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南竜山荘第1泊目の夜から天気が崩れ始めました。8月29日の早朝、小雨でしたが「展望歩道」を登り、もし雨が止み雲が切れて日の出が眺められるかすかな可能性に賭けて、「アルプス展望台」まで、メンバーのうち希望者だけで登ることになりました。 ダメモトで登山組に加わったのですが、小雨が止みそうになく山荘に戻る結果に。展望台のこの景色だけ記録として撮ってきました。雨雲とガスで周囲は何も見えないという状態です。 山荘で朝食を済ませた後、小雨が降る中を山頂目指して出発。小雨が降り続いており、デジカメを濡らしたくないし、絵にもなりません。写真を撮るのも最小限にならざるをえませんでした。エコーラインの登山道を登ります。万年雪が残っているところが一部あります。 途中、弥陀ヶ原を抜けていきます。 そして、室堂に。2,450mです。「白山室堂ビジターセンター」は大きな建物です。 室堂ビジターセンターの近くに、この案内板が設置されています。「山頂池めぐりコースの案内説明」があり、下方には深田久弥の『日本百名山』所載の「白山」の文の抜粋が掲示されています。池めぐりは、1周3.8kmで、所用約2時間のコースだとか。天気が良かったら楽しめるところだったのに、残念です。今回は話題にもなりません。室堂センターの前に、「白山奥宮」の額を掛けた木の鳥居が立つ神社が建立されています。この祈祷殿、社務所の建物はこの時(2015年)建替工事が行われていました。白山開山1300年を平成29年に迎えるため、その一環の記念事業として行われていたのです。(資料1)この祈祷所から御前峰の頂上の奥宮を拝するという形になっているようです。鳥居の傍に、「霊峰白山」の説明板があります。この説明では、「白山」が御前峰(2,702m)、大汝峰(2,684m)、別山(2,399m)の三峰から成り立つと説明しています。この山行で入手したリーフレットの説明は、白山の「山頂部は、御前峰(2,702m)、大汝峰(2,677m)、剣ケ峰(2,677m)で構成されています」(資料2)、あるいは「御前峰(2,702m)、剣ケ峰(2,677m)、大汝峰(2,677m)は白山三主峰と呼ばれ、火山活動の噴出物で構成されます」(資料3)と説明されています。御前峰、大汝峰、別山の三峰は、後述の僧泰澄及び白山信仰と大きく関わっています。鳥居の傍から、御前峰をめざします。 「青石」の標識を通過。 この標識の傍にある大石には、脇侍を伴う三尊像が線刻されています。 ここから250mほどのところに「高天ケ原」の標識天気が良ければ、見晴らしが良いことでしょう。 白山奥宮の社に到着。「白山比咩神社奥宮」です。 この奥宮の左側斜め上の一段高いところが、「御前峰」(2,702m)の山頂です。 一等三角点の角柱が傍にあります。 山頂側から眺めた奥宮の背面快晴だったなら、この「白山頂 御前峰 標高二七○二米」と中心部に刻された円盤を参照しながら、360度の各方位に聳える山々を確認できるのに・・・・・嗚呼、残念! 天気が良くないので、室堂ビジターセンターで昼食休憩タイムをとった後、南竜山荘までここから下山することになった次第です。下山途中、弥陀ヶ原に立つ真新しい道標が目にとまります。帰路は、「黒ボコ岩」を経由する登山道コースを歩きました。ただ登山道を辿るだけでしたが。 南竜道分岐に立つ標識 ここには、「甚之助谷第2号谷止工(大正4年竣工)」が平成24年に登録有形文化財に登録されたことの登録銘板や登山道案内図が設置されています。南竜道を歩き、再びエコーラインへの分岐点に戻ってきました。南竜山荘のシステムは宿泊が一泊単位のリセットでした。登山の荷物をここには残せません。そのため朝食後、登山前に総合受付の建物のところでザックを預かってもらいました。下山後ザックを引き取って、再度山荘利用の手続きです。この時期の利用者が少ないせいか、ラッキーなことに二泊目も同じ大きな部屋を我々の同好会メンバーだけで専有することができました。この後は、為すこともなし。小宴会の始まり・・・。翌30日、天気の状態はさらに悪い方向に。本降りに近い状況から下山開始です。快晴のときの計画はご破算にして、登ってきた砂防新道をひたすら下ることになりました。 休憩タイムにこの花の写真を撮っただけです。下山途中、怪我なく無事に、別当出合い登山口に到着! まずは、めでたし。ふと気になったことなどを後日調べてみました。いくつか補足してみます。後智恵に過ぎませんが・・・・私のための覚書です。なぜ「甚之助谷」と称するのか?求めよ、さらば与えられん・・・ではありませんが、由来説明を見つけました。その名は、僧泰澄が白山開山のために山に分け入ったおり、道案内となった歩荷(ぼっか)の名前が「甚之助」だったからと言われているそうです。「甚之助は、集落一の強力(力持ち)で、五斗酒樽(約90kg)を運んでいた時に谷に落ちて死んだので、その谷を『甚之助谷』と呼ぶようになったとも、また泰澄大師が白山で修行を終えて下山する際、お供をしていた甚之助が病に倒れ谷の近くで亡くなったのでそう呼ばれるようになったとも伝えられています」(資料4)そうです。御前峰に白山比咩神社奥宮があるなら、白山比咩神社の本殿はどこに?また、白山神社と白山比咩神社の関係は?全国に広がる白山神社、つまり白山信仰の総本宮にあたるのが白山比咩神社なのですね。(白山神社の社名は何カ所かで見聞していましたが、両社の関係は考えたことがなかったのです。認識を新たにしました。)もともとは、白山をご神体として崇める信仰があったのでしょう。総本宮は現在の石川県白山市三宮町に所在。かつては石川郡鶴来町と称され、2005年の合併により白山市の一部になったのです。ホームページを参照しますと、社伝によれば崇神天皇の7年(西暦前91年)の創建だとか。その後、諸事情から遷座が繰り返されたようです。最終的に三宮を本宮鎮座の地と定められたのが1488年といいます。この白山比咩神社は加賀一の宮なのです。(資料1)個人的経験として、京都・醍醐寺の東、醍醐山には幾度か登っています。この山上の如意輪堂と開山堂との間に「白山大権現」(2011.1.22)の社があり、このときは白山との関係を意識しただけでした。また、地元・宇治の宇治川上流近くで、かつてあったという金色院の跡地で「白山神社」(2014.1.3)を探訪したことがあります。その時も金地院の鎮守社ということ及び白山との関係しか意識していませんでした。僧泰澄の白山開山と白山比咩神社との関係は?伝承によれば、泰澄は霊亀2年(716)夢に天女を見、翌養老元年(717)4月に白山麓の伊野原(現在の猪野瀬)で再び天女妙理大菩薩を夢に見て、「白山に来たれ」と呼びかけられ、白山登頂をしたといいます。御前岳に白山妙理大菩薩、大汝峯に越南地(おおなんじ)大権現、別山に大行事小白山権現を祀ったのです。これを人々は白山三所権現と称えたそうです。養老3年になると、全国に霊山であることが聞こえ修行者が登山するようになっていったそうです。当時は神仏習合、本地垂迹思想が流布した時代です。次のような認識が形作られていったようです。 白山妙理大菩薩 垂迹して白山比咩神 本地仏:十一面観音 越南地大権現 祭神:大己貴命 本地仏:阿弥陀如来 大行事小白山権現 祭神:大山祇命 本地仏:聖観音 (大己貴命:おおなむちのみこと、大山祇命:おおやまずみのみこと)天安2年(858)、妙理権現は比叡山に勧請され、客人(まれびと)権現として、山王七社の一社になったようです。つまり、日吉大社を介して、比叡山延暦寺とのつながりができていくということなのでしょう。現在の日吉大社の山王七社の一つ、白山宮です。日吉大社は延暦寺の護法神という位置づけです。社伝によると久安3年(1147)に白山本宮が比叡山延暦寺の末寺となります。白山修験は比叡山の支配下に入り、この白山本宮が天台宗系の修験者の根拠地となります。白山信仰・白山神社が一層各地に広がることにもなっていったのでしょう。明治時代の神仏分離令が発令された後、御前峰が白山比咩神の奥宮として位置づけられたのです。 (資料1,5,6)白山比咩大神とは?白山比咩神社のホームページや手許の諸本を見ますと、神社の祭神は「菊理媛尊(くくりひめのみこと)」であり、白山比咩大神、白山媛命というのは別称にあたるようです。「白山比咩神社では、菊理媛尊とともに伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)も祭神として祀られています。」(神社ホームページ)手許の本では、上記のように、「垂迹して白山比咩神」と記した上で、さらに「一説には伊弉諾・伊弉冉の二神、または菊理媛命と伊弉諾・伊弉冉の三神、あるいは大山祇神ともいわれ」(資料5)と補足説明しています。信仰者の理解に幅があるということでしょう。興味深いのは、この菊理媛尊が、『日本書紀』の神代の「黄泉の国」の条に記された「一書(第十)にいう。」から始まる説明の場面、つまり伊弉諾・伊弉冉の二神が泉平坂(よもつひらさか)で相争うところに「菊理媛神」として登場するだけの神なのです。この一場面だけに・・・・。「このとき菊理媛神が申し上げられることがあった。伊弉諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。ただし自ら黄泉の国を見られた。これが不祥であった。・・・・」(資料7)という風に記されているだけのようです。菊理媛神は伊弉諾尊に何を語ったのでしょうか?菊理媛尊(菊理媛神)の原像は、もともと白山を信仰する人々が、山の神のお告げを聞く巫女が神格化されたものではないかと考えられているようです。そして、神意をうける役割の菊理媛神が黄泉の国の神話に取り入れられていったのではないかと。(資料6,8)「白山比咩神社は、朝鮮系の有力な神ではなかったかと考えられる節々がある」(資料5)という説もあります。前回、「白山」に関わる和歌のご紹介をしました。この時ネット検索で知ったことを最後に記録しておきましょう。万葉集の巻頭は、雄略天皇の歌「籠もよみ籠もちふ串もよ 美ふ串もちこの岳に菜摘ます子 家告らせ名のらざね ・・・・・」で始まるのはご存じだと思います。この歌が詠まれた場所がどこか? それは、雄略天皇の泊瀬朝倉宮があったあたりと言われるところで、桜井市黒崎だそうです。そして、そこは現在、白山神社境内になっているところなのです。(資料9)白山神社が、思わぬところで繋がってきました。尚、泊瀬朝倉宮の場所には諸説があるようです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 白山比咩神社 ホームページ2) リーフレット 「白山国立公園」 白山観光協会3) リーフレット 「白山火山ジオサイト」 白山手取川ジオパーク推進協議会4) 甚之助谷の名称の由来 白山・手取川と生きる 「白山砂防通信」2006年春号 VOL.11 pdfファイル 5) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p4316) 『知っておきたい日本の神様』 武光誠 角川ソフィア文庫 p155-1567) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p328) 『「日本の神様」がよくわかる本』 戸部民夫著 PHP文庫 p60-629) 万葉集の巻頭の歌が詠まれた地 :「さくらい」(桜井市観光情報サイト)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺鶴来町 :ウィキペディア白山甚之助谷地すべり予知 :「川村研究室」標高2000mの辺境で土と格闘 :「ケンプラッツ」日吉大社 ホームページ ご祭神・ご神徳白山神社(桜井市黒崎) :「奈良県桜井市観光協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る [再録] 白山・御前峰 -1 別当出合~南竜山荘 へ
2018.01.18
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2015年8月末(28~30)、天候不順の中、同好会の夏山山行で白山に登りました。その山行記録を兼ねて、まとめていたものを再録し、ご紹介します。(再録理由は付記にて)この山行は、残念ながら快晴の空の下での白山とその眺望ではありません。しかし、一度は登ってみたかった白山です。小雨の中でしたが、御前峰(2,702m)の頂上・三角点まで登れ、私の一応の目標はクリアできました。天候不良で登山を途中で断念せざるをえないとならなかっただけでも良かったというところです。冒頭の場面は、朝JR米原駅東口前を出発し、別当出合の駐車場に到着した時の写真(8.28/11:30頃着)です。これは、別当出合登山センター前にある登山道案内板 別当出合にある登山口標識白山国立公園は、石川・福井・岐阜・富山の4県にまたがり、白山を中心とした面積47,700haの山岳自然公園です。白山は富士山・立山とともに日本三大名山(霊山)の一つ。私にとっては御前峰に登るだけになりましたが、これで何とか晩秋の富士山、真夏の立山、晩夏の白山と、この三山には登ることができました。(資料1)「私のふるさとの山は白山であった。・・・つまり私の故郷の町のどこからでも見えた。真正面に気高く美しく見えた。それは名の通り一年の半分は白い山であった」と深田久弥は「白山」の一文に記しています(資料2)。加賀の白山と呼ばれるのは、「そこから見た姿が一番すぐれていたからであろう」とも。白山に登ってみたかったのは、深田久弥が「白山」の次に書いている「荒島岳」を快晴の冬の日に登り、山頂から白山の姿を眺めて、この山に登って見たいと思ったのがきっかけでした。 標識の先に見える吊橋別当谷に架かるこの橋をまずは渡っていよいよ登り始めます。 ヨウシュヤマゴボウ吊橋から景色が、ほんの少し近くなります。 「中飯場」で小休止このあたりから、高山植物が目にとまるようになってきました。植物の名前が判然としません。後で手許の高山植物についての本を開いて見ても、多すぎて分かりづらい。本を参照し、たぶん・・・と思えるものだけ一応名前を添えてみます。間違いがあるかもしれません。教えていただけるとうれしいです。 キオン 中飯場から「砂防新道」を登ります。 万才谷・不動滝と甚之助谷の出会う箇所には、「柳谷導流落差工」が施工されています。この景色がよく見える山道の傍に、説明板が掲示されています。これは、「甚之助谷と万才谷から流出する洪水や土石流を、谷の中心部に流れるように導くと同時に、洪水や土石流のエネルギーを落差工で減少させて、渓床や渓岸斜面の浸食や崩壊を防ぐために作られた構造物」(説明板)だそうです。また、左端には、「甚之助谷地すべり」についての状況と対策の説明が写真入りで記されています。手取川の源流、白山の標高1,600~2,100mに位置する大規模地すべり地域であり、現在も年間10cmを超える移動が続いているそうです、平成21年から万才谷の流水が地下水流として地すべりブロックに浸透しないための対策として、排水トンネルを施工し、赤谷に排水を導く工事を継続しているそうです。中央の写真は「白山を西から撮影した、手取川水系牛首川の最上流の航空写真」だとか。 エゾイチゲ 「別当覗」(1750m)の標識ここで小休止しました。 タカネトウチクソウここからの眺め。前方の山肌が抉られたようになっているところが、別当の大崩れでしょうか。 全体の遠望はこんな景色の広がりです。 ハクサンボウフウ 「甚之助避難小屋」にて、小休止 ここからの景色をしばし眺めました。 エゾノシモツケソウ「室堂」に向かう分岐。階段道を登っていくと2kmで「室堂センター」に至ります。これが「黒ボコ岩」経由の登山道なのでしょう。私たちは右手方向、「南竜ヶ馬場」1kmに向かいます。 ハクサンフウロほか ミヤマトリカブト 「エコーライン・室堂」と「南竜ヶ馬場・別山」への分岐点の標識宿泊する「南竜山荘」まであと少し! ニッコウキスゲ赤い屋根の建物が見えてきました。 最初に見える建物が「南龍ヶ馬場セントラルロッジ」 ここは南竜総合受付のある建物です。 前方の景色 同じ場所でパノラマ合成した全景宿泊はこの最初の建物より少し高いところにある2階建ての山荘です。南竜山荘の2階が宿泊の部屋でした。中央に通路があり左右が上下二段になっています。この時期比較的間になって空いていたので、同好会メンバーだけで大きな部屋を利用することができました。二階のテラスから、南竜ヶ馬場のキャンプ場の方を眺めた景色何とか1日目は無事到着。この日は雨に降られることはなくて、何とか一部に青空も見ながら、曇天の中を登ってきました。予報は夜から天気が崩れていくようでした。残念ながらこれが的中。白山を「ハクサン」と呼ぶようになったのは江戸時代の頃のようです。古代・万葉集の時代から「ハクサン」は「しらやま」と称されていました。折口信夫著『萬葉集辭典』は、「しらやま[白山]」の見出しで「又、しらね。加賀國白山。最高峰が御前嶽で、白山神社がある」と説明しています。「白山からおろす風」を「しらやまかぜ[白山風」」と称していたのです。(資料3)ある和歌のデータベースを検索参照し、手許の本その他でも確認した歌の事例をご紹介しましょう(資料4)。『万葉集』にはこんな歌が収録されています。(資料5) 栲衾(たくふすま)白山風の寝なへども、 子ろが襲衣(おそぎ)のあろこそ、吉(え)しも 3059 (白山風が烈しう吹いて、寝ないで居るけれども、さふ言ふ寒い晩に、 いとしい人が、上に引つかけて居た、記念の著物のあるのが、嬉しいことだ) 大伴家持の『家持集』には、白山を詠み込んだ歌が2首あります。(資料6) あら玉の年もわたりてあるがうへにふりつむ雪のきえぬ白山 271番 しら山のみねなればこそ白ゆきのかのこまだらにふりてみゆらめ 274番『古今和歌集』には、短歌5首、長歌1首が収録されています。(資料7)凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は、 こしのくにへまかりける人によみてつかはしける よそにのみこひやわたらむしら山のゆき見るべくもあらぬわが身は 383番と、越の国に行く人に送る歌を詠じている一方で、自分自身も出向いているのです。 こしの国へまかりける時しら山を見てよめる きえはつる時しなければこしぢなる白山の名は雪にぞありける 414番 「こしぢ」は北国街道のことです。藤原兼輔(かねすけ)も同様に おほえのちふるが、こしへまかりけるむまのはなむけによめる 君かゆくこしの白山しらねども雪のまにまにあとはたづねむ 391番歌の並びからすると、躬恒の歌に対して宗岳大頼(むねおかのおおより)による返歌と思われる歌が収録されています。 君をのみ思ひこしぢのしら山はいつかは雪のきゆる時ある 979番紀貫之もまた、1首詠んでいます。 こしなりける人につかはしける 思ひやるこしの白山しらねどもひと夜も夢にこえぬよぞなき 980番壬生忠岑(みぶのただみね)は長歌の中の一節に「越の国なる白山のかしらはしろくなりぬとも」」と詠み込んでいます。1004番上記のデータベースで検索すると、平安時代に詠まれた最後の事例は、西行の『聞書集』に収録された歌でした。「詞書」は漢文で「論文:若心決定如教修行、不越于坐三摩地現前」。そしてその歌は、 わけいればやがてさとりぞあらはるる月のかけしくゆきのしらやま 142番鎌倉時代の1303年頃に編纂された『歌枕名寄』の巻廿九:北陸道には、「しらやま」を詠み込んだ歌が上記のものを含めて44首収録されています。ご興味があれば、こちらをご覧ください。7413~7433と7533番です。「しらね」は「こしのしらね」をはじめ様々なバリエーションがあるようですが、こちらはどこまでが「白山」と関係するのか、不分明なところもあります。「しらね」で検索し関連の有無を判別してみるのも、おもしろいかもしれません。勿論、その後の時代にも「白山」は和歌や俳句に詠まれていきます。松尾芭蕉は、元禄2年3月に『おくのほそ道』の旅に出て、越後路から金沢・敦賀を経て8月下旬には大垣に着いています。この紀行文には句として収録されていませんが、白山の姿を眺めて、一句詠んでいます。(資料8) 風かほるこしの白根を國の花 (柞原) 544「風かをる越の白嶺を国の華」と記すこともあるようです。凡河内躬恒の歌で「白山の名は雪にぞありける」と詠まれていますが、「白山の白は雪の意味」だそうです。「白は万年雪であるとともに神のしるしで白山自体が神としてあがめられ、御前峰山頂には白山比咩(ひめ)神社の奥宮がある」(資料9)のです。『俳枕 東日本』に編者が挙げている現代の俳句からいくつか引用してみます。(資料9) 白山に月傾くと瑠璃鳴くや 角川源羲 白山の鷹舞ひ出でぬ雪卸 宮下翠舟 その上に白山すわる花野かな 新田祐久白山の開基は、養老元年(717)に僧泰澄によってなされたと言われています。このとき泰澄は36歳だったそうです。白山比咩神社の祭神は比咩神です。「比咩は姫であり、越中立山の雄勁な山勢の雄山(おやま)神に対して、加賀白山の優美な山容を比咩神として崇めたと伝えられる」(資料2,10)のです。夏山山行のためのトレーニングを兼ね、毎年事前に伊吹山に登るのが同好会の恒例になっています。この伊吹山を快晴下に登ったことのご紹介は既にしました。最後に、この伊吹山と白山を対比した歌を紫式部が『紫式部集』(岩波文庫)に収録しています。おもしろいので、序でにご紹介します。 水うみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを 名に高き 越の白山 ゆき馴れて 伊吹の岳を なにとこそ見ね 82つづく参照資料1) リーフレット「白山 国立公園」 白山観光協会2) 『日本百名山』 深田久弥著 新潮文庫 p366-3693) 『折口信夫全集 第六巻 萬葉集辭典』 中公文庫4) 和歌 データベース 国際日本文化研究センター5) 『折口信夫全集 巻五 口譯萬葉集』 中公文庫6) 「家持集 群書類従本」 :「作品」7) 『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫8) 『芭蕉俳句集』 中村俊定校注 岩波文庫9) 『俳枕 東日本』 平井照敏編 河出文庫 p250-25110) 泰澄 :「白山比咩神社」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺白山中心部の登山コースと植物観察白山信仰の歴史 :「ぐるっと白山1300年特設サイト」白山市高山植物保全事業 NPO白山高山植物研究会 ホームページ白山登山の初心者のための基本情報 :「きまっし金沢」(金沢の総合情報) 撮りたかったが撮れなかった写真事例が載っています。白山比咩神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る [再録] 白山・御前峰 -2 室堂・奥宮・御前峰、そして下山 へ
2018.01.18
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北白川・地蔵谷から一本杉までは尾根歩きで、午後に東海道自然歩道を歩きつつ大津市側に降る後半は、史跡探訪を兼ねる形になりました。それぞれの場所をかつて史跡探訪したことがあり、久しぶりの再訪の機会に恵まれたことになります。逆方向から歩くことになったので、それなりに新鮮な感覚があります。冒頭の写真は崇福寺跡の一つである「弥勒堂跡」です。まずは「崇福寺」ですが、「天智天皇の勅願によって、天智七年(668)に創建された寺院で、志賀寺とも志賀山寺とも呼ばれていました」(説明板より)。2回の発掘調査により、「三つの尾根上に礎石建物が建てられてていたことが明かに」なっているそうです。「崇福寺縁起」には、この寺が大津京の西北の尾根に建てられたと記されているそうです。昭和14年(1939)の発掘調査において金銅・銀・金の三重の箱に納められた舎利容器が銀銭・鉄鏡などと一緒に発見されているといいます。ただ崇福寺のものという証拠まではないそうです。「舎利容器の文化レベルから考えると、大津京跡に深いつながりがありそうだ」ということです。(資料1)この「弥勒堂跡」は北の尾根上にあります。礎石の配置からは五間三間の建物と推定されています。またこの「弥勒堂跡の東側に、瓦積み基壇の一部や石垣の一部」(説明板より)が発見されているようですが、不詳だとか。弥勒堂跡から西の谷側に降ると、「金仙の滝」と呼ばれる滝があります。その滝側に霊窟があるのです。ここにはこんな伝説があるそうです。「ある日、宮の乾(いぬい:北西)の方向に霊窟があるという不思議な夢を見た天智天皇は、その夢でいわれたとおりに、翌朝、この地に探しにきたところ、一人の僧侶と出会い、この地が仙人の住む霊窟であるという話を聞きました。このことが崇福寺建立のきっかけとなったということです。」(説明板より)この伝説、調べてみますと、『今昔物語集』の巻十一「本朝付仏法」の第29番目の話として、「天智天皇、志賀寺を建てたる語」という見出しで収録されています。(資料2) 滝側の洞窟は小規模で、奥行もそれほどありません。ひと一人が修行で留まる位の広さはあります。奧の壁面には定かではありませんがこの写真のようなあたかも祈願する人物像にも見える様な図柄が見られます。西の谷から、中の尾根に少し上ります。 そこには、東西に2つの基壇があるのです。小金堂跡と塔跡で、礎石がその位置を示しています。 説明板の地形図と堂塔跡の実測図を部分拡大してみました。地形図には、位置関係が見やすいように名称を追記しました。上記した舎利容器は、この塔跡の基壇中央部、地下1m余りのところに塔心礎があり、その側面にあけられた舎利孔から発見されたそうです。説明板には発見物が詳述されています。(説明板参照)ここから金堂跡のある尾根に向かいます。近くに建てられた標識によると、弥勒堂跡には180m、金堂跡・講堂跡には160mという距離関係にあります。 ここが一番広々とした平坦地になっていて、「崇福寺旧址」の石碑が山側の端近くに建立されています。旧は旧漢字で刻されています。 説明板 説明板の右上に掲載されているのがこの実測図です。この実測図を見ますと、上掲の石碑は金堂跡の中央付近に建てられていることになります。これが金堂の礎石の一部で、石碑に向かって左側面の礎石です。南の尾根上の西側にあり、約5.5mの基壇を設けた金堂跡と推定できる5間4間の南面する建物跡だそうです。 こちらが講堂跡の礎石の一部にあたるようです。この講堂跡と推定されている建物も、金堂跡と同様に5間4間の南面する建物跡だそうです。この講堂の北側に、3間2間くらいの小さな建物跡がさらにあります。(説明板より) 崇福寺全体の位置関係はこの地形図でおわかりいただけます。黒丸が説明板の設置されている場所です。3つの尾根上が開削されて諸堂が建立されていた状況がよくわかります。説明板には、興味深いことが後半に記されていますので、転記します。「この南の尾根上の建物と北・中の尾根上の建物群とでは、建物の方位や礎石の形状が異なることや南の尾根上の建物群周辺から白鳳時代の遺物が出土しないことから、現在、南の尾根の建物群を桓武天皇によって建立された梵釈寺に、北・中の尾根上の建物群を崇福寺にあてる説が有力視されています。 崇福寺は、壬申の乱によって大津宮が廃都になった後も、繁栄をつづけ、平安時代には十大寺のひとつに数えられるほどになります。しかし、平安時代末期の山門(延暦寺)と寺門(じもん:園城寺)の争いに巻き込まれ、衰退の一途をたどり、鎌倉時代後半頃には、ついに廃絶してしまったようです。」これは平成4年(1992)3月に大津市教育委員会により設置された説明板です。上掲説明板の左上にあるのは、南西方向からみた崇福寺跡の航空写真です。 大津市側から崇福寺跡に登ってくると、左の標識がその登り口になります。そこには右の写真の説明板があり、国指定史跡の崇福寺跡について、概説の説明がされています。ほぼ上記の内容と重なりますので、写真だけ掲載しておきます。これを最初に読むと総論部分を読むことになり、各尾根上の説明板が各論編になります。 これらの標識や案内板が設置されています。ここから、ウォーキングのメンバーは、志賀の大仏に向かいます。坂道を下ってくると、このお堂があります。坂道の下方向からお堂を眺めた景色です。ここはイメージしていただきやすいように、坂道を登ってきた方向からお堂にアプローチする形でご紹介します。 お堂の側に「石造阿弥陀如来坐像(志賀の大仏)一躯」と題した説明板が設置されています。