シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年11月26日
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カテゴリ: 軟弱日本を斬る!
巷の世の中では、あとから知って、なるほど、と思うことがよくある。アニメの一休さんは有名だが、頓智で、天下の将軍を負かす話なので、足利義満が登場するのは主題なのだが、脇役というか、その家臣の蜷川新右衛門の存在に、疑問を抱く人も恐らく皆無だろう。そして、このアニメ一休さんが、はじめは日本船舶振興会の単独提供番組だったのに、違和感を覚える人も皆無かもしれない。

一休さん ( テレビアニメ ) - Wikipedia

智蘊 - Wikipedia


しかし、前回紹介した裏日本史の八切史観を知れば、疑問や違和感から、あるつながりがわかってくるから面白い。八切史観によれば、蜷川新右衛門の蜷川家は、織田信長が金本位制にしようとして、対立した銀資本制の元締めだったのである。信長の織田家は、旧字体では、小田で、祖先は八田郷の出で、八の民の平氏の被差別原住民の家系で、秀吉も同じ出自のもっと低い身分だったようなのである。

小田家は、信秀の代に盛んに興行をして、現代でいえば、プロモーター、興行主のような職で、織田家を大きくするために、沢山の妾をとって種付けをしたために、不細工な姫とも伽をしないといけないために、ついには女嫌いになったそうである。

八切史観によれば、八の民は、女性上位の風俗があるらしく、織田家の跡取りの信長は、美濃の斎藤道三の娘奇蝶と政略結婚をしたので、尾張の守護大名になれたのは有名である。奇蝶が、かかあ天下だったらしく、信長にも女嫌いが受け継がれているのが面白い。

信秀の死後、信長は、奇蝶の舅道三の支援により、織田家を相続すると、今度は、龍興が道三の子でないという噂を美濃に流し、斎藤氏の混乱に乗じ、美濃三人衆を勧誘し、斎藤家を乗っ取り、のちには三好長慶のように、将軍の有力な後見役となり、義昭を将軍につけた後で、自分の意に沿わない将軍を追放する。

三好長慶 - Wikipedia


信長の目的は、当時の藤原氏を中心とした仏教カースト制度に対しての、武力行使による天下布武の武力支配にあったからである。元々被差別民たちは、原住民信仰の神道を中心にして、反仏だったわけで、キリスト教布教を利用した反仏により、信長は日本の宗教王になろうとしていたようで、布教を利用して、仏教の銀資本制をやめて、新しい信長教の金資本制にしようとしたらしい。

安土城を、信長教の総本山にしようとしていたのを、よく思わない仏教勢力と、キリスト教勢力の顰蹙を買ったので、安土城は、本能寺の変後に、ポルトガルのキリスト教勢力の支援もあり、織田信雄に焼き討ちされたらしい。宣教師が、天罰が下ったと記録し、本国に書き送っているのが印象的である。

織田信雄 - Wikipedia


話が長くなるので、端折ると、信長は日本の宗教王になり、中国大陸を侵略しようとしていたらしく、そうなると、スペインとポルトガルで世界の植民地領土を二分していた計画が頓挫する恐れがあるので、中国の唐の進駐軍を起源とする仏教カースト制の朝廷と、大陸に貿易進出を狙うイエズス会の利害が一致して、信長が家康の命を狙っていたのを利用し、本能寺の変が企てられて、信長は廃されて、ポルトガル宣教師の意向が通りやすい秀吉に代わったようである。

なお明智光秀は現場に間に合わず、愛宕山を下山中で、斎藤利三の単独犯行なので、本能寺の変を後から知ったために、事後収拾のために、信長の首があるのかどうか事実確認が必要だったようである。事後収拾中に、朝廷から征夷大将軍にするから、京を守れと催促がきて、毛利家保護下の足利義昭幕府を再興する手も考えたようだが、そうこうしているうちに秀吉に情報戦で巧みに騙されて、山崎をとられて、合戦になったようである。

「本能寺の変」のキーパーソン  15 代将軍・足利義昭か|日経 BizGate




そして、また歴史は繰り返すというが、この信長の被差別民を利用して革命を起こすやり方が、明治革命として、長州藩により行われたのは、外国勢力が、イエズス会から、イギリスに代わってはいるが、古今東西革命の構図が同じなのが面白い。対外勢力の脅威を感じさせながら、国内から反乱を起こし、体制を変えるのが、メーソンの、「風を蒔いてつむじ風を刈る」、という革命思想の諺になっている。

巷のマスゴミは相も変わらず嘘を垂れ流し、とっくに天下り禁止の法律があるのに、自分たちの官僚の天下りには目を瞑り、選挙違反だと喚き散らす独り善がりの解釈を世間に撒き散らしているのをみて、どちらも穴の貉ではないかと、自称フーテンの寅さんには呆れてしまう、毎日なんである。

