月の旅人

月の旅人

古き良き町リスボン

古き良き町リスボン




朝、青空であることを信じてNさんが開けたカーテンの向こうを見てみると、そこには一面の曇り空が広がっていた。Σ( ̄- ̄;)なっ…
き…きっと今だけよ、今だけ。
今度はそう信じることにした。時間はまだ6時半。出発時間は9時である。まだまだ雲が流れ去る時間はある。
そう、6時半。……実は目覚まし時計をポルトガル時間に合わせて1時間遅らせるのを忘れていて、起きようと思っていたよりも1時間も早く目を覚ましてしまったのだ。しかもそれに気づいたのは、みきちゃんとNさんを「おはようっ、起きや~」と起こし、みきちゃんが「ん~…まだ早いやろ……?」と寝直して、もそりと起きたNさんが簡易ベッドに腰掛けたままカーテンを半開きにして外を無言でボ~ッと眺めている様子をこっそり写真に撮り、さらにしばらく経ってから。
そういえばモーニングコールが鳴ってないなぁと思って、そこでやっとハッとしたというわけ。
「ごめんっ、1時間まちがってた(>_+)\ペチッ」
こうして、ある意味時差ボケで始まったポルトガルの朝だった。(笑)


朝食は、メロンがあった♪
やっぱりホテルの朝食はこうでないと!(笑)
そんなわけで楽しい朝食を終え、ホテルでこの日のガイドをしてくれる日本人のIさんとポルトガル人のガイドさんの2人と合流して9時ぴったりにホテルを出発し、『ベレン地区』へと向かう。ポルトガルもスペインと同じく、ポルトガル人のガイドさんも同行しなければならない法律になっているらしい。
『ベレン地区』は1755年のリスボン大地震にも耐え、大航海時代の栄華を今に残している。ベレンとは、キリスト生誕の地であるベツヘレムに由来する名称だそうだ。エンリケ航海王子の奨励のもとに始まった海外進出はポルトガルをヨーロッパ最大の貿易国へと発展させ、マヌエル1世の時代にその巨万の富によって独特の建築様式であるマヌエル様式を花開かせた。
20分ほどで到着し、『ベレンの塔』の傍でバスを停めた。願いも虚しく、空は雲に覆われたまま……。
ベレンの塔当初はテージョ川の中に建設された『ベレンの塔』だが、川の流れが後退したため現在では岸に建っている。正式には『サン・ヴィセンテの砦』という。マヌエル1世の命により、船の出入りを監視する要塞として1515年から1519年にかけてフランシスコ・アルーダによって建設された。
マヌエル様式の優雅な白い外観から“テージョ川の貴婦人”という美しい呼ばれ方をするベレンの塔だが、要塞として建設されたゆえに当然ながら大砲が備え付けられており、政治犯を閉じ込めた干潮を利用した地下水牢もある。5階建てになっていて、3階より上は王族の居室になっており、2階部分にはマリア像がある。船乗りたちが出航の安全を祈ったという。それほど大きくない建物なのに、いくつもの姿を持っているのだ。
現在は博物館として使用されているベレンの塔は、1983年に世界遺産に登録された。

南大西洋初横断飛行機のレプリカ与えられた時間は15分。急いでベレンの塔へ向かった。塔内も見学できるようになっている。
料金は3ユーロだそうだが、15分で見学なんて無理に違いない。そそくさと塔の前に立ち、代わる代わる写真を撮って済ませた。
その傍に、1922年に初の南大西洋横断飛行をしたサンタ・クルス号のレプリカと飛行経路を記した石碑があった。
よくこんな小さな飛行機で……。すごいなぁ。( ̄- ̄*)


