暖冬傾向で、ゴルフ場の予約が多い!
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
000000
HOME
|
DIARY
|
PROFILE
【フォローする】
【ログイン】
プーさん大好きな忘れん坊の母日記
恭一郎日記
交通事故って毎年どのくらいあるんでしょう。
たくさんたくさん起きているのに、みんな「自分には関係ないよ。」って思ってるんだよね。
私もそう思ってた。
まさか自分が、自分の家族がってね。
我が家は、この3年の間に、3回もの交通事故を経験した。
2回は大事にはならなかったけど、3年半前に起こった恭一郎の事故は、生死をさまよう大事故となった。
そして、そこで感じたことは「加害者天国日本」であるということ。
幸い、恭一郎は元気になって今は学校に行っている。
だからこそ、今、振り返って考えてみたい。
これを読まれるあなた。
あなたの時間、少しだけいただけたことに私は「ありがとう」って言いたい。
私は誰にも交通事故の被害者にも加害者にもなって欲しくない。
交通事故は、誰も幸せにはしないから。
2001年秋の夜。
それは、地元の秋祭りの前日で、子ども会集会の帰りでした。
恭一郎は、年下の近所の子と一緒に国道を渡ろうとして右から来る車に撥ねられました。
そこは、見通しのいい道路で、近くに信号のついた交差点があります。
しかし、その信号は歩行者の赤信号が長く、地元の大人たちもそこを使わず車を見計らって渡るようなところでした。
恭一郎は、普段もそうやって渡っていたらしく、その日も「渡れる。」と思って渡ったということです。
おそらくは、見通しのいい道路なので今までは車のほうが注意して減速してくれていたのでしょう。
しかし、その日はそうはいかなかったようです。
車の前面にまともに当たり、右側頭部を軽のハコバン前面で強打。
そのまま後ろに倒れ、左後頭部を強打。
数メートル離れていた兄が、その状況を見て、急いで集会所にいる役員さんに知らせに行き、近くの人が救急車を呼んでくれました。
すぐに、救急車で病院に運び込まれ、そこで意識不明となりました。
私は、電話でそのことを聞き、すぐに主人に会社から帰宅してもらい病院に駆けつけました。
丁度そのとき、恭一郎がストレッチャーに乗せられ、別室に運ばれていくところでした。
「ご両親ですか?こちらへどうぞ。」
担当となる医師から説明が始まる。
画像を見せられ、今の恭一郎の状態を細かく話してくれた。
私たちは、最初「大したことはないよね。」とそれ程重症だとは思っていなかった。
しかし、医師の真剣な顔と説明を聞いていくうちに、事の重大さを思い知った。
「今夜一晩、様子を見ましょう。もし、状態が悪くなるようならすぐに頭を開ける手術をします。それまでは、薬で出血が止まるかどうか様子を見ましょう。」
医師の説明の後、私は本当に倒れそうなくらい体の力が抜けた。
主人の腕に支えられるように、その部屋から出た。
よく、ドラマで「今夜が山です。」という台詞があるが、自分が現実にその言葉を聞くことになるなんて思いもしなかった。
恭一郎の様子がどうなるかわからないので、とりあえず私の実家の両親にだけ連絡をすることにした。
主人の母は、一人暮らしの上、高齢なので、連絡は控えた。
その電話も、私はとてもできなくて、主人にしてもらった。
急を聞いて、私の父と同居している弟がかけつけてくれた。
しかし、恭一郎の様子は時間経過で見ているしか方法が無く、本人のそばについていることもできないと言われた。
ロビーで待っていると、学校の先生が来てくださった。
どの先生も夜の遅い時間に来ていただいて、本当に申し訳なく思った。
子ども会の役員の方も、数人来ていただいて、落ち着くまで居てくださった。
加害者も来たが、その態度の酷さは今でも忘れられない。
「少しだけなら、お顔みられますよ。」
看護婦さんが呼んでくれた。
そこは、ICUのようなところで、重症患者が居る場所だった。
恭一郎は、一番奥のベッドで寝ていた。
顔は土色で、意識もないため、死んでいるのではないかと思うような顔だった。
私は、恭一郎を一目見て、それ以上は見ていることが出来なかった。
すぐに、部屋を飛び出してしまった。
そして、病院から帰宅するように言われ、翌日の朝、検査をするときに来てくださいと言われた。
何かあれば、すぐに電話で連絡しますからと言われ、一旦帰宅することにした。
家に帰っても、落ち着かない。
しばらくして、電話が鳴った。
「まさか・・・」
心臓がドキドキした。
「警察ですが、事故の件で・・・」
こういうときの電話は本当に心臓に悪い。
電話のあと、明日のこともあるので、そのままにしてあった家事を片付け、入院の準備をし、床に就いた。
電話を枕元に置き、眠れない夜を過ごした。
早朝、電話が鳴った。
(まさか・・・)不安がよぎる。
すると、主人のお姉さんからだった。
「今朝の新聞見たんだけど、まさか恭一郎君って・・・」
そう、地元の新聞に恭一郎の事故が掲載された。
重大事故で、恭一郎は重体と書かれていた。
新聞の場合、「重傷」は命に関わらない酷い怪我、
「重体」は命に関わるほど危険な状態なのだそうだ。
だから、「重体」と書かれた被害者は、次の日お悔やみ欄に掲載されることが多いのだそうだ。
その後、まもなく主人の母から電話があった。
母も、新聞を見たのだそう。
でも、私たちもまだ状況がわからないので答えることができない。
とにかく、病院にいって、検査結果が出るまでは何にも言えないのだ。
検査の時間は決まっていて、早く病院に行っても同じである。
かといって、家に居ても何も手につかないのではあったが。
病院に行く時間まで、結局何もできないまま時間が過ぎるのを待った。
検査の時間になり、病院へ到着。
結果は、難しい漢字がたくさん並ぶ傷病名でした。
『脳挫傷・急性硬膜下血腫・外傷性クモ膜下血腫・頭部外傷』
この他にも、肺が少し潰れているとの事でした。
しかし、出血は止まったので、開頭手術はしなくていいことになりました。
ただ、まだ余談を許さない状況は変わっていません。
恭一郎の意識は、少しだけ戻り、「おかあさん・・・」と言ってくれました。
本当に、嬉しくて涙が出ました。
でも、まだぼんやりしていて、周りの状況はわからないようでした。
主治医の先生から後で聞いた話では、昨夜の状態では、付き添ってもらう親御さんがおそらく大変不安とストレスを感じることになるだろうと言うことで、帰宅してもらったんだと言うことでした。
それくらい、事故後の恭一郎は酷い状態であったと聞きました。
それが、翌日意識を回復したのは、きっと恭一郎の生命力だったんだと、私は今でも思っています。
その日は、一日付き添いました。
夜になると、完全看護なのと、兄が家にいるので帰宅しました。
翌日、恭一郎の意識はかなり鮮明に回復しました。
これで、命の危険はないだろうということでひとまず安心。
まだ、表情はなくずっと寝たり起きたりしています。
そして、頭の痛みとの戦いが始まりました。
それは、脳の腫れから来る痛みで、痛み止めを投与されてはいますが、かなり痛いらしく、恭一郎は苦痛を訴えました。
私は、何もしてあげることができず、小さい頃してあげたように、
「痛いの痛いの飛んでけ~。」と何度かしてあげました。
すると、「なんとなく痛くなくなったような気がする。」と、私の手に自分の手を重ねながら言うのです。
「代わってやれるものなら代わってやりたい。」
本当にそう思いました。
そして、注射を何本も打つために、血管に入らなくなり、仕方なく、太ももの太い血管をとることになりました。
その前に、何度も注射針を刺され、失敗しているので、普段全く注射をされても平気だった恭一郎が、「まだするの?」と根をあげました。
それくらい、辛かったんだと思います。
その、太ももから血管をとる処置はかなり痛いとの事で、私は病室から出されました。
それでも、恭一郎は泣かなかったようです。
我慢強い子です。
それが、余計に可愛そうに思えました。
3日目。
驚くほどの回復力で、食事が取れるようになりました。
(普通なら、1週間しても吐いて食べられないのだそうです。)
そして、わかったのが「顔面麻痺」でした。
液体のものが、左の口からこぼれ出ます。
顔は酷くゆがみ、それはもう直視できませんでした。
(これは絶対治らない・・・)
私は、本当にそのときそう思いました。
それくらい、酷い状態だったのです。
でも、治療法は顔面神経に栄養を与える栄養剤の投与しかなかったのです。
その投与を続けながら、本人の自然治癒力で治して行くしか無いということでした。
主人も私も、そのとき二人で「あれは、絶対治らないよね。」と絶望的な話をしたものでした。
4日目
意識がしっかりしてくると、今度はホームシックが始まりました。
夜になると、泣いてしまい、時に点滴をつけているのに寝ぼけて立ち上がったりもするので、危ないのと泣き止まないので泊まりに来て欲しいと言われました。個室を用意してもらい、泊まることにしました。
小学5年生と言っても、まだまだ子供です。
怪我の痛みと、寂しさとどうしようもない不安が恭一郎を幼稚園児のようにしてしまいました。
私も、心配なので、夜泊まって、昼間少しの時間家に帰り、家事をしてまた夜泊まりに行くということを繰り返しました。
