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元寺小路(もとてらこうじ)元寺小路と聞くと、仙台駅の近くに昔からあるカトリック元寺小路教会が思い浮かぶ。今の建物は比較的新しいけど、1877年(明治10年)に開設された歴史のある教会だ。この教会が建っているかつての元寺小路は、市街地のかなり中心部を東西に延びていて、その中程を南北に走るJR線が分断している。このうちJR線の西側にあった元寺小路は、昭和45年2月1日の住居表示で、仙台市青葉区花京院一丁目、中央一〜二丁目、本町一〜二丁目という住所に変わっている。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)より〕ここはいわゆる「本町家具の街」と呼ばれている仙台駅西側の「元寺小路」。突き当りにカトリック元寺小路教会の白い建物が見える。一方、線路の東側にある元寺小路は、平成27年の区画整理の町名地番変更を経て、今も住所として使われている。仙台駅東側の「元寺小路」。手前の公園には「X橋車町通元寺小路公園」という名前がついている。辻標「茂市ケ坂/元寺小路」には、町名の由来が次のように書いてあった。「元寺小路」・県庁や錦町公園、白百合学園(※)などがある段丘は、仙台城の鬼門(※)にあるので、定禅寺や満願寺などの寺が並んでいた。・この段丘下に沿った東三番丁から車町までが寺小路で、仙台八小路のひとつ。・寛永14年(※)頃、寺の一部が移され侍丁となると元寺小路と呼ばれた。・小路の名は寺町や侍丁につけられた。※白百合学園は移転し、跡地には東北電力本社ビルが建っている。※鬼門とは、北東の方角とのこと。※寛永14年は1637年。藩祖伊達政宗が没した翌年にあたる。かつての元寺小路あたりを歩いていたら、広瀬通と家具の街の間の公開空地のようなスペースに、案内板「元寺小路周辺地域の歴史」という案内板があり、とても詳しい解説があった。(以下抜粋)「寺小路はこの時代に城下北東段丘面の辺縁部、仙台城鬼門の守りとして伊達由来の社寺を配置し設けられた町である。開府時は西側の段丘辺縁には社寺及び中級藩士・同心等の侍町、東側には主に職人町が配置された。その後、寛永5年(1628年)に政宗晩年の居館若林城(古城=現宮城刑務所)が築かれ、これに伴い市街の東方への拡大(荒町、柳町の移転)が行われた。その後、寺小路東側にあった寺院が八ツ塚(新寺小路)に移転、市街東縁の守りとした。このため旧来の寺小路を元寺小路と呼ぶようになった。(以下略) 本町二丁目街づくり協議会 水野達夫」もともとは仙台城に災いが入ってこないようにお寺を並べた通りだから「寺小路」。後に若林城造営による城下町の拡大でお寺が移転したので「元寺小路」になった、ということらしい。今の道筋に当てはめると「元寺小路」は赤のラインになると思われる。
July 27, 2024
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ロサンゼルス国際空港(LAX)を午後5時に出発する羽田行きの飛行機(全日空NH125便)に乗った。以前はもっぱらロサンゼルスを昼頃出発し、翌日の夕方に成田に着く便に乗っていた。成田に夕方着けば、その日のうちに自宅に戻ってゆっくり眠れる。時差に弱い僕にはとてもありがたい時間設定だとずっと思っていたし、そもそもこれ以外の便があることを知らなかった。だけど今回、ロサンゼルスを夕方出て、次の日の夜9時頃に羽田に着く便があることを知り、乗ってみた。理由は、これならアメリカを発つ日の朝をゆっくり過ごせるかも…と思ったから。出発の日、僕は少し早起きしてスーツケースをざっくりまとめた後、今回お世話になったご夫婦に、家の近くの「IHOP」という名のパンケーキのお店に連れて行ってもらった。ご夫婦行きつけのお店らしく、中南米出身の陽気なスタッフとのジョークの応酬を、おそらく半分くらい理解しながら、ソーセージ&エッグのコンボ、そしてコーヒーという朝食を楽しんだ。色合い的にあんまり美味しそうに見えないかもしれないけど、これは僕の大好きな組み合わせ。とても美味しかった。そして昼頃、ご夫婦との別れを惜しみつつ、予約した時間ぴったりに迎えに来てくれたエアポートシャトルに乗り込み、ロサンゼルス国際空港に向かった。期待した通り、早朝からバタバタしなくて良かったし、空港に向かうフリーウェイの朝の渋滞に巻き込まれることもなかった。さらにありがたかったのは、機内で眠る努力をしなくても良かったこと。この日は羽田空港の近くに泊まることにしていたので、日本に着いたら“あとは寝るだけ”。だから残った体力を機内で使い果たしても全然平気。