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2014.01.18
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雑木林


額装裏面に『日動画廊』ラベルあり

平野遼『闇を通過しない光は本物の光ではない』
聖書の創世記に、はじめに「光あれ」という言葉が記されていますが、キリスト教絵画を描いた画家たちは、光を表現するときに、常に彼らの神が発した最初のこの言葉が意識のどこかに付きまとっていたかもしれません。

光は、神の創造や神聖なもの、そして希望や喜びや暖かさといったポジティブな波動の象徴です。
一方、闇を光と対峙させた場合、闇はネガティブな象徴となります。
闇は光を生み出す前に世界を支配していました。
言い換えれば闇は光の温床だったのです。
ゆえに最初から闇を排除して光を知るには至らないのです。


レンブラントしかり、印象派のモネしかり。

平野遼は「道教」に傾倒し、森羅万象や人間(人生)を深く見つめました。
自然や私たちの人生はけっしてやさしく楽しいことだけではありません。
天変地異は時に恐ろしい牙をむいて人間を死に追いやったり家族を引き裂いたりします。
そして人生もまた苦難を避けては生きてゆけません。

しかし、いわば「闇」に象徴された苦難から目をそらしてばかりでは、「光」である本当の希望やよろこびは分からないものです。

春の暖かさは冬の寒さに凍えてみてはじめてそれがよろこびとなります。
秋風は夏の蒸し暑さを体験してこそ爽やかさとして味わうことが出来ます。

苦難を越えた希望は深くゆるぎがありません。
苦難という闇を歓迎し受け入れてみてこそ、希望という光の本質が見えてきます。

貴方がもし闇の中に居るとしたら、平野遼がそうしたように闇を凝視してみるのです。

闇を受け入れるしか道は無いのです。

すると、気づかされるものがあります。

たとえば台風や火山の噴火は恐ろしくもありながら、そこには厳格な美があるのと同じように、人生における苦難もまたそれ自体が美しく愛に包まれていることに気づくはずです。
そこから本当の光が見えてきます。

人生の闇を凝視し、闇と友達になることで、気が付けば、人生はいつも光に包まれていることでしょう。





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最終更新日  2014.02.09 21:30:17
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