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「網走五郎・神社物語」、アマゾンから電子書籍として出版しました。宣伝のため一部を掲載します。 序文演劇実験室・天井桟敷時代、喧嘩と酒と女に明け暮れた網走五郎が神主になり定年退職を迎えるまでの物語である。テメエのことを書き綴るのだが、一人称では気がひけるので、小説風に三人称で書き綴ることにした。そのほうが読者にも楽しんでもらえる。だからといって小説のように、想像力で執筆するわけではない。これから書かれることは、すべて真実である。しかし登場人物の一部は仮名を用いることにした。人を傷つけることが、本書の目的ではないからである。本書執筆の目的は「誰も排除するな ! 」 である。 ソ連政府に抗議文 ソ連警備艇に連行された五郎は、ソ連政府に下記の北方領土返還抗議文を手渡している。 『私は単身、泳いで日本からやって来た網走五郎と言う者です。年齢は三十二歳。私は貴国に亡命したくてやって来たのではありません。北方領土返還の抗議に来たのです。歯舞・色丹・国後・択捉の四島は日本固有の領土です。早急に返還して下さい。1945年8月、日本は広島・長崎に原爆攻撃を受け、瀕死の状態になっていたが、貴国はこの時、日ソ不可侵条約を一方的に破って日本攻撃を開始したのです。当時、日本は日・独・伊三国軍事同盟を結んでいたので、貴国がヒトラードイツ軍に押しまくられていた時、日本も貴国に攻撃を仕掛け、貴国を敗北に導くことができたにもかかわらず、日本は条約を守って攻撃を仕掛けなかったのです。ところが貴国は、日本弱しとみるや条約を踏みにじって日本攻撃を開始し、千島・樺太を占領した。その後未だ占領をし続け、日本固有の領土歯舞・色丹・国後・択捉の四島すら返還しないのは、畜生にも劣ると言わねばなりません。日本から直接攻撃を受け、大きな被害を被ったアメリカですら、5年前には沖縄を返還しています。貴国も日本固有の領土、歯舞・色丹・国後・択捉の四島を早急に返還すべきです。私はこの四島が返還されるまで、当分貴国に置かせてもらいます。私の後ろには一億一千万人の日本国民がついています。ソ連政府殿 網走五郎』
2017年09月02日
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「網走五郎・神社物語」 アマゾンから電子書籍として出版しました。宣伝のため昨日に続き一部を掲載します。 北方領土へ泳ぐ... 沖縄県護国神社に寝泊りしつつ、更に1ヵ月ほど激しい練習に励んだ結果、50メートルしか泳げなかった五郎は1万メートル以上泳げるようになっていた。 昭和52年7月27日早朝、五郎はノサップ岬から北方領土へ泳ぎ渡った。北方領土へ泳いだ体験記は2004年河出書房新社から出版された「網走五郎伝」に詳しく書いてあるので、ここでは、当時の新聞記事を掲載する。真実の記録である。 昭和五十二年七月二十七日 北海道新聞の夕刊。 ノサップから密航男ザンブ ソ連艇が連行[根室]二十七日朝、根室市郊外ノサップ岬からウエットスーツを着た若い男が北方領土へ向けて密航を図った。男はソ連主張領海内の座礁船上で休息を取っているところをソ連警備艇に発見、連行された。男の身元、密航の動機など詳しくは全くわかっていないが、二十四日から同岬にあるバンガローに泊まり込んで天候条件などを調べ、暁の出国に備えたらしい。根室海上保安部、根室署は出入国管理令違反の疑いで捜査している。 同日午前七時十分ごろ、同市ノサップ岬から百メートル沖合の珸瑶瑁水道をウエットスーツ姿の男が北方領土・水晶島方向へ泳いでいくのを根室航路標識事務所職員が発見、同海上保安部、同署へ通報した。 このため、根室海保は巡視艇はまなみを現場に急行させたが、男は八時四十分ごろ、ノサップ岬北東三・二キロの地点で昨年十二月に座礁したままになっている宗谷管内枝幸町のメヌケ刺し網漁船第八十一妙宝丸(二九九トン)へ泳ぎついた。男は船上で休息し、ノサップ岬方向へ日の丸の旗を振るなど余裕たっぷり。しかし、ソ連主張領海内とあって、巡視艇はまなみは男に近づけず、マイクで同岬へ戻るよう呼びかけたが、従う様子を見せなかった。 その後、水晶島付近を哨戒中のソ連警備艇724号が船上の男を発見。警備艇からモーターボートを出し、午後九時二十三分にこの男を捕まえ連行した。 このあと同十一時ごろ、はまなみが水晶島弁歳泊湾内に入ってソ連警備艇と接触、男の引渡しを求めた。しかし、同艇は「氏名、住所も明かせない」と拒否、はまなみはいったん、自粛ラインまで引き揚げ、状況を見守っている。 一方ソ連側は警備艇722号も現場に繰り出し、一帯は緊迫した空気となってきた。同署、同海上保安庁の調べによると、男は二十四日夕方から同岬のバンガローに泊まり込んでおり、その宿帳に「東京都神宮前三ノ二七ノ十一、渡辺尚武」と記していたが、該当者はいなかった。年齢は三十歳前後で坊主頭。身長は一七○センチメートル前後、がっちりした体格、日に焼けた精かんな顔つきだったという。密航前、海峡の潮の流れなどを詳しく聞いており、計画的な密航とみている。また、岬にある展望台から思い詰めた表情で北方領土を見つめていたという。 遺留品には赤い上下のジャージーや寝袋、リュックサックなど。密航の動気、思想的背景などについては、今のところわかっていない。