんとそうなるように、パパとママとお婆ちゃんと、みんなの気持ちが伝わるように少しでも多く側にいよう。クリックよろしくお願い致します
2009.11.26

キッチンでコップ一杯水を飲む度に、擢斗を想った。このたった一瞬で消えてしまう量があのこの日々の課題。どうかどうか少しでも多く飲めるようになりますように。年末が近づくと、又少し前のようによく泣き、ぐずるようになった。浮腫みのせいで体重が又100g一気に増えたりもして、見た目も身体全体が張っているのが分かった。泣かれると、切ない気持ちと一緒に恐怖と、いたたまれない気持ちが一気に押し寄せるような難しい気持ちで胸が苦しかった。毎回のごとく泣くイコール呼吸に負担がかかる。タンも増えるから、口の中に管を入れられる吸引作業も勿論増える。そんな時私達は状態を表すテレビの様なモニターの中で数値が減るのを、擢斗とモニターの間ではただあたふたするしかない。酸素の数字。血圧の数字。呼吸数。沢山の数字。安定している時には看護師さんや、先生の言葉の次に私たちの安定剤のようなモニターも、こうなると怖いカウントのようになる。『擢ちゃん泣いちゃったのかな~?』と、小走りで看護師さんが到着するといつも心の底もっともっと奥からホッとするような感覚だった。ただの1秒でも苦しませたくない。当たり前の親心に連動する行動が何も出来ない。心は通じる。心は届く。お腹にいる時もずっとずっと想う事だけはこれだけ。大丈夫だよ。ママもここにいるからね。パパがここにいるからね。ひとりじゃないよ。横でそう伝える事だけが精一杯の愛情表現。***************結局薬が倍に増える事になった。産まれてからずっと擢斗の中にながれる薬。苦しくならないように。痛くならないように。簡単に言ってしまえば麻酔らしい。前の日記にも書いたかしら。ドルミカム。という名前の聞こえは何だか不思議な響きの薬。小さな手の動きが少し少なくなった気がして悲しかった。クリックよろしくお願い致します
2009.11.25

体重は2800。やっと生まれた時よりも少し増えた。今まで浮腫みの分の体重増加の方が多かったのに比べ、この時は純粋に体重がほんの少し増えて、体力がこのままつけば…と期待が膨らんだ。35~40mlと増えたり減ったりする1度に飲める量のミルクが1日に8回。一生懸命頑張って消化する量が300mlを行ったり来たり。料理に使うカップが1つとちょっと。そう考えると切なくなった。本当はこの量の2倍は飲んで欲しいんだけどなぁと先生も擢斗を見てつぶやく。2~300ってこんなに多かったんだ。たかだか大きめのコップ一杯の量に顔を真っ赤にして頑張る小さな身体。口から飲めないミルクはあの子にとってただお腹が膨れて、調子が良い時は眠くなり、悪い時には苦しくなる。それだけのものだったと思う。鼻に通したチューブが胃につながる。ミルクが通ると、チューブが肌色になった。もしかしたら『飲む』という表現自体、間違いだったのかもしれない。体力をつける為、生きる為に体にいつの間にか流れてくる栄養源。決まった時間が近づけば何となく空腹を感じ、目を開け、口をパクパクさせて訴える。その動作が最初は本当に嬉しかった筈なのに、しばらくすると味わえないんだなという寂しさに変わっていて自分で驚いた。欲張りなのは重々理解していた。もっともっと最初はミルクさえ飲めずに、栄養だけを点滴していた。ミルクを始めますよと言われた時には本当に嬉しかった。それでも、目の前の何よりも大切なわが子に知って欲しい事が私たちの胸にはいつも溢れていて、いつでも欲張りだった。結局美味しいものを食べてお腹がいっぱいになる感覚は最後まで味あわせてあげられなかった。この時よりももっとずっと後。もっともっと元気になった時に、スポイトで数滴、擢斗は口からミルクを味わった時があった。呼吸器が口から首に移動し、笑うのも、遊ぶのもだいぶ自由になった頃。初めて舌に感じる味に大きな目を更に大きくして、小さな口を動かしもっとくれと涙を流した。スポイトでたった一滴。喉に通した呼吸器で声は聞こえない。それでも声が聞こえそうな位顔をくちゃくちゃにして大きく口を開けて、精一杯の主張を見せた。呼吸器がなかったら、もう、普通の元気な赤ちゃんのようだった。もう一滴。その大きな口に落とすとあっと言う間に真っ赤な目をクリクリさせて口をモグモグさせた。『ごめんね擢ちゃん。もうおしまいだよ。』困った顔をして看護師さんがミルクとスポイトを持っていなくなった後、泣き続ける擢斗のサラサラした髪の毛を沢山撫でた。元気になったらいっぱい美味しいもの食べようね。あの時の顔が今も忘れられない。クリックよろしくお願い致します
2009.11.23

1回に飲めるミルクの量は40ml苦しくなると35mlそれを8回。利尿剤は調子が良いと減らしてみる。やっぱり浮腫んじゃうね、という話があると又増える。ちょっとの薬の量が驚く程に見た目に反映される。それでも、なるべくなるべく、薬に頼らないように様子をみながら減らしたり、増やしたり。その減り方と増え方で私たちも喜んだり、ため息をついたり。ウンチが沢山出れば腸が活発な証拠だと喜んだ。ちょっと浮腫むと、又利尿剤か…と落ち込んだ。毎朝の胸の中の洗浄も変わらない。毎日今日も洗った?『綺麗にしましたよー。』という看護師さんとの会話で安心した。見れば分かるだろと思われるようなことも『看護師さん』『先生』という人達に言われると安心できる。この頃から、私達はオムツの交換を看護師さんに指導されながらさせてもらえるようになっていて、擢斗の調子が安定している上に看護師さんのお仕事に余裕があると『お母さんお願いします』と言って貰えた。毎日毎日見て、誰よりも大切な子なのに、触ると新しい発見が沢山あった。こんなに細かったのか。こんなに柔らかかったのか。小さな手を触る感覚とは又全然違った。今までも手、腕、顔。看護師さん達は少しでも多く親子の触れ合いをと考えては、私達夫婦にお手伝いという形で色々とさせてはくれていた。新しく加わったオムツ交換は更に違った感覚を知ることが出来たものだった。細い足、小さなお尻。浮腫みのせいでいつも太くみえていたあの子の身体は、触ってみるとどれも小さい。夫婦で、オムツ交換の上手さを競った時もあった。俺の方が上手い。パパはよくそう言った。確かに日々、マッサージを欠かさないパパの方が手足の稼動範囲も理解しているせいもあり、上手だったかもしれない。それでもあの時の私は分かっていながらも認めなかった。普通の親のように子供の事で競う感覚が嬉しかった。クリックよろしくお願い致します
2009.11.23

撤去されたクリスマスツリーを寂しく思う1日を過ぎると、外の空気は一気にお正月に向けて準備を始める。数日前まで赤と緑だった場所は、赤と白になり、歩いてすぐ近くのコンビニに行くと、レジ近くにはお年玉袋が並んでいた。ICUと、マクドナルドハウスは、その慌しさが無い。まるで別世界だった。クリスマスの賑やかさがやんわりと消えると、その代わりに、又元の穏やかな空気が戻るだけだった。ツリーの手作り壁掛けが外され、いつもの優しい色のパッチワークが飾られる。外の世界に殆ど触れなくなった私にはそれが新鮮だった。 今までの自分にはまるで想像が出来なかった世界。毎年12月に入ると、クリスマスに向けて心を躍らせた。外の雰囲気に流され、音楽に流され、焦りすらあった。でも、どんなに張り切っても、結果に満足する事なんて1回も無かった。毎年12月25日の朝には何だか張り切り方が足りなかったような他人の方がもっと楽しんでるように見えるような、下らない妄想をしながら、呆気なく過ぎたクリスマスの後片付けをした。そして26日からは大晦日にどう過ごすかを考えた。毎年毎年、そんな事を繰り返しては振り返ってみるとたいして心に残る思い出も無かった。それが、この年の事は全てが間逆だったのに、1日1日全ての事を未だに昨日のように想い出せる。唯一重なるのは、擢斗が過ごすクリスマスを想って、毎日毎日、実現できる事を模索して心を躍らせた事だけ。新しい洋服も、新しい化粧品も、新しい靴も、外出すら、何にも無かったけど人生で1番幸せなクリスマスだった。たまにピクリと動く擢斗の指先が、発狂してしまいそうになる位。眠りながらニヤリと動く口元が泣きそうになる位。嬉しいプレゼントだった。クリックよろしくお願い致します
2009.11.13

クリスマスが終わると、賑やかだったクリスマス装飾は次々と片付けられ、それまで何も無くて当然だった場所すら何だか、物足りない感じがするように見えた。擢斗にとって初のクリスマスは過ぎ、親として家族として、ひとつの行事を過ごせた幸せ感と、小さく小さく出来る事が増えるわが子を見て、私達大人までサンタさんにプレゼントをもらったような気持ちだった。次は初めてのお正月。その次は節分もあるし、パパの誕生日もある。その次は…その次は…当たり前に過ぎる日々の中の、当たり前の初めてがどんな事でも、なんだか嬉しくて、それに大きなイベントの初めてを足すと、数え切れない程だった。その初めてを一緒に過ごす度に思い出がどんどん増える気がして本当に嬉しかった。擢斗が大きくなった時に苦しかった思い出ばかりよりも写真も、記念も、楽しい事ばかりが良かった。沢山の頑張りと楽しかった思い出を一緒に振り返ろう。そう想うと同時に、日々、私達には想像もつかないような苦しさと痛みを伴う毎日を送る子の毎日毎日を何一つ忘れたくなかった。全部全部覚えていて、擢斗が元気に走り回れるようになっても、どんな瞬間も、目の前で生きていてくれる事に感謝を忘れたくないと思っていた。クリックよろしくお願い致します
2009.08.22

夜までの間は、院内もハウスも賑やかだった。頑張っている子供達に皆がプレゼントを持ち寄って集まっているようで、お爺ちゃんやお婆ちゃんの姿が特に目立った。擢斗の周りにはいつものパパとママとおばあちゃん。おじいちゃんからはいつものお決まりでなんでも買えというお金入りの封筒。枕元にたまったプレゼントを開けてみたり、又小さな声でお唄を歌ったり、いつもと同じながらもいつもよりほんのちょっと違う一日。ほんの少しだけピクリピクリと動かして見せてくれる手と足に何度も喜んだり、いつもと同じだけど穏やかで幸せな1日だった。夜になると、昼間が騒がしかったせいで、周りがいつも以上に静かに感じた。又いつも通り、面会の合間はハウスの共有スペース。夜も遅くなり母も帰った後、誰もいなくなった空間で、丸テーブルを挟んで旦那と2人。大きな大きなツリーを見ながら、旦那が言った台詞がなんともむなしかった。『やっぱり来なかったな。』この辺りになると私には彼が、義父母へ自分の思い描いていた姿を重ね、全く重ならない現状に、いつも頭をかしげている子供に見えていた。可哀想でもありながら、私の大嫌いな部分でもあるイヤなものは見なかったことにする所、都合のいいように取る所が、表情から伺えて、何だか頼りなかった。こんなはずじゃない!もっと優しいはず!今度はどんな理由?次はちゃんとしてくれるはず。いつまでも親を慕う気持ちも分かる。それでも毎日ベッドの上で頑張っているわが子の親として、もうちょっと強くてもよいのでは?頑張ってはいる筈の旦那に厳しい気持ちを持つ自分に厳しすぎるの?そんな事を思いながら、頬杖をついたまま視線を合わせずに笑ってみた。正直どんな台詞が1番この場をスッキリさせるのかわからなかった。『スッカリ忘れてたよ。昨日来ないって言ってたさ。』言った瞬間に『忘れてた』は余計だったと思った。上手く表情が作れずにそのままツリーの方に顔を向けた。本当の気持ちは、忘れてなんかいなかったし、むしろ悔しかった。そして、期待していた旦那の気持ちも面白くなかった。『プレゼントだけでも届くとかさ、』『遅くてもプレゼント持ってだけ来るとかさ、』『普通あるよな。』テーブルのマグカップを見ながら、私はツリーを見ながら、視線が合ってない状態で旦那がポツリポツリとつぶやいた。『そーいう気が回るなら、現状はだいぶ違うね。』とだけ返すと、しばらくの沈黙の後突然、ガタリ!と旦那が出した椅子を膝裏で押すように立ち上がる音に驚いた。テーブルに両手をついて妙な姿勢で立ち上がったままの状態を暫く静止させた後、大きく背伸びをし、『だよな!』『擢斗の周りには愛情が深い人だけいればいいよな!』『そうじゃない奴らは別にいなくていいな!』『いても疲れるだけだもんな!』背伸びをし終わり、横をむいたまま一気に喋った。私的には今更な台詞に聞こえたが、旦那の中ではやっと出た答えだったのか、ただ、その瞬間自分に言い聞かせたのか、私には分からなかった。ただ、私達家族にとっては幸せなクリスマスだった事には変わりなく、今もこの日の思い出は沢山沢山残っている。クリックよろしくお願い致します
2009.08.19

クリスマスソングの後に続けて歌った曲は、バースデーソングだった。♪happy birthday to you~♪12月24日は母の誕生日で、実はサンタスーツを渡された時、旦那がコソッとお願いしていた。母は突然主役が自分になった事にどうして良いか判らずに、照れ笑いをしながら頭を下げ、『ばあちゃん恥ずかしいねー』と、擢斗に助けを求める。そんな母と、静かに瞬きをする擢斗を見て、本当に幸せだなと感じた。外に出れば当たり前に見かけた、おばあちゃんと孫の組み合わせ。あの子のお母さんは仕事中なのかな。そんな事すら考えた事はなくて、それ位当たり前な光景だった。私達の当たり前ではない幸せは、この小さなICUの部屋の中にあって、その当たり前の幸せに一歩一歩近づく準備をしているような感じだった。きっと数年後には外に出て、母は擢斗と手を繋ぎ、それを見た誰もが当然ICUを連想もしない、当たり前な景色の一部になれると思っていた。だから、沢山の当たり前ではない日々の経験の中に、ふと、当たり前の将来を連想させるものを見ると幸せを感じた。そして、そんな毎日だからこそ、小さな事一つ一つが本当に幸せだった。看護師さん達が皆部屋を出ると、『ビックリした。こんなばあさま祝ってもらわなくても大丈夫だよ。』と母が言った。そんなばあさまは、ばあさまの体力で毎日力仕事をした帰り、擢斗の面会を欠かすことは殆ど無かった。時間が開けば仕事の合間ですら、病院の中にいた。クリックよろしくお願い致します
2009.07.22

結局、看護師さん達が集合してくれても擢斗は寝たままで、所狭しと並んだ看護師さん達が、『擢ちゃ~ん』『たっく~ん』と呼んでくれても、まるで起きる気配が無かった。仕方無いかなー?じゃあ…と、看護師さん達が口々に言うと、顔を見合わせ、言葉少なめな相談をして唄う準備に入り、その瞬間だけ、部屋が静かになった。1回目はタイミングが合わずに、クスクスと笑い、2回目に、声を小さめに唄がスタート。♪ジングルベール♪♪ジングルベール♪♪♪♪鈴が鳴る~~~♪♪♪一斉に、小さな声とは正反対に、静かに鳴らしたつもりの楽器達の大きな音が鳴った。唄が一瞬笑い声に変わる。原因は、びっくりした顔をして起きた擢斗だった。笑い声と、唄が合わさるような中、擢斗はパチクリパチクリと瞬きを繰り返す。呼吸器のせいで、いつもは迷惑そうにつぐんだお口も大きく開けていて、そのビックリ顔には、逆に皆が驚いて笑ってしまった。そして、そこからはもう小さくしていた声も、小さく鳴らしたつもりだった楽器も一斉に大きくなる。間も無く1曲目が終わると、『わ~♪』という声と楽器の音が混じって更に賑かになると同時に、『たっくんめりーくりすます~!』『メリクリ~!』その声を聞きながら、次第に激しかった瞬きも少しづつ又静かになっていく。それでもやっぱり、普段の顔とはまだまだ違って、ちょっと笑ってしまってはごめんねーと謝りながら皆、笑う事を続けた。クリックよろしくお願い致します
2009.07.19

2800グラム。やっと生まれた時よりも体重が増えて、体力もついてきた擢斗は、イベントの時は大体寝ているというお約束通り、この日も気持ち良さそうにスヤスヤ眠っていた。枕元には、沢山のプレゼントが並んでいて、母から、友人から、私達から、サンタさんから、そして、看護師さんからのカード。ラッピングはどれも、可愛くて開けてしまうのが勿体無いと感じるものばかりだった。ICUのA~Gの各部屋を順番に子供達を囲み、唄とカードのプレゼントをくれる看護師さん達の声が聞こえてくる。リンリン♪シャンシャン♪タンバリンと鈴の音。その音をBGMに、起きるのを待とうと、後回しにしてもらっている擢斗もチョッピリ準備。あのサンタスーツと帽子をしっかり着て準備。本当に可愛い準備。帽子はかぶれるけど、スーツは上からかぶせるだけ。本人は全く気づかない内にチャッカリに完成。起きないかな起きないかな私も、旦那も、母も周りをウロウロしていると、1人の看護師さんが入り口で手招きをして私達を呼んだ。『お父さんとお母さんもどうぞ!』渡されたのは、大人用のサンタスーツ。私も旦那も母も、看護師さんも声を小さくして笑った。クリックよろしくお願い致します
2009.07.16

擢斗に会えたのは22時過ぎ。2~3時間以上間を空ける事が普段無いせいで、ものすごく会ってないような気がした。部屋は薄暗い中、クリスマスツリーの電飾が光っていて、『ありがとうございます。』と看護師さんにお礼を言うと、『擢ちゃん付けるとちゃんと気づくんですよー』とニッコリ笑ってくれた。こんな風に自分達親がいなくても、擢斗を1人の意識ある子供として扱ってくれる事が本当に嬉しかった。午前中から起きている事が多く、必然的に、タンがたまりやすくなるので、吸引が多い1日ですという報告を受け、その面会中も何度か呼吸器が入った口の中に細い管を入れてタンを吸い取る、吸引の作業を見守った。大人でさえ苦しくてたまらない事を毎日頑張っている。歯茎を見せて大きく泣いても、呼吸器が入っている擢斗は声が出せなくて、そんな姿が3ヶ月経ってもやはり見るのが切なかった。良い知らせもあった。『擢ちゃん、今度はもっと分かりやすく足を動かしましたよ!』毎日毎日、穴が開くほど見ているのに、それでも気づかない位小さく小さく頑張っている擢斗の成長。『ただ、泣きすぎるせいか、ミルクが消化できなくて、又ほんの少し1回の量を減らす事になりました。』一歩すすんでまた下がる。擢斗はゆっくりゆっくり。生まれてから、変わらずに言われ続けるあの台詞、『擢斗くんは難しいですから』は、この時期も勿論健在だった。泣いてばかりの1日に疲れたのか、その後はよく眠った。義父母が来る日はいつも、泣いているか、眠り続けているかのどちらかで、それはお空に帰る時まで変わらない事だった。あの、可愛らしい笑顔や様子を見せれば、何かが変わる筈だと、旦那とは何度も話したが、実現する事は結局無かった。クリックよろしくお願い致します
2009.07.16

背伸びをした後、気持ちが切り替わったのか、『全然擢斗に会えてないな。面会行ってきていーよ。』と言ってこっちを向いた。ただ、旦那→旦那と義父母と立て続けに出ては入りを繰り返して、今直ぐにまた行くのはいくらなんでも少しキマヅイ。せめて1時間置こうかと、そのまま簡単に買ってきたもので食事を済ませる事にした。それからは、楽しい話題しか上らなかった。擢斗にとって初めてのクリスマス。特別な事があるわけでは無いが、それだけで色々な話題が上った。ほんの少しだけくぐもった瞬間はあのうさぎの話題が再び上がった時だけだった。『別に擢斗の側に置かねくてもいーな。』という台詞に、一瞬頷きそうになったが、一応それは本当に一瞬でやめた。『とりあえず置いとこ。』そう返した。どんなキッカケでも、擢斗が今以上に愛される事があるのなら、それが1番いい。うさぎを置いていない事で何かがマイナスになってはたまらないと思った。クリックよろしくお願い致します
2009.07.15

予想通り、その後すぐ帰って来て、今日は疲れたと又何度かいうと義父母はハウスにも入らずに帰って行った。出て行ったドアが閉まった瞬間にそのまま外を見る姿勢のまま、『これでも延ばしたんだぞ。』と、横にいる私に旦那が口を開いた。『擢斗の顔見て直ぐだぞ? じゃあ帰るかって。』『信じらんねーよ。』聞きながら、又共有スペースに戻り、聞きながらお茶を入れた。別に返す言葉も無かったし、旦那がいちいちショックをうけるのはそれだけ、希望や信じている気持ちが大きいからだと知っていた。私にはそれが最初から無い。『この子が来い来いってウルサイから』なんて、完全に来てあげましたよ。忙しいのに。なんて、むしろ感謝してねオーラ全開の雰囲気すら普通に見えてしまう。机に座っても愚痴は続いた。『本当に明日来ないつもりなのかや…』『あのマスコットがプレゼントか?』『そりゃねーべ』何にも言わない私に旦那は次々言葉を投げる。包装もされてないのに、プレゼントかどうかだって怪しい。聞きながら又笑いそうになった。頭くる。来てなんて言わなきゃ良かった。何考えてんだ。信じらんね。ありえねー。そんな感じの台詞をそのままローテーションで何度も何度も目の前で繰り返していた。昼間の喜び方では、この位頭にきても仕方が無いかなと眺めていた。仕舞には共感して欲しいのか、一緒に怒り狂って欲しいのか、『よく頭こないね』と、私を睨んだ。こんな時は本当に難しかった。共感も、うなずきも、大体は不正解で、何も言わない事が正解の事が多い。ただ、怒っていないとか、これが普通だと勘違いされる事だけは絶対に嫌だった。考えた末に口から出た台詞は『期待してなかったし。慣れてるから。』だった。部屋が静かになった。何の静けさか分からなくて、暫く下を向いてお茶をすすっていたと思う。少しして『…だよな。俺らだけで、擢斗の事大好きな人だけで、明日はお祝いすればいいよな。あいつらなんかいらないよな。』と言って椅子から立ち上がると背伸びをした旦那を見て、ホッとした。そして、旦那が自分の両親を『あいつら』と呼んだ事に驚いた。クリックよろしくお願い致します
2009.07.15

だれもいなくなったハウスの共有スペースでうさぎを小突いてはこいつは悪くない…と毛並みを揃えるように撫でた。多分ものの数十分で帰って来るだろう。あの短時間でこのうさぎを貰う以外の会話は殆ど疲れたとか、そんなものだった。私の母は毎日の面会の前に必ず聞いた。『今日は擢斗どう?』**********ほんの数ヶ月前、旦那の帰りを待つ毎日を送っていた。ご飯の用意はしてくれたが、それ以外旦那はよく1人で出かけていた。旦那の実家と職場に近いだけの家は、車のない私にとっては恐ろしく不便な場所で、結局入院まで、出かけたのは検診と戌の日以外あまり無かった。きっとそんな私の不満は旦那に届いてはいなかったと思う。当たり前に擢斗は元気に産まれてきて私達夫婦の生活は変わると思っていた。旦那はその後の生活に夢を描いていて、擢斗の誕生で、自分の両親と自分の家庭の繋がりが又良い方向へと導かれる。擢斗は凄い子。とよく語っていた。確かに擢斗は凄い子で。私達にとってあの1年近くは、何十年分という成長を与えてくれた。ただ、旦那が願った家族の平和の答えは小さすぎるこの黄色いうさぎ。元々、言葉ばかりが立派で行動が全く私には伴ってなかった義父母、特に義母が嫌いだった。嫌われているから、嫌う。そんな当たり前の法則が、余計そうさせた。うさぎをもらったこの日、私の中の嫌いが更に上書きされた。夢ばかり語り、直ぐ近くの人間の気持ちが見えない。自分の事ばかりで頭と口だけで素敵な自分を描き、心も、言葉も、行動も全てが伴っていない。流石に親子。そっくりだった。でも、いくら私が嫌いでも。目の前の必死になっている息子(旦那)の為に必死にならない様子は私にとって信じられなかった。自分の頭の中を整理しながら、ずっと手元にあったうさぎは、多分撫でられるより小突かれる方が多かったと思う。クリックよろしくお願い致します
2009.07.15

『行ってらっしゃい』3人を見て手を振ると、義母がコチラに鞄に右手を突っ込みながら戻ってきた。『これね…』ガサゴソと鞄の中を探った後、手のひらにスッポリと収まる小さいうさぎのマスコットを無造作に掴んで渡して来た。包装されている訳でもなく、毛並も若干汚い。鞄の中で潰れていたんだなぁと思った。『…?』『可愛いですね。どうしたんですか?』そんな事を聞くのがやっとな位ビックリした。…というか、まさかねぇ…?という疑惑があって、その疑惑がまずありえなさそうに見えて、実際義母だったら、全然ありえる事に思えてそんな感じになった。『ホラ私いつもロフトにランチに行く事が多いって言ってたわよね?』『そこで見つけたの。黄色で風水でラッキーうさぎって。』『だからね、クリスマスだし擢斗に買ってきたのよ!』疑惑大正解。初孫。チイチャイ身体で毎日頑張ってる孫に、クリスマスプレゼントがコレ?笑う気すら起きない。街中で買ってきたのよ!駅前でランチよ!ロフトで買ってきたのよ!誇らしげに語る目の前の義母の言葉の意味が全く分からなかった。そして、それ以上に可愛いと喜ぶ演技中の自分は、もっと意味が分からなかった。旦那の引きつった顔が視界に入ったが、関係ない。喜んでいるフリを続けた。旦那も擢斗も可哀想だった。クリックよろしくお願い致します
2009.07.14

クリスマス前日の祝日、賑わっていたハウスも、院内も、もう既に誰もいなくなり、静まり返っていた。広いハウスの共有スペースには私1人だけで、机の上にある本とマグカップを動かす音も響いた。義父母が到着したのは夜7時を回ってからで、旦那は待ちきれずに、擢斗に面会に行った帰りにタイミングが合ったらしく一緒にハウスに入ってきた。義父母は明らかに急いでいる雰囲気で、面会を終わらしたら、すぐにでも帰りたいといったような様子だった。『来るの遅すぎない?』ブツブツ旦那に文句を言われながら誘導されて、私の近くに来た義母と、入り口付近でウロウロしている義父、途端に今まで仕事だった事を話し出した義母の言葉をピシャリとさえぎるように『じゃあ昨日言えばいいべや』と早口で言った後、視線を横にそらし『俺今帰ってきたばっかりだから、響が一緒に行ったら?』と私に言った。その顔を見てほんの少しいつも通り旦那に少しムカついた。周りに看護師さんがいるからと言ってその空間を私にどう過ごせというのか。旦那は、義父母の前では私に対する口調や態度が、無意識なのか妙にぶっきらぼうというか冷たくなる。嫌われている上に息子がそんな態度じゃ何を勘違いされるか分かったもんじゃない事を全く理解していない。『いいよ。家族揃って面会行けば。私は又ココで待ってるから。』…と口角を上げるよう努め、やんわり断った。本当にそう思った。義母もその方がいいと見えて、珍しく私に向かって話しだした。旦那の目を見て言いづらかったのかもしれない。『毎日忙しくって。この子が面会面会ってウルサイから…』『明日は用事があって来れないし。』旦那の顔があっというまに変わったのが分かった。旦那の前にいる義母には見えていない。『ハ?明日クリスマスだぞ?』空気が一気に悪くなった。すると義父が少し離れた入り口付近から『もう行くぞ!疲れてるんだ!』とイライラした表情で叫んだ。『そうね!もう遅いから早く面会に行って帰らなきゃ!』義母は鞄を持ち替えると小走りで義父に近づいた。全てが大体予想通りで何も感じない私と、そうではない旦那の表情が本当に対象的だった。クリックよろしくお願い致します
2009.07.05

母からも電話があった。『明日はクリスマスだけど、今日も行こうかと思って。』『周りも結構来てる人多いんじゃない?』『擢斗も多い方が嬉しいかと思って。』気持ちが嬉しかったが、あっちの親が来るから来ない方がいいよというと、それなら…と母は諦めるように電話を切った。人一倍他人に気を使う母は、旦那の両親と一緒になるとまるで可哀想に私からは見えた。気を使う上に、どうにかして私を良く思って欲しくて、必死としか言い様がない。暫く前の擢斗の手術を待つ間に、1階の売店まで義父母のお茶を買いに行った母の背中を見てから、私は、何だか一緒に居させたくなくてなるべく会いそうな時間はわざとずらすようにしていた。毎日来るおばあちゃんの唄が無い日。この日の擢斗は1日、薬が効かなかったのか、起きてる事が多く、泣いてばかりだった。クリックよろしくお願い致します
2009.07.04

義父母から面会へ行くという連絡があると心の隅の期待という文字が躍る旦那の顔が可哀想でもあり、一家の主として情けなくもあった。クリスマス前日、祝日の23日に連絡があった時もそうだった。『クリスマスだしな。』『今日来るって事は明日も来るのかなー?』などと珈琲をすする旦那を、それは無いと思うよ。と心の中で冷静に突っ込んだ。孫の初めてのクリスマスそんな感覚はあまりないだろう。入院しているから?赤ん坊だから?よく分からない。ただ、初めてのクリスマスという意識があれば、もっともっと前に何かアクションがあって、前日に迫った今日でも無ければ今でも無い。単純さと、多分、普通の人以上に親を崇拝していた旦那は、その日、面会に来た実父母を見るまでずっと機嫌が良かった。きっと、私にも申し訳がたった気分と、擢斗が喜ぶぞ!という気持ちと、やっぱり分かってくれているよなーという喜びが一気に膨らんだんだろう。『来る前にもう1回位面会も行けそうだな!』とジャンパーを着たままマグカップを洗う姿を、少し離れたテーブルに頬杖をついて眺めながら、来なくていーのにと思った。絶対に旦那が期待するような事は無いと自信があった。だから、一緒に喜ばなかった。ココで笑ったら、又、旦那は私にごめんねと謝らなければならなくなる。『何時位って言ってた?』とだけ、聞いた。私は旦那の親の登場を喜ばない可愛げのない嫁だった。クリックよろしくお願い致します
2009.07.04

義父母の面会は大抵夜だった。仕事を終え、真っ直ぐにコチラへ向かう義父の時間に合わせ、夕方あたりに義母も来る。義父の到着まではマクドナルドハウスの台所を2~3占領して夕飯の支度が行われる。旦那が夕飯の前に面会を進めても、『お父さんが来てからでいいわ。』と、大体断られていた。ハウスで光熱費で夕飯を作り、お米は私達のストックしているもの。材料は、必ずどれだけ安かったかを自慢しながら持ってくるが、ほんの少し残った材料は、漏れなく次の日には悪くなっていて捨てるものばかり。勿論誰にも言えなかったが、この夕飯を振舞われる行為が、私は本当に嫌だった。ハウスは一泊千円、ほぼ、ボランティアで運営されている。台所も、面会の合間に夕飯を食べに来る家族や、入院中のわが子に何かを作るために使う人、外泊許可が下りた子達が、久しぶりに家族との団欒を楽しむ場所であって、どっさり買い物をしてたまに来る面会者が夕飯を作りくつろぐ場所ではない。皆、時間を惜しんで面会に行く人ばかりで、大抵はお弁当などを買ってきてササっと食べる人ばかりだった。そんな中、台所を広く使い、包丁が切れないと文句をいう義母、共有スペースのテレビのまん前に座ったり、食後は床が柔らかくなっているキッズスペースにゴロリと横になる義父が、無償で働いて私達を支えてくれているボランティアさん達が通る度に恥ずかしかった。面会は、いつも食事が終わった夜、1回だけ。その後は直ぐに疲れたと言っていつもすぐ帰った。私達は、手料理を振舞われるよりも擢斗に何回も会ってくれる方が何倍も嬉しかったのに。産まれて間もない小さな小さな擢斗は疲れたとも言えなかったのに。クリックよろしくお願い致します
2009.07.04

全く文中に登場しなくなった義父母ですが。来てました。たまーに。最初は週に1度は来てた気がしますが、一貫して面会時間は短く、最長でも10分位だったと思います。眠ってばかりの孫はどうもつまらないといった様子で、私は数回しか面会を一緒にする機会はありませんでしたが、その数回中全て、帰りたそうにする彼女に周りが気を使い、1度ICUを出る…というのがお決まりの流れでした。私達が時間を忘れ、数時間面会をして、看護師さん達に申し訳無い気持ちになってICUを出る想いはこの先もずっと理解出来ないのだろうなと、ICUの自動ドアを出た瞬間から相変わらず自分の話に花を咲かせる彼女の横顔を見て思ったのを覚えています。そして、その度に旦那が話をさえぎり、『もっといてもいいのに』『普段皆1時間以上普通にいるんだ』『24時間いつでも面会はいいんだぞ』などと、彼らに話していた。少し黙った後、又、話を続ける。旦那がどんなにムッとした顔で色々な事を言っても、愛するわが子を愛して欲しい。私にはそう聞こえた。あの人達にとっての愛するわが子は紛れも無く旦那な筈なのに、何故それが伝わらないのか。伝わっても病気の孫は無理なのか。私には理解が出来なかった。擢斗の病状をあちらから聞かれた事は殆ど無かった。いつもいつも。彼らの仕事や生活、出かけた場所、義理の弟(旦那の弟)、自分の身体の事、病気自慢、そんなものばかりだった。うなずく作業にも慣れ、私はいつも、止まらない彼女の口元を見ながら、何を考えているのか理解が出来れば…。と思う事ばかりだった。理解すれば、今の状況を変えられるのではないか、私がまだまだ未熟だから理解できないのではないか、擢斗にとって素敵な未来があるのなら、私はそんな事にも必死だった。今思えば、多分何の意味もなかった。理解も何も、ただ、自分の話をするのは好きだが、人の話は聞くのが苦手。そんなところだったのだろう。話が長くなればなるほど、いつも考える事は一緒だった。『擢斗』という単語を1度も使わない自分達に気づいているのかな。気づいてないんだろうな。旦那も私も何度も『擢斗』が主語の話を振っているのに。…そろそろ又面会行きたいなぁ…クリックよろしくお願い致します
2009.07.04

雪の多い年で、12月中も何度か視界一面白くなる事があった。マクドナルドハウスは入院中の子が家族との時間を過ごす為、外出してくる事もあり、大抵は温かい。病院内も又、パジャマで子供達が歩き回っても大丈夫な優しい温かさ。擢斗のいるICUは真冬に半そででも平気な程の温かさ。産後直ぐはまるで気づかなかった。擢斗は沢山のチューブにつながれてオムツ以外は裸ん坊だった。普通の室温だったら寒かったよね。急にそんな事を思い出した。病院のある場所は山に近く、街中に比べると数倍雪の量も凄い場所で、マクドナルドハウスからの面会への道はいつも温度差が凄く、風邪を引かないようにたった5分程度の道のりを私は帽子にマフラー、手袋…と完全防備な格好で歩いていた。ハウスから出た瞬間に寒さに震え、病院に入った瞬間に熱くて帽子やマフラーを急いで取り、ICUでは、ちょっと暑くて汗をかく。気の付け方が間違っていたのか、それでも数回風邪を引いてしまい、面会にいけなくなった時期があった。今想うと、本当に勿体無い瞬間だった。こんな風にもう少しで会えなくなってしまう事が分かっていたら、きっと風邪なんか引かなかったと思う。私達はいつもいつも擢斗と一緒に笑い退院する日を夢見、信じていた。だから、いつもほんの少しあの子に甘えていた。甘えなんてなかったら、きっと気力で風邪なんか引かなかっただろうな…と思い出し、書きながら、後悔と反省が頭をグルグル回る。
2009.07.02

