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1 誕生
アルフレッド・アドラーは1870年オーストリア、ウィーン近郊のペンツィングで裕福なユダヤ人穀物商の父のもとに生まれました。多くの兄弟の中で育ったことが原因で、アドラー心理学の理論は親子関係よりも兄弟関係を重視しているとも言われています。
実際私たちアドラー派のカウンセラーは、家族布置と言って家族の中の関係 特に兄弟関係をよく見ます。例えば、どこの家庭の長子でも、長子独特の似たような特性を持っていると思いませんか?
アドラーにはいろんな逸話が残っています。小学校の時に体の弱かったアドラーはその影響で、勉強があまりできませんでした。すると、当時のクラス担任がアドラーのお父さんにアドラーは知的に遅れている子だと言いにきます。
それを父親から聞いたアドラーは、「そうじゃないことを証明しよう。」と勉強を開始します。そして、学年の最後には、クラスで一番の成績をとるようになったのです。
この経験も、後の彼の理論、劣等生の克服・優越性の追求 を生み出す原動力だったことは間違いないでしょう。
そして、医者の道を志したアドラーは1895年にウィーン大学医学部を卒業後、開業医としてある程度の成功を収めます。
2 フロイトとの出会いと別れ
そんな彼が、フロイトの「夢分析」に触れます。精神分析に興味を持った彼は、1900年代の初期にフロイトの研究仲間となります。「夢分析」への批判に対して、アドラーが擁護したのが縁で、フロイトの勉強会、水曜会(後の精神分析学会)に呼ばれたのがはじめだと言われています。
1910年には精神分析学会の会長にも就任します。
しかし、そのすぐ後1911年にはフロイトとの学説の対立が表面化します。
会長となったアドラーがフロイトの学説と全く異なる説を唱えるので、学会内で「おかしいじゃないか。」となったと言われています。
アドラーは、9人の仲間(当時フロイトの学会は30数名だったという)と学会を脱退、自分たちだけの学会(後の個人心理学学会)を設立します。(2年後にはユングも脱退します。)
3 アドラーはフロイトの弟子ではなかった
一般に言われているように、アドラーがフロイトの弟子だったことは一度もありません。教育分析を受けたこともないし、研究仲間に入る前から開業医として自立していた彼は、フロイトと対等の研究仲間だったのです。
このことは、彼が「精神分析学会」に所属していたころからフロイトの学説とは全く系統の違う説(系統が違うと言うよりも、正反対のまさにアンチテーゼともいえる説)を唱えていたことからも分かります。精神分析学会のメンバーの約3分の1はアドラーの仲間で彼らがアドラーとともに「個人心理学学会」を作るのです。
フロイトとアドラーそしてユングという三人もの精神的な巨人がこの時期ウィーンで顔を合わせたことが歴史の妙だったのです。
4 個人心理学(アドラー心理学)の発展
フロイトと別れて、アドラー心理学はその独自の理論をより効果的に発展させます。アドラーは自分の心理学を「人間」を分割できない「個人」全体としてみるということから「個人心理学」と呼びます。
分割できない個人なのだと名称にわざわざつけたのは、フロイトが人間のこころを機械のように見立てて、複数の部品に分解してその相互の働きによって葛藤が起こると主張していたことに対する、明確なアンチテーゼ宣言だったのでしょう。
個人心理学はフロイトの学説のように「性」に偏向することもなく、ユングの学説のように神秘主義に偏向することもなく、人間の常識(アドラーは「人間知」と呼びました)に基づいて理論を発展させます。
その後第一次世界大戦が勃発します。彼は軍医として戦線に従軍します。この間アドラー心理学の発展は一時中止します。
5 チャイルドガイダンスセンターの設立
精神医学に興味を持つ前から、社会に関心の高かったアドラーでしたが、ロシア革命の現実を目の当たりして「マルクス主義」に幻滅します。
そして、「育児と教育によってのみ個人の改革は可能である」と考えるようになり、敗戦後のウィーンで世界初の児童相談所(チャイルド ガイダンス センター)を設立します。
この児童相談所は子どもや親の相談の場所としてだけでなく、教師、カウンセラー、医者の再教育の場としても機能し、アドラーは自分のカウンセリングを公開してみせました。
この児童相談所はオーストリア全土に普及し、ヨーロッパ全体にも設立が広がります。
6 国際的に注目を浴びるアドラー心理学
1920年代には「個人心理学」は心理学と教育の部門で国際的な地位を獲得します。後にアメリカでアドラー心理学を普及するドライカースもウィーンで活動をはじめ、オーストリア全土に児童相談所及びアドラーの弟子たちのクリニックができます。
ドイツの全ての主要都市及びオランダ、チェコスロバキア、ハンガリー、イギリス、アメリカに個人心理学の学会できるのもこのころです。
7 ナチスの台頭とアドラー心理学消滅の危機
しかし、1933年にナチスがドイツの実権を握ると、オーストリアにもナチスの手は伸びてきて1934年には児童相談所と実験スクール、各地のアドラー派クリニックが廃止されます。身の危険を感じたアドラーはアメリカに亡命し活動を続けます。しかし、1937年スコットランドでの講演旅行の最中に亡くなります。
そして、多くのアドラーの弟子たちはオーストリアやドイツに残されます。弟子たちの活動はしだいに制限され、個人心理学会の活動も縮小していき、アドラーの死とともに国際学会誌も廃刊に追い込まれます。
さらには多くはユダヤ人だったアドラーの弟子たちはナチスのホロコーストのために命を落としていくのです。ナチスの弾圧とアドラーの死によってアドラー心理学は、消滅の危機に見舞われます。
つづく
アドラー心理学を学びたい人は 東京のヒューマンギルド http://www.hgld.co.jp/ か 熊本こころ相談室 http://cocorosodan.jp/ へどうぞ!!
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