本を読めば『道は開ける』

本を読めば『道は開ける』

究極の大乗仏教・浄土宗



このことの意味は、

死んだら真宗のお坊さんを呼んで、お経を詠んでもらう

というぐらいの意味でしかない。

たいていの家では、仏教の○○宗の檀家になっているの
であろうし、仏教に対しての付き合いも私と同程度の
レベルの人が多いのではないだろうか。

さて、この私の実家が属している浄土真宗なのだが、
真宗をはじめとする浄土宗に連なる宗派の元々は、有る意味

究極の大乗仏教、いや究極の宗教なのではないか

と思えるようになってきた。

(注)これから述べる「浄土宗に連なる宗派」とは、鎌倉時代に
 興った、浄土宗やそれに関係する宗派について述べるのであり、

 現在の本願寺両派やその他の真宗派、浄土宗に関連する宗派
 のことについてではない。

なぜなら、現在のことについて、私は全く知らないからである。

というわけなので、よろしく。

釈迦が創始した仏教は、

出家をし、自己修行の末に煩悩や苦悩などからの解脱を目指す

というものであった。

だが、やがて、

出家や修行をして悟るのは大変なので

悟った人を拝むことで、救われることにならないだろうか

という大乗仏教が隆盛になってくる。

大乗とは、多くの人を救えるという意味であり,それに対して
自分一人しか救えない自己修行で悟る仏教を小乗仏教と呼んでいた。

浄土宗の何が究極なのだろうか?

浄土宗(に関係する宗派)というのを簡単に説明すると、

「浄土宗は、「南無阿弥陀仏」を唱えることで、死後
阿弥陀如来が住む極楽浄土に転生して、そこで解脱することができる。

修行などの自力に頼ることなく、阿弥陀如来の絶対的な
力(他力)を信じるだけでよい。

極楽浄土に生まれ変わるには、現世で善行を積む必要は
必ずしも必要ではない。「南無阿弥陀仏」と唱えていればよいのだ。
(法然・浄土宗)

修行をして悟りを開こうなどというのは、阿弥陀如来の他力を
信じていない証拠であり、そんなことをするよりは、自力でなんとか
しようとは思っていない悪人の方が極楽浄土に行けるのである。
(親鸞・浄土真宗)

いや、「南無阿弥陀仏」と唱えることさえ自力修行である。
そんなこざかしいことをしなくても、すでに阿弥陀如来の他力に
よって、私達は極楽浄土に行くことが決定されているのである。
なにもせずによいのだ。
(一遍・時宗)」

ユダヤ教はユダヤ人だけの宗教である。イスラム教はアラーを
信じる者だけの宗教である。キリスト教は、神に救われるためには、
神を信じることからはじめなければならない。

だが、浄土宗は、一遍の時宗によって

悪人だろうが善人だろうが、信じようが信じまいが
、南無阿弥陀仏を唱えようが唱えまいが、誰であろうと
阿弥陀如来の絶対的な力で、極楽浄土への往生は決定されている

つまり

何もしなくても「救われている」

ということになってしまったのだ。

これって、究極の宗教ではないだろうか?


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: