どうしても結論がない事、
というのがある。
1945年に
アメリカが原子爆弾を
あろうことか
それも2回も、
日本に投下したということだ。
いくら軍事大国とは言え、
人類史で二度とないことかもしれない大罪を強行した。
そうしないと、
狂気の軍国日本を終わらせることが出来なかったのか、
そこまではしなくてよかったのではないか
ということだ。
そこを掘り下げると、
決して明るみに出ることのない、
その前後の日米のやりとりがどうだったのか、
あったのか
なかったのかも含めて、
もうその証人はこの世にはいない。
だから、
分からないことがあるのに誰も言うことはできないけれど、
僕は敢て言う。
アメリカは旧日本の軍事力に勝ったが、
日本国民はそれで自国の圧政から解放された。
解放という言い方が正しいと思うのは、
日本人はイラクやアフガニスタンのようにはならなかったからだ。
そのとき解放されたのは、
常識的には日本の圧政の犠牲者だった朝鮮人の人たちだけど、
重ねて日本人も同時に自国の悪政から解放されたのだ。
父の弟である叔父は南洋で戦没したが、
僕も家族も
アメリカが狂気のニッポンの圧政から解放してくれたことになる。
ことになるけど、
あまりにも犠牲が甚大だったので、
解放と言う言い方に素直に同意してくれる者は少ないかもしれないし、
それはそうだろうと思う。
過去と言うものを
すべてその都度
なかったことにしてよければ、
僕にはあの解放記念日1945.8.15こそ、
失いたくない歴史の金字塔なのだ。
戦後の日本人のあり方全体が金字塔だ。
日本人は
それまでの甚大な犠牲者のためにも、
もう二度と決して
あのような狂気を政治に許してはならないという誓いを
したのだと思う。
誰が憲法の草稿を起こそうが、
辛酸をなめた生き残りの日本人の腑に落ちた見識だった。
誰が書いてもいい。
人間ならいい。
サッカーだって、
イタリア人が書いたシナリオで
世界に出たのではないか。
草稿をアメリカ人に誘導されたのが問題だというなら、
200年ぐらい昔に戻って鎖国の中で暮らすしかない。
戦後の日本人の生き方は
称賛に値する。
今では世界から日本人を高く評価されるようになった。
多くの一般の中国人も同じだ。
なのに、
肝心の日本人が悪政で汚染され始めている。
戦後に築きあげてきた日本モデルこそ、
人類に貢献できる世界遺産なのに、
またもや自国の政府が国民の敵になろうとしているのだろうか。
もう決して、
そんなことはないことを祈る。
もう、
国籍も民族もあるものか。
地球は誰のものでもない。
何をいつまでも言ってるのか。