天下りを「知っているのに報道しない」マスコミと記者クラブの罪(松岡 久蔵) | 現代ビジネス | 講談社( 1/5

癒着は官とメディアの間にこそ存在するのではないか(城繁幸) - エキスパート - Yahoo! ニュース

省庁のしく み 天下りのしくみと現状/ホームメイト


巷のマスゴミはよく真実は一つと喧伝しているが、人智学では、この妄言こそ無知と説いている。確かに、我々の宇宙のなかの宇宙意識、俗に言うところの、宇宙神にまで叡智が到達できれば、真実は1つといえるかもしれないが、地上人のなかでは、まだ多種多様の論争、闘争、戦争をしている現状からみても、多種多様な立場からみた、覚醒意識での、事実があり、まだまだカルマの解消が必要で、だから地上に生まれているわけで、真実は一つと思い込んでいるだけで、まだ自分のなかに執着心がある証拠である。

自分が説く仮説だけが正しい、と考えるのも、無知で、執着心であり、ましてや、そこに権力が癒着すれば、自分を一時的には心地よくさせるが、それこそ悪魔の罠で、悪魔に魂を売って、後で地獄に堕ちる切欠を与えてしまうわけで、まさに権力は公正の目を摘む、麻薬といえる。そこで、権力が生んできた、自分さえ良ければいいという代表の、天下りはなぜなくならないか、日本人の他人よりも自分が得をしたいという気持ち、執着心を明らかにするために、古の人間の執着心について、日本の古代史を八切史観から紹介したい。

そもそも天下りの、「天」の由来が何にあるのか?なぜ、官僚が天やお上と呼ばれるのか、差別側の権力による表の日本史よりも、差別を受けてきた、裏の日本史により、「天」を解き明かす必要があるだろう。八切史観によれば、古代日本は8つの王朝からなっていたというから、少なくとも、8つの異なる天の見方が存在したといえる。そして、白村江の戦により、大陸から、唐の進駐軍がやってきて、新しい「天」を名乗るわけである。

白村江の戦い - Wikipedia


663年といえば、オカルトでも非常に興味深い666のアーリマンの数であるのがわかるはずで、アーリマンが地上人を奴隷化するために学院をつくった年であるから、この日本にも身分カースト制度が生まれる3年前といえる。シュタイナーによれば、アーリマンは地上人に3つの唯物論を広めるために、学院を建てたという。3つの学問とは、将来予防医学となる遺伝学、将来再生医学となる解剖学、将来量子力学となる数学である。これらはゴンディシャブールのイスラム科学で有名である。

イスラム科学を紹介していると話が逸れるので、いまは八切史観を紹介する。八の民と呼ばれる、元は中東のペルシャ文化に由来する民族は、このアーリマンの学院の影響を、大陸からの唐の進駐軍により間接的に受けている可能性が高い。いずれにしろ、この国の権力構造を理解するために、裏の日本史の紹介を続ける。なお、八切氏の文体は古いので、現代のように整った文体からすると、読みにくいのは歴史背景を考える必要がある。夏目漱石などの小説家が、現代文の文体を整えてきたわけで、早くいえば、現代文ではなく古文調といえるかもしれない。そこで、なるべくわかりやすく、『』付きの解説をいれる。

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古 代 史 入 門

まえがき(八切史観の正しきことの立証に、わが命にて証しとせん) 八切止夫拝
 今は亡き荒正人先生が、「 八切史観は庶民の恨み節だ

荒正人 - Wikipedia


 「不可思議な国ジャポネ」[日本シェル出版]のカバーにケント歴史学博士[同書の著者]の若かりし頃の写真を使い、「タル・ティング(おも恥ずかしい)」と文句をつけられたが、15世紀から16世紀にかけて日本へ来ていたイエズス派資料を教わり、日本での伝承通俗史と余りに相違しすぎるのに愕いたのが、私の開眼のスタート。つまり、戦国時代から「裏返え史」として解明に入ってしまったのが始まりだった。
「同士討ちをせぬよう、馬印とよぶ標識を、遠くからでも判別できるように色分けしていた」というレポートで、江戸期になっても大名行列の先頭に立っていた馬印にひかれた。
 日本での裏付け資料は史籍雑纂の家伝史料の「黒田文書」に、「馬印が金色に候はば別所同意と存じ候」の一行だけだったが、それを手掛かりに武鑑を調べてゆくと、単一民族ではなく 中世期の宗教合戦の時代には、祇とよばれる太平洋沿岸より黒潮で渡来した北条政子系の古平氏の者らは、「赤色」。日本海より裏日本に入って来た騎馬民族系の蘇我となり、源氏となったのは「白色」と色分け。延暦の年号になっての原住民大団結反撃進攻の際に、東北には山金が転がっていたのを叩き延ばし、反射するからと共に同一目印にしたのが始まりで、反仏派は金色を用いたとも判った。
 つまり、彼らが捕虜にされ別所・散所の限定地に収容された奴隷の子孫が、下克上の世となって立身して武将になれた者は、 秀吉でも金色千成瓢箪 である。



