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最近、ちょっとカラダが何かを治すためによく働いたときがありました。それは、私自身が内側に傾倒しすぎていたかな、と感じさせられる出来事でした。カラダがよく働いていても元気だったので、その最中からストレッチやヨガを再開してみました。すると、やっぱり調子いいですね♪内側を意識することとカラダを意識しないこと、それはイコールになり得ると思います。けど、内側を意識することとカラダをメンテナンスすることもまた、イコールになり得ると思います。カラダを有効活用するためには、やはりメンテナンスは大切です。内側がより静かになります。先日、ブリッジがまたできるようにななりました♪お肌の調子も良くなりました(笑)
May 31, 2010
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人に本気になってもらうにはどうすればいいのか?欲求(ウォンツ)を刺激する言葉?必要性(ニーズ)を納得してもらう?自分自身の本当の思いに気づいてもらう?目的のための手段はいろいろあるかもしれません。けれどもこの答えは、私自身が本気になること。なのだと思います。私自身がほんとに本気に取り組み、誰かに本気になってもらいたいなどという自我を手放した時、それはきっと成し得るのだと思います。同じような気づきを幾度となく繰り返し、少しずつ、少しずつ、一つに戻っていくような気がしています。
May 30, 2010
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それは叶わないことではないのです。叶えるために何が必要か、何をするべきなのか、ただ観じること。そのヒントとなるようなことを、私は伝えたつもりでした。自我を手放して、心を静かにして、本当にやりたいと観じることをするだけでいいのです。ほかにもやりたいと感じることがあるかもしれません。自我の誘惑に惑わされることなく、本当の部分だけを意識してみてください。そのためだけの時間を取ってみてください。きっと、新しい気づきがあることと思います。本気で取り組んだ時、今までと違う何かに気づくかもしれません。それは、もしかしたら最初は苦しく感じることかもしれません。あるいは、楽しくて、心地いいものかもしれません。まず、本気で取り組んでみてください。そういったことを、私は伝えたかったのかもしれません。
May 29, 2010
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喜びを分かち合いたいと思ってしまいました。過去の経験から思い込みが生まれ、そこから未来を想像して思い込みが生まれ、不確定な未来を想像してしまいました。結果、期待や思い込みと異なることが起きた時、焦りが生まれ、のちに後悔生まれてしまいます。結果は着目するべきではないもの、あるいは、着目すべき結果は別のものであること。それを勘違いしないこと。その時できること、その時やるべきことに集中できたかどうか、それが大切で、結果は然るべきものになるはず。自我を手放すこと。それは隙間を作ると、容易に入り込んできてしまうもの。どうしようもなく感じてしまった時も、心を静かにして、観じてみると答えはやってくるようです。
May 28, 2010
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その求めることを忘れないことが大切だと思います。その思いの強さ、思う時間が長いほど、実現が近づくのだと思います。目的の未来を観たら、後は容易に恐れに変わりやすいそれを手放し、今できること、今やるべきことに集中する。それはなにかと自分に尋ねてみる。それを実行し続けること。委ねてみること。ほんとに自分はそれに向かって歩んでいるのだろうかという恐れを手放す。揺れた時、ない世界を創ってしまいます。恐れが去ったら、残るものは一つしかないようです。
May 27, 2010
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良い、とか、悪い、とか、何かを感じているということは、心が反応しているということだと思うのですが、それがある時、毎回いろいろなことに気づかせてもらっているような気がします。今回も、とある状況になったのですが、とらえ方によって、良い、とも、悪い、とも、意味をつけることができます。意味をつけることに意味はないように感じているので、どうだった、とか感じることも、こうだったと意味づけることもしませんでしたが、あぁ、これかぁ。という気づきはありました。それが正しいとかそうでないとかという意味づけも不要です。私の胸の内は静けさで満ちているようです。
May 18, 2010
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善悪の実を食べると、死ぬ。これは、悪いことをしたら罰せられるという意味ではありません。善と悪、対極のものを知ると、二元論の世界を創ると、生と死を知ることになる。本来は死などなく、永遠で無辜(罪のない)の存在なのに、死を現実にしてしまうので死んでしまう、ということらしいです。いろいろな教えや解釈があり、時には神さまは残酷だ、なんて感じるような教えや解釈もありますが、どうやらそれらは間違いのようなのです。神さまは完璧であり、咎めることもなく、ただ、在る。キリストの磔刑が教えようとしたメッセージは、どんなかたちの迫害であれ、それを感じとる必要はない、なぜならあなたは迫害され得ない者だから。もし怒りで対応するなら、あなたは自分を壊れ得る者と同一視することになり、自分に狂った目を向けることになる。これを教えてもらわなければ、キリストがすべての人の罪を請け負った、という解釈にも反論はできません。反論するつもりはなくとも、鵜呑みにして受け取っていたと思います。すると、天罰も存在し、恐れが生まれます。磔刑のメッセージは完璧に明晰である。愛だけを教えなさい。なぜなら、あなたは愛であるから。もし磔刑にべつの解釈をするなら、あなたはそれを本来、意図された平和への呼びかけではなくて、攻撃の武器に使うことになる。神の使者紫色はP318より上記の本が真実かどうかは私にはわかりません。けれども、違和感がなく、癒され、平穏があり、惹き込まれてしまう本なのです。
May 5, 2010
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