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五大力堂手前の手水舎の近くから尾根道に入り進むと、「横峰峠」にでます。横峰峠のところまで府道782号線の舗装道路が登ってきていて、尾根道との分岐になっています。左側の尾根道を歩み、途中で高塚山に立ち寄ることになりました。尾根道からの分岐点には、こんな簡単な標識を作ってくれた人がいます。なければ分岐を見過ごしてしまいそう。高塚山への道の途中で伏見区から山科区にかけての街並みが見えます。 高塚山の三角点と山頂に掛けられた私製の木札。なぜか立派な数珠が掛けてあります。再び、分岐点まで戻り、牛尾観音への尾根道を行きます。その通過点が「桜の馬場」です。 けっこう広い平地に出ます。そこが「桜の馬場」です。 ここから牛尾観音への山道を登って行きます。途中で2通りの登り道に分かれます。いずれを登っても、この道になります。ここからはあと少しです。牛尾観音は牛尾山の山腹にあります。この牛尾山は音羽山の一支峰という位置づけになります。「一説に小野の仁海僧正が亡母追善のために牛皮曼荼羅を描き、その尾を当山に埋めたので、牛尾山と名づけたとつたえる」(資料1)そうです。 境内の入口付近に、竹垣と石標が見え、その先に「手水屋」があります。 この手水屋の木鼻と蟇股はけっこう深い彫り物になっています。 大杉堂手水屋の左斜め前、境内に入る左側に、「大杉坊大権現」と「八頭竜神王」の提灯をずらりと吊したお堂があります。大杉坊大権現(天狗)は火を司る男性神であり、八頭龍神王(八頭龍王尊)は水を司る女性神だとか。「大杉坊」「宇賀神」と記された扁額が掛けてあります。(資料2)この日は、牛尾観音の本堂と境内で行事が行われていました。境内には大勢の人々が参集し、本堂の正面の縁と向拝の場所を使い、ある大学のクラブの人たちが、和太鼓のパフォーマンスを奉納している場面に出会いました。山伏姿の人が司会をされていました。しばらくその演奏を見聞してから、境内の一隅で昼食休憩です。事後に調べてみると、この10月17日は、秋季御開帳・大般若経転読法要(本尊の公開)が行われる行事日だったのです。「牛尾観音」は通称で、正式には「法厳寺」というお寺です。山号はかつては牛尾山、現在は「牛王山」だそうです。真言宗系で単立の本山修験宗のお寺。本尊は十一面千手観音、天智天皇の自刻とされるもので秘仏です。脇壇には行叡居士や延鎮法師の像を安置され、不動明王・毘沙門天像も安置されているそうです、(資料1,2,3) 本堂の向拝の木鼻と蟇股はなかなか見応えと力強さのあるものです。現在の本堂は元禄2年(1689)の再建によるものだとか。垂仁天皇(前29~70)の指示により大国ノ不遅が牛尾山の山頂に祠を建立したのがはじまりとされ、奈良時代、光仁天皇の宝亀元年(770)に賢心法師により開基されたと伝わっています。平安時代前期には、清水寺の開山延鎮法師が仏閣を建立し、清水の奧の院とも称されたことがあるようです。もとは現在地よりも400m余山上に伽藍が建立されていたそうです。しかし中世に衰微し、その後現在の地に移ったといいます。豊臣秀吉による再興、その後に衰微、そして再び近世に再興されて現在に至るのです。大石内蔵助が仇討成就の祈願をしたお寺でもあり、勤王の志士らが密議に利用した寺でもあるそうです。(資料1,2,3)平安中期以降に、観音信仰が流行し、この寺も霊場として栄え、今は「京都通称寺」の会員となっているお寺です。(資料1,3)本堂の前方左方向で境内の端近くに「護摩堂」があります。ここには不動明王像が祀られています。 護摩堂の建物からみて正面の左側に「大弁財天」の石標が立っており、建物の左斜め方向には石鳥居を備えた「天龍王神」の石碑が祀られています。この石標の陰になりますが、手水鉢があり、その傍に置かれた石板には次の語句が刻されています。 如来同智 明王智水 身内身外 正理清淨 祐峯この石鳥居の対極は、本堂の正面に向かって右側になりますが、本堂の右斜め奥に、もう一つの石鳥居が見えます。行事が行われていたので、近づけませんでした。 手水屋の右側、上掲の竹垣の内側に、この観音像と南無大師遍照金剛像が安置されています。観音像の背後の塀には「西国三十三ヶ所霊場」の寺名一覧が掲示され、南無大師遍照金剛像の背後には「四国八十八所霊場」の寺名一覧が掲示されています。このそれぞれの像の周囲は御砂踏み場となっています。それぞれの霊場の砂が集めて納められているので、それぞれの周囲を巡れば、各霊場を巡った功徳があるという主旨の説明があります。信仰心があっても遠方まで出かけるゆとりのない人々にはありがたい場所といえるでしょう。南無大師遍照金剛像の前を通り過ぎ、突き当たりにあるこの簡便な標識が牛尾観音から音羽山への登山道を示しています。幅の細い階段状の登山道があります。ここを登れると、 さらにこの標識のところを進みます。 途中にある道標 鉄塔の傍を通過します。 こんな瘤のできた木が目にとまりました。音羽山山頂まで900mという道標が見えます。 さらに、この道標も まずは、ちょっと「パノラマ台」に立ち寄ってから、音羽山山頂に行くことに。滋賀県側瀨田川の景色が遠望できる場所です。道標からそれほどの距離はありませんでした。眺望を楽しんで、パノラマ台から引き返し、音羽山へ。 平らな広い場所に出て、音羽山頂上が間近になります。 音羽山山頂の三角点この山頂にも鉄塔があります。琵琶湖側の風景が見えます。デジカメをズームアップすると「琵琶湖大橋」が望めます。京都側の景色をしばらく眺めていました。京都にはほかに東山清水の音羽山、洛北一乗寺の音羽山があります。この音羽山は古来、歌枕として知られた名山です。北は逢坂山に接し、南は醍醐山に連なっています。現在はこの山の中央を新幹線のトンネルが東西方向に通じていますので、この山頂から新幹線が上下線で走っているのを遠望できます。平安時代にこんな歌が詠まれています。(資料1,4) 音羽山をこえける時に郭公のなくをききてよめる おとは山けさこえくれば郭公こずゑはるかに今ぞなくなる 紀 友則 古今集 142 石山にまうでける時、音羽山の紅葉を見てよめる 秋風のふきにし日よりおとは山峰のこずゑも色づきにけり 紀 貫之 古今集 256 おとはの山のほとりにて、人とわかるとてよめる おとは山こだかくなきて郭公君が別れををしむべらなり 紀 貫之 古今集 384 山夕立 夕立は早や山科の奧晴れて音羽になびく浮き雲の空 冷泉為尹 為尹卿千首 夏歌山頂から再び、道標のところまで戻り、下山に入ります。 途中で、道標を辿りつつ下山。 逢坂山関址この手前の国道脇で、大津駅方向に向かうメンバーと別れます。逢坂山は近江と山城の国境の山ですが、その中心となる「逢坂の関」は近江国にります。そのため古来の歌枕書は「あふさか(逢坂・相坂)」を近江国としてきたそうです。私たちは逢坂という漢字で覚えています。一般にはこの字を書くのですが、藤原定家は「相坂」と書くことが多かったとか。(資料5、以下引用歌も同じ)一番良く知られている歌はやはりこれでしょう。 これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸 後撰集・雑一あれっと思われた方、 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 じゃないのかと・・・。『百人一首』には、蝉丸の歌として第三句がこちらの文言で収載されています。上の方は『後撰集』の記載なのです。文意がどう変化するかが興味深いところです。後撰集: これがまあ、行く人も帰る人も、また知っている人も知らぬ人も、再びここで逢うという逢坂の関なのだなあ。(資料5)百人一首: これがかの有名な逢坂の関だ。旅立つ人も帰ってくる人も、知り合い同士も見知らぬ同士も、ここで出会って別れるといわれているよ。(資料6)この逢坂の関は大化2年(646)に設置されたそうです。『万葉集』巻十五に次の歌が載っています。 我妹子(わぎもこ)に逢坂山を越えてきて泣きつつ居れどあふよしもなし紀貫之が詠んだ有名な歌は 逢坂の関の清水にかげ見えて今や引くらむ望月の駒 拾遺集・秋「信濃望月の牧場から馬を引いて上京する駒牽きの行事のために逢坂の関まで駒迎えに出かけた光景を屏風の絵にし、それを歌によんだ」(資料5)というものです。貫之は、「かつ越えて別れもゆくか逢坂は人だのめなる名にこそありけれ」(古今集・離別歌 390)というのも詠んでいます。同様に、清少納言が当意即妙の返歌を詠んだものとして有名な歌があります。 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 後拾遺集 940です。『百人一首』の62番。藤原行成との教養人同士のハイレベルな社会的応酬を歌で交わしたというエピソードのあるものです。文意は「夜の明けないうちに、鶏の鳴きマネをして、函谷関(かんこくかん)はだませたとしても、逢坂の関はそうはいきません。私はけっして逢いませんよ」(資料6)中国、斎の孟嘗君(もうしょうくん)のとった戦術を下敷きにしているのです。清少納言が己の知識をはばからずに堂々と披露している応答です。 蝉丸神社への石段傍逢坂の関のすぐ近くにあります。蝉丸は逢坂の関の傍に住んでいた隠者だといわれています。「盲目ながら琵琶の名手で、じつは醍醐天皇のご落胤だという伝説もある」(資料6)のです。その蝉丸を祀ったのがこの蝉丸神社です。祭神は蝉丸大神猿田彦命です。なのですが、蝉丸神社は2つあります。もう一つは、「関蝉丸神社」です。こちらは「探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -3 蝉丸神社(関蝉丸神社・下社)」というブログ記事にまとめて再録しご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。この前を通り、京阪電車大谷駅に。今回のウォーキングの終着点です。音羽山山頂から逢坂山辺りの地図(国土地位理院)はこちらをご覧ください。逢坂関址・蝉丸神社付近はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p309-3112) 法厳寺(牛尾観音)(山科区) :「京都風光」3) 牛尾観音(法厳寺) :「京の通称寺」公式ホームページ4) 『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫5) 『歌枕歌ことば辞典 増補版』 片桐洋一著 笠間書院 p26-276) 『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海直人著 PHP文庫 p52-53【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺本山修験宗総本山 聖護院門跡 ホームページ大杉坊大権現の天狗杉 牛尾山法厳寺(ほうごんじ)のスギ:「京都市都市緑化協会」南無大師返照金剛 :「大師寺」清少納言 62番 :「ちょっと差がつく百人一首講座」函谷関 :ウィキペディア孟嘗君 :ウィキペディア蝉丸 千人万首 :「やまとうた」 今昔物語の蝉丸伝説(巻第二十四の第二十三話)を掲載されています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 京都 醍醐山から音羽山へ -1 醍醐寺総門~成身院女人堂~槍山(醍醐の花見)へ歩く [再録] 京都 醍醐山から音羽山へ -2 上醍醐登山道(参道)~上醍醐(醍醐山山頂)へ
2018.01.20
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九丁の石標を通過して、しばらく登ると、古寂びた休憩所があり、登山道の正面に石造不動明王立像が祀られた滝口が見えます。「上醍醐不動の滝」です。休憩所の建物の傍に、かなり古びてきた説明板が立っています。そこには、この山に聖宝理源大師がお寺を開かれたことと、修験道の中興の祖と仰がれていること、並びにこの山が道場でもあると記されています。その後に、こんな記述があります。「お山は修験道にかぎらずとも、人間精神の道場である。頂上に立つ爽快さはどうしても頂上に立つことなくしては体感できない。がんばれ、降りの道は苦しさを伴っても楽しい。人間精神を鍛える原始の場、山こそはその価値を失はぬ神秘の姿である」と。その後に俳句と短歌が記されています。 山さくら つづくや上の 醍醐まで 蝶夢 幾山河 遍路の遠き 浄土かな 玄空 ひとりする行をたのしとおもひつつ醍醐山路のけはしきを踏む 勇登って行くと、坂道の途中に朱色の鳥居を備えた小さな神社があります。そこに「南無音羽魔王・・・」と記された札が置かれていました。後日、ネットで調べてみると、この社は「音羽魔王大権現社」という名称でした。昔この地に天狗杉があり、諸国を巡る天狗がこの木に腰かけて休むと伝えられていたそうです。その杉が老い朽ちてしまったために、昭和10年に時の座主がここに社殿を建立されたと言います。天狗の休み所がなくなるのをいたんだためとか。(資料1)登山道の傍には、表面に刻された文字が判然としなくなってきた碑が建立されています。亀形の台座は亀扶(きふ)と呼ばれる中国の想像上の動物です。余談ですが、東寺、黄檗山萬福寺、宇治川の隠元橋の傍その他何カ所かで見かけています。 途中に、役行者の小ぶりの石像が祀られています。 十八丁を登った先に、「上醍醐寺務所」があります。ここの建物は谷間の少し下がったところに位置します。登山道(参道)はこの門の左側を通ります。築地塀沿いの紅葉が紅く色づくと良い景色になります。道端には、「醍醐山の略史」の詳しい説明板が立っています。道標はこのあたりが十九丁であることを示しています。その隣に石造卒塔婆があります。 清滝宮拝殿(国宝) 上醍醐の入口に、開山の聖宝理源大師が醍醐の守護神として勧請した「清滝宮」があり、その拝殿の建物です。室町時代、永享6年(1434)の建造で、三間七間、入母屋造り、檜皮葺で建物の側面に向拝が付き、入口となっていて、軒に唐破風が付いています。蔀戸のある寝殿造りにならった舞台造りの構造となっている建物です。(資料2,3) 清滝宮拝殿の傍、少し奥まったところに、「醍醐水」の井戸があります。ここが醍醐寺発祥となった霊泉です。この霊泉が閼伽井(あかい)に用いられています。閼伽というのは、「仏に供えるもの。一般に、仏前に捧げる清らかな水」(日本語大辞典・講談社)という意味です。寺伝によれば、ここで聖宝理源大師が白髪の老翁(横尾明神)と出会った場所なのです。(資料2,駒札) 醍醐寺の名称が「ああ、醍醐味なる哉」というところに由来するとか。今は建物の正面左側に霊水を引いた蛇口が設置されていて、この霊水を飲むことができるようになっています。自然なおいしい水です。石段の傍に、「准胝仏母□」と刻された碑が立っています。最後の一字が判読しがたいのですが、「堂」という字かと思います。清滝宮の背後少し高い上段の地に「准胝堂」があったのです。創建は貞観18年(876)と伝えられていますが、たびたび火災に見舞われ、昭和43年に再建されたのですが、平成20年(2008)8月にまたもや落雷による火災で焼失してしまったのです。(資料3)准胝というのは、サンスクリット語の音訳(音写)であり、女性名詞なので女尊となるそうです。サンスクリット語・チュンディーは清淨という意味だとか(資料4)。そして、「准胝観音は、子供を授けてくれるという、腕をたくさんもつ仏で、千手観音像に似た像容」(資料5)だそうですので、「仏母」という表現が出てくるということなのでしょうね。准胝観音が単独で祀られることは少ないそうです。「経蔵跡」の傍を通り登って行くと、「薬師堂」(国宝)があります。山上伽藍最古の建物。 お堂の創立は延喜7年に遡るそうですが、現在の堂は平安時代・保安2年(1121)の再建。ここまで来ると、眺望が開けます。さらに歩みを進めると、道の脇に階段を設けた高みがあり、地蔵尊が祀られています。 さらに登って行くと、手水舎と鐘楼が見えます。 そして「五大堂」です。昭和15年に再建されたもの。薬師堂から東に300m余です。『都名所図会』には、このお堂に祀られた不動明王は開山聖宝の作で、「延喜帝(注記:醍醐天皇)の御願にして、朝敵平将門降伏のためつくり給う本尊なり」という説明が記されています。時代の背景が窺えておもしろい。(資料6) 駒札に「祝融」という言葉が使われています。文脈から火事・火災の意味と推測できますが、手許の辞書を引いてみました。2つめの意味に「火事。火災。祝融の災い。火事の災難。火災」と説明があります。その第一義の説明は「中国古代の伝説上の人物。『墨子』によれば、殷の湯王とうおうが夏かの桀王けつおうを攻めたさい、城に火を降らせたという。のち火の神・夏の神とされた」(日本語大辞典・講談社)とあります。五大力というのは、五躰の明王が祀られていることに由来します。駒札にその明王名が列挙されています。手許の本の説明をご紹介しましょう。(資料5)不動明王: 大日如来の教令(命令)を受けて行動する、もっとも威力があり、功徳も大きい明王。五大明王像の中央に安置。降三世(ごうさんぜ)明王: 過去・現在・未来の三世と貪(とん、むさぼり)、瞋(じん、怒り)、痴(ち、無知)の三毒(煩悩)を降伏(ごうふく)する(抑え鎮める)仏。不動明王に次いで格の高い明王。軍荼利(ぐんだり)明王: サンスクリット語で「とぐろを巻くもの」という意味を持つ明王。蛇と密接な関係にある。諸事を解決し、さまざまな障害を取り除いてくれる仏。一方、不死の妙薬である甘露信仰と結びつき、拝まれることがあります。大威徳明王: 阿弥陀如来の教令輪身(りんじん)で、文珠菩薩の化身ともいわれる明王。サンスクリット語の名前は、「死の神マヤを倒すもの」という意味があります。世間に蔓延する悪の一切を降伏する仏とされます。金剛夜叉明王: 「金剛杵(こんごうしょ)の威力をもつ夜叉」という意味のサンスクリット語の名前を持ちます。この金剛杵でさまざまな悪を打ち砕き、調伏(ちょうぶく)する不空成就如来の教令輪身とされています。種字(梵字)の下に「阿閦(あしゅく)佛」、その下部には「卅十八町」と刻されています。ここの文字は鮮明に判別できるものです。阿閦仏とは「東方の阿比羅提(あひらだい)世界(妙喜みょうき世界)で成仏し、説法する仏。密教では五智如来の一つ」(日本語大辞典・講談社)だとか。五大力堂からさらに東に登ります。といってもあとわずかの距離ですが。 「如意輪堂」(重文) 慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再建されたもの。外観は五間三間、入母屋造り、こけら葺で懸崖(けんがい)造りの建物です。(資料2)名前の通り、本尊は如意輪観音。二臂像で駒札には豊臣家ゆかりの女房衆のが寄進によると記しています。 開山堂(重文)開山堂(重文) この建物も慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再建されたもの。この如意輪堂と開山堂の間に、「結縁白山大権現」を祀る社があります。開山堂は、建立当初「御影堂(みえどう)」といわれたようです。『都名所図会』は「祖師堂」と記しています。八間五間、入母屋造り、妻を正面として、向拝に軒唐破風が付けられています。屋根の前部が檜皮葺で後部がこけら葺だそうです。(資料2.3,6) 向拝の中央の蟇股と木鼻。木鼻はシンプルな造形です。象の鼻の部分の彫り込みをおもしろいと感じます。開山堂内部と祀られている理源大師像は、醍醐寺の「上醍醐伽藍のご案内」のページ内に「理源大師像(木像)」と題して、諸堂とともに紹介されています。こちらからご覧ください。ここが醍醐山の山頂です。堂前からは眺望を楽しめます。この上醍醐で詠まれた歌のいくつかをご紹介します。 名をとむる世々は昔に絶えねどもすぐれし跡ぞ見るも畏(かしこ)し 中原師光 新勅撰集 十七 雑歌二 樒(しきみ)つむ山の往来(ゆきき)の道かへて春は桜の花や尋ねん 法眼顕恵 続門葉集 巻八 雑上 兎に角に世のうきよりは淋しさを忍びてすぐる山かげの庵(いほ) 阿闍梨俊叡 続門葉集 巻九 雑下 開山堂の前を少し下がったところに、「上醍醐陵」があります。南面する小円墳だそうです。右側に立つ石標には、「白河天皇皇后 藤原賢子 堀河院天皇准母 媞子(ていし)内親王 鳥羽院天皇准母 令子内親王」とあり、白河天皇の皇女とその生母・賢子が奉葬されているところです。「この地はもと上醍醐の子院円光院があったが、明治の修陵にあたって寺は撤去されたとつたえる」(資料2)とか。この後、一旦五大力堂まで降り、手水舎に近い所から、尾根道に入ります。横峰峠から高塚山に向かいます。つづく参照資料1) 上醍醐 音羽魔王大権現社 :「Hatenafotolife」 社殿側面に掲げられた由緒書の奉納板を撮った写真2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂3) 醍醐寺 ホームページ4) 准胝観音 :ウィキペディア 准胝観音 :「コトバンク」5) 『仏像の見方ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店6) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺准胝観音 :「仏像ワールド」木造六観音菩薩像(准低観音 ) 京都・大報恩寺 :「archaic仏」醍醐寺 五大力さん :「醍醐寺」 下醍醐の五大力尊の映像と仁王会の動画が載っています。亀扶(きふ)という視点から: 松平家墓所 :「会津若松 会津まるごと観光」 長継山千年寺 :「津軽瓦版」 《珍しい江戸時代亀扶型の墓 狩野一族の墓》蝶夢 :ウィキペディア蝶夢 :「コトバンク」吉井勇 :ウィキペディア漂白の歌人 吉井勇 :「香美市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 京都 醍醐山から音羽山へ -1 醍醐寺総門~成身院女人堂~槍山(醍醐の花見)へ歩く [再録] 京都 醍醐山から音羽山へ -3 横峰峠・高塚山・牛尾観音・音羽山山頂・逢坂関址ほか へ
2018.01.20
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2015年10月17日(土)同好会の月例企画に参加し、醍醐山・音羽山を歩きました。このときにまとめたものを再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)冒頭の景色は京都市の地下鉄東西線の醍醐駅から地上に出たところです。外環状線の道路を挟むパセオ・ダイゴローの建物です。所在地は伏見区になります。こちらは東に広がる住宅地域への架橋です。まずは団地の間の遊歩道を通り、旧奈良街道に面した醍醐寺総門に向かいます。 醍醐寺総門総門の傍に、世界遺産「古都京都の文化財」の説明板と醍醐寺の駒札が掲示されています。古都京都の文化財の一つとして、醍醐寺も世界遺産として、平成6年(1994)12月17日に登録されています。「醍醐寺」は、伽藍が山上と西麓の平地とに分かれており、山上伽藍は貞観16年(874)に、平地伽藍は延喜4年(904)に整備が始められたと伝えます。その後たびたび火災にあい、16世紀末から17世紀初頭にかけて現在みられる姿に復興されました。 山上伽藍の「薬師堂」は、保安5年(1124)に再建されたもので、平安時代初期の礼堂をもたない仏堂の規模・様式を伝えています。また鎮守社清瀧宮拝殿は、永享6年(1434)に再建された懸造の建物で、意匠的には住宅風に仕上げられています。 いっぽう平地伽藍のうち、天暦5年(951)に建立された「五重塔」は、年代が明かな建物としては京都における現存最古のもので、その外観は雄大で安定感があり、また初層内部に両界マンダラを描く点に密教寺院としての特色がみられます。「金堂」は、慶長5年(1600)に紀州満願寺の金堂を移築したもので、平安時代末期の仏堂の様式を残しています。「三宝院の表書院」は、豊臣秀吉による慶長3年の花見に際して増改築されたもので、寝殿造りの様式が取り入れられており、またこの横に広がる庭園も秀吉が直接指示して造らせた豪華なもので、地泉回遊式と枯山水が折衷されています」(説明板の転記)世界遺産の説明板と駒札を対比的に読んで、おもしろいことに気づきました。世界遺産は文化財の視点だけで作庭を含む建造物についての説明に限定されています。駒札から抜けている要素の要点をまとめてみます。*醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山*理源大師聖宝が笠取山(上醍醐)に登って観音像を安置したのが当寺の始まり*現在、醍醐寺の所蔵品は多くを霊宝館に保管して、春と秋に公開ということでしょう。「霊宝館」は醍醐天皇1000年遠忌を記念して昭和5年(1930)に建立されたものです。 総門の内側参道から、旧奈良街道を見た景色旧奈良街道には京阪バスの路線が通っています。総門から幅広い参道(桜の馬場)を進むと、左側(北側)に「三宝院」の表門と拝観受付所があります。醍醐寺の塔頭の一つです。平安時代、永久3年(1115)権僧正勝覚(14世座主)の創建です。古くから醍醐寺は真言系の修験の中心となっていたのです。一方、修験道には独自の立場で活動する人々もいたようですが、江戸時代に幕府は修験道法度を定め、真言系当山派と天台系本山派のいずれかに属させたのです。三宝院が山伏修験道当山派の総本山となりました。しかし、明治維新後神仏分離令に続き、明治5年(1872)に修験禁止令が出され、修験道が禁止されます。当山派という名称は醍醐寺のホームページで見つけられません。明治の時点で、真言宗醍醐派という宗派に統合されてしまったようです。だが修験道の実践者が存在するのは事実でしょう。山伏姿が宗教行事の中でニュースに登場するのですから。(資料1,2,3,4,5) 唐門(国宝) 三間一戸の檜皮葺の平唐門。中央の門扉には五三の太閤桐が輝いています。その左右には複弁十二葉の菊花文が同じサイズで配されています。秀吉がでんと控えている感じ。(資料1)参道の先に、「西大門(仁王門)」が見えます。この門は下醍醐の入口になります。 三間一戸、入母屋造り、本瓦葺の楼門です。左右の金剛力士立像(重文)は平安時代の作です。(資料1)三宝院とこの門から入った下醍醐境内、霊宝館はそれぞれ別個の拝観扱いなのです。つまり、個別に拝観料が必要。 今回はウォーキング目的なので、この仁王門を眺めて、外周を右から回り込むようにして上醍醐への入口に向かいます。仁王門の前で右に行くと、 「右上のだいごみち」の道標があります。ここを左折して下醍醐境内の境界外の道を東に進みます。 途中、フェンスごしに見える門 観音堂(旧大講堂) 醍醐寺は西国三十三所第十一番札所です。こちらも醍醐天皇1000年遠忌を記念して昭和5年(1930)に建立されたもの。 いよいよ上醍醐への登山口になりますが、ここはまだ下醍醐の一部です。醍醐山の山上に准胝観音が祀られていますので、「西国第十一番霊場」の石標が立っています。石標の先、坂道の右手にあるのが「高王十句観音経」の経文を記した写経PR板。なぜか鳥居が坂道の先に。醍醐山の山上に醍醐一山の鎮守社「清滝宮」があります。その参道にもなるからでしょう。たぶん。一方、下醍醐の境内にも、「清滝宮」が祀られています。 鳥居をくぐると、左側に「成身院(じょうしんいん)」があります。通称が「女人堂(にょにんどう)」です。ここまでが下醍醐になります。現在のお堂は江戸初期の再建といわれるもので、本尊には山上の准胝観音の分身が祀られています。昔は女性が山に登れないことから、ここで山上の諸仏を拝んだそうです。 本堂正面には、「第十一番上醍醐寺」としてご詠歌の扁額が掛かっています。享和元年(1801)に奉納されたものです。 逆縁ももらさで救う願(がん)なれば准胝堂はたのもしきかな 本堂の前には、五体の像が祀られています。右から地蔵菩薩、役行者、弥勒菩薩、理源大師、不動明王です。理源大師は醍醐寺を開山した人、役行者は修験道の元祖ともいうべき人。弥勒菩薩は、釈迦入滅後56億7000万年後に現れるとされる未来仏です。「社会が混乱するという末法の時代に入ったとされた平安時代の11世紀初めには、未来仏である弥勒菩薩の信仰がより盛んになりました。」(資料6)入山の受付所の傍に、この鳥瞰図の案内が掲示されています。同種の案内が醍醐寺のHPに「境内のご案内」として掲載されています。クリックしてご覧ください。 醍醐山の山頂をめざして、いよいよ参道の山道を登ります。丁単位で距離を表示する石標が目に止まります。「一丁」の文字の上に太く陰刻されているのは「准胝観音」を示す種字のようです。その背後に「三光共立会本部」という見慣れない名称の石標も立っています。これが何かはネット検索の対象にしてみました。「丁」表示の石標と合わせて、一定間隔で別の種類の石標が参道の反対側に続きます。これが、その一つ。何が記されているのか私には判別ができません。「金剛」という文字がその一部として刻まれているのが識別できる程度です。金剛という語句から連想するのは、金剛菩薩、金剛界五仏、金剛願・金剛宝・金剛幡・金剛悲の四地蔵、そして金剛石・・・・。 途中に道標もあります。 5丁目を越えてしばらく登ると、 「槍山」です。ここが「豊太閤花見跡」と称される場所。 慶長3年(1598)年3月15日、あの秀吉がここで花見をしたといいます。最初にご紹介した桜の馬場から登山口を経由し五丁以上の先のここまで、道の両側に桜の木700本が植樹されたというのです。さらに、女人堂からこの槍山までの間に、名だたる武将が智恵を絞り趣向をこらした茶屋を建てたのです。八棟の茶屋に秀吉はゆるゆると立ち寄り、茶を喫し歓談しつつ、桜の花を愛で、この槍山まで登ってきたといいます。小瀬甫庵が寛永3年(1626)までに書き継いだ『太閤記』は、この時の茶屋について次のように詳述しています。茶屋に関わる部分を抽出してみます。「石橋の左に当て、さび渡りたる堂に、益田少将此所を便りとして、茶屋をいとなみ一献すすめ奉る。・・・岩下聊(いささ)か平かなる所に、松杉の大木、椎檜の老木数千本茂りあふて、日影を知ぬ地有。新庄雑齋是を寄なりと悦びつつ、茶屋を建置、物さびたる茶具などを以(もって)御茶を上奉りぬ。殿下一入(ひとしお)に興じ給ふ。三番に小川土佐守茶屋を営みしが、是は前の両人に事替(かわっ)て、手のこもりたる事をもし侍らず。三間廿間にあらましき、かやぶきして、垣はよしを以(もって)かこひこめ、そさうなる畳をしき渡し、幕屏風をあまた所に置けり。・・・・秀吉公小川が倫をはなれたる作分(つくりぶん)なるなりと感じ給ふ。土佐守茶屋より十五六町も上に、岩堀の便おかしき所あり。増田右衞門尉これに茶屋をしつらひ渡しつつ、・・・・五番徳善院玄以は、有べき式のかりやかた営み奉りぬ。いかにも大やうに、大躰のよきを本意とせり。六番長束太輔茶屋は、晩日に及ぶべきを兼て期せしに依て、御膳の用意なり。・・・・七番御牧勘兵衛茶屋、是もけつこうを盡(つく)しけり。八番新庄東玉種々の異風躰をいとなみ、御機嫌を望にけり。鞍馬のふこおろしなどを沙汰し、其下に岩つたふ流れを手水に用ゐ、山居の興を盡せり。・・・・」(資料7)茶屋を営んだ亭主が、智恵を絞り、様々に工夫している様子が窺えます。史実がどこまでかはわかりませんが、当時の雰囲気が感じ取れます。 醍醐の花見の日によめる あらためて名を変へて見ん深雪山埋(うづ)もる花もあらわれにけり 秀吉 花もまた君のためにと咲きいでて世にならびなき春にあふらし 淀君醍醐山山頂まで、まだ3分の1にも至りません。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂2) 醍醐寺 ホームページ3) 三宝院 :ウィキペディア4) 修験道 :ウィキペディア5) 当山派 :ウィキペディア6) 『仏像の見方ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店 p467) 『太閤記 下』 小瀬甫庵著 桑田忠親校注 岩波文庫 p202-205【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺近代仏教教団と修験道 修験道と仏教 :「悠久」 「三光共立会本部」というキーワードから検索した出会いとして・・・。修験道 :「金峯山寺四国別院 聖天寺」修験道入門 :「醍山青年連合会」金峯山修験本宗 総本山金峯山寺 ホームページ本山修験宗総本山 聖護院門跡 ホームページ羽黒修験道とは :「羽黒町観光協会」紙本著色醍醐花見図〈/六曲屏風〉 :「文化遺産オンライン」太閤秀吉が演出した空前絶後の「醍醐の花見」 :「キリン食生活文化研究所」豊太閤花見行列(ほうたいこうはなみぎょうれつ) :「醍醐寺」豊太閤花見行列 :「京都観光研究所」世界遺産 醍醐寺 豊太閤花見行列-2014 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 京都 醍醐山から音羽山へ -2 上醍醐登山道(参道)~上醍醐(醍醐山山頂)へ歩く [再録] 京都 醍醐山から音羽山へ -3 横峰峠・高塚山・牛尾観音・音羽山山頂・逢坂関址ほか へ
2018.01.18