この頃、頭蓋骨の骨折に伴い、隋液の漏れが心配されました。
隋液というのは、脳を浮かばせている液の事で、頭蓋骨が割れることによって、その液が漏れ出すことがあるのだという事でした。
それが漏れ出すと、その場所から感染が起こり、ばい菌が脳に入ると、大変なことになると言うのです。
その髄液は、鼻や耳から流れ出すそうで、さらさらしていて、鼻水と間違えやすいので、気をつけて見ているように言われました。
なので、恭一郎が鼻を噛むたびに神経質になり、看護婦さんに見せたりしました。
そして、個室に移ってしばらくした日。
その日は、少し出かけるのが遅くなり、暗くなっていました。
部屋に入ると、恭一郎がしきりに窓に向かって何かしています。
「何してるの?」と声をかけると、
「僕の顔・・・変だ。」と。
そう、窓のカーテンを引いてなかったため、部屋の灯りはついていて、窓が鏡の役目をしたのです。
点滴をつけている恭一郎は、まだおしっこも管でとっていました。
だから、ベッドから動くことは無かったのです。
ですから、鏡を見ることも無く、自分の顔のことも知らなかったのです。
私たちも、うっかりしていました。
まさか、窓が鏡の代わりをするなんて。
「大したことない、すぐに治る。」
一番にそう言ったのは、私の父であるおじいちゃんでした。
こういうとき、母親は何も言えないものですね。
おじいちゃんに元気付けられ、その日はなんとか納得はしていないけれども治まったように見えました。
でも、この日から、恭一郎は笑わなくなりました。
笑うと、顔のゆがみが酷くわかることを自分で理解してしまったからに他ありません。
少し元気になった頃、お友達がお見舞いに来てくれました。
このときも、恭一郎は無表情でした。
顔のことは、本人にとってこのときかなりのショックだったことは、この事でもわかりました。
顔面の神経がやられていることで、耳にも障害がある疑いが出てきました。
簡単な検査では、異常が無いと言われていたのですが、結局それは右の耳で聞いていたのです。
精密検査をするために、大学病院に転院をすることになりました。
大学病院へは、検査入院ということで、3日間だけ入院することとなりました。
結果は・・・「左外傷性感音難聴・左外傷性顔面神経麻痺」
つまり、恭平の左耳は完全に聞こえなくなったということでした。
手術の道も最初は可能性としてありましたが、精密検査の結果、それをしても無駄だということがわかり、結局、恭平の耳は治らないと言うことがわかったのでした。
ショックでした。
本当にショックでした。
耳は二つあるんだから、片方聞こえなくたってなんとかなるじゃないか。
そう思う人もいるでしょう。
確かにそうです。
でも、やはり生まれたときに正常だったものが、なくなると言うことは親としてはかなりのショックなのです。
どんなにお金がかかってもいい、時間がかかってもいい、直す方法は無いのかと、先生にもお聞きしました。
でも、今の医学ではどうにもならないと言われました。
顔がこんなになってしまって、耳まで聞こえなくなって・・・
私たちは、本当に目の前が真っ暗になりました。
唯一の救いは、恭一郎がそういうことを気にしないというか、ある意味強い性格の子供であったことでした。
事故から、1ヶ月で恭一郎が奇跡の復活(?)を遂げました。
生死をさまよった子が、学校に行き始めたのです。
これには、誰もが驚きました。
しかし、いつ後遺症がでるかもしれないとお医者様からいわれていましたから、学校まで30分近くの道のりを、徒歩でお迎えに行く日々が1ヶ月近く続きました。
家でも一人にしておくと、発作が起こるといけないと言うことで、常に誰かは恭一郎の傍にいるようにしました。
精神的に、とても気を遣う日々でした。
この頃は、兄もかなり恭一郎に気を遣っていました。
学校に行く初めての日。
恭一郎が言ったことを忘れることができません。
「お母さん。今日、マスクしていこうか。」
顔のことは、日が経つにつれそんなに気にしていないのかと思っていました。
でも、恭一郎はずっと気にしていたんだなあって。
私はこう応えました。
「して行ってもいいけど、給食の時とか歯磨きのときははずさないといけないよ。その時に、どうせ顔は見えちゃうよ。」
それを聞いて、恭一郎はいいました。
「やっぱ、やめよ。このままでいいや。」
私は内心、「やっぱり、治るまでさせていったほうがいいのかな。でも、治らなかった、この子は一生こそこそした人生を送ることになるんじゃないかな。」そんな葛藤がありました。
だから、恭一郎自身に決めて欲しかったのです。
