月の旅人

月の旅人

しびれた念願の対面

しびれた念願の対面




バルセロナ空港内念願叶ったバルセロナの地に降り立ったものの、パスポートにその証明となるスタンプを押されることもなく気づいたらスーツケースを受け取っていた、という感じだった。
スタンプも楽しみにしていたのに、ちょっと悲しい。(T_T)
しかも乗り継いだパリでもスタンプが押されぬまま、天敵であるはずのセキュリティチェックまで止められることなくあっさりと通過してしまい(関空ではあれほど厳重チェックだったのに!?)、パスポートには関空で出国時に押されたスタンプのみ、という状態である。
思わぬがっかりな気分その2、といったところだろうか。(笑)
全員分のスーツケースも無事確認でき、空港を出て横づけされていたバスに乗り込む。このバスは私たちをホテルへ送ってくれるためだけのバスで、翌日から旅行中ずっと同じバスになるらしい。
妙に派手な柄の椅子のバスに乗り込み、後ろよりの席に座る。程なくしてバスが走り出した。時刻は21時を過ぎていたが空はまだ夜空ではない。初めて体験するサマータイムを、夕陽の残光を残した空で実感した。


向かうホテルは、カレージャ(Calella)という海辺のリゾート地にありバルセロナから約1時間の距離にあった。なんと到着した早々、バルセロナといったんお別れである。(^-^;)
観光シーズンのため各国からの観光客が多く、バルセロナのホテルを押さえることができなかったらしい。にもかかわらず移動中に明日の出発時間は8時半だと聞かされ、そんなに遅く出発して果たしてサグラダファミリアの塔に登れるのかと大いに不安を抱き、みきちゃんと顔を見合わせる。年齢層が高いと出発時間もゆっくりめになると聞いたことがあり、まさかそれで……? とちょっと沈んだりもした。
なんと言っても、私たちのこの旅の第一の目的はサグラダファミリアである。正確に言えばガウディ建築が目的だが、このツアーでは他にグエル公園しか見られず、そうなるとサグラダファミリアが大きな位置を占めるのは自然の成り行きと言えるだろう。なのに満足いかないまますぐに移動、なんてことになったらと思うと気が気ではなかった。
そして、ちょうど1時間後くらいにホテル『BERNAT 2(ベルナート ドス)』に到着した。駄目もとで添乗員さんに出発時間を早められないか聞いてみようかということになり、みきちゃんと2人でチェックインをしてくれているKさんの後ろで待つ。ところが思ったよりチェックインに時間がかかっていて、時間を持て余した私たちはその周りをうろちょろして写真を撮り始めた。そのおかげで、ハッと気づくとKさんはもう受け取ったキーを渡すべく名前を呼んでいるところだった。Σ( ̄□ ̄;)しまったっ!!
自分たちの部屋のキーももらい明日の時間を改めて教えられ、言うタイミングをすっかり失くしてしまった私たちは、しょんぼりしながら「どうかサグラダファミリアが存分に観られますように」と祈るしかなかった……。(_ _。)しゅん…

Calellaのホテル室内部屋に入ってみると「かわいい~」「広~い」「ベランダある~」などと口々に言い、すっかり上機嫌になった私たち。単純である。(笑) 
いくら可愛く広い部屋といっても、本来はツインルームのところを3人で使わせてもらうためやはりベッドの1つは簡易だった。でもシーツや掛け布団は同じようにされていて、少しベッドが小さいだけのこと。それでも一応簡易ベッドには誰が寝るかをジャンケンで決め、Nさんが最初の簡易ベッド利用者となる。
時間も時間のためすぐにシャワーを順番に浴び、明日に備えてベッドに入った。それにしても隣室の音がよく聞こえる部屋だった……。水を使う音はもちろん話し声も聞こえ、隣にはカップルが宿泊していて男の人は風邪を引いているらしく何度も咳をしていた、なんてことまで筒抜けである。( ̄▽ ̄;)あは
4つ星ホテルなのに……。


翌朝も隣の部屋の咳で起こされた。大した咳をしていたわけでもないが、気持ちが高ぶっているのか眠りが浅かったようだ。なんたって、夢にまで見たサグラダファミリアをこの目で見ることのできる日がやってきたのだ。ヽ(*^^*)ノ
いそいそと準備を整え、朝食前に散歩に出かける。ホテルから2分ほど歩けば海岸だと昨夜添乗員のKさんが教えてくれ、行ってみることにしたのだ。
部屋を出てエレベーターを待っているとこれから同じく散歩へ行く人たちに会い、エレベーターからはすでに散歩へ行ってきた人たちが降りてきて、エレベーターを降りた所でまた海岸から帰ってきた人に出会った。ホテルから海への間にも同様で、結局ほとんどの人がもうすでに起きていてとっくに散歩している、という状態だった。
みんなこんなに早起きなら出発を30分以上早めたとしても全然平気じゃないのっ、とみきちゃんと悔しがりながら、本当にすぐに海岸に着いた。迷うことなど全くなく、ホテルから数メートル歩けばもう海が見えていたのだ。
すぐ傍の海岸海岸沿いに続いていた花「地中海や~っ♪」
まずはありきたりのセリフで感動を示し(笑)、靴の中に砂が入ってかなり痛い思いをしながらも波打ち際まで寄ってみた。寄せる波を写真に撮ろうとして油断し、ちょっと強く寄せた波に足元を濡らされて「いや~っ濡れた~っ」と言いながらも笑い、ちょっと避難して離れつつしっかり波を写真に収める。
空には、ちょうど昇ったばかりの朝陽が流れるように伸びる雲を照らしていた。
道路と砂浜の境には大ぶりのピンクの花が連なっていて、「何ていう花やろ」と言いながらみきちゃんが写真に撮る。日中に向けて花開くのか、すべてがつぼみだった。


朝食はホテルの地下で取る。パンはマフィンやパウンドケーキなどの甘い系のものしかなく、フルーツも少なかった。旅行中の朝食で個人的に楽しみにしているメロンもなんだか固くて味気なく、ちょっと納得のいかない内容を初めてのココナッツ味ヨーグルトとレモン味ヨーグルトの2個でごまかして終える。
8時半になる少し前に、バスはホテルを出発した。早く観光したい気持ちはみんな同じなのに違いない。
前日の予告どおり、バスのドライバーさんはこの後の観光をずっと運転してくれる予定のSさんにかわった。少しばかり心配していた渋滞もなく1時間後にバルセロナ市内に入る。そこで、思わぬハプニングが。
なんとSさん、信号で停まったときにサグラダファミリアの場所を通行人に訊いているではないかっ!Σ( ̄- ̄;)えぇっ!?
そんなバカな……といきなり不安になる。
サグラダファミリアの場所を知らないなんてどれだけ道に不案内なんだっ、と誰もが思ったが、親切な通行人のおかげで迷うことなく無事にサグラダファミリアに到着した。ε=(-。-;)ほっ



スペイン第2の都市バルセロナは、中世の面影を残す旧市街とその周辺に広がる新市街から成っている。そしてフランスと国境を接するカタルーニャ自治州の首都である。
スペインを訪れるまでにもテレビなどで聞き知ってはいたが、カタルーニャの人々は「スペイン人ではなくカタルーニャ人」だと公言するほど誇りを持っているらしい。そのためカタルーニャでは公用語もスペイン語(カスティーリャ語)ではなくカタルーニャ語で、1992年に開催されたバルセロナ・オリンピックの際にも案内板は英語、フランス語に続いてカタルーニャ語で表記されていたとか。

アントニオ・ガウディそんな誇り高いカタルーニャ地方のバルセロナ南西にある村で1852年6月25日に銅細工職人の5人兄弟の末っ子として生まれたのが、アントニオ・ガウディ・イ・コルネットである。
ガウディは1871年にバルセロナの建築専門学校に入学し1878年に卒業後、シウタデラ公園の鉄柵や鉄門などを手がけたり、装飾や家具デザインも注文があれば引き受けていた。そしてパリ万博に出品された手袋店のショーケースをデザインし、それがバルセロナの実業家であり政治家でもあったアウセビオ・グエルの目に留まったのをきっかけに彼がガウディの良き理解者でありスポンサーとなり、グエルの惜しみない協力と依頼によって数々の建築を残すことになった。
ところが、初代建築家フランシスコ・ビリャールが着工後1年で辞任してしまい1883年に31歳でサグラダファミリアの主任建築家に任命されたガウディは、以後この建築に生涯を捧げ、1914年からはすべての依頼を断ってサグラダファミリアに専念している。だがそれまでにサグラダファミリア主任建築家として名声を得たガウディはバルセロナとその近郊の多くの建築物を手がけ、途中で建築が中止されてしまって残念なコロニア・グエル教会地下聖堂は、それでも最高傑作と言われている。
いつかバルセロナを再訪した際に訪れてみたいものだ。(* ̄- ̄*)
サグラダファミリアの建築に専念してからのガウディはこの教会内に居住し、寄附金(現在は観光客の入場料や教会内のお土産代も資金源)で建設が行われていたため幾度も資金難に遭遇したサグラダファミリアのために自分の財産もすべて寄附したため、ダンディで有名だったらしい彼が浮浪者と間違われるほどの格好になっていった。1926年6月7日の夕刻、ミサへ向かう途中にバルセロナ市内で路面電車にはねられてしまったガウディは、そのため病院に収容されるのが遅れてしまい、10日の午後5時に73歳でこの世を去ってしまう。
ガウディの遺体はローマ法王庁の特別許可によってサグラダファミリアに埋葬され、文字通りにサグラダファミリアに捧げたその生涯を終えたのだった。

着工より120年以上が経過し、ガウディ亡き後も100年後、200年後とも言われている完成を目指して彼の意志が後世の人々に引き継がれ、建設が続けられているサグラダファミリア。だが、一説にはあと20年あれば完成するとも言われている。日本の技術をもってすれば、資金さえあれば2年での完成もあり得るらしい。
でもそれはガウディの思想から明らかに逸脱しているため、個人的には大いに反対である。ガイドさんいわく、『聖家族贖罪教会』とも言われるサグラダファミリアは人々の現世の罪を贖(あがな)うために聖家族に捧げられた大聖堂であるため建築を続けることによって聖家族への贖罪を行っているという考えから成っていて、永遠に未完の教会であることが本来の姿だとか。
つまり、完成したとしても早くすればいいというものではないのだ。もちろん完成を見てみたい気持ちはあるけど、それはガウディの意志が引き継がれた上で完成した姿であって、近代技術によって瞬く間に完成したものではない。
実際、バルセロナの市民からもサグラダファミリア完成を望まない声が多いという。
特に『栄光のファサード』が造られる場所に建っているアパートの住民は憤懣やる方ないらしい。なぜなら、取り壊し要求がとうとう市役所へ提出されたとか。いずれは取り壊されることを承知のうえで入居したものの、生きているうちにはあり得ないとどの住民も思っていたそうで、今後重要な課題として問題になるかもしれないそうだ。f^_^;)
今後も困難が待ち受けていそうなサグラダファミリアだが、ガウディの構想どおりに完成すれば5身廊、3袖廊のラテン十字型の大聖堂になる予定らしい。ファサードは現在ある降誕、受難に加えて南に『栄光のファサード』が作られ、塔はその『栄光のファサード』にも同じように4本、そしてイエス・キリストの栄光を讃えて聖堂の中央に170メートルもの塔が聳え、聖母マリアに捧げる125メートルの塔、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人の福音書家に捧げられる4本の塔が立ち、計18本の塔がバルセロナの空を突くように聳えることになる。ちなみに、各ファサードの塔は12使徒に捧げられるもの。
こうして書いていると、ますます完成した姿を見たくなってくる。(*一一)ゞ
もし生まれ変わってそれを見ることができたら、最高なのに違いない。……とは言っても、そのときには今の記憶はないわけだけど。(^。^;)てへ


サグラダファミリアは碁盤の目のように都市計画された新市街に聳え建ってはいるが、市街に入ってしまえば美しい並木道やビルが建ち並んでいる都会であるためその姿はかなり見え隠れし、通りによってはまったく見えなくなる。そんな中をサグラダファミリアに向かって斜めに突っ切っている、その名も『ガウディ通り』からならば迷うことなど考えられないだろう。
残念ながらサグラダファミリアの見えない通りから向かったため、バスのドライバーさんが道を訪ねるのもわか……いや、やっぱりそれはどうなんだろう。( ̄▽ ̄;)
サグラダファミリアこの目で見たくてたまらなかったサグラダファミリアの『降誕のファサード(門)』を、まずは車窓から見上げた。そのときの感動もかなりのものだったが、それでも車窓越しであるためか下車してから改めてサグラダファミリアを見た感動の比ではなかった。震えが走り、鳥肌が立つほどの感動が体を駆け抜ける。フィレンツェのドゥオモを見たときもそうだったが、今回は念願の対面だけにそれ以上で体がしびれる感じがした。

ガウディが神と自然に捧げ、新約聖書の様々な場面が彫刻で描かれているため『石の聖書』とも呼ばれているサグラダファミリアの、その存在感に圧倒されたのかもしれない。
ここで現地ガイドさん2人と気づかないうちに合流し、3人で「すご~い!」「すごいよ~」「ほんますごいっ」とくどいくらいに「すごい」を口にしながらまるでサグラダファミリアを嘗め回すかのようにデジカメのシャッターを切りまくった。嬉しさ大爆発である。(笑)
そんな私たちを促し、ぞろぞろと団体が移動を開始する。北に回り込みまるで凝った切り絵のように影になっていくサグラダファミリアをさらに撮影しながら、西の『受難のファサード』へと出た。そちら側が観光用の入口となっているのだ。
さ! いよいよ入場である。実際にその素晴らしさを体感しよう!(* ̄0 ̄*)/おぉ~っ!!



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