飛行中はむしろ「寝てしまったらもったいない」くらいの気持ちで10時間ずっと映画を観ていた。余談だが、4〜5本映画を観た中で、僕自身意外だったけど子供向けのミュージカル映画「アニー」が一番心に残った。(羽田への着陸に向けて降下を始めた頃の機内)日本の航空会社は機内に入った瞬間から日本に帰った感覚になれるので気分的に楽だった。ANAを選んで良かったと思った。円安のせいで日本の航空会社が割安になっているのだろう。行きも帰りも乗客の2/3くらいが外国人旅行者のように見えたけど、CAさんは日本語と英語を見事に使い分けながら落ち着いた接客をしていて、機内の空気は終始「日本」だった。飛行機は順調に飛び続け、羽田には予定よりも早く到着した。入国手続をさらっと終えた後、ホテル近くのコンビニでペットボトルのカフェオレを買って、チェックイン。朝までぐっすり眠った。
July 20, 2024
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表参道駅の近くから始まる「高樹町通り」。「骨董通り」とも呼ばれているこの通りを歩いた。路面電車(都電)が1967年(昭和42年)まで走っていたそうで、道幅は割と広い。表参道駅側からこの通りに入り西麻布側まで歩くと、突き当りの交差点の名前も「高樹町」となっていた。今の南青山6丁目あたりが昔の「赤坂青山高樹町」だったようだ。ここからは、母から聞いた話になる。裏取りは後回しにして取りあえず聞いたことを書き残そうと思う。母いわく…高樹町は、この町が「高木さま」というお殿様の町だったことの名残り。母の父(僕の祖父)は戦中、徴兵されるまで高木家のお屋敷で執事として働いていた。祖父の家は先祖代々、高木家にお仕えしていたらしい。高木邸は、三笠宮妃百合子様のご実家で、百合子様のお父様は高木正得(まさなり)子爵。高木家の敷地は広く、祖父がお仕えしていた頃は、そこから得る家賃収入も経済的な支えになっていたと聞いたことがある。祖父の家は高木邸に近い笄町(こうがいちょう。今の港区西麻布)にあり、母はそこで生まれた。母の話は概ねこのような内容だった。今回、この話をたどるつもりで「高樹町通り(骨董通り)」を歩いてみたが、通りの雰囲気は「南青山」以外の何物でもなく、母の話を思わせるものは見つからなかった。ただ、通りを一本入った根津美術館周辺には少し谷のように下がっているエリアがあって、そこには当時の面影と言っても良いような雰囲気が漂っていた。都内を歩いていると、幹線道路から1本横に入っただけで、懐かしい空気感に溢れる場所に入り込むことがかなり頻繁にある。東京という都市の奥深さを感じた気分になれて、いつもながら心地良かった。
July 13, 2024
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楽天イーグルスのホームゲームを1塁側のフィールドシートで観戦した。試合が始まると、このシートからは一塁ランナーとピッチャーのジリジリとする駆け引きが一直線。真後ろから見ることができたので、かなり興奮した。学生野球をしていた頃、僕は塁に出てからの動きがかなり下手で、牽制球でアウトにならないだけで精一杯。投手にプレッシャーをかけるなんてギャンブル過ぎてできなかった。だから、強豪校の試合や社会人野球があると、だいたいこんな感じの場所に座って、塁上の選手の動きをじっと見つめていた。野球はもうやっていないので学習する必要はないのだけど、何と言っても目の前にいるのはプロ野球選手。気持ちだけ昔に戻って最高レベルの離塁技術を堪能させていただいた。なかでも凄まじかったのは7回に代走で登場した楽天の小深田選手。二塁に向けてスタートを切るかのような仕草を何度もチラつかせては牽制球を呼び込み、投手の集中力を確実に削いでいった。それでいて、投手の警戒をものともせず二塁への盗塁を敢行。その後、やや平常心を失った投手の暴投で三塁へ進塁。併殺崩れの間に決勝点となるホームを踏んだ。試合後半から雨が強めに降ってきたのでカメラに残せなかったことが残念だったけど、投手を翻弄しまくった小深田選手の走塁は、この日の勝因と言っても良いくらい見事だった。(帰塁する楽天の岡島選手と西武のボー・タカハシ投手。一塁手は山村選手)どの走者もぎりぎりアウトにならない自分なりの離塁幅を持っていて、しかもその「ぎりぎりアウトにならない」タイミングは、毎回本当にぎりぎりで、それでいて慌てて帰塁する場面には試合を通して出会わなかった。プロって凄いなぁ…と改めて思い、現役の頃にこれを見ていたら僕ももう少し上手になれたかも…とも、今さらながら少し思った。
July 6, 2024
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