恭一郎が随分後になって話してくれたことですが、あの時、同級生は何も言わなかったけれど、(先生にお願いして、事前に同級生には話しておいてもらったからだとは思いますが。)下級生に、「ヘンな顔」とはやし立てられたこともあったそうです。
それも自分の気持ちで乗り越えて、強くなってくれたことが嬉しく思います。
幸い、半年くらいでかなり改善し、今は、笑わないとわからないくらいになりました。
それでも、卒業写真の笑顔を見ると、親にはわかるのでやはり少し切なくなってしまいますね。
病院での検査がすべて終わり、半年が経った頃、もうこれ以上は改善しないと医師から言われました。
それは、「症状固定」と言われ、これから先は治療をしても治らないから、今の状態を申請し、障害を認定してもらいそれに従って、慰謝料や逸失利益をもらうと言う事です。
私たちは何の知識も無く、保険会社からその説明を受けました。
そして、耳の障害を申請することにしたのです。
ある日、私は何気なくネットサーフィンをしていました。
恭一郎の症状固定に当たり、少しは知識が必要と思ったからです。
そして、あるホームページに出会いました。
そこは、交通事故の被害者を救済するNPOのページでした。
そこには、膨大な情報量とさまざまな体験をした方の書き込みがありました。
そして、読み進めて行くうち、「被害者請求」という言葉に行き当たったのです。
それは、保険会社に申請を任せてはいけないと言う内容でした。
(今は、方針が変わっていますので、注意してください。)
私は、少々慌てました。
そして、そのサイトにメールでその旨質問しました。
すると、すぐに返事が来ました。
しかし、その返事は意外なものでした。
「被害者請求の件を心配する前に、高次脳機能障害の検査を受けていないのが心配です。それを受けないと、本当の後遺障害はわかりません。」との事でした。
「高次脳機能障害???」
初めて聞く言葉でした。
病院の医師も、保険会社もそんなことは一言も言いませんでした。
あらためて、そのサイトで、調べました。
すると、恭一郎の場合、その検査が絶対必要であることが理解できました。
早速、保険会社にその検査をすることを連絡し、ここから私たちの後遺障害立証の戦いが始まったのでした。
NPOの方の指示どうり、まずは4つの検査を受けることにしました。
しかし、その検査は現在の病院では受けることができず、地元では大きな総合病院に担当医から紹介状を書いてもらい行くことにしました。
子供なので、小児科になりました。
脳波、MRI、スペクト、知能検査。
この4つの検査を受け、後遺障害診断書を書いてもらうのです。
検査のために、3日間の入院をしました。
スペクトと言う検査は、患者の身体に少なからず負担を与えるからと言う理由からでした。
そして、結果は、「疑わしいが異常とは言えない」と言う見解でした。
一番嫌な結果でした。
はっきりと、「異常なし」であれば、私たちもよかったねで終わるところでした。
しかしながら、異常値ではないが、少しおかしいと言う結果は、私たちを不安にさせ、おかしいのに後遺障害診断書には書けないというか、異常ではないといわれることに、どうしたらいいのかわからなくなりました。
でも、医者にそう言い切られると、何もいえません。
そして、この時行った知能検査で、恭一郎はADHDであると診断されたのです。
高次脳機能障害の症状と、ADHDの症状はある部分にているところがあります。
ですから、医者は口にこそ出しませんでしたが、明らかに恭一郎は事故の後遺症ではなくADHDのせいでこうなのではないかと言われているようでした。
2重のショックに、私たちは何も言えず検査結果を書いてもらい、仕方なく帰りました。
そして、その結果をNPOに報告し、指示を仰ぎました。
NPOの回答は、こちらの高次脳機能障害の病院を紹介するから、その為にそちらに行くということでした。
わざわざ、京都から来てもらえるということで、私たちはてっきり病院を紹介してもらえるものと思っていました。
しかし、そうではなかったのです。
恭一郎の検査結果の写真や資料を一通り見た担当の方は、この検査結果は持っていけない、やはり県内で一番優秀なのは大学病院です。だから、大学病院の検査結果なら持っていけるけれども、この結果では紹介しようにもレベルが低いからこちらの病院には持っていけません、と言われました。
『そんな・・・』
内心、愕然としました。
写真や、脳波なんて、どこでとっても同じじゃないですか。(私は結果として今でもそう思っていますが。)
あとは、その写真を見て判断する医師の目が優秀かそうでないかでしょ?