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2015年8月の最も暑い頃に伊吹山を歩きました。ウォーキング同好会の恒例企画に参加したのです。JRの近江長岡駅前に集合し、路線バスで伊吹山登山口まで行きます。登山口の近くに、「三之宮神社」があります。この境内で登山前の軽い準備運動をしてから、今や恒例となった入山料を登山口で払い、代わりに「伊吹山登山MAP」をいただいて、登山口から表山道を登りました。この時にまとめたものを再録してご紹介します。(再録理由は付記にて)一説によると、「山頂の弥勒堂を一之宮(上宮)、磐座がある2合目のシャクシの森が二之宮(中宮)とされ」、登山口の上野にある神社が三之宮となるそうです。かつての伊吹山の修行の道も、ここ三之宮神社から始まっていたそうです。(資料1)それでは登り始めましょう。 1合目(標高420m)に至る手前で見上げる景色伊吹山スキー場のゲレンデが見えます。 1合目で小休憩をとり、まずは3合目をめざして登ります。緑のゲレンデを眺めると、パラグライダーをする人々がいます。このあたりはパラグライダーをする人々のグラウンドになっているようです。毎年、目にします。伊吹山・上野では、「伊吹山パラグライダースクール」が開催されているので、その集団かもしれません。 2合目(標高580m)からの眺め 大空には、パラグライダーが・・・・気持ちよさそう! 眼下を遠望すると、琵琶湖が広がっています。 3合目。もう結構汗だくになっています。 3合目(標高720m)で、再び小休止。「アキノキリンソウ」が咲いています。ここにはトイレ施設も整備されています。このあたりは、「3合目山野保護地域」となっていて、登山道以外のところはところどころに防護ネット柵が設置されています。ちょっと無粋ですが、山野の維持保全には必要なことなのでしょう。 3合目附近から眺めた湖北の景色4合目(標高800m)・5合目(標高880m)を経由して、その少し先にある避難小屋を目指します。ゲレンデ斜面の中央にぽつんとみえる小屋がここからの目標地点です。 5合目を越えたあたりから眺めた全景避難小屋付近で小休止後、目指すは8合目! やっと避難小屋を眼下に眺める地点まで到達 ネット情報を参照すると、「イブキフウロ」のようです。蝶々を目にしました。 8合目の少し手前で、西方向を眺めると、 説明板がないと意識すらしないでしょう。肉眼ではお堂が小さな点としか見えません。登山MAPには別名の「平等岩」で記入されています。「行導岩」という巨岩の上に建てられています。伊吹山を開いた高僧・三修がこの岩上で修行したといわれ、円空仏で有名な聖の円空もまた江戸時代前期に、この行導岩で修行した時期があったようです。(説明版より)伊吹山は平安時代には「七高山」の一つに数えられ、9世紀中ごろ山中に伊吹山寺(いぶきさんじ)が建立されたそうです。後に、弥高寺(みたかじ)・太平寺・観音寺・長尾寺という伊吹山4ヶ寺に発展していき、伊吹山信仰の拠点となったようです。戦国期には、伊吹山中腹の尾根上が山城としても利用されます。「史跡弥高寺跡」「史跡上平寺跡」の石標が建てられていて、湖北を眼下に見る拠点にもなったのです。(資料1)平安時代は京都を中心にした世界です。七高山は近畿にある7つの霊峰。比叡山・比良山・伊吹山・愛宕(あたご)山・神峰山(かぶせん)・金峰山(きんぶせん)と葛城(かつらぎ)山あるいは高野山がそれにあたるようです。(「デジタル大辞泉」)『三代実録』には、七高山として葛城山の方を加えた七霊峰を記しているといいます。伊吹山寺は伊吹山4ヶ寺に発展していきます。4ヶ寺の一つ観音寺は、大原観音寺と通称され、ここには『大原観音寺文書』と称される古文書が豊富に残っているようです。それによれば、寺号は正式には伊吹山護国寺、観音護国寺と称するのだそうです。中世の伊吹山は、伊吹4ヶ寺と伊吹社・三宮の両社が宗教組織として相互に関係しつつ、衆徒(寺僧)や山伏が存在した山岳信仰の地だったのです。そのため、「14世紀末?15世紀、伊吹山を揺るがす相論が発生する。その争点は、伊吹山の抖藪における一宿が弥高寺と三宮のいずれであるかということだった。宿とは、山内の聖地であり、とくに一宿は入峰拠点としても意味が大きかった。」(資料2)という論争に発展する局面もあったようです。一方、伊吹山の山伏は、寺外にネットワークを形成し、修験道の拠点である聖護院門跡の配下のもとに統括されていく形になったとか。(資料2)伊吹山を山岳信仰の地とみると、ここもさまざまな変遷を経ているようです。 8合目(標高1220m)には、多くの登山者が休憩しています。最後のひとがんばりへの小休憩でしょう。この辺りからの展望が良いことと休憩できる空間が広いこともその一因だと思います。この辺りから急坂にもなります。山頂は目前です。眼下に広がる景色を時折眺めつつ、最後の登りです。 「イブキトラノオ」が咲いています。山頂への最後の直線道に入るあたりに、「伊吹山頂遊歩道ご案内」の説明板があります。 ウツボグサ イブキアザミ イブキフウロなどが咲いています。 山頂の「伊吹山寺山頂本堂」が見えて来ました。 頂上の一等三角点まで直行です。頂上1,377m。頂上から登ってきた山頂入口のある西方向、山頂部の西半分の眺め 南西方向には、湖北の風景が広がり、 振り返ると、山頂の東半分とその彼方に北の山々の連なりが広がっています。2015年も伊吹山山頂に立つことができました。(今年2017は残念ながら、膝の不調で参加を断念、嗚呼!)後は登ってきた表参道を逆に下って行くだけです。山頂の日本武尊像のところで、多くの人々が記念写真を撮っています。伊吹山は古代から人々に知られていた山です。『古事記』の人代篇にヤマトタケルの逸話で登場します。佩刀の草薙の剣をミヤズヒメの許に置き、素手でも可能として、伊服岐(いふき伊吹)の山の神を倒しに出かけます。山を登り始めたとき、山のほとりで白い猪に出会うのです。その後、以下のようなストーリーが語られます。”「この白い猪に姿を変えているのは、この山の神の使いであろう。今殺さずとも、帰る時に殺せばよかろう」と言うての、そのまま山を登ったのじゃ。すると、山の神がにわかに荒れ狂うて、大粒の氷雨を礫(つぶて)のごとく零(ふ)らせての、ヤマトタケルを打ち惑わしたのじゃった。この白い猪に姿を変えておったのはの、その山の神の使いではなのうて、まこと、山の神そのものだったのじゃ。それを見抜けずに、偽りの言葉を口の端に載せてしもうたのでの、ヤマトタケルは神の怒りに惑わされてしもうたというわけじゃ。”(資料3)その結果、山の神を征服できず、山の神の毒気に朦朧とした意識で下山し、「玉倉部(たまくらべ)」の清水に至って、しばらく休息するのです。そこが「居寝(いさめ)の清水」と呼ばれたと記しています。ところが、大筋は同じですが、『日本書紀』の巻七・景行天皇のところには、山の神は大蛇(おろち)になって道を塞いだとしているのです。日本武尊はこの大蛇を神の使いと考え、その蛇をふみ越えて進んだとします。「このとき山の神は雲をおこして雹(ひょう)を降らせた。霧は峯にかかり、谷は暗くて、行くべき道がなかった。さまよって歩くところが分からなくなった。霧をついて強行すると、どうにか出ることができた。しかし正気を失い酔ったようであった。それで山の下の泉に休んで、そこの水を飲むとやっと気持が醒めた。それでその泉を居醒井(いさめがい)という。日本武尊はここで始めて病気になられた。そしてようやく起きて尾張に帰られた。」(資料4)その場所は、滋賀県米原市の「醒井(さめがい)」だとされているのです。「居寝の清水」・「居醒井」が「醒井」という地名の由来だといいます。近世には木曾街道六十九次の「醒井宿」として栄えた土地です。下山にかかります。路線バスの発車時刻に何とか間に合い、無事伊吹山行完了です。伊吹山は中世以降、和歌や短歌、俳句に詠まれています。諸資料から拾ってみます。 かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな 燃ゆる思ひを 藤原実方 後拾遺集 小倉百人一首 51 「まことにや、やがては下る」と言ひたる人に、 思ひだにかからぬ山のさせも草たれか伊吹の里は告げしぞ 清少納言 枕草子 302段 色にいでてうつろう春をとまれともえやは伊吹の山ぶきの花 藤原定家 拾遺愚草 今日も又かくやいぶきのさしも草さらばわれのみ燃えや渡らむ 和泉式部 新古今集 1012 水うみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを 名に高き越の白山ゆき馴れて伊吹の岳をなにとこそ見ね 紫 式部 紫式部集 82 湖のはてに伊吹は白く光りたり地震にくづれし片面かも 川田 順 うちわたす菜畑やうやく黄ばみけり伊吹嶺はなほ雪白くして 山川桃崖 雪曳ける遠つ伊吹の秋姿花野の末に柔らぎて見ゆ 服部綾足 どとおろす伊吹颪に野べの雪煙り上りて淋しきものを 梅村智美 伊吹山いぶく朝風吹きたえてあふみは霧の海となりぬる 加藤宇万伎 其のままよ月もたのまじ伊吹山 芭蕉 真蹟詠草 折々に伊吹をみては冬ごもり 芭蕉 後の旅 木枕の垢や伊吹に残る雪 丈草 植田よりなほさみどりに伊吹山 福田蓼汀 木曽を出て伊吹日和や曼珠沙華 河東碧梧桐 八月の色を抜けでて伊吹かな 上田 操 稲妻の怒り伊吹の怒りかな 平井照敏 秋高し苦り立ちたる伊吹山 松本たかし 雲湧いてのちの伊吹の冬の暮 桂 信子 (資料5,6,7,8) 脱線序でに、伊吹もぐさを始め、伊吹は薬草栽培地として有名です。和歌に出てくる「伊吹のさしも草」の「さしもぐさ」は「ヨモギの異名」です。「もぐさ」は「灸に使う、ヨモギの葉を乾燥して綿状にしたもの」であり、「ヨモギの異名」でもあります。(『大辞林』三省堂)調べてみると、平安時代の延長5年(927)に完成した『延喜式』の巻37・典薬寮には、「諸国進年料雑薬」という項の「東山道」という分類に「近江国七十三種」と薬材料の名称が列挙されています。たぶん、これらの薬草のかなりが伊吹山から採取されたのかもしれません。具体的な産地名は記載がありませんので推測ですが。(資料9,10)戦国時代、織田信長はポルトガル宣教師から病気の治療のための薬草栽培の必要性についての進言を得て、伊吹山に薬草園の開設を許可したそうです。何とその規模は50ヘクタール(50町歩とも)、3,000種の薬草栽培に及ぶものだったとか。(資料10,11)いろんなことを学べる興味深い霊峰、伊吹山です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 入山の受付所でいただいた地図 「日本百名山伊吹山 登山MAP」2) 中世の伊吹山と山伏 -『大原観音寺文書』が語ること- :「歴史漫遊録」3) 『口語訳 古事記 [完全版]』 三浦佑之訳・注 文藝春秋 p206-2074) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟訳 講談社学術文庫 p170-1715) 伊吹を詠んだ和歌・俳句 作成:幸田正榮氏6) 佐佐木信綱編『和歌名所めぐり』東海道線14 各務が原~伊吹山 :「雁の玉梓 -やまとうたblog-」7) 『俳枕 西日本』 平井照敏編 河出文庫8) 岩波文庫:『新古今集』『紫式部集』『芭蕉俳句集』、角川文庫:『枕草子』9) 延喜式 巻三十七 典薬寮 :『延喜式』10) 伊吹山と薬草 :「伊吹もぐさ 亀屋佐京商店」11) 『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺伊吹山 :ウィキペディアアキノキリンソウ :「植物雑学事典」[植物生態研究室(波田研)のホームページ]伊吹山で観察した花 :「夫婦でテクテク登山」醒井宿 :ウィキペディア京極氏遺跡群 -京極氏館跡・上平寺城跡・弥高寺跡- pdfファイル 埋蔵文化財活用ブックレット9(近江の城郭4) 滋賀県教育委員会伊吹山弥高護国寺 悉地院 :「長浜・米原・奧びわ湖」弥高護国寺 悉地院 ホームページ伊富岐神社 :「のりちゃんず」伊吹山の歴史・文化 資料2-2 pdfファイル伊富岐神社 :「玄松子の記憶」 岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹 に所在の神社 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.21
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2014年12月にウォーキングの同好会でJR草津駅を起点として、膳所駅までウォーキングをしました。その折のリーダーについて歩き、行路での写真を撮ることを楽しんでいましたので、詳細な道筋は記憶していません。ウォーキングの通過点を事後に少し手許の本やネット検索などで調べて、要所要所の見聞ポイントをまとめていました。ここに再録しご紹介します。JR草津駅に集合し、ほぼ予定時刻に出発。歩いた経路は、 草津駅~草津川・木川町・山田町・矢橋帰帆島公園・近江大橋~膳所駅 です。草津駅からまずは草津川に向かい、堤防の上を琵琶湖に向かって歩きます。砂川大橋のところまでです。そこで草津川堤防から、県道42号線に沿って南西方向に向かいます。<JR草津駅~草津川~砂川大橋・砂原天神社>の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 ここで目にしたのが、「砂原天神社」(すなはらてん・じんじゃ)です。神社のまだ新しそうな由来説明碑が立っています。鎮座地は草津市木川町1314。祭神は天若御子神。「鎮座地は地蔵山と称し、安政七年地頭木村左衛門他四十三名が、当地の守護神として祀ったと伝えられ、木川町天神社の御旅所となっていたが、昭和四十七年社殿を建て、天神社より御分霊を遷座して氏神とした」(資料1)との由。県道42号線を進むと、木川北交差点の次は県道141号線との交差点となります。ここで、右折して県道141号線を琵琶湖の方向に進みます。すると、鳥居の立つ杜が見えてきます。 ここが「天神社」(てん・じんじゃ)です。砂原天神社はこの天神社からの分霊遷座ということになるようです。鎮座地は草津市木川町542。祭神は天市々魂命・天興豊魂命・天若御子神だとか。説明碑には、推古天皇の時代(592-628)に淡海栗太郡の県主物部彦安の勧請により祭神が鎮座されたと伝えられています。この辺りは往古は奈良興福寺の寺領だったようです。当時は広域の神領を有する大社だったと説明碑には記されています。なお、祭神にさらに豊斟淳尊(とよむぬのみこと)を加えて滋賀県神社庁には登録されています。(資料2)<砂原天神社~天神社>の地図(Mapion)はこちらから。天神社の傍で県道を外れ田畑と集落の中を通る道を県道26号線と交差する山田町交差点に向かいます。その途中で「山田正八幡宮」の境内の傍をとおります。滋賀県神社庁には「山田八幡宮(ヤマダハチマン)」で登録されています。鎮座地は草津市北山田町10-1。祭神は応神天皇。「天武天皇白鳳四年大中臣清麻呂の祈願に依り創建される。建久三年に源頼朝が再興し、慶長以後は膳所城主戸田・石川・本多の諸侯が社領を献じて厚く崇敬した。」(資料3)交差点を横断し、そのまま道沿いに進むと、右側に見えたのが、 「渡海神社」です。「とかい」と読むのではなくて「わたつみ」と読む神社です。鎮座地は草津市山田町3。祭神は塩槌神。「明細帳によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると、醍醐天皇延喜六年に金峰山寺僧日蔵が同寺創建の時、大和国金峰山より春日の四所を勧請し若松神と尊崇したが、後奈良天皇天文年間同刹癈滅の際、その本尊蔵王権現を本社に合祀し爾来蔵王権現社と称した。渡航、料理の神として信仰がある。 明治元年蔵王権現を渡海神社と改称する、」(資料4)蔵王権現社からの改称は、明治の神仏分離令の結果でしょう。<天神社~山田正八幡宮~渡海神社>の地図(Mapion)はこちらから。渡海神社の近くで目に止まった建物。この辺りの集落では目立つ建物です。そのまま湖岸の方向に歩いたのですが、湖岸傍で目にするのがこの建物。かなり以前に、大津市側のなぎさ公園の方からこの特異な建物の形が目に止まり、何の建物だろうかと思っていたのですが、このウォーキングで初めて建物の近くを通り、関心をもっていたことが判明しました。「天聖真美会」という宗教法人の建物でした。<渡海神社~天聖真美会>の地図(Mapion)はこちらから。 この先は、十二川を経由して、湖岸道路に向かいます。 帰帆北橋を渡って、矢橋帰帆公園に入ります。 「さざなみ街道」と称されています。県道559号線。<天聖真美会~帰帆北橋~矢橋帰帆島公園>の地図(Mapion)はこちらから。 矢橋帰帆島公園から、膳所の方向を眺めた景色 三上山を様々な地点から眺めることに。この辺りからの眺望もいいですねえ。 1151,1155ここには松尾芭蕉の句碑が建てられています。 こんな案内板が立っています。この公園からの琵琶湖の景色はなかなか雄大な広がりを感じさせます。 公園を湖岸沿いに歩き、帰帆南橋、近江大橋を渡ります。近江大橋西詰の歩道下で「晴嵐夕映」と刻された碑が目にとまりました。中国の「瀟湘(しょうしょう)八景」に倣って、江戸時代から「近江八景」として「瀨田夕照(せきしょう)」「粟津晴嵐(せいらん)」「堅田落雁(かたたのらくがん)」「矢橋帰帆(やばせのきはん)」などが撰定され、浮世絵にも描かれてきました。この「晴嵐夕映」という語句をこの日、初めて目にしました。「琵琶湖八景・近江八景」にはない語句です(資料5)。新造語というところでしょうか・・・・。 このあとは湖岸沿いの道を歩きます。「なぎさ公園」の一部です。 途中で、琵琶湖大橋の蜃気楼らしき眺めに遭遇。右側、湖面の途中で橋の端が終わっていますよね・・・? やはり、今の琵琶湖周辺の一つのランドマークとなるのは、この建物です。大津プリンスホテルが目立ちます。これを目印に位置を考えるのに便利です。場所によって、この建物が様々な表情を見せてくれるのもおもしろいところです。 琵琶湖汽船のクルーズ船を見かけました。このあたりから膳所駅は、全行程からすれば、ほんの少しの距離ということになります。<矢橋帰帆島公園~帰帆南橋~近江大橋~大津プリンスホテル~膳所駅>の地図(Mapion)はこちらから。これでウォーキング行程は終わりです。天気に恵まれるとなかなか歩きごたえがあります。距離と景色の両方の意味で・・・・。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 砂原天神社(スナハラテン) :「滋賀県神社庁」2) 天神社(テン) :「滋賀県神社庁」3) 山田八幡宮(ヤマダhチマン) :「滋賀県神社庁」4) 渡海神社(ワタツミ) :「滋賀県神社庁」5) 琵琶湖八景・近江八景 :「滋賀県」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺砂原天神社 村の鎮守さま :「萬葉集を携えて」四所明神 :ウィキペディア 春日の四所 → 藤原四所明神:春日大社に祀られる四柱の神のこと。春日大社の原像 橋川紀夫氏 :「奈良歴史漫歩」山田正八幡宮 村の鎮守さま :「萬葉集を携えて」蔵王権現 :ウィキペディア金剛蔵王権現 :「金峯山寺」天聖真美会 ホームページ矢橋帰帆島公園 公式ホームページ大津湖岸なぎさ公園 :「おおつのこうえんネット」近江八景 :「みちしる」(NHK放映マップ)近江八景 :ウィキペディア大津プリンスホテル ホームページ琵琶湖汽船 公式ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.12.19