お堂があるのですが、このお堂は参拝用の建物という感じです。 ご覧の通り、大仏様は露天のままなのです。かつては露天の大仏様がここに安置されていたのかもしれません。「この石仏の横を通る道は、崇福寺跡から山中町を経て京都の北白川へぬける旧山中越(志賀の山越)で、大津側の入口に位置するこの場所と、山中町の西教寺門脇、京都の北白川に石仏があり、いずれも山中越を利用した旅人が道中の安全を祈願したともいわれています」(説明板より転記) 高さ約3.5m、幅約2.7mの花崗岩に、厚肉彫に彫出した高さ約3.1mの阿弥陀如来坐像です。上半身に彫刻の主力が置かれ、13世紀頃に造立されたと考えられています。(説明板より) 堂内には、みろく菩薩御詠歌を記した額が掛けられています。この石仏が一説では「弥勒菩薩坐像」として伝えられているようでもあります。(資料3)それがこの額にも繋がる信仰なのでしょう。「志賀の大仏」は「見世の大仏」とも呼ばれていたようです。現在の地図を見ると、京阪電車の滋賀里駅の東側に「見世」という地名がありますので、この地名と関連があるのかもしれません。少し脇道に逸れますが、志賀の山越により京都の北白川に出るところに触れておきましょう。志賀越道が今出川通に達する辻のところに、「子安観世音」と呼ばれる大きな石仏が鎮座します。この石仏がそれです。2003年3月に撮った写真。駒札には、「ここは昔から白川の村の入口に当り、東は山を越えて近江へ向かい、洛中へは斜に荒神口に通じていた。また、出町から百万遍を経て浄土寺へ向かう細道との交差点でもあった」と往時の道の繋がりを冒頭に記しています。「細道」がいまや今出川通という幹線道路です。鎌倉期の石仏。また、江戸時代の『拾遺都名所図会』には「北白川の石仏」として絵を載せていて、そこには「北白河の石仏は希代の大像のいしていづれの代の作といふ事をしらず」と文を記しています。(資料4)この石仏は「古来子安観世音として町の人々の信仰があつく今も白川女は必ずここに花を供えて商いに出る」(駒札より)とか。 志賀の大仏から100mほど坂道を下った右側にこの石仏があります。磨崖仏の一種でしょうか。自然石に石仏を彫り込み、この場所に安置されたのでしょうか。この石仏も定印を結んでおられるので阿弥陀如来坐像なのでしょう。 さらに下ると、左側にこの標識が立っています。「百穴古墳」です。古墳群の入口付近に説明板が設置されています。 今から約1400年前、古墳時代後期に作られた墓が多く集まり、横穴式石室の入口が穴のように見え、それが数多くあることから「百穴」の名がついたそうです。墓に一緒に納められていた品々から、これまでの研究では、中国や朝鮮半島からやってきた人たちと深く関係する古墳群と考えられているそうです。この古墳群についての詳述は、部分拡大した説明文をお読みください。 更に坂道を下っていくと、石仏を集めて祀ってある一画が路傍にあります。「日本の茶栽培の発祥地 滋賀里」という駒札唐の時代に中国に留学し、帰国した僧永忠が延暦24年(805)に帰国の際、茶の種を持ち帰ったと説明されています。永忠は崇福寺と梵釈寺の検校(宗務総長)となったそうです。寺域周辺、つまりこの辺りに茶畑を開き、茶の栽培をしたといいます。「弘仁6年(815)嵯峨天皇唐崎行幸の折、天皇に茶を煎じて献じた。これがわが国における茶の接待の初めという」とか。(駒札より) 地蔵堂や法華塔が目に止まりました。 「千躰地蔵堂」の扁額が掛けられていて、格子戸から拝見すると、中央の地蔵菩薩坐像の周囲に小さな地蔵菩薩立像がまさに千躰余並べて安置されています。これだけ並ぶと壮観です。こういう形式で地蔵尊を祀られているには、初めて拝見しました。このお堂の前を通過したことがあるはずなのですが、その時は素通りしていたのでしょう。京阪電車滋賀里駅が今回の終点です。そこまではあと少しですが、その間にもいくつか目に止まるものがあります。 禅宗寺院の山門前でよく見る石標が路傍にぽつんと残されています。かつてのどこかの寺域の入口を示す感じですが、不勉強故に不明です。また、崇福寺遺跡への道標も立っています。 八幡神社の鳥居や、千鶴大弁財天のお堂の側を通過しました。今回は素通りとなってしまいました。後日に調べてみると、滋賀里八幡神社は9月に行われる秋祭りに特徴があるそうです。「約6mの青竹でつくった三本の鉾のお渡り。鉾は、松に日の丸の絵柄の3本の扇を円形に組み合わせて鉾の先端につけ、その中心に塩と米を入れた晒の袋をつるしたもの」という行事が行われるといいます。夕刻の神輿2基の還御も勇ましいとか。松明が灯され、神輿が境内を駆け回るそうです。(資料5,6)一方、千鶴大弁財天については、情報を入手できませんでした。そして、京阪電車滋賀里駅到着です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『滋賀県の歴史』 原田敏丸・渡辺守順著 山川出版社 p342) 『今昔物語集 本朝仏法部 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫 p93~953) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p74) 北白川の石仏 拾遺都名所図会 :「国際日本文化研究センター」5) 滋賀里八幡神社の秋祭り :「大津市歴史博物館」6) 志賀八幡宮秋祭り :「るるぶ.com」補遺滋賀八幡神社 9月15日秋祭り 歴史散歩 :「西近江 しんぶん」志賀八幡宮御例大祭(八幡神社) :「きょうの沙都」滋賀里 :ウィキペディア北白川の子安観世音(京都市左京区) ふるさとの昔語り :「京都新聞社」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く 比叡アルプス -1 北白川・地蔵谷 ~ 一本杉 ~ 崇福寺跡手前 へ
2016.12.05
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11月のウォーキングは「比叡アルプス」を歩くということで、どんなルートだろうかと楽しみにしていました。当日は快晴で紅葉も楽しむことができました。前半は山の尾根歩きで一本杉までのウォーキング、後半は東海道自然歩道にもなっている山道を降ったり登ったりしつつ、滋賀県側の山麓にある崇福寺跡や百穴古墳群などの史跡探訪を兼ねたウォーキングになりました。今回はその景色などをご紹介します。集合場所は京阪電車三条駅上のバスターミナルのB3です。比叡平行きのバスに乗り登山口まで移動です。「志賀越道」をバスで上り、地蔵谷のバス停で下車。バス停の近くには、「地蔵谷不動院」(別称:北白川不動院)があります。「南無大聖不動明王」と赤字で記された奉納幟が林立しています。真言宗醍醐派で、北白川山と号します。地蔵谷不動院はおもしろいことに、境内に「不動温泉」(天然ラジウム泉)を併設されているのです。(資料1) バス停の近くに、山の方に延びる道が川筋に沿って見えます。入口に「比叡山無動寺 弁財天道 五十三町」と記された石標が立ち、すぐ近くに、「北白川史跡と自然の道」と題した案内板があります。その説明によると、ここから約1,000mで見はらし台に達し、そこから稜線を辿って約800m行くと瓜生山山頂の平らな場所に出るといいます。ただ、見はらし台に行く手前の約200mはけもの道的な急坂をよじ登ることになると記されています。今回のウォーキングでは、この石標の側の急斜面を少し上り、尾根への山道に出てから、尾根伝いに一本杉まで向かうことになります。本来の登り口へのアプローチが閉ざされていたので、脇から登ったためです。 尾根道に出る途中でごつごつした岩の側を通過しまます。 尾根道はさほど見晴らしはよくありませんが、割合歩きやすい道です。何箇所か市内を眺められる箇所があります。右の写真はその1つです。尾根道を辿ると送電線の鉄塔の建つ場所に至ります。石標からここまでが記録写真の時刻でみると、1時間20分余の所要時間です。 そこから約10分で、小さな標識のある分岐点です。左方向が京都側の「石鳥居」、右方向が「一本杉」と表示されています。比叡山山頂の展望台がはっきりと見えるようになってきます。「NHK比叡山テレビ放送所」の表示板が出ている中継所の側を通過します。 この建物にほぼ隣接して、壁面に「京都精華大学表現研究機構 叡山閣」という大きな表示を掲げた建物が建っています。この前辺りの紅葉が見事でした。右の写真から、少し左方向に進んで撮ったのが、左の写真です。 この建物から数十メートル先に、「一本杉」があります。 一本杉の先が、大津市側を眺められる展望台になっています。この展望台の端に、「比叡山観光自動車道路 開通記念碑」が建立されています。その説明文によると、京阪電鉄が観光ドライブウエイ建設のための実地踏査の第一歩を印したのが昭和28年(1953)5月、正式な認可を得たのが昭和31年4月。その翌32年4月に起工され、間組の施工により延長8kmの道路建設工事を経て、昭和33年4月に開通したのです。紅葉した木々越し、尾根筋の先に大津市と琵琶湖が見えます。ここで昼食休憩タイムとなりました。 空は青空でしたが、下界は少し霞がかかったような状態でした。まず目に止まったのがノッボのビル。膳所にある大津プリンスホテルです。それを基準にすると、その背後に架かるのは近江大橋でしょう。 右下方向をズームアップしてみると、大津港が見え、琵琶湖汽船の大型観光船が停泊しています。 休憩の間に、大津港の沖合に設置された「びわこ花噴水」が稼働し始めました。調べてみると、数種のパターンがコンピュータ制御されて放水するしくみだとか。この噴水は平成7年3月に完成し、世界最大級の長さを誇るそうです。(資料2) ドライブウエイの側の通路を少し下ります。 道路を横切った後、「比叡山延暦寺」の石標が立つ傍から、再び山道に戻ります。ここから、「東海道自然歩道」のルートを辿って、降ったり、登り返したりしつつ、比叡を降っていきます。ここから目指すのは、崇福寺跡です。この標識のところで、「桜茶屋路傍休憩地」に少し寄り道することになりました。ドライブウエイを少し下がると、もう一つの展望台である「夢見が丘展望台」があるようです。このあたり、地図をみると、ドライブウエイが西側の山中町、東側の滋賀里町甲との境界になっています。崇福寺跡は滋賀里町甲の区域に所在します。 道路脇からの大津市内と琵琶湖の展望が少し身近により明瞭にみえる良い場所です。そして、引き返し再び崇福寺跡をめざします。 砂防ダム側の標識。崇福寺跡1.2kmと明示。 あと700mと記されいます。 あと600m。 結構標識が整備されています。いよいよ、崇福寺の弥勒堂跡まで80mに接近です。つづく参照資料1) 不動院 ホームページ2) びわこ花噴水 :「滋賀県」補遺不動院(地蔵谷不動院)(京都市左京区北白川) :「京都風光」比叡山延暦寺・無動寺谷(大津市) :「京都風光」第26番 無動寺明王堂 :「近畿三十六不動尊霊場会」びわこ花噴水の平成28年度運転計画について :「滋賀県」夢見が丘 比叡山山頂エリアスポット情報 :「比叡山・びわ湖」ドライブウエイガイド 夢見が丘 :「比叡山ドライブウエイ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2016.12.02
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赤神山山頂から山を下り、舗装された道路にでます。これは太郎坊宮参集殿のところから山沿いの道を上がってきた道路で、現在の表参道になるのです。つまり、車でこの「瓦屋禅寺」の門柱のところまで来れるのです。脇道から境内の坂道を上ります。上った所で、まず目に止まったのがこの十三重石塔です。 その一画はこんな景色で、この案内板が設置されています。ここには、瓦屋寺の沿革や建物などの説明が記されています。「当寺は寺伝によると聖徳太子が四天王寺建立に際し山麓の土を採って瓦十万八千枚を焼かせてその用に供した後この地に一寺を建立して瓦屋寺と号されたのが始まりと伝えます。四天王寺の瓦はともかくとして当山麓で早くから瓦が焼かれていたことは事実で旧表参道の階段登り口付近では白鳳時代の瓦窯の跡も発見されており、おそらくは箕作山麓にて瓦製造に携わっていた百済から渡来した人々の菩提寺が始まりであったと考えられます。」(案内板を一部転記)寛平3年(891)に東大寺の僧により再建されたといいます。信長による観音寺城攻めのおりのことと推測しますが、永禄年間に戦火に遭い、多くの伽藍や建物が焼失して終わったそうです。江戸時代の正保年間(1644~48)に香山祖桂(こうざんそけい)和尚が臨済宗妙心寺派の寺院として復興したそうです。香山祖桂は伊達家の菩提寺だった奥州松島・瑞巌寺の高弟だったそうで、八日市市(現在は東近江市の一部)に仙台伊達藩の領地があったことが機縁のようです。(案内板、資料1)「瓦屋禅寺」と記されているのがこのことから理解できます。 参道の反対側も庭になっていて、その一角に不動明王像が祀られています。 庭の各所に数多くの五輪塔石塔が見られます。右の写真の観音菩薩像を建立されています。 五輪塔とともに、石仏も集められています。たぶん、この地域の各所に祀られていたものがこの寺に納められたのでしょう。 観音菩薩の線刻像も奉納されています。門柱が境内の一つの区切りになっているようです。この先は、通路の左側は石垣になっていて、一段高くなった境内地です。 通路の右側には、お堂があり、その手前に地蔵菩薩石像と五輪塔群が見えます。 お堂の隣には、お稻荷さんの小祠が建てられています。通路の先には、「般若石」と刻された石標が立てられた巨岩があります。もともとここにあった岩なのでしょうか・・・・。 一段高い境内地に本堂などが見えます。通路を真っ直ぐに其のまま行けば庫裡などの建物になります。まず、こちらに近づいてみましょう。 左の写真が通路の正面に見える建物で、唐破風の玄関先になっています。右に行く石畳の先に、庫裡の玄関が遠目に見えました。右の写真は唐破風のズームアップです。一段高い境内地への石段傍に小さな覆屋があり、その中には左の写真の石仏像が安置されています。鬼子母神像でしょうか・・・・。 石段を上がった右側にあるお堂 瓦屋寺鐘楼 お堂の先には、宝篋印塔、石灯籠と鐘楼が見えます。 左側には、さらに一段高くなった境内地への石段があり、上に経堂が建てられています。石段下の傍に、六地蔵石仏が祀られています。傍の石垣の上に鬼瓦が置かれているのがおもしろい。 本堂本堂は正面から拝見しただけです。「瓦屋寺」と記された扁額が掛けてあります。上掲の案内板には、次のように記されています。「現在の本堂は入り母屋造りの萱葺き屋根で延宝年間(西暦1672年頃)の建立であり内部には本尊の千手観世音菩薩立像(国指定重要文化財)が三十三年毎に開扉される秘仏として安置され、それを護持するように木造四天王立像(市指定文化財)も安置されており供に平安時代後期の作です。 本尊は芋観音と称され江戸時代には天然痘をはじめ流行り病・難病に霊験あらたかとして諸国よりの参詣者で賑わい、薩摩芋を供えて諸願を念じたと伝え現在もなお同じ願いを託す人々が多いことに変わりはありません。」近江西国観音霊場第十八番札所にもなっているそうです。この本尊は「11世紀頃につくられた像高160cmの一木造の素地像で、42本の腕を広げた姿は壮観で、かつては疱瘡観音として民間の信仰が篤かった」(資料1)といいます。芋観音、疱瘡観音という通称には、人々の気持ちを率直に表していて興味深いものです。案内板には、「平成六年には金色大慈母観音像も再建されました」と記されています。今回は眺めていませんが、以前に訪れたとき、境内地に露天で立つ大きな観音立像を眺めたことを思い出しました。 向拝の木鼻や蟇股は豪快な感じすらする彫刻です。 本堂の蟇股の一つは竹や竹の子が透かし彫りにされていました。やわらかさを感じます。伊達家の家紋に「竹に雀」の意匠があります(資料2)。この蟇股も伊達家との関係でしょうか・・・・? 右の写真は、屋根を支える柱の斗栱とその上の手挟です。手挟全体に草花文が深く彫刻されています。本堂前に置かれた雨水の水盤側面には「嵯峨桐」の紋章が陽刻されています。伊達正宗が豊臣秀吉から拝領したという桐紋の家紋とは異なります。(資料2) 境内一隅の五輪塔を浮彫にした板碑 本来の表参道の石段冒頭の写真の門のところまで車でアプローチできるようになったので、本来の表参道を利用する人が激減したのではないでしょうか。石段の段差が少し大きく、部分的に石段が崩れたところもあり、少し整備が行き届かなくなっているように感じました。ネット検索でいくつかのブログ記事を拝見すると、1250段余の石段数になるようです。まだまだ充分往来できる参道ではあります。ちょっと登りごたえがあると言えます。下るのもちょっと大変です。 石段の途中に、「聖徳太子御腰掛石」の石標の立つ石があったり、石仏が傍に置かれていたりします。 また、石段からはかなり古い墓地と思える一画が見えたり、参道の下近くには、石仏群がみられたりします。 下山してきた参道の終わり、つまり本来の表参道の入口傍には、地蔵堂があり、その斜め前には、上記した「疱瘡観世音」と刻された石標が立っています。ここが本来の表参道の入口です。瓦屋寺バス停から箕作山方向への道絽を歩いてくると、この入口に至るのです。徒歩で15分程度でしょうか。この瓦屋禅寺参道入口の前は現在市道ですが、「旧いせみち」だそうです。「市道より参道を48m登り右へ32mのところに1号窯があり、2号窯は6mの間かくを置いて、いずれも『登り窯』の形態をしている」という瓦を焼いた「窯跡」があるのだとか。箕作山系の一山で、通称「瓦屋寺山」、古くは「白鹿山」の一つの峯に「小字時雨谷」があり、その山麓に「ユヤクノタニ」(油焼くの谷)と称された位置になるそうです。その「窯跡より山上び向け北西約100mのところに瓦の土を採取したと思われる地帯」があるといいます。瓦とともに少量の須恵器が焼成されていたこともわかっているようです。(資料3)「東近江市教委文化財課の嶋田直人主査は『瓦の文様が異なり、四天王寺の創建瓦とは全くの別物。八日市周辺の寺院や役所に使われたのだろう』と説明する。」というインタビュー結果を折り込んだ記事もみつけました。(資料4)今は入り込めないそうですが、近くの参道付近からこの地で焼かれた瓦のこと、聖徳太子の時代との繋がり、あるいは繋がりを考えた人々がいたということを想像するのも一つの古代ロマンかもしれません。白洲正子氏はあるエッセイの後半の一節にこう記しています。「この辺がいわゆる蒲生野で、外来の文化が色濃く残っている。近江商人発祥の地であるが、商才にたけた帰化人の伝統であろうか。聖徳太子に関する伝説が、至る所に見られるが、それは四天王寺を建立した時、帰化人の秦氏が協力したからで、近江で木材を調達したり、瓦を焼いたりした。八日市の太郎坊の山のつづきには、瓦屋寺と称する寺院があり、広々とした境内に、茅葺屋根の本堂が建っている。今は禅寺に変わっているが、推古の寺はいつまでも推古の面影を失わないのはおもしろい。四天王寺の瓦はここで焼き、瀬田川から積み出して、淀川を経て大阪へ送られたのであろう。私は太郎坊の行きずりによってみたのだが、思いもかけず美しい白鳳の瓦を見、たった一枚の瓦にも、ずしりと重い手応えを感じた。ここでも近江は裏方の役目を果たしていたといえよう。」と。(資料5) バス停まで歩いていく途中で、こんな表示板がありました。「瓦屋寺古墳群」です。今回は通過点になりました。この辺りには6世紀以降の群集墳があるのです。古くから開けていた地域だったということでしょう。案内板にも多少記載されていますが、ネット検索で「北山古墳」について少し情報を得られました。昭和48年6月土取作業中に古墳が発見されたそうです。そして発掘調査後に復元が行われているそうです。この古墳群の中では「最も大きく工法も精巧であり7世紀頃の湖東に君臨した豪族が帰化人の首長の墳墓といわれています。瓦屋寺山系の尾根毎に群在する横穴式や竪穴式古墳52基を確認し未確認を合わすと総数百余基と推定されます。 昭和49年6月 八日市市教育委員会」だそうです。(資料6) 瓦屋寺バス停に近いところ、バス路線の道路から瓦屋寺に行く道路の角になりますがこのお堂が最後に目に止まりました。近づいて拝見すると、小祠のすぐ後にある大きな岩の側面に地蔵菩薩像が浮彫にされているのです。もともとここに存在した大岩に彫り込まれたということなのでしょうか。瓦屋寺に行く分岐点の目印の役割をも担っていたのかもしれません。ここからバスに乗車し、JR能登川駅に向かいました。これで今回のウォーキングが終了です。尚、このとき元気なメンバーは能登川までウォーキングを継続しました。私はこの時はバス乗車組に加わって、早く帰宅することにした次第です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p89-902) 伊達家の家紋 :「伊達家伯記念會」3) 八日市市瓦屋寺町所在瓦屋寺瓦陶兼業窯址群について 丸山竜平氏 滋賀文化財だより No.25 :「滋賀県文化財保護協会」 4)その弐 瓦屋寺(東近江)深い思慕 地域に根付く 2014.3.3:「YOMIURI ONLINE」5) 『近江山河抄』 白洲正子著 講談社文芸文庫 p21-226) 八日市散策1 :「古代近江ウォーカー」補遺八日市市建部瓦屋寺遺跡出土の遺物について 大谷巖・丸山竜平 氏 滋賀文化財だより No.50 :「滋賀県文化財保護協会」東近江市の瓦屋寺(かわらやじ)の概要を知りたい。 :「レファレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く 箕作山ウォーク -1 万葉の森船岡山・十三仏(岩戸山)・小脇山城跡ほか へ歩く 箕作山ウォーク -2 小脇山・箕作山・赤神山 へ
2016.11.10
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冒頭の写真は、小脇山城跡の続きです。割石の石垣が部分的に残っています。小脇山の標高は国土地理院の地図では373.4mです。 山頂には、四等三角点があります。 小脇山 山頂からの眺めこの案内図が設置されています。眼下には小脇町から八日市駅あたりの町並、東には鈴鹿山脈を遠望できます。南東方向の風景が広がります。ここから尾根道を進むと、標高372mの箕作(みつくり)山です。 この山頂にも、案内図が設置されています。 箕作山からの展望(北方向)箕作山のすぐ前に、標高324.6mの清水山があります。この山に、観音寺城の支城として、箕作城が作られていたのです。箕作山・清水山から北西方向に繖山(きぬがさやま観音寺山)が位置します。佐々木氏の拠点・観音寺城があったところです。観音寺城跡は幾度か探訪していますが、箕作城跡は未訪です。今回はすぐ傍から山容を眺めることはできました。北方には和田山、その先に荒神山が見えます。快晴ならばさらにその先に、横山岳・金糞岳・伊吹山が遠望できるようです。前回部分拡大してみた案内板の地図で、今回の山歩きのルートです。赤丸が近江鉄道・市辺駅、マゼンダ色の丸が上掲の小脇山山頂、そして青丸がこの箕作山山頂です。この後、緑色の丸を付けた赤神山の山頂を経て、黄色の丸を付けた瓦屋禅寺に向かいます。国土地理院の地図をこちらからご覧いただくこともできます。箕作城と織田信長の関係に触れておきましょう。永禄11年7月に、和田惟政が岐阜を訪れ、足利義昭の上洛への援助を要請します。信長はこの要請を受け入れる形で義昭を援助します。信長は先陣として近江に出陣し、8月7日佐和山城に入ります。そこから、佐々木承禎に義昭上洛軍への協力を求めるのです。しかし、佐々木承禎はそれを拒否したのです。『信長公記』巻一には、「天下の所司代申し付けられるべく御堅約候と雖も、許容能(あた)はず。是非に及ばず」と記されています。(資料1)承禎に協力するれば天下の所司代職は保障されるぞと約束したのに、拒否されたのです。その結果、信長が観音寺城を攻めるという行動に出ます。義昭上洛の道を確保するためという訳です。9月9日、信長は平尾村に陣取りし、8日に高宮に着陣。9.10日は人馬を休め、11日には愛智川に進み、佐々木父子三人の立て籠もる観音寺、箕作山の攻略にかかるのです。「同12日に、かけ上らせられ、佐久間右衛門、木下藤吉郎、丹羽五郎左衞門、淺井新八に仰せつけられ、箕作山の城攻めさせられ、申の剋より夜に入り攻め落とし訖(おわ)んぬ。・・・・其の夜は、信長みつくり山に御陣を据ゑさせられ、翌日、佐々木承禎が館、観音寺山へ攻め上らるべき御存分のところに、佐々木父子三人廃北致し、13日に観音寺山乗っ取り、御上り候」(資料1)という顛末になります。当時は、現清水山を箕作山と呼んでいたということでしょう。信長は箕作城を本陣としたのですが、佐々木父子はあっさりと伊賀に敗走してしまう結果で一旦戦は終わります。「9月7日、信長は領国内の兵勢と同盟する徳川家康の援軍を合わせて、計4万とも6万ともいわれる大軍を率いて岐阜を出陣した」(資料2)ということですから、佐々木父子は慄然としたことでしょうね。箕作城は支城といえど、歴史に名を残しているのです。 箕作山の道標箕作城跡に行きたい所ですが、今回は太郎坊宮(阿賀神社)がある赤神山(あかかみやま)の山頂に向かいます。赤神山は太郎坊山とも称されます。山頂部はごつごつした岩場です。ここで昼食・休憩。休憩時、ここから眺めた景色です。南の方向には、三上山が望めました。少し、脇道に・・・・。赤神山のあるこのあたりは、かつては比叡山延暦寺(山門)領であり、799年最澄開基と伝えられる「成願寺」があり、天台宗の古刹です。全盛期には多数の坊があり、太郎坊山を管理していたとか。成願寺の奧の院として太郎坊宮が祀られていたといいます。上記のとおり、織田信長が近江に侵攻したときに兵火で衰亡したそうです。江戸時代には成願寺が太郎坊宮を管理していたそうです。明治時代に入り、神仏分離が行われたことで、ここもまた成願寺と阿賀神社に分けられたのです。現在、成願寺は行万坊と石垣坊の2院のみになっているとか。山頂もそうですが、巨岩が露出するこの山は、修験者(山伏)の行場だったところと言います。「京都の愛宕山に棲む八天狗の筆頭、太郎坊天狗がこの山を守護しているとされ」ていて、ここから太郎坊宮の名が定着したそうです。太郎坊宮は「勝運授福」の御利益があると言われていて、参拝客が多いようです。(資料3)太郎坊宮にはかなり前に一度訪れたことがあります。「夫婦岩」と称される巨岩の磐座が印象に残っています。ここから山を下り、瓦屋寺に向かいます。下る時に撮った景色をパノラマ合成した写真右側の手前の山の連なりの先に、指さすように見えるのが船岡山です。途中に、瓦屋寺への道標が見えました。つづく参照資料1) 『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p872) 『考証 織田信長事典』 西ケ谷恭弘著 東京堂出版 p1443) 『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p88-89補遺小脇山城(滋賀県東近江市) :「山城賛歌」近江 小脇山城 :「近江の城郭」箕作山城 別名箕作城 :「近江の城郭」観音寺城の戦い :ウィキペディア太郎坊宮 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く 箕作山ウォーク -1 万葉の森船岡山・十三仏(岩戸山)・小脇山城跡ほか へ歩く 箕作山ウォーク -3 瓦屋寺・瓦屋寺古墳群 へ
2016.11.08
