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発達障害をテーマに盛り込んだNHKのドラマ
「テミスの不確かな法廷」を、全回視聴しました。
発達障害を非開示にしている裁判官が、
自身の特性と向き合い、葛藤し、
悩みながら周囲の人たちと関わっていく姿を描いたドラマで、
同時に司法の重厚さや課題も突きつける作品でした。
その中で、主人公である
発達障害の裁判官・松山ケンイチさんが
自身の発達障害を開示した際、同僚たちから
「それは個性だよ」
「職場には個性的な人がたくさんいるから」
と良心的な対応をされます。
そのとき松山さんは
「特性を個性と言い切るには高いハードルがある。今でも怖い」
とつぶやきました。
この言葉によって私は、
製作陣が発達障害にしっかり向き合って作られたのだろうと、
とてもありがたい気持ちにさせられました。
昨今、発達障害に関し
「特性はグラデーション」「凸凹もその子の個性」と、
良心的で好意的な優しい言葉が頻繁に使われます。
私自身も、
ポジティブな文脈でこれらを使うことはありますし、
その言葉に救われる瞬間があることも否定しません。
「個性的でいいね」「天才肌だね」「誰にだって苦手なことはあるよ」
これらの発言者に、
悪意がないことは十分わかっているのです。
なのに、
私は心のどこかがチクチクと鈍く痛むのです。
発達障害当事者の親にとって「個性」という言葉は、
時にあまりにも軽く、残酷に聞こえることがあります。
「ダイバーシティー」をきれい事で
塗り固められたかのように感じてしまうことがあります。
理解や共感が浅瀬の段階なのに
「発達障害は個性だよね」
というシャッターを下ろされてしまったような感覚です。
例えば、自分の衝動性が抑えられず、
何百回、何千回と注意されても改善できず、
苦しみ悲しい思いをしながら
「でも自分のせいで周囲に迷惑をかけている」
と悔い、つらさの吐露もできない
発達障害当事者の現状と心理に、
私はどこまで共感できるのだろう?
簡単ではありません。
だから私は簡単に
「個性だから大丈夫」
と言うのは難しいのです。
ここで、障害の捉え方を確認します。
障害には大きく分けて
「医学モデル」と「社会モデル」があります。
【医学モデル】 障害は個人の身体的・精神的な機能不全であり、
治療や訓練によって「克服」すべきもの。
【社会モデル】 障害は個人の中にあるのではなく、
社会の側にある障壁(バリア)によって生じるもの。
現代のインクルーシブ教育やDEI
(多様性、公平性、包括性の英語の頭文字を取った言葉)、
ニューロダイバーシティー(神経多様性)の議論は、
「社会モデル」がベースです。
社会が変われば障害は障害でなくなる、という考え方です。
しかし、これが拡大解釈され
「社会の側が変われば、特性はすべて素晴らしい個性になる」
という飛躍的な理解があることも事実です。
このことに関し 「すべてのASD(自閉スペクトラム症)を
ライフスタイルのように見なすのは偽善的。
低機能ASDの苦悩は多様性の議論から排除されてきた」
と、慎重な見方を促す研究もあります。
ただ、 恣意
的にグッドシェイプされたインクルージョンの輪郭は、
マジョリティーにとって非常に耳触りが良く、
浸透率が高くなりがちです。
そんなマジョリティーの人たちによって
「個性」という言葉でくくられた瞬間、
マイノリティーである発達障害は
医療的・教育的・社会的支援の必要性が収縮し、
狭い議論に押し込められてしまいます。
この
「理解されているようで、その実、
最も重要な部分が切り捨てられている感覚」
こそが、
私たち当事者家族が抱くチクチクの正体かもしれません。
そもそもマジョリティーは、自分たちが
「他者理解や共感能力に長けている」
と信じています。
無意識に。疑うことなく。
これは本当にそうでしょうか。
2016年にベルギーで製作された
短編映画『Downside Up』は、
まさにこの問いを突きつける作品です。
この映画は、ダウン症の人が社会の大多数を占め、
ダウン症ではないいわゆる健常者
(健常の定義は意見が分かれますが本コラムでは便宜上使用します)
が「マイノリティー」であるという、
現実を逆転させたパラレルワールドを描いています。
映画では、マジョリティー(ダウン症の人々)
がマイノリティー(健常者)に対し
「慈悲深く」接するシーンを印象的に描きます。
「君は私たちとは違うけれど、それも一つの個性だよ」
「私たちが助けてあげるからね」
このシーンを見て私は、
健常者が発達障害の人に無意識に向けている善意は
相手を置き去りにしたものではないか?
マジョリティー側は、
マイノリティーが見ている世界を、
実は全く想像できていないのではないか?
と気づかされました。
この『Downside Up』という映画は、
教育手法における
「立場入れ替え型ディベート
(Switch-Side Debate)」
や
「リバースメンタリング(若手が上司に助言する仕組み)」
を映像表現にアレンジしたものだと言えます。
「立場入れ替え型ディベート」や
「リバースメンタリング」は、
「自分の立場や信条にかかわらず
関係性を逆転させて議論することで、
持論を批判的・客観的に検討する力がつき、
またバイアスを防ぐことで
多角的視点や多様性の理解が進む」
とされています。
マジョリティーが、
自分の「共感」というモノサシを絶対視し、
そこから外れる人を「個性」と呼んで距離を置く。
これこそが
アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)であり、
マイクロアグレッションを誘発します。
具体的なビジネスシーンでも、
「発達障害の理解が及ばずに企業業績に影響が出る」
ケースもあります。
発達障害支援動画メディア「 インクルボックス
」
でインタビュー取材した
精神保健福祉士・公認心理師・臨床発達心理士・
キャリアコンサルタントの佐藤恵美さんによると、
うつ病で休職した方が復職する際、
会社側が「うつ病モデル」で仕事を再開させた結果、
何度もうつ病を再発するケースがあるそうです。
その理由に
「発達障害の二次障害としてうつ病を発症した」
というベースがあったそうなのですが、
会社側は「うつ病」という単一の断面で意思決定していた。
自社のモノサシによって当事者への共感が及ばなかった結果で、
この事例は産業保険の世界で頻発していると警鐘を鳴らしています。
「相手の気持ちがわからない」
と言われ続けてきた発達障害の人たちの横で、
実はマジョリティー側もまた、
マイノリティーへの想像力が欠如していると、
いったん立ち止まって
考えてみてもいいのかもしれません。
アナウンサーという職業柄、
私は言葉を多面的に疑って生きています。
「特性は個性」「ダイバーシティー」「インクルージョン」。
これらの言葉を使うとき
「いつ」「どこで」「だれが」「だれに」
というアングルを忘れたら、
思考停止となり一気に危うくなります。
聞こえが良く、
浸透力がある「特性は個性」という言葉を、
松山ケンイチさんが「怖い」と表現したことは、
「なぜ怖いのか」
を解像度高く
私のような当事者の親に考えさせてくれました。
「立場入れ替え型ディベート」や「リバースメンタリング」は、
ごくごく単純に言えば
「相手の気持ちに立って考えてね」です。
子育てをする親なら絶対に一度は言ったことのある言葉です。
相手の気持ちがわからないのは、お互いさまです。
だからこそ、
私たちは「立場入れ替え」する努力を
怠らないことが重要です。
実際のアクションまで起こさなくてもいいのです。
マジョリティーは自分たちの共感社会にいない
マイノリティーが直面している「環境の過酷さ」を、
少しでいいから知る優しさがあってもいいと思うのです。
(赤平大 アナウンサー)
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