月の旅人

月の旅人

ユーラシア大陸最西端と歴史ある町

ユーラシア大陸最西端と歴史ある町




ロカ岬ポルトガルはヨーロッパ最西端の国。そして、ユーラシア大陸最果ての地でもある。
北緯38度47分、東経9度30分に位置する『ロカ岬』は、ポルトガルを代表する16世紀の詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンエスが「ここに地尽き、海始まる」と詠んだように、その最果ての中の最果ての地だ。
そんなロカ岬に到着したのは、リスボンから50分弱が経過した16時前のこと。この頃にはすっかり青空が広がっていた。ジェロニモス修道院で「このあとはどうか晴れますように」と祈ったのが通じたのかもしれないと、大喜びして降り立つ。
最西端到達証明書ラ・マンチャの風車といい迷子の件といい今回といい、こちらの神様はすぐに願い事を聞いてくれるなぁ(*^o^*)と改めてみきちゃんと無邪気(←ん?)に言い合いながら、まずは岬に建つ赤い灯台のもとにある観光案内所に行き、“最西端到達証明書”を発行してもらった。10ユーロのものと5ユーロのものと2種類があり、私たち3人は揃って5ユーロで。f^-^;)
このポルトガル語で書かれた証明書は、裏面にスペイン語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、さらに下記のように日本語でも翻訳されている。

ポルトガル国シントラにあるロカ岬に到達されたことを証明します。ここは、ヨーロッパ大陸の最西端に位置し、「陸尽き、海はじまる」と詠われ、新世界を求め、未知の海へとカラベラ船を繰り出した航海者たちの信仰心と冒険魂が、今に尚、脈打つところです。


花観光案内所から出て、カレージャの浜辺にあったのと同じ花が黄色い花を咲かせている岬を十字架の塔のある場所まで行ってみる。もう花の時期も終わろうとしているのか、すでに散ってしまった花が大半だったが。それに同じ種類なのに、なぜかピンク色の花のほうが黄色い花より先に花を落としていた。( ̄- ̄?)なんで…?
ちなみにロカ岬のロカは“Rock(岩)”のことらしく、その名のとおり土が少なく岩ばかりなのか、植物も限られた種類しか育たないようだ。この写真の花も、厚みのある葉の中に水分を溜め込んでいるのだとか。лヾ( ̄- ̄*)へぇ~
ロカ岬の塔岬の先端は140mの断崖絶壁で、果てしない大西洋が眼下を占める。その先に陸は見えず、まさにここが地の果てであることを実感する。そして、そこに立つ十字架の塔の下部の石碑にはカモンエスの詩とともに「ヨーロッパ大陸最西端の地」と刻まれている。
カモンエスの詩はそのままを表す短い言葉だけど、その短い言葉の中にポルトガルの歴史や大航海時代の様々な思いが込められているような気がするのは、きっと私だけではないだろう。
一人旅のMさんに立派なほうの最西端到達証明書を貸してもらい、それを持ってそれぞれに十字架の塔に立ち記念撮影をして、灯台をバックに3人並んで撮ってもらう。青空になったお蔭で、なかなかいい写真になった。(*^-^*)


ロカ岬を後にし、かわいい家の立ち並ぶ細い道を抜けて『シントラ』の町を目指す。
途中、何かの撮影隊を見かけたが何の撮影かはわからないまま瞬く間に通り過ぎ、ロカ岬から40分ほどで到着したシントラは、山間の緑豊かなかわいい町だった。
シントラも長くイスラムに支配され、レコンキスタ(国土回復運動)の盛んだった場所である。12世紀に初代国王アルフォンソ1世により奪還された後は、標高約300mの涼しい気候と美しい町に魅了された歴代の王の避暑地として栄え、貴族や資産家の別荘地としても賑わった。他のヨーロッパ諸国からの亡命貴族たちもこの地に住居を構え、19世紀のヨーロピアン・ロマンティック建築の最初の中心地となって“中世の箱庭”とまで言われたという。
かつてここを訪れたイギリスの詩人バイロンは“この世のエデン”と賞賛し、現在も『キンタ』と呼ばれる豪華な館や教会が残るシントラの歴史的中心地区は、1995年にユネスコの世界自然・文化遺産に認定された。

