ストップ !! 「第二迷信」

ストップ !! 「第二迷信」

2007年11月13日
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 先日の「映画・祇園祭」復元フォーラムにて、
監督の山内さんが、
「映画というのは夢を売る商売だから、ある程度のウソも混ぜないといけないんだ」

「当時の京都の町にあんなに人はいなかった」という話題にて。
「私も、それは十分承知してたんですが、
町の人々が、この映画を作るのにたくさんエキストラを志願されて、いっぱいになっちゃった。」

 「報道映画」じゃありませんからね。あくまで「芸術作品」として。

★その他「時代考証」すると。


 映画の中で、役人の妨害で祇園社に「縛り」がかけられたとき、
「神事ぬきに鉾は出す」と宣言した、新吉の提案。

 とんでもない提案と受け取られていましたが、
 実は、そもそも、 山鉾は「神社のもの」ではなく、「町」のもの 。神輿と違って鉾には「ご神体」は乗ってない。
 元は疫病から都を守るための 祈祷の祭礼が祇園会 。「お祭り」要素とは別次元にあった。
※実際に、神事ぬきに巡行したことは、「応仁の乱」以前にも何度かあるという。
  (もっとも、自分達が生まれる前に途絶えたものを新吉たちが知る由もないが)

【女人禁制】
 これはあまり知られていないと思いますが、

16世紀に作られた『 洛中洛外図屏風絵 』には、女性の囃し方が乗っている鉾も描かれている。
(画像が拾えず申し訳ありません)
実際に【女人専制】になったのは、江戸時代以後。

【7月17日】

「6月7日」の神幸祭から14日まで。

 さらに、根本的な問題として、
 「応仁の乱」の時代の山鉾が、ああいう大きなものだったか、という疑問。

 じつは、平安時代以後、『洛中洛外図』までの間に、「 いつから鉾が巨大化していったのかを示す資料が残ってない 」のが現実。
長刀鉾
 元来が「鉾」というのは「武器」であって、「長刀鉾」の「長刀」だけの長い棒みたいなものが「 祭り鉾(剣鉾) 」。

 応仁の乱で被災した町なかに、いっぺんに巨大山鉾が復活できたか、というのはけっこう難しいことだとは思います。
 「復興の歴史」の中で、だんだん大きくなって行ったような気はします。

 ※ちなみに、京都の老舗で「戦前から」を自慢されるのは「応仁の乱」のことだそうです。
  (安倍さんの「美しい国」の歴史とはスケールが違う。)





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最終更新日  2007年11月14日 20時54分41秒
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