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緑ヶ丘公園からまず西方向にある「瑞ヶ池公園」に向かいます。この道標が、次の池の左側、道路が交差する角に立っています。この池が「瑞ヶ池(ずがいけ)」です。周りが金網で囲われていて、道路沿いに歩きながら眺めると方形の感じに見えるかなり大きな池です。池の周囲が1.6kmのトリムランニングコースになっているそうで、公園の広さは19.3ヘクタールだとか。(資料1)かつては「摂津の国小池」として農耕のための池だったようです。それが昭和45年(1970)5月に水の公園として整備され現在は伊丹市の上水の水源として活用されている貯水池になっているのです。(資料2)池の左側を右折して回り込んで行きます。 少し前進したところで、彫刻の置かれた花園があり憩いの場所が広がっています。この彫刻像は公園の完成記念碑なのです。 「日米修好の桜」というのが植樹されています。伊丹産の桜がワシントンに植樹され、今度はその桜の苗木が里帰り桜として2003年に日本に贈られたのだと言います。この公園内には、「オオシマザクラ、ヤマザクラ、シダレザクラ、カンヒザクラなど10種類600本のサクラがあります。」(資料3) 花が咲きそっていると気持ちがなごみます。そして、「昆陽池公園」が1km余り先にあるのです。ウォーキングには最適のエリアです。この公園は、大きな昆陽(こや)池を中心にしてその周辺が散策路を配した公園になっています。おもしろいのは、昆陽池の中に、日本列島の形が作られているようなのです。もともと、この昆陽池は天平3年(731)に行基の指導により農業用のため池として作られたのだとか(天平5年/733年、行基65歳の時という説もあります)。昭和43年(1968)に伊丹市が一部公園し、その後段階的に拡張してきたそうです。農林水産省のため池百選に選定されています。現在の公園は、広さ27.8ヘクタール(そのうち自然池12.5ヘクタール、貯水池4.5ヘクタール)だとか。(資料4,5) 公園に入り、小川の流れる傍の小径を進んで行くと、「伊丹市昆虫館」があり、公園マップの案内板があります。昆虫館を横目に見ながら「ふるさと小径」を歩んでいくと、この公園で見られる野鳥の説明板などもあり、バードウォッチングの趣味人には楽しめる公園。関西屈指の渡り鳥の飛来地だそうです。さらに、その先には慈円(1155~1225)の歌碑があります。 ゑにかきて今唐土(もろこし)の人に見せむ 霞わたれる昆陽の松原山本紅雲筆「拾玉集」より写されたもののようです。 昆陽池内の日本列島の形になった島々らしきものを見られる展望箇所があります。しかし、その形は上空からみないと???です。ここでもまた蒼空を横切っていく飛行機を眺めました。このあたりも障害物がないので、上空を行く飛行機を撮るには良い場所になりそうです。飛行機の機内から、この池の日本列島が見えるかもしれません。 このスポットの近くに、「夏目甕麿の歌碑」も目に止まりました。自筆写本「七月の記」よりというもの。 遠つあふみ 入江の月の おもかけも 思ひそ出る 昆陽の大池 夏目甕麿という人をこの碑で初めて知ったのですが、江戸時代後期の国学者。「遠江浜名郡白須賀(付記:現・湖西市)の名主で酒造業を営む家に生まれた」そうで、本居宣長の門人にもなった人。 また様々な彫刻が置かれたエリアがあります。この公園は多目的に楽しめそうです。 さらに池に沿った小径を歩むと、公園内の展望が広々と開放的になります。大きく池を見渡せ、近くには大きな公園案内板が設置されています。夏目甕麿は地名の語学的研究や近畿の山稜研究を行ったそうです。この各地を転々とし、昆陽にも住み、1822年、昆陽池で遊んで溺死。船から月を取ろうとしたという逸話が残るようです。享年50歳。(資料6)昆陽池についての説明板も別にあり、池中の日本列島を上空から撮った写真も案内板に載せてあります。誰がこんなアイデアを思いついたのでしょうか。この後はJR伊丹駅を目指します。その駅前にあるのが「有岡城跡」。今回のウォーキング最後の立ち寄りスポットです。途中、こんな彫刻が市中で目にとまりました。膝を抱えて座り込む二人の少女と一匹の犬、何を眺めているのでしょう・・・・。こんな建物も。「旧岡田家酒蔵」の表札が掛けてありました。平成4年(1992)に国の重要文化財に指定されています。 店舗・釜屋・酒蔵からなる建物。店舗は江戸時代・延宝2年(1674)の建築で兵庫県最古の町家であり、酒蔵は現存し年代が判明するものとしては日本最古なのだそうです。「江戸時代の伊丹の酒造家松屋与兵衛が建て、岡田家の所有となったのは明治33年。・・・解体修理を経て平成13年(2001)6月24日より一般公開」(資料7)に至っています。 史跡 有岡城跡 石段を上がったところに、説明板があります。発掘調査が行われ、ここを昭和58年度(1983)から始まり平成5年度に完了した史跡公園整備により現在の姿になったのです。この城は南北朝時代から伊丹氏の城として発展してきた伊丹城です。天正2年(1574)に当時織田信長の武将だった荒木村重が伊丹氏を破り入城し、「有岡城」と改名します。そして、「総構」という城下町の地域全域を囲う巨大な土塁と堀を築いたのです。その総構は東端に本曲輪(本丸)があり、西に侍町が囲み、その西に町屋が広がり、北(岸の砦)と南(ひよどり塚砦)に砦を設けるという形です。その全周囲を、堀の深さ3~7m・幅7~18m、土塁の高さ3~5mで囲んでいたといいます。そして、危急時には本曲輪が領民の避難所にもなり、城籠りができるように造ったとされています。(資料8,9)現在、JR伊丹駅のすぐ前に残る城跡は、当時の本丸の10分の1位の規模にすぎないようです。明治26年に鉄道が開設されるにあたり、城跡の東側が削り取られたのです。昭和50年(1975)より発掘調査が行われ、中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになったといいます。 石段を上がって行くと、左方向に見えるのが礎石と井戸の跡です。 右方向は本曲輪跡の広場です。 右方向に真っ直ぐに行くと、そこが現存する有岡城跡の石垣だと分かりました。その石垣をよく見ると、石積みの中には石塔の基壇石だったものも確認できます。発掘調査により出土した荒木村重時代の石垣を復元されたもののようです。 石垣側から眺めた礎石・井戸の跡がある方向 側面に土塁跡の表示があります。この本曲輪跡には、あらきたしが村重につかわした歌と荒木村重が返した歌の二首を一石に刻んだ歌碑が建てられています。 霜がれに残りて我は八重むぐらなにはのうらのそこのみくづに あらきたし 思ひきやあまのかけ橋ふみならしなにはの花も夢ならんとは 荒木村重「たし」は「ダシ」と読むそうです。この歌は『信長公記』巻十二の「伊丹の城にこれある年寄ども、妻子兄弟置き捨て退出の事」の条に記載された二人が歌のやりとりをしたものです。(資料10)織田信長の命令で塚口郷(丹羽長秀)をはじめ12ヶ所以上に有岡城に対する付城を築かせ、完全包囲作戦を実行している状況の中で、村重が尼崎城に夜陰にまぎれて脱出したのです。興味深いのは、この見出しが事実なら、完全包囲網が敷かれた状況の中で、なおかつ有岡城と尼崎城で歌の交換をするくらいの人の行き来が行われていたということです。『信長公記』にはその続きに、次の歌も記録しています。あこ → たし ふたり行(ゆく)なにかくるしきのりの道かぜはふくともねさへたへずばお千代 → 村重 此(この)ほどの思ひし花はちり行(ゆき)て形見になるぞ君が面(おも)かげ村重 → お千代 百年(ものとせ)に思ひし事は夢なれやまた後(のち)の代(よ)の又後の世は開城された伊丹城(有岡城)には、織田信澄が入城します。荒木村重が尼崎・花隅両城の開城説得に向かった荒木久左衛門の説得に応じません。そのため、村重の正室をはじめ一族37人は京に護送され、六条河原で斬殺されるに至ります。この洛中引き回しの上での処刑の状況が上掲書に記載されています。その前に、「たし歌あまた読み置き候」として、他の一族の人々の歌を併せて記載する冒頭に4首を記録しているのです。(資料10) きゆる身はおしむべきにも無き物を母のおもひぞさはりとはなる 残しおくそのみどり子の心こそおもひやられてかなしかりけり 木末よりあだにちりし桜花さかりもなくてあらしこそふけ みがくべき心の月のくもらねばひかりとともににしへこそ行(ゆけ) 懐古園の石碑が建てられていて、その碑文の意訳説明板もその傍に立っています。この城跡の土地は何時の頃からか竹内という人の所有となり、その人が亡くなった後、未亡人の方が昔を偲ばれた思いを太田北山が書いた碑文だそうです。太田北山とは、小西酒造の小西新右衞門氏が私塾として「弘深館」を造ったときに招かれた初代の先生だとか。(資料11) 道路を隔てた反対側にも、有岡城の主郭部についての説明板が設置されています。こちらにも歌碑があります。 春秋の花と月とをときならて 見はてぬ夢の暁はうし 伊丹之親(ゆきちか) 有岡城とは直接関係がありませんが、伊丹駅前に「フランドルの鐘」の塔が建てられています。伊丹市と姉妹都市であるベルギー王国のハッセルト市から平和と友好の象徴として贈られた「カリヨン」だそうです。国際姉妹都市提携5周年と伊丹市制施行50周年を記念して、1990年に寄贈されました。「フランドルの鐘」は一般公募で決定した記念塔の愛称だとか。「カリヨン(Carillon)」はラテン語で「4個で1組」という言葉を語源とする「組鐘」のことで、「教会の塔や鐘楼に設置された複数の鐘を巨大なシリンダー式のドラムで自動演奏したり、奏者が鍵盤とペダルで演奏する楽器」。この記念塔のカリヨンは「大小43個の鐘を手動バトン(鍵盤)により4オクターブの音色を奏でることができます。」(資料12)大阪空港駅前を起点としたウォーキングは伊丹駅を終点として終了しました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 瑞ヶ池公園 :「伊丹市」2) 公園情報第3回 瑞ヶ池公園 :「いたみん」3) 伊丹瑞ケ池公園 花見特集 :「いつもNAVI」4) 昆陽池公園 :「伊丹市」5) 昆陽池公園 :ウィキペディア6) 夏目甕麿 :「本居宣長記念館」7) 旧岡田家住宅・酒蔵 :「伊丹市」8) 「村重一筋の郷土史研究家による『村重Q&A』」 当日、有岡城跡でボランティア・ガイドさんからいただいた資料集まとめ9) 有岡城跡 :「伊丹市」10)『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p275、p285-28611) 第十七章 伊丹の史跡と文化財 村上敏展氏 :「伊丹歴史探訪」(小西酒造)12)フランドルの鐘(カリヨン) :「伊丹市」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺2012年(兵庫県:伊丹市)瑞ヶ池公園の桜と「米国より贈られた里帰り桜」 :YouTub昆陽池公園パンフレット 伊丹市第三章 行基と昆陽の大池 ~行基の活動と足跡~ 藤井直正氏 :「小西酒造」(その60)課題「いけ(池)」ー文学苑庭「昆陽池公園」ー :「磯城島綜藝堂」昆陽池(こやいけ)公園にある文学碑を訪ねて… 伊丹<<再>>発見・・・その4夏目甕麿 :ウィキペディア 甕麿址・諸平生誕地 :「人力」荒木村重 :ウィキペディア第八章 近世の伊丹の姿 ~発掘でみる有岡城~ 川口宏海氏 :「伊丹歴史探訪」(小西酒造株式会社) 寛文9年(1669) 伊丹郷町絵図(八木 1982年に加筆)30年目の有岡城跡(国指定史跡) :「伊丹の歴史グラビア」 第四章 伊丹城の城主 伊丹氏 ~伊丹氏の足跡~ 伊丹 茂氏 :「伊丹歴史探訪」(小西酒造株式会社)加藤伊丹氏系図carillon From Wikipedia, the free encyclopediaWorld Carillon Federation ホームページ Travelling Carillonsは、可搬式カリヨンの実例がいろいろ掲載されるページ有岡城の戦い :ウィキペディア【特集】荒木村重と有岡城 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -3 伊丹市内へ(猪名野神社・白洲屋敷跡・緑ヶ丘公園) へ
2017.11.07
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「伊丹スカイパーク」の北エントランスを出たところで、大阪国際空港・南東方向側を東から西に半周歩いてきたことになります。飛行機が離発着するコース線上で一番接近できる絶景スポットから、メイン滑走路全体をを側面から眺められる伊丹スカイパークへと周り、2つの視点からの離発着を堪能できました。そこで空港を離れて、伊丹市内の史跡スポットをいくつか訪れて、JR伊丹駅をウォーキングの終着点とするコースとなりました。 冒頭の画像にある通り、北エントランスからまずは猪名川の堤防に出て、神津大橋からその北に位置する興津橋を目指します。右の写真は興津橋上から見た神津大橋です。興津橋から北方向の景色を遠望しながら、一旦福知山線の高架下をくぐり、 駄六川に架かる雲正橋を渡ります。橋のところの標識によると、この橋からJR伊丹駅は300mの距離のようです。ウォーキングとしてはこの橋から逆に北方向をめざしぐるりと回り込んでから終着点として伊丹駅にむかうことになります。この近辺の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。「伊丹1」交差点を横断して、宮ノ前地区に入ります。金剛院の門前、市立図書館の前を北に歩むと、猪名野神社です。金剛院の門柱には「宇多天皇勅願所 真言宗御室派」という標札が片側に掛けてあります。山号は「有應山」です。 「猪名野神社」の石造鳥居の傍に、「御由緒略記」が掲げてあります。古くは野ノ宮、天王ノ宮と呼ばれていたそうですが、明治2年の神仏分離令の発布された折に、猪名野神社と改称されたようです。伊丹郷町の氏神として祀られてきた神社。 鳥居の前の狛犬はぎょろっとした目に特徴がある感じです。前懸がかけてあるのもおもしろい。こういうのはあまりみかけません。鳥居をくぐり真っ直ぐに進むと、本殿。 唐破風屋根の向拝の木鼻や蟇股はシンプルなデザインです。屋根の尖端隅に獅子があたかも鯱のような姿勢で置かれているのも興味深いところです。 兎毛通の中心に菊の紋が彫られています。 目に入った範囲の境内社はすべて石造鳥居が建立されているのも立派です。上の画像の左から順に、天満神社、厳島神社、猿田彦神社です。(資料1) 愛宕神社そして一隅に「鬼貫(おにつら)句碑」が建立されていました。 鳥ハ末 口もほとけず 初桜この句碑は嘉永7年(1854)に建立されたものだそうです。俳人・鬼貫の句碑は伊丹市内に14ヶ所、他地域に4ヶ所、少なくとも20ヶ所は建立されている模様です。(資料2)鬼貫の名前は知っていましたが、それほど意識したことがありません。この句碑をみて少し調べてみました。江戸時代中期の俳諧師で、1661年、摂津国川辺郡伊丹郷で酒造家・上島宗次(屋号・油屋)の三男に生まれ、1738年、大坂鰻谷で死去、享年78歳。享保3年(1718年)『獨言(ひとりごと)』を刊行し、その中で「まことの外に俳諧なし」と述べるに至ったと言います。「東の芭蕉、西の鬼貫」と称されたそうです。(資料3,4)資料併読で課題が残りました。一書には、「・・・8歳のころから俳句を始めた。西山宗因門で誹諧を学んだが、談林誹諧に飽き足らず、25歳の時『まことの外に誹諧なし』と悟って、伊丹風を樹立した」(資料6)と記されています。この記述と上掲の刊行本の記載事実を対比すると、鬼貫が「まことの外に俳諧なし」という考えを確立したのはいつ頃なのか? という疑問です。「13歳で松江維舟(いしゅう)の門に入り、16歳ごろには芭蕉にも影響を与えた西山宗因を尊敬するようになります。」(資料4)という記述から、松江維舟に入門したことが西山宗因門につながることなのだろうと理解しました。鬼貫が維舟門につらなる池田宗旦の俳諧塾・也雲軒で学び(資料4,5)、「鬼貫はしだいに遊戯的・享楽的な伊丹風俳諧に疑問を抱き、25歳ごろ、大坂に出ます。」(資料4)という説明があります。この点を考えると、「伊丹風を樹立」という表現は複数の使い方が実際にされているということでしょうか。文学研究的視点ではどういう解釈が一般的なのかという関心です。別の視点で興味深いのは、「明治36年、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が雑誌『ホトトギス』で、募集句の題を『鬼貫忌』として以後、秋の季語として定まりました。」(資料4)とあります。上掲歳時記には「鬼貫忌」を秋の季語として掲載しています。そこから上記の疑問が課題となったのです。一方、手許にある『改訂版 ホトトギス新歳時記』を繙くと、「鬼貫忌」は秋の季語に取り上げられていないのです。(資料7)これもおもしろいと感じました。現在、芭蕉ほどには鬼貫の名前すら目にする機会が少ないのはなぜか? これも新たな関心事に加わりました。鬼面の句をいくつかの情報源から集めてみました。見つけた順番での羅列です。 にょっぽりと秋の空なる富士の山 古寺に皮むく椶欄の寒け也 行水(ぎょうずい)のすてところなし虫の声 月なくて昼ハ霞むやこやの池 古城(ふるじろ)や茨くろなる蟋蟀(きりぎりす) 面白さ急には見えぬ 薄(すすき)かな 後の月入りて貌よし星の空 此塚に柳なくとも あわれ也 賃とらで象も田をかえす動き哉 春と夏と手さへ行きかふ更衣(ころもがえ) なでしこよ河原に石のやけるまで大きく脇道にそれました。軌道修正します。境内の裏手から「伊丹緑道」の道標が立つ道を、まずは伊丹坂の方向に向かいます。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 その途中に歌碑や「白洲屋敷跡」という説明碑が目に止まりました。この説明碑の上あたりが、白洲次郎とゆかりのある地だったのです。白洲次郎は随筆家として有名な白洲正子の夫です。日本の実業家であり、吉田茂の側近であるとともに、様々な分野で活躍した人物。現在の春日丘4丁目あたりに、白洲次郎の父、白洲文平が4万坪の敷地に博物館付きの豪華な屋敷をたてていたところだったのです。白洲次郎もここに住んでいたことがあるそうで、妻正子との婚姻届は昭和5年に伊丹市で提出しているのだとか。 緑道を進む一方、見上げると蒼空を飛行機が横切っていきます。 「西国街道」の道標 六地蔵尊石像緑道の道標をみつつ、緑ヶ丘公園をめざします。 小道を進み、171号線を横断し、 「天満神社」の傍を通過して、 かなり大きな池の畔に至りました。この近辺の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。この池には、中国風の東屋が池の中に張り出して建てられいます。ちょっとした異国情緒に溢れる一隅です。近くまで行ってみました。 「賞月亭」という扁額が掛けられています。 この池の側に、「伊丹市公館 鴻臚館」という説明板の建てられた建物が一般公開されています。ウォーキング主体のため、今回はここも通過地点でした。池沿いに歩いて行くと、この案内板に行きつきました。現在地という白字抜きの赤い長方形の場所に立っています。裏手からこの公園の表入口に至ったのです。この案内板の左上に2つの建物の概説が記されています。亭(ちん)と記された「賞月亭」は伊丹市が友好都市締結をしている中国の佛山市から5周年記念の折に寄贈されたもの(平成2年/1990年)だとか。佛山市の中山公園内の「迎春亭」がモデルになった亭なのだそうです。なるほど・・・中国風ではなく、中国建築そのものでした。一方、「鴻臚館」は平安時代の外国の賓客接待施設として京都や太宰府に設置された「鴻臚館」の名前を使い、公館として建てられたものだそうです。「日本建築の伝統・技術の保存、継承のため、市内在住の大工、左官、建具師など技能功労者として市表彰された人たちの技術を結集して建設されました」(説明板より)のだとか。機会があれば拝見したいものです。 この入口傍には、「緑ヶ丘神社」という小祠と、「緑ヶ丘」を上の五に冠した句碑と思える碑があります。説明は付されていません。私には下部に記された文字を判読しかねています。ネット検索でこれも調べてみましたが、不詳。ここにも課題が残りました。そして、駄六川に架かる橋を渡って、「昆陽池」に向かいます。このあたりは駄六川の上流にあたるのでした。つづく参照資料1) 2 猪名野神社(宮ノ前) 伊丹の神社 :「我が町伊丹.jp」 2) 俳人・鬼貫 [5] 猪名野神社境内 句碑 :「我が町伊丹.jp」 3) 上島鬼貫 :ウィキペディア4) 俳人・上島鬼貫 :「伊丹市」5) 鬼貫の俳句短冊 :「池田市」6)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所 p8157) 『改訂版 ホトトギス新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂 2002年1月1日 改訂3刷【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺俳聖・鬼貫 -生誕350年 :「伊丹の歴史グラビア」鬼貫の句碑 :「大阪再発見!」第六章 鬼貫と伊丹風俳諧 ~伊丹の文芸活動~ 瀬川照子氏 :「伊丹歴史探訪」鬼貫 句碑めぐり ツアー緑ヶ丘公園の梅 :「伊丹市」白洲文平 :ウィキペディア白洲次郎 :ウィキペディア白洲正子 :ウィキペディア白洲次郎 プリンシプルのない日本 :「松岡正剛の千夜千冊」白洲次郎と伊丹 :「伊丹再発見シリーズ」仏山市 :ウィキペディア佛山市の観光情報 :「楽旅中国」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -4 伊丹市内へ(瑞ヶ池公園・昆陽池公園・有岡城跡)へ
2017.11.07
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「こんなエリアがあったとは!」という驚きと童心に返る思いが湧き出た場所です。次々に離陸していく飛行機、その合間に着陸してくる飛行機・・・・・蒼空の気持ちよい下で、それらを眺める子供達は、将来あれを自分で飛ばしてみたい、操縦桿を握りたい・・・「パイロット」という職種を教えられ、「僕、パイロットになるよ」という夢を育むのではないでしょうか。冒頭の画像は、当日(2015.10.18)入手した「伊丹市スカイパーク」のリーフレットです。さて、前回の続きから始めます。千里川の橋を渡って、猪名川に並行する道路を進みます。空港敷地側には、原田下水処理場やクリーンランドなど、公共施設などがあります。 この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。途中で目に止まったのがこの建物名称「田能資料館」です。後ほど調べて見ると、この資料館のあるところは尼崎市になり、「国史跡田能遺跡の上立地しており、田能遺跡から出土した遺物を収蔵・展示して」いるところでした。(資料1) ここが「8翼の丘」への入口です。この南方向には「9南エントランス」があり、南駐車場があります。 翼の丘の休憩所前には、「ウィングデッキ」があり、その前方の一段低いところが「遊具広場」になっているようです。休憩所の前の通路から眺めると、メイン滑走路への待機中のJAL機が目に飛び込んできます。先ほどの滑走路南東端の絶景スポットとはまた違う角度からの姿が見えて、楽しいです。 離陸していく飛行機を眺めつつ、「7休憩の丘」「6星空の丘」と進み、「5中央エントランス」に至ります。 「星空の丘」の斜面にある坂道は、「スターライトパス(星空の小道)」と名づけられています。「夜になると美しく浮かび上がる幻想的な園路です。130mに及ぶその中にはLEDで表現した8つの星座が隠れいます。」(資料2) ここでちょうどお昼の食事および飛行機の離着陸をゆっくりと眺める休憩タイムとなりました。中央エントランスからの空港の眺めはこんな感じ・・・・。 離着陸する飛行機 「スカイテラス(展望施設)」から眺めた景色噴水を中央にして、南北に「だんだんテラス(石階段)」になっています。スカイパークの東に南北にメイン滑走路が見え、その向こうに補助滑走路と管制塔を始め空港の諸施設が水平に広がっているのが遠望できます。 着陸する飛行機 管制塔の周辺の眺め この花は「ブッドレア」(フジウツキ科)空港川の上に架かる「スカイウォーク(人道橋)」をわたり、「4つつじの丘」「3冒険の丘」「2大空の丘」を経由して、飛行機の離着陸を眺めつつ「1北エントランス」へ。つつじの丘のエリアは中央駐車場が設営されていて、斜面がつつじの丘になっています。花の咲く季節は色鮮やかでしょう。冒険の丘には「キューブアドベンチャー(立体迷路)」や「ローラーすべりだい」があり、子供にとっての遊び天国です。大空の丘は多目的広場として活用されているようです。 北エントランスの「パークセンター」この「伊丹スカイパーク」のレイアウト案内掲示が建物の前にあります。建物の背後が「北駐車場」になっています。このパークセンターの前を今回は通過しただけですが、建物内には、リーフレットによると「岩屋遺跡と神津の歴史展示」や「航空管制レーダー展示」があるようです。 こんな記念碑が北エントランスの入口近くに建てられています。エントランスの目の前が「伊丹スカイパーク・上須古」バス停です。つづく参照資料1) 田能資料館 :「尼崎市」2) 「伊丹スカイパーク」当日入手のリーフレット【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺田能遺跡 :「尼崎市」田能遺跡から出土した遺物 :「尼崎市」田能資料館 弥生時代・田能遺跡の出土品 :「邪馬台国大研究」岩屋遺跡の時代と周辺の遺跡岩屋遺跡の整備事業 :「伊丹市」管制塔 :ウィキペディアNo.062 航空管制塔で飛び交う隠語 :「That's 学」(雑学見聞録)世界の管制塔 :「Travel and Collection」ブッドレア :「新・花と緑の詳しい図鑑」ブッドレアの育て方 :「eグリーンコミュニケーション」(住友化学園芸) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -3 伊丹市内へ(猪名野神社・白洲屋敷跡・緑ヶ丘公園) へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -4 伊丹市内へ(瑞ヶ池公園・昆陽池公園・有岡城跡)へ
2017.11.07
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回数はそれほど多くはありませんが、大阪国際空港を何度か利用しています。しかし、それは飛行機に搭乗或いは着陸後のための通過施設という目で建物を眺めて利用するだけでした。今回はこの空港の施設内に入ることなく、空港の周辺をぐるりと歩いてみようというウォーキング同好会の企画で、2015年10月18日(土)に歩きました。冒頭の画像からもおわかりいただけるように、快晴の飛行場見物日和でした。このときにまとめたものを、再掲してご紹介します。(再録理由は付記にて)このウォーキングをしてみて、初めて大阪国際空港が3つの都市にまたがっているのを認識した次第です。私は通称の「伊丹空港」で聞き慣れていますので、空港がすっぽり伊丹市内にあると思っていたのです。空港敷地の大部分は伊丹市なのですが、北東区域の一部が池田市、東部から南東部にまたがるかなりの区域が豊中市になるのですね。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。当日は、大阪モノレールの大阪空港駅を出たところ、空港連絡橋口に9:30集合です。豊中市からの出発になります。まずは空港の建物沿いに南東方向に進み、豊中署のところから、阪神高速11号池田線の高架の傍を歩きます。空港の建物群を離れる前に目にまずしたのがこの飛行機。プロペラ機を間近に見るのは久しぶりでした。後で調べてみると、ボンバルディア DHC8 Q400 という機種のようです。(資料1)勝部の交差点あたりから右折して、西方向に進んでいきます。目的は空港滑走路の北東端が見える地点に向かうためでした。そこは飛行機マニアの垂涎の地点なんだとか。 途中でこんな可愛いい幼稚園送迎バスが停まっているのをみかけました。車体には「仏光幼稚園」と表示された幼児バスです。幼稚園児が喜びそうな楽しいバス! ある会社のフェンスのところに、朝顔がきれいに咲き、快晴の青空といい感じ・・・・。 滑走路区域にかなり近づいて行った途中で、道路を横断します。その辺りから、着陸してくる飛行機の機体が見え始めます。ちょっと楽しくなってきます。 そして、千里川沿いに進みます。川の北側が空港の敷地です。フェンスの先には生け垣になっていますが、その切れ目のあるところから滑走路上の飛行機が見え始めます。 そして、神明橋をわたります。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。この橋を空港敷地側にわたり、左折して堤防沿いにしばらく進むと、大阪国際空港のメイン滑走路南東端から数百メートルのフェンスの外側です。この画像は、メイン滑走路の東側の滑走路を進んでくる飛行機です。ここで一旦時間調整して、管制塔との後進でメイン滑走路に方向転換していきます。振り返ると、着陸態勢で進んでくる飛行機が間近に見えるのです。 離陸していったANAの旅客機は、機体に記された機体記号を手がかりにネット検索すると、この写真を撮られて詳しく記されているブログに出会えました。(資料2)それによると、ボーイング767のようです。ANAの旅客機が離陸していくのを眺めていると、補助滑走路には既に2機が待機しています。 その間にも、1機が着陸してきます。直近を撮りたくても、手持ちでの手頃なデジカメではシャッターチャンスを逃すだけ・・・。あっという間にランディング状態です。 これが先ほど待機していた2機上が「エンブラル170 EMBRARER170(E70)」下が「ボーイング767-346(ER)」 こちらも機体記号からネット検索してみました。(資料3)調べてみると777型でも、 777-300ER、777-300、777-200ER、777-200と4種類、767型にも、767-300ER、767-300 の2種類が就航しているのです。(2015年時点)737型は主翼の形状の違い、あるいはコクピットの外側にマークが付いているようなので対象外でしょう。こちらも、737-800、737-400と2種類が就航しています。(資料4) JAL機の離陸 着陸してきた飛行機こんなタイプの飛行機も蒼空の中に眺められました。ボンバルディアCRJ200(CRJ)という機種のようです。(資料4)これも着陸してきた JAL EXPRESS 機です。この絶好スポットを後に、堤防沿いにしばらく南下し、空港の西側に回り込んで行きます。どこに向かうのか? それは「伊丹スカイパーク」でした。つづく参照資料1) 機種・シートマップ :「ANA」2) 飛行機の撮影(2011年12月12日(月))@川崎・浮島町公園@羽田空港 :「西葛西の人」3) JA656J Japan Airlines Boeing 767-346(ER):「PLANESPOTTERS.NET」4) 航空機コレクション :「JAPAN AIRLINES」 航空機検索 「JALグループ航空機」の項目から検索してみてください。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺大阪国際空港 ホームページ 空港見学について 大阪国際空港 :ウィキペディア大阪空港ライブカメラ :「USTREAM」機体記号 :ウィキペディア航空ファン :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -3 伊丹市内へ(猪名野神社・白洲屋敷跡・緑ヶ丘公園) へ歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -4 伊丹市内へ(瑞ヶ池公園・昆陽池公園・有岡城跡)へ
2017.11.06
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田上山城跡を下り、例の分岐点からは、6月の逆ルートを辿ることになります。そして、6月のブログ記事まとめの最後に載せた案内図説明板のところに到着です。ここからは、ほぼ逆に下って行き、例の山門に至ります。今回気づいたのは、自分の意識・視点の有り様でした。同じ場所が違う風景に見えたのです。6月に歩いたときの記録と対比してみてください。尾根道から下ると、小さな五輪塔他の墓所の一角に気づきました。 そして、今回はあの2本の巨大なケヤキが目に飛び込んで来ます。例の山門が、2本のケヤキの間に見えるのです。こちらからの景色の方がすばらしい!積まれた石垣の苔むした姿が目に入ります。前回はほとんど意識していませんでした。そして、昼食休憩の時間。近江天満宮、休憩場所は同じです。しかし、今回ここにも小さな石仏像が配されていたことに気づきました。同じ梵鐘も、前回は鐘楼建物の荒廃がまず目に入り、梵鐘そのものをこの角度からは眺めずに通り過ぎていたのです。この角度で、私は梵鐘そのものに注視できました。画像を拡大しても十分には読めないのですが、鐘に銘文が陽刻されているのも気づいた次第です。 池の景色もまた趣が異なります。水面を見つめる位置、角度の違い。あたりまえのことのようですが、池にどちらから、どう近づくかで、見え方が違うのですね。管山寺そのものをじっくりスポット探訪するという目的ではなく、ウォーキングの通過点、休憩地点の方にウエイトがかかると、その場所で眺める時間、見つめる視点も自ずと限定されてしまう。自分自身の意識と観察に、ある方向づけができてしまっているのです。全視界観察ができずに、ある側面観察だけになっている、ということなのでしょう。あたりまえのようなことですが、今回改めて再認識しました。目的と行動の連鎖、連結のプロセスで行動の方向づけと自己制約を無意識にしているということでしょうか。たとえば、右側中心に見ながら歩いていると、左側に何があるか、いちいち気にせずに進んでいくように。交差点での右、左を見るときも、車の有無、接近に注目して、左右の方向の景色が十分に把握できているとはかぎりません。意識外になり見えていないかもしれない・・・・。再び、山道を尾根筋に戻り、 集落のある坂口の方に下ります。 高架下を通り抜けたところで、右手に古墳が見えます。回り込むと石室入口風のものが見えました。古墳遺跡の一部でしょうか? 情報を持ち合わせていません。謎が残りました。 この建物が「弘善館」です。現在はここに管山寺関連の寺宝などが保管されているそうです。(「仏像ワンダーランド」さんの「菅山寺弘善館」の記事がお勧めです。こちらからご覧ください)さらに下ると、大箕山という山号の額が懸かった朱色の大きな鳥居が建てられています。こちらが表参道なのですね。 石段下の向かって右側に、管山寺の石標とそれよりもおおきい「天満宮古蹟」と正面に大きく太い文字の印刻された石標が建てられています。その側面に「真言宗大箕管山寺」と記されています。ある時期から、天満宮の方が主体になって行ったという証なんでしょうか。興味深いものです。 後は余呉駅に向かうだけということですが、 途中、「乎弥(おみ)神社」の境内で小休止しました。ここから駅まではわずかの距離でしたが。石段を上がり、拝殿の後ろの本殿を見たかったのですが、拝殿の背面、つまり本殿側の両翼に新しい建物が繋がっていて、本殿の方を拝見することもできず、本殿の写真が撮れませんでした。ちょっと残念です。石段下の右手には、正方形に区画され、白い玉砂利の敷かれた御祓所がありました。この神社の「由緒」を読むと、興味が湧きます。御祭神があまり見慣れない祭神だったからです。天之児屋根命一世の孫が巨知人命(おうしりびとのみこと)で、この人の後裔がこの余呉の地に定着して繁栄したので、祖神としてこの巨知人命を祀ったのだとか。この巨知人命の御子・梨津臣命(なしとみのみこと)がこの地の開発に努力されたのでその威徳と恵澤を憶って、この人を別に祭神としたそうです。2つの神社(乎弥神社・乃弥神社)がこの地に建てられたのですが、賎ヶ岳合戦で類焼し神社は灰燼に帰したのだとか。その後社殿を一つにして合祀されたと言われています。さらに、承応年間(17世紀)に、海神、海津見命(うみつみのみこと)を合祀したと言います。「余呉湖尻の水の流れたる要所たる故にか」と、合祀理由が推測されています。余呉湖-淡海(琵琶湖)ということから、海神という連想なのでしょうか。余呉湖のような湖も海と見なすのでしょうか。私には川の神や竜王、竜神と言われる方がなんとなくしっくりと収まるのですが・・・・。神々のことは、その土地の人々の思いと深く結びついているのでしょう。ところで、なぜ承応年間という時期に合祀されたのでしょうか? これもちょっと謎。ネットでリサーチしていると、巨知人命と梨津臣命の二人は、「『帝王編年記』では、余呉湖の天女が生んだ兄弟とされている」という説が紹介されているのを見つけました。(資料1) 境内の入口に架かる橋に近いところの大木がおもしろかったのです。偶然にできた幹の欠落の結果でしょうが・・・・じっと眺めていると、動物の頭部に見えてきませんか。自然の造形というところ。一休みの後、JR余呉駅に到着。リベンジが果たせました。帰路の列車を待つプラットホームには、涼風が通り過ぎて行き、リフレッシュできました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 滋賀県長浜市 乎弥神社 :「JAPAN-GEOGRAPHIC.TV」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺乎彌神社 (オミ) :「滋賀県神社疔」天児屋命 :ウィキペディア海神社(わたつみじんじゃ)(神戸市):ウィキペディア志賀海神社(しかうみじんじゃ) :ウィキペディア綿津見神 :「玄松子」水神 :ウィキペディア「水の信仰」の歴史と概要まとめ|水の神様や歴史、全国の主な事例をまとめてみました :「水の信仰と文化」八大竜王 :ウィキペディア坂口遺跡 :「遺跡ウォーカーβ」余呉湖 :ウィキペディア余呉湖 :「滋賀県観光情報」余呉湖 :「滋賀県」西野水道・長浜市高月町 :「滋賀生活文化最発見」近江 高月町 余呉川 西野水道 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 滋賀・湖北 余呉駅~下丹生~大見~管山寺~田上山~木之本駅 へ歩く [再録] 滋賀・歩国 木之本駅~田上山~管山寺~余呉駅 -1 木之本地蔵院、意冨布良神社、上宮跡 へ歩く [再録] 滋賀・湖北 木之本駅~田上山~管山寺~余呉駅 -2 田上山城跡 へ
2017.10.26
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上宮跡から少し登ると、いよいよ田上山城跡に入ります。ウォーキングとしては、普通に山道を登るペースでこの城跡も説明標識を見ながら、それぞれが山道の一通過点でした。しかし、山城探訪好きの私には、この山城跡を見られることこそ、今回の主な参加目的でもありました。そこでウォーキングの行程というよりも、山城跡探訪的に、記録の整理をしておきたいと思います。冒頭の画像は、田上山の山頂に近づいてから撮った案内説明板ですが、まずはそれをご紹介します。ルートの途中で、部分拡大図にして再び利用しようと思っています。私たちはこの城跡を左の縄張り図で言えば、南から北へ縦方向に山道を登って通り抜けて行ったことになります。田上山城は形式としては秀吉軍が柴田勝家との賎ヶ岳合戦に備えて、天正11年(1583)に築いた山城砦です。この陣城は前線指揮を執った羽柴秀長(秀吉の異母弟)が陣取り、事実上の本陣となった場所なのです。合戦の1ヵ月前に構築したのだとか。(説明板記載より)小瀬甫庵著『太閤記』によると、8日に亀山の城を出立し、10日夕方長浜に着いた秀吉は、翌11日に賎ヶ岳近くに押しだして、総軍を13段備えにしたようです。その「7番 羽柴小一郎殿」が秀長のことであり、「田上山は小一郎殿本陣として居城なり」と記しています。(資料1) 最初に目にしたのがこの「南堀切」の標識です。山の尾根を断ち切るようにもうけられた堀で、尾根づたいの侵入を阻止する障害となることが目的です。現地でみると、切り取られた雰囲気がわかるのですが、画像では見づらくなります。 堀切部分を登って進むと、「南郭」の少し高くなった平地が見えます。さらに先には「虎口」が表示されています。土塁の開口部や壁の切れ目のところで、城郭・砦の出入り口です。この虎口の形式を観察しているゆとりはありませんでした。 道なりに進むと、「土塁」の表示が出ています。この先に、冒頭に載せた説明板が建てられていたのです。 縄張りの拡大図を改めて見ると、表示の出ていた虎口は、城(砦)内に直線的に入る「平入虎口、平虎口」のようです。そして、「主郭」の標識が建てられている場所に至りました。 この主郭の中に、「田上山砦跡」として、織豊期城郭を研究されている長谷川博美氏作成の縄張り図・解説の説明板がありました。こういう説明板があると、うれしい限りです。この図を90度反時計回りに回転させると、冒頭の縄張り図の補足説明になります。現在位置と赤字指示線で示された2の番号のところです。「主郭 本丸に相当する場所で守将秀長の陣所。秀吉も当地へ軍議のに来ている。」と説明しています。戦としての実質的な本陣はここだったようですが、秀吉自身は本陣を北国街道木之本宿に置いたのです。織豊期城郭研究者。中井均氏はその宿が浄信寺ではなかったかと推定されています。前回触れたあの木之本地蔵院です。(資料2)説明板にも触れてありますが、『信長公記』巻六には信長が元亀4年の小谷城攻めの折り、8月12日の夜に、やけをの険しい山道を雨に濡れながら信長自身が先駆けして太山、大嶽を攻めています。更に13日夜に再び、越前軍の陣所に信長が先駆けするという行動をとります。そして、「同日、落城の数、大づく、やけ尾、つきがせ、ようの山、たべ山、義景本陣田上山、引壇、敦賀、志津が嵩、・・・・」という記述が出てきます。朝倉義景がやはりこの田上山を軍事的に重視して本陣を置いていたのです(資料3)。当時はどんな陣所にしていたのでしょうか。北国街道との関係並びに山頂から地域全体の俯瞰に優れている点もあるのでしょね。この主郭から北方向に向かうところに、「呉枯之峰(くれこのみね)」の方向を示す標識が建てられています。本来のウォーキングからは、確認すべき標識です。ルートに間違いがない証拠です。進んでいくと「土橋」の表示がありました。堀切を構築し、一部を通路として残しているのです。いざという時はこの土橋部分を切り崩し、通路を遮断することになるのでしょう。その先に、山頂の標識が建てられています。標高323mです。そして、わりと広い平地に「北郭」の表示があり、「角馬出し」の標識も少し離れた位置にありました。角(かく)馬出しというのは「虎口から堀を渡った対岸に設けられた、堀や土塁で囲まれた小区画」で、「平面が四角いもの」なのです。この馬出しには、「①虎口に殺到する敵を迎撃するための射撃陣地、②馬出しからの射撃によって逆襲部隊の出撃や退却を援護する、③虎口前面に敵が大兵力を集中できないようにする、といった機能がある」のだそうです(資料4)。「田上山砦跡」の赤丸3の北側の四角い土塁囲みを改めて見ると、なるほどと思います。少し下ると、「北外郭」の表示があります。この山城(砦)の最北端の外郭です。説明板の現在地5番のところ。 その先端に「横矢枡形」の標識が建てられています。土塁のところです。虎口の側面から矢や鉄砲で応戦するという枡形、小区画です。この通り抜けてきた山城跡が「立地条件や広大な城域と織豊系山城に特徴的な縄張り」を示す遺構となっているのです。リベンジの山歩きでこの山城跡を見られて充実した一日になりました。 山道を多少下り、6月の分岐点に出ます。この標識が少しあらぬ方向に向いていて、錯誤を起こさせたのです。今回、メンバーがちゃんと立て掛けておきましたが、標識を固定し間違いをなくすように改善されるといいなと思った次第です。呉枯之峰側から来て、分岐点だけを目にすると、間違いやすいところです。さて、ここから管山寺への延びる山道、尾根歩きです。つづく参照資料1)『太閤記 (上)』 小瀬甫庵著 桑田忠親校訂 岩波文庫 p198-2002)『近江の城 -城が語る湖国の戦国史-』 中井均著 淡海文庫(サンライズ)p1303)『新訂 信長公記』 太田牛一著・桑田忠親校注 新人物往来社 p1504)『軍事分析 戦国の城』 「戦国城郭用語要解」(文・西股総生氏)学研 p195【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺賤ヶ岳の戦い :ウィキペディア賤ヶ岳合戦 :「余呉観光情報」「賤ヶ岳合戦」菊池寛 :「青空文庫」黒田官兵衛の参戦裏付け!「賤ケ岳の戦い」合戦中に秀吉が発した文書みつかる 2013.5.10 [westライフ] :「産経ニュースwest」空撮・決戦賎ヶ岳 出典:『賤ヶ岳の戦い』学習研究社 歴史群像 出版年 2000年 田上山砦 :「越後の虎 越後勢の軌跡と史跡」史跡巡り 田上山城散策図として、縄張り図を立体イラスト図で描写されています。 山城巡り初心者には田上山城全体像がイメージしやすくなります。長浜市の田上山城遺跡が掲載されている資料を知りたい。 :「レファレンス協同データベース」北国街道木之本宿 写真ライブラリー・北国街道から田上山城を望む :「城の写真ライブラリー」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 滋賀・湖北 余呉駅~下丹生~大見~管山寺~田上山~木之本駅 へ歩く [再録] 滋賀・歩国 木之本駅~田上山~管山寺~余呉駅 -1 木之本地蔵院、意冨布良神社、上宮跡 へ歩く [再録] 滋賀・湖北 木之本駅~田上山~管山寺~余呉駅 -3 管山寺、弘善館、乎弥神社 へ
2017.10.26
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2013年7月下旬のウォーキングは6月のリベンジです。JR木之本駅に集合して、田上山城跡つまり田上山にまず登り、そこから菅山寺に延びる道を歩き、余呉駅に至るという逆コースを歩くことになりました。結果的に今回は山城跡を含め、写真を撮る場所が多くて、私には楽しい探訪&山歩きになり満足でした。一度に簡略しては、もったいない! リベンジ・コースをシリーズでご紹介します。JR木之本駅から歩いてもそれほど時間がかからない位置に、有名な「木之本地蔵」があります。参道入口には、「木之本地蔵御縁起抄」の大きな説明板が掲げられています。冒頭の画像がそれです。地蔵堂の前には、「延命地蔵尊大士」と記された大きな石標が建てられています。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。説明板にあるとおり、延命息災の仏様、眼病平癒のお地蔵様として信仰されているようです。境内には、秘仏本尊の写しである地蔵菩薩大銅像が建てられています。写真を撮りたかったのですが、逆光になるのであきらめました。(補遺に掲げたウィキペディアに写真が掲載されています。)詳しい説明は、木之本地蔵院のホームページをこちらからご覧ください。「木之本地蔵大菩薩」の詳しい案内説明文をダウンロードできます。説明板の内容もちゃんと明記されています。今回のリベンジ山歩きの通過点として、この境内を通り抜けに利用させていただいたので、ゆっくり拝見しているゆとりがありませんが、記録の整理を兼ねて、見つめ直すといくつか、発見がありました。お堂建物の側面を通る時に、「御戒壇巡り」のポスターと説明板の掲げられた入口が見えました。 本尊厨子の安置された戒壇の下、漆黒の闇の回廊を巡るのです。私がこれで、思い浮かべたのが京都で2ヵ所あります。一つは実際に体験したのですが、「京の冬の旅」観光に参加して訪れた得浄明院の戒壇巡りです。本覚山得浄明院は、知恩院の近くにあり、浄土宗の尼寺で、尼寺三十六所巡礼第10番になっています。拙ブログ記事をこちらからご覧いただけるとうれしいです。もう一つは、清水寺にある随求堂で体験できる「胎内巡り」です。こちらは有名でいつも多くの人ですので、私は未体験です。いつかこの木之本地蔵の御戒壇巡りとともに、チャレンジしてみたいなと思う次第。話が脇道にそれました。地蔵堂の背後に大きな庫裏・書院の建物があり、その傍に「阿弥陀堂」があります。国宝阿弥陀如来が安置されてあるようです。一度、この地蔵院そのものの探訪をゆっくりしてみたいと思っています。境内を抜けて、裏手の道を回って行くと、 立派な神社がありました。なぜこの神社に向かうのかと思ったら、この境内の右手奥が田上山城跡への登山入口だったのです。木之本地蔵の近くにこんな大きな神社が存在したなんて、知りませんでした。「意冨布良」を「おほふら」と読むのです。大きな鳥居の前には、石造太鼓橋が架かっています。多賀大社の太鼓橋を即座に思い浮かべました。遜色のない太鼓橋という感じです。 最初の鳥居の先に、当神社由緒の立派な説明碑が建てられています。御祭神は建速須佐之男命、合祀神が大穴牟遅命、猿田彦命、意思兼神、梨迹臣命と記されています。飛鳥時代の草創と伝わる神社です。かつては裏山は大洞山と呼ばれ、麓の宮は王布良天王社、或いは、天王宮と言い、奈良時代には神宮寺とも称されたそうです。当時の祭神は牛頭天王又は田上天王とも言い、梨迹臣命と合わせて、当地の開拓の祖神として崇められていたようです。牛頭天王は、インドの祇園精舎の守護神、または新羅の牛頭山の神ともいわれる疫病除けの神であり、牛頭天王はスサノオ尊と同一神とされています。スサノオ尊の別称が建速須佐之男命です(資料1)。スサノオ尊が垂迹神なのです。また、『先代旧事本紀』は牛頭天王は、大已貴命(おおなむちのみこと、大国主命)の荒魂だと説くようです。