ムーアの居城シントラは大型車輌の侵入は規制が厳しく駐車場も少ないため、王宮の傍の路上でバスを停めて降りた。
そこから山頂を見上げると、『ムーアの城跡』が見えていた。まるで万里の長城のように城壁だけが残されているらしい。711年にイベリア半島に上陸し各地に城を築いたイスラム教徒だが、この城砦は極めて初期に建築された貴重なものなのだそうだ。
シントラは別名“月の山”とも呼ばれ、その昔ケルト人が月の女神シンシアに祈りを捧げて住んでいた。シンシアは狩りの女神でもあり、たくさんの動物も棲んでいたという。
それを知ると、シントラがおとぎの国のようなイメージになってくる。ファンタジー好きなもので……。f^_^;)へへ…
ムーアの城跡の奥にある山の頂には『ペナ宮』が建っているそうだが、残念ながら下からは見えなかった。
このペナ宮、標高529mの山頂に建っているため、天候の良い日にはシントラの町並みはもちろん、遠くリスボン市街や大西洋までも望める大パノラマが広がるという。ドイツのノイシュバンシュタイン城を建てたルートヴィッヒ2世の従兄弟にあたるフェルナンド2世が廃墟となったジェロニモス派の修道院を改築し、1839年に建築されたイスラム、ゴシック、マヌエル、ルネッサンスなどの様式が混ざり合ったカラフルな城である。ポルトガルではこれをネオ・マヌエリ-ノ様式と呼んでいる。
是非とも足を伸ばして見てみたかった!(_ _。)残念…


王宮ガイドさんの説明もそこそこに30分の自由散策となり、レプブリカ広場に向かった。そこに『シントラ王宮』が建っているのだ。王の夏の離宮として1910年の王制廃止まで使われていた。王制廃止後、多くの王族たちはイギリスへ亡命したそうだ。
王宮というには外観がとってもさっぱりしているが、33mもある2つの円錐形の煙突はかなり目立つ。さっぱりしているからこそ尚更目立つのかもしれない。
国の重要文化財に指定されているこの王宮は14世紀にエンリケ航海王子の父であるジョアン1世によってイギリスから迎えた妃のために建てられたが、主に狩猟用の別荘として使用された。その後幾度も増改築され、16世紀にマヌエル1世によって増築された右側の部分も同じくさっぱりとしてはいるが、その窓の形にマヌエル様式が用いられている。
室内も王宮と呼ぶにふさわしい見るものを圧倒する絢爛豪華な装飾らしいが、内部の見学はツアーに含まれていなかった……。
このシントラ王宮を始め、ペナ宮も入場無料になるというリスボンカードが自由旅行の観光客には便利だそうで、リスボンの空港、観光案内所、交通チケットブースや一部のホテルなどで購入できる。1日券約1800円、2日券約3000円ほど、3日券約3600円ほど。リスボン市内の交通機関と、リスボン近郊路線の一部が乗り放題になり、48ヶ所の美術館や博物館、そのたの見所などの入場が無料または割引になる。お得~♪ヽ( ̄▽ ̄*)ノ
マヌエル様式の窓再訪が叶ったらリスボンカードで観光してみようかなっ。←夢は自由(笑)
あとは、町をぷらぷらして長~い階段や絵になる路地で写真を撮ってみたり、土産物店を覗いてみたりして自由時間が終わり、セビリアに引き続きまたもや“外から見ただけ観光”が終了した。┐( ̄▽ ̄;)┌


リスボンに戻りホテルに帰って、そのあとは夕食までフリーである。といっても、夕食までにホテルに戻らないといけないため2時間ほどしかなかったが。
現地に住んでいるならいい場所を知っているかも知れないと思い、解散後にガイドのIさんに訊ねてみた。ところが普段は出歩かない人らしく、オススメの場所といっても百貨店みたいな所くらいと言われてガッカリ。曇っていた朝のリベンジに再度ベレン地区へ行ってみようかとも思ったが、それもなんだかもったいないような気もする。他にどこかないかと改めて訊いていると、そこへ同じくガイドさんに質問しに来た夫妻がいた。調べてきたレストランに行きたいらしく、持ってきた切り抜きを見せながら場所と行き方をIさんに訊ねる。
私たちは質問も中途半端のままIさんにお礼を言ってホテルに入り、ロビーにあるチラシなどを見てウロウロしていた。そのうちさっきIさんに質問していた夫妻がホテルに入ってきて、屋内のお土産屋さんに立ち寄った。
以前トルコ旅行のときにMさん夫妻とフリーを一緒に過ごして楽しかった思い出があるため、ひょうきんなおじさんとおしゃべり好きのおばさんという印象のあったその夫妻と一緒に行動させてもらったら楽しいかも、と思い立ち、みきちゃんとともに声をかけてみる。
が、「前に厭なことがあってフリーは2人で行動することに決めてんねん。ほんまごめん」と思わぬ返答をされて戸惑った。何があったのか訊こうとしても教えてくれなかったため余程厭な思いをした経験があるのだろうが、せめて「2人で行きたい所があるから」くらいに言ってほしかったな……。
「まるで私らが厭な思いをさせるみたいやんなぁ」と、なんだかもやもやとしながらいったん部屋に戻り、自分たちだけで『サン・ジョルジェ城』へ行くことに決めた。


パスポートをフロントに預け、タクシー乗り場の場所を訊いてみた。お姉さんが答えてくれたが、悲しいかななんと言ったのかよくわからない……。でもジェスチャーからして近くにあるのかと外に出てホテルの傍を見てみたが、それらしい場所が見あたらず首を傾げながらホテルに戻り、タクシーを呼んでもらうことにした。すると「外でお待ちください」というようなことを言われタクシーを呼んでくれるんだろうかと再び外に出、どこで待っていたらいいんだろうとおたおたしている所へ、お客を乗せてやってきたタクシーがあった。
「もしかして、こうして乗りつけるタクシーが次々来るからそれに乗れって言うてはったんちゃう?」
ハッとしてあわててそのタクシーに走り寄り乗ってもいいかと訊ねると、何かを言いつつジェスチャーで乗れというようなしぐさをされ、3人とも後部座席に急いで乗り込んだ。
ガイド本に載っていた写真を指差して行き先を告げると、そこは18時で見学時間が終わるというようなことを言われて「え~っΣ( ̄□ ̄;)」と驚いて時計を見てみる。あと10分ほどで18時だ。Σ( ̄- ̄∥)!
「どうする……?」
互いに顔を見合わせて思案する間もタクシーは進む。結論は、中に入れなくても城壁くらいは見られるだろうということでそのまま行き先を変更しないことにした。というより、そんな急に行きたい場所も見つからなかったし。( ̄▽ ̄;)えへ
ロッシオ広場
10分ほど乗っただろうか、『ロッシオ広場』でタクシーが止まった。運転手さんがなぜかこの広場までしか行けないと言い出し、あとは徒歩で行くことになったのだ。( ̄_ ̄;)なんで…
ロッシオ広場は、正式には『ペドロ4世広場』という。中央には初代ブラジル国王でもあったペドロ4世の像が立つ円柱があり、バロックの噴水が2つある。周囲にはバスやタクシー乗り場もあり、花屋やカフェテラス、土産物屋が並び、リスボンの中心街となっている。
リスボン市街はロッシオ広場と同じく至るところで白と黒のモザイクの石畳(『カルサーダス』)が見られる。リスボンの旗も白黒の十字となっている。白と黒は、リスボンのシンボルカラーなのだ。
白と黒がシンボルカラーになったのには由来がある。リスボンの守護聖人サン・ヴィセンテがスペインのバレンシアで殺害され、その遺体は舟に乗せられてポルトガル南西端の岬に流れ着き、さらに2羽のカラスに見守られて、1173年にテージョ川からリスボンに辿り着いたと伝えられていることから、やがてリスボンのマスコットはカラスとなり、死とカラスを表す黒とサン・ヴィセンテの純粋性を象徴した白がシンボルになったという。
その他、街灯も頭柱に舟と鳥の飾りが施されている通りがある。タクシーの中からそれを見ていたのに、写真を撮り損なってしまった。(>_<) しかもみきちゃんとNさんは見てもいなかったようで、それは私の記憶の中にしかない。
ま、帰りに撮ればいっか。


急な坂道階段に次ぐ階段さて、サン・ジョルジェ城まで徒歩でどれくらいかかるのか謎だったが、地図では近そうに見えたため意気揚々と歩き出す。が、さすがは7つの丘からなるリスボンだけあって、平たんな道はロッシオ広場から数十mだけだった。そもそもサン・ジョルジェ城はその丘の1つアルファマ地区の頂に建っているのだから坂道であることは承知の上だったが、その急なことといったらすぐに息があがるほど。さらに階段まで多いとくれば、日頃の運動不足が祟る。それでも、サグラダファミリアの塔に登るために2ヶ月間は鍛えてきた分、いくらかは救われたかもしれない。
そのうち思いっきり住宅街に入り込んでしまい「この道で合ってるのかなぁ」と不安になり出したとき、ちょうど住民らしい男性が停めていた車に乗り込もうとするのを見つけて訊ねてみた。
やはり間違っていなかったらしく目の前にあった長い階段を示し、「この階段を上ってすぐの道を左に行って、1本目を右に行って……」と行きかたを教えてくれた。もちろん英語で。それを頑張って聞き取り、丁寧に教えてくれた男性にお礼を言ってさっそく階段に踏み出す。
そうして、聞き取ったのとは少しばかり道が違ったが……ロッシオ広場から20分ちょっと歩いた末に無事にサン・ジョルジェ城に到着した。


イスラム風の城門を抜けて少し行くと再び簡易な門があり、その先にはリスボンを一望できる広場があった。まだまだ人々はのんびりとしていて、とても見学終了時間が過ぎたとは思えない。あとで知ったのだが、11月~2月期は日が短いため18時で閉まるが、3月~10月は21時まで開いているそうだ。
タクシーの運転手さんはきっと時期を間違っていたか、いつも18時までと勘違いしていたのだろう。それにしてもロッシオ広場までしか行ってくれないのは解せないが……。でもまぁ、歩いたのも楽しい思い出になったし良しとしよう。(^-^)うん
『サン・ジョルジェ城』は、リスボン最古の建造物である。築城はローマのカエサルの時代であるとも、ローマ時代以前であるとも言われるている。その後5世紀からはゲルマン人の西ゴート族、9世紀からはイスラム教徒、12世紀からはキリスト教徒のポルトガル王たちが代々居城とし、主を変えながらも時の支配者の要塞とされてきた。だが現在は9世紀のイスラム時代に築かれた城壁が残るのみで、どんな内装だったのかを想像させる形跡を留めていないのが非常に残念だ。城内は公園として公開されていて、市民の憩いの場にもなっている。
その市民なのか、テージョ川に向かって設置された大砲の横で長々とキスをしているカップルがいた。ちょうどリスボンの街を写真に撮るのにいい場所を陣取り、まったく“離れる”気配がない。
そういえば長時間キスをし続ける大会がどこかの国であったような気がするが、もしかしてその練習でもしているのか、絵を描いている人のモデルでもしているのかと思うほど動かないし離れないカップルに、「そんな長くしてたら唇腫れんのちゃう……?」と余計なお世話の呟きを洩らす。(笑)
リスボンの眺望そんなカップルを避けながら、場所を移って眺望をカメラに収めた。遠くに4月25日橋やクリスト・レイも望める素晴らしい眺めだ。
この眺めをポルトガル人から「高い丘の上にあるため入港してくる船が見え、世界情勢や物資の動きが居ながらにしてわかる城」と聞き知った織田信長は、海に面した大阪を欲したという。それまでは鎌倉時代を除いて飛鳥時代も奈良時代も平安時代も内陸に置かれてきた都だったが、その思いを秀吉が継いで大阪に築城し、家康も秀吉のすすめで江戸に城を築いたのだ。лヾ( ̄- ̄*)へぇ~
サン・ジョルジェ城思わぬところでもポルトガルの影響があるんだなぁ。

広場を奥へ進むと、堅固な橋を備えたまさに要塞といった風情の城壁が見えてきた。
少し期待して中に入ったが、やはり城壁しかない。だがその城壁はかなり立派なもので、その上を歩くことができるようになっていた。見ると、何人か歩いている人の姿が見える。
もちろん、私たちも上ってみた。
銃口を出す穴のついた凸凹が作られていてそこから街を覗いてみたりもしながら、なかなか綺麗に石が敷かれた城壁の散歩を楽しむ。いくつかある塔の1つに国旗が掲げられて風にはためき、別の塔には舟と2羽のカラスがデザインされたリスボンの旗が翻っていた。
20分ほど歩き回って、思った以上に楽しめたねっと充実した気分で城壁を下り、広場のほうへ戻る。
城壁城壁

少し別のほうから歩いていくと途中にカフェがあり、そのメニュー板の上に孔雀がとまっていた。
「本物の孔雀やっΣ( ̄□ ̄*)」
驚いて立ち止まり尾を広げてくれないかとわくわくして待ってみたが、つーんとそっぽを向いたままでそんな気などさらさら無さそうだ。周りにいた外国人たちも同じ期待を抱きながら孔雀を見つめていたが、こちらに顔すら向けてくれない孔雀に苦笑気味である。看板娘ならぬ看板孔雀なのかもしれないが、サービス精神はまったくない。(笑)
私たちは仕方なくカフェの壁際に移動し、無理やりにその姿を写真に収める。みきちゃんとNさんが撮影にチャレンジしたのだが、「絵にならへん……」とぼやいた。( ̄_ ̄;)ほんまやわ…
その孔雀がまだ見えるほどの距離を少し下がった所に、ポルトガル王朝最初の王となったアルフォンソ・エンリケスの座像がある。
孔雀がつまらなかったため、いい被写体を見つけたぞとばかりに、みきちゃんと2人してその座像の両脇で同じポーズをして撮った。椅子もないのに座るポーズというのは実に脚が攣りそうで困ったが、なんとか堪える。写真にはやや必死そうな顔で写っていたのはやむを得ない。(笑)

そして街を見下ろせる最初の広場まで戻って驚いた。
まだいた。Σ( ̄□ ̄ノ)ノ
海外ではよく見かける彫像を真似た大道芸のごとくちっとも動かないカップルに、さすがにちょっと感心した。(笑)
こうなったらもう仕方がない。ちょっと横にお邪魔して、カップルが写らないように角度を考えて記念撮影をすることに。いや、いっそのことそれも記念としてカップルもフレームに入れておくべきだったか?( ̄▽ ̄;)


セ大聖堂サン・ジョルジェ城を出ると、運良くタクシーが城門下で客待ちをしていた。でもここまで来たお土産として、せめてポストカードでもと傍の個人店に立ち寄ってみる。だがいい感じにサン・ジョルジェ城の写ったポストカードがなく、ちょっとガッカリしながらタクシーに歩み寄った。
運転手は人の良さそうな笑顔の初老のおじさんで、乗り込んだ私たちが行き先を継げた途端エンジンを噴かして走り出した。人は良さげに見えるが、運転はちょっと荒いらしい。(;^_^A
勢いよく石畳の坂道をガタガタと下り、『カテドラル(セ大聖堂)』を通過した。Nさんが振り返って、夕陽を浴びて映えるどっしりとしたカテドラルを写真に収め、前を向いて座り直すと今度は前から路面電車が情緒をたっぷりと背負って上ってきた。
路面電車「撮って撮って~っ」と、カテドラルを撮ったばかりでデジカメを手にしていたNさんにお願いすると、真ん中に座っていた私のほうへ身を乗り出して前座席の間から頑張って撮ってくれた。
その再生画像を見て、「いい感じや~ん♪(*^o^*)」と嬉しくなった。これぞポルトガルという感じの写真である。それがこの左の写真。
が、それですっかり満足してしまい、帰りに撮ろうと思っていた舟と鳥の飾りがある街灯のことを綺麗さっぱり忘れてしまっていた。それを思い出したのはいつだったか……。すでにリスボンにいなかったことは確実である。( ー_ー)フッ

『カテドラル(セ大聖堂)』は、アルフォンソ・エンリケスがレコンキスタによりリスボンを奪還したのを記念してその年の1147年に着工された。ポルトガル建国の4年後のことである。イスラム教徒から奪還した直後であったため、要塞としての機能も果たすために堅牢な建築となっている。そのため1175年のリスボン大地震にも耐えた。
建築を依頼されたのはフランス人の建築家ロベールとベルナール。基本的にはロマネスク様式で建てられているが、回廊はゴシック様式、祭壇は大地震後にバロック様式で造られている。ファサードのバラ窓はその美しさで名高いそうだ。
この目で内部を見られなかったのが残念である。
さらにこのカテドラルには1748年に時の王が寄進したという94cmの聖体顕示台も素晴らしいそうで、17kgもの金の土台にルビー、サファイア、エメラルド、ダイヤなど4170個もの宝石が散りばめられているのだとか。Σ( ̄□ ̄*)!!

少し渋滞している場所もあってどうなることかと思ったが、タクシーのおじさんがかなり飛ばしてくれたお蔭で夕食の約10分前にホテルに到着することができた。しかも、明らかに行きよりも長い距離を乗り時間もかかったはずなのに、運賃を見ると0.2ユーロ安い。
トルコ旅行のときと同じくみきちゃんがまた赤信号のときにおじさんの肩を揉んであげたりしていたが、だからといってメーターはちっとも触っていなかったところを見ると、行きのタクシーの運転手はやっぱり少しおかしかったのかもしれない。(ー"ー)むむ そういえば、チップ込みで6ユーロ払ったのにフリでもお釣りを返すそぶりも見せないどころか、不満そうな顔をしていたしなぁ。
それとは対照的に、帰りの運転手さんにも6ユーロを渡すと「これはもらえないよ~」といった感じでお釣りを返そうとしていたが、「チップなのでどうぞ」といった感じで伝えるととっても嬉しそうな笑顔で「オブリガード」とお礼を言ってくれた。
その様子を素早くカメラに収め、お礼を言ってタクシーを降りる。
帰り良ければすべて良しって感じ? ←ちょっと違う(笑)


ホテルのバイキングそのまま部屋へは戻らず食堂へ直行し、すでに並べられていたバイキング料理の種類の多さによだれが……いや、目がきらめく。(笑)
ケーキだけでも10種類もあり、それとは別にフルーツもあり、料理だけでもたくさんあるため一口ずつ食べてもかなりおなかが苦しくなる予感がした。単に無理しなければいいだけなんだけど。(; ̄ー ̄A
私たちは一番乗りでバイキング料理をお皿に盛り始め、まだ何も食べていないうちからデザートも全種類を取り分けた。さすがに量が量なため、ひと切れを3人で分けるようにして控え目に。嬉しいことに紅茶はおかわり自由で、ホテルマンが快く何度でもカップを満たしてくれた。
ケーキは期待したほどではなかったけど、苦しいと言いつつもちょっぴりおかわりまでして大満足の夕食だった。
大好きなスモークサーモンをはじめそら豆らしきスープも含めて料理はおいしかったし、デザートもプリンが最高♪
豊富な夕食豊富なデザート贅沢な夕食だったなぁ。(*^-^*)ふふ♪
おじさんやおばさんたちに「若い子はよく食べるなぁ」と微笑んで言われながら、「そうでもないですよ~」と正直に答えながらの楽しい夕食でもあった。(笑)



■目次へ ■次へ


© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: