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親がいて、祖父母がいて、愛され育てられて大人になるのです。ですから育ててくれた親を大事に思う、その親を産んでくれた祖父母をまた、大切に思う。そこから先祖代々の血脈にいたる血筋を大切に思う。これまた万国共通のあたりまえの人間感情です。
大人になった男女は、巡り会い愛し合って子が産まれます。子を愛し、子のために良い未来をと考えるのも、人として、これまたあたりまえのことです。
人が生きているのは現在です。現代を生きる知恵として、過去に学び、より良く生きることによって、未来を築く。これまた人類普遍のあたりまえの人間感情です。
これを否定するのが共産主義だと言われています。ではその共産主義思想とは何かといえば、これを唱えたマルクスによれば、それは「ユートピア」の建設を求める社会思想なのだそうです。
「ユートピア」というのは、人が造る「地上の楽園」です。そこでは人々に貧富の差はなく、互いに手を携え、あらゆる制約から解放されて幸福な生を享受することができるのだそうです。
その「地上の楽園(=共産社会)」を築くために、富を独占している富者と闘争し、その富を取り上げ、貧者に再配分する。これには、強制的な大きな力が必要なので、それを国家規模の強制力で実現するというのが社会主義思想です。
社会主義は、共産社会建設ための前段階であり、理想はあくまで「地上の楽園」にあります。そして地上の楽園を目指して、すすんでいまある社会を破壊する。だからそれは「社会の革新」であり、社会を進歩させる「進歩主義」だとされています。
ところが、共産主義において、その地上の楽園である「ユートピア」が、いったいどのような社会体制をもったところなのか、という点については、共産主義を信仰する個々人の夢想に委ねられています。つまり、目指す先の具体的姿は、描かれていないのです。
その一方で、事前の策として、富者と闘争し、その富を奪い、貧者に再配分するということは、現実の出来事となります。これは簡単に言ったら、お金持ちが財産や美しい女たちを独占しているのはけしからんから、奴らを殺してオレたちで富も女も再配分しようではないかというのですから、乱暴な話です。
そもそも富というのは、そこに「ある」ものではありません。人々の努力と協力によって築かれるものです。従って、金持ちを打ち倒してその富を配分しても、その富を新たに産み出す努力がなければ、再び貧しさに逆戻りとなります。わかりきったくらい、単純な話です。
しかも中には、要領よく立ち回って、再配分し消費された富を巧妙に回収して富者となる者もあらわれるわけで、そうなると再び富者が富を独占しますから、社会主義はどこまでいっても地上の楽園としての共産主義には至りません。子供でもわかる単純な理屈です。
ところが悪いことに、この思想は、「富者を倒し、富を奪う」という概念が正当化されています。このことは、暴力や強盗や殺人鬼や権力のために自己肥大した政治家等にとっては、きわめて「都合の良い」思想です。つまり最近の流行語でいえば「愛国無罪」で、したがってソ連を打ち立てたレーニンやスターリン、あるいは中共を建国した毛沢東などが共産主義者であったことは一度もなく、むしろ邪魔者は消せとばかりの大量殺戮と、肥大化した自己陶酔による他国への軍事侵略ばかり起こしていたことは、歴史が示す事実です。
要するに共産主義というのは、単なる「破壊主義」、「権力主義」しか招かないわけで、どこまでいっても夢想する「地上の楽園(=ユートピア)」は、やってこない。このことも、20世紀という壮大な実験の結果が見事に証明してみせています。
にもかかわらず、共産主義が「革新」であり「進歩主義」というのは、寝言でしかない、ということです。共産主義による「地上の楽園(=ユートピア)」は、どこまでいってもやって来ません。
では、保守主義はどうなのでしょうか。欧米で保守主義といえば、「保守主義の父」と呼ばれるエドマンド・バークが有名です。彼は、保守を「剣を抜く騎士道」と説きました。そこから派生して、彼の説く保守は「戦闘的イデオロギー」と呼ばれています。
バークの有名な言葉があります。
1789年にフランスで革命が起こった時、暴民に囲まれてヴェルサイユ宮殿からパリに連行されるマリーアントワネット王妃の恐怖と悲しみを思い、『義に馳せて剣を抜け!』と訴える、戦闘的な荒ぶる魂なくしては保守主義とは言えない。