豊臣秀吉「千成瓢箪」【資料紹介】 | 一般財団法人古橋会

徳川家康の馬印 - Wikipedia

蜷川親世 - Wikipedia


 「八切姓の法則」「日本人の血脈」[共に八切氏の著書、日本シェル出版]は、民族カラーの色分けと、特に、苗字第一字発音の識別重視の選種別を鑑別する方式から、漢字はすべて当字ゆえとローマ字化してみて発見した。
 さて、八切史学、八切史観とよばれる私の考究は20年がかりで本書で終るが、新たに全巻を直接に送金してもらえる後学には、私が集めた文献類をもう入手不能の本ゆえ無料で専門別に戦国、外国と分け参考に供したい。
 というのは、読者名簿を整理処分したら、年賀状をダンボールに十五、六個も貰っていたが、照合すると九割までが図書館出の方である。八切史観というのは初めから私の頭の中にあったのではなく、禁酒して20年前から次々と考究して展開してきたので、その中の一冊や二冊を読んで感心してもらっては困る。18年かけた「野史辞典」を軸にし、続篇の「庶民日本史辞典」の二冊と、「天の日本古代史研究」と本書の四冊を最低資料に揃え、後学は解明を続けてほしいのである。

No.1 純正日本史案内

 「三つ子の魂、百まで」というが、学校で教わった歴史は、ジンムスイゼイと、暗記ものだったゆえ、私でさえ未だに頭の中に引っ掛かっている。どうしても先入観は強いものである。そこへもってきて、前人未踏の八切史観では戸惑われるかも知れぬと案じ、順を追って判りやすく解明してゆくため、前もって予告編みたいにアウトラインを古代史入門の一般的手引きにしておく。
 前書きをしてはやや重複をするが、いきなりぶつけるよりは読みやすい。それに、どうしても古代史に入ってゆくには、タブー視されている部落史とは切っても切れぬ問題がある。
 なにしろ、 西暦663年に郭ムソウ[漢字が出ないのでカタカナとする]が進駐してきて「藤原鎌足」と日本名になり、唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の日本古代史研究」 に詳しいが、 天孫と称した郭さんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされた。二大別とされた賎とは太平洋沿岸に漂着の「八の者」。次に裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入って来たのが、獣の「四つ足」から「四つ」と呼ばれる。
「源平藤橘」と四大別するが、藤は唐で、郭さんの一万二千のグループ。橘は、その唐を中国大陸で滅ぼし取って代わった契丹系ゆえ、大陸人でも唐でないゆえ豪く見られず、被差別とされた。
 彼ら[契丹系]は天神信仰だが、源は元ゆえ白山さま信仰。平は今のペルシャと同じで、赤旗をふり祇園、八坂信仰で、宮島も紅殻の赤塗りである。藤は墨染めの衣を着た坊主が宣教師として先に来たので、「黒住教」さえ残っていて、藤は唐で黒色。
 しかし、 この四種の姓別は、最低四種以上の複合民族をさすが、勝てば官軍、負ければ賊で賎、黒の他は次々と体制の変わるたびに限定居附部落へと追い込み。郭将軍に滅ぼされたものの、奈良王朝と栄え、桓武帝より「良」となった百済系は黄色である。
 しかし、エタ非人と一つにしたり又分類し、エツタ島など海軍にそっくり召し上げられると、「江田島」と恰好よくなるのは、そうしたゲットーへ次々と敗戦捕虜が入れられ混同している為だが、四大別ではなく、 太古日本人はエケセテネが姓の上につくところの「雑色」の人々 だろう。
「皮剥ぎも皮細工も四つと呼ばれる騎馬民族。判りやすく言えば、白筋の馬方は源氏だが、駕かき川越人足や雲助は平家で、「八つ」とよぶ赤筋の拝火宗徒。トウナイは唐無いで、契丹系の部落民」と、はっきり種族別が分けられる が、喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者と決めつけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民。足利時代は散所奉行が新設されて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。これは「庶民日本史辞典」「野史辞典」「日本部落史料」で明白にされている。
 戦国時代の始めの応仁の乱に部落の者等は山狩りで集められてきて足軽とよばれ楯の代わりにしっ払っさせられ、生き残れたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると下克上は明治維新までのびた。が、五代徳川綱吉が韓国済州島系で神仏混合令の法令を下し、反仏派の原住民は宗門改めの寺社奉行によって、浄土(上等)でない汚れた下等人だと差別され圧迫された。太田亮の「姓氏辞典」では加賀に入った藤原氏と美化しているが、仏教は一向宗が入っただけ。
 ナポレオンが勲章を発明するまで「賜姓」といって、藤原姓をエゾや反乱軍の純友にも与えた。つまり実際は産所は足利幕府散所奉行で、反体制だった南朝方子孫を捕え収容したのが、同じ呼び方ゆえ産所と間違えられて伝わる。山所ともなり「山しょ太夫」や「さんしょう魚」ともなる。被差別の習慣が広まってしまった為でもあるが、喜田貞吉説も産所と文字通りにとって誤っている。
 なにしろ唐語のブシン(不信)つまり信用できぬ輩とし、召し使われ、それが武力をもってついに公家を押さえつけ、公家対地下といったのが実力で逆転。下克上の時代と呼ばれたのが文治革命であったり、戦国時代以降となると、かつては非人とか八部とよばれた蜂須賀小六も阿波の大名となる。傭兵が武力でクーデターを起し主権を奪ったのである。関白の一条兼良は足利末期の藤原系で仏派ゆえ、寺を荒す彼らを悪党と呼んでいる。
 さて、藤原王朝は天孫民族なりというが、どうもこれは妄説である。藤原基経に廃帝にされた陽成さまの一族一門が山へ逃げ込み、木地師となって「山がつ」になりたまいし事実もあるが、高貴の出で良であると証明したくて、自分らを放逐した藤の姓を勿体ぶって付けている。それゆえ、その姓を本物と思われてしまい誤られている。
 日本には正しい歴史なんかないのだからと、他国のごとき歴史学博士の称号は不可と明治十八年の博士号設定の時リースに言われたごとく、恰好よく美化されているだけで、何も判っていない。
 部落とは騎馬民族が日本列島へ渡来時に古代海人族を収容し、 藤原時代には良でない人口九割の賎の民をとじこめ、反仏派の北条期には源氏の「四つ」をはじめ、赤系でない者を追い込んだ。
足利幕府になると今度は逆で、赤系の祇の「八つ」も反体制の南朝方と、橋のない川へ入れられたのが実際の処 で、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされているが、何も全然ご存じない。まだ曖昧模糊の喜田史観の間違いだらけよりも、明石書店刊行の高柳金芳の「江戸時代被差別分層の生活史」の方が正確である。そこから逆にさかのぼってゆけば、九対一ぐらいの割合だった征服者と被征服者の悲劇。つまり吾々の先祖の虐げられてきた真相が判り得るといえる。
 「良い事を言われると、人は悪い気がしない」という人情の機微を巧く利用して、なんでも美化してしまい、敗戦民族を「国津神」などとしてしまうからして、それを文字通りで読まされては、喜田先生でもわけが判らなくなる。仕方がないというか、まぁ当たり前みたいになっている。
 さて拝火宗で「祇」とよばれる「八」は、西南渡来系の日本原住民だし、「四つ」は騎馬民族で東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維持のため徳川時代には施政方針を四つ」と「八つ」を交互にくりこんで、互いに牽制しあわせて被差別。藤で無いは十世紀流入の契丹系をさす。
 契丹は唐を滅ぼしてとって換った国ゆえ、大陸系でも御所からは賎民視されていたのである。だが、太平洋側に黒潮で這い上がった「八つ」は八母音の原住民で、農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、討伐されて捕えられる飼戸(しこ)。
 石岡の部落にしても、夷岡とよばれショウモンと蔑まれ、区別されていたというが、契丹系で、天慶の乱とされた時の者らの押し込み限定地。だが「エの民」つまり江戸の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、少しでも反抗すれば徹底的にこらしめて、オカミの言いなりになる奴隷人民に仕立ててしまった。だから藤原王朝の鉄武器による権力はえらいものであった。
 「その筋のお達しにより喫煙は」と今も映画館にでている。消防とか警察といった危険を伴う仕事は、「千金の子は盗賊に死せず」とか「良い人は兵にならぬ」といった唐の教え通り藤原氏が日本へ来ても農耕をせぬ飼戸奴隷に施行。なお足利時代に散所奉行が旧南朝の子孫を部落の散所民にしたのが知られていないから、私の「特殊部落発生史」に順に詳しく書いておいた。
 千の宗易こと俗に言う利休の自決後、その木像を八付にかけた後、その一味のササラ衆を部落に追い込んだのが茶せん部落で、華やかな茶の湯とは裏はら。 また、昔はハングリースポーツ興行だった角力は「オドマ勧進」[五木の子守り歌]の、勧進元で取り締まっては八百長で儲けていた。儲けるといえば、一番新しい宗派では、既存の旦那などいないからして、一向宗は部落に目をつけた。
 悪人でも念仏を唱えれば善人に生まれ変わる。部落民でも信心すれば常人に生まれてくるのだと、真言宗の本願侍説教僧が信徒にして廻ったので、寺人別の数は増えた。だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。僧へ絶対に近寄らなかった原住民の全体は、この百倍以上が実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘をとって売りつけていた名残りである。
 さて、大正八年秋に25銭(現在なら五百円)にて出された一号は、最後の六頁が発禁となったと喜田先生は最後だけ削除し、奥付を大正九年一月一日にし、四倍に値上げ刊行し、第六版から十二版まで世に送り出したのは、金集めのための作為なのかとも感じられる。なにしろ、喜田貞吉博士は、その大正八年には南北朝両統問題でリース直系の三上三次らに睨まれ国定教科書編集官を追われ、やむなく自費で「民族と歴史」の第一号を出した時の事だから、どうも資金ぐりで、発禁も値上げ操作のために、オカミに発禁にしてもらった裏取引とも考えられる。
 日本では歴史屋は真実追求よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいゆえである。部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ、被差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広められたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」、それとこの「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり、一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すゑの「橋のない川」である。
 せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人」を作ってきたのである。「天の古代史研究」[八切史の著作]さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄剣部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して奴隷にし差別歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。
 が売れて広まってしまったこれらの本のため、大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の3800人が押し寄せ、村田銃をうちかけ火をつけて乱入し、片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名ととった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝されていた土地。
 特殊部落とはいえ長吏岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンへ行っていた。だが、当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康は松平元康の改名せしものなり」という故山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布(「松平記」として日本シェル出版4800円)。
 そこで、周辺近郊の者らが、世良田の徳川にはこれまで冥加米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地元の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集まってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追い払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑 徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。
