月の旅人

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ポルトガル発祥の地ポルト

ポルトガル発祥の地ポルト




変わり映えのしない朝食を終え、8時の出発を前にホテル前でバスを待つ。
実は数日前に最後にバスに乗り込んだら座席がなく分かれて座ることになったため、それ以来早めに朝食を済ませてバスの席取りするのが日課となった。別に私はどの場所でも構わなかったが、Nさんが車酔いをする人でタイヤの上は厭だとか後ろは揺れるから厭だとか言ったため、しんどくなったら楽しい旅行も台無しだということで頑張って席を確保することにしたのだ。
が、いざ実践となると……Nさんは食べるのが遅かった。そういえば、食べに行っても最後はいつもNさんであることが多い。だからといってこの旅で初めてNさんと知り合ったみきちゃんに頼むのもなんだか違うような気がして、結局私が席取りに気合を入れることになったというわけ。p( ̄- ̄)q メロンがないなら、朝食は少なくても苦にならないし。(笑)
やっぱり私の他にも早い人はいて、高槻のKさんからこの旅行のためにデジカメがほしいと思っていたけどどれを買っていいかよくわからなかった、と話しかけられたのを機に私のわかる限りのデジカメ知識を話しているうちに早く待っていた意味がないくらいにどんどん人が増え始め、みきちゃんとNさんを始めツアーのほとんどの人がホテル前に集合してしまった……。(ー_ー;)Jさん遅いよぅ…


レトロな町風景リスボン同様、坂の多いポルト無事にバスの席を確保して座り、現地ガイドのNさんも乗り込んで本日唯一の観光であるポルトの街を走り出す。
スタジオ・ジブリのアニメ『魔女の宅急便』で主人公のキキが住んだ街コリコのモデルとされるポルトは、リスボンに次ぐ第2の都市でポルトガルの北西部の大西洋岸に位置し、その大西洋に注ぐドウロ川の河口を見下ろす丘陵に沿って街が広がっている。港は紀元前5~4世紀のローマ時代からの古い歴史を持ち、かつては“ポルトゥス・カレ”と呼ばれていた。現在はワイン醸造工場が並んでいるヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイア地区がカレと呼ばれていたことから、“カレの港”という意味のポルトゥス・カレと呼ばれるようになったのだ。これが“ポルトガル”の語源ともなっている。
長い歴史の中で築かれてきた街並みはリスボンのように大地震などの災害を受けることなく赤い瓦屋根と石畳の古い街をそのまま残し、1996年に『カテドラル』や『サンフランシスコ教会』などを中心にした旧市街が歴史地区として世界遺産に登録された。

グレリゴスの塔その旧市街へ向かって約15分後、『グレリゴスの塔』の前で停車した。
グレリゴス教会の75.6mあるこの鐘塔はポルトでいちばん高い建造物のためランドマークとなっていて、塔の上からは市街が一望できる。18世紀中頃にイタリアのバロック建築家ニコロ・ナゾーニによって教会と共に建てられ、港に入る船の目印となっていた。
その塔の前で写真ストップとなったため、さっそくバスを降りる。そして、転んだ。コケッ…m(;_ _)m~◎
突然視界から消えて高槻のKさんに助け起こしてもらった私にみきちゃんが「旅行中1回はやるな( ̄▽ ̄;)」と言い、私は苦笑してこの日穿いたばかりの新しいスパッツが破れていないかとあわてて膝を見る。破れてはいなかったが、血がうっすらとにじんでいた。(>_<。)いてて…
ちなみに、今回の旅行で転んだのは実は2度目。アルハンブラのフェネラリフェ宮殿で………あ、わざわざ恥ずかしい話を自ら繰り返すこともないか。(; ̄▽ ̄)ゞははは…

ペロウリーニョものすごくあっさりと5分ほどで出発となり、次に向かったのは『カテドラル(セ大聖堂)』。高台にあり、ずいぶんと見晴らしがいい。赤屋根の続く旧市街を見下ろせる場所を通過したときには思わず「お~っ」と声があがった。
カテドラル前の、その名も『カテドラル広場』でバスを降り、その真ん中に立っている『ペロウリーニョ』を見る。ネオ・ポンパール様式という造りで、見せしめのために罪人を吊るした塔柱である。上部についている一見飾りに見える突き出た梁のようなものが、ロープを通したところだという。
カテドラルカテドラルは、要塞を兼ねて12~13世紀にかけてロマネスク様式で建てられた大聖堂である。が、ゴシック様式、バロック様式と増改築が進み、17~18世紀に大部分の改修が成されて当時の面影はほとんどない。内部はバロック期に改装され、ゴシック様式の回廊とバロック様式の銀細工のサクラメント祭壇が見所である。
ファサードのバラ窓は13世紀のゴシック様式だが、それほど華やかなものではなく落ち着いた印象だった。
ニコラ・ナゾーニによって1736年に増築されたロッジアと呼ばれるバロック様式の柱廊や、アズレージョの壁が素晴らしいそうだが、私たちはこのカテドラルもさらりと見ただけで奥へ回ることなく、それも目にせぬまま後にすることとなった。
今日はポルトの観光だけなのに、ずいぶんと素っ気ない。(_ _。)くすん…


壮大なアズレージョの歴史絵巻で有名な20世紀初頭建造のサン・ベント駅をはじめ、美しいアズレージョの壁を持ついくつもの建物を車窓に見ながら移動し、また10分もしないうちにバスを降りる。『エンリケ航海王子広場』のある『ボルサ宮』前で降りたが、そのどちらも見ることなく坂道を下った。
エンリケ航海王子広場エンリケ航海王子はリスボン以後何度か名前が登場しているが、ポルトガル初代国王ジョアン1世の第5子として生まれたのはこのポルトである。1415年に北アフリカのセウタをイスラム教徒から攻略したのを機にマディラ、アソレス、ベルデ岬諸島を発見し、ヨーロッパ諸国に先駆けてポルトガルを大航海時代へと導いた英雄中の英雄とされていて、なぜかリスボンを中心とする王家にはあまり友好的でないらしいポルトも、この地出身のエンリケ航海王子だけは別格であるという。
そんなわけで、貿易と金融活動を象徴する広場であるこの場所にエンリケ航海王子の像が彼方の海を指してそびえていた。
『ボルサ宮』のボルサはポルトガル語で“株”という意味で、宮とつくくらいだから宮殿かと思いきやその実態は証券取引所であり、ポルト商工会本部でもある。つい最近まで使用されていたが、現在は一般公開の他、レセプション、ピアノコンサートなどが行われている。
焼失した修道院跡に19世紀になった建てられたポルトガル最初の巨大な鉄筋建築物で、後の鉄橋建築などの先駆けとなった。最大の見所は、スペインに対抗しポルトガルの経済力を誇示するためアルハンブラ宮殿を模して18年の歳月をかけて造られた『アラブの間』。色鮮やかなアラベスク装飾をはじめ、濃厚なイスラム文化の空間が造り出されているという。
アルハンブラ宮殿は各地の建物に模されていて、その美しさがどれほどのものかを改めて知らされる思いだ。


坂を下って右に曲がると、線路が石畳を割いていた。終着点のようで、曲がり角の手前で線路が途切れている。ポルトで唯一の路線となったエレクトリコ(路面電車)の線路だ。
そこからすぐ、右に石壁を見ながら階段を登ると『サン・フランシスコ教会』だった。1383年に建てられた修道院に付属する教会で、元はゴシック様式だったが17~18世紀にバロック様式に改修された、外見はいたって落ち着いた重厚な雰囲気の教会である。
サン・フランシスコ教会が、中に入って驚愕した。
「金だらけや!!Σ( ̄□ ̄*)」
天井も壁も柱も、大半がターリャ・ドウラーダ(金泥細工)と呼ばれるバロック装飾で覆われていたのだ。これは、樫の木で作った彫刻の上を金泥で塗り固めたもの。装飾に使用された金の総重量は200kgを越えるという。ガイドのNさんいわく、当時植民地だったブラジルから600kg~800kgもの金が運び込まれ、贅沢な装飾のためにふんだんに使われたそうだ。( ̄_ ̄;)使い過ぎなんじゃ…
入って右側には、なんと十字架にかけて殺されたフランシスコ派日本人修道士の『長崎の殉教』の様子と、13世紀にモロッコで首を切られた修道士の『モロッコの殉教』が彫刻されている。血が噴出している様子や首を切られた様子など、やけに生々しい彫刻のため肌寒いものを覚える。それにこれらの殉教の様子は金泥細工が施されておらず、周りが綺羅綺羅しいだけに暗い雰囲気を醸し出していた。
華美なターリャ・ドウラーダもさることながら、サン・フランシスコ教会は入って左から2番目の祭壇にあるキリストの家系を木の幹と枝に表した『ジェッセの家系樹』が有名である。これはキリストの系譜に連なるユダヤ教徒の系統図を1本の木に表したもので、ヨーロッパ各地のカトリック系教会や修道院にフレスコ画や細密画、ステンドグラスや彫刻など様々に表現されているという。
内部は写真撮影禁止だったため、残念ながら写真は1枚もない。入口で絵はがきを売っていたが一応見てはみたもののこれといったものがなく、結局3人とも買わなかった。┐( ̄- ̄;)┌
ちなみにビデオ撮影ならOKだとかなんとか。ならば、写真にもできるデジタルビデオカメラならベストってことだな。


南岸から見たドウロ川北岸のポルト旧市街歴史地区サン・フランシスコ教会の見学を終えてドウロ川北岸から次に向かったのは、ローマ時代にカレと呼ばれていた南岸の港『ヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイア地区』である。
「ポルトは働き、リスボンは楽しみ、コインブラは歌い、ブラガは祈る」という言葉があり、その言葉どおりポルトはポルトガルの商工業の中心地でもあった。中でも、ワインの生産と輸出が街の繁栄を支えてきた。ドウロ側上流の丘陵地帯に広がるブドウ畑から世界的に有名なポート(ポルト)ワインが生まれたのだ。今でも世界第8位の年間約100万キロリットルを生産し、農業人口の25%がワインに携わっている。
ポルトワインは発酵の途中でブランデーを加え発酵を停止させて糖分の分解を抑えるというアルコール強化ワインで、アルコール分は20%ある。当時ワインは輸出に弱く、大西洋の厳しい航海に耐えるようにブランデーを入れたのが始まりで、独特の甘味にブランデーとワインの熟成過程で生まれる芳醇な薫りやコクと深みのある味が人気だ。
種類は赤ブドウから造り大きな樽で熟成後さまざまな年数のワインをブレンドするルビー(テイント)ポート、白ブドウから造りルビーポートのようにブレンドしてから3~4年熟成させるホワイト(ブランコ)ポート、琥珀色になるまで最低でも7年樽熟成させるトーニー(アロウラド)の3種類。ルビーポートは普段遣いとして、ホワイトポートは食前に飲まれることが多い。もう1つ、別格扱いであるヴィンテージポートと呼ばれるポートワインがあるが、これは良質のブドウがとれた収穫年の最高ワインから選び抜かれ、それを樽熟成2年後に試飲したうえでヴィンテージか否かが決定される。さらにその後、瓶詰めされて10~50年熟成させる究極のポートワインなのだ。( ̄¬ ̄*)の…飲んでみたい…

サンデマンまたもや10分もしないうちに、ポートワインを試飲させてくれるというワイン工場『SANDEMAN(サンデマン)』に到着。1790年にジョージ・サンデマンによって設立された会社で、工場は1811年からの歴史である。
入口脇に年号の書かれた黒いプレートが10個も貼ってあり、ガイドのNさんが過去にあった洪水の水位を表したものだと教えてくれた。なんといちばん上は、3m近くはあろうかという入口の天井際に印があった。Σ( ̄- ̄∥)!!
中に入るとサンデマン社のロゴと同じ黒帽子に黒マントを羽織った優しい面差しのおねえさんが現れ、工場内の案内をしてくれた。
さっそく両端に樽がずらりと並ぶ貯蔵庫を通り、奥まで進む。そこでこのツアーメンバー全員での集合写真を撮った。並んでいる樽より、はるかに大きな樽をバックにしての記念撮影だった。
小さな樽で550リットル、樽は大きな樽では6万リットルも入るという。
ワイン樽貯蔵庫さらに奥へと移動して、タイトルをつけるなら『ポートワインができるまで』てな感じのビデオ上映を見た。
ポートワインのブドウは、山の斜面のブドウ畑から籠を背負ってすべて手摘みで収穫される。畑が傾斜しているため機械が使用できないそうだ。けっこうな重労働に違いない。
上映が終わると、いよいよ試飲である。入口を入ってすぐ左側にあった直売兼試飲場所に戻り、長テーブル席につく。ホワイト、ルビー、ヴィンテージをそれぞれ小さなワイングラスに少量ずつ飲ませてくれた。ヽ(* ̄▽ ̄*)ノやった♪
これがどれも好みの味で思わずほしくなったが、試飲したのは3000円と言われ、ちょっと迷った末に断念。そしていつもあとで思う。「せっかくなんだから買っておけば良かった~~(>_<。)~」と。3000円くらいで迷うなってのよ、ねぇ……。
で、どんな味だったかというとドイツで飲んだアイスワインにも似た感じの甘口で、それほどアルコールが強いという印象は抱かなかった。だからつい飲み過ぎてしまいそうな、カクテル感覚の味。有名なポートワインなのに……こんな軽い表現でいいのか?( ̄▽ ̄;)
ポートワインは当初長期保存を目的に作られただけあって、ボトルでも100年保存できるそうだ。栓を抜いたあとでも長く味が変わらず、通常のワインのように開けたら飲まなきゃと急かされることはない。ブランデー効果が活きているのだ。
近所の酒屋さんで売ってないかなぁ。←ヾ(ーー;)…結局日本で買うのか?

見学と試飲をしている間に写真ができたらしく、さっそくもらおうと写真を広げていたおにいさんのところへ行くと、なんと有料だった。
5ユーロだったか……うろ覚え。それは、自分で買っていないから。でもこの旅行中に3人の共同財布を作っていて、3人で1枚を買うことにした。おにいさんに値段交渉をしてみたが1セントたりとも負けてくれず、どうせ余ったら捨てるのに……とブツブツ言いながら渋々1枚購入。(;^_^A それをみきちゃんがスキャナを使ってコピーしてくれることになり、今はちゃんと手元にある。(*^-^*)ありがとうみきちゃん♪
ポートワインやポートワイン入りチョコなどを買っている人を待つ間、外へ出てあれこれ写真を撮ってみた。対岸の世界遺産の街並みは曇り空の下でも絵になり、『ラベーロ』というポルトらしい小型帆舟と共に撮るとまさに絵はがきのようだった。
ドン・ルイス橋が、現在このラベーロは実際に使われておらず、ワイン工場などの広告塔の役目を担っている。
ここからは、右手に『ドン・ルイス1世橋』もバッチリ見える。
この橋はエッフェル塔を建てたグスタヴ・エッフェルの弟子であるベルギー人によって1886年に造られた二重構造で、ドウロ川の北岸と南岸の上と下の街をそれぞれ結んでいて、下は水面から10m、上は68mの高さの所に道が通されている。
ちなみにドウロ川には1877年にエッフェルの架けた『ドナ・マリア・ピア橋』もあるが、そのすぐ上流に『サン・ジョアン橋』が1992年に架けられて以後、モニュメントとして残されているそうだ。


世界遺産の旧市街『カイス・ダ・リベイラ地区』に戻り、レストラン『COZZZA RIO』で昼食をとなった。
2階に上がってそれぞれ席につき、ガイドのNさんとお別れして、すでに用意されていたパンにバターを塗りながら食べ始める。が、なかなか料理が運ばれてこない。席について30分近くが経った頃になってようやく、トマト風味のスープが運ばれてきた。
肉じゃがっぽい?やっときたそれをおいしくいただき、さらにまた間が開く。そしてまたもや30分近く、次の料理が出てこなかった。その間にアコーディオンを演奏しにきた2人組みがいたが、「それより早く次の料理を~(:ー_ー)ノ彡☆」と言いたかった。いや、実際にボソッと呟いていた。(^-^;)
同じテーブルになった人たちと話したりはしていたが、30分近くも間が開けばボーっと待っているよりはマシなだけで待たされている感は拭えない。
やっとのことで出てきたメインディッシュは「おや? 肉じゃが?」といった料理だった。もしや肉じゃがもポルトガルから伝わった料理だったりするのだろうか。
またデザートも待たされるのかと思ったがこれはすぐに出てきて、手作りのおいしい焼きプリンだった。そう、味はどれもおいしかったのだ。ポルトガル料理に外れはないとここでも証明されたわけだが、これで待たされなかったらもっと良かったのになぁ。

食事中みきちゃんが「食べ終わったらサン・フランシスコ教会の写真撮ろうか」と言っていたが、私は頷きつつイマイチよくわかっていなかった。が、食べ終わったあとすぐに外に出て、レストランのすぐ裏手がサン・フランシスコ教会であることを知って驚いた。
全然気づいてへんかった……。(;一一)ゞ
先刻は近過ぎて建物がカメラに納まりきらなかったが、その場所からはしっかりと全体を収めることができた。
エレクトリコそこへ、なんともレトロでちんまりとしたエレクトリコ(路面電車)がやってきた。( ̄- ̄*)なんかかわいい♪
実際に乗ってみたくなる雰囲気がいっぱいだったがそんなわけにもいかず、みきちゃんが撮った写真だけで我慢する。
それからすぐに出発となり、これでポルトガルを離れることになった。
ポルトガルの知識は当初無いに等しかったけど、なんだかもっとゆっくりと長期滞在したい気分になる、綺麗で可愛くてグルメな国だったな。(*^o^*)


スペイン北部の西の端にあるキリスト教3大聖地の1つ『サンチアゴ・デ・コンポステーラ』へ向け、約240kmの道中をひた走る。今度もポルトガルとスペインの国境をしっかり撮るつもりで気合を入れていたが、その気合は睡魔という魔物に呑み込まれて空振りに終わった……。(_ _。)がっかり…
今までの旅行ではこんなことはなかったのに、この旅行ではやけに睡魔に襲われる。これまでになくかなり歩き回る旅のため、さすがに疲労が溜まっているらしい。
私は海外旅行では眠らず窓の外を見続けたい人なので、睡魔に負ける自分がちょっと悔しかった。しかもそのせいで国境を撮り損ねたしっ!/(>_<)\もうっ
ただ1人国境通過のときにしっかり起きていたみきちゃんは、残念ながら標識のある側と反対の席に座っていて写せなかった。返す返すも悔しい~っ!


スペインに入って時差のため1時間繰り上がり、16時過ぎに休憩となった。
ここで5月22日のスペイン皇太子の結婚式の写真がたくさん載った雑誌を見つけ、おじさんおばさんたちと一緒に見る。そこには各国の王族、皇族とともに結婚式に参列された日本の皇太子殿下の写真も載っていた。
サンチアゴのホテル
20分ほどで出発となり、バスの車内で前の席のIさん夫妻とあれこれと話しながら、1時間ちょっとでサンチアゴ・デ・コンポステーラのホテル『HUSA SANTIAGO APOSTOL』に到着。
こじんまりとしたホテルで部屋はビジネスホテルくらいの広さだったが、ベッドは簡易ではなく他と全くかわらないベッドが並んでいた。ありがたい♪
夕食までにはまだ2時間ほどあったため、添乗員のKさんに教えてもらったスーパーへ出かけてみることにした。ホテルは市街からは離れた所にあったため、市バスに乗って行くことになる。ちょうどホテル前にそのバス停があったため待っていると金沢のHさん夫妻をはじめ富山のTさんや添乗員のKさんまでやってきて、みんなで一緒に行きましょう、ということになった。
市バスの車内さすがに聖なる巡礼地のサンチアゴで危険はないだろうと思っていたが語学もできないため心細かったのは事実で、添乗員さんまで一緒に行ってくれることになって気分的に楽になる。
10分ほど待っただろうか。やってきたバスの前方から乗り込み、運転手さんに運賃を払う。……いくらだったっけ? 忘れた。f^_^;) でも1ユーロはしなかったはずである。

バスに揺られること20分ちょっとでスーパーに着いた。思ったより遠い。帰りのことも考えて急いでスーパーに入り、30分後に入口集合ということで各自に分かれる。この時間はフリーのはずなのに、添乗員のKさんは私たちと一緒になってしまったばかりにここでも添乗員モードでちょっと気の毒になった。だがおかげで迷うことなくスーパーにも着けたことだし、短い時間のためさっそく広いスーパーの中を探索開始。
スーパーのエスカレーター動く歩道のようなエスカレーターを上って2階へ行くと、そこは日用雑貨と食料品売り場だった。36ロール入りトイレットペーパーなど、またもや大きな商品に驚きつつくるりとフロアを回り、その上の服飾売り場もくるりと見てすぐに1階に下りる。早くも集合時間が迫っていたため、集合場所に程近い雑貨店であれこれと見ていた。
そこにはサンチアゴ巡礼の象徴であるホタテ貝のついた杖が置いてあり、さっそく手に取ってみる。それに飽き足らず、しっかり手に持って写真にも収まった。(笑)


昔、巡礼者は帽子をかぶってマントを羽織り希望の杖と呼ばれる杖をついて、全長約800kmにも及ぶ巡礼路(カミーノ)を1~3ヶ月ほどかけて歩いたという。いや、現代でも服装こそリュックにスポーツシューズと今風だが巡礼者はあとを絶たない。その巡礼者たちが必ず携帯しているのが、赤い十字架を描いたホタテの貝殻なのだそうだ。
ホタテの貝殻は布教中などに水をすくって飲んだのか聖ヤコブ(サンチアゴ)の持ち物とされていて、このためホタテ貝は『聖ヤコブの貝』とも呼ばれている。そして赤い十字架は、かつてスペインで最も歴史あるといわれたサンチアゴ騎士団の紋章からきているようだ。
巡礼の象徴のホタテ貝最盛期の11世紀にはヨーロッパ各地から年間50万人を越える巡礼者が訪れたため、彼らを守るために結成されたのが始まりの騎士団である。主要な町や村に屯所を置いて山賊などから巡礼者を守り、それに伴って救護院や宿場も整備されたという。巡礼路沿いに住む人々も巡礼者に便宜を図ったり宿として提供してりしていたのだとか。そのため巡礼者は自分がサンチアゴの巡礼者であることの証として、聖ヤコブの象徴であるホタテ貝を携帯するようになったのだ。
現在も各地に巡礼者用の『アルベルゲ(Albergue)』と呼ばれる宿泊施設がある。徒歩、または自転車で巡礼旅をしている人なら宿泊料は原則として無料だが、寄付金として2~10ユーロ程度置くのが習しになっている。ただし宿泊施設といっても大部屋に2、3段のベッドが並び、それも男女相部屋で、そのうえベッドもマットレスが敷いてある程度なためシュラフ(寝袋)を広げて寝るのだとか。しかもベッドは早い者勝ちで、巡礼者の多いときは到着が遅くなると床で寝袋を広げることになるらしい。( ̄- ̄;)それは辛そう…


程なくして全員が集まり、急いでスーパー前のバス停へ向かう。夕食の時間まではもう30分ちょっとしか残されていなかった。
行きに何分バスに揺られたか確認し忘れたが、20分以上は確実に乗っていたんじゃないかとあせった。誰あろう、添乗員さんその人が。確かに添乗員が遅刻するわけにはいかないだろう。(^-^;)
幸いバスはすぐにやってきて乗り込んだ。
私たちの傍にとってもおちゃめさんなかわいい女の子が座っていて名前や歳を訊いたりしてみたが、どうやら英語はわからないようできょとんとした目を向けられただけだった。こういった場面になるといつも言葉が伝わったらいいのにとちょっと哀しくなる。
おちゃめな女の子それでも一緒に写真を撮ったりしてその画像を見せてあげるとニコッと微笑んでくれたりし、みきちゃんと「かわいい~♪」を連呼していた。
私たちより先にバスを降りてしまったが「バイバ~イ!」とぶんぶん手を振っていると、下げたままの手を照れたようにお尻の横あたりでぴぴっと振り返してくれた。その様子がまたかわいいっ♪
と、すっかり女の子に夢中になっていたが、そのあとは添乗員のKさんのあせりが伝染して時間が気になり始めた。
「まだかなぁ」と心配するKさんに「三ツ星ホテルの看板が見えたらすぐじゃなかったですか」と行きの記憶を探って言うと、「よく覚えてますね~」と少し感心された。たまたまその映像が記憶に残っていただけなんだけど……と思いながらもちょっと威張ってみる。<( ̄^ ̄)>(笑)

道中少しばかり渋滞している箇所もあったが無事に時間までにホテルに戻ることができ、そのまま食堂に直行して夕食となった。
スペインに戻った途端に肉食である。前菜からして5種類のハムが出てきた。他に真ん中に小さく盛られたサラダと硬いパン、フライドポテトに塩焼きの骨付き鶏肉がドンッと出てきて、デザートにバニラとチョコの2色アイス。この2色アイスももう何度目……。もっと他のデザートがいいっ! とちょっと思った。いや、かなり?f^_^;)
食事中、3人のお誕生日を祝った。なんと、この旅行中に3人もお誕生日を迎えた人がいたのだ。その中の1人である大阪のKさんが、みんなが盛り上がったところをさらに盛り上げようと手品を披露してくれることになった。
写真を撮らなきゃっo(* ̄- ̄*)o、とデジカメを手にしたとき、なんとみきちゃんと私が助手を頼まれた。もちろん否であるはずもなく席を立ち、互いに渡されたロープの両端を持つ。それには5円玉が通されていて、私たちが両端を持っているにもかかわらず5円玉をロープから外すという手品で、5円玉の上にハンカチをかぶせ、その中でロープを何やらグルグルと巻き始めるKさん。その力の強さにうっかりロープを放してしまい、「持っとかんとぉ」と即座に誰かに言われあわてて持ち直した。
そんなわたしのうっかり事件の影響もなく無事に手品は成功し、「簡単な手品ですが<(_ _)>」と言ってから気取った風に会釈したKさんに拍手喝采が送られる。
写真は……と少し期待してNさんを見返ったがデジカメを手にすらしておらず、「なんで~っ~(>_< )~」とみきちゃんとがっかりしつつ、他に写真を撮っていた人がいるかもとそちらに期待することにした。

22時過ぎの空
食べ終わった頃には21時半を過ぎていたが、外はまだ暮れきってはいない。ホテルの隣もスーパーだと誰が言ったため行ってみようかと外に出たが、どうやらスーパーではないようで、しかもすでに閉まっている。
すっかり手持ち無沙汰な感じになってしまい、目の前にあったスペイン独特の人の背丈ほどもある巨大なゴミ箱の写真でも撮ろうかと思ったが、「何もこんな場所で……」と結局それもせず部屋に戻る。が、これを最後に巨大ゴミ箱を撮るチャンスがないことを、このときはまだ知る由もなかった。
そして日本ではあり得ない22時過ぎになってもまだ明るさの残る窓の外の景色を写真に収め、国境をまたいだ一日を終えた。



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