さらに彼は次のように続けます。『他者のために自らの生命を捨てる覚悟で義を貫く勇者の倫理こそ、高貴な自由と美徳にあふれた社会の根幹をなすものである』。これがバークの主張です。
つまり「高貴な自由と美徳にあふれた社会」の形成のために「戦う意思」を持ち、現に戦うのが保守だ、とバークは述べているわけです。問題はその「高貴な自由と美徳にあふれた社会」で、これは何かというと、西洋ではそれは「神のもとに還る」ことを意味します。
どういうことかというと、西欧では、キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、ギリシャ教であれ、ロシア正教であれ、唯一絶対神です。万物は、その唯一絶対神によって創造されたと考えます。人間も神によって創造されたものです。
創造されたばかりの人間は、神によって庇護され、自由、平等、博愛に満ちた祝福された絶対幸福な生活を送っていました。エデンの園です。エデンは「神のもとの楽園」です。
ところが人間は、神に与えられた禁(タブー)を犯したことで、楽園を追放されます。これが人類の「原罪」です。「原罪」を負った人間は、神によって男には労働の苦しみ、女には出産の苦しみという罰が課せられています。
バークのいう「高貴な自由と美徳にあふれた社会」というのは、そうした信仰上、人間が放逐される前にいた「神のもとの楽園」を意味しています。つまりそこに還るというのは、「神のもとへ回帰する」という意味です。
つまり共産主義と異なるのは、共産主義が神の手を離れて、人類の力で構築する「ユートピア」を目指そうというのに対し、バークの楽園は「エデンの園」という人類の原点に回帰しようとする思想であるということです。
人類がその勝手な考えで、社会制度を構築したり、自由だ平等だといって社会革命を行うこと自体が、バークにとっては神に背く不埒な行為であり、だからこそ、変えようという動きにたいしても、現状を維持しようという動きに対しても「剣を持って戦う!」とういう姿勢になります。
そもそも西欧型保守思想というのは、常に「神学」と一体のもとにあるわけです。簡単に色分けすると、保守主義は、神学に基づき、現在も過去も未来も否定し、剣をもって戦いながら神のもとに還ろうとする。共産主義は、神学を否定し、人類の力で未来にユートピアを築こうとする、という違いになります。
いいかえると、西欧における保守と革新の戦いは、「神学」と「科学」の戦いでもあるわけです。バークが非難したフランス革命は、人々が中世的支配を脱し、「自由、平等、博愛」に基づく社会を人の手で築こうとした革命です。これは、本来神のもとに回帰しなければならないとする神学の立場からすれば、人類の傲慢です。だからこそバークは『剣を抜け!』『神のもとに還れ!』と主張したわけです。【 其の弐につづく
】
アメリカの一蹟学ハーバードのサミュエル・ハンチントン教授の論文「文明の衝突」が米外交誌「フォーリン・アフェアーズ」に掲載されたのは1993年のことだった。米国では有名な冊子だが、世界的に有名になったのは実は世界的に大論争が起こったからでした。
彼は冷戦時はイデオロギーが対立軸だったが、これからは文明文化が対立塾になると主張したのです。
そして西洋文明と対立する可能性としてイスラム文化圏、儒教文化圏(中国・北朝鮮)そして日本(文明)が名指しされました。いわば米国はそれらの国々と戦争することを予言したようなものですから世界中が騒然としたのも無理はありません。そしてその論文が著書となって有名になりました。
そしてその予言?は的中し当初ソ連とアフガンの戦いで米国がアフガニスタンに軍事援助していましたが9.11以後に米国はアフガニスタンに軍事介入したのでした。
ところがアラブの常識は西洋諸国の植民地戦略がアラブの国々に勝手に領土線引きをしたという認識があります。
それがクウェートやメッカやメジナという聖地があるところをサウジアラピアとして理不尽につくったことでメソポタミア文明とアラブ盟主イラクは当たり前の侵攻だけだった。ところがアメリカは石油のため軍事介入までしたのがイラク戦争だったのです。
もちろん文明の衝突は米国の一蹟学ハンチントンの見解で、米国の公式見解ではありません。米国としてはこの見解「文明の衝突」という言葉を極力避けるようにして、「テロとの戦いと」と呼ぶようにしているのです。