 しかし当時の学士会は華族の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれ華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理を立て、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、遡った奥付年月にした「松平記」を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。
 なにしろ、彼ら明治史学会の人々は、みな口を揃えて、「明治史学は南朝方の顕彰にある」と称したが、長慶天皇を明白にした事と楠木正成の銅像をたてたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された南朝の末孫は、その侭で解明できずだった。脇屋・湯浅・新田の地名が特殊部落にどこも多い。
 さて明治までに刊行されたのは足利時代の「夷朗詠集」からはじまって「傀儡記」、遊行衆説教師達の「鉢屋由来記」から「賎者考」「見た京物語」「京四条極楽院空也堂文書」「菅茶山備後史料」「塩尻百巻」、そして明治以降となると「日本奴隷史」に私の「野史辞典」「庶民日本史辞典」、菊池山哉の「賎とされし先住民族‥‥日本部落史料」「長吏部落→日本の特殊部落」だけが主らしい。
 しかし、国定教科書編集委員だった喜田貞吉だけが学会では評価され、部落者の著としては二十歳前後の若さで柳瀬勁介が書き残した処の「特殊部落一千年史」や「エタ及び非人・社会外の人」明治時代までは口伝えに残っていたユーカラの殆どを書かせ、その中で皇道史観に合致するものだけを己が名で発表し、アイヌ研究の権威となった金田一京助けに対し、アイヌの遺産を返すよう、その伜の金田一春彦に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し、三部作を出しているポン・フチである。
 はじめ東大出の教授の肩書きの喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊池山哉は、いくら草稿や写真を送っても自分の名は全く出してくれぬからと、東京史談会を作ったのである。
 さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが、昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で、戦国時代の村山七党の流れを汲む武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召し抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。<野史辞典>に、三河[出身の]の旗本は二名とはそれゆえである。
 今は一向一揆とされているが、三河人は他所者の世良田の二郎三郎こと家康を入れまいと国中で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、この時裏切って味方したのは彼ら二人で恩賞の為である。他の三河人は商人になったから、「三河屋いなりに犬のくそ」とまでいわれる。
 岡崎城も御三家どころか、僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左が書いたものとは思えぬ「三河物語」や、贋系図作りの沢田源内の「後三河風土記」が広まったのも、三河旗本が生国尾張三河と系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。
 さて部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。旗本になった連中は後から採用され三十人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか、「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や大製陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。
 明治新政府が徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と、駿河七十万石へ移封したのは、家康が徳川の出だが浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを、薩長では知っていたからである。そこで勝海舟ら旧幕臣が、「人の一生は重き荷を背負いて‥‥」といった家康遺訓を作っては各社寺へ奉納し、家康神話を作り上げ、徳川家達を公爵にし華族会長にまでした。
 それを尾張徳川家で、旧幕臣松田の贋作と暴露。尾張は宗春の時に、松平蔵人元康と権現さまは別人で、両者が戦った古戦場が、石が瀬その他に現存すると、章善院目録の中に発表。宗春は素行不良とされ閉門後殺され、家康(家光は天海の子という話も)の血統は断絶。その後は、徳川吉宗の孫の田安や一橋から交互に、尾張藩主に入っていたのへの怨みであろう。
 日本人の九割を占める庶民とは、江戸期亨保時代に部落をば脱出し、寺人別を銀や銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱いで人非人して非人と誤る。破戒僧とか心中し損ないを非人頭へ生涯奴隷として、着のみ着た侭で払い下げ。ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を映画でも見ての連想らしい。彼らの人口が増加というが、明治四年の壬申戸籍に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。
 明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。
 が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。
 江戸時代は大蔵省が国民皆税で片っ端から搾りとるような時代はかつてなかったから、戸籍は坊さんの私有財産を守る為の寺人別帳が主であり、町人別は銭さえ包めばすぐにも認めたから、紀州湯浅の居附地で、死なせてもよい奴隷水夫とし荒天の海へ出す蜜柑船にのせられた文左衛門らだけが沈没しなかったため、船底に繋がれていた者共は命拾い。漂着した相州の浜で蜜柑を売り江戸へ出ると、同じ山者ゆえ各地の材木を後払いで集めたのが大火で大儲け。銭を出し町人別や寺人別も購い、ついでに限定収容で残っている湯浅の者もみな呼び寄せたから、「東京都江東区史」には、「別所文左エ門」の名前で、はっきり今も残っているのである[紀国屋文左衛門の事か]。