なのに、また大学病院で同じ検査なんて・・・
恭一郎の体の負担を考えると、それは正直嫌でした。
でも、担当の方はそうしてもらえないのなら、ここで終了ということになるということを言われました。
ここまで来て、打ち切りというのは、何のために検査を受けたのかと言う気持ちになりました。
しばらく悩みましたが、結局もう一度、大学病院で検査を受けることにしました。
そして、主人と相談し、検査の結果がどうなってもこの大学病院で出た結果を受け止めようと言うことにしました。
つまり、NPOの紹介の病院にはいかないということです。
なぜかというと、もし大学病院の結果がN病院の結果と同じで限りなくグレーであったとしたら、それはどんなに優秀な医師が見たとしても同じだろうし、結局恭一郎の状態が変わるわけではなく、医師の見解の相違だけだろうと思ったからです。
もちろん、はっきりと「高次脳機能障害」という診断名が書かれれば、後遺障害の等級獲得は容易になるでしょう。
でも、それを書いてもらうまで何軒も病院のはしごをすることは恭一郎の教育上もよくないことと思いました。
それは、この頃になると恭一郎は検査や入院で学校を休めることを楽しみ始めたからです。
大義名分があり、堂々と学校を休めて、珍しい病院の売店のお弁当が食べられたり、嫌いな勉強をしなくてよかったり、そういうことが慣れになってきつつありました。
検査は、身体に負担はかかりましたが、痛いものはありませんでしたから、恭一郎自身の苦痛はなかったのです。
この状況は子供にとって決して良いものだとは思えませんでした。
だから、私たちは親としてこれ以上恭一郎を引っ張りまわすようなことはしてはいけないと思いました。(もちろん身体への負担が一番心配でしたが。)
大学病院では、N病院で撮影したMRIと脳波を持って行きました。
最初、脳外科に行ったのですが、画像所見は異常なしということで、
神経のほうの問題かも知れないと神経科へ回されました。
簡単な問診の後、N医師と面談し、事情を説明しました。
そして、スペクトの検査を受けることと、恭一郎の記憶力を検査する問診をすることになりました。
次の診察日、恭一郎をつれて、診察を受けました。
スペクトは予約が取れないということで、後日行うこととし、その日は診察のみとなりました。
そして、その結果。
「記憶力に問題は無いが、注意力・集中力に問題があるのではないか。」
そうです。
隠していましたが、ADHDの疑いをもたれたのです。
やっぱり医師です。
隠していようがどうしようが、わかるのですね。
小児神経科であろう女性医師にバトンタッチです。
そして、それは見事に的中しました。
ADHDの問診票を書き、その日は帰りました。
そして、スペクトの検査を受け、そのままその女性医師の所へ結果を聞きに行きました。
結果、やはり恭一郎にはADHDの疑いがある。
記憶力には問題はない。
だから、後遺障害の診断書は書けない。
大まかに言うと、こういうことでした。
それでは、スペクトの結果に異常が出たら書いてもらえるのかと聞くと、
それも事故との因果関係がわからないから書けないといいます。
だったら、なんでスペクトの検査をしたの?って感じですよね。
で、私たちとしては、診断書を書いてもらえないと申請ができないわけですから、とにかく結果だけでもいいから書いて欲しいと食い下がりました。
しかし、いくら言っても首を立てには振ってもらえませんでした。
最後には、半ば喧嘩腰のようになってしまいました。
結局、スペクトの検査結果を知らせてもらうことを頼んで、病院を後にしました。
そして、数日後。
スペクトの結果が出たということをその女性医師は電話で知らせてきました。(普通、検査結果って電話で知らせるようなことはしないと思うんですが。)
結果は、軽度ですが脳血流に左右差が見られるということでした。
またもや、グレーの結果です。
そして、その旨診断書に書いてもらえることはまたもや無理ということで、最初の病院の主治医に書いてもらってくださいと言われました。
私たちは、そういうことを医師が言うということは、そういうことができるのだと思い、主治医に相談しました。
すると、主治医は、「他の病院で検査されたことを診断書に書くと言うことは、自分が責任を持ってそれを引き受けると言うことだから、それについて詳細を聞かれた場合、知識もないし答えることもできない。それは、責任を持つと言うことにならないから、書くことはできない。」と言われました。
最もな話です。
主治医は、こうも言いました。
「異常がないのなら、その通りに診断書に書いてもらえばいいと思う。」
その通りですよね。
私たちもそう思い、大学病院の女性医師にその旨伝えました。
すると、「事故から随分時間が経過しているし、他の検査結果、所見と合わせて考えても、脳血流が落ちていることと合致しないので全く関係無いと思われる。よって、スペクトの検査結果のみを書くことはできない。」と言うのです。
「しかし、スペクトで少しでも血流が落ちているのなら、それは何らかの原因があるのではないか?」というと、
「もともとそういう人(脳血流が落ちている人)はいる。」というのです。
とにかく、もう大学の方で決まったことだから、主治医に相談してくれの一点張りでした。
それで、会社に居た主人にそれを電話で言うと、もう一度主人のほうから電話してみると言って、病院に電話をしてくれました。
主人は、子供のことだから、自分たちは心配なんだ。
この先、何十年も生きていかなければならないんだから、異常が無いというのなら、異常が無いという診断書を書いてくれ。
何もかけないというのはおかしい。それなら、どうして検査をしたんだ。検査結果が、異常なのか正常なのかなんらかの診断は出るだろう。それを書いてくれ。というような内容のことを言ったそうです。