続いては、ベレンの塔の場所からもミニチュアサイズに見えていた『発見のモニュメント』へ。こちらも傍にバスを停めての観光で、またまた短い時間しか与えられなかった。約20分である。
地図発見のモニュメントの前には広場があり、世界地図のモザイクが大理石で作られていた。各地にはそれぞれに到達した年号が記入されていて、とてもいい加減な形の日本には1541年と記されていた。豊後に漂着した年だそうだ。ちなみに1543年には種子島に漂着している。
私はその世界地図に気づきもせず、まっすぐに発見のモニュメントを見上げながら近づいていった。ふと振り返ると、そこにいるはずの2人がいない。探した目に映った2人は、モザイクのところで写真を撮り合っていた。呼んでよぅ……。( p_q)しくしく…
おじさんに撮ってあげるから何かポーズ取ってと言われたがせっかくなら3人でと思って2人を呼び、モニュメントに浮彫されている人それぞれの格好を真似て撮ってもらった。
発見のモニュメントそれを、傍で見ていた外国人たちが見て笑う。そんな私たちを撮っている人までいた。こんなことで笑いを取れるとは、西洋人の“笑い”ってちょろいな。(笑) ←失笑されてたのかも?( ̄▽ ̄;)
テージョ川河畔に建つ高さ52mの『発見のモニュメント』は1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して建てられた比較的新しいもので、エレベーターで屋上まで登ることができる。そんなことは知りもせず、西と東で違う人物像のポーズを真似るのに必死だった。(笑)
人物は、カラベラ船を手にして先頭に立つエンリケ航海王子に両面で異なる人たちが従っていて、ポルトガルの海外進出に携わった探険家や学者、芸術家などである。バルコ・ダ・ガマの姿もあるらしいが、どれだろう……。東側の後ろから2番目にはフランシスコ・ザビエルの姿も。写真嫌いのNさんがしっかり真似していた。ツボはしっかり押さえている。(笑) 
カラベラ船はエンリケ航海王子が考案したとされている3本の帆を持つ大型船で、この船が考案されるまではたくさんの奴隷の漕ぎ手によって航行されていたが、彼らに代わり3本の帆がその役目を果たすことによって多くの食糧を積載可能にし、長い船旅ができるようになった。発見のモニュメントはその帆船をモチーフにして造られている。それは、大航海時代の幕開けを告げる発明だった。


あわただしくバスに戻り、発見のモニュメントのすぐ後方にある『ジェロニモス修道院』を訪れた。今度は駐車場にバスを停め、少しばかり時間を取ってくれる。

聖マリア教会ジェロニモス修道院

『ジェロニモス修道院』は、エンリケ航海王子が船乗りたちのために建てた礼拝堂跡に、マヌエル1世がエンリケ航海王子の偉業を讃るとともに、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を記念して、発見から4年後の1502年にフランス生まれの建築家ボイタックを招いて着工したマヌエル様式を代表する建物である。ボイタックの死後はスペイン人のジョアン・カスティーリョが引き継いで建設にあたった。修道院と聖マリア教会の2つから構成され、レースのように繊細な彫刻が施された優美な建物だ。
ボイタックにより製作された正門となる南のファサードは聖母マリアに捧げられたもので、上部中央にエンリケ航海王子の像が乗っている。ニコラ・シャンテレーヌ作の西ファサードから入ると、左側にバスコ・ダ・ガマの石棺が安置されている。その向かい側、ファサードを入って右側には16世紀のポルトガルを代表する詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンエスの石棺がある。ただし、こちらは遺体が入っていないとか。
聖マリア教会内部内部はステンドグラスから射し込む陽光とロウソクなどの間接照明で照らし出され、やわらかで清浄な光に包まれている。とはいっても、ロウソクは本物ではなくその形をした照明器具。……現実的である。
やけに早く前進していく現地ガイドのIさんに続いて一行が移動する中、ちらりと席に座って「このあとはどうか晴れますように」と祈ってみる。そして、みきちゃんと私は数名の人と同じく写真撮影に励んだ。で、励み過ぎた。
気がつくと、ツアーの人たちがいない。Nさんの姿もない。^( ̄- ̄; ))(( ; ̄- ̄)^ あれっ!?
迷子になった。

幸いなことに、1人ではなくみきちゃんと仲良く2人で。(笑) ……いや、笑い事ではない。(;一一)ゞ
大あわてで西ファサードから出てみる。右を見ると受付のある有料らしい建物があったが、そこにも誰の姿もない。左に進んで南ファサード前に出てみたが、大勢人はいても見知った顔は全然見あたらなかった。
「どうしよ……ほんまに迷子や……」
2人で顔を見合わせ、とにかくもう一度ちゃんと探そうともう一度教会に戻ってみる。……やっぱりいない。教会から出て右側の受付口から中を覗いてみる。いない……というか見えない……。踵を返して南ファサード前に戻ってみる。……どう見てもいない。こうなったらJさんに出発時間を確かめに行こうということになり、みきちゃんに手を引かれながら駐車場に駆け戻ってJさんにかた言で訊ねてみた。……11時50分だと言っているような感じがする。( ̄▽ ̄;)えへ 伝わっているのかいないのかよくわからないまま、とりあえず「グラシアス!」とお礼を言い、また駆け足で南ファサード前へ。
そこで改めて教会に入って、一刻も早くみんなに会えますように、とお願いし、これ以上はどうしようもないと諦めた。神様を信じることにして、迷子になって泣いている風の私をみきちゃんが写真に収めると、南ファサード前へ。バスに戻るには絶対にここを通るはずだからと、その場から動かずあれこれと写真を撮っていた。
それから約5分後。
現地ガイドのIさんと添乗員のKさんがやってきて、私たちを見つけてくれた。~(>_<*)~よかった!
謝った私たちを、Iさんが少し叱った。本当に申し訳ないです……。
予想はしていたがやはり有料の所へ入っていたらしく、西ファサード前を通るときに合流できたことを神様に感謝して、その建物の中へと入っていった。IさんとKさんはもう受付で待っていることになっているのか、階段を急いで上る私たちに背後から「5分後に集合ですよ~!」と声をかけた。
「えっ5分!?Σ( ̄- ̄;)」
あまりの短さに驚き、グッズ売り場など素通りして回廊に出る。その途端、
ジェロニモス修道院の回廊「おぉ~綺麗~ぇ( ̄□ ̄*)」
と思わず2人して歓声を上げた。
2階建てになっている回廊にはレースを渡したようなアーチが連なり、華麗というか優美というか、その見事さは修道院というより宮殿と呼ぶにふさわしいくらいだった。短い時間だったとはいえ、この回廊を見ることができて本当に良かったね、とみきちゃんとあとで何度も言い合った。神様がお願いをすぐに聞いてくれたからに違いない、とも。もちろん、私たちを捜しに来てくれたIさんとKさんのお蔭であることは言うまでもない。回廊をこの目で見ることができて、心から感謝した。
そんな私に、Nさんが見るからに怒った顔で近づいてきた。「どこ行ってたん!? 私を1人にせんといてぇさっ」と言う彼女。私たちを心配していたというより1人にされたことに腹を立てている様子で、思わず「私らだって必死で探して走り回っててんで。そんな言い方せんでもいいやん」と言うと「ちゃんとついて来ぅへんのが悪いんやん」と返され、確かにその通りで反論できなかった。\(_ _ ;)反省…
ジェロニモス修道院の回廊は55m四方で、中庭を囲む明るい場所である。1511年に完成し、1階はボイタック、2階はジョアンによって造られた。石灰岩を使った綿密で繊細な彫刻のアーチは、大航海時代の繁栄のシンボルだといわれている。

バスに戻ったのは12時。結局、ドライバーのJさんとは意思の疎通ができていなかったようだ。(;^_^A
その話をすると、ガイドのIさんが「ドライバーさんは出発時間なんて知りませんよ」と、ちょっと冷たい口調で言った……。
一人旅のMさんに手招きされてみきちゃんとNさんがどこかへ駆けていくのを、時計を見ながらついていくのをやめておく。もう1分ほどで出発時間だったのだ。私の足では一緒に行って遅れてはいけないと思い、グッと我慢した。←大袈裟(笑)
どうやら巨大なジェロニモス修道院を見渡せる場所があると呼ばれたようだったが、写真を見るとはっきり言って木々が邪魔をして一部しか見えていなかった……。2人とも急いで行ったのに、と少しガッカリした様子で戻ってきた。(^。^;)あらら…
そうして次の目的地へ向かう途中Iさんが、写真を撮るのに夢中になったり他の日本人ツアーの人を自分たちのツアーの人と勘違いして迷子になる人が多い、と注意し、私たちのこと言われてる……(-_-;)、とみきちゃんと再び反省し合った。
アルファマ地区の町並み

20分もかからず『アルファマ地区』に着いて下車し、散策を始める。
『アルファマ地区』はリスボンの東側の斜面に面し、1755年のリスボンを崩壊させた大地震にも耐えて迷路のような路地の続く古い町並みをそのままに残している。かつては貴族の住宅街だったが今では昔ながらの庶民の町(リスボンの下町)として知られ、旅行者がよく散策に訪れる場所である。古代ローマの時代から栄えた町だが、イスラム支配の時代や大航海時代に最も栄え、ファドの発祥地といわれている。
ファドとは、主にCasa do Fadoと呼ばれるレストランなどで歌われているポルトガル民謡のことで、ポルトガルギター(マンドリンに似た12弦のギターラ)とクラシックギター(ビオーラ)で伴奏される。ファドはラテン語の“運命”や“宿命”という意味のファタムが語源で、憂いや郷愁、喜びなど、意味を外国語に置き換えるのは難しいとされるポルトガル語“サウダーテ”を託して自由な4連詩で表し、心を込めて歌うという。そのため、言葉がわからなくても涙が出るのだとか。( ̄- ̄*)へぇ~
ちなみにアルファマはアラビア語で“温泉”という意味らしいが、どこかに温泉でも湧いていたのだろうか。


散策を始めてすぐ、石畳を外して工事をしている所があった。
石畳工事ヨーロッパに石畳の道は多いが、この石は1つの面の耐久年が20年ほどあり、すり減ってきたところで掘り起こし面を変えて再び20年、また掘り起こして面を……というようにして、1つの石を120年以上使うのだとか。( ̄- ̄*)素晴らしいっ
狭い路地を進み、小さな広場でガイドさんが足を止めた。クリーム色の、3階建てのアパートっぽい建物が目の前にある。それもかつては貴族の住居だったと説明があった。すると、内装はわりと凝っていたりするのだろうか。外観からは、貴族が住んでいたにしては意外と質素で小さく見えた。
サン・ミゲル教会さらに石畳の坂を上ると、1本の椰子の木があるこれまた小さな広場に面してサン・ ミゲル教会が建っていた。ミゲルとは、キリスト教をあまり知らなくてもその名を聞いたことがあるであろうミカエルのことである。4大天使の1人(他にガブリエル、ラファエル、ウリエル)にして天使長であり、その名は“神のごとき者”という意味を持っている。
なんとこの大天使ミカエル、日本の守護天使であるらしい。日本にキリスト教の伝道に訪れたフランシスコ・ザビエルにローマ教会から日本での布教活動の許可が下りたのが1549年9月29日で、この9月29日が大天使ミカエルの日だったのだ。が、同時にガブリエルとラファエルの日でもあり、つまり3大天使の日であるらしいが、ザビエルの生家の守護天使がミカエルだったことから日本の守護天使をミカエルに決めたといわれている。
それにしても、大天使ミカエルが日本の守護天使だったなんて初めて知った。лヾ( ̄- ̄*)へぇ~へぇ~
ミカエルはスペイン語、ポルトガル語ではミゲルだが、フランスではミッシェル、ドイツではミヒャエル、イギリスではマイケルだったりミゲルだったりするらしい。日本語ではキリスト教徒を切支丹(キリシタン)と表記するくらいだから、ミカエルも漢字表記できるんだろうか。国が違えば呼び方も変わったりして、おもしろいようなややこしいような……。ジュリアス・シーザーとユリウス・カエサルも、知らなければまるで別人みたいだし。
あ、話が逸れてる。f^_^;)
サン・ミゲル教会から十数m進んだ場所で15分間の自由時間となった。……といっても、住宅街である。さてどうしようか……と思いつつ、和歌山のIさん夫妻とこれといって意味のないポーズを揃って撮ったり、カフェに入って立ち食い蕎麦ならぬ立ち飲みコーヒーを味わっているおじさんやおばさんたちを撮ったり、ポストカードを買いに意外と奥行きのあるお店に入ったりした。
水場15分なんてあっという間である。すぐに集合時間となり、バスの待っている場所まで歩いて戻る。その道中に2つ、古い水場があった。何百年前のものか、もしかしたら大航海から戻ってきた船乗りたちが汗を拭ったりしたかもしれない。


リスボン最古のカフェの1つバスに乗ってすぐ、右側にリスボンで最古のカフェの1つだという『Martinho da Arcada』が見えた。ガイドさんが教えてくれなければ、こういうことはガイドブックに載っていない限り絶対にわからない。こうして思わぬ説明を聞けるのがツアーのいいところだろう。……なのに聞き逃すことも多いけど。(; ̄ー ̄A ふきふき…
時間は13時を過ぎ、次に向かう場所は昼食を取るレストランである。場所は“低地”という意味を持つ『バイシャ地区』。大地震で人々が不安におののきパニックに陥る中、国王ジョゼ1世の側近だったポンバル侯爵が都市再建計画に乗り出し、区画整備されて生まれた地区である。別名『リスボア・ポンバリーナ』と呼ばれ、通りは碁盤の目状に走っているリスボン一の繁華街で、震災前からの老舗を始め、貴金属や靴、ワイン、菓子店などの専門店やレストランが軒を連ねている。
途中、ガイドさんIさんの案内で車窓から『サンタ・ジェスタのエレベーター』を一瞬だけ目にした。つまり垂直に交わる道を通過しただけなのだ。
『サンタ・ジェスタのエレベーター』はエッフェル塔を設計した建築家ギュスターヴ・エッフェルの弟子であるフランス人ルイス・レイナルドが設計し、フランス生まれのポルトガル人技師ラウル・メスニー・デ・ポンサールが建築したネオ・ゴシック様式の32mの塔である。その展望台からのバイシャ地区の眺めは最高らしい。Iさんはこの近くに住んでいるそうで、何度となく展望台に上っているらしい。

レストランレストラン『BOTEQUIM DO REI』は、そのすぐ近くにあった。建物は厨房などのある一部だけで、あとはテント張りといった感じのちょっと珍しい印象を受けるレストランだ。
そのレストランの入口で1人ミニグラスに1杯ずつの赤ワインの試飲ができ、このワインがみきちゃんと私には大いに好みの味だった。Nさんは残念ながらアルコールは苦手なため、ここでも口をつけない。
片側に窓のように透明のシートが下ろされている所の長テーブル席に座り、料理を待つ。先にドリンクの注文を取りにやってきたお店の人に、これといった物もなかったため3人とも紅茶を頼んだ。
まもなくポタージュスープが運ばれて来、すでに用意されていたパンにバターを塗って共に食べながらスープのおいしさに嬉しくなっていると、続いてポルトガル名物干し鱈(タラ)を使った料理バカリャウ・ア・ブラースがテーブルに乗せられた。干し鱈と玉ねぎ、揚げたじゃがいもを卵でとじた料理で、これがもうかなりの美味!( ̄¬ ̄*)
バカリャウ・ア・ブラースポルトガルも基本的には一般的なヨーロッパ料理と変わらず肉食中心だが、日本と同様に魚も好まれ、干し鱈の料理方法は365日毎日違う料理を出せるほどだとか。それもそのはず、数千種類もあると言われているのだ。Σ( ̄□ ̄*)すごっ
でもまぁおいしいと言っても食べられる量には限度があるわけで、4~5人に1皿といった感じで出されたがその量はかなりのもので3分の1以上も残ってしまった。もったいない……でももう入らない……と、つややかに黄色く輝くバカリャウ・ア・ブラースをしばらく見つめたものだ。タッパーがあったら持って帰りたいくらい。(笑)
その間にずいぶん残っていた試飲用のワインのミニグラスを私たちの前に座っていたおじさんがいくつか取り、テーブルにあったワイングラスにまとめて注いで私たちにくれた。残ってるみたいだからいいんだろうと親切心でやってくれたのだが、店員さんに見つかってダメだと注意されてしまい、まだ残っていたミニグラスはササッと片付けてられてしまう。(_ _;)ああ…ごめんなさい… それでもすでにグラスに注がれたワインまでは没収されず、みきちゃんと2人でありがたく飲ませてもらった。
そして料理を食べ終わった頃になってようやく紅茶が運ばれてきた。まずはNさんとみきちゃんに渡したが、あとはどう見てもコーヒーカップだったため取っていいものかどうか迷っていると、同じ長テーブル席の奥から「コーヒー取って」とおばさんに頼まれた。じゃあ先にコーヒーを取って渡さなければと思うのだが、一見してコーヒーと紅茶の見分けがつかない。Nさんとみきちゃんの紅茶と同じものを頼んでいるのにカップが違うため、どっちもコーヒーなのかと考えたりもして「え……どっちがどっち?」と訊いたりしていると、奥からまたおばさんが「見たらわかるやんっ」とイラッとした風に催促した。わかれば迷わないって……。
結局覗き込んでより黒っぽい色のほうをコーヒーと判断して渡し、私はもう一方のコーヒーカップに入った紅茶らしき飲み物を取った。量がちょっと少ない……。でも飲んでみると香りも味も確かに紅茶だった。濃く入れてくれるのは嬉しいんだけど、紛らわしいカップで持ってこないでほしい。(ー_ー;)
最後はフルーツポンチのようなデザートが出され、ちょっとハプニングはあったもののその味に大満足の昼食が終わった。


レストランから、路上に停めているバスへとおじさんやおばさんとおしゃべりしながら向かう。もう数mでバスだという距離で何人もが左側の数段の階段を降りて行くのを見て、何かあるんだろうかと私たちも寄り道してみた。
エドゥアルド7世公園そこには傾斜を利用して造られた幾何学模様の植え込みが見事なフランス式庭園『エドゥアルド7世公園』が広がっていた。中央奥にポンバル侯爵広場のライオンを従えたポンバル侯爵像やリスボンのメインストリートであるリベルターデ大通りと旧市街の町並み、テージョ川とその向こう岸まで見渡せる素晴らしい眺望だった。
この公園は、1902年にイギリスのエドワード7世がポルトガル同盟締結の際にリスボンを訪問したのを記念して造られた。デザインは、世界で初めてのデジタル国際電話交換機がリスボンで稼動し始めたことを記念したものになっているそうだ。
代わる代わるその眺望を背景に写真を撮って誰もが満足そうな笑顔でバスに戻り、次の目的地『ロカ岬』へと出発した。



■目次へ ■次へ


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: