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東塔エリアの「戒壇院」の境内に戻ってきました。ここから東塔エリアを巡ります。 戒壇院は、正式な僧侶になるために「受戒」の儀式が行われるお堂。僧侶にとって中に入れるのは受戒を受けるためであり、天台宗の僧侶としてこのお堂に入るのは生涯に一度だけという特別な場所です。堂内には、釈迦如来と文殊・弥勒の両菩薩が祀られているそうです。天台座主が伝戒師となられるそうです。織田信長による比叡山焼き打ち(1571年)により焼失したのち、江戸時代(1678年)に再建されました。 (資料1,2) この境内には、長與善郎作の戯曲『最澄と空海』より戒壇院に関連した箇所の引用を紹介する案内板が設置されています。比叡山延暦寺に戒壇院ができるまでは、日本には三戒壇しか存在しませんでした。奈良・東大寺の戒壇院、あとは九州(観世音寺)と関東(下野薬師寺)に各一つです。 戒壇院の背後にある宝形造の屋根のある小堂 一隅に鐘楼 池ノ間に天女像がレリーフされています。 縦帯に「比叡山戒壇院」と陽刻されています。 石塔 戒壇院から大講堂に向かう途中に、いくつもの石碑が建立されています。その一つがこれ。「一隅を照らす。これすなわち国宝なり」伝教大師最澄が書かれた『山家楽章式(さんげがくしょうしき)』に出てくる章句です。「『山家学生式』は、伝教大師が『法華経』を基調とする日本天台宗を開かれるに当たり、人々を幸せへ導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいという熱い想いを著述され、嵯峨天皇に提出されたもの」と言います。(資料3)その背後には「修禅大師義真尊者顕彰碑」と刻された碑が、大法会慶讃記念として建立されています。 東塔エリアの案内図 大講堂の背後、北側にいくつか建物があります。傍まで行ってみました。一つは「瑞雲院」で、延暦寺法華三昧道場(別称孝道教団始祖伝法堂)です。 傍にこの駒札が設置されています。 東側には、「前唐院」があります。本尊に「第三世天台座主慈覚大師(円仁)」を祀るお堂で、もとは座主の住坊。「かつては慈覚大師が中国(唐)より将来された真言密教の典籍や曼荼羅を所蔵する経蔵としての機能を果たした」とのこと。(駒札より一部転記)円仁は、円珍(第五世座主智証大師、三井寺の開山)より先に入唐したので、前唐院と称するそうです。(駒札より) 瑞雲院前から眺めた大講堂の背面(北面) 大講堂 重要文化財 4年に一度行われる「法華大会広学堅義」をはじめ、経典の論議や法会が行われる道場です。1956年に火災で焼失し、この建物は麓の讃仏堂が移築されたものだそうです。本尊に大日如来が祀られ、その左右に比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られています。外陣には、釈迦をはじめ、仏教・天台宗ゆかりの高僧の肖像画がずらりと掲示されています。また、外陣には参拝客・観光客向けに、比叡山延暦寺グッズを取り揃えて販売するスペースが設けてあります。 大講堂の南東方向に、この鐘楼があります。 縦帯に「南無阿弥陀如来」と陽刻されています。 ここの鐘楼には鐘を撞くために、長蛇の列ができていました。この鐘は、「開運の鐘」と呼ばれています。それ故に長い列なのでしょうね。 鐘楼の近くから琵琶湖を眺めた景色 大講堂から根本中堂(総本堂)に向かいます。根本中堂は、建物全体の外郭がすっぽりと遮蔽シートで覆われて、大改修工事中です。平成28年度から継続されているそうです。本堂部分の参拝はできます。「不滅の法燈」を眺めることはできます。堂内は撮影禁止。大改修中なので、シートに覆われた外観は勿論撮りませんでした。根本中堂の前を北方向に進みます。根本中堂の前、東側には急勾配で横幅の広い石段があり、その上に建てられているのが文殊楼です。後ほど巡ります。 根本中堂のある境内の北辺に見える景色。 左側に建てられたこの石碑は、上掲の『山家学生式』を刻した石碑。 「天台法華宗年分学生式一首」という標題で駒札が立ち、碑文の読み下し文が記されています。 右隣りの円柱台座の上に立つのは「伝教大師童形像」です。昭和12年(1937)、比叡山開創1500年を記念して建立されました。駒札の末尾には、「全国小学校児童の一銭醵出によって建立されました」という説明が記されています。童形像の右側には、木々の枝葉で隠れていますが、 近づくと石造伝教大師最澄椅座像が建立されています。 左側をその先に進むと、右側に石段があり、その上に碑が建立されています。枝葉の影が映じて碑文がほとんど読みづらいですが、宮沢賢治の詠んだ歌が刻まれています。「根本中堂」という詞書が付いています。 ねがはくば 妙法如来 正遍知(ショウヘンチ)大師のみ旨(ムネ) 成らしめたまへ 傍に設置の案内板には、歌意について次の説明が記されています。「どうかみ仏のすばらしいお知恵によって、伝教大師が日本に天台の教えをひろめられ、国の平和を守りたいと祈られたみ心にあうよう、どうかみ仏の加護をいただきたい」 「宮沢賢治父子延暦寺参詣由来」と題した参詣75周年記念銘板も設置されています。さらにその先を眺めると、 「星峯稲荷」と刻された石標と石鳥居があります。 狐の石像が配されて、 入母屋造の屋根の社があります。 格子戸越しに拝見すると、中に内陣が設けられ、小ぶりな本殿が設けてあるように見えました。お堂のスタイルを取り入れた稲荷社という印象を受けました。社の右側に、山道が見えていますので、どこにつながるのか、登ってみました。つづく参照資料1) 延暦寺の戒壇院、初めての特別拝観 法華総持院東塔も :「朝日新聞DIGITAL」2) 最澄と比叡山 :「伝教大師最澄一千二百年魅力交流」3) 一隅を照らす :「天台宗 一隅を照らす運動」補遺戒壇院戒壇堂 :「東大寺」(7) 戒壇院 歴史の散歩道(史跡スポット) :「大宰府市文化ふれあい館」下野薬師寺 ホームページ戒壇 :ウィキペディア戒壇 :「唐招提寺」正遍知 :「コトバンク」正遍知 :「WikiArc」仏の十号 :「飛び不動 Flying Deity Tobifudo」」本会のなりたち <宮沢賢治と比叡山延暦寺> :「関西岩手県人会」挑戦の気持を忘れずに :「比叡山時報」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 比叡山 延暦寺へ -1 往路の途次、坂本点描 へ探訪 比叡山 延暦寺へ -2 往路での琵琶湖展望、東塔エリア経由西塔エリアへ探訪 比叡山 延暦寺へ -3 西塔エリア 釈迦堂の秘仏特別ご開帳と境内巡り へ探訪 比叡山 延暦寺へ -4 西塔エリア 西塔政所・常行堂・法華堂・椿堂ほか へ
2024.10.31
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牧水歌碑釈迦堂の東側には、「居士林研修道場」と記した道標が立っています。その道標の先の山道を少し歩いてみることにしました。少し先で目に止まったのが冒頭の歌碑です。 傍にこの案内板が設置してあります。近くに下り道との分岐がありました。下り道を歩むとたぶん本覚院に到るのでしょう。若山牧水は大正7年に本覚院に1週間滞在したそうです。上りの道を少し歩いてみました。 少し登ると、右側に石段があり、その上に石塔を囲む石柵が見えます。由緒があるのでしょうが、何の説明もなく不詳。 この辺り、「モミの天然林」だそうです。緩やかな上りのこの山道は西塔エリアから横川エリアに到る山道でもあります。その表示が出ていました。東海道自然歩道にも指定されています。入手したリーフレットによれば、西塔から横川までは、徒歩で約90分の行路。今回は時間的にも往復はちょっと無理。 路傍に「元三大師道三十三丁目」と読める道標が立っています。その下にも数文字刻されているようですが判読できず。リーフレットの地図を見ますと、横川エリアには元三大師堂があります。1丁ごとに、このような道しるべが案内の役割を果たしてくれるのでしょう。途中で分岐を見過ごしたのか、居士林研修道場らしき建物を目にできませんでした。時間を見計らって東塔エリアへ戻ることにしました。手水舎と釈迦牟尼仏石像との間にある石段道を戻ります。 左側には、門柱に、「延暦寺 学問所 止観道場」(右)、「西塔政所」(左)の木札を掲げてあります。両側に石を積んだ通路の先に建物が見えます。門から先は立入禁止。政所は西塔の寺務所の機能を担うとか。「天台止観」と称されますが、止観は天台宗における仏教の修行法のようです。「天台智顗は南岳慧思から相伝した<三種止観>によって、当時の諸経綸の禅観すべてを整理統摂して仏教の修行法を体系づけた。すなわち、”持戒のうえ禅定を修し、しだいに深い禅観に入って真実を体得する」(資料1) という<漸次止観>から順次修行を深めていくそうです。 通りすぎてきた朱塗りの二つのお堂の背面がまじかに見えてきます。二つのお堂が唐破風造の渡り廊下で繋がっていて、この廊下の下が釈迦堂への通り道になっています。桁行四間、梁間一間です。 西塔エリアの南側から眺めると、二つのお堂をつなげる渡り廊下はこんな景色です。二つのお堂は同じ形です。「延暦寺の僧であった弁慶が、渡り廊下を天秤棒に見立てて担いだという伝説が残っています」(資料2)そこで東西の二堂を総称して「にない堂」と呼ばれています。 西側にあるのが「常行堂」です。本尊は阿弥陀如来。こちらでは常行三昧の修行が行われます。桁行五間、梁間五間、一重、宝形造、栩葺(トチブキ)。正面に一間の向拝が付いています。文禄4年(1595)建造。 東側にあるのが「法華堂」。常行堂と同じ形のお堂です。本尊は普賢菩薩。こちらでは法華三昧の修行が行われます。 にない堂の近くに立つ歌碑。滋賀県の蒲生町極楽寺の住職だった米田雄郎さんの辞世の句だそうです。 (資料3) しづやかに輪廻生死の世なりけりはるくるそらのかすみしてけり 雄郎 にない堂の近くに、「親鸞聖人旧跡」の石標が立っています。 道沿いに少し進むと、西側に石垣と石段があり一段高い場所があります。 石段の先に、「親鸞聖人ご修行の地」の石標が建立されています。この場所は入手したリーフレットにも明記されています。 石標から少し南側には、 「真盛上人修学之地」と刻した石碑が建立されれています。 石碑の傍に、駒札が設置されています。この場所は、もと西塔南谷南上坊(後の真盛院)跡だそうです。このシリーズの第2回で、円戒国師寿塔をご紹介しました。真盛上人の諡号は円戒国師・慈摂大師です。現在の天台真盛宗の祖です。坂本の西教寺は真盛上人が中興の祖となり、天台真盛宗の総本山です。(資料4)箕渕弁財天社の前を再び通り、道沿いに左折した後、浄土院に向かう前に、一旦さらに左側の石段を下ります。 椿堂 本尊は千手観音菩薩が祀られています。 説明にある通り、聖徳太子が比叡山に登られた際に使われた椿の杖にゆかりのある伝承地です。椿堂の名前の由来だそうです。お堂の傍に椿の大木があります。(案内板より) 境内の石灯籠 鐘楼 ここの梵鐘は撞くことは禁止の表示が出ていました。石段を上り直し、浄土院へ道を黙々と登ります。 浄土院外壁の南西側の外に、小さな手水鉢が目に止まりました。浄土院前の道を戻り、東塔エリアに引き返します。 浄土院前からは、復路として、石段道の登りが山王院堂まで続きます。さて、もうひと頑張り・・・・・。 西塔エリア案内図それでは、東塔エリアの探訪に戻ります。つづく参照資料1)『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店2) 延暦寺でいただいたリーフレット「比叡山延暦寺」3) 米田雄郎歌碑(坂本本町) :「大津のかんきょう宝箱」4) 真盛 :ウィキペディア補遺西塔 境内案内 :「比叡山延暦寺」延暦寺常行堂及び法華堂 法華堂 :「文化遺産データベース」比叡山延暦寺法華堂・常行堂平面図・立面図(明治23.8)(青木良孝):「Cultural Japan」しづやかに輪廻生死の世なりけり春くる空のかすみしてけり:「古代文化研究所:第2室」碑・塔リスト :「大津市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 比叡山 延暦寺へ -1 往路の途次、坂本点描 へ探訪 比叡山 延暦寺へ -2 往路での琵琶湖展望、東塔エリア経由西塔エリアへ探訪 比叡山 延暦寺へ -3 西塔エリア 釈迦堂の秘仏特別ご開帳と境内巡り へ
2024.10.29
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恵亮堂前の道を少し下ると、釈迦堂の境内です。右方向に「手水舎」が見えます。 手水鉢への水の注ぎ口に龍像が見えます。龍との出会いです。 石段を下りると正面に「釈迦堂」が見えます。まずは、初期の目的地のこの御堂に向かいます。いざ、内陣拝観へ! 「秘仏本尊釈迦如来像特別ご開帳」の案内板が手前に設置されています。 前売券として購入していた拝観券半券。内陣は1か所を除いて撮影禁止でした。 そこで、この拝観券の上部の図をイメージの補助として部分拡大しました。本尊の釈迦如来像は厨子の中に安置され、その扉が開かれています。厨子の近くは参拝しやすいように照明が調整されていますが、それ以外の内陣は薄暗い空間になっています。内陣中央の厨子の外周には四天王像が配置されてていて、四天王像には青白いスポット照明があてられ、内陣床面には図にみられるように、水面上に蝋燭が燃え明かりが揺らめいている環境が表現されています。 内陣の背後面には、プロジェクション・マッピングの幻想的な映像が投影されています。この壁面箇所だけが撮影OKでした。 内陣の厨子背後で、マッピングされた壁面の前方中央にこの植物を象徴した造形物が置かれています。説明版が設置されていました。英語表記だったと記憶します。dandelion という単語だけが記憶に残っています。辞書を引くと、タンポポのこと。 近づいて、黄色い箇所に息を吹きかけてみてください、という係の人の声に従うと、 タンポポの綿毛が風に吹かれるように飛び散り、マッピング画像が揺らめき、広がっていきます。その動く画像面の中に、ENRYAKUJI、 HONGKONG という2語も飛び回っているのです。ENRYAKUJI はわかるとして、なぜ HONGKONG なのか?係の人に尋ねると、このデジタルアートの展示が同時期に香港でも行われていると聞きました。おもしろい試みです。実に幻想的な空間が創出されています。ユニークな試みを絡めた秘仏御開帳です。こういう演出があるとは想像もしていませんでした。一見の価値あり。後で調べてみますと、これは世界と繋がる参加型アート「DANDELION PROJECT」としてアーティスト村松亮太郎さんによる特別展示だそうです。NAKED のデジタルアートと称されています。 ”平和への祈りをデジタルのタンポポの綿毛に乗せて、「DANDELION」が植樹されている世界各地にネットワークで繋がり、平和の花を咲かせます」(資料1) という試みだそうです。幽闇と花々が飛び交いゆらめく空間の世界から、現世の明るさの中に立ち戻り、釈迦堂周辺の探訪から始めます。 釈迦堂正面の右前に立つ石灯籠。笠石が相対的に大きい。めずらしい姿。 釈迦堂の右側あたりだった気がするのですが、「元三大師得度之霊跡」の石標が目に止まりました。 釈迦堂の右(東)側面 御堂の傍に、石仏が一列に並べて置かれています。 釈迦堂の左(西)側面 西側に「法然上人ご修行地青龍寺」の石標と、石塔が建立されています。ここに立つ石標は、道標のようです。調べてみますと、青龍寺は、法然上人二十五霊場の一つで、比叡山西塔の北谷にある寺院として再興されて存在しますので。(資料2)また、近くには次の「釈迦伝」が掲示されています。ヒマラヤの麓のカピラ国の王子としての生誕から、釈尊の成道までが語られています。 上掲手水舎の近くに設置された西塔エリアの案内図です。釈迦堂は西塔エリアの北寄りに位置し、前回往路の途次としてご紹介した山王院堂が南端になります。 釈迦堂の西側は小高い斜面で、その上に「鐘楼」が見えます。 ここの鐘は撞くことができます。並んでいる人は一人、二人でしたので、一撞きしてきました。 釈迦堂境内の南西隅の一画です。背後に見えるお堂が前回触れた「恵亮堂」。 「釈迦牟尼仏」の石造坐像。お釈迦さまです。 正面前方に設置された石灯籠の姿がユニーク。灯籠としての基本形は同じですが、要所要所の造形にあまり見かけることのない形が組み込まれています。 釈迦牟尼仏の右隣りには、小ぶりな地蔵菩薩石像が建立されています。傍に「平和地蔵菩薩」との案内板が設置されています。この辺りで一区切りとして、次回も西塔エリアをご紹介します。つづく参照資料1) 西塔釈迦堂 秘仏本尊釈迦如来像特別ご開帳 内陣特別公開 :「BIWAKO OTSU TRAVEL GUIDE」2) 特別霊場 青龍寺 :「法然上人二十五霊場」補遺元三大師について :「深大寺」良源 :ウィキペディア青龍寺 :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」村松亮太郎 :「WHITESTONE」プロジェクションマッピングについて :「プロジェクションマッピング協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 比叡山 延暦寺へ -1 往路の途次、坂本点描 へ探訪 比叡山 延暦寺へ -2 往路での琵琶湖展望、東塔エリア経由西塔エリアへ
2024.10.28
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坂本ケーブルの延暦寺駅で下車し、その近くの展望所から琵琶湖を眺めます。手前が湖西側です。 山頂駅傍には、進行方向とは反対側に「無動寺参道」の大きな石標と石鳥居があります。扁額の文字が判読できませんでした。 進む方向の参道には、「東海道自然歩道」の一部になっている掲示と路傍に大きな石灯籠があります。 参道の左側に、石仏が祀られています。坂道を登って行くと、 「慈眼大師天海大僧正住房跡」の石標が路傍に立っています。 道沿いに右折していくと、「比叡山」「延暦寺」の木札をかけた門柱が立ち、その先に受付所が設置されています。 いくつかの掲示の一つに、「比叡山回遊案内図」があります。延暦寺の東塔エリアに一番近くまで上れるのが坂本ケーブルです。 受付所で拝観手続きをすると、この「諸堂拝観券」と「比叡山めぐり」のリーフレットをいただきました。これは比叡山ガイドマップと延暦寺三塔巡拝マップです。今回、延暦寺に来た第一目的は、西塔エリアに位置する釈迦堂内陣の特別公開を拝見したいためでした。そこで、まずは東塔エリアを通り抜けて、釈迦堂を目指します。当初目的からいえば、まだ釈迦堂への往路途次のご紹介になります。 「法然上人禅定御旧跡 三丁」の石標を横目に見つつ(立ち寄るには方向が異なりますので)、東塔エリアの中心となる根本中堂の傍を通り過ぎ、 戒壇院傍の道を回り込む形で、西塔エリアに向かいます。 東塔エリアを外れますと、途端に観光客は急激に減少。山道の左側、石垣の先に見える覆屋に近づくと、「弁慶水」という木札が掲げてあります。 その隣りの覆屋がこれ。左側に石造地蔵菩薩坐像、右側には「無縁塔」と正面に陰刻した石塔が安置されています。 先に進むと、西塔エリアへの案内表示が出ています。ドライブウエイの上に架けられた鉄橋を渡って、西塔エリアに。 橋を渡るとまず、目に前に「山王院堂」が見えます。木札には、本尊千手観世音菩薩、六祖智証大師円珍御住坊と記されています。 この境内地にある石灯籠、宝篋印塔、そして小詞。お堂の傍を道沿いに進みます。両側に石灯籠が林立する参道を下っていくことになります。 参道を下り終わり、振り返るとこんな景色です。降り終えた前に見えるのが、「浄土院」(重要文化財)です。 石段道を降りきると、すぐ門が見ます。その門からの出入りはできませんが、門前から浄土院のお堂が正面に見えます。浄土院拝観は左折して少し先の通用門から入ります。 通用門側にある建物。上記の門の内側近くまで回り込んできて、眺めた景色。 お堂正面に「浄土院」の扁額が掲げてあります。扉に彩色された文様が鮮やかです。木組の一部も彩色が見られます。 お堂の右側を背後に回り込みます。まず石塔が見え、その先に 「伝教大師最澄の御廟」があります。ここは比叡山で最も清浄な聖域です。「弘仁13(822)年に入寂した伝教大師は弟子の慈覚大師円仁によってこの地に埋葬されました。浄土院で12年間籠山行を行う侍真僧(ジシンソウ)は、食事の給仕など、生前同様に伝教大師に仕えています」とのこと。(資料1) 御廟側のお堂の扉。部分的な彩色が目を惹きつけます。 御廟前から左(西)方向を眺めるとこのお堂が見えます。 御廟の屋根の裏側を眺めると、尾垂木と軒垂木の間に、猿像が支えとして組み込まれています。魔除け的な意味合いがあるのでしょうか。 浄土院を後にしてこの比較的狭い道を西に進み、道沿いに右折して北方向に進みます。 伝教大師御遺誡「我が志を述べよ」が刻された石碑が建立されています。調べてみますと、「我が為に仏を作るなかれ、我が為に経を写すなかれ、我が志を述べよ」という遺言に由来するそうです。(資料2) 右隣りにある詩碑。判読してみました。誤読箇所があるかもしれません。 弁慶の飛び六法 勧進帳を観て 一つの傷も胸の騒ぎもない 真に為し さうして終った 独り凝っと動かず 晴れ渡る安宅の空に 知らず知らず涙が滲じむ 必ず徹る人生の味 成就の味 草野天平 詩碑の右には、「五重照隅塔」が建立されています。 その先には、左側に「箕渕弁財天」の扁額を掲げた弁財天社があります。弁財天社の南西側には駐車場があり、西塔エリアではここまで車で来られるようです。この後、一部は後で巡ることにして、先に進みました。 道沿いの左側、奥に見えるお堂は「恵亮堂」です。恵亮堂は、恵亮和尚(800~859)を本尊として祀るお堂。大楽大師と称される人。当時、お山で修力霊験に最も優れると評されたそうです。京都・妙法院を創建した和尚だそうです。(駒札より)この景色の左手前に建立されているのは、「円戒国師寿塔」です。傍に立つ駒札の説明によれば、寿塔は生前にあらかじめ造られたお墓のことです。上人建立の寿塔は、元亀の兵災で破壊されたそうです。現在の寿塔は天保10年(1839)に再建立されたものです。 寿塔にむかって右側には、石仏が並んでいます。 恵亮堂の前に、中西悟堂の歌碑が建立されています。傍に案内板が設置されています。 樹之雫(キノシズク)しきりに落つる暁闇の 比叡をこめて啼くほととぎす中西悟堂は16歳で得度し、比叡山で教義を学んだ後、僧籍から野鳥研究家に転じ、昭和期の詩人であり随筆家だった人です。<日本野鳥の会>を創設。自然保護運動を行ったと言います。 (案内板より)いよいよ釈迦堂が見えてきました。つづく参照資料1) 延暦寺でいただいたリーフレット「比叡山延暦寺」2) No.202 志を立てる 法話集 :「天台宗」補遺天台宗総本山 比叡山延暦寺 ホームページ草野天平 :「コトバンク」六方 歌舞伎事典 :「文化デジタルライブラリー」中西悟堂 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 比叡山 延暦寺へ -1 往路の途次、坂本点描 へ
2024.10.27
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2週間前、14日に延暦寺に行きました。その記録を兼ねたご紹介です。JR湖西線の比叡山坂本駅で下車。駅の傍に冒頭の案内図が設置されています。坂本は延暦寺の門前町として栄えました。「穴太」を「あのう」と読み、「穴太衆積み」という石積み方法で有名です。案内図に描かれた幅の広い坂道を西に進みます。 駅のすぐ近くには「坂本石積みの郷公園」が見えます。9時前に比叡山坂本に着きましたので、歩む道筋にはちらほらと人を見かけるだけでした。静かな坂道を、坂本のケーブルカー乗り場まで、道路沿いの寺社を眺めつつ、坂道を上ります。往路の点描から始めます。 道路の右側にまず目に止まる表門。「不動明王」の石標が門の傍に立っています。養老寿庵と称するようですが、詳細不詳。 道路の左側には、「石占井(イシライ)神社」の石鳥居と朱塗りの板垣、覆屋のある小詞が見えます。由緒書きが設置してあります。「天智天皇の聖代白鳳二癸酉年(673年)大己貴大神(オオナムチノカミ)を奈良の三輪山より日吉大社に勧請されるとき、唐崎比叡辻を経て当地にて石に座した占いの女神に合い『大神の鎮座する聖域はどこか』と尋ねたら女神は大神の御足を井戸で洗い日吉大社西本宮の聖域までご案内した。この故事にちなみ当神社を石の占い井と称し女神を石占井大明神として祀る」(由緒を転記) 祭神は奥津嶋姫神。 覆屋の板垣には石占井大明神の絵図が掲げてあります。 石垣の一部に、飛鳥・白鳳時代、7世紀に造営された坂本廃寺の塔心礎が推定ですが使われているという駒札が設置されています。 坂道には、「日吉神社」の扁額を掲げた石鳥居が設置されています。 石鳥居のすぐの左側には「大神門神社」があります。工事中で立ち入り禁止。 神社の先には、道路沿いに地蔵堂があります。 その少し先は駐車場ですが、その入口近くに、ここが「坂本銭座」の跡地という案内の駒札が設置されています。(地元での伝承と付記あり)1636年、三代将軍徳川家光の命により、青銅の「寛永通宝」一文銭の銭製造地の一つにここが選ばれたそうです。あとの2か所は江戸の芝と浅草。「坂本で作られていた私鋳銭がオランダ商人により海外へ輸出され『サカモト』と呼ばれ人気だったため、その品質や製造技術を評価されたようです。 寛永通宝坂本銭の初期の字体には、『永』の字の跳ねが強いという特徴があります」(説明の後半を転記)ふと思ったのですが、私鋳銭が輸出されたというのは、金属素材としての価値に目をつけたことによるのだろうか・・・・と。 その先、坂道の右側には「公人屋敷(旧岡本邸)」があります。「公人」は「くにん」と読みます。比叡山延暦寺を支えた人々です。 その先、右側には「日吉御田神社 (旧称 井神)」があります。石鳥居の手前に大きな井戸があり、注連縄がめぐらせてあります。設置されている由緒書きには「御田奉行の明神なりと伝う。当社にある大きな井戸を信仰の対象として行われた原始的な農耕祭祀がこの神社の起源とされ、五穀豊穣の御神徳は、今も篤く信仰されている。社名を御田神社と呼ぶのも、古代の田用水や、農耕との密接な関係からと言われている」(由緒転記)石鳥居の先には、覆屋が設けられた一間社流造の小社殿が見えます。祭神は水葉女神(ミズハメノカミ)。 この御神燈がちょっとユニークです。竿は石柱でその上に横長家形の木製の火袋が載せてあります。 その傍に巨木の御神木が聳えています。 境内の西側石垣には、窪みを設けて石仏群が安置されています。ここでも疑問が・・・・。これは明治よりも前からここに集められた石仏(お地蔵さま)なのだろうか。それとも、明治初期より後に、新たにここに安置され集合したものなのか。 さらに進めば、右側に「坂本観光案内所」が見えます。この建物の傍にも、大きな案内地図が設置されています。 この案内所から西側の部分図を切り出してみました。案内所の西隣りが「生源寺(ショウゲンジ)」です。日本における天台宗の開祖伝教大師最澄の生誕地といわれています。奈良時代後期に、最澄により開山されたと伝えられているお寺です。天台宗の霊地です。(資料1) 山門を入ると、前方左側に「写経塔」があり、前方正面に 唐破風屋根の向拝が設けられた本堂が見えます。 唐破風屋根の頂に、獅子口の代わりに、龍像が彫刻された瓦と出会いました。 龍探しの一環として取り上げておきます。 山門を入って右側、境内の南東隅には、「傳教大師御産湯井」の石標が建てられた井戸があります。伝教大師の童形像が建立されています。 山門を入ったすぐ左側、境内の北西隅には鐘楼があり、 鐘楼の背後、築地塀傍に石仏が一番数多く集合安置されています。 生誕寺の西隣りは「大将軍神社」です。この神社は進行方向の坂道と横小路(南北方向)の交わる北東側角地にあります。進行方向の坂道には二つ目の大きな石鳥居が建てられています。ここ日吉大社の表参道が「日吉番場」と称されています。この日吉馬場の両側に穴太衆積みの石積みが見られ、その石積みに囲まれた建物が里坊でです。大将軍神社の角を右折し、横小路を北に1.5km 歩めば西教寺に到ります。道標あり。ここからは里坊を眺めつつ、坂本ケーブルの起点駅に向かうことになります。春には、「京阪坂本駅から日吉大社入口の鳥居までの日吉馬場(ひよしのばんば)と呼ばれる県道が約200本の桜で満開になる」(資料2)のです。 寿量院 実蔵坊 律院 恵光院 様々な形の石灯籠が道沿いに奉納されていておもしろい。坂道の右側に穴太衆積みの石積みと里坊の表門を眺めつつ歩むと、 朱塗りの鳥居が右側に見えます。「官幣大社日吉神社」の社号碑が立ち、「日吉大社」の扁額を掲げた鳥居の前には、日吉大社と墨書した提灯が設置されています。坂本ケーブルは、道沿いに左方向に進みます。 少し奥まった位置に六角堂が見えます。「早尾地蔵尊」です。別名「六角地蔵堂」。道沿いに進むと、延暦寺学園の校門が見え、さらにその先に最初の目的地が見えます。 坂本ケーブルの起点です。 ケーブル乗車券坂本ケーブルは、長さ日本一だそうです。 ケーブルに乗り、山へ!つづく参照資料1) 生源寺 :「滋賀・びわ湖観光情報」2) 日吉大社(日吉馬場) :「滋賀・びわ湖観光情報」補遺公人屋敷(旧岡本邸) :「大津市」公人屋敷(旧岡本邸) 公式サイト生源寺 :ウィキペディア寿量院庭園(坂本5) :「大津のかんきょう宝箱」実蔵坊庭園(坂本5) :「大津のかんきょう宝箱」「律院」と「阿闍梨餅」 特集ページ :「天台宗」山王総本宮 日吉大社 ホームページ滋賀県大津市 早尾地蔵尊 :「Japan Geographic」養老寿庵門前橋 :「田舎暮らしdeほっ!」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.10.26
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琵琶湖疎水沿いの道から仁王門通に右折し、東大路通を横断して、京阪三条駅に向かう時、ルーティンのように歩く帰り道ではおもしろくないと思い、普段通ることにない通りに左折して南に下りました。自宅で地図を確認してみますと、その通りは新高倉通でした。美術館については、後で少し触れたいと思います。南に歩むと、お寺の大きな屋根が見えてきます。近くまで行くと、冒頭の門が見えました。「日蓮本宗 本山要法寺 西門」の木札が掛けてあります。かなり広い境内地のお寺です。門が開いていましたので、境内を拝見しました。人目につきにくい町中の奥まった位置にこんな大きなお寺があることを今まで気づきませんでした。自宅で調べてみたところ、この門は、「嘉永六年(一八五三年)晋山の第三十八祖日生上人の代に上棟されたもので伏見桃山城の遺構とも伝えられ」ており、平成8(1996)年8月に修理復元されたとのこと。高麗門です。(資料1) 門を入ると、境内の南側には、北向きの門と築地塀が並んでいます。塔頭のようです。「山内には塔頭として顕寿院、実成院、法性院、本行院、本地院、眞如院、妙種院の七寺院」(資料1)があるとか。地図を確認しますと、顕寿院、実成院、法性院が、要法寺の北側に、そしてこちらに4寺が軒を連ねています。 門から東方向には池が見えます。「清涼池」と称するそうです。 (資料1) 塔頭の前の道を進み池に架かる石橋の前に立ち本堂を眺めます。 この石橋は、安永7(1778)年造立で、「救済橋」と称するそうです。 (資料1) 池の東側には袴腰のある「鐘楼」があります。 鐘楼の南東側から眺めるとこんな景色です。 振り返ると、境内の南東側にこの門が見えます。こちらが南面する「表門」です。享保9(1724)年4月上棟、伏見桃山城の旧聚楽門と伝えられているとか。(資料1)この要法寺を地図で確認しますと、東山三条西入ル法皇寺町に位置します。地図を見ていて、気づきました。三条通を東に歩いていくと、三条通に面する北行きの道路の傍に、大きな寺号標が建っていることを思い出しました。グーグルのストリートビューで確認しますと、やはり、「要法寺」の寺号標でした。この北行きの道を上がれば、表門に到るのでしょう。今度は正面から表門を眺めに、この道を使って、立ち寄ってみたいと思います。 境内側から眺めた蟇股には前に張り出した形で亀が彫刻されています。翼の一部が見えますので、多分、正面側は鶴の彫刻が見られるのでしょう。 鐘楼の北東方向には、「庫裡玄関棟」が見えます。 石橋を北側(本堂側)から眺めた景色。欄干の柱に刻された文字は「救済」でしょうか。 本堂 手元の本によりますと要法寺は次のような沿革があります。鎌倉末期、1315年、日尊上人が六角油小路の地に一宇(上行院)を創建 弟子日大が二条堀川の地に住本寺を建立。日尊の法脈を伝える。天文5年(1536)7月、天文法華の乱 泉州堺に難を避ける。1542年、帰洛。綾小路堀川に、上行・住本二寺を合わせて再建。「要法寺」と改称。天正年間(1573-1592)、秀吉の命により、二条寺町に移転。宝暦5年(1755)、大火により類焼。 この被災後に、現在地に移ったとのこと。 (資料2)この本堂は、明和7年(1770)8月16日に上棟、安永3年(1774)3月15日に落成。総欅造。入母屋造・本瓦葺。1987~1989にかけて、大修復工事を行って、現在に到るそうです。本堂には、本尊と日蓮大聖人の尊像が安置されているそうです。 (資料1) 要法寺の寺紋が鶴なのでしょう。 入母屋造の妻側と大棟 大棟の鬼瓦。鳥衾には鶴紋が陽刻されています。 この稚児棟の先端部は、龍像の彫刻に見えるのですが・・・不詳。軒丸瓦の瓦当は寺紋。 降棟と稚児棟の鬼瓦の上部の鳥衾には「要」の字が陽刻されています。留蓋には獅子像が見えます。 本堂の西側にあるのが、「開山堂」です。天保元年(1830)11月20日に再建された時は、新堂と称されていました。重層入母屋造り、唐破風・本瓦葺の建物。大正4年以降は、本尊と開山の日尊上人の御影像が安置されているそうです。この建物もまた、1988年に全面修復工事を着工し、本堂と同時期に古来の姿を蘇らせたとのこと。 (資料1) 唐破風屋根上正面の獅子口には、九条藤の紋が陽刻されています。 開山堂屋根の降棟と稚児棟の鬼瓦。 鳥衾と軒丸瓦の瓦当には、日蓮本宗の宗紋が陽刻されています。 庫裡玄関棟の傍に、この鬼瓦が置かれています。 また、一塔頭の門の傍に、この鬼瓦が置かれていました。屋根上の鬼瓦を見上げることは多くても、すぐ近くで眺める機会は少ないので、このようにさりげなく置かれているのは、瓦好きにとってはうれしいです。この辺りで、要法寺を後にしました。最後に、美術館行きについて、覚書を兼ね少しご紹介します。出かけたのは、二条橋の北西側にある細見美術館。 PR用のチラシ 現在、「美しい春画」展を開催中です。副題は「北斎・歌麿、交歓の競艶」と名付けられています。江戸時代には「笑い絵」とも呼ばれ、有名な浮世絵師たちも作品を残しています。この展覧会の巡回予定はないそうです。ここでの今回限りの展示になるようです。浮世絵師の中でも、葛飾北斎には特に関心を抱いていますので、副題に名前が出ているので期待しました。北斎の版画の「浪千鳥」と「肉筆浪千鳥」が並べて展示されているのは圧巻でした。版画と肉筆画との色遣いの大きな違い、絵の美しさのインパクトの差異等は、現物を鑑賞しないと味わえないものでした。版画と肉筆画の違い、現物(実物)と写真との違いが一目瞭然に体感できました。PRチラシの説明では、海外からの里帰り作品約20件を含む、精選された美麗な春画約70件が展示されています。2013年から翌年にかけてロンドンの大英博物館でSHUNGA展が開催され、春画の高い芸術性とユーモラスな発想が海外で高く評価されたそうです。これがターニングポイントになったのでしょうか。浮世絵研究においても、春画が絵師の作家活動の一つとして捉えられるようになりました。日本で初の本格的な春画展が、東京の永青文庫と京都の細見美術館で開催されました。京都では2016年2月~4月でした、北斎に関していえば、この時、「喜能会之故真通」「富久寿楚宇」「万福和合神」という作品から、期間中に場面替えによる展示でした。それ以来、今回は2回目の展覧会になります。勿論、館内撮影はできません。このあたりで終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1) 日蓮本宗 本山 要法寺 ホームページ2)『昭和京都名所図会 洛東 下』 竹村俊則著 駸々堂 p218補遺日蓮本宗 :ウィキペディア興門八本山 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.10.20
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瀧尾神社拝殿 天井の龍像10月9日(水)、今年も案内状をいただいたので、「京都女子大学 宗教・文化研究所公開講座」の聴講に出かけました。時間のゆとりをもって出かけましたので、往路の途次、ちょっと立ち寄った箇所の、ちょっとマニアックな点描ご紹介です。いつものように、JR奈良線の東福寺駅で下車します。数分の距離のところに「瀧尾神社」があります。 境内の拝殿、その天井の龍像をちょっと眺めるために立ち寄ってみました。このダイナミックな龍像を久しぶりに撮りました。今回初めて知ったのですが、拝殿に上ることができるようになったようです。ただし有料です。幾度も眺めているので、私は拝殿に上るのは遠慮しました。拝殿に上り、床に寝そべって写真を撮るわけにもいかないでしょうし・・・・。いつもとはルートを変え、大谷高・中学校のキャンパスの北側、JR沿いの道路を東に進み、東大路通に向かうことにしました。東大路通を北上します。 智積院境内地の南西隅で境内の外になりますが、「地蔵堂」があります。 ここのお地蔵さまを格子戸越しに眺めるのも久しぶり。 蟇股 頭貫の先端の木鼻と柱上部の木組前方に向けた木鼻がないのはもともとなのか、切断された結果でしょうか・・・。ちょっと気になりました。 智積院の境内に立ち寄ってから、公開講座の会場建物に向かうことにしました。智積院は入口がオープンです。境内地は自由に参拝、散策することができます。(有料区域は限定) 緩やかな坂道を上ると右手前方に、この「宝物館」があります。(ここは有料)長谷川等伯等による障壁画は、現在この建物(展示収蔵庫)に収蔵され常時公開されています。旧建物で拝観したことはありますが、この宝物館ができて以降は私は未見です。 宝物館の右(南)側面を回り込んで、「金堂」の方に歩みます。 降棟の鬼瓦 稚児棟の鬼瓦 金堂・入母屋造の屋根の妻(側面)に見える鬼瓦 金堂・大棟の鬼瓦 撮りたかったのはこの大屋根の鬼瓦です。金堂の南側には通路と池を挟んで、不動明王を祀る不動堂「明王殿」があります。 池の傍に、彼岸花が咲いていました。 お堂の前には、大きな香炉が設置されています。 正面の向拝は3間幅です。 お堂の正面には、「明王殿」の扁額が掲げられ、向拝の中央部右側の柱には「京都十三佛 第一番 不動明王霊場」の木札が掛けてあります。 右端の柱、頭貫の先には木鼻に象の彫刻。 柱には、この木札が掲げてあります。 左端の木鼻 象の目は、玉眼のようです。 私の探しているものを中央の蟇股で見つけました。龍像の透かし彫り。龍探しの一環です。 左右の蟇股には、麒麟と虎が彫刻されているようです。少し不確かですが・・・・。 お堂の前方に立つ石灯籠。竿には「常夜燈」と刻されています。両堂の一部を拝見した後、公開講座の行われる京都女子大学の建物に向かいました。今回、拝聴したのは、「九條武子と『歎異抄』」と題する講演でした。講師は京都女子大学法学部准教授の西義人先生でした。ご覧いただきありがとうございます。補遺真言宗智山派 総本山智積院 ホームページ京都十三佛霊場 :「聖京都観光タクシー」近畿三十六不動尊霊場会 ホームページ近畿三十六不動尊霊場 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 京都・東山 瀧尾神社ふたたび -1 唐破風の拝所と瑞垣 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・洛東 瀧尾神社細見 -1 拝殿(天井の龍) 3階のシリーズでご紹介探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか 4回のシリーズでご紹介探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -4 智積院
2024.10.18
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昨日、12・13の両日に公開のあと2か所のお寺を探訪してきました。最初に訪れたのは「蔵林寺」です。黄檗山萬福寺の総門前の通りを南に進みますと、通りの東側にこの寺号標が見えます。その傍に地蔵堂があります。地蔵堂については、後で触れたいと思います。 山門山号「源信山」の扁額が掲げてあります。 本堂山門を入ると、かなりの参観者が訪れていました。 本堂の正面には、「蔵林寺」の扁額が掲げてあります。寺号標に刻されていますが、平安時代の寛和2年(986)恵心僧都により開基されたと言われるお寺です。そこから山号を「源信山」と称されました。(資料1) 本堂内部正面内陣に本尊阿弥陀如来坐像が安置され、左右の脇陣に諸仏像が安置されています。 本尊「阿弥陀如来坐像」。印は来迎印(上品下生)を結んでいらっしゃいます。 平安時代後期の作と伝わる阿弥陀如来坐像。脇侍が勢至菩薩(左)と観音菩薩(右)の阿弥陀三尊形式です。宇治市指定文化財(昭和53年/1978年3月25日指定)。 (資料2,3) 上掲本尊がこの公開の拝観券の半券に使われています。本尊に向かって右側には、「三界萬霊位」を祀る祭壇が設置されています。 この二体を眺めて、平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像を連想しました。阿弥陀二十五菩薩来迎図に描かれる菩薩像を象っているのでしょう。 本尊に向かって右側脇陣には、「薬師如来坐像」が安置されています。 平安時代後期の作。本尊の阿弥陀如来坐像より一段古式の像と見られています。寄木造。宇治市指定文化財(昭和53年/1978年3月25日指定)。 (資料2,3) 四天王像の内の二像。近年の作と思われます。持物から判断しますと、左が持国天像、右が増長天像。 本尊に向かって左の脇陣の諸仏像を拝観します。 本尊に近い方に、「地蔵菩薩立像」が安置されています。平安時代祭末期の作と考えられています。寄木造。宇治市指定文化財(昭和53年/1978年3月25日指定)です。 「伏し目がちな穏やかな面貌、撫で肩で薄胸、極めて浅い衣文など全体にやや繊細な造り」(資料2)の地蔵菩薩像です。 左側には「毘沙門天立像」。こちらも平安時代末期の作と考えられていて、同様に寄木造。「頭部は小づくりな童顔で腰から下が太い。両手が舞いをみるようにおだやかな動きを示している点も平安時代末期の特色」(資料2)だそうです。宇治市指定文化財(昭和53年/1978年3月25日指定)。 (資料3) 左の脇陣に厨子入りで安置されていますので、「法然上人坐像」です。蓮華座上に座した姿です。 四天王像のあとの二体が左脇陣に安置されています。こちらは、左が多聞天像。右が広目像像。本堂を出て、境内を巡ってみました。 本堂の前方、南西側に石造「聖観世音菩薩立像」が建立されています。 本堂の右側面を回り込みますと、南側は境内墓地で、その端に石造地蔵菩薩立像が建立されています。左腕に赤子を抱かれ、足元には幼子が居ますので、子安・水子地蔵菩薩像と思います。 本堂の背後に巡りますと、大きな「むくのき」があります。駒札が立っています。宇治市名木百選の一木。くすのきはにれ科なのですね。推定樹齢は500年と記されています。現在のくすのきは上部が被災により倒壊してしまったようです。 太い幹はかなり空洞化しています。それにもかかわらず木の生命力はすごいと感じます。 むくのきの傍に、覆屋を設けた小さな鎮守社が祀ってあります。詳細不詳。この辺りで蔵林寺を出ました。本堂で案内説明をしていただいた係の方の説明に加えられていたのが、寺号標の傍の地蔵堂についてです。扉を開けて拝見してくださいとのこと。 左右の地蔵石仏は一般的な形状なのですが、中央の地蔵石仏が得意な形なのです。 石柱の四面にお地蔵さまが彫られている形です。毎年、正面に来るお地蔵さまが交代されるしきたりを守られているそうです。めずらしいお地蔵さまと出会えました。この後、萬福寺の総門前を再び通りぎ、黄檗道を隠元橋の方向、西に向かいます。めざすは西導寺です。 京阪電車の踏切を横断してしばらく歩むと、「西導寺」の寺号標と山門が見えます。 山門を入ると、前方に南面する本堂が見えます。 本堂の東側に、毘沙門天と墨書された提灯がかけられたお堂があります。今回、公開されたのはこのお堂に安置された諸仏像です。本堂は公開対象外でした。こちらのお堂の正面奥側が、保管庫を兼ねた作りにしてあり、扉を開けた状態で、中に安置されている諸仏像を拝観しました。残念ながら、撮影禁止。係の方の案内によりますと、明治の廃仏毀釈の折に、周辺の諸寺で廃寺となったところがいくつかあり、その諸寺の仏像がこの西導寺に遷座されたことで、現在に到るそうです。特別公開の諸仏像は横一列に安置されていました。左右両側に毘沙門天像が安置され、中央部、向かって左に阿弥陀如来像、右に薬師如来坐像です。阿弥陀如来像の左に安置された「毘沙門天立像」(重要文化財)は左手に戟を執り、右手を腰にあてるという姿。一般的な造形は、左手に宝塔をささげ、右手に戟を執る姿です。足元は普通天邪鬼に乗っている姿ですが、こちらは岩座に立つ姿です。ヒノキ材の寄木造で調眼彩色。平安後期の作。(資料4)明治43年(1910)4月20日に重文指定。 (資料3)「長勢の一門の仏師が作った広隆寺十二神将の流れに属するものとみられる。長勢は定朝一の弟子で、定朝なきあと30年以上にわたって造仏界をリードしたが、本像も長勢一門の作で、この筋の巧手によるものと考えられる」(資料4) 「薬師如来坐像」(重要文化財)は特別公開拝観券半券に使われています。左手に薬壺をのせ、左足をうえにして結跏趺坐する姿です。平安時代後期の作。12世紀の温雅な作風で、後世に定朝様と称される作風。「その中でも特に優れた出来をみせている」(資料4)と言います。ヒノキ材の寄木造、調眼彩色。明治42年(1909)9月22日に重文指定。(資料3)右側に毘沙門天が二体安置されています。一体は左手に戟を執る姿です。右端の「毘沙門天立像」も平安時代後期の作。宇治市指定文化財(昭和63年/1988年3月31日指定)。(資料3,4)こちらの毘沙門天は、左手に宝塔をのせ、右手に戟を執る姿。「現在は古色を呈しているが、天冠台、鎧縁には漆箔、袖部には花文や截金の裏跡が認められ、当初はきらびやかな彩色だったと考えられる」(資料4)という仏像です。お堂を出た後、境内の一部を拝見しました。お堂の南西方向に、西面する形で、 ブロンズ製の「勢至丸坐像」 「法然上人立像」 二体を並べて建立されています。 南側に、小社が見えます。鎮守社のようです。詳細不詳。この小社からが北西側に 十三重石塔これは近年、造立された印象を受けました。この辺りで西導寺を後にしました。仏像を撮れなかったのが残念です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 蔵林寺 :「MUNDIAL」2) 拝観時にいただいた説明資料「平安の息吹を感じる 秋の特別公開 蔵林寺3) 宇治市の指定文化財一覧 :「宇治市」4) 拝観時にいただいた説明資料「平安の息吹を感じる 秋の特別公開 西導寺補遺木造四天王像立像 :「文化遺産オンライン」四天王像立像 :「大安寺」戒壇堂四天王像 :「東大寺」定朝様の仏像 :「湖南市教育ネット」定朝様の定義に関する問題 松出洋子 :「仏教大学」長勢 :ウィキペディア長勢 :「コトバンク」阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎) :「京都国立博物館」阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎) :「TSUMUGU Gallery」彫刻・工芸 雲中供養菩薩像 :「世界遺産平等院」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -1 放生院(橋寺)ほか探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -2 恵心院、途次(宇治神社) 探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -3 途次(宇治上神社ほか) 探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -4 安養寺 (1) 探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -5 安養寺 (2)
2024.10.13
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本堂前の境内の参道を挟んで両側に、ずらりと蓮華の鉢が並べてあります。本堂を出た後、小ぶりな花がかなり咲いていました。 見ているうちに、今この時点で咲いている花を一通り撮ってみたくなりました。 「蓮華」は蓮華座という形で仏像の台座として最も一般的な形式に取り入れられています。蓮の花の開いた様をかたどっています。「蓮華」は、蓮あるいは睡蓮の華。「炎暑の国インドでは、涼しい水辺は生にとっての理想の場であり、その水面に咲く蓮華は苦しい現実の対極にあるその理想の境地を象徴するものとして古来親しまれ愛好され」(資料1) ました。それゆえ、蓮華座という形式に取り入れられたのでしょう。 蓮華として一括されますが、蓮と睡蓮は品種が異なり、インド美術では明確に区別されるとか。それがアジア各地へ伝播するにつれ、両者の区別はしだいに曖昧になったそうです。(資料1) 手元の辞典を引きますと、蓮はスイレン科の多年草。睡蓮はスイセン科の水生多年草。蓮は水面からつき出る茎に淡紅色・白色の一花を開きます。睡蓮は、「ハスに似た花を開く。耐寒性種の根茎は長く、熱帯性種の根茎は球茎。昼咲と夜咲きがある」そうです。(資料2) 手元の歳時記を調べてみました。蓮と睡蓮はともに夏の季語。7月の中に両方が並べて載っています。少し長くなりますが、歳時記の解説事例として引用します。(資料3)<蓮>わが国へは中国から渡来したといわれる。観賞用に池、沼に植え、また蓮根を作るために水田に栽培される。晩夏、緑色の長い花柄を水中から出し、頂に紅、白の花をつける。「にごりにしまぬ花はちす」といわれ、「君子花」の異名がある。花は大きく、花弁は卵形でいわゆる蓮台形に重なり合い芳香を放つ。蕾は宝珠の形をしており、盆の仏壇や霊棚の花として欠かせぬものである。宗教上、極楽浄土の象徴の花として蓮華という。<睡蓮>庭池や水鉢に栽培するが、沼や池の中の根茎から紐のような茎を伸ばし、茎を水面に浮かべる。光沢のある円形の葉は切れ込みがあり、裏は紅葉色を帯びる。花も根茎から長い花柄を伸ばして水面に浮く。蓮に似て、白、紅、黄などすがすがしいほど美しい。花も葉も蓮より小さく6~7センチ。夕刻に花弁をたたみ、昼また開くので睡蓮という。「スイレンの仲間は北半球の温帯の沼沢に広く自生している。これを親として花の美しい園芸品種が多数育成されている。春から秋に基部に切れ込みのある円形の葉を水面に浮かべ、冬には枯れて休眠する」(資料4)これは植物図鑑の説明です。葉の形を判断すると、庭の蓮華の鉢は、睡蓮がたくさん咲いているようです。 「5~9月、直径10~25cmの花が水面に浮かんで咲く」(資料4)と説明されています。温暖化現象の影響は、睡蓮にも及んでいるのでしょうか。わが家の庭のオーシャンブルーは猛暑日が連続した期間は、ピタッと花が咲かなくなり、現在盛んに花開いています。 「熱帯スイレンN.capensisは球根性で、葉のふちには鋸歯があり、花弁は先がとがり、花は水面よりつき出て咲く」(資料4)とのことなので、この睡蓮は熱帯スイレンかも。ハスについてですが、「化石や種子が古い地層から発見されているので、日本に自生していたという説もある」(資料5)そうです。「地下茎はあきになると先端部が太くなり、蓮根として食用にされる」「葉は直径30~40cmの円形」と植物図鑑に説明があります。 (資料4) 大乗仏教の経典で、蓮華は必須の要素となっています。次の説明で、なるほどと思います。「仏教においては、泥中に生じてもそれ自体は泥に汚されず、清浄である蓮華は煩悩から解脱して、涅槃の清浄の境地を目指すその趣旨に合致して、当初より多様なシンボリズムにおいて用いられ、また蓮池の清涼とその水面に咲く蓮華の美は浄土経典をはじめとする大乗仏教の各経典で、浄土・理想の仏国を叙述する場合の必須の要素となっている」(資料1) 仏教では、蓮華は観音のシンボルとされるそうです。そして、観音から発展した一連の尊各群が<蓮華部>と呼ばれるようになりました。 (資料1)聖観音像が左手にもたれているのは蓮華です。密教の法具である金剛杵は男性原理、蓮華は女性原理の象徴とみなされていると言います。(資料1) 上記した「蓮華座」は、「本来は古代インドにおける蓮華崇拝の観念が仏教のなかに取り入れられて成立したもの」(資料1)と言います。 これをまとめていて、初めて知ったことですが、古代インド神話に登場するブラフマー(梵天)は、「根本神ヴィシュヌの臍に生じた蓮華から生まれた創造神である」という考えがあるそうです。「この神を仏像に置き替え、仏像もまた蓮華から生まれ出た聖なる神格として表現されるようになった」(資料1)とのこと。 この庭の鉢には、蓮と睡蓮の両方がありそうです。最後に「蓮華化生」という言葉で終わりましょう。「浄土に往生することを、極楽の蓮の台(ウテナ)の上に生ずることに譬えたもの」(資料1)浄土宗のお寺と蓮華の鉢は密接につながっているようです。 安養寺を出て、道路に戻りお寺を再びみあげました。これで、放生院から安養寺をめぐる探訪を終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1)『岩波 仏教辞典 第二版』 岩波書店2)『日本語大辞典』 講談社3)『改訂版 ホトトギス新歳時記』 稲畑汀子 三省堂4)『山渓ポケット図鑑2 夏の花 野草・樹木・園芸植物』 山と渓谷社補遺ハス :ウィキペディアスイレン属 :ウィキペディア睡蓮とハスの違いは?それぞれの特徴や見分け方を解説 :「Green Snap STORE」インド神話 :ウィキペディアブラフマー :ウィキペディア蓮華座 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -1 放生院(橋寺)ほか へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -2 恵心院、途次(宇治神社) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -3 途次(宇治上神社ほか) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -4 安養寺 (1) へ
2024.10.12
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「安養寺」は道路に面してまず石段が立ち上がっています。境内地は山の斜面を開削して造成されたのでしょう。 石段を上ると、山門から本堂が見えます。山門を入ると、参道は左側に延びています。参道の両側の境内地には蓮の鉢がずらりと並べてあります。 参道を歩んで振り返るとこんな景色です。 本堂の正面には、この扁額が掲げてあります。「羽戸禅房」と私には読めます。 これは本堂の須弥壇に向かって、左側壁面に掲示されていた拡大図です。「羽戸山安養寺之景」と標題が付き、当寺の由緒が右下に記されています。原図が壁面前の長テーブルに置かれていました。明治32年7月刻と日時が入っています。標題の上に住所が明示されています。当時の表記が興味深いので転記します。 京都府山城國宇治郡宇治村大字莵道宇治市のホームページを見ますと、京都府が置かれたのは明治元年。宇治市という市制が施行されたのは昭和26年(1951)3月1日です。それまでの期間には幾たびかの行政区画の変遷があるようです。(資料1)現在の安養寺は宇治市莵道にあります。浄土宗のお寺。創建の詳細は不明ですが、当初は、現在地の西南方向、現在の京阪電車宇治駅周辺の宇治川岸あたり、羽戸村にお寺があったそうです。それが羽戸山という山号に表れています。江戸時代、貞享2年(1685)に現在地に移転。上掲由緒文には、「貞享年中第八世称譽盤察和尚ノ時今ノ地ニ移レリ」と記されています。「この地域はかつて大鳳寺村(白鳳時代にこの地にあった寺の名前に因む)と呼ばれ、あたり一帯が茶畑で数軒の茶師で構成され、その帰依を受け、地域の中でも格式高い寺として清栄し」(資料2)、現在に到ります。大鳳院という院号は大鳳寺村に由来するのでしょう。本堂内での撮影はOKでしたので、画像でご紹介できます。 本堂の外陣と内陣の境になる柱の上部、欄間には鳳凰(多分・・・)が透かし彫りが見えます。その両端には、「念仏衆生」(右:念仏の衆生を)、「摂取不捨」(左:摂取して捨てたまわず) との、「摂益文(ショウヤクモン)」後半の経文が掲げてあります。 内陣 浄土宗のお寺ですので、本尊は阿弥陀如来立像が祀られています。そして、左右の脇陣と壁面に軸物が掲げてありました。本尊に向かって、右の脇陣正面に安置される仏像群から拝観します。 地蔵菩薩立像 江戸時代 木造地蔵菩薩立像 平安時代末期~鎌倉時代初期の作。宇治市指定文化財(平成6年3月28日指定)この地蔵菩薩像について、境内に次の案内板が設置されています。 この説明から、天文7年(1538)にお寺が再興された時に、天台宗から浄土宗に改められたことがわかります。この地蔵菩薩像は当寺の地蔵堂に伝えられた像だそうです。 善導大師像 阿弥陀如来立像 南北朝~室町時代の作 向かって右の脇陣の端には、小さな厨子に安置された如来像ほかが安置されています。向かって左の脇陣に移ります。本尊に近い方からご紹介。 阿弥陀如来坐像本尊の立像は施無畏印と与願院の印相ですが、坐像は法界定印を結んでいらっしゃいます。禅定印です。平安時代、10世紀の作。宇治市指定文化財(平成16年3月26日指定) 特別公開拝観券の半券には、この如来坐像が使われていました。 法然上人像 厨子入りの地蔵菩薩立像厨子の前の僧形像はどなたでしょうか・・・。不詳。 多宝塔のミニチュア多宝塔の右側に置かれた小さな厨子は地蔵菩薩立像です。壁面にいくつか掛け軸が掲げてありました。 釈迦涅槃図 阿弥陀如来来迎図 未確認で、不詳。 本堂外陣、正面に向かって右端に、この屏風が飾ってありました。これは何? 特に説明が付いていず、本堂ではわかりませんでした。帰宅して、わかりました。拝観の受付をした際に、贈呈本ですと封筒をいただきました。それが、 この本です。『ダニヤ経』著者はこの安養寺のご住職、吉水秀樹さん、絵を畠中光享さんが描かれています。表紙の絵が、上掲の屏風絵でした。畠中光享作「牛飼いのダニヤ」です。これで結びつきました。『ダニヤ経』。初めて目にするお経!?副題は「ーブツダが説くゆるがないしあわせー」とあり、その隣に、「スッタニパータ第1章のⅡ」と書かれています。「スッタニパータ」という言葉を読み、中村元訳『ブッダのことば ー スッタニパータ ー』(岩波文庫)と結びついてきました。「第一章 蛇の章」の二の見出しが「ダニヤ」です。眠っている手元の文庫本で確認しました。ご住職はこの第一章の二を取り出して、「ダニヤ経」と題し、17の偈を翻訳して、それぞれの偈について解説を加えておられるようです、そして、そこにさまざまな絵が載せてあります。まだ「はじめ」を読んだだけで、精読していませんので「はじめに」に記された一点だけ、ご紹介させていただきます。「スッタニパータ」は初期仏教経典。南伝大蔵経の中の経典であり、漢訳経典としては日本に伝来していない経典。中村元先生が『ブッダのことば ー スッタニパータ ー』と題して翻訳されました。上掲書は、そのスッタニパータからダニヤの箇所を一冊の書として、ダニヤ経と題されているのです。登場人物は、ブッダと牛飼いのダニヤの二人です。(本書は、発行:株式会社方丈堂出版、発売:株式会社オクターブ)本堂の拝観を終えて、境内に出ます。 山門の近くに、鐘楼があります。 梵鐘の縦帯の一つには、「饗流十方」と陽刻されています。 撞座の上の縦帯には、蓮華座の絵模様の上に「南無阿弥陀佛」と陽刻され、 もう一つの縦帯には、「為宮林家先祖代々菩提」と陽刻されています。今回の特別公開で寺々を訪れ、案内説明を聞いていて初めて知ったことがあります。宇治の茶師に、上林、宮林、梅林という三家の名が挙げられた点でした。上林家は知っていましたが、他の茶師は知りませんでした。この梵鐘をみて、なるほどと思いました。調べてみますと、江戸時代にはいくつかの階層が設けられ、かなりの数の宇治茶師がいたようです。 梵鐘の龍頭。鐘を吊る箇所に龍が関係しています。デザイン化され、デフォルメされた龍ですが、龍との出会いです。 鐘楼の近くに、石仏象が置かれています。かなり古そう・・・・。傍に立つ石灯籠は、織部灯籠です。さて、次回は境内に置かれた蓮の鉢に咲く蓮の花を取り上げて終わります。つづく参照資料1) 宇治市のあゆみ :「宇治市」2) 拝観時にいただいた説明資料「平安の息吹を感じる 秋の特別公開 安養寺補遺仏像の手のポーズ(印相)をイラストで解説 :「仏像入門ドットコム」印相 :ウィキペディア宇治茶師 :「コトバンク」江戸時代の宇治茶師 穴田小夜子 :「学習院大学学術成果リポジトリ」宇治茶と御茶師 英原英弌 :「big.or.jp」宇治市の指定文化財一覧 :「宇治市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -1 放生院(橋寺)ほか へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -2 恵心院、途次(宇治神社) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -3 途次(宇治上神社ほか) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -5 安養寺 (2) へ探訪 宇治 秋の特別公開 その2 蔵林寺と西導寺 へ こちらもお読みいただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治を歩く -6 安養寺
2024.10.11
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「さわらびの道」を進むと、大きな「宇治上神社」と刻した社号碑と朱塗りの鳥居に到ります。 この鳥居の少し手前、右側に『源氏物語』宇治十帖の四、「早蕨(サワラビ)の古積」碑が設置されています。宇治上神社の表門をくぐり、境内に入ります。 前方に「拝殿」が見えます。駒札にれば、桁行6間、梁行3間の大きさ、一重切妻造・檜皮葺(ヒワダブキ)、両妻に1間の庇が付いている建物で、寝殿造様式と説明し、鎌倉時代の建立です。昭和27年(1952)に国宝に指定されています。明治44年(1911)に解体修理が実施されています。両妻1間が縋破風(スガルハフ)とよばれる独特の屋根構造だそうです。現存唯一の住宅風建築と評価されているとか。 (資料1) 拝殿を右に回り込むとき、この「手水舎」が見えます。宇治七名水の一つ「桐原水」が今も湧いています。ただし、今はもうそのままでの飲用は不可となっています。 拝殿を回り込むと、「本殿」があります。本殿は平安時代の建立で、最古の神社建築として知られ、国宝に指定されています。この外観が一棟に見える建物は覆屋の機能を兼ねていて、内部に3社の建物が並列しています。 左殿 中殿 右殿内殿と覆屋は壁と屋根の一部が共有される建造物となっています。壁の共用は上掲写真でもわかります。祭神は、応神天皇(中殿)、仁徳天皇(右殿)、莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)(左殿)です。(資料1) 本殿に向かって右側に「厳島神社」が祀られています。。今回、撮っていませんが、少し離れた位置に「武本稲荷社」もあります。 拝殿の右側を回り込んでくるとき、最初に見えるのが、本殿に向かって右側に並ぶこの「春日神社」(重文・鎌倉時代)です。祭神は武甕槌命と天児屋根命。一間社流造、檜皮葺。(駒札より) 春日神社の隣に二社が並んでいます。向かって左が「住吉社」、右が「香椎社」社です。 住吉社 祭神:上筒男命・底筒男命 香椎社 祭神:神功皇后・武内宿禰さわらびの道に戻り、宇治上神社の北側を進むと、 与謝野晶子の「宇治十帖歌碑」が建立されています。 歌碑の前に「『宇治十帖』の歌碑に寄せて」と題した碑文が併設されています。「与謝野晶子が夫の寛とともに山水景勝の地宇治を訪れたのは、1934(大正13)年10月14日のことであった。 幼少のころよりわが国の古典に親しみ、とりわけ『源氏物語』の魅力にひかれた晶子は、紫式部を終生の師と仰ぎ、その現代語訳に渾身の熱情をそそいだ。かくて1938(昭和13)年61歳のとき、『源氏物語』全6巻の偉業をなし遂げた。 のみならず、晶子は『源氏物語』五十四帖を五十四首の詠歌一首精励した「源氏物語礼讃」によって歌人としての天分を発揮し、流麗典雅な筆跡を歌軸や歌巻にとどめている。 『源氏物語』の舞台となった(数文字判読できず)宇治の地に、晶子没後五十年・市制四十周年を記念して、ゆかりの「宇治十帖」十首が晶子の真筆によって刻まれたことを心から慶賀っするものである。 1992年10月吉日 太田 登 」 (判読し転記。一部判読できず)その近くに、「観光案内地図」が設置されています。 地図に朝霧橋からの行路を青色ドットで追記しました。宇治神社を出てからは「さわらびの道」を歩んでいます。 作者未詳ですが、よく知られた歌碑が近くに建立されています。確認してみますと、「万葉集」の巻13、第3236番で、雑歌に載る長歌です。(資料2,3) 大吉山に登る入口の近くに「総角の古積」碑があります。道沿いにさらに歩めば、「宇治市源氏物語ミュージアム」がさわらびの道の左側に見えます。道をそれて、ミュージアム前の小径を通ることにしました。 小径沿いにミュージアムの周囲を回り、ミュージアムの北側の出入口を出て、右折します。少し先で道が分岐し、右が「さわらびの道」の北の起点です。左の道が北方向への道で、途中までは「かげろうの道」と称されています。この道の途中にある目印は戸倉病院です。病院前を通過し、2つめの道で右折すれば「かげろうの道」。右折せずにそのまま道沿いに北に進めば、安養寺に向かう道です。少し先の右側に見える京都府翔英高等学校がもう一つの目印になります。三室戸中橋を渡り、三室戸寺の方向に向かう道を横断してそのまま北に進みます。 道を歩めば、右に石垣白壁の屋敷が見えます。これも目印。 この建物の北側に、「厳島神社」の社号碑が立つ参道が見えます。道路からは少し奥まったところに社殿があります。久しぶりなので、ここもちょっと立ち寄ってみました。 石鳥居の少し先、左側に位置する「大神宮」。大神殿が祀られているそうです。 参道を進むと、右側に池が見えます。 左前方に瑞垣で囲まれた社殿が見えます。だれも居ない静かな空間でした。 本殿正面 中門の右側に、この「案内文」(由緒)が掲示されています。厳島神社の本殿には、横並びに5柱の神々が鎮座します。正面に向かって右側から、熊野大神、菅原大神、厳島大神、八幡大神、稲荷大神です。厳島大神とは、市杵嶋比売命です。 本殿に向かって、左側に摂社として、「新羅神社」が勧請されています。園城寺の新羅善神堂を勧請したものだそうです。付近にある三室戸寺が、平安時代に近江の園城寺の別院として創建されたことと関りがあるそうです。 (資料4) 境内を一通り拝見して、いよいよ最後に安養寺へ。つづく参照資料1)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社2) 歌詳細 そらみつ大和の国あをによし・・・ :「万葉百歌 奈良県立万葉文化館」3)『新訓 万葉集 下巻』 佐々木信綱編 岩波文庫 p824) 厳島神社【宇治市観光スポット/JR奈良線観光社寺仏閣】:「JR奈良線ガイド」補遺世界文化遺産 宇治上神社公式ホームページ宇治上神社 :ウィキペディア宇治市の維持向上すべき歴史的風致 :「宇治市」宇治上神社・宇治神社コース :「宇治観光ボランティアガイドクラブ」宇治の「厳島神社」 :「KCN京都」[巻子本]源氏物語礼讃 与謝野晶子:「昭和女子大学図書館 デジタルアーカイブ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -1 放生院(橋寺)ほか へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -2 恵心院、途次(宇治神社) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治 世界文化遺産・宇治上神社細見スポット探訪 [再録] 宇治を歩く -5 厳島神社スポット探訪 [再録] 宇治 宇治神社細見と宇治橋・通圓茶屋・未多武利神社探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -4 安養寺 (1) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -5 安養寺 (2) へ探訪 宇治 秋の特別公開 その2 蔵林寺と西導寺 へ
2024.10.08
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恵心院への坂道を上ると、突き当りに覆屋が見えます。 「南無大師遍照金剛」と赤地に白抜きで書された奉納幟が周りに林立し、弘法大師空海の石像が安置されてます。遍照というのは大日如来の原語の訳ですが、大日如来の密号(密教内部での符号的呼び名)を遍照金剛と呼ぶそうです。また、日本密教の開祖弘法大師空海の灌頂名が<遍照金剛>です。この幟は、空海を敬う名号ということになります。(資料1)右折してもう少し上りますと、 山門です。 山門を入ると左前方に本堂が見えます。 本堂正面の手前、右側には、本堂に面する形でブロンズ製の地蔵菩薩立像が安置されています。水子地蔵です。 本堂正面に仮設された受付で拝観券を購入し、右側面の外縁から入堂しました。この建物は、本堂と護摩堂が一体型になった珍しい様式だそうです。(資料2)恵心院は真言宗智山派の寺院。京都・東山にある智積院が智山派の総本山です。もとは、弘仁2年(821)に創建され、空海が留学僧として学んだ唐の青龍寺に立地条件が似ていることから、龍泉寺と称されたと言います。無住寺の時代を経て、天台僧の恵心僧都源信が寛弘2年(1005)にこの寺を再興されました。そこから恵心院と称するようになったとのこと。その後、数度の兵乱で被災し破却衰退したそうですが、天正5年(1577)に真言宗の沙門により中興されました。(資料2)江戸時代の初期に淀藩主永井尚政により伽藍の整備がなされたそうですが、現在は本堂と山門、そして庫裡だけになっています。現在の本堂は、万福寺の建築に関わった秋篠兵庫により延宝4年(1676)に建立され、山門は天正17年(1589)の再建と言います。(資料3,4,5)余談です。恵心僧都が寺を再興された寛弘2年の時代背景の一例として。今、大河ドラマで「光る君へ」が放映されています。藤原道長の「御堂関白記」によると、寛弘2年は、藤原の氏寺として道長は宇治の木幡に「浄妙寺」を造営中の時期です。同年8月3日の条には、「木幡の浄妙寺に行って、三昧堂の造営を検分した」と記録しています。(資料6)同年10月14日の条に、「浄妙寺に到った。造営がようやく完成した」と記し、10月19日の条に、「浄妙寺の三昧堂供養があった。天が晴れた」と記録しています。現在、この浄妙寺跡は宇治市立木幡小学校のグラウンドとなっています。 また、『源氏物語』宇治十帖の「手習」で、初瀬参詣の帰途に発病した母尼のことを知らされて、横川の僧都が加持祈祷のために下山して、宇治院にやどって母尼を待っているとき、弟子が宇治院の木の下で怪しい人影を発見します。横川の僧都は、正気を失っていた浮舟を建物に入れさせて介抱し助けます。この横川の僧都は恵心僧都がモデルと考えられているようです。元に戻ります。本堂内は撮影禁止でした。 拝観券の半券ここに、御本尊の十一面観音菩薩立像を見ることができます。ヒノキ材の一本造で、伝来は不明。平安後期の作と考えられています。平成3年(1991)に宇治市指定文化財に指定されました。「脇を締めた体形や衣文の数が少ない簡素な表現など10世紀の典型的な作風が見受けられる」(資料2) そうです。本堂に入ると、建物の中央部に護摩壇が設置されていて、護摩壇上には、一般的な正方形に法具を置く形式ではなく、初めて見たのですが、曲線形に法具が置かれていました。高座(礼盤)側から眺めると、正面奥の須弥壇に本尊が祀られています。本堂内を時計回りに進んで諸仏を拝見しました。メモをとっていませんでしたので、記憶に残るのは、頬がこけた相貌の木像「源信肖像」と「阿弥如来立像」の二体です。本堂を拝観した後、境内を巡ってみました。恵心院は今は「花の寺」として知られています。 庭のあちらこちらに彼岸花が咲き誇っています。 そして、目に止まったのがこの白い花! 境内の南端に墓地があります。その入口手前から撮った六地蔵菩薩像です。 山門に近いところに、鎮守社 山門から眺めた景色です。 社は南面していて、朱塗りの鳥居が建てられています。 白龍大神社です。 ちょっと細部を眺めてみました。 木鼻の象彫刻 龍像の彫刻を発見! 透かし彫りの兎が彫刻されています。 山門の棟の鬼瓦 降り棟の鬼瓦とその傍の留蓋 山門の軒丸瓦の傍に、植物が根付いていました。 山門の屋根を支える蟇股 蟇股の中央にみえる線彫りのデザインは、三葉葵を最もシンプルに描いた葵紋でしょうか。手元には、紋章を20ページに及んで列挙した一書がありますが、相応するものは載っていませんでした。恵心院を出て、いくつかの史跡等を訪れながら最後の安養寺に向かいます。一旦、朝霧橋まで戻ります。朝霧橋の上から眺めた 上流側の景色下流側の景色 左手前に見えるのは、橘島と左岸の平等院側の間に架かる「橘橋」です。 川の下流に見えるのは「宇治橋」。 朝霧橋側から眺めた宇治神社の一の鳥居まずは、安養寺への行路の途次として「宇治神社」を訪れましょう。 社務所前には、ちょっと異色な狛犬像が置かれています。 参道を挟み、反対側に立つ石灯籠。笠が苔むしているのがいいですね。 手水舎 注ぎ口は兎像の口です。水鉢の正面に「桐原水」と刻されています。宇治七名水の一つです。現在、源水が流れているのは、宇治上神社の手水舎だけのようですので、ここも多分今は水道水が使われているのでしょう。宇治神社と宇治上神社の一帯は、元は離宮址と言われています。前回取り上げた「離宮水」というのも、源水は同じで桐原水ともいえるのかなと思います。再び余談ですが、江戸時代に出版された『都名所図会』によれば、この一帯に「離宮八幡宮」がありました。その項で、「橋寺の南にあり。祭る神三座にして上の社は応神天皇・仁徳天皇、下の社は莵道の尊を崇め奉る。(これ平等院の鎮守なり。宇治郡の産沙神とす。・・・(離宮と号することは、この地に宇治宮ありしゆゑ自然の称号なり」と説明されています。補注には、ここが応神天皇の離宮址に因んで創祀された神社と伝えると説明。明治維新後に上・下二社に分かれ、上社は宇治上神社、下社は宇治神社と号するに至ったと記しています。 (資料7) 中門と瑞垣宇治神社の祭神は、菟道稚郎子命(ウジノ ワキイラツコノ ミコト)です。中門前の拝所から本殿を眺めると、手前に後ろを振り向くウサギ像が置かれています。神使のみかえり兎です。神社のシンボルになっています。瑞垣沿いに吊られた提灯にも描かれています。 本殿 本殿の蟇股 向排の木組の一部頭貫の先端上の巻斗が肘木を支え、肘木の上は平三ツ斗に組まれています。これが上の桁を支えています。 建物本体側の蟇股 本殿を囲む瑞垣の右側(南側)に並ぶ境内社。西側から見た景色。手前から順に 春日社 祭神 武甕槌命(タケミカヅチノミコト) 日吉社 祭神 大山咋命(オオヤマクイノミコト) 住吉社 祭神 表筒男命(ウワツツノオノミコト)・中筒男命・底筒男命この三社がならんでいます。 こちらは左側(北側)に並ぶ境内社。東側から見た景色。同様に、 伊勢両宮 祭神 天照大御神・豊受大御神 高良社 祭神 武内宿禰命(タケウチノスクネノミコト) 松尾社 祭神 市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト) 廣田社 祭神 蛭子命(ヒルコノミコト) 天照大御神の荒御魂と四社が並んでいます。境内北側の出入口から出て、右折し「さわらびの道」に出ます。北東方向に進むことになります。その先は、宇治上神社に到ります。つづく参照資料1)『岩波 仏教辞典 第二版』 岩波書店2) 拝観時にいただいた説明資料「平安の息吹を感じる 秋の特別公開 恵心院3)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p65 4) 恵心院 :ウィキペディア5)『収蔵文書調査報告書1 「白川金色院」と恵心院』 宇治市歴史資料館 p40-436)『藤原道長「御堂関白記」 上』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫7)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p123-124, p298補遺真言宗智山派 総本山智積院 ホームページ宇治神社 ホームページ橋上から眺める最高の景色!源氏物語ゆかりの地。観光地巡りに便利な「朝霧橋」:「Kyotopi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -1 放生院(橋寺)ほか へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -3 途次(宇治上神社ほか) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -4 安養寺 (1) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -5 安養寺 (2) へ探訪 宇治 秋の特別公開 その2 蔵林寺と西導寺 へ
2024.10.07
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9月17日の朝日新聞で「平安に思いをはせ宇治の仏像を巡る」という記事を読みました。昨日、放生院、恵心院、安養寺の3寺を訪れてきました。放生院から安養寺までの行程途中で立ち寄った寺社も含めて、ご紹介します。 放生院は宇治橋東詰から宇治川右岸沿いの通称「朝霧通り」を上流方向に少し歩んだところにあります。橋寺という名前で知られているお寺。奈良の西大寺を本山とする真言律宗のお寺で、宇治橋を管理していたことから橋寺と称されてきました。山門を入り、急な石段を上がった先の境内地を左折すると、正面に本堂が見えます。拝観受付でいただいた資料によりますと:1.604年、聖徳太子の発願により、秦河勝が建立したことが始まりと伝わる。 聖徳太子の念持仏であった地蔵菩薩を祀り、常光寺地蔵院と称した。2.1281年、西大寺の僧・叡尊律師により再興。その際、新たに地蔵菩薩を造立。 損傷していた地蔵菩薩をその体内に納めた。 (資料1)本尊が地蔵菩薩であるという沿革がここからわかります。 本堂に向かう参道の途中に、本堂に向かう形で五輪塔が置かれています。 本堂の手前にあるのがこれ! 「摩尼車」と称されています。 上部の車輪の部分に「仏説魔訶般若波羅蜜多心経」(般若心経)が陽刻されています。台座の石柱正面に説明銘板が取り付けてあります。「これは摩尼車というものです。『摩尼』とは摩尼宝珠とも、如意宝珠とも言われ、意のままに宝を出すと言われる珠のことです。 仏さまの徳にたとえたり、お経の功徳にたとえたりします。 これを1回まわせば、お経を一巻読んだのと同じ功徳が得られると言われています。摩尼車にかるく手をあてて、手前に回してください。その時、左の経文を唱えてください。 『羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(ギャテイギャテイハラギャテイハラソウギャテイボジソワカ)』」最後の経文は、般若心経の最後に記された真言です。サンスクリット語の音を漢字の音で表した音写です。中村元・紀野一義両先生の訳注によれば、次のとおり解説されています。(資料2) ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーデイ スヴァーハー (往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。) 本堂内は撮影禁止でした。 拝観券の半券に本尊の地蔵菩薩立像が部分図として使われています。優しい容貌の地蔵菩薩像。1281年叡尊の造立によるもので、像高約190cm、寄木造り。重要文化財に指定されています。造像以来一度も修理されていないそうです。(資料1)僧衣には、截金細工の衣文が施されていて、細やかな金箔の輝きを維持しています。地蔵菩薩像の背面を見られないのが残念ですが、背面を撮った大きな写真が掲示されていました。本尊に対して、向かって右の脇仁には、釈迦如来坐像と阿弥陀如来坐像、左の脇仁は弁才天坐像と空海坐像、不動明王立像がそれぞれ安置されています。弁才天は川と関係があるので祀られているとお聞きしました。菩薩像形の雰囲気のある造像でした。改めて調べてみますと、弁才天の梵名はサラスヴァティー。この名称は、古代インドにおいてはサラスヴァティ河をさしたそうです。「やがて、この河を神格化して土地の豊穣をもたらす農耕の女神とするようになり、さらに、弁舌の神ヴァーチと習合されて、恵みを与える福徳伸の性格に学才・音楽の神としての性格が加わることになった」(資料3)と言います。宇治川という川を管理するお寺として、川の縁で祀られていえるようです。さて、橋寺については幾度か訪れて探訪記事を載せていて、重複する部分となりますが、改めて境内を拝見しました。 本堂に向かって左、南西側に建つお堂。ここに「宇治橋碑断碑」が収納されています。646年、元鋼寺の僧・道登により宇治川に初めて橋が架けられました。この時の経緯を刻まれた石碑です。当時は治水技術が不十分のため、洪水で幾たびも橋の流膝を繰り返してきたそうです。放生院を再興した叡尊は宇治橋も新たに架設したと言います。「1791年に境内より碑の上部3分の1が発見された。残りの3分の2は発見に至らず、石を継ぎ足し、文字を補完して1793年に完成した。日本最古の石碑と言われており、日本三古碑の一つに数えっれている」(資料1)とのこと。文字を補完できたのは、『帝王編年記』(14世紀後半成立)に碑の全文が収録されていたことによるそうです。(資料4)ちなみに、日本三古碑とは、「宮城県多賀城市の多賀城碑、群馬県高崎市吉井町の多胡碑、栃木県大田原市の那須国造碑、および、京都府宇治市の宇治橋断碑がそれぞれ日本三古碑と呼ばれている。いずれも飛鳥時代~奈良時代にかけての8世紀前後のものである」(資料5)とされ、多少意見はわかれていそうです。 (資料5,6) (資料4,5)これはウィキペデイアから引用した「宇治碑断碑」です。今回は非公開でしたが、本堂には断碑の拓本が展示されていました。叡尊律師は、1286年に、川で亡くなった人馬の慰霊のために、中洲に十三重石塔を建立し、寺で盛大な放生会を営まれたそうです。そこから「放生院」と称するようになったと言われています。現在、塔の島で見られる巨大な浮島十三重石塔がそれです。 宇治橋断碑からは南東方向、山門からの石段を上がると、少し右寄り前方にこの覆屋が東に見えます。「十二支守本尊」が安置されています。 (ねずみ年) 千手観世音菩薩 (うし・とら年) 虚空蔵菩薩 (うさぎ年) 文殊菩薩 (たつ・み年) 普賢菩薩 (うま年) 勢至菩薩 (ひつじ・さる年) 大日如来 (とり年) 不動明王 (いぬ・いのしし年) 阿弥陀如来仏像(如来・菩薩・明王)の上には、それぞれに対応する干支とその仏に対して唱える真言がひらかなで記されています。さらに、その仏が祈りをささげる人々にもたらす功徳が簡潔に記されています。現地でご覧ください。 境内の南辺には、南西隅付近に大きなイチョウの木があり、その傍に小社が祀られています。鎮守社と思われます。 その左に立たれているのは、橋かけ観音です。駒札には、名称を記した続きに、「恋のはしかけ 極楽のはしかけ 合格のはしかけ」と人生の年代に応じた願いのはしかけが例示されているのが興味深いところです。 その左には、石仏群があり諸仏が集まっていらっしゃいます。 その左の像は、たぶん、弘法大師像かと・・・・。 その左には、地蔵菩薩立像があり、その先に宝篋印塔が見えます。 宝篋印塔の傍に「厄除供養」の幟が立ててあります。(私には今のところ、この関係が理解できません。) 最後に目に止まったのが、草花の中にひっそりと見えた小さな五輪塔でした。一通り境内を巡った後、放生院を後にしました。次に目指すのは恵心院です。 朝霧通りを進むと、開運不動尊と刻された石柱を立てたお寺があります。側面に「正覚院」と刻されています。 ここも、石段を上ったところに境内があり、正面のまじかに不動堂があります。ガラスの格子戸から不動明王像を拝見できます。 石段傍の角地に置かれた手水鉢。 この開運不動尊の傍に、宇治観光案内図が設置されています。 部分拡大しました。京阪電車の宇治駅、宇治橋と、この付近の寺社の位置関係がお分かりいただけるでしょう。 さらに通りを南進しますと、「京都府茶業会館」の扁額を掲げた建物があります。宇治茶をPRする目的とした活動のために会館の施設の貸し出しが行われているそうです。 (資料7)その右側の入口には「宇治茶道場」の扁額が掲げてあります。「匠の館」という掲示が出ています。「『日本茶インストラクター』が美味しいお茶の淹れ方を説明してくれるなど、宇治茶を『淹れて』『飲んで』『食べて』楽しむ体験型施設です。」 (資料8) 道路脇に「宇治茶手もみ製法」が宇治市指定文化財に登録されているという案内板が設置してあります。ここからさらに少し南進したとこころに、 覆屋の設けられた「離宮水」があります。 離宮水は宇治七名水の一つだったのですが、今は枯れてしまい、水道水を利用しているとか。 その先に見えるのが、朝霧橋東詰の北側にある「宇治十帖モニュメント」です。 (資料9)源氏物語絵巻の「橋姫」をレリーフした屏風を背景に、橘の小島に向かう小舟に乗る匂宮と浮舟の像が建立されています。このモニュメントのさらに背景に朝霧橋の朱色の欄干が見えます。カメラスポットの一つと言えます。 ここを通り過ぎると、東側に恵心院の寺号石標が見え、坂道への入口になっています。つづく参照資料1) 拝観時にいただいた説明資料「平安の息吹を感じる 秋の特別公開 放生院(橋寺)2)『般若心経・金剛般若経』 中村元・紀野一義訳注 岩波文庫 1970年1月第12刷3)『仏尊の事典』 関根俊一編 学研4) 宇治橋断碑 :ウィキペディア5) 日本三古碑 :ウィキペディア6) 日本三古碑 藤代歴史愛好会(石山博) :「asahi.net」7) 宇治茶会館・京都府茶業会館 :「京都府茶業会議所」8) 宇治ガイドMAP :「上林春松本店」9) 源氏物語「宇治十帖」古跡 (宇治十帖モニュメント) :「宇治市」補遺帝王編年記 :「コトバンク」宇治七名水(うじしちめいすい) 京の名水 :「京都通百科事典」源氏物語絵巻 橋姫 :「徳川美術館」源氏物語絵巻 橋姫 十五巻の内一巻 :「徳川美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -2 恵心院、途次(宇治神社) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -3 途次(宇治上神社ほか) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -4 安養寺 (1) へ探訪 宇治 秋の特別公開 放生院から安養寺をめぐる -5 安養寺 (2) へ探訪 宇治 秋の特別公開 その2 蔵林寺と西導寺
2024.10.06
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これはチケットの半券です。今日、「第49回 京の夏の旅」の一環で特別公開されている「大雲院 祇園閣」を公開期間期間最終ぎりぎりのところで拝見に行ってきました。大雲院の傍を幾度か通るたびに、祇園閣の内部の拝見と最上階から京都市内を展望してみたいなと思っていました。8月11日の朝日新聞の京都版で、”「山鉾」から京の街一望」 祇園閣 来月まで特別公開”という記事を読み、行こうと決めながら諸般の事情で遅くなってしまいました。「龍池山」と号する「大雲院」は、八坂神社の南東方向で、東大谷廟参道の少し南側、円山音楽度とは道路を挟んで西側に位置します。 円山音楽堂側から眺めますと、大雲院の南東角は角きりされていて凹地になっています。そこにブロンズ製の地蔵菩薩像が祀られています。 地蔵尊像の北側に大雲院の総門があります。総門の前に立ちますと、正面の西方向に本堂が見え、本堂の屋根の背後に祇園閣の屋根が見えます。特別公開のための仮設受付所は、南門の前に設置されていました。境内には南門から入り、順路表示があり、拝観順路が設けてありました。南門の前の南方向の道路は通称「ねねの道」です。「ねねの道」の東側には「高台寺」、西側には「円徳院」があります。 南門を入ると、順路指示に従い、右折して東に進みます。南辺の築地塀沿いに庭が見えます。 地蔵尊像 双体仏 境内の南東側に鐘楼があります。この鐘楼には興味深い来歴があります。元は豊臣秀頼が北野神社に寄進した鐘楼。残念ながら拝見していませんが、梵鐘には室町時代延徳2年(1490)年の銘があり、元は祇園感神院(現・八坂神社)にあったそうです。(資料1)明治維新で神仏分離令が発令され、両社にとって、鐘楼と梵鐘は無用の長物になります。それらを、「明治3年、島津家(宮崎県)が佐土原藩士の菩提を弔うために大雲院に寄進したもの」(資料1)なのだとか。 鐘楼のすぐ西側に見えるのが、「佐土原藩戦没招魂塚」です。 その西側には、この碑が建立されています。私には判読できません。 東側からの眺め鐘楼傍で左折しますと、 東面する形で「平和観音」が建立されています。 近くに、「仏足跡」が置かれています。 総門側から眺めた「本堂」大雲院は、「天正15年(1587)正親町天皇の勅命により織田信長・信忠の菩提を弔うため、開山貞安上人に御池御所(烏丸二条南)を賜り、信忠公の法名大雲院殿三品羽林仙巖大居士に因んで、大雲院と名づけ、織田父子の碑を建て追善供養した」のが起源だそうです。(資料1)豊臣秀吉の命で、同18年(1590)に、寺町四条に移転し、寺地も拡大し伽藍が築かれたのですが、その後この地の周辺は商業の中心となっていきます。そこで現在地に移転し、昭和48年4月にこの本堂が落成しました。現在の本堂は、平安・鎌倉の折衷様式二階建本瓦葺の鉄筋コンクリート造りです。 (資料1) 本堂から右(北)に目を転じると、書院・庫裏と庭に向かう入口が見えます。 本堂正面の左(南)側には、大理石製の釈迦涅槃像が安置されています。 順路表示に導かれ、本堂二階を拝観しました。本堂二階の中央に、丈六の阿弥陀如来坐像が安置されています。この本尊の阿弥陀所如来の体内には、別の阿弥陀如来立像が収められていて、それが大雲院創建当時の本尊とも考えられているといいます。本堂には、掛幅の「五百羅漢図」が展示されていました。二階の外縁を回って、本堂の背後(西側)の「祇園閣」に向かいます。本堂のちょうど裏側に回り込みますと、目の前の石段の両脇に、 一対の狛犬像というよりも、獅子像が配置されています。 正面に「祇園閣」の入口 扉の上部には「祇園閣」と陽刻されています。 ブロンズ製と思える扉の内面には、鶴がレリーフされています。 大雲院が移転してくる前、この地は大倉喜八郎(1837~1928)の別荘だったそうです。サッポロビールや大成建設の創設に携わった明治・大正期の実業家です。無類の祇園祭好きだったと言います。(資料2) 2021年7月撮影これは祇園祭の薙刀鉾の正面を撮りました。大倉喜八郎は、「昭和3年御大典記念に祇園祭の壮観を常に披露したいと希って山鉾を模した祇園閣を建てたといわれている」(資料1)そうです。昭和2年(1927)に落成した楼閣建築。平安神宮や明治神宮を手がけた建築家・伊東忠太氏の設計で、国登録有形文化財になっています。(資料2) 長刀鉾は、真木の上の鉾頭に長刀が掲げてあります。祇園閣の鉾先には金鶴が飾られています。祇園閣は鉄筋コンクリート造三階建で、高さ百二十尺(36m)、地下の基礎も深さ百尺に及ぶそうです。(資料1)祇園閣の入口から中は撮影禁止です。三階から展望できる外の景色も、周辺の人々のプライバシーを考慮し、外の撮影も禁止でした。写真でご紹介できないのは残念です。*入口を入りますと、一階正面には、阿弥陀如来像が安置されています。 これは昭和48年のこの地への移転を機に安置されたとのこと。*楼閣の内部は一階から三階への昇降のための階段が設けられています。*各階段にはアーチ形の内部壁面があります。この内部壁面に敦煌石窟の壁画が模写されています。 これは、「昭和63年秋開創400年記念として、葛新民(中国安徽省・巣胡書画研究会副会長)の筆による」模写だそうです。(資料1) それぞれの模写には、どこの石窟の壁画かについての説明プレートが掲示してあります。 観無量寿経変相図、釈迦説法図、千手観音図等が描かれています。(資料1)*高覧付きの外縁が設けてありますので、三階から外に出て、四周を巡りながら、京都盆地を一望することができます。東は東山の山並みがすぐ近くに見え、北・西・南を遠望できて、京都市内が360度眺望できて、まさに絶景です。祇園閣を出た後、南門側に向かい、右折して西側に歩むと、墓地入口の門があります。 門の少し手前、参道の両側にこの石灯籠が設けてあります。 南側には、梵字が刻された石碑がありますが、悲しいかな判読できません。 石灯籠の西側には、三重石塔 北側の石灯籠の西隣りには、地蔵菩薩石像が安置されています。墓地への入口である門から先は立入禁止になっていました。 門の南側には、この2つの石標が建っています。いただいたリーフレットに掲載の境内略図によりますと、墓地域の中で、祇園閣の北側にあたる位置に「石川五右衛門墓」があるそうです。 門の前から真っすぐ西方向に、「織田信長・信忠碑」が位置していますので、この石扉と石柵で囲まれた一角が、それに該当するものと思いました。これで、今回特別公開された範囲を一巡してきたことになります。ご覧いただきありがとうごさいます。参照資料1)「大雲院」リーフレット 拝観手続きの折にいただいた資料2)「山鉾」から京の街一望 日比野容子記 朝日新聞朝刊 2024.8.11 京都13版補遺大倉喜八郎 :ウィキペディア祇園閣/京都・祇園に聳え立つ異形の望楼の正体とは【伊東忠太の奇想建築】:「サライ」伊東忠太 :ウィキペディア莫高窟 :ウィキペディア佐土原藩 :ウィキペディア日向国 佐土原藩 :「全国史跡巡りと地形地図」佐土原藩隊長・樺山舎人の肩章 :「飯能市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.09.28
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宇治川右岸と橘島に架かる朝霧橋の傍に、モニュメント・源氏物語宇治十帖の像が建てられています。朝霧通りの東側には宇治神社の大きな一の鳥居が道路沿いに立ち、 参道が東方向に延び、石段が見えます。 参道左側の社務所前の石段脇に、少し異風な狛犬像が置かれています。 参道右側には、手水舎があり、正面に「桐原水」と刻された水鉢に、兎像の口から水が注ぎ込まれています。石段を上れば、一段高い境内地に拝殿(桐原殿)があり、拝殿を回り込みますと、 その先に、二ノ鳥居が立ち、さらに境内が一段高くなり社殿が見えます。 石段の両脇に一般的なスタイルの狛犬像が置かれています。 石段前の右方向に、この大きな歌碑が建立されています。「百人一首」に載る第8首、喜撰法師が詠んだ歌が刻されています。 わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり喜撰法師は、この一首で後世に名を残した謎の世捨て人。この歌一首で六歌仙の一人に数えられています。宇治と聞けば、まず連想するのが、宇治茶、平等院、この和歌、そして源氏物語宇治十帖というところでしょうか。宇治橋、宇治川、天ヶ瀬ダムは連想しても、宇治発電所を連想する人はたぶん少ないでしょうね。元に戻ります。 祭神は莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)命です。 宇治神社のシンボルがこのうさぎです。「みかえり兎」と称されてています。「『莵道稚郎子命』が河内の国からこの土地へ向かわれる途中、道に迷われてしまいました。その時、一羽のうさぎが現れ、振り返りながら、後を追う『莵道稚郎子命』を正しい道へと案内し、お助けしました。 この由来のうさぎを当神社では『みかえり兎』と呼び、人々の人生を道徳の正しい道へと導く神様の御使いとして伝わっております。 また宇治と言う地名は、このいわれよりついて名前ともいわれています。宇治神社」(案内文転記)中門前の拝所から時計回りに瑞垣を回り込みます。 瑞垣には、みかえり兎を描いた提灯が吊されています。 境内の北側には境内社が4社並んでいます。手前から次の神々が祀られています。 廣田社 祭神 蛭子命(ヒルコノミコト) 天照大御神の荒御魂 松尾社 祭神 市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト) 高良社 祭神 武内宿禰命(タケウチノスクネノミコト) 伊勢両宮 祭神 天照大御神・豊受大御神 本殿の背後を瑞垣沿いに巡り、南側に向かいます。 こちらにも境内社が3社鎮座します。左側から順に記します。 住吉社 祭神 表筒男命(ウワツツノオノミコト)・中筒男命・底筒男命 日吉社 祭神 大山咋命(オオヤマクイノミコト) 春日社 祭神 武甕槌命(タケミカヅチノミコト) 境内を巡った後、境内北側から外の道路に出ました。 「末多武利神社(マタフリジンジャ)」の前を通ります。道沿いにある小さな神社です。所在地は宇治又振。「宇治は無常を意味する『憂し』に通ずるともいわれ、藤原一族の栄華の舞台となる一方、この宇治の地は失意にうちひしがれた人々も受け入れてきました。 宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文もその一人で、天慶2年(940)に参議となり、翌年征夷大将軍として関東の平将門の乱の平定に向かいましたが、到着以前に将門は討たれ、事件は解決してしまいました。大納言藤原実頼によって恩賞の対象から外された忠文は実頼を深く恨み、死後もその一族にとりついて祟ったといわれています。末多武利神社は、この忠文の怨霊を鎮魂する祠といわれています」(宇治市の史跡紹介説明文転記) 道路を横切るここの鉄製溝蓋はカラーで「やまぶき」が描かれています。やまぶきは「市の花」になっています。「やまぶきは、年々黄金色の花を開きます。宇治市の福々しい繁栄を象徴するにふさわしい花といえます」という意味が込められて決められたようです。(資料1)因みに市の宝木は「茶の木」、市の木は「イロハモミジ」、市の鳥は「カワセミ」です。緩やかな坂道をくだるこの道は「さわらびの道」で、朝霧通りに合流する地点が「さわらびの道」起点です。「さわらびの道」と刻した道標が建てられています。この分岐点から、朝霧通りを宇治十帖の像の方向に少し進みますと、「宇治茶道場匠の館」の少し先に、 「離宮水」と称されるこの覆屋の箇所があります。この写真は宇治発電所特別公開の探訪に行く往路で撮ったものです。 朝霧通りとさわらびの道の分岐点から宇治橋東詰の交差点の方に道を進みますと、交差点の少し手前に「橋寺放生院」があります。橋寺という通称が今では寺名として表記されていますが、真言律宗の常光寺と称するお寺です。(資料2)通用門が開放されていましたので、ここも久しぶりに立ち寄ってみました。山門を入るとすぐ急な階段があり、境内地はかなり高い位置になります。 石段を上り、左折するとその先に本堂等の建物が見えます。 境内の左側に「宇治橋断碑」があります。今は断碑を保存する建物が建てられていて、特別公開以外では見る事はできません。(宇治市文化センターにある宇治市歴史資料館で宇治橋断碑のレプリカを見ることができます) 近くに上田三四二の歌碑が建立されています。 橋寺に いしぶみ見れば 宇治川や 大きいにしへは 河越えかねき三四二の第5歌集『照徑』の「橋」と題する歌。昭和57年の宮中歌会始に選者詠として詠進された作だそうです。「いしぶみ」は「宇治橋断碑」のことです。「上田三四二は、昭和27年から10年間、城陽町国立京都療養所の医師として勤務した、南山城ゆかりの歌人」だそうです。(資料2) 本堂への玄関口手前に「摩尼車」が設けてあります。柱の部分に説明があります。「『摩尼』とは摩尼宝珠とも、如意宝珠とも言われ、意のままに宝を出すと言われる珠のことです。 仏さまの徳にたとえたり、お経の功徳にたとえたりします。これを一回まわせば、お経を一巻読んだのと同じ功徳が得られると言われています。摩尼車にかるく手をあてて、手前に回してください。その時、左の経文を唱えて下さい。 『羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提菩薩婆訶(ギャーテイギャーテイハーラアギャーテイハラソーギャーテイボージソワカー)』」(説明文転記)摩尼車の輪の表面には、「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」の経文が陽刻されています。 境内を南の方に巡ります。石畳の先に西向きの覆屋が見えます。 「十二支守本尊」と刻した石標が覆屋の右側に建てられています。誕生年の干支に応じて、守り本尊がそれぞれ異なります。8体の仏象が十二支のいずれかと対応しています。向かって右から、千手観世音菩薩(子)、虚空蔵菩薩(丑、寅)、文殊菩薩(卯)、普賢菩薩(辰、巳)、勢至菩薩(午)、大日如来(未、申)、不動明王(酉)、阿弥陀如来(戌、亥)という対応関係になります。仏象の背後の上部に対応表が掲示してあります。さらに、南に歩むと、境内の南端に北東隅から、次の諸像が並んで安置されています。 いちょうの大木が南西隅に聳えています。傍まで行きませんでしたが、その南側に小堂が見えます。何かは未確認です。橋寺を出て、宇治橋傍のお茶の「通圓」を眺めつつ、京阪電車の宇治駅に到着。 宇治駅のプラットホームから、「お茶と宇治のまち歴史公園」が見えます。 ズームアップで。 「茶づな」の建物の近くに建立された「志を繋ぐ碑」を、プラットホームから遠望できます。京アニ事件と関わりがあり、ここに建立されたモニュメントです。この碑については、先般ご紹介しています。これで宇治川右岸の点描を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料宇治神社1) 市章・市の宝木・花・鳥 :「宇治市」2) 芸文協だより第28号 宇治市芸術文化協会 令和3年12月1日発行 より補遺宇治神社 ホームページ宇治橋断碑 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」宇治橋断碑 :「古代史の散歩道」橋寺放生院 日本茶800年の歴史散歩 :「日本の遺産 ポータルサイト」市内産宇治茶PR動画~心潤す宇治のお茶~ ショート動画 YouTube」お茶の通圓 ホームページ茶づな (お茶と宇治のまち歴史公園) ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 宇治川右岸点描 -1 興聖寺、観流橋、宇治茶の郷、山田緑地、恵心院 へ探訪 宇治市 宇治発電所特別公開こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治 宇治神社細見と宇治橋・通圓茶屋・未多武利神社スポット探訪 [再録] 宇治 橋寺放生院探訪 宇治市・お茶と宇治のまち歴史公園 「志を繋ぐ碑」& 新たな祈り
2024.08.10
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興聖寺宇治発電所の工事竣工記念碑の所から少し先に、興聖寺の総門(石門)が見えます。この総門から山門までの緩やかな坂道は「琴坂」と呼ばれています。 総門の南西側に「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」の碑が建てられています。道元禅師が嘉禎2年(1236)に伏見の深草に創建した最初の禅苑、興聖宝林禅寺を前身とします。慶安元年(1648)に淀藩の藩主永井尚政が、曹洞宗の高僧万安英種を迎えて興聖寺をこの地に中興しました。永井家の菩提寺と定め、全面的な援助も行ったそうです。(資料1) 観光案内図この地図は興聖寺の傍に設置されています。「宇治発電所特別公開」のご紹介で使用した地図です。興聖寺はこの総門を眺めるだけにして、この付近から宇治川右岸(東岸)沿いの景観を少し探訪しながら、京阪電車宇治駅まで引き返すことにしました。 興聖寺総門の南側にある「東禅院」 曹洞宗のお寺です。坂道を上っていくと、石垣の上に白壁が真っ直ぐに延びています。南の端近くに山門があります。東禅院の南隣りは旅館亀石楼。この辺りからの宇治川の景色 上流側 下流側を撮ってみました。さて、ここから宇治川右岸の道路沿いの各所にちょっと立ち寄りつつ、京阪電車の宇治駅まで戻ります。今回はその景観の点描です。 観光PRの幟 観流橋「紫式部ゆかりのまち -うじには物語がある」 上辺には「大河ドラマ 光る君へ」と記されています。 観流橋からの眺め宇治川の中州の1つ、塔の島に建立されている巨大な石塔「浮島十三重塔」が見えます。奈良の西大寺律宗の高僧叡尊が建立した層塔(国重文)です。(資料1) 観流橋北詰から眺めた「朝霧橋」宇治川右岸の道路は、地図を見ますと、観流橋から宇治橋東詰の交差点までは府道247号と記されています。「朝霧通り」と称されています。 宇治川の2つの中州、朝霧橋が架かっている橘島と十三重石塔のたつ塔の島を繋ぐ小橋です。 右岸の道路に面した宇治発電所の門の北側に、「山田緑地」と刻された碑がたち、その左に石段があって、斜面の少し上に、休憩所があります。宇治川を眺めつつ一休みするには良いところです。 休憩所の下、道路沿いに「田中順二先生の歌碑」の石標と共に歌碑が建立されています。 何釣ると 言へばもろこといふ子らに 宇治塔ノ島 日ハまだ暮れず 順二 「宇治茶の郷」の碑があり、樹木に囲まれて茅葺き屋根の建物が見えます。 この碑のすぐ北隣に「恵心院」の寺号碑が立つ坂道が見えます。坂道の南側は福寿園のお店。その南に朝日焼松露会館があります。久しぶりに、恵心院に立ち寄りました。真言宗智山派のお寺です。 坂道の突き当たりは弘法大師の石像が祀ってあります。 山門 本堂 寺号碑の近くに恵心院の案内板が設置されていますが、読みづらくなっています。案内の要点を箇条書きにまとめますと、*恵心院の本尊は木造十一面観音立像。平安時代の作。宇治市指定文化財。*寺伝によれば、弘仁13年(822)空海の創建。初めは龍泉寺と呼ばれた。*平安時代中期、寛弘年間(1004~1011)に恵心僧都源信が再興。 この時から恵心院と称されることになった。(付記:恵心僧都源信は『往生要集』の著者)*豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、諸伽藍の整備が行われたと伝える。 現在は、表門と本堂のみを残す。 本堂前、参道の左側にある池 本堂の右側前方に安置された「子育・水子 地蔵」傍に駒札が建ててあります。「水子とはこの世に生まれるべき子供が親の都合や不幸な出来ごとのため世の光明に出逢うことなく更には誕生の喜びをしらずに永遠の闇に流れて行くはかない生命を水子という。闇から闇へ葬られたさまよえる幼い霊魂又いろいろな心の悩を持った衆生を済度してくださるのが御本尊の地蔵尊です。 地蔵真言 オンカカカビサンマエイソワカ 」 (駒札説明文転記) 本堂の南側の庭 可愛い小狸。信樂焼でしょうね。 本堂南側の境内は静寂そのもの。緑が溢れていました。この恵心院は「花の寺」として知られています。 本堂の北西側にこの鎮守社があります。白龍大神社だそうです。(資料2) 『源氏物語』宇治十帖において、ヒロインの浮舟は宇治川で入水します。この浮舟を助け、新たな道を歩ませたのは横川の僧都。恵心僧都源信は、この横川の僧都のモデルともいわれています。つづく参照資料1)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p64-652) 恵心院 :ウィキペディア補遺興聖寺 ホームページ東禅院 :「曹洞宗近畿管区教化センター」亀石楼 ホームページ朝日焼 ホームページ福寿園宇治工房 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治 興聖寺細見 -1 3回のシリーズでご紹介スポット探訪&観照 宇治 恵心院 境内に咲くスイセンの花 (2021年2月)観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院
2024.08.09
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「京の七夕 in Uji」という催事が8/2~8/4に行われました。その一環で、宇治発電所特別公開が組み込まれていました。このことを知り、8/4に宇治発電所を訪ねてみました。といっても、発電所の外観を眺めることができるというだけなのですが・・・・。 これは興聖寺の傍に設置された観光案内地図です。赤丸を追記したところが京阪電車宇治線の宇治駅です。宇治発電所は宇治川の右岸(東岸)にあり、黄色の丸を追記したところです。 普段は、宇治川右岸を歩いても、宇治発電所の放水路からの水流が宇治川に合流する場所に架かる「観流橋」の上から放水路が眺められるだけです。この還流橋は宇治川の上流側から撮りました。観流橋の南詰です。 観流橋の上から眺めた放水路。放水路は宇治川に合流する手前でこのようにプール状に広がっています。 普段は閉ざされた発電所の鉄製門扉から発電所の敷地内に入り、放水路沿いの通路を歩み始めた直後に撮った観流橋の眺めです。 この位置、角度から放水路を眺めるのは初めて。 放水路沿いの通路を発電所に向かいます。 赤レンガの外観の発電所が見えてきます。 発電所の銘板 発電所の外観 水力発電のタービンを回した後の水が、建物の下部から放水路に流れ込んできます。 放水路沿いに遡ってきた通路の突き当たりには変電設備が並んでいるようです。 発電所構内には、案内説明板が2ヶ所に設置してありました。 1つは「宇治発電所の概要」この宇治発電所は、明治41年(1908)に起工され、大正2年(1913)7月31日に発電を開始しました。水路式の発電所。その取水口は滋賀県大津市石山南郷1丁目。つまり琵琶湖から瀬田川に流れる水が取水されているということになります。大津市の南郷(瀬田川洗堰のやや上流に所在)からこの宇治市の宇治山田まで、水路となるトンネルが掘削されたのです。琵琶湖とここ宇治までの落差は70mあるそうです。案内板には「有効落差 61.85m」と明記されています。当初、この豊富な水量と水位差を利用しようと発電用水路の掘削出願が複数出て競願となったとか。協議の結果、一本化する形で「宇治川電気」を創立して、宇治発電所の工事が開始されたと言います。大津市南郷から宇治の仏徳山の麓のこの地まで、4年にわたって延長約11kmの水路掘削工事となったそうです。宇治川電気の工事関係者は最盛期で199人にのぼったとか。「できあがった水路トンネルは2.2万kwの発電を可能にした」そうです。(資料1,2)上掲の概要には、認可出力は最大32500kwと記されています。宇治川電気は、太平洋戦争以前には、五大電力の1つと称されていたようです。そして、戦後、1951年に、電力事業再編により関西電力が発足します。関西電力を構成する前身となった会社の1つだったのです。(資料2) もう1つは「水利使用標識」発電目的での水利使用権を許可しているのは国土交通大臣なのですね。知らなかった。水利使用者は関西電力株式会社。この宇治発電所の設備管理者は天ヶ瀬発電所長の管轄のようです。第1取水口の最大水量は毎秒61.22㎥と記されています。 観流橋の下を経て水流が宇治川に合流します。 天ケ瀬ダム以外で、常時はげしい白波が見られるのはこのスポットとだけ。 観流橋の南側からフェンス越しに放水路の上流が見えますが、発電所の建物は見えません。一度、建物を実見したかったのです。今回機会を得ました。 プール状の放水路域の南側にこの記念碑が建立されています。工事竣工記念碑です。今ではひっそりと木々に囲まれて佇んでいます。意識的に目を向ける人は多分少ないことでしょう。興聖寺がほんのすぐ南にありますので、たぶん観光客の皆さんの意識は観流橋から興聖寺の総門に向かっていることと思います。別稿として、宇治川右岸を次回点描でご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 宇治発電所の解説シート :「JSCE 土木学会 選奨土木遺産」2) 宇治川電気 :ウィキペディア補遺水力発電の概要 発電方法の種類 :「関西電力」水力発電所の分類 :「新エネルギー財団」旧関西配電区域に存在した電気供給事業者 :ウィキペディア電力事業再編 :「新電力ネット」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.08.07
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7月25日、宇治市源氏物語ミュージアムに行く前に、立ち寄ってきました。「お茶と宇治のまち歴史公園」は、京阪電車宇治線・宇治駅に隣接しています。宇治線の線路と宇治川との間に広がり茶園のある公園です。 志を継ぐ碑この碑のメッセージは 「夢と情熱を人から人へ」そして、 「未来への羽ばたき」 2019年7月18日京都アニメーション第1スタジオ放火事件が引き起こされました。36人が亡くなられました。36人の夢と情熱、人生が奪われました。アニメを通じての繋がりと広がりが突然に断たれてしまったのです。今、5年の歳月が経過・・・・。36人の一人ひとりの志が36羽の鳥に託され、この碑となっています。 各ホームページから得たメッセージを記録しておきます。京都アニメーションのメッセージ:「事件と事件で遭難したスタッフ、世界中からお寄せいただいた祈りと支援、すべてへの感謝と願いを長く記憶に留める象徴としての碑を設置いただけることになりました。ご理解、ご協力をいただいたすべての方々に、心より感謝いたします。」宇治市のメッセージ:「志を繋ぐ碑」は、慰霊碑ではなく、本事件に関わったすべての人びとの志を繋ぎ、長く記憶に留める象徴として設置するものです。永くこの歴史公園で皆様に親しんでいただくためにも、献花やお供えはご遠慮いただきますようお願いいたします。」ご覧いただきありがとうございます。補遺「志を繋ぐ碑」の設置について(初出7月5日、改訂7月13日) :「Kyoto Animation」「志を繋ぐ碑」について :「宇治市」「大切な仲間のことを忘れたことはない」京アニ事件伝える碑が完成...社員がデザイン、宇治市内の公園に設置 2024/07/14 :「讀賣新聞オンライン」「思いを寄せる象徴に」京アニ事件伝える碑、京都・宇治の公園に設置 2024/07/14 :「産経新聞」京アニ事件を伝える碑が除幕 2024/07/28 :「AsahiWeekly -DIGITAL-」京アニ事件「伝える碑」、京都・宇治市が設置認める 犠牲者と同じ36羽の鳥を表現へ 2024/03/01 :「産経新聞」京アニ事件を伝える碑、14日に公開へ 京都府宇治市の公園に建立 2024/07/05 :「朝日新聞DIGITAL」京都アニメーション放火殺人事件 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.07.30
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豊臣秀次とその一族の墓所並びに地蔵堂に対して、前庭を挟み東側に西面する本堂があります。向拝の正面に山号「慈舟山」の扁額が掲げてあります。 本堂に向かいますとこちらも本尊阿弥陀如来像とその周辺がライトアップされて、参拝しやすく配慮されています。前回触れていますが、現在の瑞泉寺の堂宇は、「天明の大火」(1788年)で類焼した後に再建されました。この時、本尊の仏像や道具類は大火から避難させることができたそうです。その後、維新前後の京都の大火に遭うことがなく、現在に至ると言います。慶長16年(1611)に豊臣秀次一族の菩提寺として角倉了以により創建されたとされています。瑞泉寺の開山は桂叔和尚(立空上人)で、法然上人の直弟子、西山証空上人の教えを伝える「西山派」の僧侶でしたので、瑞泉寺は東山に所在の「永観堂」を総本山とする浄土宗「西山禅林寺派」に属します。「角倉了以の実弟は医師として秀次公に仕えた家臣であり、瑞泉寺創建はその弟の一周忌の年に当たります」という側面もあったようです。(本堂前に掲示の案内文より)文禄4年(1595)8月に、秀次の一族がこの地で公開処刑をされたのですが、当時の鴨川の河原は、現在の「河原町」通あたりまで広がっていて、川の流れが幾筋かあり、この瑞泉寺のある辺りは、大きな中州(中之島)の荒川原だったようです。そこに、前回触れた大穴が掘られ、遺骸が投げ込まれ、その跡に塚が築かれていたのです。そして、当時の鴨川の西側の流れが、角倉了以・素庵父子により利用されて、運河「高瀬川」の開削護岸事業が実行されます。中之島にあり、悪逆塚(畜生塚)と称された悲劇の地に「瑞泉寺」が建てられたという次第です。(境内に設置の駒札より)元の塚があったところに堂宇が建てられ、秀次一族の墓石を現在の墓所の地としたそうです。つまり、元の塚の側に移したのです。”瑞泉寺・代々継譜録の冒頭には「(了以翁ハ)思フニ、此ノ地ハモッテ民屋(民家)トナスベカラズ。和尚ト相儀シテ堂宇ヲ建テ、瑞泉トナズク」と記しています”(2014年、本堂前に設置の案内文より転記)さて、本堂前の小規模な境内(前庭)を巡って行きましょう。 豊臣秀次一族の墓所の東北角の手前に石仏が安置されています。右の像は頭部が欠損に・・・・・。 また、墓所の東南角の手前には、この地蔵堂があります。この付近の町内・中島町のお地蔵さん、小さな石仏が安置されています。「中島」は「中の島・中州」を表していて、京都の古地図にも記載されているそうです。「三条小橋商店街」として現代にも生きる町内です。(掲示の木札より)石柵の向こうに見える五輪塔婆は、殉死した家臣の塔婆です。家臣の五輪塔婆は10基。5人は高野山で秀次とともに自刃。他の5人は各地で自刃とのことです。 (墓所配置図の説明より) 西面墓所と本堂との間の前庭には、宝篋印塔が建立されています。 北面 背後に見える掲示板に前回触れた秀次一族の墓所関連史資料が掲示されています。 北面 東面 東面 南面全景 墓所前の参道を山門方向に戻ります。 参道側の地面に残された歴史の証人といえる瓦です。「消された菊花紋」秀次一族の墓所とは無関係。明治元年の神仏分離令による廃仏毀釈の大嵐がどのようなものだったかの歴史を物語る史料ですね。まさに、日本人にとっては、今、再び、温故知新とすべき教材ではないでしょうか。 おもしろい組み合わせの石灯籠です。雪見灯籠の変形でしょうか。 大日如来を祀る小堂傍の石灯籠 2014.7.5 撮影 山門を入ると前方に見えるのがこの建物。全景は初探訪の折の写真。1階部分は休憩所を兼ねた資料室になっています。今回は時間の余裕がなく立ち寄りませんでしたが、秀次一族の悲劇に関連する史資料類が掲示されています。ここで川原の塚の絵図資料を見た記憶があります。 山門を境内から眺めた景色この後、京都文化博物館に向かいました。ご覧いただきありがとうございます。補遺慈舟山瑞泉寺 ホームページ瑞泉寺 :「京都観光Navi」瑞泉寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・三条 ふたたび瑞泉寺に -1 豊臣秀次一族の墓所、地蔵堂 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。 2回に渡って2014年7月の探訪を別のブログサイトで記事を載せました。 こちらでブログ開設(2016年4月)の後、2017年2月に再録した記事です。スポット探訪 [再録] 京都・上京 瑞泉寺 -1 瑞泉寺の縁起、展示室兼休憩所、地蔵堂スポット探訪 [再録] 京都・上京 瑞泉寺 -2 豊臣秀次公と一族の墓所
2024.07.13
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2014.7.5撮影7/9の朝、京都文化博物館の開館前に、久しぶりに瑞泉寺の境内を訪れました。三条に出るたびに、瑞泉寺の近くを通りますので、つい山門を撮りませんでした。冒頭の写真は過去のブログ記事に掲載したものです。10年前に訪れていたことになります。三条大橋を西に渡ると、高瀬川に架かる三条小橋が見えてきます。高瀬川の左岸が木屋町通です。三条小橋を眺めつつ、木屋町通を左折すれば、角地の店の南側に瑞泉寺があります。 上掲石標傍に駒札が設置されています。後で再掲します。 門をくぐると、すぐ右側に大日如来を祀る小堂があります。 目に止まった手水鉢その先で参道を右折します。墓所への案内掲示がでています。参道を進むと、右(西)側に、東面する御堂が見えます。 「地蔵殿」と記された扁額を掲げた地蔵堂です。「引導地蔵尊」と墨書された赤提灯と両側に「延命地蔵大菩薩」と墨書された赤提灯が奉納されています。 参道脇の石仏 この地蔵堂の手前に駒札が設置されています。”この堂の中央に安置された地蔵菩薩像は、秀次公一族の処刑の際、四条・大雲院の僧「貞安上人」が刑場の一隅にその木像を運び込み、次々と打たれる子女達に引導を授け続けた、と伝わる尊像です。 極楽浄土へ死者を導く「引導地蔵尊」として、京洛の人々に今日なお尊敬されています。 寺伝「定朝」作 各位の参拝憶念をお願いします。 住職 ” (全文転記)御堂に近づくと、センサーが反応して、堂内が明るくなり、参拝しやすく配慮されています。 上掲駒札には「堂内に刑死された女性方や子供たちの小像が奉られています」と付記されています。地蔵菩薩像の左右に設けられた脇壇に並ぶ小像がそれです。「左右の脇壇に安置する人形は、寺宝『秀次公並びに御一族・三幅』に描かれた女性と子ども、殉死した主な家臣の像を写したもの」だそうです。これら小像の制作は、昭和16年、秀次一族の没後350年記念事業として、財団法人「豊公会」が尽力されたとか。(案内文より) 地蔵堂の南側に、石柵で囲われた形で、秀次とその一族の墓所があります。「この墓域は慶長16年創建の時に築かれました。」(案内文より) 六角面の墓塔の正面に豊臣秀次の法名、両側面に五人の子女の法名が刻まれています。(資料1) 秀次の法名は 随泉寺殿前関白秀次入道高巌道意尊儀 です。 (資料2) その塔の下にはめ込まれているこの石は、悪逆塚のもとの石で、「悪逆」の銘が削りとられて「辶之塚」とされ、七月十五日という年月日が見られる形で残っているそうです。(資料1)”正面の墓塔中央に安置された砂岩の古石は、秀次公の御首を収めて『塚』の頂上に据えた中空の「石ひつ」。” (現地の説明文を一部転記) 秀次の墓塔にむかって、右側と左側に設置された墓石。この二基と正面の墓塔のは瑞泉寺の創建当時のものだそうです。(案内文より) 駒札には、「太閤記の寺」と付票が追補されています。小瀬甫庵著『太閤記』巻十七は、「前関白秀次之事」から始まり、「益田少将忠志之事」「秀次公御切腹之三使登山之事」「御切腹之事」「同罪と号し、切腹之面々」「秀次公御若君姫并御寵愛之女房達生害之事」という項をたてて、その経緯を述べています。勿論この書は、秀吉の観点をベースに刊行された書という背景があります。それでも事実・経緯の一端はわかります。(資料3)秀次は、太閤秀吉の命により、剃髪染衣し高野山に急ぎ登山然るべしと追われます。文禄4年(1595)7月8日伏見を出立し、高野山の青厳寺に蟄居します。その後、太閤の使者が訪れ7月15日に秀次は28歳にて自害させられます。使者は秀次の首を太閤秀吉に届けるのです。8月2日に秀次の子女や妻妾たち一族は、三条大橋西畔の河原で死刑に処せられました。「二十間四方に堀をほり、鹿垣(シシガキ)を結まはし、橋の下南に三間の塚を築(ツキ)、公(=秀次、付記)之御頸を西向に据置(スエオキ)、寵愛二十余人の女郎達に拝ませ申す可き旨、兼て仰せ出されしとなり」(資料3)と『太閤記』に記されています。その二十間(36m)四方の大きな穴に一同の死骸を投げ入れたのです。秀次の5人の幼児と34人の妻妾たちの血が三条河原を染めました。塚をその上に建て、刳り抜いた石に秀次の首を入れた「石ひつ」をその塚の上に置いたのです。「秀次悪逆塚 文禄四年七月十四日」と刻まれていたと言います。様々な洛中絵図屏風を見ると、元和初年(1615)ごろまでは、その塚が三段に描かれているそうです。(資料1) 「全ての遺骸は刑場に掘られた大穴に投げ込まれ、跡には四角推の大きな塚が築かれた」(案内文「あわれ三十九霊」より)との説明もあります。瑞泉寺にも絵図の資料が展示されていたと記憶します。(今回再確認はしていません。)塚の上に秀次の首を納めた「石ひつ」を据えたのは、三条大橋を渡る人々への見せしめとするためだったとか。(案内文より)瑞泉寺縁起によれば、角倉了以が豊臣秀次一族を弔うために、秀次の法号である瑞泉寺殿をとって「瑞泉寺」と名付けた堂宇を慶長16年(1611)に建立したと言います。(駒札より)なお、慶長16年は、「いまだ高瀬水運は開始されたかどうかの折であり、元和初年は大坂夏の陣があったり、高瀬水運の安定期はまだ先であった。故に建立時期は一考を要する」として、「高瀬川往来のたびに、草茫々の河原の中之島に、畜生塚の哀れに果てて立つのを眺めるにつけ、同情の念止み難く、角倉与一が父の名をもって、建立供養した寺が瑞泉寺である」(資料1)と言う説もあります。いずれにしても、現在の瑞泉寺は天明の大火後に再建されています。(資料2)慈舟山と号し、浄土宗西山禅林寺派に属するお寺です。 墓所中央の参道を挟んで、左右には子女妻妾家臣の計49人の五輪塔婆が立っています。これらは昭和17年(1942)に建立されたそうです。(資料1)五輪塔婆の1ヵ所に「駒姫」の掲示がしてありました。初めて訪れたときの記録写真には掲示がありません。なぜかは私にはわかりません。ネット情報はあるようです。五輪塔婆の配置図から見ますと、列奥より8番目で、「(婦十一)於伊萬ノ前(駒姫)15歳」と記されています。『太閤記』(資料3)では、「おいま御方 19歳 奥州最上息女」に該当します。このおいま御方が詠んだ辞世の句が、他の妻妾の歌と併せて記録されています。 うつゝとも夢とも知ぬ世の中にすまでぞかへる白川の水です。この墓所の近く、境内の南端に掲示板が設置されていて、秀次一族関連の諸資料が掲示されています。「あわれ三十九霊 -前関白豊臣秀次公御一族物語ー」は、「瑞泉寺と寺宝」という案内文や墓所の五輪塔婆配置図などとともに掲示されています。鏡面反射して見づらいですが、 江戸時代初期の「壱之船入り」付近を描いた絵図 元禄14年版「京都古地図」 瑞泉寺の位置表示ありなどの絵図も掲示されています。次回、本堂と境内おご紹介をつづけます。参照資料1)『京都史跡辞典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社2)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂3)『太閤記 (下)』 小瀬甫庵著 桑田忠親校訂 岩波文庫 昭和49年9月初版第1刷補遺豊臣秀次 :ウィキペディア豊臣秀次の歴史/ホームメイト :「刀剣ワールド」高瀬川 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」高瀬川開削400年-角倉了以と素庵 :「鴨川納涼床への誘い」角倉了以 :ウィキペディア角倉素庵 :ウィキペディア東国一の美女・駒姫の悲劇。処刑までの100メートルあまりにも長過ぎた :「和楽」駒姫/ホームメート :「刀剣ワールド」駒姫の死について 胡 偉権 :「最上義光歴史館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・三条 ふたたび瑞泉寺に -2 本堂、宝篋印塔、消された菊花紋ほか へ
2024.07.12
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本殿の手前、右側に立つ大きな角柱碑に文字列が大きく刻されています。私には判読できない文字が含まれています。 「獲□□川□□三種神寶」 □が判読できない文字何等かの三種類の神宝が所蔵され、祀られているということでしょうか?現代では、どれだけの人がこの石碑の文面を理解できるのでしょう・・・・・。 本殿正面の石段右側の奥には、正面に大きく「水」一字を刻した水槽が置かれています。本殿の雨水受けの意味合いでしょうか。それほど古いものではなさそうです。 南面する本殿の東側面 神馬像 本殿の東に、ブロンズ製の神馬像が奉納されています。 境内にテントを張った一画があり、覗いて見ますと、脚部に「本社太鼓」という銘板が見えます。太鼓を載せる台座で脚部に車が附いているようです。神社の祭礼と関係するのでしょう。 (資料1)これは、江戸時代に出版された『摂津名所図会』の挿画になっているこの神社の神事の1つで「難波村 牛頭天王綱引」と題し、綱引きの様子が描かれています。左ページの鳥居には「祇園牛頭天王」と記された扁額が掲げてあります。綱引神事は毎年1月の第3日曜日に行われるそうです。「綱引神事は当社の御祭神、素盞嗚尊(すさのをのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、民衆の困苦を除かれた故事に基づき始められたと言われています」(資料2)とのこと。平成13年(2001)に大阪市で初めての無形民俗文化財に指定されました。(資料2)夏祭は7月。7月13日の宵祭には、平成13年(2001)に230年ぶりに復活された道頓堀川の船渡御が斎行され、水上祭が行われます。太鼓、神輿が参加するとか。14日が本宮祭です。(資料2)本殿の西隣りに社務所があります。多くの人が列を作っていました。御朱印授受などでしょうか。写真は撮りませんでした。社務所と獅子殿の間の空間、境内地西辺を巡ります。 獅子殿の北側沿いに参道があり、西門に至ります。石鳥居を外の道路から眺めた景色。ここは黒木鳥居の形式のようです。こちらには、「八坂神社」の社号碑が建てられています。 西門から境内に戻ると、社務所方向に向かう参道が分岐し、参道の角に蹲風の小さな手水鉢が置かれています。風情を感じる手水鉢です。 その先に、摂末社の1つ「篠山神社」が祀られていて、由緒について駒札が建ててあります。祭神は篠山摂津守十兵衛景義です。「江戸時代 此の地の代官として着任 寛政5年(1793年)~文化6年(1809)、摂津・河内・播磨の三国の惣代、住民がこの地に青物市場開設を嘆願し当代官の尽力により市場開設が許可され、住民は生活の安定・福祉増進に恩恵を蒙った。住民は感激し、遺徳を尊び報恩感謝の念を結集し生き神様(生祠)として奉祭・ 篠山代官は佐渡金山奉行と立身出世、幕府財政に寄与した」(駒札転記)この篠山神社は、篠山十兵衛景義の遺徳を顕彰するため、明治十三年十二月二十六日創建されたのです。(資料2) ちょっと驚きです。 屋形灯籠の右背後の石碑では「世の人のあふくも」というフレーズしか読めませんが、篠山十兵衛景義の詠んだ歌が刻されているようです。(資料2) 世の人のあふくもたかき功こそ巌とともに朽ちせざりけれ裏面には遺徳を顕彰する碑文が記されています。その他の摂末社は見過ごしました。社務所の前方南で、興味深いものが目に止まりました。 1つはこれ。石橋の石柱です。右側面に来歴が新たに刻されています。転記します。「旧難波入堀川(新川)賑橋ニ用ヒアリシモノ昭和三十年春埋立ニ際シ当社内ニ移ス」 改めて正面を見ますと、「にきはひ」という文字が刻されているところまでは判別できます。そのしたはたぶん「はし」なのでしょうが、私には読み取れません。慣れ親しんだ橋の記憶を残そうということなのでしょう。 その近くにこの記念碑「難波葱発祥の地」が新規に建立されています。碑文を転記します。”難波村の葱栽培は享保10年(1725)に初見され、明治初年には50町歩あり、難波一帯は広大な葱畑であった 難波葱は葉の繊維が柔らかく強いぬめりと香り、濃厚な甘みが特徴で、九条葱、千住葱などのルーツと伝わっており、大変古い葱といえる 平成29年(2017)「なにわの伝統野菜」に認証された 難波葱の会 ”本殿前から境内地を東の方に歩みます。 石造黒木鳥居が立ち、石柵を瑞垣とした一画が目にとまります。 内側には、「宮趾」と刻した石碑が建てられています。 宮趾の石碑の北隣には、境内の東境界寄りに「殉国の碑」と大きな石灯籠が建立されています。 一方、宮趾の石碑のある位置からすぐ南には、東西方向の参道があり、こちらにも石鳥居が立ち、東門があります。こちら側にも「難波八坂神社」の社号碑が立っています。東門となる石鳥居から歩む参道の正面に獅子殿が見えます。参道からの景色は前回ご紹介しています。 これで、南の石鳥居から参道を北に進んだ際の参道側に配置された狛犬像まで戻ってきました。 傍に立つ石灯籠。竿・反花の下の格狭間には、波文様が浮き彫りにされています。 南の石鳥居に戻ります。築地塀の内側には、「敬神」と刻した碑が建立されています。最後に、境内に掲示の案内地図を部分図でご紹介します。 現在地として表示された難波八坂神社の境内地とその付近をさらに拡大。境内地の境界となる通り名がグーグルマップに表記されています。東側の境界が大黒橋筋、南側の境界が弓場町通、西側の境界は通り名不詳。その一筋西側が市場筋です。これで境内巡りを終えて神社を後にしました。大黒橋筋から一筋東が国道26号線。この道路を北に進めば、大阪市立難波元町小学校があり、その少し先に、大阪メトロ・なんば駅への地下入口(No.32)があります。公共交通機関ではここが最寄り駅といえるでしょう。ご一読ありがとうございます。参照資料1. 難波八坂神社 :ウィキペディア2. 難波八坂神社 ホームページ補遺「難波の綱引き」について おおさか資料室 :「大阪市立図書館」Tug of War ritual, Namba Yasaka shrine [Deep Japan] 綱引き神事 難波八阪神社 YouTube[八岐大蛇ができるまで」令和5年 大阪市浪速区 難波八坂神社 綱引き神事 大綱打ち八岐大蛇完成まで 大阪市指定無形民俗文化財 YouTubeミナミ道頓堀で船渡御 難波八坂神社夏季大祭 2019.7.13 YouTube難波八坂神社 夏祭 船渡御 2023 Osaka Night Walk - Funatogyo on the Dotonbori River 4K HDR Japan ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 大阪・難波 難波八坂神社 -1 石鳥居・本殿・獅子殿ほか へ
2024.06.20
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先々週(6/7)、あべのハルカス美術館に行った後、難波に所在の難波八坂神社を探訪してきました。冒頭に掲げた巨大な獅子頭を象った獅子殿の実物を眺めてみたいと思ったのが動機です。数ヶ月前にあるテレビ番組でこの獅子殿が外国人観光客の人気スポットになっていると報じていました。それで少々興味を抱いた次第です。平日の金曜日午後でしたが、確かに大勢の外国人観光客をみかけました。50~60人くらいの人々が居たように思いました。 元町3丁目北の通りに面した石鳥居から境内に入りました。あちらこちらに参拝客が居ますので、できるだけ人を入れずに撮ろうとすると制約されます。石鳥居の左(西)に建立された石灯籠には、「當坊清雅代」という文字が刻されています。こういう刻字は初めてです。意味不詳。 参道側に、小ぶりな手水舎があります。 獅子像の口が水の注ぎ口になっていることが、少し珍しいと感じました。 参道を進むと、左手前方に獅子頭が樹木越しに垣間見えてきます。 こんな感じで初コンタクトです。巨大! 神社の本殿正面の石段両側には、ブロンズ製と石造の狛犬像が奉納されています。 難波八坂神社のホームページの案内によれば、現在の本殿は昭和49年(1974)5月に完成した建物です。現代建築・鉄筋コンクリート製のようです。 軒端に数多くの吊灯籠が奉納されています。「当社(難波八阪神社)の創建年月日など詳しい資料は残っていませんが、社伝によれば古来『難波下の宮』と称し難波一帯の産土神でした。後三条天皇の延久(1069年から1073年)の頃から祇園牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りする古社として世間に知られていました」とのこと。(ホームページより)神社名に「八坂」を冠していますので、祭神は京都の八坂神社と同じ。素戔嗚尊、奇稲田姫、八柱御子御子です。 本殿側から南西方向、東の門・石鳥居から続く参道の正面に、お目当ての獅子頭(獅子殿)全景が見えます。人間の大きさからこの獅子頭の巨大さがうかがえるでしょう。 この獅子殿は、高さ12m、奥行7m、幅7mの大きさで、上記本殿の竣工と共に完成したそうです。鉄骨・鉄筋コンクリート造で、外観は銅粉吹き付け合成樹脂仕上げと言います。この巨大獅子の目はライト、鼻はスピーカーの役割を果たしているそうです。獅子の歯は24本だそうです。(同上) 前面は舞台になっていて、「お正月には、神楽・居合道など、夏祭りには、獅子舞・民踊等各種芸能が奉納されます」とのこと。(同上) 後部の殿内は一部木造で、祭神として素戔嗚尊の荒魂が祀られています。「真鍮製 折腰格天井にはめ込まれている鳳凰の彫刻は、全て手彫りでその意匠が異なっております」(同上)とのこと。天井部分、詳細な観察はできませんでした。 獅子殿前面の両側に、ブロンズ製の灯籠が奉納されています。竿・反花の下の格狭間の文様が目に止まりました。 一面撮り忘れましたが、ほぼ同形の鳳凰が彫像されています。獅子や龍の彫像は見慣れていますが、鳳凰は珍しいと感じました。灯籠の竿には1974年7月奉納の銘文があります。折腰格天井と照応させてあるということでしょう。それでは、続きに境内をめぐります。つづく参照資料難波八坂神社 ホームページ補遺難波八坂神社 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.06.16
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御影堂門と南の阿弥陀堂門との中間あたり、門側(東辺)に手水舎があります。 水の注ぎ口は龍像です。水盤の側面には清浄水と刻されています。コロナ禍の関係でしょうか、龍の口から水は注がれていません。 阿弥陀堂こちらも単層入母屋造本瓦葺で、間口15.6m、奥行21.25mの木造建物です。阿弥陀堂の屋根全体が張り出していて、正面に階があります。 南東角で、廻縁の下部の礎盤、縁束、木組の眺め。基壇の上面は敷瓦(甎)を四半敷にして舗装してあります。 南側からの眺め 階傍からの眺め 阿弥陀堂と大師堂をつなぐ渡り廊下、大師堂の南臆面 北東角から眺めた阿弥陀堂。木組を金網が覆っています。鳥害除けでしょうか。 象形の木鼻は見やすいですが、蟇股が金網に遮られて十分に見えないのが残念。 階前で、堂屋根の軒先を支える柱は礎盤上に建てられ、足元を保護金具で覆われています。その意匠はごくシンプルです。 境内南東隅に鐘楼があります。 鐘楼の欄間の透かし彫り、虹梁のシンプルな彫り、木鼻の獅子像を楽しめます。 境内からの阿弥陀堂門の眺め 木鼻は獅子像と花。開花の状態が彫刻されていて、立体感が見事です。 阿弥陀堂門の門扉御影堂門と同様に桟唐戸ですが、こちらの方は狭間の透かし彫りがなくて中央に宗紋が浮き彫りされているだけです。下部も、9つの枡形に対し4つの枡形とシンプルにしてあります。 虹梁上の蟇股と大瓶束それぞれの両側の透かし彫りは見応えがあります。 外側から眺めると、孔雀と鶴が透かし彫りにしてあります。 阿弥陀堂門もまた、築地塀から少し凹んだ内側に門が設けられているのは御影堂門と同じです。違いは築地塀の延長面に埓(ラチ)が設けてある点です。これは勅使門の所と同じ形式です。 道路から眺めた阿弥陀堂門。門の先に阿弥陀堂が見えます。境内に戻り、御影堂門に向かいます。 境内から撮った御影堂門。 屋根の先端近くに置かれた獅子像の留蓋 御影堂門前に佇み、東方向を眺めた景色。突き当たりは柳馬場通で、南北の通りになります。地図を確認しますと、御影堂門前の通りの南北両側は、すべてお寺の名前です。佛光寺の塔頭寺院なのでしょう。 柳馬場通側から眺めますと、突き当たりが御影堂門でその門の向こうに大師堂の大屋根を眺める景色になります。門に至る両側にお寺が軒を連ねているという景色になります。浄土真宗系としては、本願寺よりも古い時代から、教団を形成して活動してきたのが佛光寺派だったことを改めて今回認識しました。『都名所図会』や手元の書によりますと、文明年間(1469-1487)、経豪上人の時代に、教団としての大きな転換点があったようです。(資料2,3)日本史の年表を見ますと、「1461 蓮如、最初の『御文』を書く」、「1471 蓮如、越前吉崎に道場建立」「1496 連如、石山に御坊を建立」という史実が載っています。(資料4)写真を撮らなかった建物が2つあります。1つは鐘楼の西隣りにある「和合所」と称される建物。これは、もとは毎朝法話をされる方のための宿泊所として使用されていたようです。現在は、「ロングライフをテーマに地域の暮らしや観光をデザインする『D&DEPARTMENT』の京都店」として活用されています。(資料5)もう1つは、手水舎の東側、築地塀との間にある「茶所」と称する建物。この茶所は「茶所布教」として法話の会場に使われています。(資料6)また、昼は定食が人気の食堂(dd食堂京都)としても使われています。(資料5,7)が、私が訪れた時は閉まっていました。営業外の時間だったのかもしれません。いずれにしても、この本山佛光寺の探訪で、京都に本山を置く浄土真宗系4宗派の伽藍・境内を一応訪ね終えることができました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 建物について :「本山佛光寺」2.『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫3.『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p338-3414.『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社5. 境内に素敵なセレクトショップも。仏光寺通の名の由来となった「佛光寺」 :「ことりっぷ」6. 本山佛光寺茶所布教 :「浄土真宗の法話案内」7. 佛光寺 :ウィキペディア補遺真宗佛光寺派 本山 佛光寺 ホームページ佛光寺 :ウィキペディア真仏 :ウィキペディア了源 :ウィキペディア経誉 :ウィキペディア[五十一]「経豪上人」~経豪上人、佛光寺を継ぐ~ :「真宗興正寺派 本山興正寺」真宗十派 :「真宗教団連合」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・下京 仏光寺 -1 御影堂門・大師堂・灯籠・しだれ桜 へ
2024.06.11
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風俗博物館と龍谷ミュージアムでの鑑賞をはしごした後、続きに運動を兼ねて仏光寺までウォーキングしました。粟田口にある仏光寺本廟は以前に探訪したことがありますが、この真宗佛光寺派本山・仏光寺は訪れたことがありませんでした。四条通の南が綾小路通、さらにその南が仏光寺通と、寺名が通りの名称になっています。更に一筋南が高辻通です。南北方向は仏光寺通と高辻通の間に仏光寺が位置します。東西方向は、烏丸通の東側の東洞院通が、寺域の西側境界になります。地図で確認して初めて気づいたのですが、高倉通と堺町通は高辻で一旦道路が途切れ、仏光寺通から北にこの2つの通り名が続きます。そして、高倉通(西)と堺町通(東)との中間に高辻通から仏光寺通を結ぶ南北方向の通りがあります。高倉通と堺町通が合流し、仏光寺の門前の通りとなり、その後再び元の通りに分岐しています。つまり、東側はこの門前の南北の通りが境界です。 御影堂門を正面から。逆光になり、門の石段近くから撮りました。 築地塀には、5本の定規筋がひかれています。北側の築地塀に凹みが見える箇所には勅使門があります。北から廻って下ってきた時、撮り忘れました。 南を眺めると、門前の通りは突き当たります。築地塀の角の所が高辻通です。 先に、寺域の南辺となる高辻通と築地塀の南東角を眺めておきましょう。築地塀の手前に、慶讃法会基本理念「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」が大書された掲示板が設けてあります。(資料1) 木鼻の獅子像 吊灯籠 龍が打ち出されています。 門扉門扉上部の狭間の中央には宗紋が透かし彫りにしてあります。 御影堂門は四脚門で、本柱と控柱の間には花狭間が嵌め込まれています。 御影堂門側から眺めた大師堂(御影堂) 北東側には寺務関連の建物。名称未確認 大師堂は、単層入母屋造本瓦葺で、間口26.5m、奥行33.1mという規模の木造建物です。正面に間口10.2mの向拝が付いています。(資料2) (資料3)これは江戸時代に出版された『都名所図会』に挿画として載る佛光寺の全景です。親鸞聖人が流罪から赦免された後、建暦2年(1212)40歳の時、帰京されて山科・東野に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺の草創となったそうです。当初は、興正寺と号したそうです。第七世了源上人の時、後醍醐天皇の元応2年(1320)、今比叡竹中庄汁谷に移転します。現在の京都国立博物館のあたりです。天正14年(1586)、豊臣秀吉が方広寺大仏殿建立を発願した折に、要請されて五条坊門通(現在の仏光寺通)の現在地に移転しました。(資料4,5)佛光寺という名称の由来を、『都名所図会』は次のように伝えています。「後醍醐天皇の御宇に盗賊寺内に乱入し、尊像(注記:阿弥陀仏象)を奪ひ逃ぐるといへども重くして詮方なく、二条河原に投げ捨て去りぬ。その夜より瑞光を放ちて帝闕を映照し、百官これをあやしむ。帝光の行衛を尋ねさせ給ふに弥陀の光明なり。勅使驚いて尊像を帝に奉り、宮中に安置す。その後、興正寺に遷座し、寺号を仏光寺と改めて勅願を賜ふ」(資料4)また、仏光寺のホームページには、「勅願により『阿弥陀佛光寺』略して佛光寺の寺号を賜ったと伝えられています」(資料5)と説明されています。 大師堂の柱と木組 向拝の木鼻と蟇股の彫刻 金網があるのが残念! 大師堂前のブロンズ製灯籠 格狹間には様々に躍動する獅子の姿 雨水槽の正面に宗紋が陽刻されています。その前、大師堂と阿弥陀堂の前方に3本の桜の木があります。しだれ桜です。知る人ぞ知る桜スポットになっているようです。3本の桜の木は昭和47年(1972)、秩父宮・高松宮・三笠宮のお手植だとか。(資料6)次回は阿弥陀堂似向かいます。つづく参照資料1. 御消息・基本理念 :「本山佛光寺 慶讃法会特設サイト」2. 建物について :「本山佛光寺」3.『都名所図会 6巻[2] 』秋里籬島著、竹原亞信繁画、天明6(1786)刊 :「国会国会図書館デジタルコレクション」4.『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫5. 佛光寺のご紹介 :「本山佛光寺」6. 佛光寺の桜 3本の紅色しだれ桜 :「ウォーカープラス」補遺真宗佛光寺派 本山 佛光寺 ホームページ佛光寺の桜 :「まいぷれ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・下京 仏光寺 -2 阿弥陀堂・阿弥陀堂門・鐘楼・手水舎 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 仏光寺本廟
2024.06.10
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割拝殿の左(西)側に大神輿が2基収納されています。前回ご紹介した全景です。京都アニメーション制作の「響け!ユーフォニアム3」というアニメの4月21日放映の第3回にこの許波多神社の神輿を背景に写真を撮るシーンが登場したのだとか。架空の北宇治高校吹奏部を舞台としたアニメで、1年生部員・義井沙里の家という設定でこの許波多神社が登場するそうです。アニメファンには、大神輿が見られるなら関心が高まるかも知れません。(資料1)以前探訪した折、知らなかった大神輿が公開されて拝見できることは大いに有難いことなので、この大型連休中に訪れてみた次第です。アニメファンかどうかは判りませんが、私が訪れた時には、5~6人の参拝者に出会いました。 神輿に近づきますと、前面に「献燈」と墨書した提灯が一列に吊される中に「南」「北」と一文字だけ記された提灯が各神輿の正面に吊されています。前回ご紹介の神社の案内掲示に、北部・南部に分かれた氏子地域という説明がありますので、かつてはこの2基の神輿も、氏子地域に対応していたということでしょう。この大神輿は、「昭和30年代半ば以降は巡行することもなくなった」(資料1)とのこと。報道記事にある通り、各神輿の前には、獅子頭が置かれていました。獅子舞いに使う頭です。獅子舞いを見る機会などほとんどありません。獅子舞いを辞書で引くと、「獅子頭をつけて舞う民俗芸能。広くは鹿または竜などの頭をつけて舞うものを含んで呼ばれる。悪魔払いの舞として普及した。しし踊り」(日本語大辞典・講談社)と説明されています。余談ですが、ネット検索してみると、京都・八坂神社の節分祭で祇園獅子舞が奉納され、京都の中堂寺六斎会では、演目に「獅子舞い」を演じられています。(資料2,3)さらに、京都市伏見区にある御香宮神社の「神幸祭」には、巨大獅子舞「獅々若」の巡行が行われるようです。(資料4)それでは、正面から見える範囲で神輿を細見することにいたします。まずは、「南」の神輿から: 正面と南側面 神輿の四隅には、隅木から風鈴(風鐸)が吊されています。 神輿正面の朱塗りの鳥居。神輿の四面それぞれに鳥居が設けてあります。 鳥居には「正一位柳大明神」の扁額が掲げてあります。前回にご紹介した神社案内の掲示によりますと、「永禄12年(1569)正一位宣叙」とあります。(案内文より)明治9年に現在地に移転する以前、つまり、柳山の社殿があり、柳大明神と称された時代にこの神輿が造立されたことがわかります。額縁には、菊と葵の文様が装飾されています。 鳥居の柱の上部、島木の下には雲形文様、その下に、右の柱に昇龍、左の柱に降龍の浮き彫り金具が装飾されています。御堂には瓔珞が飾ってあります。 神輿の正面、屋根の下、虹梁の上に人物像が彫刻されています。随身像でしょうか、不詳です。 台輪中央の台輪紋には菊紋が付けられその周囲を桐文が装飾しています。台輪隅金物は鋲打ち金具で質実剛健、黒塗りです。 正面と北側面 神輿の屋根の頂点に据えられた大鳥(鳳凰) 棒先金具この金具の紋は何と称するのでしょうか?「北」の神輿に移ります。 神輿の基本スタイルは、双方同じです。 南側面 北東側から 正面の鳥居、右側の柱には、鳳凰の浮き彫り金具で装飾されています。片方だけ撮りました。 また、神輿・北面の鳥居の柱には虎の浮き彫り金具が装飾されています。神輿の屋根の四隅の蕨手(ワラアビテ)には小鳥が乗っています。 北西隅 南西隅 北東隅 南東隅対比して眺めますと、南の神輿の蕨手には小鳥がとまっていません。細見すると、いくつも違いがあることに気づきます。全く同じものは作らない、違いを盛り込むということが文化の根っ子にあるように感じます。 北東の隅木に吊された風鈴(風鐸) 棒先金具南の神輿とは文様が異なります。こちらは菊紋です。飾紐のかけ方は、南・北の神輿ともに同じスタイルです。この大神輿が作られた時期は正確にはわからないようです。神社の記録には、室町時代の末期に神輿が作られたとの記録があると言います。それに該当する神輿かもしれない・・・・という推測にとどまるとか。現時点では文化財の指定はないそうです。(資料1)想像するロマンは残されています。大神輿の公開は今後の連休にも予定されていると報じられています。6月1~5日、7月13~15日、8月10~12日、9月14~16日です。11月4日も追加されるとか。 参道を石鳥居に歩むと、こんな景色を眺めることに!木々の枝々が重なりあい、太陽の位置、光との関係から円環の中を抜け出るような様相です。「夏越しの祓え」として行われる「茅の輪」くぐりを連想してしまいました。 これで、大神輿のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 朝日新聞社報道記事(2024.5.4) 京アニ作品の「聖地」宇治・許波多神社 2. 祇園獅子舞・祇園太鼓 八坂神社 節分祭 2024-02-03T14:00 YouTube3. [獅子舞い] :「京都 中堂寺六斎会」4. 京都伏見の獅子舞について :「獅子宿燻亭8」補遺神輿 :ウィキペディア各部の名称をご紹介 :「中台製作所」神輿の部分名称 :「宮本卯之助商店」神輿の部位の名称と解説。お祭り好きなら知っておくべき神輿の部品たち。 :「おらがまち」[本殿国宝奉祝奉納行事]八坂神社22.11.20祇園獅子舞奉納記録映像4K YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市五ヶ庄 許波多神社再訪 -1 境内と大神輿 へ
2024.05.07
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宇治川に架かる隠元橋付近は萬福寺を開山した隠元禅師の渡岸地です。この隠元橋から萬福寺に向かう道沿い、徒歩数分のところに、許波多神社があります。所在地は宇治市五ヶ庄古川です。5月4日(土)の朝日新聞朝刊の25面「京都」(地方版)に載った記事が目に止まり、昨日(5/5)久々に再訪してきました。「京アニ作品の『聖地』宇治・許波多神社」と題したけっこう大きな記事が目に止まったのです。この五ヶ庄古川にある許波多神社は以前に地元探訪の一環で訪れていました。しかし、その探訪の折には、大神輿のあることも知りませんでしたし、見ることもなかったのです。この報道記事で、大型連休にも神輿を追加披露するという対応を神社側がとられることにされたという報道でした。ということで、拝見していなかった大神輿を拝見に行きました。併せて、対応公開された神輿を眺めてきました。報道記事の見出しは、アニメファン向けの表現です。 響け! ファンへの「神」対応 登場した大神輿 公開日追加に歓喜の声という見出しが上掲見出しに併せて記されています。私は知らなかったのですが、京都アニメーション制作の「響け! ユーフォニアム3」という現在NHK・Eテレで放映されている作品にこの許波多神社と大神輿が出ているそうです。 参道入口に設置の「許波多神社略記」を載せておきます。 屋形石灯籠参道の両側に、このスタイルの石灯籠が奉納されています。 その先に、石鳥居があり、「許波多神社」の扁額が掲げてあります。 参道の奥には、朱塗りの鳥居が見え、参道両側には奉納された幾基かの石灯籠。 朱塗りの鳥居の手前左(西)側に、手水舎が見えます。 手水鉢へは龍像の口から水が注がれています。 手水舎の覆屋の傍に駒札「橋桁復元」が設置されています。「左右の石は旧鎮座地(現・宇治市黄檗運動公園)の宮川に架かっていた橋桁」を復元したものと記されています。 朱塗りの鳥居の手前に狛犬石像が奉献されています。台座の記銘からは何時頃のものか判読できませんでした。 鳥居をくぐると、参道の前方に「割拝殿」が設けてあります。参道の右(東)側方向に社務所があり、参道脇に 木柵囲いの中に「柳大明神」と記された襷を首に掛けた「神馬(シンメ)」が設置されています。「神馬とは神様がお乗りになる馬のことです。 許波多神社が創建された飛鳥時代のような昔には、神様に祈願する際、願い事が成就するように、馬を神馬として奉納されることがありました。許波多神社においても、昔には、神馬が奉納され、祭礼が行なわれたと考えられています。 江戸時代以前、柳山(現在の宇治市黄檗公園)に鎮座していた頃は、社前から西の大池(巨椋池)に逹する東西一直線の馬場道があり、北部・南部に分かれた氏子地域によって、祭礼が執り行なわれていたという伝承が残されています。 社宝として現存する二つの鞍と鐙(アブミ)は、二頭の神馬が馬場道を荘厳に駆けていた様子を想起させます」(駒札転記) 割拝殿は唐破風の屋根になっていて、唐破風の頂点部の鬼板を眺めると、「柳」という文字が陽刻されています。柳大明神の柳なのでしょう。 割拝殿の中央部は本殿への参道になっています。参道から見上げると、唐破風屋根を支える蟇股等はシンプルな形です。 参道の左(西)側の拝殿部分に、今回のハイライト、「大神輿」が2基公開されていました。大神輿の細見は次回にまとめます。 割拝殿を通り抜けた先には、本殿手前に拝所とその左右に本殿を囲む朱塗りの瑞垣が見えます。 拝所の手前はこんな感じです。 左側に回り込んで見ましたが、側面からも本殿は殆ど見えません。主祭神は、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサヤアカツカツハヤヒアメノオシホミミノミコト)で、 天津日子彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホニニギノモコト) 神日本磐余彦尊 諡 神武天王 (カンヤマトイワレヒコノミコト) を併せて三座が祭神です。 割拝殿の右(東)側には、当社の案内として、詳しい案内文が掲示されています。詳細は神社にご参拝いただき、お読みいただくとして、次の事項を要約します。*創建 孝徳天皇大化元年(645)、山背国莵道郡許畑、柳山に神殿を造営*創建当時、許波多神社あるいは木幡神社と号した。柳山鎮座の故に、後に柳大明神と称され、それが正式社号になっていった。*明治9年現在地に移転後、元の名称に復称した。*移転の理由は、明治8年、陸軍火薬庫建設のために、社地全域が社地全域が無償上地となった。つまり政府に接収された。*現在地は御旅所だった。ここに移転させられた。 この古地図も掲示されています。大神輿の公開は今後の大型連休にも予定されていると報じられています。6月1~5日、7月13~15日、8月10~12日、9月14~16日です。11月4日も追加されるとか。次回は、大神輿の細見をいたします。つづく補遺許波多神社 :ウィキペディア許波多神社[宇治観光] :「京阪宇治線 おけいはん」割拝殿 :「大阪文化財ナビ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市五ヶ庄 許波多神社再訪 -2 大神輿の細見 へ
2024.05.06
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京都国立博物館で特別展「雪舟伝説」を鑑賞した後、普段ならJR奈良線の東福寺駅に戻るのですが、大型書店に立ち寄るために、JR京都駅に向かうことにしました。七条通を西に歩むのは久しぶりです。そこで、「七条大橋」を西に渡った後、「松明殿稲荷神社」に立ち寄ってみました。この2箇所はかなり以前にブログ記事を載せています。詳細はそちらに触れていますので、ここでは簡略なご紹介にとどめ、覚書を兼ねたいと思います。冒頭の左の写真は、鴨川の下流方向です。南には塩小路橋、その先にJR琵琶湖線と東海道新幹線の鉄橋を遠望できます。鴨川左岸沿いの川端通は塩小路橋の地点を南端とし、鴨川の左岸堤防上は塩小路橋の地点を北端に「師団街道」が始まります。 七条大橋東詰に駒札が立てられています。 左の写真は鴨川の上流方向の景色。南側の歩道から摂りました。七条大橋から上流には、正面橋、五条大橋、松原橋、団栗橋、四条大橋が順次架かっています。正面橋を東に進めば、突き当たりは豊国神社。かつては突き当たりが「方広寺・大仏殿」であり、この橋は正面の通りに架かる橋ということになります。豊臣秀吉が平安の都に都市大改造計画を実施したとき、五条通を新たに設けて、五条橋を架けました。かつての五条通を松原通に変更しました。そのため、牛若丸と弁慶が五条橋の上で闘うという場面に登場する橋は、松原橋と呼ばれるようになりました。現在、牛若丸と弁慶のモニュメントは現在の五条大橋の傍に設置されてはいますが・・・・。五条大橋の名前に引き寄せられた結果でしょう。右の写真は、橋上の南側歩道で振り返り、東方向を眺めた景色です。 七条大橋の西詰、鴨川の右岸に「松明殿稲荷神社」があります。 七条通の南側歩道沿いに、石鳥居と石柵が設けてありますがここでは省略します。どちらの鳥居にも、「松明殿稲荷神社」と記す扁額が掲げてあります。江戸時代に出版されたいわば観光ガイドブックである『都名所図会』は「炬火殿(タイマツデン)」という見出し項目でこの神社を説明しています。(資料1) 石鳥居をくぐると、すぐ右側に地蔵堂と手水舎が見えます。右端に石柵が少し写っています。 お地蔵さまは楽しそうなお顔に描かれています。 神社境内に地蔵堂が融和しています。 「手洗水」と刻された手洗、その右には石井戸が見えます。手洗の傍に水道の蛇口がありますが、かつては右側の円筒形の石井戸から水を汲み上げて手洗水にしたのでしょう。手洗の斜め左前方に駒札が設置してあり、宝暦2年(1752)夏、石井戸と手洗が木食正禅養阿上人により寄贈された旨が記されています。石井戸の正面には太字で「養阿水」と陰刻されています。養阿は江戸時代中期の木食僧で、高野山で木食行を志した後、下山し、七条の梅香庵を住まいとして念仏聖の活動に専念したそうです。京都周辺を勧進しつつ、阿弥陀如来像の造立、多くの土木工事、五条坂の地に安祥院を復興するなど、様々な活動を実践しました。寛保1(1741)年に法橋上人位を授与されたと言います。(資料2) 手水舎の南側には、覆屋が設けられた「天満宮」が祀ってあります。角柱の石灯籠の正面に「天満宮」と刻されています。小社の屋根の形はあまり見かけないスタイルです。流造の変形でしょうか。 松明殿稲荷神社は、伏見稲荷大社の境外末社で田中社とも言われます。天暦2年(948)に創始され、天暦10年(956)、勅により燎祭(リョウサイ)が行われ、その時に「炬火殿}の号を賜ったそうです。(資料3)燎祭とは、「柴をやいて天地山川を祭る」(『普及版字通』)ことを意味します。『都名所図会』には「稲荷の祭礼の日、神輿臨幸の時、七条河原に於いて松明を照し神輿を迎ふるなり」とあります。(資料1)炬火殿がいずれかの時点で松明殿と称されることになったのでしょう。当初は黒門通塩小路下るにあったそうですが、その後幾度かの移転を経て、宝永8年(1711)に現在地に移ったとされています。 祭神は、倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)をはじめ、大己貴命(オオナムチノミコト)、伊弉諾命(イザナギノミコト)、伊弉冊命(イザナミノミコト)、猿田彦命(サルタヒコノミコト)が祀られいるそうです。このほか現在、天智天皇像(木像)、大友皇子像(木像)を安置するとか。(資料3) 東側面に回ってみました。本殿は切妻造の瓦葺き。本殿を瑞垣が囲んでいます。拝殿の側面に連子窓が設けてあります。 向拝の柱の木鼻が目に止まりました。全体が朱塗りの中で、木鼻の獅子像だけがブロンズのような色合いです。これがワンポイントの押さえになっているように感じました。ここの地名は「稲荷町」です。余談ですが、ふと思って確認してみると、伏見稲荷大社の所在地は「深草藪之内町」です。地名の付け方って興味深い。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫2. 養阿 :「コトバンク」3. 松明殿稲荷神社 :「京都観光Navi」補遺七条大橋 :ウィキペディア松明殿稲荷神社 :「コトバンク」燎祭 :「コトバンク」木食養阿 :ウィキペディア安祥院 :「コトバンク」安祥院(京都) :ウィキペディア木食正禅上人と阿弥陀如来露仏 - 境内霊譚奇談集Ⅸ :「苦沙彌のINTERNET 僧坊」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 -10 京都 七条大橋 2020.09.03 掲載スポット探訪 京都・下京 松明殿稲荷神社 2019.11.22 掲載
2024.05.02
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3/27に車折神社を探訪したときに境内のこの桜が満開でした。桜の木の傍に駒札が建てられていて、「渓仙桜」と記されています。献木された人(冨田渓仙・宮下武一郎・長岡喜十郎)の名前に由来する名称のようです。冨田渓仙は日本画家。富岡鉄斎の日本美術院の同人で、鉄斎に私淑したそうです。鉄斎については既に触れていますが、明治21~26年に車折神社の宮司を勤めています。近代日本画の巨匠の一人です。(資料1) この渓仙桜は、社務所の南、大鳥居の西の位置に咲き誇っていました。今も咲き続けているでしょうか・・・・。 渓仙桜の南側にこの建物があります。 建物の正面に行ってみて、何が展示されているかわかりました。左側に「三船祭」の案内説明が掲示されています。Ah!ソウカ・・・です。嵐山・大堰川での「三船祭」を若い頃に一度だけ見物したことがあります。フィルム・カメラで撮った頃だったのか、デジカメの記録写真ファイルには見つけることができませんでした。当時はこの三船祭をどこが主催しているのか全く意識していなかったことを再認識しました。「昭和御大典を記念して、昭和3年より始められた。 毎年5月第3日曜日に、嵐山の大堰川において、御座船・龍頭船・鷁首船が 平安時代の船遊びを再現する」(説明文転記)昭和御大典とは昭和天皇の即位の大礼のことです。この時の中心儀式である即位礼は昭和3年(1928)11月10日、京都御所で行われました。(資料2) 龍頭 龍頭船の船首に設置されます。 鷁首 鷁首船の船首に設置されます。余談です。 これは、2023.5.24に「風俗博物館」(京都市下京区)の企画展を鑑賞した時に、具現化されていた龍頭船・鷁首船を撮りました。これは船が舞台の形式になっています。 2023.7.17の祇園祭・前祭の山鉾巡行の時に撮った船鉾。鷁が船首を飾っています。三船祭は一に船遊祭とも称されます。宇多上皇が大堰川に舟を浮かべ、詩歌管弦の遊びをされたという故事に因んで創始されたとか。「当日は午後二時から、嵐山渡月橋上の大堰川に御座船以下約30隻が参列し、詩歌・管弦・舞楽の奉納と流扇の神事が約2時間にわたって行われる」(資料3)祭りです。渓仙桜から社務所前を通り過ぎ、境内北側の裏参道に沿った境内社を巡ります。 裏参道の右側に2つの境内社に分岐する参道があります。 「神明神社」参道に近くて側面が見えるのがこの神明神社。祭神は天照大御神。切妻造・平入りで、神明造の形式の小社です。参道の奥に正面が見える境内社は、 「天満天神社(ソラミツアマツカミノヤシロ)」祭神は天満大神。雷除け、農業、園芸の守護神だそうです。 拝所 少し先、参道右側の拝所の傍に「滄海(ソウカイ)神社(弁天神社)」の駒札が立っています。 拝所から先に参道が延び、築地塀で仕切られた先に朱塗りの鳥居と小社が見えます。本殿は春日造の形式です。祭神は、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。文明5年(473)、室町時代の創祠だそうです。「車折神社近隣の寺院(天龍寺の末寺で、室町時代創建)の鎮守神が、廃寺の際、当社に移管された神社である。本来の祭神である、弁才天はインド神話の神で、仏教に取り入れられ『諸天』の一神とされ、智恵・長寿・財宝の神として信仰された。 日本に伝わると七福神の一神とされ、専ら福徳財宝の神として信仰されてきた。 明治時代の宗教政策に副い、日本神話の一神、市杵島姫が祭神とされ、今日に至っている。 因みに、『滄海』とは大海原の意で、渡来した『水の女神・弁才天』を象徴したものである」(案内文転記)駒札によると、社殿は改築され平成19年(2007)12月24日に竣工。大阪市の青井勇氏寄進と記されています。おもしろいのは、右となりに大きな案内板があり、そこには「弁天神社(滄海神社)」と題し、「弁天様(市杵島姫命)を祀る神社。・・・・・」と説明されていることです。弁才天(弁財天)の方が一般的によく知られているからでしょうか。 北門に一番近い所に「地主(ジヌシ)神社」があります。祭神は第52代嵯峨天皇。かつてこの付近に柳鶯寺があり、嵯峨天皇は行幸の折にこの寺で休まれたとか。その縁でこの寺に天皇が祀られたのですが、寺が廃寺となったときに車折神社境内に移されて、地主神社として祀られたと言います。なお、現在の神社は1961年に復興されたとか。(資料4,5)ここの石鳥居は明神鳥居の形式です。拝殿・本殿を拝見し、境内の境内社を一巡しつつ、案内の説明文を読み歩いて、「祈願」のテーマパークという印象を抱きました。「学業成就・試験合格」「約束を違えないこと」「人脈拡大」「金運・財運」「金脈拡大」「芸能・芸術の才」「昇運、運気」「良縁」「才色兼備」「金満美麗」等と、人々が祈願したいテーマに応じてくださる神々が、この神社に一堂に会されている。そんな雰囲気・・・・・です。 北門になる石鳥居から出て、JR嵯峨嵐山駅に戻りました。ここに立つ社号標の文字は富岡鉄斎の筆によるものと言います。(資料1)これで車折神社のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 境内案内 :「車折神社」2. 昭和天皇の即位御大典 :「名古屋市博物館」3.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂4. 車折神社(京都市右京区) :「京都風光」5. 車折神社(くるまざきじんじゃ)(Kurumazaki Jinjya) :「京都通百科事典」補遺車折神社 ホームページ昭和3(1928)年の御大典の際、京都観光が流行ったと思われるが、その頃の状況や、観光ガイドを見たい。 :「レファレンス協同データベース」冨田溪仙 :ウィキペディア三船祭 船頭だより :「京都・亀岡 保津川下り」[三船祭]水上雅楽に胡蝶の舞、平安貴族の優雅な御船遊び :「まいまい京都」5月の嵯峨嵐山の風物詩~嵯峨祭・三船祭~ :「HOTEL BINARIO」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -1 まずは神社の社殿へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -2 境内南側の境内社巡り へ
2024.04.06
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前回ご紹介したこの石鳥居、大鳥居と称するそうです。ここを起点にして、まずはこの大鳥居より南側の境内地を巡ってみます。 大鳥居の南東方向にある「芸能神社」という社号標がまず目を引きます。こんな神社名は初めてです。 石鳥居の南側に駒札が立っています。 この芸能神社は「天宇受売命(アメノウズメノミコト)を芸能・芸術の祖神として祀る」つまり、祭神はアメノウズメです。アメノウズメは『古事記』神代篇基の二に出て来ます。アマテラスがスサノヲの行為に怒って、天の岩屋の戸を開き中に入るとしっかり戸を閉ざして籠もってしまいます。途端に外は闇の世界に!神々は困惑し、相談します。オモヒカネという賢い神がある策略を立てました。「常世の長鳴き鳥を集めて鳴かせたのじゃ。夜は明けたというわけじゃのう」その上で、諸準備をし、装身具と衣装をまとったアメノウズメに神懸かりを演じさせるのです。「天の岩屋の戸の前に桶を伏せて置いての、その上に立っての、足踏みして音を響かせながら神懸かりしての、二つの乳房を掻き出しての、解いた裳の緒を、秀処(ホト)のあたりまで押し垂らしたのじゃ」「すると、ほのかな庭火に浮かぶウズメの踊りを見ておった八百万の神がみは喜んでの、闇におおわれた高天の原もどよめくばかりの大声に包まれて、神がみは皆、ウズメの踊りに酔いしれてしもうたのじゃった」外のさわぎを聞きつけたアマテラスはあやしいことじゃと思い。戸を細めに開けて、内から声をかけ、少し戸のうちから歩み出てしまいます。「戸のわきに隠れておったアメノタヂカラヲが、そのアマテラスの御手をさっと握って外に引き出したかと思う間もなく、フトダマが、アマテラスの後ろに尻くめ縄(注:しめ縄のこと)を張り渡しての、『ここから内にはお帰りになれませんぞ』と申し上げたのじゃった」 (資料1)ということで、外界には再び明るい光が戻ってくるということになったとか。ここから、アメノウズメが芸能・芸術の祖神になるということでしょう。 朱の玉垣には、様々な名前が記されています、玉垣はプロフェッショナル・アマチュアを問わず、芸能・芸術・技芸の全ジャンルにわたる人々が奉納可能だそうです。 南隣りの石鳥居をくぐると、芸能神社の周囲を巡る玉垣とその続きが見えます。興味のある方は、様々な芸能人、芸術家、家元などの名前を見つけることができることでしょう。ドンドン増えたら・・・・掲載期間は申し込みより2年間と決めてあるとか。ナルホド!(資料2) 拝所からの眺め 拝殿の奥に本殿が見えます。 拝殿の正面には、おもしろい表情の面が奉納されています。この境内の周囲を巡ることができるようなので巡ってみました。 本殿の南側 本殿の北側 左右の脇障子本殿そのものは比較的シンプルな建物です。 芸能神社の南側に石鳥居があります。ここは駐車場と表参道を結ぶ出入口です。 石鳥居の南側に、木製鳥居に「大黒天」の扁額を掲げた「大国主神社」があります。祭神は大国主神。 大国主神社の南側は、稲荷鳥居に「稲荷社」の扁額を掲げた「辰巳稲荷神社」です。祭神は宇迦之御魂神。 表参道の自動車出入口に近いところに「愛宕社」の扁額を掲げた「愛宕神社」があります。ここでは案内板の掲示を見かけませんでした。後で、当社のホームページを参照しますと、この境内社のさらに南に社号柱(社号標)があるのですが、そこまでは表参道を下りませんでした。ここでUターンして、表参道の西側を巡ります。 まず、鳥居に「昇龍」の扁額を掲げた「水神社(龍神様)」があります。 祭神は罔象女神(ミズハノメノカミ)と案内板に記されています。「昔、大堰川がこの近くまで流れていた頃、氾濫を鎮める為に水神様(龍神様)に祈願していたことに由来する神社です」(案内板より) 社の屋根の上に龍が!!! 今年は辰年。ここで龍と出会うことができました。 芸能神社から参道をはさみ西側辺りに、「清少納言社」があります。車折神社の祭神は清原頼業。清少納言は清原氏の同族になります。清少納言の父親が清原元輔ということは前回触れています。一条天皇の中宮定子に仕えた才女で、『枕草子』の著者として有名なのはご存知の通りです。この小社、清少納言にあやかろうという主旨のようです。 大鳥居から南西方向、清少納言社の多分北西側だったと思います。鹿島鳥居形式の木製鳥居に「葵忠社(キチュウシャ)」の扁額が掲げた「葵忠社」があります。福田理兵衛を祀るそうです。福田理兵衛は嵯峨の材木問屋の長男として生まれ、下嵯峨の庄屋、総年寄、村吏として勤め、明治維新の時に、勤王家として活動した人だそうです。家産を傾けてまで長州藩の勤王倒幕運動を支援したと言います。(資料3,4)当神社のホームページの境内案内図には記載されていません。社号標等、見落としがありますが、境内南側のご紹介はこれで終わります。つづく参照資料1.『口語訳 古事記 完全版』 訳・註釈 三浦佑之 文藝春秋 p43-462. 境内案内 :「車折神社」3. 車折神社(くるまざきじんじゃ)(Kurumazaki Jinjya) :「京都通百科事典」4. 福田理兵衛 :ウィキペディア補遺車折神社 ホームページアメノウズメ :ウィキペディア大国主神 :「コトバンク」大黒天 :「コトバンク」ミツハモメ<罔象女神> :「名古屋神社ガイド」車折神社(京都市右京区) :「京都風光」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -1 まずは神社の社殿へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -3 渓仙桜・三船祭・境内北側の境内社巡り へ
2024.04.05
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嵐山公園亀山地区を探訪した後、JR嵯峨嵐山駅に戻りました。ふと「車折神社」は未訪だったことを思い出し、立ち寄ってみることにしました。嵯峨嵐山駅南口を起点にしますと、南への道路を200mほど下れば、JR線とほぼ平行に走る京福電鉄嵐山本線の嵐電嵯峨駅があります。この駅から東方向へ2駅目が「車折神社」です。駅のすぐ南側に車折神社があります。天龍寺の近くにある嵐電の「嵐山」駅からだと嵐電嵯峨、鹿王院、車折神社と3つ目の駅になります。嵯峨嵐山駅南口からだと、南への道路を下り最初の辻を東方向(左折)に進めば、徒歩900m程の距離です。運動不足の解消を兼ねウォーキングで探訪してきました。 嵐電・車折神社駅のすぐ前にこの石鳥居が見えます。地図で確認しますと、神社は線路の南側道路とさらに南の三条通(府道112号)との間に境内地が位置します。三条通には京阪バス「車折神社前」のバス停があります。石鳥居には「開運招福」の扁額が掲げてあります。この石鳥居、探訪してわかったのですが、この神社の拝殿・本殿などの社殿からみると、北側の背後に位置していて、北門にあたります。本殿は南面しています。まとめとしては、まずは神社の中核である社殿とその周辺からご紹介します。 参道の先にある仕切り塀 参道の右側に、「清めの社」と刻した石標の立てられた小社があります。この鳥居の右側に、「お勧めの参拝手順」として写真入りのパネルが掲示してあります。 少し先に「手水舎」があります。願い事・悩み事のある人は、「手水舎」で、手と口を清め(すすぎ)その後で、「清めの社」を参拝して、悪い運気・因縁を浄化し、心身を清めるという手順だそうです。 手水舎の近くに、東面する石鳥居があり社殿のある境内地への出入口になっています。 神社のご案内石鳥居の傍にこの案内板が設置されています。 手水舎前の参道をはさみ、東側には「社務所」上掲の案内説明文と手許の資料により、当社についてです。「車折」は「くるまざき」と読みます。それはなぜか?上掲案内には「後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌(ミギリ)、この社前において牛車の轅(ナガエ)が折れたので、『車折大明神』の御神号を賜り、『正一位』を贈られます。これ以降、当社を『車折神社』と称することになりました」と記されています。江戸時代に出版された観光ガイドブックともいうべき『都名所図会』には、「車折社 は下嵯峨材木町にあり」と記し、「むかしこの所を車に乗りて行くものあり、忽ち牛倒れ車を折(サ)きしとぞ」と簡略に説明しています。(資料1)現在の所在地表記は、京都市右京区嵯峨朝日町です。 手水舎の南側に石柵で囲われた岩石があります。「車前石」です。上記由緒にある通り、この社の手前にあるこの石の前を通りかかったときに、牛車を引く牛が倒れて、車の轅が折れたという伝承です。石鳥居をくぐり抜け、本殿のある境内に入ります。 拝殿に向かって東側、石鳥居から眺めた回廊部分です。 拝殿手前の拝所 拝殿 奥に本殿が見えます。祭神は、平安時代後期の儒学者明経(ミョウギョウ)博士、清原賴業(キヨハラヨリナリ)です。天武天皇の皇子舎人親王の子孫であり、清原夏野の後裔。平安時代末期1189(文治5)年4月14日に逝去。大外記の職を24年間もつとめ、晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかったそうです。現在の社地は、もとは清原家の領地であり、ここを頼業の墳墓地とし廟が設けられたそうです。清原一族には、三十六歌仙の一人である清原元輔がいます。元輔の娘が清少納言です。後嵯峨天皇(1242-1246)は後嵯峨上皇(1246-1572)となり院政を行った鎌倉時代の天皇。想像するに、当時は小さな祠が祀ってあることすら知られていない状況だったということなのでしょう。墳墓地が車折神社になったということのようです。(由緒、資料2) 拝殿前の格子天井には、花卉図が描かれています。拝殿の両側に出入口があり、本殿とその背後を巡ることができました。 拝殿の右側の出入口から反時計回りに巡ってみました。左手前が拝殿。 本殿手前の通路脇に狛犬像が置かれています。北門の傍の狛犬と同種の石彫像です。 本殿の東側 本殿の北東角から振り返った景色 本殿の背後には「八百万神社」が祀ってあります。八百万神社という社名は始めて見た気がします。あらあゆる神々を祀るとは気宇壮大です。案内板に興味深い文がありました。「八百万の神々の広大な繋がり(ネットワーク)にあやかり、『人脈拡大』の御利益を授かりましょう」。 本殿の西側にも対となる狛犬像が置かれています。 境内西側には、回廊が伸びています。 吊灯籠 「祈念神石」本殿・拝殿の手前、拝所として祈願する場所の南側に「神石」が盛られています。傍に祈念の仕方の説明板が設置されています。江戸時代には、『都名所図会』にて、次のような一文で、流布されていたようです、「今は遠近の商家売買の価(アタイ)の約を違変なきやうこの社に祈り、小石をとりかへり、家にをさめ、満願のとき件(クダン)の石に倍してこの所に返す」 (資料1)祈念が成就したら、石の倍返し! 倍返しの発想は江戸時代に既にあったんですね。おもしろい。江戸時代も、祈念神石の扱いは社務所を介して行っていたのでしょうか。その点をこの図会は明記していません。余談です。『都名所図会』には、案内文の冒頭に、「五道冥官降臨の地なりとぞ」という一文が記されています。案内文の末尾には、「五道冥官焔魔王宮の庁」という語句も出てきます。清原頼業が死後に冥官になったとされる伝承があったようです。この一文から小野篁を連想してしまいました。五道というのは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)から修羅を除いた五道です。(資料1)手許の本に「一説に当社は五道冥官社と称し、閻魔王宮の官人が来臨するところ故、商売の取引きに違約なきことを祈誓したのによるとも伝える」と記しています。(資料2)調べてみますと、『山州名跡志』が五道冥官社の名称で当神社を載せています。(資料3,4)富岡鉄斎は、若い頃、車折神社の社司をつとめたことがあり、頼業の業績を顕彰するための「車折神社碑」を明治42年(1909)に建立したとか。(私の思いつきでの探訪では現地未確認)鉄斎は碑文に、「頼業が死後冥官といわれることを不審とし、また後嵯峨天皇御召の車の轅が毀損したのは、祭神の怒りによる旨を記している」と言います。(資料2)再訪する機会があれば碑文を確認してみたいものです。 拝殿前から正面参道方向(南)を眺めた景色神社の裏手から入ってきましたので、社殿の正面側を探訪してみました。参道を南に進み回り込むと、 社殿正面にはこの石鳥居が立ち、社殿側に高さの低い朱塗りの垣と門扉が設けてあります。石鳥居の下には、立入禁止を示す棒が参道を横切る形で設置されています。特定の行事のとき以外の普段は閉じられているようです。 ズームアップしたこの景色の右側に見える石鳥居が普段の出入口。上掲した石鳥居です。 こちら側の狛犬は、北門の石鳥居傍の狛犬とはスタイルが異なり、かなり昔に奉納された狛犬像のようです。 正面の参道を南下すると、この木造鳥居が正面にあります。台輪はありませんが、稚児柱を設けた両部鳥居の形式のようです。このまま南に進むと、三条通に出ます。次回は境内地の社務所より南にある境内社を巡りましょう。つづく参照資料1.『都名所図会 上』 竹村俊則校注 角川文庫 p4342.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p227-2313. 車折神社 日本歴史地名大系 :「コトバンク」4.『山州名跡志 自小倉山 至大江城 九』 pdfファイル20コマ目補遺車折神社 ホームページ清原頼業 :ウィキペディア富岡鉄斎 :ウィキペディア五道 :「コトバンク」五道の冥官 :「コトバンク」山州名跡志. 巻之1-22 / 白慧 撰 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -2 境内南側の境内社巡り へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -3 渓仙桜・三船祭・境内北側の境内社巡り へ
2024.04.04
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嵯峨天龍寺にある福田美術館での展覧会を鑑賞した後、ここまで来ているので、嵐山公園の亀山地区を散策し探訪してみることにしました。(2024.3.27 探訪)大堰川沿いの道路を上流方向に進みます。 嵐山吉兆の門の傍の桜が満開でした。この近くから、川岸沿いの道路側に移り上流方向に進みます。結構な数の観光客がこの辺りの川沿いにもいました。 この道路は「東海道自然歩道」の一部に組み込まれているようです。またその手前には、右の石標が立っています。法輪寺は渡月橋を南に渡った先にあるお寺です。京都では「十三詣り」で良く知られたお寺です。拙ブログでも既にご紹介しています。渡月橋は承和年間(834-848)に法輪寺の僧道昌により架橋されたのが始まりと伝承されています。往時は現在の渡月橋よりも100mほど上流側に位置していて、初めは法輪寺橋と称されていたそうです。夢窓国師が天龍寺付近の名勝地を「亀山十境」と題して漢詩を詠んだ中に渡月橋の名が出てくるのが初見と言われています。(資料1) 少し先で、「戸無瀬(トナセ)の滝」と刻した石標が目に止まりました。その裏面には、左側の案内説明板が取り付けてあります。 対岸の景色。右寄りの白い筋のみえるところが戸無瀬の滝。落差約85mの三段で落水する滝です。景勝地嵐山を象徴する名勝になっていました。歌川広重筆「六十余州名所図会 山城 あらし山」にも、嵐山の中腹にこの「戸無瀬の滝」が描かれています。また、鎌倉時代中期に藤原定家の息子の為家が歌を詠んでいます。 雲かかる山の高根の夕立に戸無瀬の滝の音まさるなり 藤原為家 室町時代の初期に、夢窓国師は上記「亀山十境」の詩において、この滝を「三級厳」と位置づけたそうです。現在、滝が見えにくいのは、明治に禁伐となり樹木が覆うようになったことによるとか。令和5年3月に最下部の伐採が行われたそうです。ごく最近ですね。(案内板より) 川沿いの道路をさらに進むと、観光客が減ってきます。先に見えたのがこの石標。公園の入口。 近くに「嵐山公園亀山地区案内図」が設置されていてます。(現在地は右下の赤三角印) この道標も設置されています。こちらの公園を経由して行ける観光スポットです。渡月橋を対岸に渡ると、中ノ島があります(嵯峨中ノ島町)。そこが嵐山公園で、こちらは公園の一部という位置づけのようです。余談ですが、手許の2003年5月発行本のマップには、亀山地区を亀山公園、中ノ島の方を嵐山東公園と明記しています。 公園に入って行きますと、この石標が目に止まりました。上面に「古今集と百人一首」と題する案内文が掲示されています。小倉百人一首と古今集の簡略な説明とその関係が記されています。百人一首には古今集から24首が撰ばれているとあり、その歌碑がこの公園に建立されているようです。歌碑の配置図が併載されています。 山道を登って行くと広々とした斜面に出ます。こんな東屋(休憩所)が中央に見えます。ここまで来ると、観光客はほとんどいません。わずかな人々とすれ違うだけです。東屋の周辺で、幾つかの歌碑が散在して建立されているのを見つけました。歌碑の近くには、歌碑案内の石標も設置されています。ここでは省略。 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 小倉百人一首第7番 安部仲麻呂 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるに 雲のいづこに 月やどるらむ 小倉百人一首第36番 清原深養父 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり 小倉百人一首第32番 春道列樹 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 小倉百人一首第33番 紀友則 「小倉百人一首文芸苑 屋外展示施設 案内図」という地図も設置されています。休憩所辺りを散策し、少し離れたところからこの広々とした公園を眺めてみました。パノラマ合成した景色です。もう少しして、桜が咲き誇ると景色が華やかになることでしょう。 この中腹の広々とした斜面の先に分岐点があり、さらに山道が続きます。「頂上展望まで160m」の道標をガイドに、左の山道を登ります。 頂上展望台広場 この展望台からは、対岸の嵐山、保津峡と保津川の全景が見渡せます。 眼下の保津川をズームアップ! 対岸の川沿いに建つ建物は、ネットの地図で確認しますと、「星のや京都」ほかの建物です。所在地は嵐山元録山町。 山の中腹にぽつんと見える建物は「大悲閣」です。その背後に「大悲閣千光寺」の建物群があります。こちらは、嵐山中尾下町です。この大悲閣も拙ブログで既にご紹介しています。展望台沿いの道をさらに進んでみますと、 「嵐山公園はここまでです」という掲示が設置されています。 その先は「小倉山」です。「小倉山山頂」への表示と「小倉山再生プロジェクト 景勝・小倉山を守る会」の」看板が設置されています。これを見て、「小倉池」周辺を探訪して小倉山を登ったときの記憶とリンクしました。こちらも拙ブログに記していたと思います。小倉山の東南部を占める丘陵がこの亀山地区なのです。これで探訪地がリンクしましたので、公園を引き返し、まずは休憩所まで下ることに。この公園の下側エリアを通り抜けたことがあります。その時見過ごしてしまった箇所があったのです。今回はその箇所を確実に訪れたかったのです。 立像の傍に「大正元年十月十」までは判読できる日付の刻された顕彰碑が建立されています。 訪れたかったのはここ! 「角倉了以翁銅像」上掲の石碑により1988年に再建されたことがわかります。なぜ、再建なのか。当初の銅像は戦時中に金属供出により撤去されたのです。 「角倉了以翁の業績」と題する顕彰碑が、角倉了以翁像碑保存会により、昭和63年(1988)5月28日に建立されています。 顕彰碑に記されていますが、角倉了以は、京都に直接関連する事業として 慶長11年(1606) 保津川大堰川の開削を完成 慶長16年(1611) 高瀬川の開削を完成という偉業を為し遂げました。大悲閣千光寺は、保津川を開削し船や筏が通ることの出来る舟運のための工事に協力した人々の菩提を弔うために角倉了以が創建したお寺です。観音の慈悲をたたえて大悲閣と号したと言います。(資料1)角倉了以像から比較的近い場所に、 この詩碑が建立されていることをこの探訪で初めて知りました。 「周恩来総理詩碑」です。1978年10月日中平和友好条約締結を記念し、1979年4月吉日に建立されています。嵐山公園亀山地区は、歴史と文化の一端を学べる公園にもなっていることを再認識しました。 大堰川沿いの道まで戻ってきました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂補遺嵐山と夢窓国師・夢窓疎石 :「京都 Kyoto」ブラタモリ・京都・嵐山(~嵐山はナゼ美しい!?~天龍寺十境) :「京都ヴォヤージュ(Kyotovoyage)京都・亀岡 保津川下り ホームページ 歴史角倉了以 :ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%80%89%E4%BA%86%E4%BB%A5高瀬川 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi22.html大悲閣千光寺 公式HPhttps://daihikaku.jp/周恩来 :ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・洛西 嵐山 法輪寺 -1 法輪寺への道すがらに 3回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・洛西 大悲閣 -1 大悲閣道(渡月小橋~大悲閣入口) 2回のシリーズでご紹介探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -1 天龍寺の境内(勅使門・中門・法堂ほか) 5回のシリーズでご紹介探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 12回のシリーズでご紹介 No.9で野宮神社、No.10で御髪神社・小倉山/小倉池、No.11で小倉百人一首文芸苑観照 京都・洛中 ふたたび高瀬川沿いに~四条から一之船入まで~
2024.04.02
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巨大な五輪塔の傍の道を進みます。 「大聖不動明王」と記された扁額を懸けた丹塗りの鳥居があります。ここが「杉山谷不動尊」の入口です。 石段道を上ります。 二ノ鳥居参道に、奉納された幟が林立しています。 参道の右側に、手水舎が見えてきました。その手前に数多くの石碑が建立されています。石碑群に近づき眺めると、左から源美大師、地蔵尊像、豊吉大明神、荒木大神、判読不可の石碑、稲玉大神、白米大神と判読できそうです。私は伏見の稲荷山山上にある御塚を連想しました。 「源美大師」碑の右隣りに安置された地蔵菩薩像 手水舎の左側には、小不動尊が祀ってあります。 参道の前方を眺めた景色後で調べてみると、この杉谷不動尊は「神應寺」の奥の院にあたるそうです。(資料1) 「厄除延命地蔵尊」の扁額を掲げた地蔵堂が参道の右側にあります。 少し開いていた格子戸前から眺めた地蔵菩薩立像です。 地蔵堂の近くに石造「不動明王立像」が祀ってあります。 その先に、朱塗りの手すりが見える分岐点があります。手すりの設置された道沿いに行けば神應寺に行けることがわかり、山を降りなくてもすむと、一安心。 この分岐点に地蔵菩薩像が祀ってあり、「南無地蔵菩薩」と墨書した提灯が吊されています。ここにはお地蔵さまが数多く集合されています。 隣には、小さな一石五輪塔が祀ってあります。 その先には、「神應寺稲荷 豊川拕柷尼真天」の幟が立つ稲荷社があります。 小社の前に、一対の狐像が置かれています。 もう一つこの覆屋があります。 近づいて拝見すると、石造「観音菩薩坐像」が安置されています。 「杉山谷不動堂」 ここは「奥の院」と呼ばれているそうです。拝所のところで堂内を拝見しましたが、撮影禁止でしたので、残念ながらこれ一枚です。本尊は不動明王(秘仏)です。脇侍として、善悪を掌る矜羯羅(コンガラ)、制多迦(セイタカ)の2童子が控えています。厄除け不動として、人々に信仰されているそうです。(資料1) 本堂に向かって左側の斜め奥に「観音堂」があります。十一面観世音菩薩が祀られています。お堂の回りに「南無十一面観世音菩薩」と記した幟が奉納されています。私は参道を上がってくる際に見落としたようなのですが、途中に、「ひきめの滝」と称される滝行場に至る分岐の道があるそうです。 参道を引き返し、朱塗りの手すりが設置された分岐点から神應寺への山道を辿ります。途中で谷間を跨ぐケーブルカーの軌道橋が見えます。 道はそのまま境内につながり、最初に「鐘楼」が目に止まりました。 境内の中央に、本堂に向かう参道があり、左右に建物が建ち並んでいます。 左側の建物の手前の角にも、豊川拕柷尼真天を祀る小社があります。 参道の右側には池があり、その傍の松の木が横に枝を伸ばしています。 参道の先には「本堂」が見えます。参道の手前に立入禁止を示す竹が参道を横切って置かれていました。こちらも残念ながら本堂には近寄れませんでした。本尊は薬師三尊仏。平安時代前期作と伝わる行教律師像、衣冠束帯姿の豊臣秀吉像も安置されているとか。(後掲の案内板説明より) 本堂の正面には、「大雄殿」と記された扁額が懸けてあります。デジカメのズームアップ機能で撮ってみました。 同様に、本堂右手の玄関口をズームアップで。本堂前の庭の様子が少しわかります。写真を撮っていた位置に近いところで、後で紀伊付いたのが、竹の柵で囲われたこの石です。「淀君茶室の庭石」という案内標識が立っていました。帰路は神應寺の表参道を降ります。 参道を降る途中にこの駒札が設置してあります。本来なら参道を上ってくる途中で見る駒札になります。 参道を降り終えたところで、表参道を振り返って撮った景色 神應寺の山門右の門柱には「絲杉山神應寺」の木札が懸けてあり、左の門柱には「道不可求可致」の偈が掲げてあります。「道は求むべからず、致すべし」と読み下すのでしょうか。 鬼瓦 留蓋 山門にむかって立ちますと、左側に神應寺の「由緒」が掲示されています。上掲の駒札と併せて、要点を箇条書きにまとめてみます。*八幡神を男山に勧請した行教律師が貞観2年(860)に応神天皇の位牌所として開創*法相・天台・真言の宗旨を経て、室町時代に曹洞宗に改宗*豊臣秀吉との関係が深かった。正室北政所が中興12世住職弓箴善彊に帰依*德川家康をはじめ歴代将軍から寺領が安堵されてきた*元禄3年(1700)多くの雲水が毎年修行する常法幢地の寺格を得、洛南有数の禅苑に*明治の神仏分離令の難を逃れ、行教像は明治6年に墓所のある本寺に移された*貴重な資料や文化財を多数伝承保存している 「曹洞宗 神應寺」の寺号石標が立っています。参拝としては逆コースを歩いてきたことになります。後は京阪電車の石清水八幡駅に引き返すことになります。 駅前の広場には、このモニュメントが設置されています。八幡の竹とエジソンの発明・白熱電球を象徴しているモニュメントです。全長6.35mの円形の塔です。夜になると明かりが灯るとのこと。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 杉山谷不動尊 :「八幡市観光協会」2) あれはなんだ!?京都・八幡市で目を引く3つの巨大モニュメント :「KYOTO SIDE」補遺杉山谷不動尊 :「枚方市」神應寺 :「八幡 STORY&FUIDE」神應寺(じんのうじ) :「八幡市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮周辺にて -1 相槌神社・泰勝寺・安居橋・五輪塔ほか へ
2024.01.09
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石清水八幡宮を昨年12月24日に探訪したご紹介は年末年始にかけてご紹介しました。裏参道を降りてきた後、ニノ鳥居(上掲の左)を通り抜け、表参道を再度上りました。上掲右の石段から下に降りてみる気になったのです。この石段道所から、お寺らしき大きな屋根が目に止まっていたからです。この石段道を降りれば、石清水八幡宮の周辺を探訪する起点にもなると思ったこともその一因です。 上掲の石段道を降りると、石垣の傍に「下馬」と刻された石碑と角柱の石標が立っています。石標の方は残念ながら刻字が判読できません。石清水八幡宮への石段道ですから、ここで馬から降りて、この後境内は徒歩にて進めということでしょう。 右の方に目を転じると、地蔵堂と神社が並んでいます。 地蔵堂の格子戸越しに拝見すると、ここのお地蔵さまもお顔に化粧が施されていました。京都市・宇治市と同様に、地蔵盆にい地蔵さまを浄めてから化粧するという風習があるということでしょう。隣の小さな神社は工事中のようでした。 石清水八幡宮への石段道とこの神社との位置関係が景色としておわかりいただけるでしょう。 ここは「相槌神社」。案内板が設置されています。 建物の右側には、「山ノ井戸」と刻した石標が立ち、この井戸があります。この井戸がこの神社の由来になるそうです。「山ノ井戸」は八幡五水の一つのようです。平安時代に活躍した有名な刀鍛冶、大原五郎太夫安綱が、山ノ井の水を使って刀を鍛造したとき、神がきて「相槌」をなしたために、ここに神社を建てて祀ったそうです。安綱が神と交互に作刀のために交互に槌を打ち合わせた「相槌」という名が付けられたとか。山ノ井は江戸時代に井筒などが整備されたそうです。江戸時代中期、1710年頃までは石清水八幡宮の管轄下にありましたが、その後は近隣住民が独自に修繕などを行い、神社との関わりが強くなったようです。(案内板より) 相槌神社前の道を東方向に進むと、 「松花堂 泰勝寺」の表札を掲げたお寺の山門が見えました。表参道から眼下に見えていたのはこのお寺です。 山門の左手前に「松花堂旧跡」と刻した石標が立っています。 山門の左の壁に案内板が掲示してあります。「天正18年松花堂昭乗は9才の時男山に入山滝本本坊の実乗に師事し阿闍梨となつた。特に書画茶道作庭に長じ、自らの草庵を松花堂と称した。小堀遠州、沢庵、石川丈山、林羅山等と親交があり、寛永の文化人として屈指の人物である。 当寺は昭乗の墓所を中心に建立俗に松花堂と呼ばれ境内の宝物館には昭乗、遠州、沢庵、光悦等の墨蹟を始め多くの寺宝が展示されている。又人々のえとの守り本尊八躰が泰安され難を転じ福を招くお守りが授与される。本堂前庭は各種南天を配し、三途の川を渡つて彼岸へ船出する石庭があり、茶席閑雲軒は日本百席の一つである。」(案内板転記) 山門の柵前から延べ段の先に唐門が見える境内を眺めるに留めました。参拝には寺務所にて予約が必要と上掲案内文の末尾に記されています。機会を見つけて、再訪したいと思いました。相槌神社前まで戻り、北方向に進みます。右(東)側には川が流れています。 この反り橋が見えてきます。 「安居(アンゴ)橋」という名の橋。 橋の北側にこの駒札が立っています。橋名の由来は諸説あるそうですが、駒札には2つ紹介されています。*鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名付けられたという説*かつてすぐ川下に「五位橋」があり、相対する仮の橋が造られ「相五位橋(アイコイバシ)」と呼ばれ、これが変化して「安居橋」となったとする説江戸時代初めの古絵図には、平橋が架けられている形で描かれていいるそうです。元禄7年(1694)には、「安居橋の月」が八幡八景の一つに選ばれました。慶応4年(1868)1月、橋は鳥羽伏見の橋で焼失。約150m川下にあった「高橋」という反り橋(太鼓橋)を偲ばせる形で、安居橋が再興されて現在に至るとか。 駒札の隣りにこの石碑「やわた放生の景」が建立されています。現在、ここが石清水八幡宮の「石清水祭(放生会)」の神事の舞台になっているそうです。 石清水きよき流れの 絶(タエ)せねは やとる月さへ くまなかりけり (石清水清き流れの絶えせねば宿る月さえ隈なかりけり)の歌碑もあります。調べてみますと、この能蓮法師の歌は、『千載和歌集』の「巻二十 神祇」1280 に採録されています。文治元年(1185)9月の石清水八幡宮での歌合せでの詠歌だそうです。(資料1) 川下を眺める 振り返った景色安居橋の所から、石清水八幡宮探訪の最初に訪れた頓宮殿の境内地を通り抜け、当初の起点まで戻りました。そして一ノ鳥居前から、境内地沿いに左(西)方向への道を歩いてみました。少し道沿いに進みますと、 竹垣と「神護寺」と刻した寺号標が見えます。 左方向に道を歩めば、左側に頓宮殿の西門と連子窓のある屏が見えました。 右側に見えたのが、この巨大な「五輪塔」です。そう、最初に頓宮殿の門越しにその一部を垣間見ていた五輪塔です。基壇が設けられています。 石段を上がると、 五輪塔より少し離れた右側手前に「航海記念大石塔」と刻した石標が立っています。 五輪塔の左側手前に駒札が設置されています。鎌倉時代(12世紀末~1333年)頃に建立された五輪塔。高さ6m、最下段の横幅は2.4m。中世以前の五輪塔では日本最大で、国指定重要文化財です。(駒札より)五輪塔は5つの石から構成され、下から「地、水、火、風、空」という物質の構成要素を象徴しています。小規模な五輪塔は全国的に分布しています。仏教思想に基づいて平安時代に創始されたと言われています。「多くが武士層によって造立された。元来は堂の落成、仏像開眼時の供養を目的のひとつとしたが、鎌倉以後は先亡者の供養や墓石としてつくられるようになった」(資料2)そうです。 正 面 右側面 裏 面 左側面 周囲を巡ってみました。どの面にも刻銘等が一切ありません。目的、製作者、年代など不明です。謎多き巨大五輪塔です。「言い伝えによると、平安時代末頃、日宋貿易の摂津尼ケ崎の商人が中国から帰国する途中、海上で嵐に巻き込まれ、あわや転覆かの時、石清水八幡宮に一心に祈ったところ、無事本土にたどり着くことができ、感謝してこの石塔を建立したといいます。この話から、『航海記念塔』とも呼ばれています」(駒札説明文、最後の段落を転記)この説明で、上掲石標の立つ意味が理解できました。石柵に囲まれた基壇から降りて右の側面をみますと、 「不動堂道」と刻した道標が目に止まりました。そこで、この不動堂と上掲に載せた神応寺を訪れてみることにしました。つづく参照資料1) 石清水清き流れの絶えせねば宿る月さへ隈なかりけり :「古代文化研究所:第2室」2)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社補遺泰勝寺 :「八幡市観光協会」泰勝寺庭園 :「おにわさん」歌人等によって詠まれた八幡の歌 八幡を詠んだ歌 :「八幡散策」八幡八景 :「やはた走井餅老舗のブログ」勅祭石清水八幡祭 :「石清水八幡宮」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 8回のシリーズでご紹介
2024.01.07
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中参道を降り、松花堂跡までの探訪のあと、この分岐点まで引き返して裏参道を降ります。平坦な参道の先で石段道になります。その手前に石灯籠があります。 屋形石灯籠の変形バージョンでしょうか。笠は屋形形、火袋は方形、そして中台までは屋形石灯籠と同じですが、普通は竿が円柱のところが、変わった形になっています。それに併せて基礎も円形から方形になっています。竿の形ですが、四面を撮ってみました。 竿は台形で外枠が蟇股の感じに見え、中央部が彫り込まれて、両開きの門扉が線刻されています。桟唐戸の形式です。そして、四面とも桟唐戸の意匠が異なります。参道側を正面とすると、右面に「明和九」という年号が読み取れます。その後は写真からは判読がしづらいです。明和(メイワ、1764~1772)の期間を考えると、明和9年は明和の最後の年になります。宿坊大西坊という刻字があります。左面には奉納者の住所と名前が刻されています。宿坊を仲介にして石清水八幡宮に奉納されたということでしょうか。長い歳月の経過が、竿が二枚の石材を組んだものであることを示しています。 ここにも、裏参道のどの地点かを示す表示シートが掲示してあります。 裏参道の傍に、石垣が築かれています。この上が坊跡なのでしょう。石垣の角は算木積みで、石垣は野面積みの形です。 石垣の下も、開平された空間が奥に広がっていて、「太子坂・萩坊跡」案内板が設置してあります。「二ノ鳥居の北に至る『裏参道』は、江戸時代まで『太子坂』といい、古くは約700年前、鎌倉時代の上皇が参詣の帰りにこの道を通った記録があります。 坂の途中を造成して造られた坊のひとつ、『萩坊』は、安土桃山時代の高名な画家・狩野山楽が、豊臣秀吉に追われ隠れ住んだことでも知られ、客殿は山楽が絵描いた金張付極彩色の図で飾られていました。山楽の子・狩野山雪の襖絵は八幡宮の北側にある神応寺に所蔵されています。 坂を下ると、聖徳太子3歳の像を祀った『太子堂』があり、室町時代には他に丈六(一丈六尺)という像高3m程の巨大な阿弥陀仏を安置した行願院もありました。 明治時代初めの神仏分離令ですべて破却されましたが、難を逃れた太子堂は、現在も滋賀県大津市の国分聖徳太子会で大切に守られています」(案内文転記)案内板に掲載の地図を切り出してみました。太子堂が存在した当時の状況が記されています。 石段道の反対側を眺めた景色 裏参道を見上げた景色 「京都府歴史的自然環境保全地域」の標識 裏参道はこんな少し急勾配の石段道を降ることになります。 参道脇にみた石枠の囲みです。「竹雨水」と右側に刻されています。 裏参道を見上げると・・・。 見下ろすと・・・・・。 参道を見上げて。右は参道脇の石積み。 振り返って・・・。 参道脇には、距離を示す石標が立っています。「一町」と刻されています。 いよいよ表参道が見え始めてきました。 振り返って。 「裏参道①」の表示シートが石柱に掲示されています。 裏参道の降り最後のコーナーになります。 石段道の曲がり角には、男山京都府歴史的自然環境保全地域がどの範囲かがイラスト表示されています。保全地域の中に、さらに特別地区・野生動植物保護地区が指定されているようです。二段構えの保全・保護です。最後の石段道を降ると、 表参道の二ノ鳥居の少し手前に設置されたこの案内絵図の近くに出てきます。 赤丸を追記したところが案内絵図の設置された現在位置です。中参道を上り直し、大凡青丸を追記したこの位置から裏参道を降ってきました。これで、石清水八幡宮の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。なお、この石清水八幡宮の周辺もこの時少し探訪しています。稿を改めてご紹介します。補遺石清水八幡宮 ホームページ狩野山楽 :ウィキペディア第38話 狩野山楽(1559-1635年) :「関西・大阪21世紀協会」【例大祭のお知らせ】国分聖徳太子堂 :「BIWAKO OTSU TRAVEL GUIDE」財団法人国分聖徳太子会所有の木造聖徳太子立像の概要を知りたい。 :「レルァレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ
2024.01.04
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南総門を出て、東寄りに歩き石段を降りると、左端に案内標識が見えます。 この標識の箇所で左に回り込むと「裏参道」に入ります。緩やかな石段道を下ります。 「男山京都府歴史的自然環境保全地域 観察ポイント3」として「シジュウガラ」の案内板が参道の脇に設置されています。 参道の左(西)側に、「宝塔院(琴塔)跡」案内板が設置されています。本堂に東側に、平安時代中期の万寿年中(1024~1028)には建てられていて明治まであった天台密教系の仏塔があり、方形の二重の塔で天台宗の「大塔」の様式だったと言います。軒の四隅に琴がかけられていたので琴塔と呼ばれたそうです。明治の神仏分離令で撤去されたのち、基壇の中央に参道が通されたそうです。つまり、この写真はその基壇の位置から撮ったことになります。(案内板より) 左側には東総門に至る急な石段道が見えます。この石段道は立入禁止です。この石段の少し先、左側に手水所が設けてあります。今は石造水鉢を見るだけです。 その先が分岐点です。右方向矢印付き「展望台、ケーブルのりば」の案内板が見えます。ケーブルカーで来た人は、裏参道の最後の径路を上って本社に向かうことになるわけです。右側の裏参道に進みます。 道沿いに進むと、左側に広い空き地があり、「護国寺跡」案内板が設置されています。既にご紹介していますが、神託を得て八幡神をこの男山に遷座させた奈良大安寺の行教和尚が、それ以前からこの地にあった石清水寺を「護国寺」と改称させて、石清水八幡宮の神宮寺としました。本殿と一体となり、全山を取り仕切る役割を担わせたのです。発掘調査により、江戸時代の文化13年(1816)に建てられた本堂の礎石跡がみつかっているそうです。この寺も明治の初めに破却されました。(案内板より) 男山に一年中住む野鳥をイラスト入りで紹介した案内板が設置してあります。キシ(雄)を中央に、左上から時計回りに、ヒヨドリ、エナガ、ハシブトガラス、シジュウガラ、ムクドリ、キジバト、スズメが実物大で描かれています。道沿いに下って行くと、この分岐点に至ります。 左は裏参道。右が岩清水社、松花堂跡を経由して表参道に出る参道に別れます。まずは岩清水社・松花堂跡を探訪することにしました。 右側の参道を下り始めると、「中参道」の表示シートが取り付けてあります。裏参道と表参道を連結する参道が中参道と称されています。幾度かご紹介してきた「石清水八幡宮イラストマップ」には、中参道という表記はありません。 中参道を下って行きますと、「岩清水社」(摂社)が右(山)側に見えます。石段の右側の石灯籠の傍に社名を記した駒札が立っています。 石鳥居の先にあるのが、「石清水井」です。方形の井戸に、四隅が石柱、切妻屋根本瓦葺きの覆屋が設けてあります。 頭貫、虹梁など覆屋は極彩色です。 虹梁の上に、屋根を支える蟇股。植物文様が描かれています。虹梁の正面には、金龍像と雲が極彩色で描かれています。 頭貫や桁の描画彩色も見応えがあります。 円柱頭部の木組みとその描画彩色もご覧ください。 「石清水社」の御祭神は天之御中主神です。 石清水社の前方、谷側には「瀧本坊跡」と刻された石標が立ち、その右傍に「東谷 瀧本坊跡」案内板が設置されています。石標の先に踏み込むと、坊跡は参道に沿う形で奥へと広がっています。「江戸時代初期に『寛永の三筆』の一人と称された松花堂昭乗(ショウカドウショウジョウ)が住職をつとめた坊です。現代では『松花堂弁当』の由来として有名ですが、書画だけでなく茶の大成者でもありました。江戸城など幕府の数々の建築を手掛け、将軍の茶道師範でもあった小堀遠州は昭乗の親友で、この瀧本坊には遠州と共に造った茶室「閑雲軒(カンウンケン)」があり、詳しい絵図面も残されています。」(案内文一部転記)2010年の発掘調査では、南に客殿の礎石、北には漆喰作りの瓢箪型の池、東の崖の斜面に30m以上に渡る礎石の列が見つかったそうです。茶室の北に懸け造りの書院があったことがわかったそうです。「茶室『閑雲軒』は7mもの柱で支えられ、床面のほとんどが空中に迫り出した『空中茶室』ともいうべき構造であったことが判明しました」(案内文一部転記)石鳥居前の石段道を下ります。 石段下から石清水社を見上げた景色 斜面沿いの石段道を下ります。 参道が左に屈折する突き当たりに至ります。角地にある石段を上がると、 「史跡 松花堂およびその跡」と刻された石標と「東谷 泉坊跡」案内板が設置されています。 参道付近には、この案内板設置されています。「男山 京都府歴史的自然環境保全地域」(京都府)を示すものです。松花堂昭乗のことと建物について触れています。 泉坊跡の案内板のところから、南方向にはかなり広く開平されているようで道が続き、石垣もあります。たぶん数多くの坊跡が南方向に存在するのでしょう。 中参道沿いの一段高い所に石敷の小径があり、 その先へ歩むと「史跡 松花堂およびその跡」案内板が設置されています。 石敷道から南方向にこの跡地が広がっています。この跡地の平坦面は三段になっているそうです。そのうち南の二段が泉坊跡であることが調査により判明しています。(案内板より) 方形に鉄柵で囲まれた場所は「庭(露地)の遺構」。中露地主要部だそうです。この鉄柵の傍にも案内碑が設置されています。 銘板が見づらくなっていますが、上部に載るのがこの図です。「八幡泉坊松花堂真図(東博蔵)」写真トレース図(斜線は発掘検出部) 上掲「東谷 泉坊跡」案内板から切り出しました。この図の中央部分の一番上から、草庵(緑色方形の箇所)、露地の遺構(四角の枠の箇所)、泉坊の書院(黄色い長方形の箇所)です。右端の黄色方形の箇所は泉坊の本堂と表記されています。松花堂昭乗は「瀧本坊」の住職でしたが、引退後、泉坊に草庵を建て「松花堂」(茶室)と名付けました。草庵松花堂と書院は、今はここから約2km南にある「松花堂庭園」(八幡市女郎花)に移築されています。移築先のこの2ヵ所とここが「松花堂およびその跡地」として国の指定を受けています。昭和57・58年(1982-1983)に整備のための発掘調査が行われたそうです。なお、発掘された庭(露地)の遺構は、昭乗没後、江戸時代後期に作り直されているそうですが、「絵図にぴたりと一致するもので、現地に露出展示されています」(案内文より)イラストマップを見ますと、この松花堂跡から石段道を降れば、影清塚・大扉稲荷社前に出て表参道に入ります。私は松花堂跡前から中参道を上り直し、上掲の分岐点で右折して裏参道を降りました。つづく補遺石清水八幡宮 ホームページ天之御中主神 :ウィキペディア万物の根源を示すといわれる三柱 :「Discover Japan」 「天之御中主神」「高御産巣日神」「神産巣日神」松花堂庭園・美術館 ホームページ 松花堂昭乗物語 松花堂弁当発祥の地-松花堂昭乗と松花堂弁当-松花堂昭乗とは 茶文化 :「八幡市」草庵松花堂 :「八幡市」和歌散書花鳥図屏風 松花堂昭乗筆 :「文化遺産オンライン」松花堂昭乗筆書状 :「Keio Object Hub」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2024.01.02
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本社の周囲を半時計回りに巡るとき、左側に本社の外観を眺め、右側には「信長塀」を背景に、まず奉納された石灯籠が林立しています。一つ一つ石灯籠のスタイルが違います。これがおもしろいところ。この信長塀は天正8年に織田信長が寄進したと伝わる塀です。瓦と土を幾重にも重ねて作られていて、銃撃や耐火性、耐久力に優れていると言います。(資料1) 本社には東門がありました。信長塀には「東総門」(重文)が設けてあります。この門の外は裏参道に降りていく石段道です。現在の東総門は江戸前期に建造されたものです。 東総門の北側に「摂社と末社」の案内板が立っています。摂社は「本社の祭神と縁の深い神を祭った神社」で、末社は「本社に付属した神社。支社」です。(資料2)説明内容はご紹介の中に織り込んでいくとして、 摂社と末社の配置図を切り出しました。全体の配置状況がわかりやすくなることでしょう。 最初に目に止まるのがこの「水若宮社」(摂社、重文)です。本社北側の参道の突き当たり、東端に位置します。御祭神は宇治稚郎子命。我が地元宇治に縁の深い神です。江戸時代前期、寛永頃に再興された社だそうです。 格子戸の内部にはさらに扉があるようです。その前に金色に輝く一対の狛犬像が向かい合う形で配されています。 向拝の蟇股 頭貫には線刻が入り、木鼻は象を連想させるシンプルなデザイン。角柱の上部の木組みには、幾何学模様が極彩色で描かれています。 本殿の蟇股には、桃の実(たぶん・・・)が彫刻され、あざやかに彩色されています。 水若宮社の北隣りは「氣比社」(末社)です。この名称から、福井県敦賀の氣比神社から勧請されたものと推測します。 本社東側の参道の北端にこの「若宮殿社」(摂社、重文)。御祭神は応神天皇の皇女。女性の守護神として信仰されているそうです。 この社も朱塗りで極彩色に彩られています。 西隣りが「若宮社」(摂社、重文)で、御祭神は仁徳天皇。男性の守護神だとか。この若宮社は、日吉(ヒエ)造という珍しい形式の建物だと言います。日吉造は比叡山麓の日吉大社本殿だけにみられるの形式だそうです。母屋(モヤ)は切妻造、平入りが原型で、正面3間、側面2間の母屋が内陣となり、前方と左右にそれぞれ1間の外陣が設けられます。左右の側面は庇がつけられます。そのため外観は正面(桁行)が5間、側面(梁間)3間となり、前面の向拝が付けられます。そして、高欄付きの回縁がめぐらせてあります。(資料3)この若宮社と若宮殿社は、本殿創建から70年程後で、平安時代前期には創建されていたそうです。現在の建物は寛永年間(1624~1644)頃の建造だそうです。「御本殿での祈祷ののち、『浄め衣』に願いを書き、男性は若宮社、女性は若宮殿社に奉納します」と案内文に記されています。 若宮社の向拝の木組と蟇股、木鼻の景色 南西側から 「北総門」(重文)とその手前に勧請された「貴船社/龍田社」(末社)。江戸時代末期の建造とか。京都の貴船神社と奈良の龍田大社からの祭神の勧請によるものでしょう。 北総門の屋根の鬼瓦 北総門の西側には「一童社」(末社)とその西隣りに「住吉社」(重文)があります。住吉社は江戸時代前期、寛永頃の建築で、再興された社。一童社は江戸末期に建てられたそうです。住吉社の社の細部を眺めてみます。 一間社流造の社です、向拝の蟇股 木鼻は左右で異なる草花が彫り込まれています。 本殿正面の蟇股。蓮華座の上に宝珠が彫刻されています。 向拝の軒を支える手挟(テハサミ) 側面の蟇股 住吉社の西側、本社境内の北西隅に「校倉(アゼクラ:宝蔵)」があります。京都府指定文化財。この校倉は江戸時代中期からあり、類例の少ない校倉建築だそうです。(案内文より)西側の参道に回り込みますと、 西総門の近くにこの社があります。ここには、「広田社/生田社/長田社」(末社)の三社が一棟に勧請されています。三社漣棟です。広田社は、兵庫県西宮にある廣田神社、生田社は大阪の生田神社、長田社は神戸の長田神社からの勧請だと推測します。 「西総門」(重文)を通り過ぎ、少し先で振り返って撮った景色です。信長塀の姿がわかいやすいところです。 信長塀の傍に立つ案内板は、塀の外側に聳えている御神木「楠」の案内です。「楠木正成公が建武元年(1334))に必勝を祈願し奉納した楠と伝えられています。 樹齢は約700年、京都の天然記念物の指定されています。」(案内文転記)これで本社の周辺をほぼ一巡りしてきたことになります。この後は、裏参道と中参道の探訪をしました。つづく2023年も今日が大晦日。拙ブログをご覧いただきありがとうございます。2024年へと年を跨がりますが、このシリーズをあと少し続けます。お付き合いください。参照資料1) リーフレット「国宝 石清水八幡宮」2)『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)3)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p116補遺石清水八幡宮 ホームページ宇治神社 ホームページ宇治上神社 :ウィキペディア氣比神社 ホームページ貴船神社 ホームページ風神 龍田大社 ホームページ廣田神社 ホームページ生田神社 ホームページ長田神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.31
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南総門を通り抜けると正面には、本殿を初めとする「御社殿」の全景が見えます。その本殿前に、新聞報道でみた「ジャンボ御神矢(ゴシンヤ)」が設置されています。報道された翌日24日に眺めた本殿前の全景です。 このジャンボ御神矢は、境内の竹で作られ、長さ8mです。2024年2月3日の節分まで、本殿前に飾られます。(資料1)初詣に向けた通路が仮説されていました。 この御神矢ですが、「鎌倉時代の元寇の際、亀山上皇が八幡大神に必勝祈願したところ、石清水の社から白羽の鏑矢(カブラヤ)が飛んでいき、その音を台風と勘違いした蒙古軍が退散したという故事にちなんでいる」(資料1)そうです。壮大なイメージ力!! 「石清水八幡宮イラストマップ」(資料2)から切り出した「御社殿」の部分図をまず引用します。南総門は修造中のため残念ながらその姿は全く見えません。本殿・弊殿(ヘイデン)・舞殿(ブデン)・楼門・回廊・竹内社を含む十棟が「御社殿」と総称されています。これらは国宝に指定されています。(資料2)正面に唐破風屋根の前部を持つ楼門があり、その左右に瑞籬と回廊が巡らされています。楼門の先には弊殿と舞殿が続き、その奥に本殿が位置します。この本殿は、「八幡造(ハチマンヅクリ)」という形式。2棟の入母屋造、平入りの建物が前後に接続した形になっています。前殿と後殿との中間には一間の相(アイ)の間が付いているそうです。その2棟の軒と軒の接するところには、「黄金の雨樋」が渡されていて、それは、天正8年織田信長の寄進によるものと言います(通常非公開だとか)。(資料2,3,4)イラストの建物の配置が大凡ご理解いただけることでしょう。御祭神は三柱です。 中御前 応神天皇(誉田別尊 ホムタワケノミコト) 東御前 神功皇后(息長帯比賣命 オキナガタラヒメノミコト) 西御前 比咩大神 (ヒメオオカミ) [多記理毘賣命(タギリヒメノミコト)・市寸島姫命(イチキシマヒメノミコト) 多岐津毘賣命(タギツヒメノミコト)] 楼門の西側の回廊と瑞籬。回廊に沿って、吊灯籠が列をなしています。 唐破風屋根のこの楼門の前が参拝所になっています。 屋根裏と虹梁との間の欄間には、龍虎が透かし彫りにされていて華やかに彩色されています。虹梁の上の屋根を支える束はシンプルな形です。 頭貫の上で虹梁を支える蟇股の形はシンプルですが、向かい合う鳩が浮き彫りにされています。鳩は”はちまんさん”のお使い。神鳩だそうです。第1回にご紹介しました一ノ鳥居に掲げられた「八幡宮」の扁額を思い出してみてください。「八」の文字は、この神鳩がさらにシンプルな形にデザイン化され「八」の文字として使われています。 頭貫の両端の木鼻には、胴体部分も含めた龍が彫刻されています。木鼻には獅子あるいは象を彫刻してあるのが一般的な例だと思います。 木組の姿が美しい。 楼門大屋根の大棟の先端には獅子口が置かれ、二本の綾筋の下に菊の紋が陽刻されています。 参拝後、右側に下りますと、回廊と瑞籬の石垣の前に、「国宝 石清水八幡宮 御本社」というタイトルの案内板が設置されています。上記したことと重複する部分がありますので、重複を避けて案内の要点を列挙します。*石清水八幡宮の本社は、国内で現存する最大かつ最古の八幡造の神社建築*石垣の上全体を『本社』と言う。十棟の建造物と棟札三枚が国宝に指定されている。*1634年、德川三代将軍である德川家光公により修造された。*正面の楼門からつながる丹塗の廻廊は神社建築として類例の少ない大規模なもの。*建物の主要部は朱漆塗。舞殿は石敷。*欄間や蟇股など随所に150点余りもの極彩色の彫刻が施されている。石清水八幡宮の由緒によりますと、平安時代の初め、清和天皇の貞観元年(859)、南都奈良の大安寺の僧・行教和尚(ギョウキョウワジョウ)が豊前国(現・大分県)の宇佐八幡宮にこもり日夜祈祷を続けていたとき、「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という神託を得たそうです。清和天皇の命により、木工寮権允(モッコウリョウゴンノスケ)橘良基が、宇佐八幡宮に準じて八幡造の社殿を6棟を造営し、翌貞観2年(860)4月3日に八幡大神が遷座されたと言います。(資料2,5,6)遷座前、男山には石清水寺があったそうです。貞観5年に行教がこの寺を護国寺と改め、石清水八幡宮の神宮寺にしました。その実権は行教の出身氏族紀氏が握ることになったそうです。石清水八幡宮は創建当初から、八幡宮と護国寺が一体のものとして、神仏習合の形で明治に至ることになりました。(資料5,6)この男山に創建された石清水八幡宮は、都の裏鬼門(西南の方向)を守護する鎮護国家の神に位置づけられます。さらに武運長久の神として清和源氏をはじめ全国の武士が尊崇を寄せていくことになります。清和天皇の孫・経基が臣籍降下し源氏姓を名乗り、その系譜となある頼信が八幡宮を源氏の氏神とします。源義家が社殿前で元服して八幡太郎と呼ばれるようになります。武士の間に八幡信仰が広がる嚆矢といえるのでしょう。(資料2,5,6) 屋根の大棟の鬼瓦 石垣の近くから眺めた吊灯籠この後、本社の周辺を一巡して外観を拝見しました。本社の背後(北側)には、摂社や末社が祀られています。まずは、この本社の外観を眺めていきましょう。反時計回りに巡りました。 右は、正面(南側面)の廻廊・瑞籬の南東角部分。左は、東側面に1ヵ所設けられた石造の樋。石垣から少し突き出た形です。意図は不詳。 降棟の先端に置かれた鬼瓦 本社の周辺には、参道では見かけなかった石灯籠です。火袋と笠等が六面(六角形)、笠に蕨手が付き、竿が円柱等の特徴を示す春日燈籠の形式の石灯籠が奉納されています。 東側面には、本社の内部への出入口が設置してあります。「東門」が使用されています。 左は東側面の北半分の景色。右は北東角辺りを北から眺めた景色。ここで細部を一つ見落としていました。「鬼門封じ」です。 (資料2)東北角の石垣の形状です。リーフレットから引用します。現地でご覧ください。次回訪れる機会があれば、確認してこようと思っています。 本社の北側面。瑞籬と廻廊がよく見えます。通路を挟んで右(北)側には、摂社・末社が並んでいます。次回にご紹介します。 西側面に回り込んで廻廊沿いに半ばまで歩み、振り返って北方向を撮った景色です。 西門 蟇股。ここは正面とは異なり、透かし彫りの彫刻が施され極彩色に塗ってあります。 こちらの木鼻は象の頭部と脚部が彫刻されています。白象に彩色されています。 西門の北側置かれた石灯籠の向こう側に、東側面と同様に石造の樋が設けてあります。今、ふと思ったのは、八幡造の建物の屋根に設けられた「黄金の雨樋」に集まってきた雨水が左右に分流して導かれ、最終的にこの石造樋が排水口になるのかな・・・・という推測です。推測如何? 南側から西門の側面を眺めた景色これで本社の外観をほぼ一巡してきたことになります。つづく参照資料1) 朝日新聞 2023.12.23(土) 京都版「8メートル御神矢お目見え」2) リーフレット「国宝 石清水八幡宮」3) 石清水八幡宮について :「石清水八幡宮」4)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p1155)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p32-356)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p32-337) 清和源氏 :ウィキペディア補遺石清水八幡宮 ホームページ行教 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.30
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三ノ鳥居からの表参道の続き、前回最後に言葉だけで触れた社務所の一画から始めます。参道を北方向に進みますと、まずこの「御羽車舎」が見えます。(イラストマップより) このマップ部分図で言いますと、景色の右端の半ばくらいの参道沿いの位置です。 御羽車舎の北側に位置する門です。 門の左側の入母屋造りの屋根の建物の正面に「社務所」と記した木札が掛けてあります。 屋根の棟の端に獅子口が見えます。経の巻と軒丸瓦の瓦当(ガトウ)、さらに二本の綾筋の下の紋、すべて三頭巴紋が陽刻されています。 社務所前の石灯籠 参道の反対側の石灯籠 目に止まった石灯籠の中では、この石灯籠だけ、火袋が六角形です。それに対応して笠の形も六角形です。おもしろいのは、円柱形の竿の長さが極端に短い作りになっていることです。 社務所前を過ぎると、少し先に石段があり一段高い境内地にまずこの朱塗りの「手水舎」が目に入ります。 手水舎で手を浄めた時、気づいたのは普通手水に使われる柄杓(ヒシャク)がなくて細い径の竹筒の先から注がれる水で手を浄める形になっていました。これもコロナ禍の影響でしょうか。 手水舎のある境内地の東辺には、巨大なクスノキがあります。その傍に、「京都の自然二百選」の案内標識が立っていて、「選定植物 クスノキ林」と明記されています。 手水舎で手と口を浄め、「南総門」を通り、本殿のある境内地に入るのですが、現在この門はスッポリとシートで覆われていて、大修造中です。通路部分だけが確保されている状態です。 南総門の手前で、手水舎の北側には、イラアストマップに「供御所」と表記された建物があります。正面の門の柱には、「末社 竈神殿」と記された木札が掛けてあります。御祭神は、迦具土神(カグツチノカミ)、彌都波能賣神(ミズハノメノカミ)、奥津日子神(オクツヒコノカミ)、奥津比賣神(オクツヒメノカミ)。台所守護の神様です。 「御竈殿」の駒札が几帳の前に立てられています。まさに台所の守護神。 通路を抜けて、本殿側の境内から眺めるとこんな景色が現状、見られます。 そこで、一旦手水舎側に戻ると、東側には仮説のこんなスロープが設けてありました。最初は解らなかったのですが、後で気がつきました。たぶん、年末年始の参拝のピーク時には、本殿への参拝順路を一方通行にするための方策なのだろうと思います。(例年そうなのかどうかは未確認です。) 南総門を通り抜けて、右斜め前(北東方向)を見た景色です。 こちら側は、「祈祷受付所」の建物です。南の方には「絵馬・祓串」の表示が掲げられています。 反対に、境内地の西側には「厄除開運 八幡御神矢」の受付所があります。厄除まいりの方法の案内説明が大きく表示されています。 受付所の南側には、お札お守り・八幡御神矢の「納め所」が設けてあります。こんなところで、いよいよ本殿のある御社殿周辺を拝見することに。つづく補遺石清水八幡宮 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.28
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真っ直ぐな参道には、「三ノ鳥居」があります。この参道のおもしろいところは、様々なスタイルの石灯籠が参道両側に奉納されていることです。 例えば、最初に撮ったこれらの石灯籠。基本型は同じですが、それぞれ少しずつ違います。宝珠と請花の形の差異。笠の蕨手(ワラビテ)の有無。蕨手のない笠の四隅の反り具合の差異。竿の部分の反り具合の差異。基壇の差異などです。着目してみるとおもしろい。 三ノ鳥居を過ぎると、表参道上のこの石が目にとまります。「一ツ石」と記した駒札が立っています。「かつては馳馬(ハセウマ)や競馬(キソイウマ)の出発点であり、『勝負石』とも呼ばれる勝運の石。お百度参りの地点ともされる」(リーフレットより)という石です。 参道の左側には、こんな石庭があり、傍に「鳩峯寮の庭」と題する駒札が設置されています。「この石庭は昭和を代表する作庭家である重森三玲翁により、昭和36年9月16日に当地方を襲った第二室戸台風で倒壊した三之鳥居(正保2(1645)年建立)の石材を用いて、昭和41年5月11日に作庭されました。 参道の石畳を含めた東西にわたり一貫する直線と斜線の繊細な組み合わせと、力強い石組との対比によって構成された珍しい石庭で、生涯にわたって月参りを続けられた翁の深い敬神崇祖の心が大変見事に表現されています。 石清水八幡宮 」(駒札転記)参道の斜め右側には、 「御鳳輦舎」があります。この傍にも石灯籠が数多く奉納されています。鳳輦とは、「屋形の上に金色の鳳凰を飾った輿(コシ)。昔、天皇の乗り物に使った」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味です。輿を収めておく建物ということでしょうね。ここで、表参道から逸れて、参道の左(西)側エリアを先に探訪してみました。 これはリーフレットのイラストマップから切り出したご紹介エリアの部分図です。このマップを見ますと、余談ですが、このエリアの西端には3カ所の駐車場が明記されていますので、ここまでは車で来ることもできるようです。 御鳳輦舎の近くで、表参道から左折すると、この広い道に入ります。 まず目に止まったのが、この「御神木 大楠公手植えの楠」です。「江戸時代前期に著された『洛陽名所集』によれば、この楠は御本殿西側の築地(信長塀)外にある楠と同じく、<建武中興>の功臣。楠木正成(大楠公)が建武元年(1334)に戦勝軍利を祈り八幡山に植えた楠の一本と見られ、京都府の天然記念物に指定されている。 独特の芳香を発し樟脳の原料ともなるクスノキは、古来その防虫効果や薬効から、仏像・社寺建築・漆器等の用材として使われてきた。この大楠には正成公の尊皇敬神の真心が今も息づいていると言えよう」(駒札転記)このエリアの南辺には、この「清峯殿(セイホウデン)」(青少年文化体育研修センター)があります。背後に「藍峯館(アイホウカン)」(宿泊棟)があるようです。 清峯殿から北方向にニョキリと立つのがこの塔。「湧峯塔」と名付けられています。北側から撮った景色です。給水塔だとか。このエリアの中央部分にありますので、ランドマークにはなります。 この湧峯塔の傍に、「西谷・小塔跡」の史跡案内板が設置されています。「当初より、神仏習合の宮寺であった石清水八幡宮の御本社西側、『西谷』には、早くも平安時代中期から仏堂建立が始まった地区です。今から900年程前の平安時代後期、白河法皇が大塔の建立を発願したことをきっかけに、谷を埋めた大規模な整地が行われ、大塔に続き小塔、鎌倉時代には八角堂など、数々の仏塔や仏堂が建立されました。 小塔は鳥羽天皇の皇后である待賢門院(藤原璋子)の発願により、長承元年(1132)にこの付近に建てられ、文禄5年(慶長元年・1596)の「慶長の大地震」で倒壊したまま再建されませんでした。大塔より小型の『多宝塔』と呼ばれる形式の塔でした」(案内文転記) 湧峯塔の西側には、「エジソン記念碑」が建立されています。 記念碑の石の表面に前面の景色が映じています。ズームアップでエジソン像を撮りました。後で見ると、写真を撮る私の姿が部分的に映じていました。この記念碑の一画の前面右側に「エジソン記念碑」の案内駒札が設置してあります。これまた、駒札の表面に透明シートが貼ってあるため姿が映じてしまいました。掲載没!「この記念碑は、アメリカの偉大な発明家であるトーマス・アルバ・エジソン(1847~1931年)が発明した白熱電球誕生のゆかりの地に、エジソンとその業績を記念するため建てられました。 1878年、エジソンは白熱電球の実用化に取り組んでいましたが、点灯時間はまだ短く、長時間輝き続けるフィラメントを探すことが必要でした。エジソンは金属から綿糸、さらにはあごひげまで、何千もの素材を試し、竹が最適であることを発見しました。これを受けて助手たちは、京都を含め世界中を調査して竹の標本を集め、そのなかから1000時間以上燃焼する耐久性に優れたフィラメントが生まれ、白熱電球の実用化に至りました。そのときエジソンがフィラメントとして使用したのは、石清水八幡宮近くの真竹だったといわれています。八幡の竹は江戸時代には刀剣の留め具である『目釘竹』の名品として德川将軍家に献上されており、強くて質が高いことで有名でした。 最初のエジソン記念碑は、1934年に石清水八幡宮境内に建立されましたが、1958年に現在の場所に移転され、1984年にはデザインを一新し再建されました」(駒札案内文転記) エジソン記念碑の南側には、「鳩峯庵」の扁額を掲げた茶室があります。 茶室から東方向に少し離れたところに、「都山流 流祖中尾都山 頌徳碑」が建立されています。「中尾都山は1876(明治9)年、枚方に生まれ、幼少のころから当宮を守護神として篤く崇敬しました。 この碑は一代で尺八界最大の流派を築き上げた中尾都山の業績を讃え、七回忌にあたる1962(昭和37)年に建立されました。 碑文 『萬象尽蔵一管中』 <人生の喜怒哀楽や森羅万象全てを余すところなく、一管の尺八で表現する> 公益財団法人 都山流尺八楽会 」(駒札案内文転記) エジソン記念碑の近くで、この歌碑が目に止まりました。 湧峯塔の北側でまず目にしたのが、この「ボーイスカウト像」と北東方向にある「石翠亭」(食事休憩所)です。このブロンズ像の北側は広場になっています。広場を挟んでその北方向に、 「三女神社」(末社)があります。御祭神は宗像三女神です。運輸・流通・安全の神様。柱に木札が掛けてあります。 蟇股には波浪が彫刻されています。祭神からの連想でしょうか。 三女神社の北方向の景色 「西谷 八角堂跡」の史跡案内板が目に止まりました。位置は定かではありませんが。「鎌倉時代の初め、順徳天皇の御願により建てられた隅切り八角形の仏堂の跡で、堂内には像高約3mの金色に輝く阿弥陀如来坐像が納められました。その後、慶長12年(1607)には、豊臣秀頼により再建されました」(史跡案内文一部転記)明治の神仏分離令により、この八角堂は当時の正法寺の住職・志水円阿が所有地に移築されたことにより、廃仏毀釈を免れた唯一の仏堂として現存します。 三女神社とその北方向の通路を挟んで東側にこの建物が見えました。 近づいて格子戸から内部を見ると、井戸です。 後でイラストマップを確認沁ますと「供御井」と称するそうです。 三女神社の南の広場の一隅に「西谷 大塔跡」の史跡案内板が設置されています。「大塔は、天永2年(1111)に完成した巨大な仏塔です。平安時代後期、初めて院政を開き権勢を振るった白河法皇の御願により建てられました。 慶長10年(1605)には豊臣秀吉の子・秀頼が再建します。その絵図面によると、現存する和歌山県岩出市 根来寺の大塔とほぼ同規模の、日本最大級の真言形式の大塔でした。側柱一辺14.9m、高さ27.1mもありましたが、今から約150年前の明治の初め、神仏分離令のため取り除かれました」(史跡案内文の前半転記) 大塔の設計図に発掘調査区を合成した図です。赤丸を追記したところが上掲の「三女神社」の位置です。さて、表参道に戻ります。 参道の両側には、奉納された様々なスタイルの石灯籠が櫛比のごとく立ち並んでいます。 三ノ鳥居の方向を眺めた景色 立ち並ぶ石灯籠の一例です。気づいたのは、奈良の春日大社に見られる六角形の火袋と笠の春日灯籠形式の石灯籠を見かけないことです。ほとんど火袋・笠は四角です。 表参道を進むと、右(東)側に社務所があり、その先の左に手水舎が見えます。その少し手前に、この石段道が上掲のエリアへのもう一つの出入口として設けてあります。本殿に近いこちらには、参道脇に「エジソン記念碑」への案内標識が出ています。こちらの石段道に一番近いのが、上記の大塔跡と三女神社です。つづく参照資料*リーフレット「国宝 石清水八幡宮」*史跡に設置の駒札等の案内文補遺石清水八幡宮 ホームページエジソン記念碑 八幡ストーリー :「八幡市」エジソン :「ジャパンナレッジ」トーマス・エジソン :ウィキペディア公益財団法人 都山流尺八楽会 ホームページ都山流 :「コトバンク」2022_11「本曲 朝風」流祖 中尾 都山 作曲_都山流関東支部 第88回 尺八演奏会 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.28
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二ノ鳥居を通り抜け、表参道を進みます。参道の両脇に狛犬像、 石灯籠や「神馬」と刻された碑が奉納されています。 緩やかな参道を歩みます。 平石を渡した橋が架かり、高欄の親柱には「神幸橋」と刻されています。参道左脇の手すりには、「表参道①」と表記したシートが取り付けてあります。正月の参拝に関わって、事故等の生じた際にそのエリアを特定しやすくするための手段として設置されているのかも知れません。 橋上で山側を見ると、 幅の狭い谷川が見えます。雨量が少し多ければ、小さな滝になりそうな景色です。 橋の少し先には、表参道の左側にこの地点まで上ってくる曲折した石段道があります。表参道に入れる枝道です。右の景色の緩やかな表参道を上ります。 比較的緩やかな石段道が曲折する「七曲がり」と称される参道を上がります。 参道の分岐点が見えて来ます。 この分岐箇所に、「旧跡 かげきよ」と読める石標が立っています。 前回ご紹介したリーフレットのイラストマップによりますと、「影清塚」と明記されていて、「参拝前に己の影を映し心身を祓い清める場所」(転記)だそうです。 この分岐点に右の参道への道標も立っています。右側の参道は少し急な石段道になっていきます。この道は後ほどわかったのですが、「中参道」の出入口になります。この道標には、中参道を上って行けば、「石清水社」に至ることを示しています。その先は、勿論山頂の本殿(御社殿)に通じています。 表参道の右側に影清塚がありますが、反対側(左側)には、末社として「大扉稲荷神社」が祀ってあります。御祭神は御食津神。覆屋の柱に木札が掛けてあります。 私には判読できない部分があるのですが、参道脇には目標と距離を示す道標が建てられています。ここからの表参道はしばらく真っ直ぐで緩やかな参道が続きます。そして、参道の山側には、各所でお城の石垣と同様の石垣が各所に出現します。 最初の石垣 「東谷 橘本坊跡」の史跡案内板が設置されています。橋本坊は室町幕府を開いた足利氏の祈願所だったそうです。足利氏は源義家の孫・義康を祖とする武家の名門です。源義家は、平安時代後期に、石清水八幡宮社頭で元服し「八幡太郎」称された武士。三代将軍足利義満の母・良子は石清水八幡宮寺の長官を務めた「善法寺家」の出身という縁があるそうです。この男山の麓、南へ約300mに「善法律寺」があるとか。 しばらくはこのような参道が続きます。 その先が少し角度のある石段道になります。石段道の右側にはまず 「中坊と椿坊の坊跡」の石垣があります。石清水八幡宮もまた、江戸時代末までは、神仏習合の宮寺でした。この男山の山内に数々の坊が林立し、「男山四十八坊」と呼ばれていたそうです。坊は鎌倉時代以降に数が増えたそうです。この周辺は「中谷」と言われていて、中坊は古くからあったと言います。 史跡案内板に載る絵図を切り出してみました。慶応2年(1866)に描かれた状況。「城州八幡山案内絵図」(木版墨刷)に着色した図だそうです。現在では通れなくなった通路が縦横にあったことがわかります。この絵図を見ていますと、高野山の宿坊のイメージを想起しました。「現在の社務所のあたりにあった『椿坊』には、平安時代末期の女流歌人で有名な小侍従が住んでいたといわれています。小侍従の父は石清水八幡宮第25代別当の光清(コウセイ)、姉妹は鳥羽天皇に嫁ぎ、八幡市の地名・美濃山(ミノヤマ)の由来として語られる美濃局(ミノノツボネ)。『待つ宵に更けゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥はものかは』の和歌は小侍従の代表作です」(一部転記) その先には、「南谷 豊蔵坊跡」が続きます。 豊蔵坊は德川家康が祈願所とし、将軍家の坊として栄えたと言います。石高随一の坊。豊蔵坊は、江戸幕府が直接修理や築造をおこなったので、詳しい絵図が残るそうです。文久3年(1863)に孝明天皇が攘夷祈願を行った場所でもあるとか。八幡市にある正法寺の開祖・清水家の娘が家康の側室となったお亀の方で、その子が初代尾張藩主となります。お亀の方(相応院)の菩提寺となる正法寺を厚く庇護したといいます。 こんな感じの参道が続きます。 パノラマ合成しましたので景色が歪んでいますが、全景がおわかりいただけるでしょう。 右の石垣の手前下に「愛染堂と南谷の坊跡」の史跡案内板が設置されています。この周辺は「南谷」と言われていたそうです。かつては坊や仏堂が建ち並んでいたと言います。この石垣の場所に愛染堂(盛林院)があったそうです。石清水八幡宮長官であった壇棟清により寛元1年(1246)に建立されたとのこと。愛染堂にあったと伝えられる愛染明王像は、愛知県蒲郡市の水向寺に安置されているそうです。 石段を登り切った上に見えたこのお堂には、「神馬舎」と記された木札が掲げてあります。 切妻屋根の棟には獅子口が置かれ、軒丸瓦の瓦当には三頭巴紋が陽刻されています。 拝の箇所にはシンプルな梅鉢懸魚が使われています、 神馬舍前で右折しますと、参道の少し先左側にこの表参道に上ってくる別の道が見えました。色々な地点からこの山頂に至る径路があることがわかります。異なる石灯籠のパーツを組み合わせたユーモラスな石灯籠の傍に、道標が立っています。私には正確な判読ができません。「右 なら かうや みち」と読めそうなのですが・・・。ならは奈良、かうやは高野・・・。正しいかどうかは不詳。 「走上りバス停 約20分」という簡易な道標も設置されています。 降りなら20分ほどで、主要道路まで出ることができるようです。この簡易な標識の付けられた柱には「男山散策路せせらぎルート」と表示されています。さて後は真っ直ぐの参道を進むだけ。標識によれば、約5分歩けば石清水八幡宮の社殿に至ります。つづく補遺石清水八幡宮 ホームページ男山ハイキングコース②せせらぎルート・表参道 :「八幡まるごとナビ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.26
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昨日(12/24)、石清水八幡宮を訪れてきました。そのきっかけは2つありました。一つは、23日の朝から、宇治市民大学の公開講座の一つを単発で受講に出かけた時、受付の傍に積まれていた複数の希望者配布資料の一つに、冒頭のリーフレットがありました。「国宝 石清水八幡宮」 参考にいただきました。帰宅後に新聞の朝刊を見ますと、京都版のページに、「8メートル御神矢お目見え 石清水八幡宮」の記事が報じられていたのです。「八幡市の石清水八幡宮で22日、『ジャンボ御神矢(ミシンヤ)』が設置された。境内の竹で作った長さ8メートル。来年2月3日の節分まで本殿前に飾られる」(朝日新聞朝刊)昨日は天気がよかったので、この2つが動因となりました。今なら混雑もしないだろうし、運動不足解消の一環として、男山の山頂にある社殿と境内を一巡するウォーキングをしてみようと。石清水八幡宮を訪れるのはたぶん何十年ぶりか・・・・・です。京阪電車の「石清水八幡宮」駅の改札口をでて、前の道路を右に行けば、参道ケーブルがあります。道を横断し、左方向に歩道を道沿いに進めば、石清水八幡宮の一ノ鳥居方向になります。 道路を横断して、最初に目にとまったのが、「エジソン」の胸像です。エジソンが八幡男山の竹を利用して、電灯を発明したのが1880年でした。八幡の名が世界に知られることになりました。 そのすぐ近くに「引窓南邸跡」の碑が立っています。この碑のことは今回初めて気づきました。 案内文によると、「引窓」が人形浄瑠璃の演目の場面で取り上げられて知られるようになったとか。この碑、もとは約50mほど西側の位置に昭和2年頃に設置されたと言います。 道沿いに進み、右折すると、「石清水八幡宮」の社号碑が見えてきます。左側に、周辺観光案内図と案内板も設置されています。 一ノ鳥居 石造鳥居に「八幡宮」と記された額が掲げてあります。「八」という文字の形にご注目! 鳥居の傍に、石清水八幡宮の「御祭神と歴史」の案内板が掲示されています。冒頭のリーフレットとこの案内文等は、後ほど要所要所で参照し、ご紹介に利用します。 一ノ鳥居傍の石灯籠。 左右に対で配置されています。 元文2年(1737)11月と彫り込まれた石灯籠の傍に、大きな「案内絵図」が設置されています。 境内要所にこの大きさの案内絵図が現在位置を付記して設置されていました。 石清水八幡宮放生池一ノ鳥居を通り過ぎると、右側に「放生池」が見えます。池面を眺めますと薄氷が張っているように見えました。 池の畔にこの案内板が設置されています。 参道の正面には、門が見えます。参道の手前には緩やかな弧を描く石橋が参道に架かっています。これは、たぶん一つの結界を意味するのでしょうね。 石段の手前、参道の左側に、この朱塗りの覆屋が見えます。建物の左側に「筒井」と刻した石標が立っています。 近づいて格子戸越しに内部を見ると、大きな井戸です。 覆屋の内部をを見上げると、蟇股様の木組みに三頭巴文様の彫りがあり、屋根を支えると球形状の束などの木組が見えます。 冒頭のリーフレットに掲載の「石清水八幡イラストマップ」から「頓宮」の部分図を切り出しました。「頓宮」とは、天皇の行幸の際に設営される仮宮で、行宮(アングウ)・行在所(アンザイショ)とほぼ同じ意味合いの言葉だそうです。(資料1)ここでは、山上の八幡大神が一時遷座される仮宮を意味するのでしょう。 緩やかな石段を上がったところにある最初の門です。四脚門の形式です。連子窓を供えた塀で囲われています。建物の配置から考えますと、いわば裏門に相当するようです。 桟唐戸の扉と蟇股には、菊花文が陽刻されています。 頓宮の内側から門と塀を眺めた景色 「頓宮殿」 正面から眺めますと、右(東)側が「頓宮殿」で、左(西)側が「頓宮斎館」です。 頓宮殿の傍に、この案内板が設置されています。かつては、現在の頓宮斎館の位置に、「極楽寺」があり、頓宮殿と並んでいたそうです。極楽寺は、石清水八幡宮初代別当・安宗(アンシュウ)が元慶(ガンキョウ)7年(883)に建立した男山の麓の中心施設だったと言います。この頓宮では、毎年9月15日に「石清水祭」という勅祭が行われます。その起源は「九州・宇佐神宮から八幡・男山への八幡大神の遷座より、4年後の貞観(ジョウカン)5年(863)、宇佐神宮に倣って始められた仏教的な儀礼『放生会』に遡ります」とのこと。儀式は午前2時、「神幸の儀」(御神霊の遷座)から始まって行きます。京都の葵祭、奈良の春日祭と並ぶ三大勅祭の一つだそうです。(案内文、資料2) 頓宮斎館側(西側)にも門があります。 東に離れて眺めると、門の外側に巨大な石造五輪塔が垣間見えます。 西の門の近くの頓宮敷地内から眺めた回廊 頓宮敷地の南側にこの朱塗りの門があります。頓宮の正門(表門)です。こちらも四脚門の形式です。一ノ鳥居から参道は頓宮を通り抜ける形で南方向に延びています。 参道を少し歩むと、右側に「高良神社」の額を掲げた石鳥居が東面して立っています。 この神社の参道傍に、手水所が設けてあります。 この境内地に「京都の自然二百選」に専定された植物「タブノキ」の巨木があります。しめ縄が巡らしてありますので、御神木のひとつのようです。 巨木の幹にできた洞の中に、榊が供えてありました。 境内地に拝殿と本殿が建てられています。摂社の一つで柱に木札が掛けてあります。御祭神は高良玉垂命です。 この案内板が設置されています。高良神社は、貞観2年(860)創建と伝わり、この周辺の古い地名「カワ(ハ)ラ」に由来するとも言われているとか。この神社には、江戸時代中期に郷民が高良大明神を氏神として始めた「太鼓まつり」が再興されて、夏の風物詩として受け継がれているそうです。「放生会」の儀式が頓宮で行われる際に、八幡大神が山上から頓宮殿に一時的に遷座されることから、この辺りは「宿院」と呼ばれてきたそうです。 高良神社から参道に戻り、数十m進むと、この道路標識があり、その近くに大きな「案内絵図」が設置されています。右折して右の参道を行くならば、「裏参道」です。急な石階段の道の連続で、山頂の本殿に至ります。真っ直ぐに進むと「表参道」です。まずは、オーソドックスに表参道を歩くことにしました。 石造の二ノ鳥居表参道には、少し先に「二ノ鳥居」が見えます。 リーフレットより、交通の案内図を切り出しました。序でに、兼好法師著『徒然草』第52段に触れておきましょう。短い段です。「仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拜まざりければ、心うく覚えて、或る時思ひ立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。極楽寺、高良などを拜みて、かばかりと心得て帰りけり。さてかたへの人にあひて、『年頃思ひつることはたし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけむ。ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず』とぞいひける。 すこしのことにも、先達(センダチ)はあらまほしきことなり。」(資料3)大昔、古文の時間にこの段を採りあげられ、原文を暗記するという授業を受けた記憶があります。その目的は、どんなことでも、その道の先輩、良く知っている人がいるので、まず教えてもらうことが大事だよという点にあったのでしょう。なつかしい段です。石清水八幡宮に参ったことがない仁和寺の僧が年取ってから思いたち、一人徒歩で出かけたのです。しかし、上掲の頓宮と高良神社辺りを参拝して、ここが石清水八幡宮と思い込んだのが失敗のもと。参拝者は皆山に登って行く。その姿をみて不思議に思うだけ。神参りが目的だから山登りするまでもないとその僧は一人合点して、仁和寺に帰りました。自分の体験を身近な僧に語って、笑われたというオチです。思い込みってありがちなんですよね・・・。時折失敗を繰り返しています。嫌になる(笑)兼好法師(1283?~1352年以降)の時代に、極楽寺と高良神社があったことがこの一文からわかります。極楽寺が廃されたのは、1868年明治の神仏分離令が発端になった。廃仏毀釈運動が起こった結果なのでしょう。つづく参照資料1) 頓宮 :「コトバンク」2) 勅祭石清水祭 :「石清水八幡宮」3)『改訂 徒然草 -付 現代語訳』 今泉忠義註 角川文庫 p45-46補遺石清水八幡宮 ホームページ八幡総本宮 宇佐神宮 ホームページ明治元年(1868)3月 神仏分離令が出される :「公文書に見る日本のあゆみ」神仏分離 :「コトバンク」徒然草 第五十二段 :「徒然草(吉田兼好・吾妻利秋訳)双蝶々曲輪日記 :ウィキペディア双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)引窓 :「初めての歌舞伎を楽しもう」munakatayoko's blog拝見した演目は『双蝶々曲輪日記 引窓』 :「歌舞伎美人」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る
2023.12.25
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知恩院の探訪から外れますので、一応別稿の形で知恩院新門から京阪三条駅までの帰路を点描でご紹介します。知恩院新門前の東大路通の交差点を横断して、西の通りを進みます。ここは「新橋通」の東端です。新橋通は東大路通と西の大和大路通との間を結ぶ全長約500mの東西の通りです。新橋通を西進して、花見小路通を横切り、その先の白川に架かる「新橋」を渡ります。新橋通という名称はこの橋名に由来するそうです。(資料1)その先に冒頭の岐路に位置する「辰已大明神」が見えます。 辰已神社(辰已大明神)は、芸妓舞妓さんたちの信仰を集めている神社です。辰已大明神の名の由来は、京都御所の南東(辰已)にあることだとか。御所の南東の方角を守る神社だったそうです。(資料2,3)ご祭神は狸(タヌキ)だそうです。「これは、かつてこの界隈に住んでいた狸がイタズラをして人々を困らせたため、狸を祀る祠を立てたところ治まった、という逸話によるそう」(資料2)だとか。また、辰已大明神は、辰已稲荷、祇園のお稻荷さんとも呼ばれているそうです。(資料1,2)左に行けば、白川沿いの「白川南通」で西の大和大路通まで全長約150mの短い通りです。現在は遊歩路になっていて、祇園エリアでの観光スポットの一つになっています。白川沿いに「吉井勇歌碑」が建立されていて、記念撮影スポットになっています。 かにかくに祇園はこひし寝るときも 枕のしたを水のながるる 吉井勇『祇園小唄』かつては、お茶屋が立ち並んでいた敷地跡で、終戦直前の昭和20年(1945)3月に疎開により立ち退きが命じられた結果生まれた空間だそうです。そこが現在の白川南通となりました。(資料1,4)歌碑のある位置は、茶屋「大友」跡。大友の女将磯田多佳女(イソダタカジョ)は文芸芸妓として名高い人だったとか。1915(大正4)年の春に来京した夏目漱石が、持病の胃痛で2日間「大友」で寝込み、多佳女の手厚い看護をうけたというのもよく知られたエピソードです。(資料4)右側が新橋通です。観光客を避けて、新橋通を進みます。四条通より北側のこのエリアは祇園新地と通称されるところです。正しくは八坂新地というそうですが。(資料4) 辰已大明神のすぐ先に、地蔵堂が目に止まりました。 証券の格子戸を覗くと、内側に金網が張られていて、堂内が見えませんでした。残念。「地蔵尊」と記した扁額が、頭貫の上に掲げてあります。 新橋通を東から眺めた景色。 この時点では16時10分頃でしたので、灯火もつかず通りは閑散としています。 通り抜けるのには靜かで便利。 東西の通りの両側に、格子と簾の京風の質の高いお茶屋が整然と建ち並んでいます。京の花街の一つ。祇園元吉町でこのあたりの中核となっている町です。昼間に通り抜ける以外には、私には縁のないところですが・・・・。昭和48年(1973)にこの町内に3階建てのビルを建てる計画が持ち上がったとか。それに対して、女将さんたちが「祇園新橋を守る会」を発足させ、景観を守る住民運動を開始して反対。その結果、最終的には昭和50年(1975)に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたという経緯がある街並みです。「家の増改築には、周囲の景観にあった二階建てで、日本瓦に格子の外観などが義務づけられた」(資料1)という次第。その外観の保存として、次のような説明があります。「1階は千本出格子・駒寄せと引き込み格子戸、本2階には座敷の外に縁側を設け、肘掛けつきのガラス窓とし、軒にはすだれをかける表の構え」「卯建(ウダツ)などを設けず、1階と2階の屋根の高さを揃えて、連続した、町並みをつくる」(資料3)こういう努力がこの景観の美を維持しているのでしょう。 西端の大和大路通に出るところに、道路標識が立っています。左折して大和大路通を南下して、白川南通のところで右折し、川端通に出ます。 川端通に出る手前で、白川との間の三角地がこの一画です。ここは弁財天町の南端。手前にある小社は「弁財天祠」です。 東側に「地蔵堂」が祀ってあります。 そして、一番手前の角にひっそりと見える石標は昭和40年(1965)に建てられ、「陶匠青木聾米(ロウベイ)宅跡」と刻されています。青木聾米とは、青木木米のことです。祇園のお茶屋「木屋」の一人息子で幼名は八十八(ヤソハチ)。放蕩三昧の後、「陶工奥田頴川のもとに通って、陶法を学び、粟田山の土を用いて窯をひらき、のちに幾多の名器をつくるに至った。また文人画に秀で、独自の境地をひらいた」(資料4)という人。お茶屋の屋号と幼名から「木米」と号したそうです。京阪電車の三条駅はほんのあと少し。帰路での探訪ご紹介を終わります。坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」碑を見た余韻として、次の詩を序でに引用させていただきます。この詩、詩の題もまた真民さんの詩ではよく知られていることと思います。 二度とない人生だから 坂村真民 二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛を そそいでゆこう 一羽の鳥の声にも 無心の耳を かたむけてゆこう 二度とない人生だから 一匹のこおろぎでも ふみころさないように こころしてゆこう どんなにか よろこぶことだろう 二度とない人生だから 一ぺんでも多く 頼りをしよう 返事はかならず 書くようにしよう 二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう 二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいのふしぎを思い 足をとどめてえみつめてゆこう 二度とない人生だから のぼる日しずむ日 まるい月かけてゆく月 四季それぞれの 星々の光にふれて わがこころを あらいきよめてゆこう 二度とない人生だから 戦争のない世の 実現に努力し そういう詩を 一篇でも多く 作ってゆこう わたしが死んだら あとをついでくれる 若い人たちのために この大願を 書きつづけてゆこう (資料5)私にも、このブログをお読み頂いたあなたにとっても・・・・・・。「二度とない人生だから」ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『京都の大路小路』 [監修] 千宗室・森谷尅久 小学館 p272-2732) 辰已神社[辰已大明神] :「そうだ 京都、行こう」3)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p131-1344)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p229-232,p239-2405)『坂村真民全詩集 第五巻』 大東出版社 p90-91補遺駒寄せ :「八清」格子戸 :「つるた株式会社」千本出格子の画像素材 :「PIXTA」青木木米 :「コトバンク」青木木米 :「JapanKnowledge」青木木米とは?陶磁器の作品や特徴・文人とは何かについても解説 :「和楽web」奥田頴川 :ウィキペディア奥田頴川宅蹟 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・東山 -3 祇園・白川南通の桜、辰巳大明神、「かにかくに」歌碑、陶匠青木聾米宅蹟など観照 京都・東山 祇園白川の桜と火除地蔵探訪 京都・東山 白川沿いの散策
2023.12.17
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宝佛殿(番号7)と納骨堂(番号8)手前の池との間の小径を上って行くと、「大鐘楼」(番号13)に至ります。 知恩院境内の南東隅の小高い位置にあります。木々の間から、すぐ傍の納骨堂、その北にある経堂、御影堂などが見下ろせるくらいの高さです。 この鐘楼は延宝6年(1678)、知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営されました。(資料1) 西面あと半月、大晦日にはこの大鐘が「除夜の鐘」で撞かれます。大学生の時に、友人達と除夜の鐘を聞きにここまで来た思い出があります。この大鐘楼のすぐ近くで眺めていました。その時と今も、たぶん同じ撞き方が伝承されていると思います。親綱1人、子綱を16人の17人で大きな撞木を引き、大鐘を撞くのです。(資料1)撞く瞬間に親綱を引く僧は綱に全体重をかけて背後へと宙を飛ぶかの如くに体を反らせて行きます。一瞬、両足が地を離れていたのではないでしょうか。そんな印象が記憶に残っています。 大鐘楼の基礎の木組みと大鐘楼を支える円柱。円柱は鉄輪で締められています。 北面 東面 南面釣鐘は高さ3.3メートル、直径2.8メートル、重さ約70トン。寛永13年(1636)、知恩院第32世雄誉霊巌上人の鋳造だそうです。(資料1) 風鐸大鐘楼を眺めた後、御影堂前に引き返します。 池を東辺から眺めた景色。池中央の反り橋の向こうに経堂が見えています。境内を一巡してきて、探訪の2つめの目的は未だ未達成。詩碑に出会えるとすれば、残るは三門の石段道かその南にある石畳道の女坂かのいずれかの道筋です。 この女坂を降っていくことにしました。 ふと坂道の右(北)側を見ますと、大きな石碑が目に止まりました。 三門の石段道と女坂とが合流する境内地点に近い位置にある「朱印所」の建物が見えるくらいの場所。女坂を降り始めてすぐの位置になります。 これが目的としていた坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」碑です。この探訪の念願達成です。今までに知恩院を訪れる時は、この女坂経由で御影堂のある境内地に入りました。いつも通りなら、境内地の探訪をする前にこの詩碑に出会えていたのです。逆ルートで巡ったために、最後になってしまいました。お陰で、出会いの印象は一層深まりました。坂村真民さんの全詩集に次の詩が収録されています。 念ずれば花ひらく 坂村真民 念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつ ひとつ ひらいていった (資料2)ここに由来する「念ずれば花ひらく」の詩碑。今や日本全国と一部海外にも建立されていることは、拙ブログの「雲がたり」でご紹介しています。ここでは真民さんご自身の「念ずれば」の思いについてご紹介しておきたいと思います「念ずる」という言葉に関連して、真民さんは次の題の2つの詩を詠まれています。 念ずる心 善根熟するまで 念々怠らず精進して 自己を作っておこう そしたら 春風吹き来った時 花ひらくことができ 春雨降り来った時 芽をだすこともできよう (資料3) 念ずる 念ずるのだ 念ずれば 花ひらく 八字十音の真言(シンゴン)を 一切衆生(シュジョウ)の胸に 点火することを 念ずるのだ 念ずるのだ あの人この人の処へ タンポポのように飛んでいって 慰め励ましてゆくことのできる そういう人間になり そういう詩をつくることを 念ずるのだ 念ずるのだ 大きな病気にもかかわらず 人に迷惑をかけず 世尊のように 涅槃(ネハン)に入ってゆける 自分になりたいと 念ずるのだ 念ずるのだ この家で あと二十年 詩精進のできるよう 諸仏諸菩薩 大詩霊さま 大詩母さまに 念ずるのだ (資料4)己が念じたこに対して行動/行為を積み上げていく。その営為があってこそ、念ずれば花ひらく時がいつか訪れる、チャンスをつかむことにつながる・・・・・。「求めよ、さらば与えられん」にも通じる詩句だと思います。こちらが動的なニュアンスが強いことに対して、八字十音の真言はコツコツと積み上げる静的なアプローチの様にも感じます。思いのこもったいい言葉ですね。 女坂の入口には、「智慧の道」と刻した石標が立っています。法然上人の廟堂へ至る径路の入口がここに示されています。 「三門」(番号14)を女坂の側、南東側から見上げた姿です。 左側は三門を通り抜け、東方向に真っ直ぐ御影堂を目指す急角度の石段道。「上る」よりも「登る」という感覚のちょっとしんどい石段道。右側は、今降ってきた女坂を入口側から眺めた景色です。 この「三門」(番号14)は、二代将軍德川秀忠の命により、元和7年(1621)に建立されました。「構造は五間三戸・二階二重門・入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)で、高さ24メートル、横幅50メートル、屋根瓦約7万枚」(資料1)という門です。三門という表記は、三解脱門、悟りに至る三通りの解脱の境地を表していると言います。「空門」「無相門」「無願門」の三門だそうです。(資料1)桜が咲いた頃の三門の景色がいいですね。拙ブログでも別途ご紹介しています。 三門の南西方向、女坂から円山公園の方に歩み始めた位置に、今まで利用させていただいた「浄土宗総本山知恩院境内案内図」が設置されています。三門前から真っ直ぐに西方向に緩やかな下り坂になっている「知恩院道」を進みます。 東大路通より少し東に奥まっていますが、「知恩院新門」です。この門は、高麗(コウライ)門の形式です。城の門によく使われている形。ここから一筋北に、東大路通から距離が離れますが、白川の東側に「知恩院総門」があり、「華頂道」の坂を上っていくと、今回の探訪の起点とした「黒門」前に至ります。これで、久しぶりの知恩院探訪のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 知恩院の建造物 :「知恩院」2)『坂村真民全詩集 第一巻』 大東出版社 p2493)『坂村真民全詩集 第二巻』 大東出版社 p414)『坂村真民全詩集 第二巻』 大東出版社 p212補遺【LIVE】知恩院除夜の鐘2022 YouTube高麗門 :「コトバンク」薬医門と高麗門 :「信州まちあるき」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -1 黒門から入り御影堂へ探訪 京都 久々に知恩院へ -2 経堂、唐門、法然上人像、智慧の道ほか&一心院 へ探訪 京都 久々に知恩院へ -3 御廟・勢至堂・紫雲水・千姫の墓・濡髪大明神ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜
2023.12.16
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ここが「圓光大師諸国二十五霊場」の最後の霊場となります。この石標の立つ境内地から一段高く見上げる位置に「御廟(法然廟)」(番号11)が設けられています。左(北)側が「御廟」で右側が「拝殿」です。 門を入ると、すぐ右側に石段があります。上ると、踊場で左折してさらに石段を登ります。 石段の登り口に竿の正面に「大師御廟前」と刻した石灯籠が据えてあります。 拝殿 ここからは先は立入禁止となっています。 御廟の唐門 拝殿の向こうの廟堂入口をズームアップで。廟堂を囲む石柵の正面に唐門があり、その扉には三葉葵の紋が彫り込まれています。「現在の御廟は、慶長18年(1613)常陸国土浦藩主 松平伊豆守信一の寄進を得て改築されたものです。」(資料1)廟堂内には、五輪石塔が安置されていると言います。(資料2) 拝殿前から京都市内の西方向を眺めた景色 ズームアップで 石段を降りて、右折し境内地を北に歩むと、正面に「勢至堂」(番号10)があります。駒札に「勢至堂」と記されています。南面する建物の正面には、「本地堂」と記された扁額が掲げてあります。「現在の勢至堂は享禄3年(1530)に再建されたもので、七間四面単層入母屋造本瓦葺、桁行21メートル、梁行20メートルの現存する知恩院最古の建造物」で、堂内の正面には、後奈良天皇の宸翰による「知恩教院」の額が掲げられていて、この言葉が知恩院の名称の起源になっています。そして、この地が法然上人が念仏の教えを広められた大谷の禅房の故地でもあります。(資料1)霊元天皇皇女吉子内親王の宸殿を賜ったと言われる建物で、外縁には擬宝珠勾欄が付いています。(資料2)もともとはこのお堂に法然上人の尊像(御影)が本尊として祀られていたそうですが、御影堂の建立により移された後、このお堂の内陣の奥に本尊として勢至菩薩像が祀られています。そこから、「勢至堂」と称されるようになったとか。勢至菩薩は法然上人の本地身とされています。(資料1,2) 廟堂のある位置の崖下に、「紫雲水」と刻された石標が立っています。 そこに小さな池があります。法然上人が入滅される時、聖衆が来迎し紫雲が水面に現れ、芳香が漂ったという伝承が残っているそうです。(資料1,2) その少し北側、同じく崖下に、石柵で囲まれた石の傍に「影向石」と刻した石標が立っています。法然上人が入滅される時、この石の上に加茂明神が降臨されたという伝承があるそうです。(資料2)ここから北側の境内地は墓地になっています。 墓地への出入口に近いところに、石仏を集合させて祀ってあります。 この墓地の中央部に「千姫の墓」が安置されています。 石柵などはありませんが、基壇の上に設けられた大きな墓です。この墓の石塔の形式も私にはあまり見かけないものです。無逢塔に準じた形式でしょうか。塔身の正面には三葉葵の家紋が陽刻されています。千姫の墓は、小石川伝通院に納骨されているそうで、この石塔には分骨が納められているとか。千姫の戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。(資料3) 千姫の墓の北に「濡髪大明神」の社(番号12)があります。この墓地域の北端です。石鳥居には「濡髪祠」と記した扁額が掲げてあります。 もともとは、火災除けの神、伽藍護持の鎮守として荼吉尼天(ダキニテン)が祀られていたと言います。寺伝によれば、御影堂が建立される時に住処を追われた白狐が、知恩院第三十二世雄譽霊巌(レイガン)上人にお願いして用意してもらったのがこの濡髪祠だとか。知恩院の守護神として祀られたと言います。白狐は童子に化けていたときその髪が濡れていたことで、「濡髪」の名の由来になったとか。(資料1,2)「『濡髪』が艶やかな女性の姿をイメージさせることから、祇園町のきれいどころの信仰を集め、今日では縁結びの神様『濡髪さん』として親しまれています。」(資料1) 傍にこの小祠が祀られていますが、不詳。 濡髪祠の傍からの京都市内(西方向)の景色 写真に撮ると樹木が目立ちますが、京都市内が展望できます。 見下ろすと、直下にも墓地が広がっています。 濡髪祠の少し南から東方向、華頂山を眺めた景色 すぐ傍の東方向には、整然と無逢塔が並んでいます。知恩院歴代の上人・僧侶達が祀られている墓所域なのでしょう。 鐘楼の向こうから射す日の光を眺めつつ、智慧の道を引き返しました。 知恩院境内案内図つづく参照資料1) 知恩院の建造物 :「知恩院」2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2423) 千姫 :ウィキペディア補遺浄土宗総本山 知恩院 ホームページ德川家と伝通院 千姫の墓所 :「伝通院」常総市: 弘経寺 :「茨城県:歴史・観光・見所」千姫 :「コトバンク」白狐,濡髪童子 怪異・妖怪伝承データベース :「国際日本文化研究センター」シロギツネ,ヌレガミドウジ 同上データベース :「国際日本文化研究センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -1 黒門から入り御影堂へ探訪 京都 久々に知恩院へ -2 経堂、唐門、法然上人像、智慧の道ほか&一心院 へ探訪 京都 久々に知恩院へ -4 大鐘楼、坂村真民さんの詩碑、三門、新門 へ
2023.12.15
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経堂 池の北側、御影堂の東側には「経堂」(番号9)。その北に宝篋印塔形式の「写経塔」があります。経堂は方三間単層・裳階(モコシ)付で、屋根は宝形造り本瓦葺き。元和5年(1619)建造。(資料1) 御影堂の東側の石畳道をそのまま北に歩めば、「唐門」があり、方丈の玄関前に位置します。「方丈」の入母屋造り桧皮葺の屋根が見えています。手前で右(東)に右折する道を進むと、 石段道に至る手前に、石灯籠が立ち、竿の正面に「大師御廟前」と刻されています。 石灯籠を東側から撮った景色前方に見えるのは御影堂の東側面。御影堂の右側には、集会堂と結ぶ回廊が見えます。 火袋の浮き彫りを撮って見ました。2面には鹿が彫刻されいます。他2面の文様は雲形の文様。 石段道の右側に「智慧の道」と刻された石標が見えます。 法然上人の御廟に至る道故のネーミングでしょうか。 石段道の左側に「法然上人像」が建立されています。台座の正面にはシンプルに「法然上人」とだけ刻されています。 この「智慧の道」の最初の石段道を上がった踊場の空間には、通路の左右、石柵の近くに大きな石造茶壺が奉納されていて、その先の通路の右(南)側には、 この碑が建立されています。私には判読できません。少し傾斜のきつい次の真っ直ぐな石段道を登り切ると、三方向に別れます。 正面の門から先は墓地になっていて、ここは関係者以外は立入禁止です。 門前の右側には名号を刻した墓石と阿弥陀如来石像が安置されています。背後に卒塔婆が立てかけてありますので、個人の墓所域かと推測します。 右側には、この山門があります。門の右側に、「浄土宗捨世派本山一心院」と記された大きな木札が掲げてあります。ここも門前に通行禁止の掲示がでています。知恩院は浄土宗総本山ですが、鎮西流(鎮西派)の領袖です。その境内地に隣接し「捨世派(シャセイハ)」という別派があることになります。これは江戸時代に德川家がこの地で鎮西派の活動を庇護し寺域の拡張と伽藍の整備に協力した結果、たぶんこういう現状の形になったのでしょう。捨世派は、「天文年間(1532~1555)の称念を祖とし、寺院の俗化や僧侶の形骸化に慨嘆し、法然の念仏思想に立ち返ろうと静閑な地に道場を設け、厳粛な清規のもとで専修念仏一行に励み、その興隆につとめた僧侶達のこと」をさすそうです。法然が叡山で黒谷に遁世したように、「念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達」です。首唱者の称念が、念仏道場として、この法然御廟の畔に一心院を開いたことで本山となったようです。(資料2)経緯がわかると、私には興味深いところです。左(北)側にも築地塀と門があります。こちらの門を入ると、上記「法然御廟」のある境内地です。 門を入ると左(西)側に「鐘楼」があります。北東側から撮った鐘楼です。 右(東)側にはすぐに石段があります。これは石段入口の北側の景色です。 右側の石標には「圓光大師諸国二十五霊場」と刻されています。圓光大師は法然上人のことです。また、左側の石碑には、「南無阿弥陀佛」の名号が刻まれています。 句碑がありますが。これもまた私には判読できません・・・・残念。知恩院の境内地の一番奥まったところに、勢至堂と法然上人の御廟があります。この境内地辺りが、大谷禅房の故地と称されるところです。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2422) 捨世派 :「web版 新纂 浄土宗大辞典」 補遺浄土宗総本山 知恩院 ホームページ鎮西流 :「web版 新纂 浄土宗大辞典」 中世の浄土宗 西山派と鎮西派 :「備陽史探訪の会」法然上人二十五霊場 ホームページ法然上人二十五霊場 :ウィキペデキア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -1 黒門から入り御影堂へ探訪 京都 久々に知恩院へ -3 御廟・勢至堂・紫雲水・千姫の墓・濡髪大明神ほか へ探訪 京都 久々に知恩院へ -4 大鐘楼、坂村真民さんの詩碑、三門、新門 へ
2023.12.13
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黒門10日(日)の午後、四条に出る用事がありましたので、併せて久々に知恩院を訪れてきました。目的は二つです。一つは御影堂の内部を参拝すること。もう一つは知恩院の坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」という詩碑が建立されていることを知り、どこにあるかを訪ねてみたくなったことです。一旦、三条に出てから四条に戻ることにしましたので、ウォーキングを兼ねて、三条から粟田口経由で神宮道の坂道を上りながら知恩院に行きました。そこで、冒頭の「黒門」から知恩院境内を歩み、御影堂に行くことにしました。以前に知恩院境内のご紹介をしていますので、散策径路の景観ご紹介を中心にまとめてみたいと思います。 この知恩院境内案内図は、三門(番号14)に近いところに掲示されているものです。案内図を切り出して、建物に番号を振ってみました。黒門は図の左下側、番号1の箇所です。 黒門を入ると、緩やかな石段の坂道です。正面に高い石垣が見えます。山の斜面が開削されて境内地が広げられているので、高低差ができるのが自然ですが、この黒門からのアプローチは、いつも興味深いところです。 左折して石段道を上ります。お城の中へ入っていく雰囲気を感じる坂道。 ふりむいて 次に右折して、正面に見えるのがこの景色 振り返ると、京都の街中が見下ろせます。 もう一度、右折して石段道を上ることになります。 時代劇の登城シーンに使えそうでしょう・・・・。 紅葉が綺麗でした。紅葉の先に見える鬼瓦 「北門」の木札が掛けてあります。(番号2)門越しに左(東)側に見えているのは「大庫裡」です。南に延びる石畳道を歩みます。番号3を振った「集会堂」辺りが、現在修復工事区域になっていました。もう一つの中門を通り抜けます。 歌碑のような・・・・。大石に刻まれた文字が判読できません、残念!さらに進むと、阿弥陀堂と御影堂を結ぶ回廊の下を通り抜けることになります。 石灯籠の西に「阿弥陀堂」(番号4)が見えます。 ここにも歌碑が建立されています。私には残念ながら判読できません。 手水舎の背後(西)に見えるのは阿弥陀堂とその南隣りの「多宝塔」(霊塔、番号5)です。 手水舎の屋根と空。 この碑はいい天気でした。 手水舎の西側から眺めた御影堂。御影堂は南面しています。 「御影堂」(ミエイドウ、番号6)の平成大修理が終り、落慶法要の時期にコロナ禍が問題となり始めました。そのため、落慶の儀式が終わった後も長らく堂内に入ることができませんでした。向拝の右(東)側には、スロープの通路が設置されています。バリアフリーへの配慮のようです。 ほんとうに、久しぶりに御影堂の堂内に入り参拝してきました。我が家の宗旨は浄土宗なので、大本山ということになります。子供の頃には、母親に伴われてお彼岸のお参りに来たものです。この御影堂内に入るのは数十年ぶりかも・・・・。堂内は撮影禁止。 御堂の大屋根からの雨受け槽の正面には「知恩院」と刻され、その傍に設置されたブロンズの蓮形水槽には「華頂山」と山号が陽刻されています。御影堂の拝見・参拝という一つの目的を終えた後、もう一つの目的をめざします。自由に散策できる境内エリアを一巡しつつ詩碑探しをしました。 御影堂前の境内地を挟み、南東方向には北面する「宝仏殿」(番号7)があります。 ここの雨受け槽の正面には、三葉葵の紋が刻されています。德川の家紋です。寺域の拡張、諸堂の整備など、德川家の庇護が大きいようです。逆に、京の都に事ある時には、江戸幕府はここを警備の本陣にする意図があったのでしょう。城構えの様相が頷けます。 納骨堂御影堂前の境内地を東に歩むと池があり、その先の小高い位置に「納骨堂」(番号8)があります。 石段の右(南)側傍に、この石仏像が安置されています。お地蔵さまではないのですが、涎掛けが掛けてあります。 蓮華座に半跏形式の観音菩薩像。その台座の下の六角柱は新しく設けられたもののようです。正面に「南無阿彌陀佛」と刻され、その右側の面には、「観音妙智力 能救世間苦」、左側の側面には、「生老病死苦 以漸悉令滅」と刻されています。調べて見ますと、「観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)」の経文の一節です。以下、参照情報から、該当の経文箇所、訓読文と現代語訳を引用します。(資料1)<衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦> 衆生困厄を被りて、無量の苦身を逼らんに、 観音の妙智の力は、能く世間の苦を救いたまう。 生きていくには多くの困難がともなう。苦悩がある。 思いどおりにならないことばかりである。 それでも勇気をもって菩薩として生きることさえ忘れなければ、 その生き方は人々を苦悩から救い、自分をも救ってくれるだろう。<種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅> 種種の諸の悪趣、地獄、鬼、畜生と、生老病死の苦も、以って漸く悉く滅す。 欲や執着といった煩悩によって、人はストレスをかかえ苦悩する。 老いや病や死といった苦悩も、老いたくない、健康でいたい、死にたくない という思いによって苦悩となる。 望んだようになってほしいという願い、その願いの根本にあるのは 欲や執着であり、菩薩はその真理を説くことによって人々から苦を取り除く。 その傍に、一石五輪塔、板碑、小石仏が祀ってあります。 地蔵菩薩像でしょうか。 納骨堂の北隣りには、この多層石塔(十重石塔)が建立されています。上京区の千本えんま堂(引接寺)の境内西北隅に建立されている「紫式部供養塔」と言われている多層石塔(十重石塔)と同じ形式です。複製された多層石塔のようです。 基壇の周囲に龕を彫り込み石仏が浮き彫りにしてあり、一層目の軸部には、各面に金剛界五仏の内の大日如来を除く四仏が浮き彫りにしてあります。 二層目の軸部には、それぞれの種子(梵字)が刻み込まれています。境内地に降り、北方向を巡ります。つづく参照資料1) 観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)の意味と現代語訳 :「禅の視点 -life-」補遺浄土宗総本山 知恩院 ホームページ 歴史と見どころ五仏 :「コトバンク」仏ならではの智慧を表す「五智如来」 :「Discover Japan」 空海が三次元化した密教の世界 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -2 経堂、唐門、法然上人像、智慧の道ほか&一心院 へ探訪 京都 久々に知恩院へ -3 御廟・勢至堂・紫雲水・千姫の墓・濡髪大明神ほか へ探訪 京都 久々に知恩院へ -4 大鐘楼、坂村真民さんの詩碑、三門、新門 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 3回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院 ふたたび -1 名号松・納骨堂、層塔との出会い 4回のシリーズでご紹介観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜スポット探訪 京都・上京 千本えんま堂(引接寺) 閻魔法王・紫式部供養塔・地蔵供養池ほか
2023.12.12
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11月12日に中央公民館で講演会を聴講した後、この石鳥居を幾度も見ながら通り過ぎていましたので、帰路に訪れてみました。少し前にご紹介した白長神社のある丘陵地の西側になります。 石鳥居の傍に、「下居(オリイ)神社」の案内板が設置されています。内容は後で触れていきます。 鳥居を通り過ぎると、左側にこれらの案内柱が立っています。左は、この神社の森一帯が「下居神社文化財環境保全地区」であることを示す標識です。右は、この下居神社が、旧宇治郷(宇治町)の下居(シモイ)地区の住民によって管理されてきたこと、社殿は江戸時代の建立で京都府登録文化財であることを説明しています。 この神社に祀られていたこの写真の神像三体と狛犬一対は、現在歴史資料館に寄託されていることが併せて記されています。 この神社の案内と観光案内標識を兼ねたものも設置されています。 参道に沿って、東側に大木が植えられています。右は通り過ぎてから振り返った景色。 参道を進むと、先に石段が見え、右側は児童公園になっています。その奥に小堂が見えますので、傍まで行ってみました。 格子戸越しに、お地蔵さまが見えます。地蔵堂です。 ユーモラスなお顔が描かれています。おもしろい。 朱塗りの明神鳥居が建てられていて、額束のところに「権現」とあります。神社名或いは神名でないのが珍しいと思います。権現とは、「仏・菩薩が日本の神に姿を変えて現れること(たもの)。(昔の神の尊号の一つとして用いられる)」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味ですので、この尊号だけでは一般的過ぎます。区域外の私にはわかりづらい・・・・。 石段を上がった後、境内地の参道を歩みますと、参道の先に社殿が見えてきます。ちょっとした小高い山の上が削平されて境内地になっているような感じです。左側の大木の手前に、 この歌碑と駒札があります。 秋の野のみ草刈り 葺き宿れりし宇治の 京(ミヤコ)の假廬(カリイオ)し思ほゆ「この歌は、皇極天皇の大和から近江への行幸につきそった額田王の歌と伝えられ、 『秋の野の草を刈って、その草で屋根を葺いて泊まった、宇治のみやこの仮小屋の ことがなつかしく思われる』という意味である。 平成4年10月 宇治市 」 (駒札転記) 皇極天皇とは斎明天皇のことでもあります。下居神社のあるこの地は、天皇が行幸の途中に行宮(アングウ)を営んだ趾地といわれているそうです。「宇治のみやこ」の場所だとか。『万葉集』を確認しますと、第7番目の歌として収録されていて、「額田王の歌 いまだ詳らかならず」と記されています。 (資料1)さらに、石鳥居傍の案内板には、「明日香親王別業地跡とも伝えられている」との説明も記されています。 朱塗りの瑞垣に囲まれた本殿です。 狛犬像の代わりに、石灯籠が一対、拝所の両側に配置されています。西之屋形風の石灯籠です。 ご祭神は、伊邪那美命 (イザナミノミコト) 創造神 速玉男命 (ハヤタマオノミコト) 水の神 黄泉事解男命(ヨモツコトワケオノミコト) 祓(ハライ)の神 です。当社の創祀時期は明らかでは有りませんが古社だそうです。本殿は、三間社流造桟瓦葺の建物。 本殿に向かって、右斜め前にこの境内社があります。流造の屋根の小社です。 近くで拝見しましたが、特に掲示がなく、祭神は不詳です。あとは社務所の建物があるだけです。少し寂れた感じすら受ける静寂な雰囲気に囲まれた神社でした。参道を戻るとき、 この句碑が建立されていることに気づきました。残念ながら私には判読できない文字があります。句碑のご紹介に留めます。 参道を引き返し、JR奈良線の宇治駅に向かいます。参道両側は紅葉した落葉が降り積もっています。幹線道路までの静かな歩みのひとときです。下居神社探訪をこれで終わります。序でに触れておきます。講演の中での話から、確かめてみたくなったこと。JR宇治駅前を通るとき、 これが郵便ポストであることは認識していました。お茶の宇治だから茶壺になぞらえてPRを兼ね創られたものか、それくらいにしか考えていませんでした。ポストの正面の下に、こんな銘板が設置されていることを、講演の中で宇治を意識するイメージの一例として聞き、初めてその由来を知ったのです。 「宇治市制施行50周年」を記念して、この茶壺型ポストを2001年3月23日に設置したとのこと。このポストの設置時点では、はや10年余の時を経た宇治市民になっていたのですが、知りませんでした。知らないことばかり・・・・。そこで、調べてみますと、この茶壺型ポストのモデルとなった茶壺が、ここから徒歩10分ほどの場所にある宇治茶の老舗「堀井七茗園(ほりいしちめいえん)」の店頭に並べられているそうです。今度はそれを序での時に見て来ようと思っています。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『新訂 新訓 万葉集 上巻』 佐佐木信綱編 岩波文庫2) 京都府内の珍しい郵便ポストーここから手紙を出してみたい!ー :「COCO-KYOTO」補遺神像と狛犬 下居神社 宇治史探検No.010 :「ええとこ発見うじ」堀井七茗園 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.11.23
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金堂正面の参道を入口(西)方向に進んで、金堂を眺めるとこんな景色です。参道の右側が、柴灯護摩道場で、「青葉まつり」の行われるところです。 参道を進む人の後ろ姿が写っている参道の左側に仏足石が建立されています。その傍から北方向への通路を歩めば、既にご紹介した宝篋印塔の隣りにこの戦没者供養塔が建立されています。 この参道の北側の少し奥まった位置にこの像が建立され、駒札が立っています。傍まで歩み、拝見します。 「玄宥僧正」[享禄2年(1329)~慶長10年(1605)]の坐像です。智積院中興第一世です。「豊臣秀吉の紀州根来攻めの難を逃れ、苦節16年、慶長6年(1601)德川家康の外護を得て当地に智積院を再興された」(駒札転記)坐像の背後に見える建物はかつての収蔵庫です。ここで長谷川等伯筆の障壁画等を拝見したと記憶します。現在の用途は知りません。 西に歩みます。旧収蔵庫の西側に拝観受付所があります。 拝観受付所の手前から北を眺めた景色です。ここが有料ゾーンへへの入口。五色の幕が見える唐門の先に、「講堂」その北に「大書院」「宸殿」があり、大書院の東側に「名称庭園」があります。南北に細長い池を設けた地泉観賞式の庭園です。このエリアは漆喰の白が美しい築地塀が西と南の境界となっています。 参道をさらに西に進むと、「延命子育地蔵大菩薩立像」が祀ってあります。この地蔵菩薩像は併せて水子精霊の供養も行われているそうです。 地蔵菩薩像を拝しつつ、金堂正面の参道から右折して、北への石畳道を進みます。 地蔵菩薩像の北側に、この井戸があります。井戸の覆屋の柱にしめ縄が張り巡らしてあります。少し先から、この石畳道の右(東)側は上掲の白亜の築地塀になります。 通路の正面には「本坊」への門が見えます。この石敷道をよく見ますと、中央は長方形の板石が真っ直ぐに敷かれていて、その両側は不定形の石がそのままに組み合わされた石敷道となっています。気にかけずに、この通路を歩いていますが、禅寺と同様に、中央を歩むことについて決まりがあるのでしょうか。 通路の西側にこの小堂があります。お堂前の石標には「大日如来」と刻されています。大日如来堂です。 大日如来石仏白い涎掛けが掛けてありますので、一見だけでは私にはお地蔵さまとの区別がつきません。 小堂の屋根の軒丸瓦の瓦当に三頭巴文が使われています。地蔵堂の場合は卍文が一般的だと思います。 大日如来堂の少し先で、右側を眺めた景色境内図で見ますと、大書院への玄関口の建物です。「大玄関」の南側には白砂が敷かれた枯山水庭園風の前庭になっています。 大玄関の前辺りの西方向を眺めると、緩やかな石畳の坂道と門が見えます。 両側に白亜の築地塀の建つ石畳道の先にあるのは境内から眺めた「総門」です。この総門は、東福門院より移築されたと伝えられているそうです。(境内図より) 総門の正面には、西に七条通が延びています。七条通の東の突き当たりが智積院です。 総門を入り、緩やかな石畳の坂道を上ってくると、この大玄関が見えるという景色です。この玄関口を入り、真っ直ぐに進めば大書院へ、手前で右折し廊下を歩めば講堂に至る配置のようです。 元の通路を北に進むと、門に突き当たります。右の門柱に掲げられた木札には、「本坊 法務所入口」と表記されています。門の右側は待機席が設けてあります。 「法務所(本坊)」。普通のお寺なら、庫裡にあたる建物になりますね。 本坊の前を通り過ぎ、そのまま通路を進むと、「北門」が見えます。この門は、東山七条交差点から東方向の坂道に向かっています。智積院と北側の妙法院との間にある坂道です。豊国廟への参道です。新日吉神宮、京都女子大学等のキャンパスへの坂道でもあります。京都女子学園(中学・高校・大学)への通学路になっていますので、親しみを込め「女坂」とも呼ばれています。(資料1,2)智積院への元の入口へ引き返します。 本坊の門を通り過ぎ、大玄関前辺りから石敷道を西方向に撮った景色です。こちらの方が石敷道の様子が分かりやすいでしょう。総門からの道とも対比して眺めてみてください。 通路を引き返し右折した角近くに、この「総本山 智積院の歴史」の案内板が設置されています。説明内容から、次の点に触れておきます。詳細は説明文をお読みください。*根来(ネゴロ)攻めの難を逃れた玄宥僧正は、苦節16年間の後この地に智積院を再興。*再興された智積院の正式名称は「五百仏山(イオブサン)根来寺智積院(チシャクイン)」*明治33年(1900)に、「真言宗智山派」の総本山と公称する。宗派に3000寺院が結集 ⇒ この時点で、真言宗は諸派に分立した。*智積院は現在も「修行の寺」として、信仰のよりどころとなっている。 毎回載せてきたこの境内図が上掲案内板のすぐ手前に設置されています。 探訪の起点である入口に戻ってきました。左に「総合案内所」が見えています。御朱印はここで取り扱われています。その右側に、境内図と歴史の案内の掲示板があることがお解りいただけるでしょう。探訪を終えての帰路は東大路通を経由して、東福寺駅に向かいました。蛇足になりますが、序でにご紹介致します。 東大路通の東側歩道沿いにまずは南進します。振り返って眺めると、右(東)側は智積院の石垣と生垣です。 境内の西南角が石垣と塀を境界として凹地となっていて、境外地ができています。その隅地に、「地蔵堂」が建っています。元々境外なのかどうかは不詳です。 地蔵堂の屋根の正面の瓦当と軒丸瓦の瓦当には卍が陽刻されています。地蔵堂のシンボルです。 蟇股 格子戸の内側、堂内には少なくとも五体の石仏のお地蔵さまが安置されています。智積院の周辺で気づいたのは、この地蔵堂だけです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*境内図 :「智積院」1) 女坂 :ウィキペディア2) 女坂の桜が満開になりました :「京都女子大学」補遺総本山智積院 ホームページ真言宗 :ウィキペディア13宗派56派の宗祖・教え・教典・唱名など :「よりそうお葬式」 このページの説明では、真言宗は現在16派に分かれているそうです。大日如来坐像 :「文化遺産オンライン」大日如来 :「コトバンク」大日如来 :ウィキペディア【仏像の種類:大日如来とは?】密教最高の仏の梵字・ご利益・真言:「butsuzo link」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -2 金堂・仏足石・太師堂・もう一つの鐘楼堂ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ
2023.11.16
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金堂近くまで戻りますと、金堂の北側に東方向への石段があります。この石段道を東側へと上ります。右は石段上の踊場から見下ろした景色です。ここで道が分岐します。 左(北)側に一段高い境内地への石段が延びています。勿論、石段を上がってみました。 登り切った先には、前回同様に修行中のため立入禁止の掲示が出ています。前回の修業エリアを正面側から眺めることになります。 西方向に鐘楼堂が見えます。 正面に参道が延び、その先には「密厳堂(ミツゴンドウ)」が見えます。真言宗中興の祖・興教大師の尊像を安置するお堂です。寛文7年(1667)に建立されたお堂。智積院7世の運敞僧正が末寺・学侶に寄付を募り建立されたと言います。(境内図より) 参道の途中、右(東)側にブロンズの立像が建立されています。手許の本の竹村俊則画を参照しますと、「興教大師像」です。(資料1) 北東方向に、宝形造の屋根の「求聞持堂(グモンジドウ)」が見えます。文殊堂または護摩堂とも呼ばれるとか。本尊は虚空蔵菩薩で、他に文殊菩薩と不動明王が安置されています。(境内図より) 北西方向を眺めると鐘楼堂の先に土蔵造りの「運敞蔵(ウンショウグラ)」が見えます。智積院第7世運敞僧正の著作、研究された書物、資料などが収蔵されている蔵。延宝元年(1673年)僧正自らの発願により建立されたそうです。現在は運敞僧正の坐像も安置されているとか。(境内図より) 運敞蔵の先には、鎮守社と思える小社が幾つか祀ってあります。 現在地から一番近い位置にこの建物がありますが不詳です。石段を下り、先ほどの踊り場に戻って、東に進みます。 「永代 常光明真言」と刻された碑がまず見えます。光明真言は大日如来の御真言で、一切の苦悩を解脱せしめる真言を意味するそうです。(資料2) 少し回り込んで、石柵で囲われた五輪塔の正面から撮った景色です。 地輪の正面には、「當山化主 不生位」と刻されています。「当山化主」にある化主とは「化は教化の意で、教化の主」を意味し、「後には高徳の僧や大寺院の住持を呼ぶようにもなり、新義真言宗では、管長または寺院の住持の敬称として用いられるようになった」(資料3)用語です。つまりここでは歴代の智積院の管長を意味するようです。智積院のホームページの「青葉まつり」の説明文に「当山では、総本山智積院化主御導師のもと」という表現が使われています。羅漢さんと呼び慣れている阿羅漢という言葉はサンスクリット語の音写語です。訳し方はいろいろあるようですが、その一つが不生(フショウ)。不生というのは、仏の涅槃の世界に入ってもはや迷いの世界に生まれないという意味だそうです。不生位というのは、「日常生活のすべてが法に適う仏の行になってくる。そういうことでもはや迷いの世界に戻ってくることはない、生まれないということ」(資料4)という次元を意味するそうです。 飛び石伝いにお堂を回り込むと、お堂の正面に「光明殿(コウミョウデン)」と記された扁額が掛けられています。上掲の石碑と照応しています。現在は納骨されたお骨を安置しているお堂だそうです。(境内図より) 屋根の降棟の先端に鬼板が置かれ、宗紋が陽刻されています。このお堂の先に歩むと、金堂の背後(東側)に出ました。 空地の先には、再び石段が見えます。この金堂の背後の空地は紫陽花が咲く所だとか。石段の傍まで近づくと、手間に香炉を置いた台が設けてあります。 右側のすく近くにこの「学侶墓地」と記された案内板が設置してあります。江戸時代に智積院内で修行し、その志半ばでなくなった修行僧を祀った墓地です。平成3年(1991)に地蔵山から墓石群を移転、整備して、この聖域が造られたとのこと。この説明文には、江戸中期の宝永年間に、全国からこの智積院で真言教学はじめ学問を学び修業する学侶がその数千六百余人に及んだと伝えられていると記されています。 傾斜地に階段状の列が設けられて、墓石が整然と並んでいます。 石段を上がって行きますと、少し空間を隔てて右手前方がこの墓域の東端です。石垣の前に真新しい感じのこの石塔が見ます。さらに近づいてみますと、「東日本大震災物故者供養塔」が建立されていました。 石段の先は、一段高い境内地の側面壁が境界となります。上の境内地の五輪塔が部分的に見えます。こちらは後ほどに。ここで折り返して、一旦石段を下ります。 学侶墓地を上から見下ろすとこの景色です。西方向に金堂が見えます。 飛び石伝いに南西方向に下り、 その先にある東方向への石段道を再び上ります。すると先ほどの学侶墓地の東端の一段上の境内地を北方向に眺める場所に至りました。 東西方向に、2つの五輪塔が建立されています。 それがこれです。手前(西側)には、「僧侶納骨供養塔」、奥側(東側)には「檀信徒納骨塔」と刻した石標が立ててあります。これらもまた供養塔。 通路に戻ります。その先を眺めると墓域が続く景色です。この辺で引き返すことにしました、通路を下って行くと、小川が横切り、石橋が架けてあります。 その先に、「境内整備事業祈念碑」が建てられていました。道沿いに下って行くと、金堂の南側に出ます。 左(南)側に明王堂と池を眺めながら、金堂の正面に戻ります。 金堂前の通路を西方向に歩みます。この後は境内地の北西域を散策することに。それで一通り智積院境内で自由に散策できるエリアを拝見したことになります。つづく参照資料*境内図 :「智積院」1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p120-1212) 光明真言 :「永観寺観音院」3)『岩波 仏教辞典第二版』4) ○○不生位(お坊さんの戒名) :「本蔵院律良日記」補遺総本山智積院 ホームページ 真言宗と中興の祖・興教大師興教大師 :「真言宗豊山派」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -2 金堂・仏足石・太師堂・もう一つの鐘楼堂ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ
2023.11.15
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明王堂から北隣りのお堂に向かいます。 向拝は柱が4本と幅が広くとってあります。お堂の正面に金字で「智積院」と記された扁額が掲げてあります。「金堂」です。智積院の中心的な建物です。智積院再興の初期段階には、前回触れました祥雲寺法堂の建物を引き継いだときに、伝智証作の不動明王を本尊とする金堂がこの地にありました。しかし、天和2年(1682)の出火全焼により焼失。「元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2年(1705)春に」(境内図より)金堂が建立されました。その金堂が明治15年(1882)に火災により焼失しました。そして、この金堂は、宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業の一環として昭和50年に建設されたました。堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。西村公朝師の指導のもとに藤原様式で作られた仏像とのことです。(境内図、駒札より) 鉄筋コンクリート造りの金堂です。智積院の伽藍は苦難の変遷を経ていることが偲ばれます。 向拝の木鼻:象 中央の蟇股 鬼瓦 本堂前の石灯籠竿の正面(西面)には「永代常夜燈」と刻され、北面には「文化六歳己己(ツチノトミ)十二月」(文化6年は1809年)、南面には「江戸真福寺二十八世観豪建立」と刻されています。この灯籠は二百年余の智積院の盛衰を見つめてきたのでしょう。 金堂の屋根からの雨水受け水槽は蓮の花形で、正面には明王殿の香炉と同様に宗紋が付いています。 近くに大きな宝篋印塔が建立されています。 金堂前から振り返って西方向を眺めれば、広々とした空間が設けてあります。 金堂前の南北の通路 南から撮りました。この通路の先で左折すれば、講堂・名勝庭園などの拝観受付所に至ります。 さらに一筋西側で、南北と東西の通路の交差する北西角に、「仏足石」が建立されています。 金堂前の通廊を西に歩んできて、北側から見ると、上掲の空間の意味がわかりました。 「柴灯護摩道場」として、ここで「青葉まつり」の行事が行われるようです。金堂前に戻り、北方向に進むと、 石段の先にお堂が見えます。 石段上は、一段高い境内になっています。お堂への参道の両側には、 左(西)側に「弘法大師空海像」右(東)側に「稚児大師像」 の両像が建立されています。 正面のお堂は「太師堂」です。 太師堂は、寛政元年(1789)に学侶の寄付で建立されたそうです。弘法大師空海像が安置されています。遍照金剛院とも呼ばれるとか。(資料1、駒札) お堂の正面に、「遍照金剛殿」と記された扁額が掲げてあります。 太師堂の屋根の正面には獅子口が見えます。経の巻の瓦当には、三頭巴文が陽刻され、綾筋の下には輪宝が、さらに軒丸瓦の瓦当もまた輪宝が象られています。 向拝は唐破風の屋根で、兎毛通の部分には瑞鳥が彫刻されています。 桁先端、破風板の下の桁隠は植物文です。 向拝の頭貫の中央には、束が見え、その回りを丸彫りの彫刻像が見えます。麒麟像でしょうか。 全体の姿 頭貫そのものにも彫刻が施されています。 木鼻には象の頭部 この獅子像は、頭部に大斗と肘木を載せて頭貫を支える形となっています。時折、この形式を見かけます。上掲の象の頭部上も、同様の形式です。 太師堂前の石段を下ります。 途中に東方向への石段があります。この石段を上がると、 石段の上には、「これより先は修行中につき立入禁止とします」となっています。この柵の前に立ち、この境内地を眺めてみました。静寂そのものです。東山七条の交差点からわずか数百メートルの距離とは思えない静けさです。 まず鐘楼堂が見えます。こちらは天和2年(1616)に造立されたものと言います。(境内図より) 鬼瓦 蕪懸魚 蟇股これらは鐘楼堂の細部です。 鐘楼の右側前方にお堂が見えます。駒札をズームアップしてみますと「旧聞持堂」です。 鐘楼の左側の先には、石灯籠やお堂が樹木越しに見えます。「江戸時代には教学の寺として諸国から学徒の雲集するもの三千人におよんだ」(資料2)と言います。また、「第七世運敞(ウンショウ)の時代は特に講学が隆盛で、全国より参集した学徒は1700名、学寮70余が軒をつらねた」(資料1)とも。 石段を戻り、一旦金堂近くに戻ります。つづく参照資料*総本山智積院 境内図 :「総本山智積院」 1)『続・京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社 2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p119補遺総本山智積院 ホームページ仏足石 :「コトバンク」仏足石 :「三井寺」2023年6月15日 京都智積院 青葉まつり Walking around Kyoto Chishaku-in Temple 【4K】 YouTube(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 智積院 -1 境内散策・鐘楼・明王殿・宝物館ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -3 密厳堂・旧聞持堂・運敞蔵・光明殿・学侶墓地ほか へ探訪 京都・東山 智積院 -4 玄宥僧正坐像、地蔵菩薩立像、大玄関、総門ほか へ
2023.11.10
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