すると、異常がないというわけではないが、異常値ではないというようなあいまいな答えになり、挙句には、もう一人の先生(最初に見てもらった先生です)に相談しないと、自分の一存では判断できないから、木曜日か金曜日(そのもう一人の先生の担当日)にもう一度お話しましょう。と言うことになりました。
いい加減なものです。
大学病院ってこんなもんなのだと、なんかあきれました。
数日後、指定された日に主人と出かけました。
通されたのはその女性医師ではなく、最初に診察してくださった医師でした。
「事情は少し聞いています。どうも言葉の行き違いが有った様で、嫌な思いをさせてしまってすみませんでした。」
N医師の言葉は、謝罪からでした。
『言葉の行き違い???』
そんなものではないことは、お互いわかっていました。
でも、N医師にはそういうしかなかったのだと理解できました。
そして、「因果関係は不明」という一文を入れることで、診断書を書いていただけることとなりました。(しかし、このお願いには1時間もかかりました。)
無事?診断書をいただき、これでこの長い戦いから開放されると安堵しました。
正直なところ、大学病院までは車で1時間もかかり、そこを何度も往復するのは辛いことでした。
主人は、仕事が多忙で、毎日夜遅くまで働いています。
休みは週に一日しかなく、その休日である一日が病院通いで潰れてしまうのです。
いくら、自分の子供のこととはいえ、相当に辛かったと思います。
それから、開放されるのです。
きっと私よりもずっと、ほっとしたことと思います。
診断書ができたことを、NPOに報告しました。
すると、それを検証するのでFAXしてくださいと言われました。
すぐにFAXしました。
そして、結果は思いもよらないお答えでした。
「『事故との因果関係は不明』と言う文章があるとまずいから、削除してもらってください。」
「え???」
そんなぁ・・・聞いてないよぉ・・・
すぐに主人に電話しました。
そして主人の応えは。
「もういいだろう。自分はもう病院には行きたくないし、先生にもそんなことはいえない。」でした。
私は、正直涙が出ました。
私が不勉強だったのかもしれない。
でも、何度か電話でもアドバイスをもらっていたんだから、その時に書いてはいけないことは言って欲しかった。
正直そう思いました。
決して、NPOの方のせいにしてはいけないのだろうけれど、そう思ってしまいました。
そして、私も主人の意見は最もだと思いました。
その日のうちに、NPOの方にお電話をし、その診断書からその文章をはずしてもらうのは無理ですとお伝えしました。
すると、NPOの方は、「それでは、これで終了ということにさせていただいてよろしいでしょうか。」といわれました。
「はい、結構です。今までお世話になりました。」
そうご挨拶をして、電話を切りました。
これで、後遺障害の認定がどうなるかはわかりませんでした。
でも、私たちの親としての決断は間違っていたとは思っていません。
NPOの方は、最後に念を押して言われました。
「等級を獲得したいのですか?したくないのですか?」
したいです。
したいに決まっています。
だからこそ、ここまで頑張ったんです。
でも、これ以上はできません。
したくありません。
何が何でも獲得したい方は、診断書を書いてくださる医師が見つかるまで、病院を探し、検査を繰り返します。
それはそれで、その方の選んだ道だと思います。
NPOの方が言われましたが、最終的にそれを決断するのは被害者本人なのです。
私たちは、息子のために頑張ることが親の義務だと愛情だと思ってやりました。
ここでやめることは、等級を獲得できない可能性が高い、つまりは息子のためにはならないと言われているように思います。
そうなのかもしれません。
でも、私たちはここで終止符を打つことを決断しました。
結果的に、等級の獲得はできました。
でも、この決断をした時はどうなるか全くわからなかったし、
本当に本当に主人も私も辛かったです。
これを恭一郎が大きくなって読んだとき、私たちを非難するでしょうか。
もし、非難されたらごめんねって言わなければならないのかな。
そのときは、私たち、恭一郎に謝ります。
あなたは、交通事故によっていろんなものを失ったかもしれない。
でも、その分、あなたはみんなからたくさんのものをもらったんだよ。
お兄ちゃんは、あなたの命を助けてくれた一番の命の恩人。
あなたの事故のとき、一緒に居てくれた近所の人たちはとても心配してくれた。
お医者様は、あなたの命を助けるために精一杯の治療をしてくれた。
おじいちゃんは、神様に一生懸命お祈りしてくれた。
おばあちゃんは、あなたのために心配して毎日泣いてくれた。
お友達は、あなたのことを心配してくれて、千羽鶴を折ってくれたね。
そして、退院して教室に帰ってきたとき、障害のことを気遣って優しさをくれたよね。
お父さんとお母さんは、この三年半、お兄ちゃんへの愛情を少し減らしちゃったかもしれないくらい、あなたに愛情を注いだつもり。
そしてあなたは。
交通事故ってどんなに大変なことかわかったはず。
それは、これから生きていく上で、絶対に自分が被害者にも加害者にもなってはいけないことを学んだはずなんだよ。
そして、障害を持つことで、社会的に弱い立場の人たちに優しい気持ちを持ってくれる様になる事を、お母さんは願っています。
あなたの命は、あなただけのものではない。
あなたの命を救うために、みんなが力を尽くしてくれたこと。
絶対に忘れてはいけません。
それが・・・恭一郎・・・あなたがみんなの愛情に応えると言うことだと・・・母は思います。
「恭一郎。生きていてくれてありがとう。」
ここには、加害者の行動を書いておきたいと思います。
事故当日
実況検分があったということで、病院には一番遅く到着。しかし、同じく立ち会った方はとっくに到着している。何故遅くなったか。「病院の場所がわからなくて迷った。」と言う理由。
医師から、事故の状況を詳しく聞かせて欲しいと言われたので、聞くと、
「子供がいたことなど、全く気がつかなかった。子供が私の車に飛び込んできた。」と言う。
恭一郎は自殺しようとしたのか?