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10月下旬に、ウォーキング同好会の例会に参加しました。JR琵琶湖線・近江八幡駅から近江鉄道に乗り継ぎ、「市辺(いちのべ)」駅に集合し、箕作(みつくり)山を歩こうという企画です。冒頭の写真は、市辺駅前に立つ案内板です。事前の下調べをしていませんでしたので、最初の掲示板を見て、ああ、ここが「蒲生野」と称されたところなのかと気づいた次第。一度、船岡山を訪ねてみたかったのです。おぼろげな地域感覚だけで、最寄り駅が「市辺」という知識がありませんでした。まずラッキー!という思い。併せて、「みつくり山ウォークマップ」の案内板がありました。今回のウォーキングの経路について、赤破線の上に青色太線を重ねて書き加えました。左下の「市辺駅」が出発点です。そして、 阿賀神社~万葉の森船岡山~十三仏参道~十三仏(岩戸山)~小脇山城跡~小脇山 ~赤神山山頂~箕作山~瓦屋禅寺~最寄りバス停から路線バス(JR能登川駅へ)という経路を辿ります。近江鉄道の線路を横断すると、八風街道に面して「阿賀神社」の石鳥居があります。八風街道というのは、中山道の武佐宿(現在の近江八幡市内)から、鈴鹿山地の八風峠(標高938m)を超えて伊勢桑名に至る街道です。中世には近江商人の重要な通商路となったそうです。一方このルートが、京都と尾張(名古屋)を結ぶ最短ルートでもあったので、当時は政治的、軍事的にも重視された街道だったそうです。八方から風が吹き当たるので、八風という名前が生まれたといいます。現在の国道421号線に相当します。(資料1,2)鳥居をくぐり境内に入ると、 拝殿が見え、その先に玉垣があり一段高いところに本殿があります。左側面にシートが張られていました。玉垣の前に、「阿賀神社縁起」説明碑が建立されています。ここは「蒲生郡市辺村野口」です。現在の住所で言えば、滋賀県東近江市野口町ということになります。縁起の説明を転記しますと、 「古老ノ傳言ニヨレバ 天正年間ヨリ 小脇村ニテ協同祭典守護シテ 明治元年二月二十四日本村船丘第一番ノ内三・四番ノ地ニ御分身ヲ受ケ移社セシモ 本社改築ニ接シ再ビ明治三十一年二月二十四日船丘第一番ノ地ニ轉社ス」祭神は猿田毘古神だそうです。 本殿の左側すぐ傍に右写真の大きな岩があります。磐座という感じです。その左側に、左の写真にある標識が立っていて、階段が見えます。ここを上がって行くのですが、その前に境内をさらに左方向に行きますと、一度訪れて見たかったものがあるのです。 それがこの蒲生野の遊猟レリーフ(陶板)です。描かれているのは、かつては蒲生野に自生していた薬草である紫草を摘む額田王(ぬかたのおおきみ)と蒲生野で遊猟をする天智天皇の弟・大海人皇子が描かれています。『日本書紀』巻二十七・天智天皇には、7年(668)、「5月5日、天皇は蒲生野に狩に行かれた。ときに大皇帝(ひつぎのみこと大海人皇子おおあまのみこ)・諸王・内臣および群臣みなことごとくお供をした」と記されています。(資料3)そして、『万葉集』巻一にあのよく知られた相聞歌が収録されているのです。 天皇、蒲生野に遊猟(みかり)しましし時、額田王の作れる歌 あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る 皇太子の答へませる御歌 明日香御宇天皇 むらさきのにほへる妹を憎(にく)くあらば人づまゆゑに吾(われ)恋ひめやも万葉集には、この相聞歌が記された後に、「紀に曰く、・・・・」として上記引用文が併記されています。(資料4)額田王は、大海人皇子との間に十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけています。しかし、その後天智天皇の寵愛を受けるようになります。十市皇女は天智天皇の子である大友皇子の妻となります。(資料5)古代、このあたり一帯は「蒲生野」と呼ばれ、雑木が生い茂り、鹿・猪が生息する野だったようで、天皇らの遊猟の後、酒宴が催された席で詠まれた歌といわれています。(資料6)傍にある説明板によれば陶板レリーフの原画は、「八日市市中央公民館の緞帳図柄をもとに、日本画家・大野俊明氏(成安女子短期大学助教授)が監修し描かれたもの」(平成3年10月)だそうです。陶板レリーフの先は、ウォーキング・ルートを外れるのでいきませんでしたが、「万葉植物園」が作られています。上掲案内板によると、「紫草をはじめ、万葉集に詠まれた植物約100種が、詠まれた歌とともに紹介されています」とのこと。この万葉の森・船岡山を散策し、一駅隣になる太郎坊宮(阿賀神社)の方にウォーキングするのも良いかもしれません。今回は、上掲の標識のところから階段を上り、船岡山(標高152m)の頂上に向かいます。 頂上にある「万葉歌碑」自然の巨石に「元暦校本万葉集」の原本そのままの文字で彫り込んだ石板が嵌め込まれた歌碑です。このあたりから、蒲生野の広がりを一望することができます。ただし、「蒲生野」がどこかは定かでないようです。安土町内野、現東近江市野口町・三津屋町・市辺町に「蒲生野」「蒲生野口」「小蒲生野」などの小字名が残っているそうです。(説明板より) 木橋を渡り、先に進むと、四阿の休憩所が設けられています。 船岡山を十三仏の方向に下って行くと、六地蔵が目に止まります。その先には墓地があるようです。 左の写真は先に進んだところで、船岡山を振り返った景色。右の写真は道路の一方向を撮ったのですが、ここが「安土街道」です。 十三仏への入口です。ここを右折します。 「十三仏口御堂」と称する建物があります。その一隅に、十三仏を描いた掛幅が架けられています。 竹藪に沿った道を進むと、「新四国八十八箇所霊場」と刻された石標が立ち、岩戸山山頂にある十三仏への参道(石階段の道)の両側に八十八箇所に関連する石仏像が立ち並んで行きます。眺めていくと、複数系統の石仏群が混在するように思いました。かなり記録写真を撮りましたがここでは省略します。(その数が多いことと、石仏群の関係などの考察・理解・整理ができていませんので)途中にこんな休憩所が設けられていて、「岩戸山十三佛由緒」が掲示されています。上記十三仏口御堂の傍にも簡略な説明板が立っています。この両者を併せて由来をまとめてみます。岩戸山は箕作山の南端と位置づけられています。聖徳太子が箕作山の東山腹に瓦屋寺を建立され、巡幸の途次瓦屋寺に駐輦(ちゅうれん)された時に、この岩戸山に金色の光を発する岩を見つけられたと言います。麓の牛の尾という地で、淨水噴出を見極めて斎戒沐浴三礼し、頂上の巨岩に自らの爪で十三仏を刻まれたという伝えがあるのです。刻まれた十三仏とは、不動明王、釈迦如来、文珠菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩だとか。他に、善光寺如来、弘法大師、神明大菩薩、八幡大菩薩が併せて安置されたと伝えられているそうです。尚、一説では岩戸山山麓に屋敷跡がありこの住民が巨岩を神仏として崇め、岩に刻んだという伝承もあるようです。私はこの一説の方が事実に近いのではという気がします。それが聖徳太子信仰と結びつき伝承が象徴化され高められたのかな・・・・と。磐座信仰が聖徳太子信仰と融合していっても、信仰心の発露ということになることでしょう。また、聖徳太子は飛鳥時代に生きた人です。一方、弘法大師空海は平安時代初期に活躍した人ですから、弘法大師が安置の対象となったということは、後世に加えられたということでしょう。13体から17体への増加には時代経過がありそうです。「岩戸山十三佛由緒」の末尾には、「全部で百六十体安置されている当山派又極楽寺と称されています」と記されています。 石段参道を歩み頂上に近づくと、左写真の石垣が見え始め、右の写真のように右側の巨岩との間に石段が続いて行きます。巨岩の許には、「岩戸神明」という扁額を掛けた石鳥居が立ち、「岩戸山神明」と刻した石標が巨岩の傍に立てられています。この巨岩(磐座)が御神体なのでしょう。 そして、巨岩の足許には幾つもの石仏像が立ち並んでいます。 石段を登り切った上が山頂近傍になります。少し広さがあり建物も建っています。右の写真の巨岩は左の方向に一層高くなっていきますが、その途中の岩上に左写真の石像が祀られています。この場所で振り返り、柵の傍に近づくとこの景色が眼前に広がっています。 こんな感じで、数多くの石仏像が山頂近傍の巨岩の周りに祀られています。この石仏群の中間にお堂があります。当日はその周りで数名のご婦人が作業をされていました。お堂の維持のための奉仕作務なのでしょう。そのためお堂の写真を撮っていませんが、十三仏はそのお堂の内部にあるのかもしれません。未確認です。今回、十三仏そのものを拝見することはできませんでした。巨岩を左の方向に回りこみ山頂への道を登ります。 少しの登りですが、岩戸山の山頂には、岩肌に矢印記号が彫り込まれています。この岩には今は布帯が注連縄のように巻かれていました。近くに、右の写真の「小脇山城跡周辺の遺跡」という案内板が設置されていて、小脇山城遺跡・瓦屋寺と瓦屋寺山古墳群・太郎坊山(赤神山)・太郎坊宮(阿賀神社)とこの岩戸山のことが紹介されています。その説明によると、この記号の刻された地点は、「旗振り場」の一つとして使われた場所だということです。「大阪から、野洲、岩戸山を経て彦根佐和山へと通信する、明治時代の米相場の旗振り場跡」なのです。矢印は野洲の旗振山に向かって刻まれているそうです。通信手段の発展していなかった時代に大坂での米相場の動きを如何に迅速に伝えるかという工夫であり手段だったようです。手旗信号の巨大版というイメージですね。望遠鏡が併用されたのでしょうか? 少し調べて見ると、「望遠鏡はイギリス東インド会社の貿易船司令官として、1613年に来日したジョン・セーリスから徳川家康、あるいは平戸の領主・松浦法印鎮信(初代)に贈られたものが最初であろう」といわれているそうです。そして、「その望遠鏡も元禄時代頃になるとだいぶ普及してきて、米相場や金銀相場に利用されるようになります。江戸幕府260年の基本は一石一両という米価でしたが、当時、箱根から東は金、西は銀相場で、江戸と大阪では毎日価格変動があったため、米や金銀相場で利益を上げるためには、基準に対しての騰落の程度をいち早く伝える必要があったのです。その情報の伝え方は、要所要所に配置した連絡員が手旗信号による符牒で順次伝えていくというものでしたが、この符牒を確認するのに望遠鏡が使われたというわけなのです。」(資料7)という説明を見つけました。米どころのこの近江でも多分望遠鏡を利用したのではないでしょうか。 岩戸山山頂からの展望岩戸山から尾根伝いに小脇山に向かいます。行く手に、石垣跡が見え始めます。小脇山城跡の一部です。この説明板が設置されています。 地図と縄張り図を拡大してみました。地図に吹きした赤丸が今回のスタート地点となった近江鉄道市辺駅のあるところです。もう1カ所、その先に石垣の一部を見ました。説明板に記されていますが、割石の石垣は明治時代のものとみられるそうです。一方でそれより古い時代の自然石の石垣箇所も残っているといいます。「小脇山城跡遺跡(標高373.4m)は、箕作山の南西に延びる尾根の上部に位置します。三方を望む景勝の地を占め、眼下には、鎌倉時代に守護として一大勢力を築いた佐々木氏の本貫地であったとされる、小脇館跡(脇館わきたて遺跡)を一望できます。 当地は東山道と伊勢山越ルートである八風街道の交点に位置する交通の要衝であり、経済的・軍事的に有利な地域でした。この地域を支配したことで、佐々木氏が勢力を拡大できたとされています。」(説明板より部分転記) 小脇山から北方向には、繖山(観音寺山、433m)があり、そこには観音寺城が築かれ、小脇山の尾根伝いに北東に行くと箕作山で、その北部にある清水山山頂には、観音寺城の支城として箕作城が築かれていたのです。小脇山からさらに尾根道を箕作山に向かいます。つづく参照資料1) 街道めぐり~八風街道~ ココロード通信 滋賀県土木交通部道路課2) 八風街道 :ウィキペディア3) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟訳 講談社学術文庫 p2314) 『新訂 新訓 万葉集 上巻』 佐佐木信綱編 岩波文庫 p495) 額田王 :「コトバンク」6) 『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p827) 米相場で大活躍した望遠鏡 :「東京メガネ」補遺国道421号線「八風街道」 :YouTube八風街道(富田宿→八風峠→武佐宿→近江八幡) :「ルートラボ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く 箕作山ウォーク -2 小脇山・箕作山・赤神山 へ歩く 箕作山ウォーク -3 瓦屋寺・瓦屋寺古墳群 へ
2016.11.07
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2泊お世話になったみくりが池温泉を7:00に出発。室堂バスターミナルの建物の傍の山道を通って、下山します。天狗平から弥陀ヶ原を経由し、弥陀ヶ原バス停まで歩いて、そこからチャーターの観光バスで帰路につくという予定です。 立山の地図を見ると、浄土山から西方向には、室堂山(2668m)、国見岳(2620.8m)、天狗山(2621m)と連なっています。ただし、国見岳、天狗山への山行ルートは地図には記載がありません。 天狗山の北に位置する高原状の中をゆるやかに下ります。天狗平という名称は、天狗山との関係で付けられたのでしょうね。天狗は修験道との関連でのネーミングでしょうか?北方向の遠くに見える三角の頂上は「剣御前」なのでしょう。天狗平の北側、東西方向への山の連なりがまず目に止まります。全体像はこのパニラマ合成となります。 2つの合成写真に分けてみました。剣御前をズームアップ天狗平の上空をヘリコプターが何度も往復しています。方々の山荘に食材料などの物資を運搬しているのでしょうか。高山植物の最盛期を過ぎていたのでしょう。天狗平、弥陀ヶ原の両方で、それほど花は見かけませんでした。 立山高原ホテルの建物が近くなってきます。背後にある山並みが、国見岳・天狗山ということになります。少し西に下り、違った角度から眺めた北方向の山々。山々が見る方向によって、少しずつ変化する姿を楽しめます。これも快晴が続いてくれた幸運の賜です。雨の中の高原下山だと・・・・気が滅入ったことでしょう。天狗平山荘の傍から、弥陀ヶ原に入って行きます。弥陀ヶ原は、主に火砕流堆積物の台地で、立山連峰自体は基盤の花崗岩類から構成されるのに対し、この台地は安山岩・ディサイトが低所を埋めてできたといいます。(資料1) 木道を進みます。「弥陀ヶ原遊歩道コース」の地図は、こちらからご覧ください(「立山黒部アルペンルート」)。 ガスが出始めると、瞬く間に景色が一変します。山の気象は微妙です。「ガキ(餓鬼)田」と称される水が溜まった小池が点在しています。池塘(ちとう)と称するようです。「ガキ田」の名前の由来は何だろうか・・・と調べていたら、次のような説明を見つけました。”