同岬には今月二十日過ぎから右翼の三団体約百五十人が入り込んでいたが、すべて引き揚げており、関連は薄い模様。 同岬からの密航は昭和四十八年七月に精神異常の男が、沖合二百メートルのところで付近の漁民にみつかり、同署に出入国管理令違反で逮捕されている。しかし、昨年夏から右翼団体を中心に「船で北方領土へ」という動きが出始めており、同署は警戒を強めていた。 昭和五十二年七月三十一日、朝日新聞朝刊の記事。「北方領土でソ連に抗議」 遠泳男から手紙 二十七日朝、根室市の納沙布岬から、札幌市出身の住所不定、無職渡辺尚武(三二)が貝殻島へ向かって泳ぎ、ソ連警備艇に連行されたが、渡辺がその直前、現地で投函したと思われる「北方領土へ渡り、ソ連政府に北方領土返還の抗議文を渡す」という趣旨の手紙が三十日午後、札幌市の朝日新聞北海道支社に届いた。北海道警察警備部では、いままで渡辺がなんの目的で貝殻島のほうへ泳いでいったのか意味を図りかねていたが、今回の「声明文」ともいえる手紙で、渡辺がはっきりした目的をもって渡ったことが明らかになったとし、これまでの経歴の洗い出しを急いでいる。 渡辺の送ってきた手紙は「俺は土方あがりの流れ者で、この十年間一人旅を続けている網走五郎というものです」という書き出しで始まり、北方領土は「はじき出ているところ」が自分と似ているので、次の旅先は北方領土に決めた」と述べたあと、ソ連政府に北方領土返還の抗議文を手渡すと宣言している。 渡辺は最後に「この手紙が皆様の目にふれるころ、オレはソ連のブタ箱に入っていることでしょう。では日本国民の皆様、しばらくの間、グッドバイ、網走五郎」と結んでいる。 手紙は七月二十七日午後零時から同六時までの歯舞局の消印となっており、差出人は 「ノサップ岬、網走五郎」となっいる。道警では渡辺が納沙布岬のバンガローに残していった所持品の中に劇団のビラから切り抜いた「網走五郎」と印刷された紙切れがあったので、投函者は渡辺に間違いない、とみている。道警のこれまでの調べでは、渡辺はこれまでとくに右翼団体に所属していたことはなく、一時アングラ劇団に入っていたことがある。このため今回の行動が本当に抗議をねらったものか、顕示欲を満足させるためにおこなったものかはっきりしないという。 不法出国で逮捕状。根室海上保安部は渡辺を出入国管理令違反(不法出国)として三十日までに逮捕令状をとった。
2017年08月27日
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網走五郎・神社物語」、アマゾンから電子書籍として出版しました。宣伝のため一部を掲載します。 序文 演劇実験室・天井桟敷時代、喧嘩と酒と女に明け暮れた網走五郎が神主になり定年退職を迎えるまでの物語である。 テメエのことを書き綴るのだが、一人称では気がひけるので、小説風に三人称で書き綴ることにした。そのほうが読者にも楽しんでもらえる。だからといって小説のように、想像力で執筆するわけではない。これから書かれることは、すべて真実である。しかし登場人物の一部は仮名を用いることにした。人を傷つけることが、本書の目的ではないからである。 本書執筆の目的は「誰も排除するな!」である。 ではこれより「網走五郎・神社物語」の幕開け…… 交通事故にあう 演劇実験室・天井桟敷を去ってから6年が過ぎた昭和52年3月9日、網走五郎は沖縄の海で泳ぎの練習をしていた。ソ連が不法占拠している北方領土へ泳いで渡り、領土返還を訴えるためだった。 毎日、十キロの遠泳・ランニング・腹筋・腕立て伏せ・懸垂等、一日中トレーニングをおこなっていたため、贅肉の殆どないブルースリーのような肉体になっていた。 丁度、那覇市内の桜坂映画館では「燃えよドラゴン」が上映されていた。それを見た五郎は6年前、寺山修司から「書を捨てよ、町に出よう」の映画出演を依頼され断ったことを思い出した。<今、俺が映画出演したらスターだな>(笑)ブルースリーの肉体は映画映りをよくするための肉体改造であったが、網走五郎の肉体は、ひたすら北方領土へ泳ぐトレーニングの結果出来上がったものであった。死に物狂いでハードトレーニングに励んでいた。寝ぐらはマイカーのライトバンであった。ところがトレーニングを終えた昭和52年6月19日の夜、車を運転中、大型バスに追突され車が大破してしまった。寝ぐらがなくなり途方に暮れた五郎は、考えあぐねた末、神社に宿泊させて貰おうと、沖縄県護国神社を訪ねた。『国のため命を捨てようとしているのだ、護国神社なら泊めさせてもらえる』当時、五郎は神社に対する知識は全くなかった。ただ名称が国を護る神社、護国神社だから泊めさせて貰えると単純に思ったのである。沖縄県護国神社の宮司代務者は、靖国神社七代目宮司大野俊康の子息大野康孝であった。一週間前、偶然公園でトレーニング中、声をかけられて知り合いになっていたのだ。神社に宿泊するには事務局長の許可が必要とのことで、この夜は彼のアパートで酒を酌み交わした。翌日、神社に出勤した事務局長は快く宿泊を許可してくれた。事務局長の名は金城勝一。夫婦で勤務していた。<災い変じて福>この交通事故がなければ、「網走五郎・神社物語」はなかったのである。
2017年08月26日
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