PR
Keyword Search
Calendar
Comments
Freepage List
とにもかくにも、夏休み前半は重なる葬儀、そしてPTA連合のスポーツ大会(我が校が当番校ゆえ、てんてこ舞いだった)などで訳がわからぬまま過ぎていった。
0先生。昨年転任されてきた39才の「声のバカでかい」「寒いダジャレで生徒と対決する」誰にでも人気があり、誰に対しても気配りのある先生だった。
今思い返しても、申し訳ないほど我々保護者(兼PTA)に対して柔軟に対応してくれ、行事には必ず顔を出し、その上、ご近所ではスポーツ少年団、「おやじの会」で精力的に活動していた。
金曜夕方に挨拶を交わしたのが最後、日曜未明に虚血性の心筋梗塞(おそらく)で自然に息を引き取り、奥さんが午前7時に起こしに行った時には亡くなっていたらしい。
呆然と動けぬ奥さんに代わり、6年生の長男が消防署へ走って行ったと。「お父さんが動かない!」と。 救急車が自宅に到着するも、人を乗せずに去っていった。その後、死因を検証するために、まず最初はパトカーが来る~そのあたりで、噂が噂を呼び、たまたまそれを聞きつけた一人の教師からの情報で学校が戸惑う。O先生宅で何かがあった。O先生のお父さん(校長までされた元教員)だろうか?
O先生の自宅の電話には誰も応答しない。教頭が何気ない振りをしてO先生の携帯を鳴らす。奥さんが応答し、「主人は亡くなりました」と。
心疾患による死亡は、遺体が黒くなるらしい。だから、「見せたくない」との家族の希望で、最後のお別れもできなかった。
通夜も葬儀も葬儀場周辺道路が大渋滞するくらいの混雑だった。親族はもちろん、学校関係者、生徒(O先生は6年生の担任である)、卒業生、スポーツ少年団関係者など。暑い盛りの葬儀に、倒れる児童もいる。
6年3組のクラス代表による「お別れの言葉」、そして6年生有志による合唱「桜の下で」。
私はその2日前のワカさんの葬儀のこともあり、人生ってなんだろうと、こんな単純なことに答えが出せずにいる。いや、出せるわけはないのだ。わかるはずがないのだ。
長女「ま」はとにかく 「泣くのを我慢してたよ」。
次女「み」は最初は眉間にしわを寄せてあたりを見回していたものの、後半は号泣し、先生に慰めてもらっていた。
~しかし、肉親の死ではない。悲しいことはわかっても、実感としてはいまひとつなのではないか。
出棺の際のO先生の小学校2年になる次男の姿が焼き付いている。ひざまずき、拳を地面に叩き付けていた。あまりにも突然の死を受け入れられないのではないか。
ワカさんの葬儀もO先生の葬儀も、親族には杖をついたかなりのご高齢の方がいらした。さぞつらいことだろう。若い者が先に逝ってしまうことくらい、親不孝なことはない。
我々も、子ども達が成人するまでは死ねない。絶対に。
明日のことがわからないゆえ、一日一日を大切に過ごさねばならない。なのに、ついついオリンピックばかりみて過ごしてしまう毎日であった…。