弥陀ヶ原高原は標高約1,600~2,100mに広がる大草原で、「餓鬼田(がきだ)」または「餓鬼の田圃」と呼ばれる「池塘」は、標高2000m付近の湿地帯に多く分布しています。名前の由来として、餓鬼道に落ちた亡者が、飢えをしのぐために田植えをしたところからつけられたと言います。しかし、稲が実るはずもなく、この餓鬼田と地獄(地獄谷)が結びつき、餓鬼伝説が作りあげられたようです。”(資料2)信仰の山・立山。雄山の傍には、浄土(山)も地獄(谷)もある場所。神仏習合の時代、立山信仰が自然地形のネーミングに反映されていくのは当然かもしれません。「立山弥陀ヶ原・大日平」の表示がある休憩スペースがあります。ラムサール条約登録湿地だそうです。面積574haの「立山弥陀ヶ原・大日平」が2012年7月に登録されたのです。「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」というのが、この条約の正式名称なのです。この条約、1971年2月にイランのラムサールで開催された会議において条約が採択されたことから、その都市名が通称になっているのです。(資料3)弥陀ヶ原・大日平・称名渓谷及び称名滝が登録の区域になるとか。(説明板より)この休憩地から10分ほど歩いたところに、「弥陀ケ原ホテル」があります。その近くに、国民宿舎 天望「立山荘」もあります。両方とも近くで見るとかなり大きな建物です。この天望立山荘は標高1940mにあり、日本最高峰に所在する国民宿舎だそうです。(資料4)この国民宿舎のすぐ傍が、弥陀ケ原バス停です。弥陀ケ原ホテル横から、天望立山荘近くに行く途中で、最後に高山植物を見ました。 黄色い花はイワオトギリ。ピンク色のものは何でしょう?7月頃に来ると、弥陀ケ原はチングルマの白い花が咲き誇るようです。そして、ワタスゲの白い花も。咲き誇る高山植物を眺めながら、ゆったりと木道を散策するのもいいかもしれません。立山山行はこれで無事終了しました。後は観光バスで下山後、温泉に入りさっぱりとしたところで昼食を済ませ、帰路につくだけとなりました。ここ数年ぶりに天気に恵まれ、山を満喫できた夏山登山でした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 弥陀ヶ原 :「気象庁」2) 弥陀ヶ原高原の「池塘」 :「株式会社NTO」3) ラムサール条約 :「外務省」4) 天望立山荘 ホームページ補遺トレッキング :「天狗平山荘」 天狗平山荘や室堂ターミナルを拠点としたトレッキングのコース図と説明あり。天狗平 ライブカメラ :「Ustream」天狗平 :「JTB」弥陀ヶ原散策ガイド :「弥陀ヶ原ホテル」 「弥陀ヶ原高原散策マップ」と各種散策コースの説明あり。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る 立山の記憶 -1 室堂からミクリガ池、地獄谷、みくりが池温泉に へ登る 立山の記憶 -2 室堂平散策(ミドリガ池・立山室堂・玉殿岩屋) へ登る 立山の記憶 -3 室堂平・ミクリガ池に映じる立山・夕日と雲海 へ登る 立山の記憶 -4 早朝散策(エンマ台、火山ガス情報ステーション・山崎圏谷)へ登る 立山の記憶 -5 山荘 ~ 一ノ越 ~ 雄山 へ登る 立山の記憶 -6 雄山神社(峰本社)~大汝山 へ登る 立山の記憶 -7 大汝山での展望~大汝休憩所~富士の折立~道標 へ登る 立山の記憶 -8 クラノスケカール~真砂岳~別山~別山乗越 へ登る 立山の記憶 -9 雷鳥沢・地獄谷・血の池、そして縦走完歩 へ
2016.09.26
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別山乗越側からは、再び立山・雄山の風景が素晴らしくなります。別山乗越から雷鳥沢を下ります。立山縦走の最終着地点は、みどりが池温泉です。そろそろ疲労が蓄積してきており、この最後の下り・登りの繰り返しが思った以上に苦しかった感じです。終わってみれば・・・、なのですが。この最終ステージはしんどかった!雷鳥沢のキャンプ場に色とりどりのテントがほぼびっしりと張られています。キャンプ場を過ぎると、今度は登りです。地獄谷を昨日・今朝とは違う方向から眺めます。地獄谷を眼下に眺めつつ、南側沿いに進みます。雷鳥荘の傍を通り、最後の登りということになります。早朝の散策の折には見下ろしていたのを登らざるをえません。 「火口跡が池になったもので、酸化鉄が多く含まれているため、赤い色をしています。昔、人々は立山地獄の一つとして血の池地獄と呼んだのがこの名の由来です」(説明板転記)山道は石敷でしっかりと固定整備されていますが、疲れた脚にはけっこうこたえます。立山の連峰がついに目前まで近くなってきました。そして、「山崎圏谷」の石碑がある広場まで戻ってきました。雄山から浄土山にかけての連なり、ミクリガ池を見下ろすことができ、ゴール!地獄谷が蒸気の噴煙を上げて、出迎えてくれました。快晴に恵まれた一日、高山風景の素晴らしさを堪能できるから、山歩きにはまるのでしょうね。そして、自分の脚で完歩できたという満足感!明日は下山。天狗平から弥陀が原を散策しながら、弥陀ヶ原バス停まで下ります。つづく補遺立山地獄 立山信仰の概観 :「立山」立山山岳信仰 :「吉村外喜雄のなんだかんだ」 立山曼荼羅の絵を掲載し、紹介されています。常願寺川 農人の記憶 -山をも流した河 :「水土の礎」 第一章 霊山・立山 「越中立山開山縁起大曼荼羅」図を掲載されています。No.564-2:立山地獄にぶるぶる! 立山曼荼羅と立山の伝説に触れる夏 :「富山の今を伝える トヤマジャストナウ TOYAMA JUST NOW」立山の山岳信仰。絵図にみる信仰の世界とその変遷をたどる :「遊歩紀行」地獄体験ができる「まんだら遊苑」 :「富山の遊び場!」特別企画展 立山×地獄展 第二部「地獄の閃光」:「富山県[立山博物館]」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る 立山の記憶 -1 室堂からミクリガ池、地獄谷、みくりが池温泉に へ登る 立山の記憶 -2 室堂平散策(ミドリガ池・立山室堂・玉殿岩屋) へ登る 立山の記憶 -3 室堂平・ミクリガ池に映じる立山・夕日と雲海 へ登る 立山の記憶 -4 早朝散策(エンマ台、火山ガス情報ステーション・山崎圏谷)へ登る 立山の記憶 -5 山荘 ~ 一ノ越 ~ 雄山 へ登る 立山の記憶 -6 雄山神社(峰本社)~大汝山 へ登る 立山の記憶 -7 大汝山での展望~大汝休憩所~富士の折立~道標 へ登る 立山の記憶 -8 クラノスケカール~真砂岳~別山~別山乗越 へ
2016.09.25
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前回最後に載せた分岐点の道標は、右の写真にある尾根筋の左側に大岩があり少し広くなった場所に立っています。右上方向の岩山が大汝山になります。そして、雪渓のある斜面が、「クラノスケカール」です。室堂平の「火山ガス情報ステーション」の近くから正面に見える「山崎カール」と同様に氷河跡の一つということでしょう。尾根筋を歩きつつ撮った写真をパノラマ合成したのがこの風景です。 真砂岳に向かう方向で、クラノスケカール側を撮った風景です。雪渓がずっと先まで降りて行きます。逆に、室堂平方向、つまり山崎カール側の風景はこんな広がりを見せます。北方向に剣岳が見えます。 尾根道のケルン真砂岳(標高2,861m) 写真の記録時間では12:41になっています。室堂平の遠望風景 ズームアップして。剣御前が眼前に見えます。山裾に小さく見える赤い屋根は剣御前小舍。真砂岳から尾根道を別山方向に向かう途中。真砂沢の風景。真砂沢の上部も真砂沢カールで、雪渓が見られます。別山(標高2,880m)には登らないで、その山腹を巻いて、剣御前小舍の方向に向かいます。 室堂平側の風景別山乗越の分岐点にある山小屋が剣御前小舍です。山小屋前は登山者が多かったので写真は撮れませんでした。この分岐から雷鳥沢方向に下ります。つづく補遺真砂岳(立山連峰) :ウィキペディア立山連峰真砂岳、大規模雪崩について 2013.11.28 :「お山へ行こう!」13.11.22-24 立山 真砂岳での雪崩死亡事故の前後に感じたこと 高久智基氏別山 :ウィキペディア別山乗越 :「360@旅行ナビ」剱御前小舎誕生秘話 :「剱御前小舎」北アルプス小屋たより :「富山県」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る 立山の記憶 -1 室堂からミクリガ池、地獄谷、みくりが池温泉に へ登る 立山の記憶 -2 室堂平散策(ミドリガ池・立山室堂・玉殿岩屋) へ登る 立山の記憶 -3 室堂平・ミクリガ池に映じる立山・夕日と雲海 へ登る 立山の記憶 -4 早朝散策(エンマ台、火山ガス情報ステーション・山崎圏谷)へ登る 立山の記憶 -5 山荘 ~ 一ノ越 ~ 雄山 へ登る 立山の記憶 -6 雄山神社(峰本社)~大汝山 へ登る 立山の記憶 -7 大汝山での展望~大汝休憩所~富士の折立~道標 へ
2016.09.25
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大汝山(おおなんじやま)の山頂から始めます。この岩の上が大汝山の頂点のようですが、岩の上に数人が居ましたので、まあ眺めるだけにして、ここからの展望を優先して先に進むことに。このシリーズの最初に、現在の「立山」「立山三山」の山域概念をご紹介しました。しかし、立山の山域概念は時代により変化しているようです。昔は、毛勝三山から薬師岳辺りまで含めて立山と呼ばれた時期もあったようです。また江戸時代の文人画家である谷文晁(たにぶんちょう)の『日本名山図会』では、別山、立山、剣岳をまとめて「立山」としているといいます。この大汝山は古くは「御内陣」と記されていたそうで、雄山神社の奥社ということも考えられるとか。(資料1)同じ主旨だと思いますが、雄山神社峰本社の改築の際の遷座の山であるとも言います。(資料2) 大汝山からの黒部湖側の風景 富士の折立に下る側の風景山々の連なりの景色が変化していく姿を遠望しつつ、登山道をくだります。「大汝休憩所」前を通過。 写真の記録時刻は10:52AM。 残雪が見えます。 その遠くの端に、イワヒバリが! (2016.9.26付記 雷鳥が!と思っていたのですが、ちがったようです。訂正します。ご教示に感謝。) 大汝山の山頂を休憩所側から見上げます。黒部湖側の斜面には残雪が点在しています。右側(東方向)に黒部湖、左側(西方向)は山崎カールと称される斜面側です。両サイドを遠望しつつ、下ります。 目指す方向はこの尾根。 そして、「富士の折立」(標高2,999m) 写真の記録時刻は11:17AM。真砂岳に向かう尾根が間近になります。尾根筋をずっと進み、写真の右上角の山裾に「内蔵助山荘」の赤屋根が小さく見えます。この緩やかな尾根道を下って行くと、この道標が立っています。方向表示の中央に青字で「クラノスケカール」と記されています。真砂岳・別山の方向に進みます。写真の記録時刻は11:51AM。ここは、「大走り」と称される雷鳥沢に降る登山道への分岐点でもあります。つづく参照資料1) 立山 たてやま・おおなんじやま :「YAMAKEI ONLINE」2) 大汝山 :「コトバンク」補遺大汝休憩所 :「山小屋WEB」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る 立山の記憶 -1 室堂からミクリガ池、地獄谷、みくりが池温泉に へ登る 立山の記憶 -2 室堂平散策(ミドリガ池・立山室堂・玉殿岩屋) へ登る 立山の記憶 -3 室堂平・ミクリガ池に映じる立山・夕日と雲海 へ登る 立山の記憶 -4 早朝散策(エンマ台、火山ガス情報ステーション・山崎圏谷)へ登る 立山の記憶 -5 山荘 ~ 一ノ越 ~ 雄山 へ登る 立山の記憶 -6 雄山神社(峰本社)~大汝山 へ
2016.09.24
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立山頂上社務所の前は登山者・登拝客が一杯で市中の神社の祭礼時の賑わいのような印象を受けます。これだけの賑わいはやはり夏から初秋なのでしょうか?社務所の壁には、「立山頂上雄山神社由緒」の説明板が掲げてあります。その横に、英文に翻訳した説明板も並べてあります。外国人の登山客も多いということでしょうか。「由緒」という言葉は、HISTORY(歴史)と訳されています。祭神として祀られている伊邪那岐神(イザナギノカミ)は、ローマ字表記の後に、「The Almighty God」つまり、「万能の神」と付記されています。また天手力雄神(アメノタジカラオノカミ)は、同様に「The God to Realize Peace of the World」、つまり「世界平和を実現する神」とされています。「由緒」の説明主旨はほぼ翻訳されています。手許の本では、伊邪那岐神について、以下の説明が記されています。(資料1)「記紀神話で、伊邪那美神(イザナミノカミ)とともに国生みを行った男神。世界化成の最後に生まれた神で、妻の伊邪那美神と互いにいざなみ合って、万物を産みなす神として出現した。」同様に、天手力雄神については、同様に「この神は、天岩戸の扉を開く役目を受け持った。手の力が強い大力の神名が与えられた神である。宗教的見地からすれば、天照大神の御手を執ってお出迎えした。すなわち日の神の復活に功のあった神といえるだろう」と。なるほど、神の位置づけをうまく翻訳しているな・・・と思います。由緒には、初めに既にご紹介した玉殿岩屋について触れ、佐伯有頼が「文武天皇の勅命により立山全山を賜与されて開山したりと伝う」と記します。「以来立山は阿弥陀如来と不動明王尊を併せ祀り、神仏習合・山岳信仰の大道場」なのです。また、「立山は古来、峰に九品の浄土あり、谿に一百三十六地獄の形相を現すと称され」てきたとあります。九品浄土というのは、『観無量寿経』に説かれている阿弥陀仏の極楽浄土に、上・中・下品と上・中・下生の組み合わせ、つまり上品上生から下品下生に至る九種類の浄土があるとする考え方です。 社務所の隣に、歌碑と石標が建立されています。その傍に、左に進めば「大汝山方面縦走路」に入り、右に行くと「頂上御本殿登拝口」の道標が立っています。社務所前で、小休止の間に、頂上本殿を何十年ぶりに参拝しました。頂上本殿前は狭い空間ですので、20名程度の参拝を順次受け入れていく形です。 雄山頂上の本殿 登拝記念の半券といただいたもの。この鈴、記憶では数十年前と同じ!今まで、考えたことがなかったのですが、この頂上の峰本社も、ちゃんと住所が特定されているのですね。「富山県中新川郡立山町芦峅寺立山峰一番地 」(資料2)なのです。雄山の岩頭は、海抜一万尺(3,003m)です。脇道に逸れますが、ふと富士山山頂の住所は? と気になりました。調べてみると、「境界未定地」の扱いであり、住所がないそうです。(資料3)「富士山本宮浅間大社」の本宮の所在地は、静岡県富士宮市宮町1-1、と勿論住所が明確です。「奧宮」については、神社のホームページをみても住所は明示されていません。「富士山頂上」でわかるからでしょう。また「富士山8合目以上は奥宮境内地であり、約120万坪の広さに達します」と記されています。(資料4)全体を境内地とみれば、境界未定地という形になるのでしょうか・・・・。尚、夏山シーズン限定で開設される「富士山郵便局」は、この奧宮の社務所内に設置されるそうです。そちらの方では「〒418-0011 静岡県富士宮市粟倉地先(富士山頂)」となっています。(資料5)本筋に戻ります。大汝山への縦走路に入ると、まずは室堂平を眼下に見渡す絶景が広がります。 大汝山への尾根歩きの途中で、振り返ってみた立山頂上峰本社です。東方の眼下には「黒部湖」が遠望できます。尾根道を歩みつつ、再び西方眼下を眺めた雄大な風景を満喫です。 ズームアップしてとらえた黒部ダム。 足下を見ると残雪が目に止まります。「標高3,000mの山頂の夏は短く、降雪をみないのは7月~9月中旬までの期間だけである」(資料2)といいます。そして、大汝山の山頂です。大汝山は標高3,015m。快晴の立山、ほんとうに恵まれた立山縦走です。登山日和! 最高!!つづく参照資料1) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p49,p61-622)雄山神社 ホームページ3) 富士山頂の住所は静岡県? 山梨県知事が国土地理院に「誤解与える」と是正求める 2016.6.4 :「JCASTニューズ」4) 富士山本宮浅間大社 ホームページ5) 富士山頂郵便局 :ウィキペディア補遺イザナギ :ウィキペディアアメノタヂカラオ :ウィキペディア本地垂迹資料便覧 :「文字鏡研究会」 左のメニューから「北陸道」→「越中」→「雄山神社」と辿ると、本地とともに 「立山大縁起」が所載されています。富士山本宮浅間大社 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る 立山の記憶 -1 室堂からミクリガ池、地獄谷、みくりが池温泉に へ登る 立山の記憶 -2 室堂平散策(ミドリガ池・立山室堂・玉殿岩屋) へ登る 立山の記憶 -3 室堂平・ミクリガ池に映じる立山・夕日と雲海 へ登る 立山の記憶 -4 早朝散策(エンマ台、火山ガス情報ステーション・山崎圏谷)へ登る 立山の記憶 -5 山荘 ~ 一ノ越 ~ 雄山 へ
2016.09.24
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朝食後、みくりが池温泉の前に集合し、7:00に出発。快晴です。 地獄谷方向の眺望 ミクリガ池方向の眺望 立山室堂・室堂山荘方向の眺望昨日、夕食前の室堂平散策のおり、戻って来た道を一ノ越に向かって進みます。目を転じると、山肌に残雪を散見します。更に登ると、山道の右方向にも部分的に残雪が見えます。周囲を石垣と積み上げられた小石で覆われた「祓堂」。浄土山が背景となっています。前に置かれた賽銭箱には「剣岳神社」と。立山信仰では、ここまでが下界で、この先は神域と考えられています。その境界の場所だそうです。ここから急登となりますので、多くの人が休憩しています。写真の記録時間を見ると、ここから一ノ越(標高2,700m)まで20分弱かかっています。 一ノ越山荘とその背後には浄土山、その先に龍王岳が見えます。 浄土山の南峰をズームアップして撮ってみました。南方向、遙か先に見えるのが「笠ケ岳」(標高2,897m)、その左側は穂高岳、槍ヶ岳に連なって行くのです。一の越から南東の方向、御山谷。下っていけば、東一ノ越に至ります。北方向を遠望すると、切り立つ特徴的な鋭峰・剣岳山頂が見えます。登ってきた西側を眺めると、陸続と登山者が登ってきます。小学生の団体が引率者に伴なわれたくさん登っていました。北西方向には、ミクリガ池・ミドリ池がはっきりと見えます。その先には大日岳・奧大日岳が聳えています。右の奧大日岳から尾根伝いに東に進めば、剣御前小舍に至ります。 一ノ越山荘の前の広場で、場所を移動しながら周囲を遠望しました。そして、これが雄山への山道です。雄山に達すると、まずはこの「一等三角点『立山』」に。説明銘板によると、明治28年8月に設置されたのです。「三角点は地図の作製を始め、様々な測量の基準として使用されるほか、地震や火山の調等に必要な地殻の変動を知る上で、極めて重要な役割を果たしています。」(銘板を部分的)この一等三角点は、北緯36度34分21.2秒、東経137度37分02.9秒に位置し、標高2991mと国土地理院名で刻されています。立山を中心にして、360度の展望説明の銘板があります。 雄山からの眺望岩の間にイワキキョウが咲いています。眼下に雪渓が見えます。 山頂の雄山神社(峰本社) 立山信仰の聖地つづく補遺立山登拝道コース :「立山黒部アルペンルート」雄山神社 ホームページ一ノ越山荘 ホームページ高山植物 :「いこまいけ高岡」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る 立山の記憶 -1 室堂からミクリガ池、地獄谷、みくりが池温泉に へ登る 立山の記憶 -2 室堂平散策(ミドリガ池・立山室堂・玉殿岩屋) へ登る 立山の記憶 -3 室堂平・ミクリガ池に映じる立山・夕日と雲海 へ登る 立山の記憶 -4 早朝散策(エンマ台、火山ガス情報ステーション・山崎圏谷)へ
2016.09.23
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4時半に起床し、この日の夜もこの山荘に宿泊なので、最小限の携行品での登山の準備だけ終えると、朝食時間までの間に、早朝の散策に出かけました。冒頭の写真は、みくりが池温泉の建物の前から眺めた5時頃の立山です。ミクリガ池にはさざ波がたっていました。ミクリガ池の先には、右に室堂山・浄土山、龍王岳山頂を左に下り一ノ越を経て、再び山道を登ると雄山という眺めです。山道を登ると、地獄谷の広がりが見えます。デジカメのズームアップ機能で撮ると、蒸気の噴煙の根元には硫黄の黄色が目につきます。昨日の散策とは逆に、北の雷鳥荘方向への通路を行きます。 こちら側の室堂平早朝の風景です。山荘方向を眺めた風景。朝焼けの空がいい。 振り返って眺めた雄山 頂上付近をズームアップ山頂から下ると一ノ越にある建物が見えます。 その右には手前から室堂山・浄土山・龍王岳を経て一ノ越に向かう登山ルートがあります。同好会の健脚組はこのルートから今日の登山を考えています。私は一の越に直に向かうグループに参加。先に進むと、「火山ガス情報ステーション」という建物見えます。建物の先に「エンマ台(地獄台展望台)があります。 地獄谷の全景さらに北方向に進むと地獄谷の北端部がよく見え、東方向に登ってきたところに「雷鳥荘」が見えます。目を北東から東方向へと転じて行きます。 室堂平での現在位置には「立山の山崎圏谷」碑が建立されています。広場の柵の傍に「山崎カール」の説明板があります。「正面に見えるおわんのようなくぼみは、氷河によって山腹が削られてできたもので、カール(圏谷)と呼ばれています。立山にはこのようなカールがいくつもあり、氷河が削った岩の傷(さっこん)も見られます。 山崎カールは、氷河地形の研究家であった山崎直方氏によって1905年に指摘されたカールで、国の天然記念物に指定されています。」(説明板転記)地獄谷と朝焼けの風景をもう一度眺めて山荘の方に下ります。山荘に戻る前に、ミクリガ池の傍までちょっと下りて見ました。 池面はやはりさざ波がたっていました。 一番深いところが15mだそうです。池の傍から見上げると、みくりが池温泉の2階部分が見えます。山荘に戻り、朝食後いよいよ登山開始です。つづく補遺富山)立山・地獄谷周辺の歩道、規制へ ガス高濃度時に 2015.10.22 :「朝日新聞DIGITAL」立山・地獄谷歩道の通行止め及び現道(エンマ台~大日展望台)の通行注意について 長野自然環境事務所 :「環境省」22. 火山ガス :「温泉医学 Balnelogy」実は…噴火の可能性がある山「立山」【軽装で行ける北アルプス】:「NAVERまとめ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る 立山の記憶 -1 室堂からミクリガ池、地獄谷、みくりが池温泉に へ登る 立山の記憶 -2 室堂平散策(ミドリガ池・立山室堂・玉殿岩屋) へ登る 立山の記憶 -3 室堂平・ミクリガ池に映じる立山・夕日と雲海 へ
2016.09.21
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玉殿岩屋から戻る道は、雄山・一ノ越に向かう山道への通路を歩き、最初にみくりが池温泉に向かった時の通路を通ることになりました。冒頭の写真は、立山室堂山荘の背景に眺めた立山です。少し方向を南に向けると、立山室堂の背景に山荘が重なって行きます。 室堂平の広がり室堂平には、今は少し斜めに傾いた石塔が建立されています。石塔の上部が破損して、相輪が基壇の傍に転がっています。 ミクリガ池 この池は、「立山火山の水蒸気爆発によってできた凹地に水がたまった池」なのだとか。この池のミクリは漢字では「御廚」と書きます。神様の食物を調理するところという意味の名前がついているのです。「プランクトンやカワゲラの幼虫はいますが、魚はいない貧栄養型の湖沼です。」(説明板より) キオンミクリガ池付近から眺めると、一ノ越から雄山にかけての山容がよく見えます。デジカメをズームアップすると、左側の頂上に雄山神社の社が見えます。一旦山荘に戻って、しばらくすると、ミクリガ池の池面に立山が映じていると知り早速また引き返してみることに。これは山荘のある高みから眺めたところです。風が凪ぎ、池のさざ波が鎮まり、池面がしばらく鏡のようになった瞬間です。しばしの時間ですが、ラッキーでした。池の傍に下り、逆さ立山の姿を満喫しました。こんな風景を見られるとは思ってもいませんでした。山小屋特有の早い時間の夕食を済ませると、消灯までの数時間はくつろぎのひととき。快晴のおかげで、まずは太陽が沈む景色を楽しめます。 地獄谷には水蒸気でしょうか、噴煙が見えます。山の端に太陽が沈むまでのわずかの時間に、雲海はその色を変化させていきます。こういう風景を静かに眺められる楽しみは、高山に登る楽しみの一つです。後は星の瞬き、ミルキーウエイを眺める楽しみが続きます。ハンディーなデジカメでは夜空の景色がうまく撮れないのが残念です。さあ、明日一日が登山の本番。グループの皆に迷惑をかけずに登れるだろうか・・・。つづく補遺キオン :「山野の花図鑑」ウサギギク :「山野の花図鑑」ミヤマアキノキリンソウ :「山野の花図鑑」ツガザクラ :「野の花、野草 手作り図鑑」ヨツバシオガマ :「野の花、野草 手作り図鑑」ハクサントリカブト :「薬用植物一覧表」ミヤマセンキュウ :「二人の館」ヤマハハコ :「四季の山野草」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る 立山の記憶 -1 室堂からミクリガ池、地獄谷、みくりが池温泉に へ登る 立山の記憶 -2 室堂平散策(ミドリガ池・立山室堂・玉殿岩屋) へ
2016.09.20
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山荘の部屋にザックを納めた後、有志で室堂平を夕食の少し前まで散策することに。勿論参加です。冒頭の写真はここ「ミドリガ池」です。池の南東端に近づくと、少し景色が変わります。ミクリガ池よりもミドリガ池の方が数十メートル高い位置なるようです。 ミヤマアキノキリンソウ(別名/コガネギク)手許に高山植物の図鑑があるのですが、なかなか花の確認をするのは難しい。間違いがあるかも知れません。 白い花 ヤマハハコ・・・・・かな?この地図の中央にある大きい池がミクリガ池。その斜め上にマゼンダ色の円を付けたところがみくりが池温泉です。ミクリガ池の下側にあるのがミドリガ池で、その左斜め下の青色の円を付けたところに、この地図が立っています。立山室堂山荘の前になります。この山荘の左に黄色の円を付けたところに「立山室堂」があります。 ウサギギク こんな景色が広がります。 「立山室堂」 標識・説明板が前に 説明板この並んで立つ小屋が「立山室堂」。重要文化財(平成7年/1995年・国指定)です。その一つの内部が今は展示場に使われていて、立山信仰の説明パネルや出土品などを拝見しました。「現在残っている日本最古の山小屋で、立山における信仰や民俗の様子を伝える重要な建造物です。『室』とは宿泊所という意味があり、『堂』とは、御堂などといわれるように宗教施設を示すもので、室堂は、その両方の役割を合わせ持ったものでした。文献には、現在の建物は1726年(享保11年)に再建されたと伝えられており、それ以前にも建物があったことが確認されています。」(説明板転記) 立山室堂の前にあります。右の写真は回りこんで撮ったもの。ケルンの如く周りに石が積まれた中央に、 数種類の石仏像が納められています。立山信仰と関わる像なのでしょう。ここから、「玉殿岩屋」を拝見に行きました。この説明板が立山室堂の近く、分岐点にあります。 途中で見た花々 ミヤマセンキュウ ハクサントリカブト ヨツバシオガマ 玉殿岩屋は少し山道を下ったところにあるのですが、その手前にこの説明板が立っています。この説明板と少し調べたことを整理要約してみます。立山火山から噴出した溶岩が凝結する際に、板状節理(板状の岩盤)ができ、それが発達した結果、2つの洞窟が形成されました。それが玉殿岩屋と呼ばれるようになります。そこに立山開山を進めた慈興上人が関わってきます。慈興上人の俗名は佐伯有頼です。この有頼が16歳の時、父親秘蔵の白鷹を持ち出し、鷹狩りの真似事をします。その折り、白鷹が飛び去ってしまうのです。父の白鷹を見つけだし連れて戻らねばなりません。白鷹を追い求め白鷹を見つけると、白鷹が有頼の手にとまろうとします。その時、熊が出て来たのです。白鷹は飛び去り、有頼が弓矢で熊を射ると、熊は矢を立てたまま山奥へと逃げて行きます。その熊の後を追って有頼は山を登るのです。洞窟の奧からうめき声が聞こえるので、有頼が洞窟の中を覗くと、そこには胸に矢がささった阿弥陀如来が立っておられたのです。その矢は、有頼が熊を射た矢だったといいます。驚き、ひれ伏す有頼に不思議な声が聞こえます。「私は衆生を救うため、この立山に地獄も極楽も現わして、人々の来るのを待っている。しかし、世の人はまだこの尊い山を知らない。そこで私は鷹に姿を変え、熊に姿を変えて、有頼、そなたをここまで導いてきたのだ。世のすべての人が立山にお詣(まい)りできるよう努力せよ。有頼、頼むぞ」(資料1)と。その洞窟が、玉殿岩屋と呼ばれているのです。また、芦峅寺にある雄山神社には、『慈興上人』のお像とお墓があるそうです。(資料1,2,3) それがこの洞窟です。立山開山伝説の聖地。 洞窟には、現在数多くの石仏が祀られています。この洞窟から、少し下ったところに、もう一つ洞窟があります。それがこちらです。虚空蔵窟とも称されるようです。 洞窟内には、石造の小堂と石仏が安置されています。山から下山した佐伯有頼は、薬勢上人に弟子入りし、剃髪し慈興という僧名を与えられるのです。そして、師の薬勢上人とともに、立山開山に邁進し、立山信仰を説き広めていったといいます。芦峅・岩峅に伝わる「立山開山縁起」に記されているそうです。尚、一説には、有頼の父である越中守佐伯宿禰(すくね)有若が立山開山をしたという同種の話が別の記録に残されているそうです。(資料1,3)立山室堂が建設される前は、これらの洞窟が立山修験道の行者の宿泊に使用されたともいわれています。(資料4) 洞窟は、こんな岩山の崖下に。崖を左端に、洞窟の前に広がる風景もみどころです。玉殿岩屋から、再び山道を引き返し登っていく時の眺め コツガザクラ (高山植物は資料5,6)ここから一旦山荘に戻ることになります。前回、最初にご紹介した「玉殿湧水」から「玉殿岩屋」まで直接行くなら、大凡徒歩30分程度の距離だと思います。つづく参照資料1) 第3回 鷹と熊 廣瀬誠氏 :「県民カレッジ」2) 佐伯有頼 :ウィキペディア3) 立山開山に関するお話 :「国立立山青少年自然の家」4) 玉殿岩屋・虚空蔵窟5) 『山渓カラー名鑑 日本の高山植物』 山と渓谷社6) 高山植物 :「いこまいけ高岡」補遺室堂平 :「立山への旅」(立山黒部アルペンルート広域観光協議会)室堂平 行楽地の天気予報 :「てんきとくらす」室堂平 周辺のホテル・旅館 :「楽天」みくりが池温泉 ホームページ室堂 :ウィキペディア岩峅寺 :「コトバンク」芦峅寺エリア :「立山山麓エリアガイド」動植物フィールドノート :「黒部立山アルペンルート」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る 立山の記憶 -1 室堂からミクリガ池、地獄谷、みくりが池温泉に へ
2016.09.20
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さる8月初旬の週末に、ウォーキングの同好会恒例の夏山に今年も参加できました。今年は何十年ぶりに立山の峰々を巡ることができました。あと何年続けられるか・・・。雪道の観光で室堂まで行ったり、一ノ越を通過点として利用する登山はその間に何度かしてます。しかし、立山自体への山行は久しぶりです。金曜日の早朝に、JR米原駅前に集合し、観光バスで立山の室堂まで北陸道経由で直行です。冒頭の写真は、観光バスで室堂まで向かいましたので、桂台料金所を経て「立山有料道路」に入ったときに頂いた富山県道路公社からの絵葉書です。右の絵葉書は、有料道路上の雪を除去している場面。この雪の壁を見たくて一度そのための観光に行きました。左の絵葉書は初秋の風景でしょうか。桂台から室堂まではバスで約1時間です。 こちらは室堂で入手したリーフレットの一つ。こちらは夏の風景でしょうね。撮ってきた写真の整理を兼ねた立山の記憶のインデクス作りです。立山の夏山を感じ取っていただければうれしいです。室堂のターミナルビルの階段を上がり屋上から抜け出ると、眼前に立山の峰々です。この辺りは観光客と登山客で一杯でした。「中部山岳国立公園 立山」の石碑。その右下に室堂平 標高2,450米 と刻されています。その右に建立されているのは秋篠宮殿下の詠まれた歌と記されています。 立山にて姿を見たる雷鳥の穏やかな様に心和めり立山は3000m級の山岳としては、日本でもっとも北に位置するそうです。山頂に神社が鎮座する雄山(3,003m)、大汝山(3,015m)、富士の折立(2,999m)の3つの峰をあわせて「立山」と称されます。一方、雄山と浄土山(2,831m)、別山(2,880m)をあわせて「立山三山」と呼ぶそうです。立山三山の方は花崗岩からできている山々だとか。(資料1)こんな碑が立っており、そこに湧水が。「立山玉殿(たまどの)の湧水」です。「この水は、中部山岳国立公園立山連峰の主峰雄山(標高3004m)の直下から湧出する地下水です。この地下水は、立山開山の故事にみられる『玉殿の岩屋』がある室堂一帯に潤いをもたらしてきましたが、昭和43年、立山トンネルの開通により、その一部が湧出したものです。 その水量は、毎分約15立方メートルにのぼり、水温も2~5度と極めて冷たく、霊峰立山の水として多くの登山者や観光客に愛飲されています。 昭和60年3月、環境庁の『名水百選』にこの湧水が選定されました。」(碑文を転記) 立山碑の側面から立山を眺めてこの道を右に進めば、一ノ越、雄山に至ります。我々は初日は室堂からますは宿泊する山荘へ。そのため、左の方の矢印「ミクリガ池・地獄谷方面」に進みます。 「ここは、ブナ坂外十一国有林です。標高2,450m(室堂平)」の掲示板が立っています。自然遺産を保護のための注意事項が記されています。 こんな案内地図が「室堂平」の各所に。 山荘に向かう通路の石段を下ります。 ミクリガ池の先に、目指す山荘が見え始めます。 その途中で、地獄谷が見え始めます。 今回2泊する「ミクリガ池温泉」その名の通り、温泉に入り汗を流せる!登山の山小屋(山荘)で温泉に入れるのは私にとって初体験です。山荘の近くからは、地獄谷が見下ろせます。少し目を転じると、 山荘まで少し下った通路が見え、みくりが池温泉の前から、眼下にミクリガ池が見えます。会の幹事が宿泊手続きをしてくれ、部屋が決まってザックを部屋に納めるまでは、山荘前で待機。待つ間に、山荘の横、少し下方の通路を下っていく小学生の登山ご一行 山荘のすぐ近くに祀られたお地蔵様部屋に一旦荷物を置いてから、希望者は室堂平の散策開始です。勿論! 参加です。夕食までのひととき、2,450mの雲上の別世界を満喫しなくちゃ。かの有名な深田久弥氏は、「立山」の項で、ミクリガ池の名の由来伝説を紹介しています。「昔、ある僧が人の留めるのもきかずこの池で泳いだ。最初は懐剣を口にくわえていたので無事だったが、池を見くびってそれ無しで泳いだところ、一巡り、二巡り、三巡り目に、池の中心深く沈んだまま遂に現れなかった。三繰ケ池という名はそこから出たという」(資料2)つづく参照資料1) 「ようこそ立山カルデラ砂防博物館へ」 同博物館作成のパンフレット2) 『日本百名山』 深田久弥著 新潮文庫 p217補遺立山 :ウィキペディア立山黒部アルペンルート :「立山町」立山カルデラ砂防博物館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2016.09.18
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7月16日(土)に、ウォーキング同好会の企画に参加し、滋賀県の湖西・比良山系の武奈ケ岳に登りました。その時に撮った行程写真の整理を兼ねてのご紹介です。京阪電車の出町柳駅前に集合し、京都バスでまずは「坊村」まで移動。所要時間は1時間ほど。国道367号線沿いのバス停で下車して、東の方向にまずは地主神社前まで少し歩き、左折して進むと、明王谷を流れる川の傍に葛川坊村の標識があり、「御殿山経由武奈ケ岳」「牛コバ」の方向を示す矢印標識があります。川沿いに遡れば牛コバです。我々は川を渡ります。冒頭写真はその道標(9:05)です。括弧内はデジカメの撮影時刻の記録です。川の傍に、立つ石標。牛コバへは明王谷林道をまずは歩くのです。我々は、左の道「明王院」に向かいます。川には、朱塗りの欄干のある「三宝橋」が架けられています。 橋を渡ると、右側が「明王院」への入口です。お堂の傍に、石段が見えます。安曇山葛川息障明王院(あどさんかつらかわそくしょうみょうおういん)が正式な名称です。貞観元年(859)、相応和尚(そうおうかしょう)により開山された天台宗のお寺です。「明王」という名称が示していますが、本尊は不動明王像です。寄木内刳彩色の立像だそうですが、秘仏であり8月28日には御開帳されるとか。本堂には、毘沙門天像や千手観音像も祀られているそうです。(資料1) 白露の玉まくくずのかつら川くる秋にしも我はかへらん 詠歌びわ湖百八霊場の一つであるとともに、「近畿三十六不動尊霊場会」の第27番札所です。白洲正子著『かくれ里』には、「葛川 明王院」というエッセイが載っています。その中で、寺伝によるものとして、比叡山無動寺の相応和尚が修験の行場として当初は創立し、寺が後に建ったと記しています。「相応は、近江浅井郡の出身で、櫟井氏といい、孝徳天皇の遠孫と伝えられる」とか。「三条良相から、自分の供養のために、若い僧を一人斡旋してくれと頼まれた時、彼(=慈覚大師円任)はすすんで相応を推薦し、『汝良縁の相応するところなり』といったことから、『相応』の名で呼ばれるようになった」といいます。その後に、著者はいくつかの話を紹介しています。1) 相応の念願は生身の不動明王を拝むことだった。彼は「籠山十二年」の修行を行った。別名「建立大師」「無動大師」と称されること。神仏混淆の一端を担ったという話。2) 回峰行の期間中に、円仁座主の要請もだしがたく、天安2年(858)に文德天皇女後多賀幾子の病気平癒の祈祷のために下山し、弊衣土足で参内したこと。病気がたちまち平癒したことから、回峰行者の「土足参内」のはじまりとなったという話。3) 相応29歳の頃、シコブチ明神が老翁の姿で現れ、安曇川の源深くに、「三の滝」がありそこで不動明王に必ずまみえることができると告げられたこと。常鬼・堂満の二童子の案内で、三の滝に導かれ、17日間の断食満願の日に、不動明王とまみえる体験をしたという話。そして、「長年夢みた不動明王が、水しぶきをあびて立っているではないか。思わず彼(=相応)は水中に飛びこみ、しっかと抱きついたが、気がついてみるとそれは桂の古木であった。で、今見たばかりの生々しい像を、その木の上に刻んだが、これが現在伝わる明王院の本尊で、同じ材をもって造った他の二体を、一つは比叡山へ、一つは近江の伊崎寺へおさめたという」としめくくっています。(資料2)シコブチ明神の本社がこの葛川明王院にあるそうです。そして現在も、常鬼・堂満の子孫の方が明王院のかたわらに住み、祭りその他の行事を司っているということにも白洲氏は触れています。脇道にそれました。登山道に戻りましょう。明王院の前の道を進むと、その先に「御殿山コース」の標識が見えてきます。登山口です。このコースは、登山地図での標準時間が2時間。「御殿山まで急坂の連続」と付記されています。 こんな景色(11:06)を眺めた少し先が御殿山山頂です。1本の木に、レスキューポイント「御殿山5」の掲示板が取り付けてあります。そこに、あるグループの御殿山到達記念タグが掛けてありました。御殿山山頂は1097mです。 ここから目指すのはこの山の方向です。一旦、「ワサビ峠」の道標のところまで、御殿山を下ります。(11:36)この峠から、「西南陵」の山道を「武奈ケ岳」山頂まで登ることになります。地図に記載の標準所要時間は40分です。 山並みを眺めつつ、尾根筋を辿ります。(11:47)見晴らしの良い場所に、少し見づらくなった道標「←ワサビ峠 武奈ケ岳→」が立っています。(11:59)そしてこんな道標(12:10)の傍を通過。武奈ケ岳の山頂(12:13)に着いて、まずは昼食タイムです。 しばらくしてからこの武奈ケ岳山頂の標識を撮りました(12:36)。傍に三角点の石標があります。1214.4m。かなりの登山者が先着していて、順番にここで記念撮影していたからです。トレイルランニングの軽装なウェアのグループも見かけました。標識の傍には、ずらりと地蔵尊の石仏が並んでいます。 武奈ケ岳からの遠望風景です。 山頂から南東方向の眼下には、午後に降りる八雲ケ原が見えます。 山頂から下ってきた八雲ケ原の入口付近 八雲ケ原展望 北比良峠 展望台付近 この後、シャクナゲ尾根を通って金糞峠経由で大山口、正面谷橋、出合小屋へと下ります。下山はもっぱら転ばないように足元に注意しつつ安全第一です。イン谷口からバスにてJR湖西線・比良駅まで。武奈ケ岳山行は無事終了です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 第27番 葛川息障明王院 :「近畿三十六不動尊霊場会」2) 『かくれ里』 白洲正子著 講談社文芸文庫 p270-284補遺比良山地 :ウィキペディア関西アルブス 比良山系登山ガイド :「100% 山登り入門」比良山を歩く :「KEIHAN 江若交通」失われたエオープウェイ 比良ロープウェイ :「失われたロープウェイ」トレイルランイング :ウィキペディアRUNNET ウエブサイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2016.08.25
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