2020末法元年                   ボンゾー(竺河原凡三)の般若月法

2020末法元年                   ボンゾー(竺河原凡三)の般若月法

2007年01月15日
XML
カテゴリ: 音楽・芸術
1.『精神のエネルギー/ベルグソン全集5』 渡辺秀訳(白水社)

 ベルクソンのいわゆる四大著作以外に、落ち穂拾いをしている昨今ではある。今年のベルクソンは、上記著と『笑い』を読了。レグルス文庫(こちらは入手可能である)の宇波彰訳と平行させながら読んだ。一つのテーマで、過去の講演・論文を集めたものだが、濃密かつ論理的である。物質的完成を生命進化に重ね合わせ、物質を極めてゆくうちに、物質のエネルギーは蓄えられ、生が自由を得ようと物質を貫く何ものかにぶち当たる。それを、精神のエネルギーと言ってよいのだろうか。非合理主義的哲学者の論述は、実にいつも超合理主義的であって興味深い。1913年のロンドン心霊研究会の講演を含む。


2.『大乗仏典1 般若部経典 金剛般若経、善勇猛般若経』 長尾雅人、戸崎宏正訳(中央公論社)

 般若経典群の白眉である。『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』には、唯識の論師・無著(むじゃく)の注釈・詩頌(しじゅ)が添えられている。「空」という言葉を一つも使わずして空を説く経である。『般若心経』ほどの凝縮はないが、相当にコンパクトな般若経である。内容的に最もすぐれていると思われる。一節をここに要約して引こう。
「スブーティよ、覚りを得た諸々の如来の無上の覚りは、実はこの教え(経文)から生ずるからである。この経文から諸仏世尊が生まれるからである。それはまた、なぜか。スブーティよ、仏陀の教法、仏陀の教法というが、それは、実に仏陀の教法ではない、と如来は説くのであり、それゆえ、仏陀の教法と呼ばれるのだからである」
 『善勇猛般若経(ぜんゆうみょうはんにゃきょう)』も、徹底して空を説く。「何々は、何である」という固定概念をことごとく否定してゆく。そして、菩薩の修行すらも否定される。
「あらゆる実践は実践から生じる。そして、実践を妄執することによって転倒がある。しかし、菩薩は実践を妄執しない。それゆえに、彼には転倒が伴わない、といわれる。そして、無転倒なものとなった彼は、もはや何に対しても実践するということがない。それゆえに、菩薩の実践には実践がない、といわれる。善勇猛よ、実践がないというのは、何かについて実践するのでもなく、実践しないのでもなく、また、実践のすがたをあらわさないことであり、これこそ菩薩の実践といわれる。このように実践する彼こそ、知恵の完成を実践しているのである」

3.『高僧伝 日蓮』 金岡秀友(集英社)

 真言宗の僧侶が書いた日蓮伝。凡百の宗門の伝記を凌駕する。日蓮という現象を、密教的変容としてとらえている。また著者は、『法華経』のなかにも密教的な要素を見出し、それが日蓮に影響を及ぼしていることを見る。凡三は、さらに、日蓮を創造的密教僧として位置付けたい。『大日経』や『金剛頂経』を直接使わずして、日蓮は、和様密教を自らの修行のなかから編み出したのだ。題目は、究極のマントラとしてある。『法華経』をよく読み込み、それにより創造的な修行をするならば、万善同帰経ならぬ、万全天地善悪正負能生の曼荼羅経でもある。著者が、薬王麿と蓮長の創造的進化を、伝記物語のなかで肉付けしてくれたらもっとよかった。しかし、それは、すぐれた文学者の仕事であろう。




 偉大な文筆家であり、日本では珍しい神秘家の澁澤であったが、小説家としては寡作であった。彼の最高傑作は、中編小説『高丘親王航海記』であり、これは動かない。彼には、いわゆる長編小説は一つもない。これは、非常に残念なことであり、当時の編集者の怠慢でもある。
 初期小説集は、2005年5月に新刊文庫として出た。9編が収められているが、『エピクロスの肋骨』と『マドンナの真珠』がいい。前者は、肺病病みのコマスケが病院を抜け出すところから始まる。門衛の元校正係をコマスケの詩文の力でヤギに変え、それを売り飛ばして、夜行列車に飛び乗った。その列車には、ヤギ男の娘がちょこなんと猫になってシートに座っていた。夜の街角で、大きな黒い瞳をライターとして淫売する、シャルロット猫娘のこましゃくれた言動がいじらしい。さすがのコマスケの神通力も、この物凄く目の大きい猫娘には通用しなかった。


5.『創価学会の実力』 島田裕巳(朝日新聞社)

 2006/8の新刊本。私のような部外者にとって、自分が取材したように創価学会の内幕が分かるような構造になっている。高度経済成長期において、犯罪組織にならず、まがりなりにも日本の社会福祉に貢献した“必要悪”だったことが分かる。貧しい地方の次男坊、三男坊が都会にやって来て、頼りになったのが互助会的なこの組織だった。日蓮宗の現世利益的なところだけを切り取り、日蓮の一面である排他性を逆に求心力として利用した。しかし、日蓮正宗から破門されたあと、彼らが一つにまとまるのは至難の業になった。「お山」はすでになく、イベントも力つき、いまや選挙だけが唯一の結束の場になっているという。私は思うのであるが、今こそ学科委員は、宗教を取り戻すべき時なのではないか。創価学会員一人一人が、日蓮とそのルーツである天台の仏教をしっかり学び直し、『法華経』28品(ほん)を繰り返し色読(しきどく)し、折伏(しゃくぶく)ではなくて摂受(しょうじゅ)で平和裏に仏法をやり直すことを期待したい。それが、日蓮のねがいでもあろう。

(この項つづく。音楽関係は、後日アップいたします)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2007年01月18日 01時51分53秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

カテゴリ

カテゴリ未分類

(0)

仏法

(28)

随想

(5)

音楽・芸術

(7)

ポエジー

(2)

カレンダー


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: