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2014.01.20
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風景


1949年8月30日制作
縦:22.5。横:31cm。

平野遼 『青春の闇』 54頁
蝋画誕生の悲しみ
平野の初期作品を代表するものと言えば蝋画です。
敗戦後間もない1949年、蝋画の第1号作品『やまびこ』が誕生しました。
東京で放浪生活を送る平野が第13回新制作派展に出品し初入選を果たしたのが、この作品でした。
会場は東京都美術館。

蝋画を制作した空間は東京・駒込にある3畳1間のアトリエでした。
居候をしながら働いていた美学社が倒産したため、知り合いを頼って転がり込んだアパートの1室がアトリエだったのです。
家賃が払えないため電気がつかず、灯りは蝋燭だけの生活でした。
部屋に籠って絵を描くときの平野の集中力は近寄り難いものがありました。
水彩絵具と手元の蝋燭を『なにやらやっているうちにつかんだ技法』が蝋画でした。
油絵具を買うお金がないため、代わりに蝋燭をたらし込み油彩に似せた質感を編み出したのです。
貧しさが生み出した技法でした。
平野は蝋画がこの世に生まれた『3畳1間で起きた偶然』について、美術雑誌『絵』318号掲載のインタビュー記事で、次のように語っています。
蝋燭を頼りにデッサンなんかやっていましたから、水彩絵具と蝋燭を擦り付けていくと、偶然『これは面白いじゃないか』と発見したんです。
紙に水彩絵具が乾き切らないうちに蝋を擦りこんで、また水彩絵具、それを繰り返すんです。
そうすると、紙が山あり谷ありとなって、その谷の部分に色が入りこんでいく。

それを削り取ると微妙な色が蓄積していって・・・。
(『絵』318号、1990年8月、38頁)

焼け跡の東京で、絵を描くことだけに生きる平野の日常は、貧しさを通り越してどん底でした。
1日に青リンゴ1個と水だけで飢えをしのぐこともざらでした。
夜になると、新宿や東京八重洲口のカストリ屋台に向かい、酔客相手に似顔絵を描き、僅かばかりのお金を手にする。

収穫もありました。
蝋画の技法を編み出したことを通して平野は、絵画の究極は『1枚の紙と鉛筆に帰着する』ことを知ったのです。
紙と鉛筆があれば絵は描けるのだという真理を学び、体験と工夫から絵のエッセンスを見抜いたのです。
蝋画の技法を体得した『瞬間』を平野は次のように書き遺しています。

油絵具が買えず、わずかな水彩絵具と手元のロウソクをなにやらやっているうちに、掴んだ技法であった。
技法は、時として、壁のように思われることがある。
ひた押しに押しまくっているとき、絵は、確かな形態を成しているようである。
自分の行為が意識され、自覚し、見えてくる時から、至難な油汗のにじむような苦悩が始まるように思われる。
(『戦後30年目の夏に』『街路樹の下で』光アート、1988年、192頁)

紆余曲折をたどった平野の青春・青年期の歩み。
貧しさという逆境が蝋画を誕生させる幸運をもたらしてくれたことに芸術の神の導きを感じます。
光は影があって初めて、その存在を成り立たせることが可能です。
芸術の成立も逆境や遊説(アイロニー)の中にこそ潜むものではないのか。
蝋画誕生のドラマを追いかけながらそう思いました。





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最終更新日  2014.02.09 22:20:15
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