大国主命の別称は、大穴牟遅神でもあり、大物主神でもあるのです。(資料2) 本殿 神社境内の本殿左手の方向に、「田神山観音寺」という神宮寺が建っています。神仏習合が破壊されるという影響を回避できて、残ってきたようです。この観音寺は調べて見ますと、「江州伊香観音33カ所」の第一番札所です。そして、ここは現在、時宗のお寺で、ご本尊が聖観音菩薩立像なのだそうです。(資料3)伝教大師がこの寺を開かれ、一旦衰亡した後、1670年頃、浄信寺の雄山上人が再興されて、現在まで継承されてきたようです。(資料4) 浄信寺といのは、木之本地蔵院の公式の寺号です。建物の背後の方に、「西国三十三所 観世音菩薩霊場」の石標が建てられています。田上山城跡に向かう時、歩き始めの頃にいくつかの観音像を見かけました。この観音寺の裏山の道に、西国三十三所の観音像が安置されているということなのでしょう。この目ですべて確認していませんので、推測の域をでませんが・・・・。この鳥居の先には「田神山天満宮」が祀られています。 境内の右手に、田上山城跡・田上山への登り口の標識が建てられています。山道は整備されています。山道の脇に、基壇に寺名を印刻した観音像がいくつも建てられています。 観音寺 長命寺 竹生島 丹後国松尾寺山道をさらに登ると左右に分かれます。左手方向には、観音像が見えました。私たちは右手の方向を登って行きます。 すると、こちらは管山寺と同様に、僧形像あるいは羅漢像でしょうか、山道の脇に点々と安置されています。たいていの像は右手に密教法具の一つである五鈷杵をお持ちです。弘法大師像を連想します。木之本の町が見下ろせる見晴らしのよい場所があります。 山道を登り始めて、中腹あたりに「上宮跡」があります。このあたりはかなり広くが平らな地面になっています。意冨布良神社の山社があったところなのでしょう。神社の石標も建てられています。そして、いよいよ田上山城跡に近づいて行きました。つづく参照資料1)『「日本の神様」がよくわかる本』 戸部民夫著 PHP文庫 p42,p1002)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p333,p4863)「江州伊香観音33カ所」 観音寺 4) 田神山観音寺 :「長浜・米原・奥びわこ観光サイト」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺木之本地蔵院 :ウィキペディア地蔵菩薩 :ウィキペディア随求堂 境内案内の番号5 :「清水寺」清水寺の知られざるスピリチュアルスポット! 暗闇を進む「胎内めぐり」 中川奈穂美氏 :「MY LOHAS」牛頭天王 :ウィキペディア祇園神の習合 八坂神社:「archive.is」素戔嗚尊/須佐之男命 :「コトバンク」西国三十三所巡礼の旅 札所一覧西国三十三所観音霊場 YouTubeリスト No.40 木之本町 木之本 :「日本!(オコナイ)」 田神山観音寺の観音オコナイの行事の記事を見つけました。メモ代わりに。時宗 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 滋賀・湖北 余呉駅~下丹生~大見~管山寺~田上山~木之本駅 へ歩く [再録] 滋賀・湖北 木之本駅~田上山~管山寺~余呉駅 -2 田上山城跡 へ歩く [再録] 滋賀・湖北 木之本駅~田上山~管山寺~余呉駅 -3 管山寺、弘善館、乎弥神社 へ
2017.10.26
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2013年6月と7月にウォーキング同好会で歩いたコースの記録を兼ねて、コースをご紹介したものを、再録します。(再録理由は付記にて)6月に、余呉から管山寺の後、田上山城跡を経由して木之本駅に到着の予定だったのですが、ある分岐点で、方向が変わり城跡に行けずに、山を巻く形で木之本駅に出てしまったのです。そこで、7月にリベンジとして、木之本側から田上山城跡に登り、そこから逆コースで管山寺に歩くことになりました。それなりにおもしろい記憶です。そこで両方をまとめてみたいと思います。まずは、JR余呉駅からのルートのご紹介です。冒頭の画像はJR余呉駅で小さな駅舎です。その駅前に、大きな観光案内板が設置されています。今回歩いたコースの場所をズームアップするとこんなところです。地図(Mapion)はこちらご覧ください。駅を出て、川沿いの道を歩き、余呉町中之郷に入り、この神社の前を通ります。「えれひこじんじゃ」と読むそうです。ご祭神は大山咋神を主祭神に、天日槍命を配祀する神社です。崇神天皇の頃、天日槍命の子孫がこの地を開拓し、祖神を祀ったという伝承のある土地柄です。この神社の裏山には「鉛練古墳」があり、古墳祭祀が起源だとも考えられているようです。また、「エレヒコの名は新羅の官名といわれている。」という説も(資料1)そういえば、以前探訪した蒲生郡竜王町鏡にある鏡神社のご祭神が天日槍命です。新羅国の皇子天日槍(あめのひぼこ)の従人がこの地に住んで、金工、・製陶の技術を業としていたと伝わっています。同系統の人々が、余呉町周辺にも移住してきていたのかもしれません。近くに「上丹生、下丹生」の地名や「丹生神社」があります。丹は丹砂を示し、丹砂は硫黄と水銀の化合した朱色の鉱物。水銀の原料または、顔料を意味しています(資料2)。「丹生」はそういう鉱物を生み出す土地ということと関係があったのでしょうか。そうすると、「鉛練比古」という神社の名称も、鉛、水銀もっと広くは金属の生産と関係した人々が技術を伝え、このあたりに移り住んだのだろうかと勝手に想像してしまいます。284号線に入ると北陸道の近くに、お堂があります。何のお堂か確認できずに通り過ぎました。 その先の山の斜面の少し上の方に、小さな祠が祀られています。こちらは、道路脇に説明板が建てられていました。中世には比叡山延暦寺の影響力がこのあたりまで及んでいたのですね。 そして、その先に「ウッディパル余呉」があります。ここで小休止しました。コテージ、キャンプ場、アスレチックなどがあり、アウトドアを満喫できる施設です。 下丹生の地点で、欄干が赤く塗られた平篠橋を渡り、高時川沿いに南下して、大見に向かいます。このあたりなかなかいい景色です。丹生の「丹」に赤いという意味がありますから、土地柄で欄干が赤く塗られているのでしょうか。ここでもそんな想像をしてみたくなります。 途中に、小さなダムがありました。小規模発電所のようです。ここが「大見いこいの広場」の一部なのでしょう。オートキャンプ場の一角が見えました。 ここから管山寺への山道に入ります。 山道の傍、所々で出会う坐像。修行僧像なのか、羅漢像なのか・・・、山道を歩む人を見守ってくれているようです。管山寺の門に到着。山門脇には、宝蔵と表示された土蔵風の建物があります。 門の両側の巨木が見事です。滋賀県指定天然記念物の「管山寺のケヤキ」です。説明板には、指定理由が記されています。この管山寺は菅原道真公ゆかりの寺。菅原道真が44歳の時に2本のケヤキと1株の梅を記念に植えたのだとか。現在は無住の寺になっています。長浜市住みよい緑のまちづくりの会が建てられた「保存樹指定樹木標識」という標識板もあり、このケヤキ2本は、樹高約10m、幹周囲約10m、樹齢約1300年と記されています。 山門を入った一隅にも草花の咲く中に小さな坐像が。 無住の寺となった本堂は今や荒廃の一途をたどっています。近江名刹第一番札所という表示が出ていますが、今はかつての壮麗さを建物に残る彫刻などから、想像力で補うばかりの荒れようです。近くに如法経堂の建物が残っています。 本堂から石段を少し下った先に、大きな池(朱雀池)があります。池のほとりで昼食休憩となりました。 池の傍には、弁財天の小祠があり、そのすぐ近くに、近江天満宮の建物がありますが、こちらもやはり荒廃が進んでいます。この境内に、真新しく赤く塗られた小さな賽銭箱が建てられていました。そのコントラストが物悲しい・・・・・。池の端からまた、少し山道を登り直し、再び尾根道に出ます。 「管山寺周辺案内図」そこには、地図、写真入りの立派な説明板がありました。普通はまずこの案内板を見てから、管山寺の境内に向かうのでしょう。大箕山管山寺は、もとは龍頭山大箕寺と呼ばれたそうです。菅原道真は余呉湖辺の川並村に生まれ、6歳から11歳までこの寺で勉学したと言います。寛平元年(889)からこの寺が復興されたとき、現在の大箕山管山寺と改称されてたと伝えられているようです。菅原道真がこの寺院を中興したのです。境内に重要文化財の梵鐘があります。建治3年(1277)、鎌倉時代に大工丹治国則作とか。この梵鐘に刻まれた銘文にそのあたりのことが記されているようです。尾根上の縦走路を歩いて、呉枯の峰(533m)に。 ここには、一等三角点があります。ここから後は、田上山公園へ伸びる山道を歩み、田上山城跡を経由で木之本駅に至る予定が、分岐で別ルートを歩んでしまい、山を巻く形で下山することになってしまいました。続きは、7月参加のリベンジ・ウォーキングのまとめとして、再録によりご紹介いたしましょう。参照資料1) 鉛練日古神社 :「延喜式神社の調査」 2) 『角川新字源』 小川環樹他編 角川書店 p23【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺鉛練比古神社 (エレヒコ) :「滋賀県神社疔」管山寺(余呉三山) :「滋賀県観光情報」寺の道しるべ 管山寺 余呉三山 :「余呉観光情報」菅原道真 :ウィキペディア 道真の生誕・幼少期については、いくつもの説・伝承があるようです。菅原道真 :「知識の泉」鏡神社 :「竜王町観光協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 滋賀・歩国 木之本駅~田上山~管山寺~余呉駅 -1 木之本地蔵院、意冨布良神社、上宮跡 へ歩く [再録] 滋賀・湖北 木之本駅~田上山~管山寺~余呉駅 -2 田上山城跡 へ歩く [再録] 滋賀・湖北 木之本駅~田上山~管山寺~余呉駅 -3 管山寺、弘善館、乎弥神社 へ
2017.10.26
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[探訪時期:2015年4月]浄瑠璃寺前のバス停付近で、全員集合の確認ができると、後は府道沿いにJR加茂駅への最後のウォーキングです。歩き始めた道路の北東角に広い敷地があり、道路寄りの一隅で目に止まったのが冒頭の七重石塔です。お寺の表示は見かけませんでした。比較的建てられてからそんなに長い歳月を経ていない感じ・・・・です。十三重石塔はよく見かけますが、七重石塔は久しぶりに見ました。 「当尾の石仏Map」から関連部分の地図を切り出し、引用します(資料1)。加茂町西小の西小バス停から少し先の赤田川あたりが境となり、ここに至ると石仏巡りも終了です。最初に見かけたのが、右側に欠損のある石龕石仏です。上部の縁の曲線の流れからすると三体の感じがします。説明表示はなかったように思います。事後に確認すると、これが「浄瑠璃寺三体磨崖仏」と称されるものでした。「元は磨崖仏だったものを、府道拡張工事に伴い移動されたもので、その際一部が破損してしまいました。右側には錫杖を持った地蔵菩薩坐像が彫られています。」(資料1)先に進むと、道沿いの左側、小高くなった場所に屋根石がのった磨崖仏が見えて来ます。 「ながおのあみだ」 阿弥陀如来坐像です。願主は僧行乗で1307年の造立とわかる銘文が刻まれているようです。行乗もまた小田原聖の一人だったのでしょうか。 蓮弁の台座の上に、定印を結ぶ阿弥陀如来坐像が割合厚みのある姿で浮き彫りにされています。衣の襞が太めでゆったりとした曲線をもって彫り込まれています。「後方の山から巨岩が続き、前面もコンクリートで固めているので、これ以上割れる心配はないそうです」という説明がありますので、ここにあった大岩に磨崖仏として彫られたものと理解できます。 こんな案内板が建てられています。やはり、この道路沿いでも箱型の地蔵菩薩石仏が主流です。 西小墓地 ここの石仏群はちょっと壮観です。なぜかここは、船形光背を持つ石仏が主流です。箱型石仏と船形光背の石仏がほどよく混在して並ぶ石仏群もあります。地蔵菩薩像を苔の緑布が覆い尽くす日がくるのでしょうか。それともお参りする人がお地蔵様を拝するためにそっと苔を取り除くのでしょうか・・・。 「たかの坊地蔵」という表示が出ています。ここが今回の石仏めぐりの最後でした。 大きな舟形の光背を持つ矢田型の地蔵菩薩立像です。錫杖を持たない姿のお地蔵様です。鎌倉中期の造像だとか。 この地蔵尊像の前に、箱型の石仏像を主流にして、ずらりと横並びで石仏が安置されています。背後に大小の石塔がありますが、これも宝篋印塔の一種なのでしょうか。「錫杖を持たない姿のお地蔵さまは、一般的に古いタイプのものとされています。他の石仏群は室町時代のものです。」(資料1) JR加茂駅への府道44号線と加茂青少年山の家や大門の磨崖仏めぐりへの道との分岐点時間と体力があれば、大門の方に寄り道もできるのに・・・というところ。今度は逆コースで、見られなかった石仏めぐりを兼ねて違う季節に訪れたいものです。 赤田川に架かる橋を渡ります。当尾から外れ、後はJR加茂駅へひた走りではなくて、ひた歩きです。3km少し、ガンバロウ! 「加茂町ふるさと自然散歩ガイドマップ」というのが設置されています。この地図を見ると、赤田川と新川に挟まれた南方向に、当尾の里という地域があることがわかります。新川と赤田川が木津川に流れ込んでいくのです。リーダーのもとで歩き、赤田川の橋をもう一度渡ることになります。 途中で見た池。加茂町高田のあたりです。「大仏鉄道遺跡めぐり」の標識が出ています。これも加茂町観光のもう一つのお楽しみコースのようです。大昔に、ウォーキングで部分的に歩いた記憶があるのですが・・・・。どうも、忘却の彼方に。いつか再訪してみたい。しばらくは府道44号線沿いの歩道を歩きます。 「加茂町里」と表示が出ています。最初に歩いてきた南加茂第1の方向に向かう道路との分岐がありますが、府道沿いにそのまま進みます。 これがもう一つの赤田川に架かる橋。 途中で、こんな標識をみかけます。 町並に入って来ていますが、田園風景の広がりも眺めつつすすむと、地蔵尊の小さなお堂やちょっと棹の部分が特異な石灯籠などが目に入ります。お堂の傍にも地蔵石仏が置かれています。お堂に二体並べていないところがおもしろい。 加茂小学校の校門前に出てきます。加茂駅から常念寺に向かう道の横道の奧に眺めた校舎のところでした。学校の中には、懐かしい像を見かけました。少年時代の二宮尊徳像のある学校も今や少なくなってきたでしょうね。金次郎少年は、何の本を読んでいるのでしょう・・・・。今回見て、ふと気になりました。(公文書では「金次郎」で、自筆は「金治郎」と表記されていたそうです。今回初めてそこまで意識しました。資料2)調べて見ると、この像のスタイルを「振薪読書図」と称するそうです。そして二宮金次郎は『大学』を声を出しながら読んでいるのだとか。というのは、明治14年(1881年)に富田高慶著伝記『報徳記』が発行されていて、「大学の書を懐にして、途中歩みなから是を誦し、少も怠らず。」という記載が初出としてあることによります。(資料3)JR加茂駅まであとわずかです。これで、加茂町の寺と石仏めぐりのご紹介を終えます。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 当尾の石仏 :「木津川市観光ガイド」2) 二宮尊徳翁について :「報徳二宮神社」HP 3) 二宮尊徳 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺矢田寺の歴史と由来 :「矢田寺」HP 「矢田型地蔵」についての説明があります。西明寺 :「木津川市観光ガイド」旧加茂町大野 西明寺(さいみょうじ)笠塔婆 :「愛しきものたち」残念石 :「史跡・めぐり歩き」<観光スポット>大仏鉄道 :「木津川市観光ガイド」幻の鉄道 大仏鉄道(加茂駅~大仏駅~奈良駅) :「木津川市」大仏駅 :ウィキペディア大仏鉄道記念公園 :「文化遺産ニュース」(ACCU奈良)大仏鉄道研究会 公式ホームページ小田原市尊徳記念館・二宮尊徳生家 :「小田原市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -1 まず常念寺へ 歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -2 金蔵院・大畑口・六地蔵石龕仏 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -3 岩船寺・白山神社 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -4 石仏めぐり 岩船寺から浄瑠璃寺まで へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -5 浄瑠璃寺 へ
2017.06.09
