太宰 治
「どうしても、家に酒を置いておくと気がかりで、そんなに呑みたくもないのに、
ただ、台所から酒を追放したい気持ちから、がぶがぶ呑んで、
呑みほしてしまうばかりで…」

酒席の太宰の姿を求めて、戦前から三鷹にある寿司店『美登里家』の明治生まれの先代の主人・橋本正作翁は、
「うちは昭和14年4月の開店だから、太宰さんは最初のころからなじみの客だな。
いつも若い人を2人ほど連れてきてテーブルに陣取って、昼間から酒を飲んで文学談義さ」
また、
「何か書いてるとは聞いていたけど、こっちは学がないから、
文学なんてわかんないし、そんなに有名な人だとは思わなかった。
むしろ太宰さんが死んでからのほうが大騒ぎさ
言葉つきもやさしくて、気心のいい人だったよ。
タバコをテーブルの下に押し付けてもみ消すのには、閉口したけどね。
背がすらっとして、二重廻しを羽織ってね。
つまむ物は刺身か酢の物くらいで、専ら酒を飲んでいたな」
翁の横で、当時極めて珍しく女職人として寿司を握り、出前に歩く翁に代わって、
店を取り仕切ることが多かった奥さんの松江さんが頷いていた。



その松江さんが言う。
「そうですね、太宰さんは月に5~6回、それ以上は来ていましたかね。おとなしい人で。 いえ、そんなに女の人にもてそうな感じでもなかったですよ。その頃うちで出していた酒ですか?爛漫でしたね」

秋田産の美酒『爛漫』はやや甘口で、当時の客に受けのいい酒であったという。
弘前高校時代から酒に親しんでいた太宰にとっては、
同じ東北の酒としてごく身近に感ぜられる味わいを持っていたと想像できる。
と、ここまで三鷹の足跡を追って、案の定というべきか、台所の酒を追放するためだけでなく、
先生、外でも大いに飲んでいたのが実証されている。
戦後は、ある座談会で顔合わせしたのを機に、坂口安吾、織田作之助とすっかり意気投合、
銀座界隈でさかんに気焔を上げた。
一方では、古き酒友・壇一雄とも変わらず杯を傾けあっていた・・・。
さて。もしここで改めて太宰に、「なぜ酒を飲むのか?」と尋ねたら、彼はいったい何と答えるだろう。
「酒ハ酔ウタメノモノデス。ホカニ功徳ハアリマセヌ」
これは「右大臣実朝」中で太宰が実朝に言わせた台詞だが、であってみればこそ、
“台所から酒を追放するために飲む”
とでも大義名分を立てねば、気の弱い太宰は生活に追われる新妻を横目に、とても悠々飲んでいるのではなく・・・。
それこそ、とても酒なしにはやってられない気分に・・・。
あれ?
この理屈変だゾ。
・・・酔いが回ってきた。
昭和3年の開店以来、「ルパン」を訪れた作家は数多い。
戦前は泉鏡花、菊池寛、久保田万太郎、川端康成など。
戦後は無頼派の太宰、織田作、安吾をはじめ、
川口松太郎、舟橋聖一、井伏し鱒二、石川達三、開高健、野坂昭如らがカウンターでグラスを傾けた。
野坂昭如の「幻想酒場・<ルパン・ペルデュ>」によると、昭和20年代には地方の学生でさえ、
文学者の溜まり場であるルパンの名前だけは知っていたというぐらい、有名な店だったとか。
店主の高橋武氏によると、
「戦後すぐは、売るお酒がないのでコーヒーを出していました。
それでも時にウイスキーが手に入るので、夕方にはコーヒーカップで酒を飲んでいる人がいたものです。
ウイスキーといっても、サントリー、ニッカは超高級品で、キングとかアイデアルでした。
太宰さんはそれを飲みながら、ヒロポンを打っていましたね」
と語っている。
当時は丸瓶のサントリーでも大変な値打ち物だったのである。
今はマティーニなどのカクテルも一般的になったが、戦後暫くはストレートとハイボールが主流。
作家のなかで、カクテルを好んだのは安吾。
彼はゴールデン・フィズを、何杯もお代わりしたそうだ。
このカクテルは、ジンフィズに卵黄を加えたもので、口当たりが良く、栄養がつくようなきがしなくもない。
それで好んだのかも・・・。
作家ばかりでなく、
画家の岩田専太郎、映画監督の小津安二郎、俳優の宇野重吉もルパンが贔屓(ひいき)だったという。


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