あの朝の戦慄を表現するのは難しい。
僕の場合、
その瞬間はあまりにもあり得ない激震だったし、
街じゅう壊れたような轟音だったから、
なぜか「神への憤り」だった。
その後しばらくしてそれは
神からの鉄槌という感受性に変化した。
ありえない感は、
そんなことはありえないという慢心からくるものであって、
慢心に対する鉄槌と感じたのだった。
兵庫県東南部、
それは最高の生活文化環境と僕は慢心していた。
もちろん、
自然災害に意図などないのだけれど、
僕はそう感じたのだし、
人生が変わった節目でもあった。
端的にいえば、
なりふりかまわなくなった。
実は今でも普段着のまま寝ているのだ。
なにが幸せで何が豊かであるかという価値観が変容した。
今は3.11のほうがはるかに巨大な厄災だし原発事故のために
国家的な非常事態ともいえる歴史的状況が現実だから
回顧している場合ではない。