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2007年11月27日
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カテゴリ: 勝手に野球談義


 確かに球団創設の意味は「国鉄職員のレクリエーション」的なものでしたが、勝負の世界、あまりに弱すぎれた職員たちからも見放されてしまいます。そんな時、西垣監督は「名古屋の方にすごい球を投げる投手がいる」という情報を聞きつけ、獲得に乗り出しました。

 その少年こそ、ご存知「金田正一」今に残る「大投手」。金田ことカネヤンは当時享栄商の学生でして、子供のころは焼け野原で育った経緯がありました。名古屋の空襲は当時最大の国宝といわれた名古屋城の大天守閣が焼失するくらいひどかったのです。十分に野球ができなかったが、木曽川に石を投げ続け肩を作ったとか、戦後、ボロキレで作ったボールで野球をしていた中から、あの強靭な肩は出来上がったと本人が言っています。

 甲子園こそエースとして行けなかったのですが、その直後西垣監督自らが名古屋の自宅を訪ねスカウトしています。当時は自由競争でスカウトという職業も満足にない球団でした。

 カネヤンのお父さんは土方をしていたそうですが、喜んで受け、少年カネヤンは国鉄の特急「はと」に乗り、西垣監督、父親と3人で10時間かけて東京に出てきました。

 カネヤンは移動の最中、いくらでも監督が駅弁を買ってくれるので、食べきれないほど食べたと述懐しています、当時はまだ食べ物も十分食べれなかったのですね。

 東京に出てきたカネヤンは人の多さにビックリ、名古屋では少し有名だった少年カネヤンも驚きの連続だったそうで、あまりの人の多さを「お祭りをしている」と勘違いしたり、喫茶店で働く女給さんがあまりに美人なのに驚いたり、「田舎モノ」を丸出しだったと本人もいっています。

 球団創設の年の途中からチームに入ったカネヤンですが、後にその頭角をメキメキと現すことになります。





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最終更新日  2007年11月27日 19時06分54秒
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