月の旅人

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魅惑のアルハンブラ宮殿~前編~

魅惑のアルハンブラ宮殿 ~前編~




朝、疲れの癒え切らないまま頑張って起き、今日はアルハンブラ宮殿や♪(* ̄- ̄*)、と数時間後に迫っている観光を待ち遠しく思いながら用意を済ませてホテル前の写真を撮り、食堂へと向かう。
ところが、食堂がまだ開いていなかった。7時15分からの食事予定だったが、地下1階のその食堂へ降りたのは5分過ぎで、まだ開店準備中だったのだ。
やけにひょうきんなおじさんと明るい奥さんがガラスのはまった格子戸のまん前に立ち中の様子を伺っていると、中にも楽しいウェイターさんがいて物陰からおじさんの動きに合わせてちらりと顔を覗かせては笑い、おじさんもその様子をおもしろがって2人して少し遊んでいた。
こういうことも海外ならではやなぁ。(*^^*)
と、こちらも楽しくなる。
ほぼきっかり15分になってから開店し、みんなそれぞれ適当に席につく。
旅行中の私の毎朝の食事の楽しみと言えば、前述したようにメロンを食べることである。
が、前日と同じくメロンどころか数種類のパンとフレーク、スクランブルエッグにベーコンやハムにチーズなどしかく、フルーツの“フ”の字もなかった。/(>_<。)\NO~!!
3日目にして悟った。スペインではメロンを期待できない、と。←大袈裟(笑)


8時にホテルを出発し、グラナダの街を走り抜けて『アルハンブラ宮殿』へと向かう。
アラビア語で“柘榴(ざくろ)”を意味する名を持つグラナダはアンダルシアと呼ばれる地方に位置し、ネバダ山脈の麓に広がっている。その山脈の裾の沃野(『ベガ』)を抱え、国土の大半が乾燥地であるスペインには珍しく水に恵まれて繁栄した。よく“光と影”と形容されるアンダルシアだが、グラナダはその中でもひと際強い陰影と神秘的なまでの悲壮感を漂わせている街だといわれる。海と山、荒野と沃野といった自然、そして何よりその歴史がそういわれる由縁である。
グラナダが歴史に登場したのは、711年にイスラム教徒がスペイン南部に上陸してからたった3年の間にスペイン全土を征服し、それから300年以上も経ってからのこと。1236年にキリスト教国連合軍にコルドバの支配権を奪われ逃れたイスラム教徒たちが1238年にムハンマド(英語読みではマホメッド)1世のもとにナスル王朝を興し、14世紀後半ムハンマド5世の時代にアルハンブラ宮殿が完成した。それからスペインで最も長期の間支配され、グラナダはイスラム王国の首都となった。
魔法によって造られたといわれるほど神秘的な美しさをたたえるアルハンブラ宮殿で栄華を極め華やかな王侯生活を送った王朝人だったが、コルドバがキリスト教徒たちの手に戻ってからは終始キリスト教の勢力に優位に戦いを進められていた。
そして結婚を機にローマ教皇から“カトリック両王”の称号をもらったカスティーリャ王国のイサベル女王とアラゴン王国のフェルナンド王が、レコンキスタ(国土回復運動)を旗印にしてイベリア半島で最後のイスラム王国の砦であったグラナダ征伐に乗り出し、膨大な数のキリスト教国連合軍が進攻して、カトリック両王がグラナダ奪還に明け暮れた10年後の15世紀後半1492年1月2日午前10時、ボアブディル王(アブー・アブドゥラ・ムハンマド12世)が無血開城に同意してアルハンブラ宮殿の鍵を差し出した。
これをもって260年間イスラム教国の支配下にあったグラナダは陥落し、カトリック両王が難攻不落の名城といわれたアルハンブラ宮殿に入城して塔に銀の十字架が掲げられ、カスティーリャとアラゴン両国の国旗が翻った。レコンキスタが完了した瞬間である。約800年間にわたるイスラム教国支配の時代を終えて統一が成され、スペインはキリスト教国となった。
ちなみに1492年はレコンキスタ完了年であるとともに、コロンブスがイサベル女王の援助を受けてアメリカ大陸を発見した年でもあり、スペインが大航海時代の幕開けとなる大きな転換を遂げた年である。


グラナダの眺望『アルハンブラ宮殿』は山の中腹に建造された城砦である。バスはくねくねと坂道を上って徐々に高度を上げ眼下にグラナダの街を見下ろす頃、朝靄にかすんだ雄大なネバダ山脈の姿も見ることができた。
1984年に夏の離宮フェネラリーフェ、旧グラナダ市街であるアルバイシン地区とともに、スペインにおけるイスラム教徒最後の砦に花開いたグラナダの華麗な建造物、として世界遺産に登録されたアルハンブラ宮殿は、キリスト教国によって陥落した後も地上の楽園と讃えられるほどのその美しさゆえに破壊から免れ、増築が繰り返されて現在に至る世界有数の宮殿である。それでも往時の5分の1であるとも3分の1であるともいわれている。
アルハンブラ宮殿がどれほど美しいかを謳った詩が、その城壁に刻まれているそうだ。「グラナダの盲人には施しをしなさい。この美しい光景を死ぬまで見ることが叶わないのだから」と。
アルハンブラとはアラビア語の“アル・ハムラー(赤いもの)”からなる言葉で、“赤い城”という意味を持つ。かつては宮殿の壁が赤い漆喰で塗られていたからといわれているが、仕上げの化粧漆喰は白色だったことが判明したためこの説は間違いとなった。他にも諸説があり、塔や城壁の上塗りに赤い土を混ぜたからとか、グラナダの王国の創始者であり城を大幅に拡張したモハメッド・アルハマールの名を取って“アルハマール城”と呼ばれたのが語源などの説がある。
一見堅固な石壁で造られているように見えるアルハンブラ宮殿だが、構造の基盤となっているのは大部分が木材である。そのためとても壊れやすく、修築が成されてきたとはいっても現在まで原形を保っているのは奇跡に近いといわれている。
世界遺産に登録されてからは一日の入場者数に制限が設けられ、チケットの入手は非常に困難であるらしい。
程なくしてアルハンブラ宮殿の裏手に当たる駐車場に到着し、そこから徒歩で数百メートルを移動する。本来なら正面の『裁きの門』からの入城となるらしいが、駐車場が裏手に移されてからは観光バスで訪れた場合の入口は裏門になったようだ。
緑も美しい木々によって涼しげに彩られた道を進むとやや急な坂道となり、それを上り切ると城壁が口を開けている裏門に辿り着いた。右の石壁に『ALHAMBRA』と赤文字で書かれた小さなプレートが掲げられている。
アルハンブラ宮殿は4つの部分からなっていて、カルロス5世宮殿、アルカサール(アルカサバ)、夏の離宮ヘネラリーフェ庭園、そして王宮である。この王宮がアルハンブラ宮殿と呼ばれていて、全体を指すときには正確に言うと『アルハンブラ』だけでいいのだ。
ちなみにスペイン語読みをすると「アルハンブラ」ではなく「アランブラ」と言う。


裏門をくぐって最初に私たちの目に飛び込んできたのは建物ではなく、据え置かれたいくつかの大砲だった。ドイツの古城で見かけたものよりは少し大きかっただろうか。
その背後に、王家の紋章の刻まれたルネッサンス様式の宮殿が建っていた。レコンキスタでカトリック両王に明け渡されたアルハンブラに、両王の孫であり神聖ローマ帝国皇帝でもあったカルロス5世がその一部を取り壊して増築した『カルロス5世宮殿』だ。キリスト教国となったスペインの黄金時代の16世紀に、ミケランジェロの弟子であるペドロ・マチュカによって建造されたもので、アルハンブラ宮殿最大の建築物である。
円形の中庭円形の中庭を正方形の建物で囲んだ珍しい形の建物で、中庭の周囲は2階建ての回廊になっており、1階はドリス式、2階はイオニア式の簡素なデザインの大理石の柱が使用された造りはイスラムの繊細な宮殿とはまったく趣を異にしている。現在は1階がアルハンブラ美術館、2階が県立美術館として利用されている。
この円形の中庭ではかつて、闘牛や騎士の決闘も行われていた。中庭で手を叩くとその音が建物全体に反響するほど音響効果に優れているため、毎年開催されているグラナダ国際音楽舞踏祭の開場の1つとなっている。
いつの間にか合流していたガイドさんがf^_^;)そう説明すると、「あ~っ」と声を発してみるおじさんがいて笑いが起こったり、手を叩いて音を反響させてみる人がいたりした。

カルロス5世宮殿を出、アルカサールを左に見ながら広場の端で立ち止まる。ここから、イスラム教国時代に城塞都市として発展しイスラム寺院が数多くあったというグラナダ最古の市街『アルバイシン地区』が広がる丘を望むことができる。アルハンブラ宮殿ができるまでは、この地区に王の居城があった。1227年にキリスト教軍に追われたイスラム教徒たちが移住し、城塞都市となった場所である。グラナダ陥落時、イスラム教徒たちがこの
場所を砦として果敢に戦い抵抗したため、白壁も石畳も流血で赤く染まったという。
現在はイスラム寺院の多くはキリスト教会に改築されているが、イスラム式の井戸や邸宅はたくさん残されていて見学できる邸宅もあるらしい。高級住宅地でもあり、世界遺産にも登録されている地区のため外観を損なう建築は禁じられ、家屋を改築するときも外観は元通りにしなければならないと定められている。
立ち止まっていた場所から数段の階段を下り、アルカサールとは逆の右側にある王宮へと向かう。アルカサールの見学は残念ながらしないようだ。
入口に辿り着くと、そこから先の行動を共にするらしい係員の人が待っていた。親子なのだろうか、とてもよく似たおじさんとおにいさんの2人である。ここから先に人数制限があるようで2班に分かれて入ることになったのだ。
私たちはラッキーにも、ちょっとかっこいいおにいさんのほうの班になった。
先導してくれるのかと思っていたら、先導するのはガイドさんだけでおにいさんは私たちの班の最後尾を歩く係りのようだ。後になって思ったのだが、最後尾にいる理由はアルハンブラ宮殿のあまりの美しさに見学や写真に必死になってはぐれる人がいるからに違いない、ということ。現に私たちは班の人たちを危うく見失ってしまいそうになるくらい、ずっと最後尾を歩きっぱなしだった。(; ̄▽ ̄)ゞてへ…


14世紀に建築された王宮は、歴代21人の王が正妻や側室たちと生活を共にした場所である。アラヤネスの中庭と有名なライオンの中庭の周囲にいくつもの建物をつなげたような構成になっていて、“閉ざされた楽園”と呼ばれたほど豪華な内部は宮廷の役割ごとに大きく3つに分けられる。まず1つ目は王宮の執務室で、裁きの間では王族や大臣たちが集まって罪人たちに裁きを下していた『メスアール宮』。2つ目は王の住居だった『コマレス宮』、3つ目は王宮の女性たちの住居だった後宮、『ハーレム』である。
イスラム教国を築いたアラブの人たちはもともと砂漠の民であり、王宮はオアシスをイメージして造られたためネバダ山脈から20kmもの水路を敷いて引かれている水が溢れんばかりに湛えられている。そして、オアシスには欠かせない光と水を得て育まれる植物も四季を通して人々を癒してくれる。
赤い丘とも言われる高台に建っているのに、いったいどうやって水が引かれたのだろうか。素晴らしい技術である。( ̄- ̄*)

メスアールの間の聖歌隊席入口を入ってタイルのように敷かれた石敷きの通路を抜けると、すぐに広間があった。『メスアール(政庁)の間』である。
メスアール宮は1319年に造られ、現在残っている王宮で最も古い建物である。だがメスアールの間は16世紀にキリスト教の礼拝堂に改修され、聖歌隊席の手すりも残されている。かつては執務室、司法機関の場として罪人の取り調べが行われたり、王が陳情を受けたり採決を下したり、会議が行われたりした。
当時のイスラムの刑罰は非常に苛酷なもので、例えば盗みを働いた者には利き腕の切断や両耳を削ぐなどの刑が執行されたとか。(((=_=)))怖っ
見事なアラベスク模様の壁面と柱の美しさに、早くも驚かされた。大輪の花が開いたような彫刻が施された木製の天井も美しく、頑張って写真に収める。
絵画のようにアルバイシン地区が見える窓その奥に小礼拝堂があり、執務中に礼拝の時間となるとここでメッカに向かって祈りを捧げていた。アーチ型の窓からアルバイシン地区の白い家並みがまるで絵画のように見え、「お~Σ( ̄  ̄*)」とシャッターを切る人が多数。もちろん、私たちも。


小礼拝堂から、メスアール宮とコマレス宮とをつなぐ『黄金の間の中庭』に出た。
中央には菊の花のような形をした小さな噴水があるが、16世紀にダラクサ庭園へ移されてしまい、現在のものはレプリカである。メスアールの間ではなくこの中庭で罪人の裁きが行われた、とも。どちらが本当なのだろうか。
この中庭の北側に『黄金の間』があったが、それほど重要でもないのか中に入って見学することはなかった。ちなみにここは、王宮運営のための事務が行われていた部屋である。
コマレス宮ファサードそして黄金の間と反対側である南側にあるのが、1348年に建てられた王宮の中枢部である『コマレス宮』の入口である。コマレス宮は王の住居である他、外交と政治の場でもあった。このファサードの美しさには定評があるらしい。左の写真が合成時に少し歪んでしまったが……。(T_T) この入口が本当の正面入口に当たるそうだ。メスアール宮は訪問者用の前宮というわけ。
ファサードの右側の扉は曲がっているが、これは当初からそうであるらしい。レバノン杉で造られた船を解体してその一部を利用しているため、船の曲線部分がそのまま残ったとか。
レバノン杉は古代から貴重な木材として宮殿や船の建造に使用されてきたが、地中海の限られた地域にしか生息していないため、多くが伐採されて絶滅の危機にあるらしい。切ったら植えるという作業を行っていれば、絶滅の危機に瀕することもなかったかもしれないのに。С=(-。-;)はぁ

アラヤネスの中庭開け放たれている左の扉からコマレス宮に入り、少し暗い通路を抜けて左に曲がると『アラヤネスの中庭』に出た。中庭の中心である長方形の池には満々と水が湛えられ、コマレス宮は『水の宮殿』とも呼ばれる。2mの深さがある池は水鏡の役目を果たし、大理石の通路スレスレに湛えられた水面に建物が映り、まるで建物が水上に建っているかのように見える錯覚を楽しめるようになっている。
池の両脇には大理石の通路を挟んで中庭の名前の由来となっている天人花(アラヤネス。
日本語名では銀梅花ともいう)の生垣があり、池の両端には大理石の小さな噴水がある。
その均衡のとれた美しさで有名なこの中庭の周囲にはコマレス宮の各部屋が中庭を取り囲む形で配置されていて、4人の正妻の部屋もここにある。
アラヤネスの中庭の北側に見えている高さ45mの『コマレスの塔』には、宮殿で一番の広さを持つ大使の間がある。そんなコマレスの塔を背にして、3ショット写真を撮ってもらった。何かポーズをつけてと言われ、もちろんですともとばかりにポーズをとる。シンメトリーな中庭なだけに、私たちもシンメトリー・ポーズを決めてみた。(笑) それがどういうわけかとてもウケ、外国人にも笑われてしまった。
ま、楽しんでもらえたということで良しとしよう。(*..)ヾ


アラヤネスの中庭を抜け『バルカの間』へ。
バルカとはアラビア語の“バラカ”から来ており“神の恵み”や“幸運”、“祝福”という意味がある。スペイン語ではバルカは“小型の船”という意味で、『船の間』とも呼ばれている。その天井が船底のような形をしているところから来ているらしい。
このバルカの間はアラヤネスの中庭に面し、コマレスの塔に入って『大使の間』へと続く手前にある横長の細い部屋で、新たに即位した王が玉座につくときに、アッラーから祝福を授かるよう儀式を行った場所である。

大使の間の天井と漆喰細工の壁だがそんなバルカの間をあっさりと数歩で通り抜け、王宮で一番広い『大使の間』へと足を踏み入れる。一番広いとは言っても11m四方しかない。だがこの大使の間は、イスラム王国最後の王ボアブディルがカトリック両王へグラナダの明け渡しを決定し、イサベル女王に宮殿の鍵を渡した有名な部屋で、スペインの歴史上とても重要な部屋である。その名のとおり、各国使節が王と謁見を行ったりした公式行事の場所でもある。そして、コロンブスがイサベル女王に謁見を行ったのもこの大使の間であるとされている。
絨毯を模したモザイクタイル床にはイスラム教国時代オリジナルの絨毯を模したモザイクタイルが残されていて、踏んだりしてそれ以上痛まないようロープで囲われていた。床に当時のままのタイルが残っているのは、やはり稀少なのだ。
天井は8つの天と神の星を表す八角形を中心に105の星がある寄木細工、壁にはカラフルなモザイクタイル貼りが施され、その上は漆喰細工で装飾されたアラビア文字、コーランの詩句、王たちへの賛歌、草花模様、幾何学模様が刻まれた(総じて『アラベスク』称されている)壮麗な部屋だ。
ちなみにイスラムの教理では偶像崇拝が厳禁とされているため、アラベスクには人物や動物は一切モチーフに使われていない。
壁の下部は人の手が触れて汚れたり何かがぶつかって漆喰細工が剥がれたりしないよう、たいていの部屋は人の背の高さくらいまでタイルで覆われている。
このモザイクタイルは黒い葉を並べたものと思いきや白に目の焦点を合わせると白い葉が浮かび上がったりする騙し絵技法の使われている部屋もあり、“視覚の魔術師”と異名を持つ画家エッシャーはアルハンブラ宮殿を訪れた際このモザイクタイルを見てインスピレーションを得、独自の世界を開拓して騙し絵を描くようになった。
エッシャーの騙し絵『天使と悪魔』エッシャーの騙し絵『昼と夜』エッシャーの騙し絵『相対性』

この大使の間はもちろん、王宮のすべての壁には「アッラーのみが勝者である」と彫り込まれたアラビア語の装飾文字が、アラベスク模様と化して壁を埋め尽くしている。この言葉は「勝った負けたと一喜一憂するのは人間の浅はかさである。すべてアッラーの神が定めるもの」という意味を持つ。
「人間は不完全なもの」という意味も込められていて、柱や壁など故意に歪ませた箇所があるのはそれを表現しているためだ。


大使の間に続いて、いよいよ次はガイドブックに必ず載っていてアルハンブラ宮殿で最も
有名な場所『ライオンの中庭』である。
ライオンの中庭この庭を訪れるためにはまた暗い通路を歩くことになり、再び光溢れる繊細で美しい中庭に面した回廊に出た瞬間の感動と言ったら、サグラダファミリアにようやく対面できたときと同じくらい鳥肌ものだった。イスラム芸術の最高傑作とまでいわれているほどなのだから、それも当然だろう。
アルハンブラ宮殿は各部屋が中庭を取り囲む構成になっているイスラム建築で、部屋から部屋へ移るときには必ず直角に曲がって暗い回廊を通ることになり、1段上がれば次は下がるといった造りになっている。侵入者が方向感覚を失う効果を狙ってのことらしい。
だがその空間を存分に生かした建築技術は、その美しさで訪問者を圧倒させる役割をも担っているように思う。実際に、みんなで「お~っΣ( ̄□ ̄*)」と幾度も驚愕しその美しさに魅了されたものだ。
中庭には十字に水路が走り、その中央にはどう見ても恐ろしいとは思えない愛嬌のある12頭のライオンが噴水を背に取り囲んでいる。権威の象徴である12頭のライオンは生命の源である太陽の黄道の12を表していて、当時は1時間ごとに1頭が水を噴き出し、2時には2頭が、3時には3頭が水を噴くよう仕掛けられた水時計だった。
太陽の動きでしか時間を知る術のなかった当時にどうやって時間を計りどういった仕掛けの噴水だったのか、まだ解明されていない。
中庭の周囲は124本の大理石の円柱が林立する回廊となっていて、柱の上部はレースのように繊細な漆喰の装飾が彫り込まれている。中庭から射し込む陽光が生み出す光と影が、神秘的なまでにその美しさを際立たせていた。
ちなみに円柱の上下には鉛の板が挟まれていて、耐震構造もバッチリだとか。
是非とも永遠に残ってもらいたい。(* ̄人 ̄*)お願いします
『ライオンの中庭』の回廊アーチ部分の装飾そんなライオンの中庭を囲んでいる建物は、寵姫たちの部屋だった。そう、ここは王の居住区でありハーレムなのだ。厳密にはハーレムの“離れ”にあたる部分である。かつては王以外の男性は出入りを禁じられていた場所。
昔、ハーレムの女性に近づき王の逆鱗に触れて首をはねられた者もいたらしい。中にはハーレムの女性と恋に落ちた男性がアメンセラヘス家の者としかわらず、アリバイのない一族の8人を処刑したこともあるという。その8人の首が置かれた部屋の噴水から流れ出た血が、十字に走る大理石の水路の1つを中央の噴水へ向かって流れ、赤く染めたとか。
そんな禁忌の場所を見学できるようになったのだから、幸せな世の中になったものだ。ま、私は男性じゃないから処刑はされないだろうけど。f^_^;)
当然ながら、ここでは誰もが写真撮影に必死になった。どこへデジカメを向けても、それはそれは綺麗な映像が液晶画面に映し出される。あとで消せばいいや、ととにかくシャッターを押しまくった。しっかり3ショットも撮ってもらう。
そして中央をなんとか無人で収めようと思い、移動が始まるのをデジカメを構えたままで待ちわびる。しばらくしてその瞬間が訪れ、やったー♪ とばかりにシャッターを切ったちょうどそのとき、ふっと一人旅のおじさんがフレームに入ってきた。Σ( ̄- ̄;)ああっ
おじさんが入る直前が写っていることを願いつつ、液晶画面で確認する。……入ってた。(T_T)ショック…
仕方ない。アルバムに貼るとき、おじさんの部分は他の写真を重ね貼りさせてもらいます。(笑)


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