 こうした複合民族の分類がまったく判らずじまいで、七世紀の良賎の大宝律令の侭で解明しようとするから全く学校歴史は、「本当の事を言えば身も蓋もない」こととなってしまう。
 彼ら歴史家は。崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の「八つ」との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、指が八本との妄説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに、喜田貞吉らは気づかず、「特殊部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。
 三韓征伐はまったく逆で、馬韓弁韓辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦663年に世変わりした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送り込み徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのがゲットーの居附部落と知らぬらしい。
 続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ、尽きると自滅させた。日本後紀や続日本紀に記録されている。
 「八つ」はマレーシア語の黒潮渡来族ゆえ農耕漁業製塩をなし、食料増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王(きみ)に率いられ、中大兄の韓国系に食料確保の政策上から子を生まされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが、終りには岡山のゲットーへ収容、奴可郡の地名を今も残す。
 「四つ」は崇神御孫景行帝が「八つ」の八坂姫に生ませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山がつ餌取りと差別とされ、特殊部落民とされてゆく。恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。
が、11世紀は青眼の賊船が次々と来襲。山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛かぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語で「イ」と呼ぶから「カイ(伊)の乱」。この時、頼光四天王として坂田金時らも現れるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ、従五位止りで昇殿は不許。
 ようやく文治革命で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条政子の世になると京を征伐し、尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変わりして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に、足利創業時に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。
 「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。また、イザナギ・イザナミ二神が天の浮橋で互いにみそめられたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多と呼ぶのも語源。
 また、騎馬民族の蘇我の末裔が「吾こそミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族の「セン」を「千」に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押し込め居附地を呼ぶのとこれまた同じである。
 俗にいう処の非人とは騎馬民族の末裔。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる「八つ」の民が働くのに、彼ら「四つ」の遊牧民族は違うからとの命令で藤原体制に、北方に追われキタともいう。「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、「八つ」と「四つ」を合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり、人や獣を扱うのが原住系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。
「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収穫物にのみ対しではなく土地を私有化にし地租課税。よって河岸や山頂を当てがわれた部落は納税のために貧窮化した。八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上がって住み着いたのが「八つ」の民。今もイランのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。
 裏日本へベーリング寒流で入ってきたのが騎馬民族で、「四つ」とよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制すで、「八つ」と「四つ」は交互に、互いに監視し牽制しあうように「四つ」の弾左ヱ門家の下に、「八つ」の車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので、共に仲良くしあって、世直しをと煽動された。
 その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、「八つ」の大井川の赤フン[褌]の川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン[褌]を振りつつ、向こうでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。
 伊勢神宮を北条政子と思い込んでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭が良い人が昔もいたものであると感心させられる。
 ----己が家系のルーツ調べに学校歴史では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。人情として美化したがるのなら別だが、もし真実をと想うなら道標は八切史観だけだろう。

1050 古代史入門  2
                  第一部
近視眼的な教科書騒ぎ
 日本では古代史を無視し、みんな昔噺にしてしまう。そして勿体をつけて「神話」とまでする。「古事記」にしても、本居宣長によって「古事記伝」として今日のものができる迄は、つまり江戸時代の大岡忠相が死ぬ迄は「骨事記」とか、ただ「こじき」と、ひとつかみの豆を投げて貰って拾って喰って退散してゆく哀れな乞食みたいなハングリーな存在。大安万侶が書かされたものは、八世紀初頭の権力者の優越感を満足させるためのもので、それを日本原住民の末孫として明和年間から寛政十年までかかって、今日の立派な古事記伝にしあげたのは本居宣長の労作なりといえよう。
なにしろ隠忍[鬼]とされていた原住民は、野や山に自生するものだけが自由にしてよいとされ、木を切って細工したりする大工のような加工業は舶来系の縄張りとされていたのである。
 つまり幕末までは、筆は竹、穂は狸の毛だから、もの書きや版行の出版業は原住民限定職。北条政子が夫の頼朝を、馬から落して即死として始末してから、梶原源太を下手人と[して]殺して、次々と和田、三浦と源氏の主だった連中を処分。郎党や女子供をゲットーへ入れたものの、叛乱防止のために、身分保証みたいな限定職を定めたのだが、発布されたとする治承四年[1180]の年号は石橋山で敗れた頼朝を、政子が平氏の本関地千葉へ逃した年。
頼朝御判二十四種は、まさか逃げる途中に細かい布令など出す筈もない。それなのに発表年にされ伝わっている。さて、今日の新聞が土地など賜ってオカミ御用となりだした明治二十に年迄は、「明治密偵史」の宮武外骨の著に詳しい[日本シェル出版より復刻版が出ていた]。
それだから東京新聞の「大波小波」によると、中国では台湾の陳瞬臣より、中国本土の血の濃い司馬遼太郎のほうが人気があると報道されているのも、古代史の権力者は占領軍の中国人だった隠然とした匿された歴史があるからして、血は水よりも濃しで、またむべなるからぬ話。
 なにしろ日本とよぶ国は、西暦663年に白村江の戦いでクダラ系の奈良朝を倒し九州より御所入りし、<天の古代史研究>[日本シェル出版]にも、「藤原鎌足」と郭は日本名をつけ、則天文字つまり漢字の強制使用と(北東の風が吹かなくては、日本から中国へは航行できぬから、冬至=唐至の当て字もあるが、文部省学校教育で、イアルサンスウから算数とするのは今でもその侭)、築城用巨石の全国供出令を発布した。
 ところが俄に今になって、侵略を進出と教科書にのせるのは怪しからんと、「むちゃくちゃな出鱈目歴史[では]ないか」と、訂正するよう抗議されている可哀想な日本歴史は、この時点では進駐軍司令官郭将軍によって高安城を築き金田城を構築。当時は今のアフガニスタンなみの勇敢な縄文日本人ゲリラから、御国を離れて何百里と昔は彼らが歌っていたから、万一の時は冬までは立てこもらねばならぬから、郭ムソウ将軍が降参した日本原住民を使役し築かせたのである。なに日本では文部省が金田城を昨年たしかに国の重要文化財に指定している。
 昔は沢田美喜みたいな豪い人がいなかった。それゆえ、郭将軍部下兵四千軍属のチャン輩(バラ)一万二千が単身で来ていたから、女とみれば片っ端から種付け、一人で九人くらいに孕ませて廻ったからして、原住系の日本人女はカイト、界戸、皆戸、海渡いろんな当て字を今ではつけられる個所で、エリザベス・サンダースホームがなかったから堪え忍んで育てあげた。
 わが世とぞと想うと詠じた足利時代の義満でさえ、臣源道義と大陸へは絶対服従。日本が被占領国の中国と対等になれたのは秀吉の対明交戦で初めて解放されたと言ってもよかろう。
 その国の立場というものがそれぞれある。侵入や進攻の字句で今になって文句を言うなら、七世紀から産まされっぱなしで、テレビの「ルーツ」で黒人女が白人の旦那に産まされた子でも、奴隷として売買されるみたいな有様で、嫡民ならぬ庶民とされ、賎民の奴隷扱いされていた吾々の先祖のことも、古代史を徹底的に昔の事と言わず検討してから、よく考えてほしい。
「日帝が三十八年にわたって勝手気侭に振舞った怪しからん」と解放記念日には、テレビでも放映して抗議するが、郭を改名した藤原鎌足が渡来する迄の日本列島は、彼らの先祖のナラ王朝。馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足まで、彼らが日本原住民に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数の苛酷さであった。
 中国の方も郭将軍の部隊が御所を占領した西暦664年五月十七日からは、藤原王朝をたて、南京の大虐殺以上のことを、かためて捕虜を生き埋め踏んづける根蓋(ねぶた)までやってくれている。しかし藤原鎌足の子孫が作った勧学院日本書紀を金科玉条として、古代史を真剣に勉強し、確り取っ組んでいないものだから、日本の歴史屋は哀れ何も言い返しが出来ないのである。
 古代史さえよく研究していたら、逆手にとって反対にこちらが被害者の立場から教科書抗議に対せるのだが、まったく不勉強すぎて悲しいことにそれすらも全然できないのである。といって、まぁ過ぎ去った過去のことを言いだしたら、それこそ切りがないかも知れぬ。
 それを良い事に、被害者の立場をとる向こうでは、日本人乗車拒否のタクシーまで出現しているという。家永裁判では民主主義でなく、又しても皇国史観の昔へ逆戻りさせた判決を、せっかく勝ちとったばかりの文部省も、歴史屋の不勉強さで何ともならず、まこと気の毒である。
 かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、金大中の御先祖さま[これは単に百済系をさす意味]が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」とされ、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくらいに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。
 新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきて勢力争いをした。だから日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたままなのもその例証である。恐れ多くも桓武帝のごときは、「桓武焚書」と今ではよばれるごとく、前からの日本書紀はことごとく集めて焼き、オンモン日本書記まで作成しなさったくらいに、好きなようになされ遊ばした。
 韓国の女性の腹から生れた徳川綱吉は、千代田城を朝廷をよばせ閣老を公家とし、王政をしき、よって東下りの公卿は大納言や侍従でも退官して無位無冠で江戸伝奏屋敷へ入り、京へ戻ると前大納言や前侍従がまた復官したのは<赤穂義人纂書>[日本シェル出版]に明記されていて証拠も残っている。
 それなのに日本歴史は、好意的に馬韓渡来の方に、神功皇后の御名をつけマタニティードレスの女将とするくらい、本心では韓国に敬意を失っていない。なにしろ、日本の歴史教科書は単なる暗記もので、ドイツ人リース門下作ゆえ責めても、不勉強の歴史屋が悪いのだから仕方がない。
 もし日本古代史が乳離れするみたいに記紀離れして、藤原王朝が作ったのから脱却していたら良かった。半世紀もたたぬ最近のことを突き廻す被害者顔の近隣諸国に、せめて五世紀までさかのぼって日本の歴史家が解明していたならば、薮を突っついて蛇を出すような、しっぺ返しができたものを、従来の学校教育に甘んじ、学者だと自認している連中たちは何も知らぬ。
 無智ということは罪悪である。いくらナラ朝時代は韓国製の日本史、七世紀からはトウのトウゲン[桃源=藤原]王朝史だと判らぬのか知らぬのか、何も反対意見を出せぬままの現状ゆえ、この侭では、「ご無理ごもっともです」と、教科書検定審議会の答申をうけ、抗議されるままに訂正して、「おっしゃるように、なおしました」という事になるのだろう。世界中どこの国が、他国より干渉されて、その学校歴史を改訂するといった例が、はたして悲しい事だがあったであろうか。「国辱」というものがあるのなら、これ以上の屈辱はないだろう。
 長州より招かれて御抱え教師となり、現代日本史の開祖となったアドルフ・リースが、先進国にならって日本でも、「博士号設定」となった際に、彼は歴史屋なのに理学博士や医学博士は認めたけれど、「独・英・仏・伊には歴史学博士の称号はあるが、この国にては、その設定は無理なり。文字を弁じうる程度なれば、文学博士にて間に合わすべきである」と、後にベルリン陸大の歴史教授となって、「ゲルマン民族優秀説」を発表しナチスに利用させたリース歴史学博士は、日本では開明学校が東京大学になると、「史学会雑誌」を刊行させはしたが、歴史学博士号は許さずに帰国した。
 だから歴史の専門家が一人も認められていないゆえ、まぁ古代史は無理といってしまえばそれまでの話だが、もし良心があるなら各大学で歴史担任の教授は丸坊主にでもなるべきだろう。
 なにしろ日本以外の国では、歴史を愛国心を育てるために重点的に教える。大学入試でも、歴史は必須科目として必ず受けさせられる。しかし日本ではディスカッションし学生たちに研究討議させる重要科目ではなく、中学生の頃から文字通り教科書を暗記させ、年号を覚えさせるだけであって、大学の入学試験にも歴史を必須受験科目にするようなところは全然ないのである。

             ☆      ☆      ☆

(非常に膨大な文字数なので、次回に続く)





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Last updated  2024年11月26日 13時04分00秒
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