物事には弾みがつくということがある。
弾みが付き過ぎるということもある。
戦後初めてといっていぐらいの
政権交代があった5年前、
それから3年間の民主党政権が駄目すぎたため、
振り子が自民党というブランド物に戻った。
そこに待ち受けていたのが
こともあろうにアベコベ氏の歪んだ野心だった。
反動に弾みがつきすぎて、
議会はないのも同然になった。
不健全きわまりない事態だ。
野党が泡沫化して、
泡沫のくせになんとか自党らしくありたがるものだから、
対峙できるまともな野党が絶滅した。
与党がいちばん利する状況になったのだ。
こういうふうになると、
民主主義は駄目だなと思ってしまう。
数で物事が決まるのは、
駄目だなと痛感してしまう。
もちろん、、
それよりベターなシステムはないので、
こうなると
数を得たものの人間性や政治家としての見識によって、
歴史も国民の運命も左右されることになる。
アベコベ氏のような人物に権力がわたると、
それはもう絶望的に悲観的だ。
権力を得たのなら、
一国の総理であるかぎり、
それはもう一派のものじゃない。
彼はそれが分からない人物なのだろう、
人事があまりにもお仲間主義だ。
原子力規制委員会のような
今の非常事態国家では特別別格な組織でも、
偏向した人間を送り込んでしまい、
誰もそれをけん制することもできない。
もうこんなのはまともな国家の体をなしていない凶行だと思う。
すべてそういう体質なのだろう。
もちろん、
やることはすべて逆走逆噴射なのに、
国民が暴動を起こすわけでもない。
でも、
この2年、
こんな馬鹿げた現実はありえない、と憤りを感じてきたが、
その憤りは孤独だった。
でも最近気づいていることは、
意外に思いが共有できる人が多いということだ。
マスコミもほとんどイカれているから、
世の中はそうじゃないように見えているけれども、
そう見えているのは一種の国民の建前があってそうなっているのであって、
現実の表層と現実の深層はちがうなと
少し思いはじめている。
もしそうなら、
日本人は大丈夫かもしれない。
でも、
現実に大丈夫にするためには、
反動の弾みがつきすぎてできてしまった悪性の出来物権力を
選挙で退場させなくてはならない。