胸の洗浄も変わらず。胸に貼った大きなガーゼを取り、未だに開いたままになっている擢斗の胸を毎朝1回綺麗に洗浄し、菌の繁殖を抑えていた。その方法も、あらかじめ完全に有効では無いかもしれないと、前置きがあってからの処置だったが、洗浄の効果があってか、擢斗の胸の中の菌が増えたという話は聞いていなかった。擢斗の胸の中を洗う 全く想像のつかない世界。それでも、『今日も擢ちゃんお胸の洗浄頑張りましたよー』と、ただ報告されるだけで、なんだかホッと出来た。だからその台詞が聞けない時は不安になって、今日は洗ったのかと聞いた。可能性がもしもほんのひとつまみのうような事でも、やったという事実が欲しかった。そんな可能性が小さな事に固執した結果だったのか、パパと擢斗のリハビリ中、擢斗の足がほんの一瞬ピクリと動いた。BGMは勿論モーツァルト。 薬で眠らされ、動かす事のないまま筋肉もつかずに固くなった擢斗の手足は、どんなに痛かっただろう。くだらなくて小さな実験だったが、1人マクドナルドハウスで次の面会時間を待ちながら、手足を動かさないように一時間程眠ってみた事があった。起きた時は手足どころか身体の全てが棒のように固く、痛くなった。肘、膝、関節を動かすのに恐ろしく時間がかかった。擢斗はどれだけ痛いのだろう。リハビリ時に、肘をユックリユックリ曲げ、伸ばす間、火がついたように声が無いまま泣く擢斗の顔を思い出した。固くなった手が動くようになった後、パパのマッサージの真似をして、自分の足腿脇をさすってみた。筋が柔らかくなるような感覚があった。心地よい顔をして眠る擢斗の顔を思い出した。この何百倍、何千倍も、いつも気持ち良かったんだ。いつも、どんな気持ちか、何をしたら気持ちが安らぐか、知りたくて小さな実験をしていたが、ほんの数時間の実験でも私は考えられない程辛かった。そして、今更、こんなに辛かったのか…と、その小さな苦しみで理解しようと努力しながら、そんな小さな苦しみで苦しがった自分が本当に情けなく感じた。ピクリと動かした手にも足にも、私達が想像できない程の経過があってそれを24時間一緒にいられない私達はきっと全然理解していなかったと想う。
2009.07.01

相変わらず擢斗の大嫌いなリハビリは続いていた。パパのコッソリ練習も勿論。自己流で、間違っていては大変だと、面会をリハビリの時間に合わせ、何度か先生に確認をしたり、先生の動かし方を必死に確認をして勉強しているようだった。 その結果、リハビリの先生からパパが毎日少しづつしてあげた方が更に良いという、お話を頂き、コッソリやっていたパパのリハビリも、いつの間にか当たり前のように堂々と行われるようになっていた。どこかで聞いたことのある『モーツァルト療法』をパパが言い出したのもこの頃で、面会の合間、出産前だったら考えられないような普段着のまま、2人で街中のCDショップへ向かった。自分でも驚いたが、本当にそんな格好でも平気だった。今まで入った事のないクラシックコーナーには、驚く程『クラシック療法』のタイトルが溢れ、それをを短時間であーでもないこーでもないと言いながら疾風の様に買って帰ってきた。早く聴かせたかったし、離れているのがイヤだった。久々に街中は、少し違う世界に来たようでビックリした。私と擢斗の世界は小さな世界で、何だか、時間が止まっていたところから急に現実に引き戻されたような感覚に陥った。私は、会社、自宅、病院と走り回ってくれる彼、仕事、家事の合間に長時間車を飛ばして頻繁に来てくれる母、2人のお陰で小さな世界にどっぷりと浸っている事が出来る。そう感じた瞬間だった。
2009.07.01
大きな変化は無くとも、小さな小さな一歩をユックリと見せながらそこにいてくれた。ミルクは1度に35mlを飲めるようになった。たまに消化出来ず苦しそうな事もあったけど、それでもよく頑張って飲んでくれた。もっと沢山飲めるようになれば、栄養補助の点滴を外す事が出来る。擢斗の鼻から入る細いチューブを通るミルクは、この頃から私の母乳ではなく、医療用の高栄養ミルクになった。先生や看護師さん達は、言葉を選び、私を気遣い、栄養価の高さ、栄養の大切さ、母乳との違いを私に説明したが、私にとって、母乳を使わなくなる寂しさよりも、更に一歩又、擢斗にとってプラスになるような事にステップアップできる喜びの方が大きかった。あぁ、でも正直なところ、全く寂しくなかったと言ったら嘘になるかしら。ちょっとね。擢斗の為に親として、出来る事が減った気がして寂しかった。でも本当にほんの少し。でもそんな事も、看護師さん達の手が開いた時に、あった擢斗のエピソードを聞いて吹っ飛んだ。夜間、吸引などが終わった後暗い部屋の中、擢斗の側ギリギリまでクリスマスツリーを寄せてくれたらしい。『擢ちゃんにもキラキラ見せたくて。』『そしたら擢ちゃん、目を見開いてビックリしたんです。』思わず、おかしくて笑ってしまった。いつも鎮静剤が薄っすら入っている擢斗はたまにニコリと笑ったり口をモグモグ動かしたり、苦しくて泣いたり、それ以外はあまり表情を見る事が出来ない。そんなあの子がビックリして目を丸くするのは相当な驚きがあったんだろう。笑っちゃってごめんね。擢斗。
2009.06.30
12月も20日を過ぎると、擢斗の周りが月初めより又ほんの少し賑やかになった。病院には外国からやってきたサンタクロースが、子供達に1つづつプレゼントを持って来た。勿論擢斗も1つ、可愛いピンクの包み紙にくるまれた箱を枕元においていた。友人から届いたスティッチの踊る人形は入り口から入ってすぐ左の棚の上。少しづつ増やすねと届いた100羽の可愛い100羽鶴は擢斗の左上。あのサンタスーツは鶴の下。 産まれてからちょこちょこ看護師さんが撮ってくれるチェキの小さな写真は持ち帰らずにベッドの近くに数枚貼り付けたまま。擢斗の周りがなんだか賑やかになるのが嬉しくて、許されるようなモノは1つでも多く置いておきたかった。1番最後に用意したのはツリーだった。医療の邪魔になるだろうと諦めていたものの、どうしても擢斗に見せたくて確かクリスマス数日前に100円ショップに走ってしまった。小さな木に、沢山の飾りと、点滅しないカラフルな電気を買って、夕方からマクドナルドハウスにこもり、安さのショボさを消す為に切ったり結んだりの作業を続けた。完成したのはすっかり病室も暗くなった夜で、母と一緒に袋にツリーを入れてガサガサとする音に気をつけながら面会に行ったのを覚えている。『ちょっと待ってて下さいね』と言って看護師さんはカラカラと小さな台車を持ってくると、擢斗の左足元にツリーを置いてコンセントをつけてくれた。『邪魔にならない場所じゃないと置けませんが…』と、擢斗の側にツリーがセットされた。気分だけでも…と思って付けていった電飾を擢斗に見せてあげられるとは思っていなかった私は、舞い上がってしまい、『いーです!いーですー!』と、喜んでる感情を半分も言葉に出すことが出来なかった。薄暗くなった部屋で電飾の光が、やっと擢斗のホッペに届くような距離。100円ショップの電飾はカラフルな色で綺麗だけど点滅はしなかった。おうちに帰れば、ママが昔買った大きいツリーがあるんだよ。今年はチッチャイけど、来年は大きいツリーでお祝いしようね。と、枕元で約束した。電飾の明かりの中でする面会は何だか温かい気分になれた。
2009.06.22
モノトーンの中にある擢斗の身体は、何だか、普段のふっくらほっぺの擢斗よりももっともっと毎日頑張ってるよと言ってるように見えた。『肺なんですよ』『ココね』と、先生が擢斗の肺の部分を指差す。心臓手術後、心臓に以外の話をするのは久しぶりだった。『お母さん解かりますか?』そんな先生の質問に頭がハテナだらけになった。『久しぶりに擢斗くんのレントゲンを撮ったんですがね。』『こっちが右、こっちが左。』交互に先生が肺の左右を指差す。『大きくなったの解かりますか?』驚きすぎて普段だったら叫んでしまいそうだった。けど、驚き以上にこみ上げるなんとも言えない喜びのようなモノの方が断然大きすぎて、驚きで声が出ないベタダナと思ってみていたような俳優の様に、両手を口に当てて、唯唯何度も目で確認した。1番最初の横隔膜ヘルニアの手術から約3ヶ月。横隔膜の破れから本当は下にある筈の臓器がどんどん上にせり上げ、心臓や、肺を圧迫していた。当初、擢斗の肺は向かって右が殆ど無かった。他の臓器に潰されて、お腹の中の成長過程で膨らめず、そのせいで自発呼吸もままならなかった。その片方の肺が、先生の指指すレントゲンの上では嘘のように大きく大きく広がっていた。『凄いですよねー擢斗君。』『頑張ってますよ。普通の子と一緒まではいかないまでも、ほぼ、8割近くありますからね。充分です。』『術後、小さな肺のまま普通に生活してる子もいますから。』『本当に凄いですよ。』嬉しくて、嬉しくて、電気に照らされたままのレントゲンの写真を、デジカメで何枚も何枚も重ねて撮った。この喜びを、私の陳腐な言葉だけで旦那や母に伝え切れない。そう思った。
2009.06.21
点滴の数が少しづつ減る。浮腫が少しづつ引く。ちょっぴり手を動かす。産まれてから数え切れない位、経験した事の無い喜びがあったけど、その中で、希望が一段と膨らむ事があったのも、12月だった。いつも通り、扉の向うから、ペタリペタリとスリッパの足音が聞こえ、私は擢斗の顔の近くに机に突っ伏すような体勢のまま(この足音は先生かな)…と、耳だけを澄ました。擢斗から目を離すのも勿体無かったし、無駄に目を合わせてお仕事の邪魔になったり、これ以上余計な気を使われるのも嫌で、私はICUの雰囲気にほんの少し慣れた頃からそんなスタイルをいつも取っていた。近くに来れば、目を合わせて挨拶をするし、擢斗の足元で点滴やお薬の点検のみで出て行く場合は出て行く時に頭を下げる程度にしていた。もしかして、人によっては感じの悪い風に見えるかもしれない。旦那と違い、私は背も大きく顔もどちらかと言えばキツイ。そんな不安がいつも頭の隅にくすぶりながら、擢斗の顔を見ていたかったのが勝ってしまい、それ以上考えたりはしなかった。足音が擢斗の足元、私の右側で止まり、『こんにちは』と、声がする。1番私にとっては安心するパターン。向うからのリアクションスタート…とでも言うのかな。確実に相手に話す余裕が今あるよという合図な感じがする。私も頭を上げ、『こんにちは』と挨拶を返す。いつも通り、擢斗の昨日から今日までの調子の説明、最近では当たり前になった開いた胸の説明、その開いた胸の洗浄の様子、なんかを、顔では笑いながらも真剣に1つ1つの言葉を確実に旦那や、母に伝える為必死に覚える。すると先生が『今日は、他にお知らせがあるんですよ~』と、又スリッパを鳴らし1度部屋を出ると、大きな封筒を持ってすぐに戻ってきた。薄茶の封筒から、黒いペラペラと音を出しながら出てきたのはレントゲン写真だった。壁際にレントゲンの頭をシュッと差し込むと、ポスターのように壁に飾られたように見えた。医療ドラマで観るままの先生の動きにちょっと驚いたし、毎日何度も通うこの部屋の壁にそんな物があった事に気づかなかった事にも驚いた。カチっと音がすると、貼られたレントゲン写真の裏から電気が付き、モノトーンのレントゲンがくっきりと見えるようになった。擢斗の胸。あご下の首からおへそ下までの写真。モノトーンで、骨と臓器、身体の輪郭だけが写る。そんなものですら、可愛くて、愛おしくてたまらなかった。
2009.06.18
頭のCT結果を先生から直接聞いたのは私だけで、パパ(旦那)と母に伝えたのは、私で、どちらも電話でたった。2人ともやっぱりな同じ反応で、私と同様、最初に喜び、後から声のトーンが落ちた。言い方も考えたが、悩んだ結果、先生に聞いたとおり、先生のまま伝えたから、まぁ、当然の反応ではあった。特に落ち込んだ声を出したのは母の方で、『そぅ…』それだけだった。その後、勿論先生の話のまま、今大きな問題も無いし、成長もあるという話を付け加えたが、声の低さは戻らなかった。あの時は、擢斗の事で頭がいっぱいで気づけなかったが、母には母の想いがあったようだった。孫を想う心。子を想う心。将来を想う心。口では分かっていると言ってはいたが、この時の私は多分まだまだ理解が浅かったのだと思う。落ち込む母の気持ちが、なんだか贅沢に思えて納得がいかなかった。一緒に喜んでくれると思ったのに…そんな不満が携帯を当てる右耳に固まるような感覚があった。今はどっちのが正しいかなんて無いと思える。私は親として、どんな形でも側にいてくれれば良かった。でも母はきっと擢斗の幸せの他に私の将来も考えていたのだと思う。自分はいづれ必ず歳をとって先にさよならをする。その後もし私にも何かがあったら擢斗は?そんな時に、不安材料になるようなことはもう1つも母にとっては許せなかったんだなと。何処に行こうとしていたのかはもう覚えていないけど、私は病院とマクドナルドハウスから徒歩5分ほどの駅に歩きながらこの電話をしていた。とても天気がよく、寒いながら気持ちが良かった。私は少し面倒になったような口調で『もし、お母さんが考えるような事があったとしても、それで擢斗がいなくなってしまう訳ではないし、そうなったらそうなったで、擢斗はずっと私たちの子供のままでいてくれる。そこで私は又違う幸せがあるから。』そんな事を言って電話を切った。その瞬間は辛かったり、嬉しかったり当たり前にやってくる喜怒哀楽も、大きなベッドに小さな擢斗。その大きな存在があるからこそ。小さな喧嘩もイラつきも、今では幸せだったなと想う。あの浮腫みも嘘のように取れ、ほっそりした顔と身体に、太ももの付け根に太い針の点滴、腕にはそれよりはずっと細い点滴、鼻にはミルクを飲むチューブ、口には相変わらず太い呼吸器の管、おちんちんにはオシッコを流す細い管、そして、胸の開きを覆う大きなガーゼ。他人から見たら可哀想な光景でも、私達には、元気に近づいている証拠が色々な所に確認できるようになってきた不幸ではない光景だった。数え切れない程あった点滴の数は激減し、心臓に送る薬も殆ど無くなった。腕に通る点滴の針の数は変わらないけど、その針と管の先に陳列されたお薬達は少し少し減った。なにより心臓の浮腫みは落ち着き、閉じれる日を待っていた。
2009.06.17
検査の結果は思ったよりも早く出て、その上思ったよりもあっさりと擢斗のベッド脇でサラリと聞かされた。又いつものように別室に時間をとって説明があるのかと思っていた私はほんの少し驚いた後、こんな風にサラリと聞けるってことはさほど大きな問題も本当に無かったんだなと、ちょっと勝手な安心感に包まれた。まぁ実際の所、どうなのかは分からない。ただただ忙しい先生の策だったのかもしれないし、限られた面会で擢斗の側で話が聞けるように…との心使いだったのかも知れない。『脳に異常はみつかりませんでしたよ。』『血液が固まったようなものも見当たりませんでしたし、他にもコレといっておかしなところもありませんでした。脳梗塞とかね、そーいった心配もまー、消えたって事ですね。』斜め右、擢斗のベッドを挟んで短い説明があった。本当に短い説明。これまで長すぎる説明と、聞いたことのない薬名、昔生物の時間で聞いたことのある臓器や、血管名、そんな事で必死に理解しようと努力する必要のない分かりやすい構成の台詞に今の状況を忘れさせてくれるようなそんな空気を、先生の顔を見ながら勝手に感じ、自分の中で実はコッソリ突っ込んだのを覚えてる。お気楽になるのはまだ早いでしょーって。『あー』『あとね、脳みそ。』『たっくんの脳みそのことですが。』『ちょっと隙間がありました。』『本当にほんのちょっと。ミリとかの世界なんですが。問題はないですよ。一応伝えておきますね。』頭蓋骨と脳の間にほんのすこーし隙間があって、あと少しって感じらしく、まぁ分かりやすく言えばボリュームが足らないって事だった。ホラ。お気楽になるのは早かった。分かりやすく驚く私の表情に、先生は胸の前で組んだ手を解くと、手の平をコチラにむけて『あ!そんなに大きな問題じゃないんです!』と直ぐに言葉を続けてくれた。『大袈裟に言ってしまえば、肺とかと一緒で、実際脳が半分しかなくても普通に生活してる人がいる位、不思議な世界です。タックンのようにまだまだ赤ん坊の場合は、成長という大きなものがあるので、今現在、なにか問題に上げるようなことは何もないんですね。』ナルホド単純に理解をし、それ以上はあまり考えなかった。ずっと病院にいて、ずっと擢斗を見てきて、赤ちゃんの成長というものの素晴らしさと可能性は本当によく理解しているつもりだった。その、素晴らしさを見せてくれる子供達に支えられて、日々少しづつ強くなる。未来を信じる力。を身につける。口で言うのは簡単だけど、この力ってば、なかなか大人には難しい。その力をほんの少し発揮できた瞬間でありました。
2009.06.15
クリスマスが近づくと、院内もマクドナルドハウスもキラキラとした大きなツリーが飾られ、24日に向けて日々少しづつ飾りも増えていくように見えた。2メートル近くあるツリーは大人の私たちすらワクワクする気持ちにさせられ、院内を行きかう子供達はそれ以上に近づいてくるクリスマスに心を躍らせ浮き足だっていた。この月に2回目の大きな機械が必要な検査があり、擢斗は久しぶりにICUから出て1階の大きな検査室へとの移動があった。1度目と同じ、大きな移動には大きなリスクがあるという説明を受け、同じように不安に駆られた。大きな呼吸器から離れて、先生が押す手動のポンプが擢斗の呼吸を助ける形での移動になる。そんな時にどんなリスクがあるか、どんな体力的消耗があるか、万一の事があった時の為に、重ねて様々な説明があった。3階から1階へのたったチョットの移動があの子にとって、想像も出来ないほどのストレスと疲労になる。検査当日は、1度あの子の体調が思わしくない為に延び、すこし予定日よりも遅くなった。大きなベッドに小さな擢斗が、大勢の看護師さんと、真剣な表情でポンプを押す先生に囲まれて、移動する。ベッドの上には手術室へ移動した時と同じように、酸素濃度?を測るような小さな機械やら色々なものが乗っかっている。ゆっくりゆっくり、沢山の看護師さんにベッドが押されて動きだす。関係者だけが乗る大きな広いエレベーターは一気にキュウキュウになって、広々とした空間にいるのはベッドに横になっている擢斗だけだった。エレベーターはいつも私たちが夜や、休日に使う裏口の近くに出る作りになっていて、丁度、面会客が何故か裏から入って来たらしく、珍しく扉が開いていた。開いた扉から天気の良い12月の少し冷たい、心地よい風がフワッと入って擢斗の髪の毛をそよそよと一瞬だけ動かした。私の他に誰か気づいていただろうか。生まれて初めて風があの子の身体を触った。眠っている擢斗に今のが風さんだよと心の中でつぶやいた。
2009.05.25
前にも書いたようにあの子にとって忙しい日々だった12月は、私達にとっては精神的に忙しい日々で、毎日違う顔をしていた気がする。良い検査結果を聞けば、1日が単純に幸せで、そうじゃない日は24時間互いに口角の下がった顔を見合う様な時間を過ごしていた。そんな顔をしていると余計悪い事が起こりそうで、どうにか気持ちが晴れないものかとお互いに相手の台詞に期待をして、会話をしたりしていた。でも、あんな時、気持ちが瞬時に前向きになる魔法の台詞なんてそうそう思いくワケもなく。ただ、何となくの会話を繰り返すだけにいつもとどまった。それでもあの心臓手術直後のような息の吸い方がよく分からなくなる程の気詰まりは無く、むしろあの状況を乗り越えたんだから、という自信がどこかにあるような感じだった。だから、胸が開いたままの状態であっても、あの子がむくみの取れた小さな顔と手をたまに動かしてくれる度に目の前の現実が幸せで、みんなの笑顔になれた。ほんの少しのリハビリも始まっていた。薬で動かないようにされていたあの子の体はどこもかしこもカチカチに固まり、筋肉も無い。むくみが取れた後の腕や足は、あんなにパンパンだったのが嘘のように本当に小さくて細かった。1週間に数回、10分程度ベッドの上でリハビリ。リハビリの先生があの子の手足の稼動範囲を確かめるように、慎重に慎重に動かす。完全に動くようになるかは分からないと言われていた細い小さな手足はカチカチで、ほんのちょっと浮かせるだけでも、火がついたように擢斗が泣く。呼吸器につながれたあの子の声の無い泣き顔は、切なく、苦しい。慣れないマッサージに嫌がり、泣く。カチカチ手足は、どれだけ痛かっただろうか。『頑張って柔らかく戻そうね。』優しく先生が話しかけながら、担当の看護師さんと、呼吸器の数値と、擢斗の顔と、沢山の注意を払いながらジッと見ていないと気づかない程のほんの少しの動きを繰り返す。何度も何度も中止になっては、次のリハビリの日を待った。泣いてしまうと、呼吸が乱れる。酸素を取り入れられなくなり、あっと言う間に青い顔になる。あの子にとっては嫌で嫌でたまらない時間だったリハビリは私達にとっては希望が溢れた時間だった。あの時間はいつも大きくなった時のあの子をいつも想った。
2009.01.19

1年を通して様々な行事がある中、12月はあの子が生まれた9月末から数えて2度目の大きなイベントがある月。ハロウィンの時は行事を気にするような余裕が私たちには無く、眠っているあの子の横できちんと行事を楽しんだよという証拠のように仮装をした先生や看護師さん方が置いていってくれたキャンディの詰め合わせをを渡されて、自分の余裕のなさと、親として1つ1つのイベントを大切にできていない事にがっかりしたような気持ちになった。そして12月。病院内、ICU内、ハウス内にも、日に日にクリスマスらしいものが増え、今度こそあの子にもイベントに親子で参加したよという結果を残したい。そう思うと、毎日やりたい事が次々に頭に浮かんで、消えた。長靴、手袋、玩具…ツリー、イルミ、音楽…1歳にもならないあの子にとっては親の自己満足のようにも思えたけれど、それでもあの子が喜んでくれそうな事は全部したい。呼吸器が付き、動けないあの子にも当てはまるかどうかを考えて、無理なものは、少しづつ省いた。省いたものは又来年、出来るようになったものを足せばいい。履けないブーツ。外に着て行くコート。動かして遊ぶ玩具。大きなツリーも、医療器具の邪魔になる。大きな音も、他の患者さんの迷惑になる。その他諸々。まだまだ、省くモノの方が断然多い。私も、旦那も、母もそれぞれに、そんな足し算と引き算をしながらクリスマスを想い描き、準備をした。
2008.11.30
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