全く気付かなかったと言うが、後部座席に座っていた女性は、「子供が3人歩いていて、一人が渡ろうとして一度やめて、再び渡った。」と証言している。
後部座席にいた人が、ここまで見ているのに、運転席の加害者がみえないはずはないのでは?それとも、加害者は寝ていたのか?
とにかく、悪いのは飛び出してきた恭一郎のほうであり、自分は悪く無いと弁解を繰り返した。
当然のことながら、謝罪の言葉などなかった。
二日目
朝から大事な人に会うとの事で、午後から病院に来た。
見舞いに来たのかと思えば、とにかく診断書を早く出してくれと催促された。今は、診断書など出せる状態ではないことを説明しても、とにかくできるだけ早くしてくれと言う。そして、今朝の新聞の話になり、「あの新聞の記事は、まるで私が悪いように書かれている。」と言い出した。
そう、加害者はまるっきり自分は悪く無いと思っていたのだった。
だから、まるで謝罪の言葉などない。
三日目
病院には来なかった。
夜、電話があり、今日は娘が帰ってきているので行けなかったといい、またもや診断書の催促をする。
さすがに、主人が怒り、この時初めて大きな声を出した。
すると、またもや自分は悪く無いと言い訳。
この人は、自分の保身しか考えてないんだなと思った。
四日目
菓子折りを持って病院に来た。
少しは、昨日の主人の言葉に感じるところがあったのかと期待したが、またもや言い訳に終始する。
病院のロビーで対応していた私も、さすがに我慢ができなくなり、菓子折りなんかいらない、謝罪の気持ちが無いのなら、もう来なくていい、子供には絶対会わせないと言い放ち、病室に戻った。
数日後
私たちがいない間に、訪ねてきた。
看護婦さんが、両親がいないから、日を改めて来てくださいといったが、聞かず、強引に病室に行こうとしたので、仕方が無く看護婦さんが同行してくれたそうだ。
そして、恭一郎に「ごめんな、僕。」といって書置きと見舞金を置いて帰っていた。
その二日後
保険会社の担当と、加害者同席で話をした。
見舞金は受け取れないと言うと、「私の気持ちですから、受け取ってください。それで保険から引くなんて事はしませんからワハハッ・・・」
こんなときに冗談???
理解に苦しむ。
子供には会って欲しく無いと言っておいたのに、どうして子供に会ったのかと聞くと、「せっかく病院まで行ったのだから、会っておかないといけないと思った。」と言う。
そして、私が話したことはボーっとしていたから、よく覚えていないんだとか。
人の気持ちよりも、何よりも自分の気持ちが最優先の人なのだと思った。
私たちは、謝罪の気持ちがないのなら、今後は会いたくないと告げた。
一ヵ月後
あの日以来、保険会社からも加害者からも音信不通となっていた。
そこで、私たちは恭一郎の今の状況と、障害について書いた長い手紙を保険会社を通じて加害者に出した。
そして、返事が来た。
便箋2枚の短いものだった。
そして、その半分はまた言い訳だった。
この時点で、私たちは加害者の存在を自分たちの中から排除することにした。
後日、加害者の処分を聞いた。
略式起訴で罰金数十万円。
まさに、加害者天国日本である。
恭一郎には、一生抱えていかなければならない障害が残り、
加害者はお金を振り込んだら、大手を振ってこれからの人生を送れるのである。
あなたは今何をしているのでしょう。
きっと、恭一郎を跳ね飛ばしたことなど忘れて、
趣味のサークルにでも出かけているのでしょうね。
私たちはこの三年半、本当に悲しかったし苦しい思いもしてきました。
その間、あなたが私たちにしてきたことは、私たちの苦しみを軽くするどころか、どんどん増やして行くことばかりでした。
もちろん、事故ですからあなたがわざとやったとは思っていません。
恭一郎にも非はあったのです。
それはそれで最初から認めています。
でもね。
どっちが悪いとか、過失割合がどうだとか言う前に、
人に怪我をさせたら、ごめんなさいって言いなさいって小さい頃、お父さんやお母さんに言われませんでしたか?
私たちは、その当たり前の謝罪が欲しかっただけなんです。
幸い、恭一郎が元気になったことで、私たちはあなたを記憶の片隅に追いやることができました。
もちろん、時々記憶の隅から出てきて、憎しみがよみがえってくることもあります。
でも、憎んでも恭一郎が元に戻るわけではないし、自分たちの気持ちが晴れるわけでも有りません。
だから、できるだけ記憶の片隅に追いやるようにしています。
当時、60歳前でしたが、その後も平気で運転しているあなたを見ると、
また、人を死に追いやることがなければいいなと思います。
これ以上、あなたの被害者になる人を増やしたくはありませんからね。
人生80年の時代ですから、あなたは平均寿命まで生きたとしてあと20年この世に存在するんですよね。
余生を楽しく、穏やかにお過ごしください・・・とは、口が裂けても言えません。
あなたに人間らしい心があるのなら、今後、何か人のために役に立つ人生を送って欲しいと切に願うばかりです。
私は加害者になった経験がありませんが、もしそうなってしまったら、
あなたを反面教師として被害者に謝罪したいと思います。
あなたから学んだ唯一のことはそれだけです。
jiko110.com
http://www.jiko110.com/
今度の事故で、私たちがお世話になった団体です。
被害者の救済サイトとしては、一番の情報量を持っているところだと思います。
実際、私も知らなかったことをたくさん勉強させてもらいましたし、
スタッフの方にも大変お世話になりました。
事故の被害者の方にとっては、一度は尋ねてみた方が良いと思います。
注意したいのは、自分がどうしたいのかしっかりと考え決めるということです。
ただただ、スタッフの方に頼るのではなく、自分で学び自分で考え、それでもわからないことや助けてほしいことをスタッフの方にお願いするのです。
自分を失ってしまっては、自分の納得する解決はできないと思います。
私たちは、最終的にはNPOの方の支援を途中で終了させていただく形になりましたが、自分たちで納得できる形で終わったと思います。
事故にあわれた被害者の方、
自分をしっかり持って、強くなってください。
そして、後悔のないよう頑張ってくださいね。
裁判について
一生のうちで裁判を経験する人は、どのくらいいるんでしょうか。
私もまさか自分が裁判を経験するなんて、思っても居ませんでした。
実際、経験してみると時間はかかるけれども、信頼できる弁護士の先生に出会えると、
訴訟を起こしてよかったと思えるのでは無いかと思います。
私たちの場合は、地元には高次脳機能障害を理解している弁護士の先生はいませんでした。
ですから、東京の弁護士の先生にお願いする事になりました。
その先生に出会い、高次脳機能障害と言うものがどういうものなのか、
とても勉強になりましたし、今後、恭一郎の状態が悪くなった時は、
いつでも相談に乗っていただけると言う力強い言葉もいただきました。
恭一郎の人生を思う時、親が居なくなってもそういう力になっていただける方が
どこかに居ると言う事は、本当に有難い事です。
高次脳機能障害と言う障害は、まだまだ一般に認められにくい部分があります。
だからこそ、頑張って等級を取って裁判で認めてもらって欲しい。
そうすれば、今後の未来に少しでも希望が持てると思うから。
一番の苦しみ
私たちが一番苦しんだのが、ADHDである恭一郎が高次脳機能障害である事を認めてもらう事。
同じ脳障害なので、一般的には障害等級を獲得できても、
何パーセントか差し引かれる事が多いとの事。
それと、この二つの症状が非常に似ている事。
ただ、恭一郎の場合はADHDの診断を受けたのが、事故の後遺症外認定のために受けた検査の結果からであり、幼少の頃からそう診断をされていたのではなかったため、
事故によりADHDが発生したのか、生まれつきそうだったのかわからないと言う点にあったのだろうと思います。
実際、ADHDは交通事故によって発生する事もあるのです。
でも、明らかに昔からの状態とは違うと親も回りの人も思っていました。
ADHDと言っても、恭一郎の場合は軽度だったので、それほど生活に支障が出ていると言うほどではなかったのです。
ですから、事故によってADHDに高次脳機能障害が被った感じの状態であると思います。
これを証明するのは本当に大変でした。
病院の医師と何度同じ事を繰り返したか。
今思えば、裁判よりその後遺症外診断書を書いてもらうのが本当に本当に大変でした。
もし、同じようにADHDのお子さんが事故に遭われたと言う場合、
親御さんは大変だと思います。
ですから、私たちの体験が少しでも役に立てればと思います。
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
ミキハウスにはまりました
ミキハウス好き限定!20日最大100%…
(2025-11-20 15:33:00)
軽度発達障害と向き合おう!
【書評】『小児・成人・高齢者の発達…
(2025-11-17 06:15:32)
塾の先生のページ
11月残り10日、240時間という…
(2025-11-20 11:36:08)
© Rakuten Group, Inc.
X
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Mobilize
your Site
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: