月の旅人

月の旅人

国境を越えてポルトガルへ

国境を越えてポルトガルへ




最後のひまわり畑セビリアからポルトガルのエヴォラへ向けて、約250kmの道のりをひた走る。
しばらくして沿道にだけ咲いているひまわり畑を見てまたもやがっかりしつつ、それでも一応写真に収めておく。が、これがこの旅最後のひまわり畑となった……。~(>_<。)~そんなぁ…
その後あまり代わり映えのしない果てしない草原をぼんやりと眺めたり、睡魔に襲われたり交通事故を目撃してしまったりした。窓側に座っていたみきちゃんは、仰向けに倒れている人を見てしまったと顔を曇らせる。
事故と言えば、昨晩テレビでシャルル・ド・ゴール空港の崩落事故のニュースが流れていた。帰りにまた利用する空港である。添乗員さんもそれを見ていて、もしやテロかと思ったが単なる事故らしいと伝えていたことを教えてくれた。
高い空港税を取っているのに天井崩落なんて……。帰国後に見たニュースによると、欠陥工事の疑いもあるのだとか。しっかり造らないと結局あとで困るのにねぇ……。


バスに揺られること2時間ちょっとで休憩となった。
その休憩所のトイレときたら、まったく照明がつかず真っ暗だった。
カフェも兼ねたバーの横に男女のトイレが並び、そこにずらりと日本人が列を成すのを店員さんや西洋人のおじさんたちにちょっとおかしげに眺められながら順番を待っていると、先に入ったおばさんたちが「いやっ何やここっ」とか「ドア開けとかなあかんなぁ」などと言っているのが聞こえてきて、何だろうと順番が近づいてきて訊ねると「中の電気つかへんねん」という返事が。Σ( ̄- ̄;)え?
それでも、暗さにも限度があるだろうと甘く考えていた。ところが、いざ入ってみると個室のドアは上も下も隙間がなく、トイレの窓からは明るい陽光が入っているのにドアを閉めるとまさに暗闇状態になってしまうのだ。
仕方なく後ろに並んでいる人に見張っていてもらいながらドアを薄く開け、その隙間からの細い明かりだけを頼りに……。┐( ̄▽ ̄;)┌
それからバーカウンターの近くでデジカメポーチに入れていたジャカランダの花を落としてしまい、それを拾ってくるくると指先で回していた。黄金の塔前の横断歩道横に咲いていたジャカランダが散っていて、その1つを拾っておいたのだ。
そんな私の腕をトントンとたたく人がいた。てっきりみきちゃんかNさんかツアーの人だと思って振り向いたら、そこにいたのはどう見ても外国人のおじいちゃんだった。Σ( ̄- ̄*)おぅ!?
何やら言いながら手招きされ首を傾げながらついていくと、両開きのガラスドアを開けて隣接するレストランに入った。まだ開店前のようで誰もいない。
な…何……?
警戒もせずについてきたのは間違いだったかと少し怪しんだが、おじいちゃんはさらに手招きしてレストランのレジカウンターの前に立つ。そこに、たくさんの白ユリが活けられていた。
そのときカウンターの奥から出てきた開店準備に忙しそうな女性店員さんに、おじいちゃんがひと言ふた言話しかける。おじいちゃんお店の人やったん? と思いながら見ていると彼女はちょっと笑って返事し、その直後におじいちゃんが白ユリを1輪手折った。ジャカランダの花の部分だけを持っていたためか、白ユリも茎をつけず花の部分だけを私にくれる。
「えっΣ( ̄o ̄*)、あ、グラシアス!」
私を“お花好きの少女”(←ん…?)と思ったらしいおじいちゃんの好意を受け取り、レストランを後にする。そこから出た途端におばさんに「いや、どうしたんそれ?」と訊ねられた。
「おじいちゃんにもらいました(*..)ヾ」
「若い子はいいなぁ」
「へへへ……f^_^;)」
私たち3人は学生だと思われていたためそんなには若くないと訂正はしたが、あとは適当に笑ってごまかす。(笑)

アルカサルと勘違いそのお店を出て、道路を挟んだ向こう側に見えていた小高い丘の上に広がる白壁の町並みと、頂に建つ城砦らしき建物をズームして撮ってみた。
なんと私は、もしかしたらアルカサルかもっ、な~んて思っていたのだ。
こんなに離れてるわけないやんなぁ……。もうアルカサル過ぎたんかなぁ……。でも見てないしなぁ……。
あれこれと思いつつ、もしかしてあれがそうだったら遠望風景ってことで……などと撮ってみたというわけ。
とっくに“城壁”を見てるのにねぇ。(笑)
それに気づくのは、その後バスの中で添乗員さんが回してくれたポルトガルのガイドブックを見たその時。それまで「アルカサルの観光飛ばしたんかな( ̄~ ̄;)」なんて思ったりもしていた。
教訓。ガイドさんの案内はしっかりと聞くべし。

余談だけど、キリスト教では白ユリは“マドンナリリー”という名で親しまれ、聖母や聖人に捧げる花である。花言葉は純潔、威厳、無垢、清浄、甘美など。日本では「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と言われるとおり、美しい人を形容する花だ。
もう、おじいちゃんったらっ。(mm*)きゃっ ←大きな勘違い(笑)
さらに余談だけど、私の誕生花はバビアナらしい。花言葉は離れる愛……。Σ( ̄□ ̄∥)


休憩所からちょうど1時間ほどで、まさに瞬きをする間くらいの初めての経験をした。
それは、国境越え。
わくわくしてその瞬間を待ち構えていたのだが、国境にあったのは『Portugal』と書かれた道路標識のみ。さすがに一旦停止して国境警備の人に何か言ったり見せたりするんだろうかと思っていたのに、な~んにもなかった。日本でここから○○県だったり△△市などと書かれている標識とあまり変わり映えしない標識に、県や市ではなく国名が書かれているというだけのこと。
入国審査どころか建物自体がなく、国境警備の人の姿も全くないのだ。
ユーロってすごい……。o( ̄- ̄*)o
添乗員のKさんが「もうすぐ国境ですよ」と教えてくれて、みきちゃんが車窓に貼りつくようにしてデジカメを構えていたが、バスは速度を緩めることすらなかったため本当に一瞬のできごとだった。
国境越えシャッターチャンスは1度きり。急いで画像をチェックした。
「あっ♪Σ( ̄- ̄*)」
「映ってる~っ♪ヽ(*^0^*)ノ」
通路を挟んだ席でNさんが居眠りしている中、みきちゃんと2人でちょっとした感動を味わった。
その見事に国境をキャッチした瞬間が左の写真である。素晴らしい!

国境を越えたといっても大して景色は変わり映えせず相変わらず草原が広がり、それからオリーブ畑になり、そしてポルトガルが世界一の産出量を誇るコルクの木の畑が広がった。人家は時折見えるだけである。
日本の4分の1ほどの国土のポルトガルの現在の人口は約1000万人。添乗員さんがそう話すと、その少なさに車内から驚きの声があがった。もちろん私もその1人。
イスラム教徒にイベリア半島を占領支配されたポルトガルも、スペインと似た運命を辿った。キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)での最初の勝利の後は1139年にレオン・カスティーリャ王国の軍を撃破し、1143年には独立をカスティーリャ王国に認めさせ、1179年にローマ教皇の仲介を得て完全独立を果たしポルトガル王国が誕生。ポルトガル最初の王となったアルフォンソ・エンリケスはその後もレコンキスタを続け、アルフォンソ3世の時代である1249年にスペインより243年も早くレコンキスタを完了させた。
1415年にはインド、ブラジル、中国、日本への航路を発見し、時期を同じくして植民地の建設を始めたポルトガルは、世界的な規模で歴史的な足跡を残すことになる。そうして、ポルトガル語は世界で最も多く使われている言葉の1つとなっていったのだ。
だが大航海時代の栄華のあともポルトガルの苦難は続き、自治権は与えられたもののスペインに併合されたりフランスやイギリスに侵攻を受けたりし、19世紀の中頃になってようやく国土を確率した。1910年には王制が廃止されポルトガル共和国となったが、今度はサラザール独裁政権が敷かれることとなってしまう。それから40年近く後の1974年、若手将校たちが起こした革命によって独裁政権が崩壊し、ポルトガルは一気に民主化の道を進んで国土の何十倍にも及ぶ植民地を解放した。政権はアフリカの植民地独立運動や世論の生活向上に対する訴えと植民地政策批判の対処に追われ完全に支持を失っていたためほとんど無血で革命が成り、革命軍がカーネーションをシンボルとしていたことから“カーネーション革命”と呼ばれている。あるいは“リスボンの春”とも。
1986年にはEUの前身であるECに加盟を認められ、ヨーロッパ最貧国に転落していたサラザール時代の遅れを取り戻すために多額の援助資金が導入された。だが現在も政治的な安定は成らず、低迷の続く農業と植民地を開放した痛手をどう脱出するかが大きな課題となっている。
ちなみに、植民地だったアフリカに移住していたポルトガル人の引き上げ問題は禁句となっているのだとか。( ̄_ ̄;)
EUの資金援助もあと数年で終わるそうで、これからポルトガルはどうなるんだろう、と言っていたのは添乗員さんだったか現地ガイドさんだったか……。

と、こんなことばかり書いていると暗くなるので話題を変えて。
ポルトガルと日本の交流はご存知のとおり古く450年以上になり、伝来した言葉だけでも200や300もあるという。てんぷらやビロードの他、金平糖やかるた、タバコ、パン、カッパ、コップ、ボタン、トタン、キリシタン、ミイラなどなど。( ̄- ̄*)へぇ~
ポルトガル人は日本語の“ありがとう”もポルトガル語の“オブリガード”から変化したものだと思っている、いや、信じているらしい。似ているような似ていないような……微妙。でもポルトガルから伝来したなら、それ以前の日本の“ありがとう”はどんな言葉だったんだろう。
ありがたき幸せ? かたじけない? 恐れ入ります?
古文に詳しい人に訊けばその真実が判明するかも。誰か教えてください。<(__ _)>
ポルトガル人と日本人は勤勉で手先が器用なところが似ているそうで、日本に渡来した当時のポルトガル人は「美点を挙げるならばペンとインクが足りないほど」と国へ宛てた書簡で絶賛したという。
ついでに、スペインからの伝来した言葉もリアス式海岸のリアスやカステラ、おじや、プラザ、カスタネット、ポンチョなどがある。лヾ( ̄- ̄*)へぇ~


国境通過から1時間ほどが経ち14時半をとっくに過ぎていた。まもなく世界遺産の町エヴォラに到着するはずである。が、とうとう14時を過ぎてしまった。それでもまだ昼食にはならなさそうである。エヴォラに入るまでは順調だったが、目的地である歴史地区の場所がわからなかったのだ。
Jさんもか……。(^o^;)
エヴォラはどこ?ポルトガルはスペインよりもさらに1時間の時差があるため、ポルトガル時間で言えば14時前だが、スペイン時間だともう15時になろうかとしている時間のため、これから昼食といわれるとちょっと妙な気分になった。
そこへ、バレンシアと同じく今回も強い見方が登場。今度はタクシーではなく市バス(?)だ。
停まっていたバスの横にこちらのバスを寄せてJさんが道を訪ねると、案内を買って出てくれたらしい。
ああ、いい人がいっぱい♪ヽ(*^^*)ノ
実はポルトガル語とスペイン語はとても似ていて、互いの言葉を話していても内容が通じるほどなのだとか。なんか羨ましい。
先導してくれるバスについて坂道を登っていくと、途中でそのバスがバス停に車体を寄せた。そして、そこから乗客を乗せている。Σ( ̄- ̄;)!?
ちょうど向かう場所が同じだったのか、乗降客がいるにもかかわらず先導してくれているようだった。日本ではきっとあり得ない光景に違いない。車内のあちこちから「すごいなぁ~」と感心したような感動したような声が飛び交った。
まったく同感の私は、その瞬間を1枚でも留めておきたいと思い、通路から身を乗り出して写真を撮る。そのバスが白いため色が飛んでなかなかうまく映らなかったが、なんとか撮影に成功した。そして無事に、ここにも掲載♪(*^-^*)


親切なバスの運転手さんのおかげで16時20分頃にエヴォラ歴史地区に到着。
町の下の駐車場にバスを停める。他にも日本人のツアーが来ているようで、『情熱のスペイン 悠久のポルトガル』と書いたプレートのあるバスが停まっていた。大らかでやさしい国民性と素朴で時間がゆっくりと流れるイメージがあるためか、ポルトガルといえば“悠久”と枕詞をつけられることが多いようだ。
バスを降り、昼食場所へと歩いて向かった。
エヴォラはローマ帝国時代に築かれ“自由都市ユリウス”と称されて繁栄し、イスラム時代は商業の中心として発展した。レコンキスタ後もポルトガルの歴代の王たちが好んで首都とし、迎えたルネサンス期には学問と文化の中心となった“テージョ川の向こう”という意味を持つアレンテージョ地方の中心都市である。インド洋へと出発する前にバスコ・ダ・ガマが住み、王に謁見したのもこの場所である。
標高約300mの丘の上に広がる城壁に囲まれた『エヴォラ歴史地区』はこうした歴史や文化を現在に留め、1986年に世界文化遺産に指定された。
ただし、ローマ時代の城壁は内側に僅かに残っているだけで、外側の城壁は14世紀に新しく造られたもの。

レストラン石畳の坂を登り階段を登りして住宅街を進み、6~7分後にレストランに入った。さっそく長テーブルの席に着き、今か今かと料理を待つ。待つ。……待つ。(ー_ー;)
なかなか料理が出てこない。「遅いなぁ」と、ただでさえ空腹のため不機嫌顔の人が続出した。最初から用意されていたパンにバターを塗り、空腹を紛らせる。オリーブのピクルスらしきものもあり、それも瞬く間になくなっていく。20分以上が経って、真っ白なくるくるとしたショートヘアの風情のあるおばあちゃんが深鍋を抱えて現れた。魅力的な顔立ちをした黒人の女の子が器を並べ、おばあちゃんのお手伝いを始める。
やっとのことで運ばれてきたスープは、それはそれはおいしかった。待ちに待った“昼食”なのだから当然というものかもしれないが、それをおいても味は確かにおいしかった。
アサリと豚肉の煮込み料理ポルトガルに入る前に添乗員さんが車中で一人旅をしたときの話をしてくれていて、ポルトガル人のおじさんに会ったときに「ポルトガルは料理がおいしい!」とかなり自慢していたらしいが、まさにその通りかもしれない。期待できそう♪( ̄m ̄*)ふっふっふ
その後はすぐに料理が運ばれてきた。サラダにアサリと豚肉の煮込み料理、そしてデザートのプリン。どれもとってもおいしかった!
特にアサリと豚肉に煮込み料理は絶品。アレンテージョ地方の名物料理だそうで、ガイド本には必ずオススメ料理として紹介されているらしい。じゃがいもにもアサリと豚肉の旨みが染み込んでいい味だったなぁ。また食べたいっ。……けど、貝嫌いの私はアサリ抜きで。( ̄▽ ̄;)えへ


カテドラル満足した遅い昼食を終えて現地ガイドのおばさんと合流し、再び石畳の坂道を登って『カテドラル』を訪れた。エヴォラは初めてらしいドライバーのJさんも一緒である。
このカテドラル(エヴォラ大聖堂)はロマネスクからゴシックへの過渡期となった12~13世紀に建てられ、2つの塔を持つファサードの戸口には14世紀に作られた12使徒の像が並んでいる。これが妙に頭でっかちで愛嬌があった。まるで、何かのアニメに出てきそうな小人のようだ。そんな12使徒が乗っている台をライオンやサル、何かの鳥やガーゴイルのような奇妙な姿をしたものたちが背中で支えている。というか、踏みつけられているのに似た状態である。これらにも意味があるのだろうか。
祭壇中に入ると、レンガ調の壁や天井がシンプルな印象を与える落ち着いた教会だった。中程にヨーロッパに2台しか現存しないというイベリア・パイプオルガンがあり、1584年9月にリスボンに到着した天正遺欧少年使節団がローマへと向かう道中で8日間滞在した際、伊東マンチョと千石ミゲルが見事に演奏してみせたという。扱いが難しく、世界中でも弾ける人は僅かだと言われているこのイベリア・パイプオルガン。それを少年2人が見事に弾きこなしたというのだから凄い。語り伝えられるのも頷けるというもの。
“神秘のバラ”を表したバラ窓“明けの明星”を表したバラ窓祭壇の手前には、左右にバラ窓が見える。左は明けの明星、右は神秘のバラとされ、ともに聖母マリアのシンボルを表している。
私たちは見ることができなかったが、宝物館には1426個もの宝石が散りばめられた17世紀の十字架『聖レーニョの十字架』があるという。他に13世紀に象牙で作られた『天国の聖母』も所蔵。


次は、カテドラルのすぐ横の広場にある『ディアナ神殿』の遺跡へ。
この場所は『エヴォラの臍(へそ)』と言われている。エヴォラ歴史地区の観光は、この場所を中心に広がっているという理由からのようだ。
ディアナ神殿ディアナ神殿は2世紀末にローマ人によって造られたコリント式の神殿で、月の女神ディアナに捧げられたものだと推測されている。大理石で作られた土台の上に花崗岩(御影石)でできた14本の柱が残っている。
たったこれだけのため「え……?(・_・;)」といった感じだが、これでもイベリア半島に残るローマ神殿の中では比較的保存状態がいいそうだ……。
このディアナ神殿とカテドラルの間に、15世紀建造の『ロイオス修道院』があり、現在はポウザーダとなっていて宿泊することができる。
ポウザーダとはポルトガル国営の宿泊施設のことで、古城や宮殿、歴史的建造物や由緒ある館などを改修して利用しているホテルのこと。スペインのパラドールと同じく、一度は宿泊してみたいものだ。(* ̄- ̄*)


土産物店やホテル、レストランが軒を連ねるカテドラル前の『10月5日通り』を下ると『ジラルド広場』に出る。
広場の名は、1165年にイスラム教徒から町を奪還した英雄ジラルド・センパボルにちなんだもの。中世の時代、この広場で処刑が行われたという。今は住人や観光客の集う、モザイクの敷石が美しいのどかな広場となっている。
ジラルド広場ジラルド広場に着くなり現地ガイドのおばさんとお別れすることになり、囲んで拍手をすると嬉しそうに笑っていた。それにしても、案内してもらったのはカテドラルとディアナ神殿だけ……。なんて短いガイドなんだろう。f^_^;)
だからてっきり他にはこれといった見所もないのだろうと思っていたのだが、あとで16世紀初期に建てられた『サンフランシスコ教会』の『人骨礼拝堂』が有名であることを知った。なんと5000人もの人骨で天井と壁が造られていて、礼拝堂は見渡す限り柱までもが人骨で埋め尽くされ、祭壇には理科室の人骨標本より生々しい父子の遺骨が吊られているという。修道士の瞑想の場として造られたものらしいが、私ならそんな場所で瞑想なんて無理っ。(((>_<)))ぶるっ…
そして入口には「ようこそ。私たちの骨は、いつでもあなたの骨をお待ちしております」
と書かれているそうな……。Σ( ̄□ ̄∥)!?

ジラルド広場で15分ほどの自由時間となった。オープン・カフェでくつろぐほどの時間でもなく、見所は終わったと思っていたためその時間を持て余してしまう。
とりあえずぷらぷらしようと、広場に面し市立図書館として使われているサンアンタオン教会の前の噴水で写真を撮ってみたりした。その噴水と教会の間に胴体だけの女体像が転がっていたのだが、あれはいったい何だったんだろう。
大した興味も覚えず、サンアンタオン教会の右側を奥に進んでみる。が、これと言って何も無さげだった。
「戻ろっか」とあっさり引き返し、その道中のショーウィンドウで目を引いていたレース布地でできたオレンジ色のキャミソールを見て「ほしいなぁ( ̄- ̄*)」と呟いていたみきちゃんだったが、「さわってみたら厚地やった」と言ってやめると、そのすぐ傍の公衆電話ではとても小柄なおばさん2人がちょうど日本へ電話をかけようとしているところだった。
悪人面のニセモノ悟空つい最近知人を通じて意気投合し、今回のスペイン旅行に参加することになったという2人は、とても知り合ってから間もないとは思えないくらい仲が良さそうに見えた。それに、1人はJさんのお気に入りだし。←関係ない(笑)
電話をかけている2人から離れ、次にふと目が行った途端に爆笑してしまったものがある。
それは、右の写真のニセ孫悟空。『ドラゴンボール』というアニメの主人公だが、この顔はダメだろう。主人公にあるまじき悪人面!(笑)
助けてくれるより何かされそうな孫悟空の前に向かい合って座り、お金を入れて揺られる、という小さな子供向けの乗り物だったが、こんなおもしろい素材を放っておくなんてもったいないとばかりにみきちゃんに向かいに座ってもらい、すぐさま記念撮影。
ところがその直後に、「乗ったらあかんっ」てな感じのジェスチャーをしながら店主が奥から現れた。まだ完全に笑いの収まらぬまま、そそくさとその場から離れて店主から逃れる。
余裕で集合場所に戻り、全員が集まるのを待ってから駐車場へ向かって石畳の坂道を下った。駐車場の地下にトイレが造られていて、バスに乗る前に全員が立ち寄る。女子トイレはいつものごとく列を成していて、最後尾で順番を待った。最後にトイレから戻るのって、まるで遅れたみたいに見えてちょっと厭だなぁ、と思ったが順番を抜かすわけにもいかないので仕方がない。


エヴォラの城壁の外を走り水道橋をくぐりぬけてバスはポルトガルの首都リスボンへ向けて出発し、のどかな放牧地帯を車窓に見ながら約130kmの道のり走る。1時間45分ほどで、リスボンの入口である『4月25日橋』に入った。その横に『クリスト・レイ』が立っている。
クリスト・レイ『クリスト・レイ』はブラジルの首都リオデジャネイロにあるクリスト・レイ像を真似て1959年に造られたものだが、遠慮深い国民性であるらしいポルトガル人は本家のものより少しばかり小さく仕上げた。高さ85mあり、エレベーターで昇る足元の展望台からは対岸の市街が一望できる。
『4月25日橋』は1966年の8月に開通し、欧州最長の2278mの吊り橋である。スペインの中心を流れてきたタホ川がポルトガルに入ってテージョ川と呼び名を変えて海に注ぐ、その河口に架かっている。開通当初は独裁者の名にちなみサラザール橋と呼ばれていたが、1974年4月25日に起こった無血クーデターのカーネーション革命を記念して改名された。
その橋の下には、リスボンの美しい港と市街が広がっていた。
リスボンの港“7つの丘の町”と称されるヨーロッパ大陸最西端の大都市であるリスボンの歴史は古く、紀元前1200年頃の海の遊牧民といわれたフェニキア人の入港、築城をきっかけにしてギリシャ、ローマ、イスラムと支配者を変え、街の姿を変化させてきた。レコンキスタ完了後の1255年、アルフォンソ3世がコインブラからリスボンへと首都を移し、15世紀からの大航海時代には貿易を中心としてポルトガル史上最高の栄華を極めたが、そんなリスボンを1755年11月1日9時40分に大震災が襲い街の大半が壊滅状態となった。キリスト教の祝日だったため市民はロウソクを灯して祈りを捧げており、その火が大地震で崩壊した街をさらに6日間も燃やし続けたのだ。死者は6万人にものぼったという。
祈りを捧げていた真っ最中なのになんてことなの……。(ー_ー;)
そんな震災が襲ったリスボンはポルトガル語で“リスボア”と言い、“良い港”を語源としている。古くから栄えてきた港である証と言えるだろう。それでもリスボンには気取ったところがなく、“古き良き時代の香りを今に残す魅力的な町”と称されている。


ローマ水道橋エヴォラに続きこの日2つ目となるローマの水道橋をくぐってから1時間弱で、2連泊する4つ星ホテル『サナ・パーク・メトロポリタン(SANA PARK METROPOLITAN)』に到着。
この日の簡易ベッドは、2日目と同じくこれ以上はないほど立派な簡易ベッドだった。(笑) 初日はNさんだが、翌日はまたしても私がその簡易ベッドに寝る日である。( ー_ー)フッ


再びバスで移動し、レストラン『GRAND'ELiAS』へ。
またもや1人旅のMさんと同席になり、Mさんがフルボトルで注文した赤ワインをみきちゃんと私もごちそうになった。Nさんは残念ながらアルコールは大の苦手で飲めないため、Nさんの分もみきちゃんと私がいただく。(笑)
にんじんリゾット毎度のことながら食べ放題のパンと、トマト・レタス・コーン・にんじんの盛り合わせサラダ、にんじんたっぷりリゾット、そしてデザートのりんごケーキのバニラアイスとイチゴ乗せ(←勝手に命名)というわりとヘルシーなメニューだったお蔭で、昼食が遅かったとはいえしっかりと完食する。
私はもうそれでおなかいっぱいだった。ちなみにパンも一切れしか食べていない。リゾットを食べているとき、おかわりをもらっている人が何人もいて少し羨ましかった。だっておいしかったし。おいしい料理を食べるの大好き、な私なのに、それに見合わない小さな胃で悔しい……と改めて思った。
が、おかわりのリゾットは、その量よりも一緒に盛られたにんじんの千切りのほうが大量だったりしておかしかった。
「馬もビックリやな~( ̄m ̄)ぷぷっ」
って。(笑)


21時過ぎにホテルに戻ったが、まだ完全に日が落ちたわけでもないためおとなしく部屋に帰る気にもなれず、ロビーでJさんが2人参加の小柄なおばさんの1人に片膝をついて本気かどうか怪しいプロポーズをしているところを目撃してツーショットを撮らせてもらったり、ホテル内の土産物店に立ち寄ってみる。
小さな店内にはけっこうお客がいた。その中でピエロがかぶっているようなおもしろ帽子を発見し、さっそくかぶって撮ってみる。
「なかなか似合うやん♪」
にわとり互いに褒め合って満足し(笑)、次に見つけたのは一列に並べて陳列されている大小のニワトリの置物。ポストカードにもなっていることからして、何か特別な意味があるのだろう。
そう思っていたら、あれこれとポルトガルの資料を見ているときにふと見かけた。
『バルセロスの鶏』といって、幸せを招くとされているのだ。窃盗容疑をかけられた巡礼者がバルセロスの町で処刑される寸前、食卓に上っていたローストチキンが立ち上がって
鳴き、無罪の証を立てたという言い伝えがあるらしい。……ちょっと怖い。( ̄▽ ̄;)
でもそのお蔭で巡礼者は処刑を免れたのだから、ニワトリが幸せを招いたと思うのも頷ける。
そんなわけで、ニワトリはポルトガルのあちらこちらで見かけることになった。



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