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[探訪時期:2015年4月] 「名勝 史跡 淨瑠璃寺庭園」という石標が立つところから、長い参道が山門まで一直線に延びています。 拝観の折にいただいたリーフレットから切り出して引用しました。浄瑠璃寺の境内配置をイメージしていただくのに役立つことでしょう。(資料1) 参道の途中、左には、蓮華座の上に梵字で仏名を四方仏として記した石造角柱の上に、宝篋印塔の笠の部分がのせられたおもしろい形のものが建てられています。また、右側には冒頭の石標と同趣旨の石標があります。 こんな景色の参道を歩みます。 「当尾」についての説明板も途中にあります。山門前の左右の樹木が太陽光を受け、参道に写す影がまた情緒を高めてくれます。 築地塀には、三筋の白線が入れられています。山門の両脇には、前垂れで姿が見えませんが、たぶん地蔵菩薩箱型石仏が置かれているのでしょう。門柱には、「真言律宗 小田原山 浄瑠璃寺」の表札が掛けられ、その下に、「西国薬師霊場第三十七番」の表札もかけてあります。また、「関西花の寺の第16番」でもあります。浄瑠璃寺の山門は境内の北に位置します。境内に入ると中央におおきな池(宝池)が広がっています。池辺から西方向の樹木の上に、三重塔の上部が見えます。浄瑠璃寺の本堂は東に見えます。現在の本堂が、「九体阿弥陀堂」です。本尊は九体の阿弥陀如来坐像(国宝)です。九体阿弥陀仏が現存するのはこの浄瑠璃寺だけです。堂内は撮影禁止でした。拝観の折にいただいたリーフレットには、中央の丈六阿弥陀如来坐像の左に半丈六の四体の阿弥陀如来坐像が並ぶ姿が大きな写真で掲載されています。東面する九体の阿弥陀像を、北側から撮った写真です。中尊は2m強、左右に四体ずつ並ぶ八体の半丈六像は1m50cmほどの像高です。桧の寄木造、漆箔でで金色の輝きが保たれています。この九体の阿弥陀仏が坐す姿は、まさに壮観です。「浄瑠璃寺」を常設ページとして紹介され、当寺紹介の中で諸仏像の写真を掲載されているウエブサイトをみつけました。こちらからご覧ください。北側から見た九体阿弥陀仏の写真が掲載されています。(「浄瑠璃寺門前 あ志び乃店」ホームページ) (資料2)平安時代後期、出家した藤原道長が、鴨川の西に丈六阿弥陀如来像九体を本尊とする九体阿弥陀堂を建て、寬仁4年(1020)に落慶供養して無量寿院と号します。これが道長建立の法成寺(ほうじょうじ)の始まりです。この無量寿院を始まりとして、平安貴族の間で九体阿弥陀堂の建立が流行していったのです。法勝寺(ほうしょうじ)・梶井の御願寺・尊勝寺・白河の新阿弥陀堂・成菩提寺など30ほど創建されていったようです。京都の寺々はその後の兵火・火災などで滅尽します。平安後期の遺構として、この浄瑠璃寺本堂だけが現存する唯一のものなのです。浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂は、平安時代の1107年に造立されたお堂です。道長の無量寿院からは87年後の建立ということになります。(資料1,3)「九体阿弥陀堂は人の生前の信仰心や行為の善悪の相違によって九種の往生のしかたがあるという浄土思想にちなみ、九体の阿弥陀如来像を安置する堂」(資料3)です。これは、「仏説観無量寿経」の最後の段階で、仏が阿難(あなん)尊者と偉提希(いだいけ)夫人に、修行者のように心を一定にできない散心の凡夫(凡人)が西方浄土の極楽世界に往生することができる九種の方法を説いたということに由来します。経典では上品上生(じょうぼんじょうしょう)から説き始め下品下生(げぼんげしょう)まで説いています。往生の段階は下品(下生・中生・上生)から、中品を経て、上品上生までの9つの往生-九品往生-の段階があるとする考え方です。 訪ねた時期がちょうど浄瑠璃寺での花まつり(灌仏会)の行事が行われる日でした。 本堂の前面、向拝をまず拝見。頭貫の上、中央の蟇股には、月輪の中に梵字・キリークが陽刻されています。阿弥陀如来を意味しています。頭貫には瑞鳥が彫刻されています。一方、木鼻はいたって簡素で、斗を支えている形です。最近、この形式の木鼻を見る機会が増えています。 南側からの眺め。御堂の周囲に外縁が付けられています。正面が11間、側面が4間の建物です。九体の阿弥陀如来のそれぞれに、堂前の板扉がある形です。板扉とその内側の障子戸を全開されていますと、池の東辺の畔に佇み、本堂(九体阿弥陀堂)を眺めたとき、現世の此岸から、浄土の池に面して、彼岸に九体の阿弥陀仏が九種のどの往生であれ、迎えてくださる姿を拝することができるということになります。右の画像は、本堂の背面の外縁です。本堂には、この外縁をぐるりと半周して南側面の戸口から入ります。つまり、左の画像の格子戸の所からです。 向拝屋根に置かれた獅子の飾り瓦。 本堂の南側の空地の奧に、多くの箱型の石仏が集められていて一方、本堂正面の外縁の南への延長線上あたりで、空地の端になるところに、南無阿弥陀仏の名号を刻した石碑が建てられています。石碑のある辺りから池辺に近づき、池を眺めた景色。池の中島です。弁財天を祀る小祠が設けられています。 本堂の前の池辺、対岸の高みに建つ三重塔の前の池辺とにそれぞれ一基の石灯籠が置かれています。南北朝時代の作だそうです。灯籠の火袋の開口部を通して、三重塔が見えます。本堂の前を通り、池辺に沿って時計回りに歩むと、本坊・灌頂堂の先に、「鐘楼」があります。 池の西辺から石段を上った高みに開削された平坦地に「三重塔」(国宝)が建てられています。室生寺の五重塔とほぼ同じ16mの高さだそうです。池を中央にして、東岸にあるこの三重塔には秘仏・薬師如来像が安置されています。塔の正面、外廊に置かれた祭壇の傍に、この三重塔の開扉日は「毎月8日・彼岸の中日他(ただし好天に限る)」と説明表示があります。他というのは正月3ヶ日のことのようです。当尾の地域は、奈良から笠置に抜ける笠置街道が通っていて、東に岩船、中央に東小下(ひがしおした)、東小上(ひがしおかみ)、西に西小(にしお)という集落があり、奈良に入ると鳴川(なるかわ)、中の川(なかのかわ)という集落がつづいているのです。かつては、この集落ごとに寺があり、岩船寺・東小田原寺・西小田原寺・鳴川山寺・中川寺があったと言います。寺の名前にあるとおり、東小・西小あたりは小田原と呼ばれた土地だったそうです。奈良の大きな寺での修行に満足できない修行僧が、この地で修行をするようになり、小田原聖と呼ばれる行者集団が興ってくるようです。それが後に、高野聖へと発展していくことにもなるのだとか。平安時代の1047年に西小田原寺が創建されます。薬師如来を本尊とし、薬師如来の東方浄土が浄瑠璃世界と称されたことから浄瑠璃寺と称するようになったようです。この時期の本堂が取り壊されて、上記のとおり、1109年に九体阿弥陀堂が造立されるのです。その時は、薬師如来像もまた、この新本堂に安置されたのでしょう。その後に、奈良の興福寺の僧、恵信が浄瑠璃寺の興隆に尽力し、池を掘り、庭石を据え、境内の整備をしたとされています。1150年に「浄瑠璃寺庭園造、寺観整備」がなされたのです。1178(治承2)年に、京都の一条大宮にあった三重塔をこちらに移建し、東方浄土の薬師如来像をこちらに安置されます。(資料1,4)尚、鎌倉時代の浄瑠璃寺の記録「浄瑠璃寺流記事」(重要文化財)は、「浄瑠璃寺の根本史資料文書(重文)」(資料1)であり、この文書には永承2年(1047)に、当麻出身の僧義明が薬師如来を安置して開基したことを伝えているそうです。(資料5)小田原の地だということが、たぶん。山号の小田原山に反映しているのでしょう。この段階で、現在の浄瑠璃寺の伽藍配置ができあがるのです。太陽の昇る東方にあるのが薬師如来が教主の浄瑠璃浄土、太陽の沈み行く西方にあるのが阿弥陀如来を教主とする極楽浄土です。池の東側に佇み、西に九体の阿弥陀如来を眺めれば、現世の此岸から彼岸の西方浄土(極楽浄土)を眺めることとなり、池はまさに浄土の池となります。 三重塔もある高みからの本堂の眺め 石段を下り、池の東辺・此岸の位置に立った眺め。こちらの石灯籠には貞治5年の銘が刻されています。貞治5年は1366年で、南北朝時代、北朝の年号です。 この石灯籠の火袋からの眺め。本堂の前に置かれた石灯籠と対極にあるのがよく分かります。この伽藍配置に関してですが、リーフレットによると、「彼岸の中日」つまり、春分・秋分の日、中尊の丈六阿弥陀如来坐像、来迎印のお姿のこの阿弥陀仏の後方に太陽が沈んでいくように本堂が配置されているそうです。快晴の日であれば、荘厳感が増すことでしょう。池に目を転じると、中央に厚みのある板が渡されていて、亀たちがおもしろいことにほぼ等間隔で板の上にあがっていました。 池の傍の石組み池を回り込んでいきます。 池の南辺からズームアップした本坊(左)と潅頂堂(かんじょうどう)の屋根。潅頂堂の本尊は智拳印を結ぶ大日如来坐像で、秘仏です。詳細は不詳ですが、平安末~鎌倉初期の造像のようです。潅頂とは、「密教の儀式。伝法・受戒・結縁などのとき、香水(こうずい)を受者の頭に注ぐこと」(『大辞林』三省堂)です。もう一つ、仏教上では、「菩薩が最終の位にはいる時、仏が智慧の水を注ぐこと」。ここではやはり前者の儀式に使われるお堂ということでしょう。このお堂は前を数度通り過ぎただけになりました。 鎮守跡 手間に箱型石仏が並んで居ます。岩船寺も含めて、当尾の石仏では、箱型の石龕石仏が多いという特徴が見られます。 鎮守跡側から眺めた本堂(九体阿弥陀堂)秋の紅葉した景色も見てみたい・・・・、そんな思いです。最後に、浄瑠璃寺を訪れた文学者の文の一節をご紹介しましょう。*五木寛之氏が三重塔の薬師如来を拝見したときの一節 (資料4)「・・・この日は特別になかに入らせていただいた。狭い空間のほとんどを薬師如来像が占めている。いままで多くの薬師如来像を拝んできたが、こうして肌を接するようにして拝んだのは初めてのような気がした。 威圧的ではなく、しかも薬師如来像によく見られる大きな肉厚の像でもなく、すんなりとやさしい像だ。薬壺をのせた左手や掲げた右手の指先の表情には、なんともいえない繊細な感じが漂っている。・・・・ 薬師如来像が安置されている空間が狭ければ狭いほど、薬師如来がつかさどる浄瑠璃世界というものを現していると強く感じるのは私だけだろうか。・・・・」*同氏が阿弥陀堂に入ったときの文の一節 (資料4)「一歩足を踏み入れて、あ、と息を呑んだ。居ならぶ九体の阿弥陀仏に圧倒されたのである。堂宇はどちらかというと素朴なのだが、その中に二メートル強、あるいは一メートル五十におよぶ阿弥陀仏がずらりと並んでいるのは、ものすごい迫力である。 私がこれまでもっていた阿弥陀仏のイメージは、どこかやさしい母性的な感じだ。しかし、阿弥陀如来像も歴史によってかなり変化するもののようだ。浄瑠璃寺の阿弥陀如来坐像は藤原時代に流行した九体阿弥陀の唯一の遺物だそうだが、体躯は堂々として、眼から鼻、唇、肩、手にかけて、力強くしっかりしている。 この九体は同じデザインでつくられたそうだが、やはり彫る職人の個性がそれぞれにじみ出ているようだ。よくみると一体一体が微妙に違う。機械的な仕事とはちがって人間の仕事はこういうところに面白みがある。 堂々とした九体が、それぞれに縁無き衆生に顔を向け、それぞれの光を投げかけてくる。浄瑠璃寺という山間の寺の素朴な堂宇のなかに、おおらかでどっしりとした九体の阿弥陀如来が、天井低しとばかりに座っておられる姿は、あるショックを私にあたえた。」*堀辰雄氏の『大和路・信濃路』中の「浄瑠璃寺の春」の一文より (資料6,7)「この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。…」*『俳枕 西日本』という本に、浄瑠璃寺の一項があります。そこに、編者が12句を紹介しています。私の好みで、5句引用しご紹介ます。(資料8) 馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺 水原秋桜子 馬酔木:アシビ 水澄みて九つの弥陀現れたまふ 阿波野青畝 虎落笛吉祥天を離れざる 橋本多佳子 虎落笛:モガリブエ 九体仏金色の冷えまさりけり 能村登四郎 萩枯れて暮るるいかりの九体仏 藤原たかをこれで浄瑠璃寺の探訪を終わります。ここからJR加茂駅に戻りますが、この道も石仏をめぐりつつ歩くことができました。つづく参照資料1) 「真言律宗 小田原山 浄瑠璃寺」 拝観時の入手リーフレット2) 浄瑠璃寺前 あ志び乃店 ホームページ3) 『仏像 日本仏像史講義』 山本勉著 別冊太陽40周年特別記念号 p1624) 『百寺巡礼 第三巻京都Ⅰ』 五木寛之著 講談社文庫 p194-2175) 浄瑠璃寺 :ウィキペディア6) 堀辰雄の奈良を歩く 【浄瑠璃寺の春編】 堀辰雄を歩く :「東京紅團」7) 『花あしび』堀辰雄著 青磁社 :「近代デジタルライブラリー」 76/103コマに引用文が載っています。75~85/103が「浄瑠璃寺の春」全文です。8)『俳枕 西日本』 平井照敏編 河出文庫 p74【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺浄瑠璃寺(木津川市) :「京都やましろ観光」 京都府のサイトのこのページに、九体阿弥陀仏を南側から撮った写真が載っています。第16番 浄瑠璃寺 :「関西花の寺二十五カ所」西国四十九薬師霊場会 ホームページ 【御朱印マップ】西国薬師四十九霊場(近畿地方>早春の寺(浄瑠璃寺)-京都府木津川市加茂町西小札場- :「近畿風雲抄」虎落笛・もがり笛 ~風の音色2~ :「林道百拾号線」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -1 まず常念寺へ 歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -2 金蔵院・大畑口・六地蔵石龕仏 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -3 岩船寺・白山神社 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -4 石仏めぐり 岩船寺から浄瑠璃寺まで へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -6 当尾(西小)の石仏と府道歩き へ
2017.06.08
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[探訪時期:2015年4月]岩船寺の山門を後にして、浄瑠璃寺に向かいます。この道筋が「当尾の石仏」を巡る徒歩コースの一部なのです。逆に言えば、当尾の石仏めぐりの一部のご紹介だけになります。「当尾の石仏map」は、木津川市観光ガイドのサイトからダウンロードができます。こちらからダウンロードしていただくとよいでしょう。そして全体を知るにはマップをご覧いただきたいと思います。 尚、ここでご紹介する都合上、マップの部分図を引用させていただきます。(資料1)岩船寺前のバス停から弥勒の辻バス停に向かう道路を少し下って行くと、浄瑠璃寺への散策コース道との分岐があります。それが冒頭の左の画像です。この分岐点から浄瑠璃寺までが、石仏めぐりの一部なのです。浄瑠璃寺までは下り道で1.5kmとか。石仏を見て、写真を撮りながら進むと、距離感覚は飛んでしまていますが・・・・。坂道を下っていくと、見おろせば右の画像の感じです。それまでに、「一願不動(岩船寺奥院不動)」という案内表示板が出ています。 下って行くと、巨大な岩に磨崖仏が彫られているらしいという感じがしてきます。デジカメのズーム機能でとりましたので、この画像でも何となく立像を感じていただけるでしょう。 大岩の前で不動明王立像をじっと拝見していると、不動明王の立像が見えて来ます。見る位置と日の光の関係で浮き彫りにされている不動明王の見やすさが変化します。不動明王立像の彫りはそれほど深いものではありません。ほぼ等身大くらいの印象をもちました。不動明王の相貌、おわかりいただけるでしょうか。じっと見つめると何となくイメージが湧いてきます。「一願不動」と称されるのは、この不動明王に一つだけお願いするならそれはかなうと伝えられていることに由来するようです。足許も大きな岩を踏みながら坂道を下ると、この分岐標識のところに出ます。まずは、浄瑠璃寺とは反対方向へ、石仏めぐりの寄り道です。 わらいぼとけ 当尾の石仏の中では最も良く知られた石仏、阿弥陀三尊像です。中央の阿弥陀如来坐像の左右の脇侍が、勢至菩薩坐像(左)と観世音菩薩坐像(右)です。この石仏は、銘文が刻まれていることから、1299年に岩船寺住職の発願で、末行と称する大工が彫像したことがわかるそうです。この「わらいぼとけ」の少し手前にわずかの階段道が造られていて、その前に「眠り仏(地蔵石仏)」と表示が出ています。これが土中に身を埋め、お顔が見えるだけのお地蔵様。どのくらいの年月、土中に眠っておられるのでしょう・・・・。みろくの辻磨崖仏は・・・と、ウォーキングのコースとは反対方向の道を早足で歩いて行ったのですが、いかんせん、浄瑠璃寺とは反対方向のため、ウォーキング予定の時間の関係から、途中で断念。先行組で行っていた数名も、目処とした時間内では到達できそうにないと戻ってきました。 しかし、見落としてしまいそうな小さな四方仏の彫られた石柱に出会えました。 こんな景色の中の山道を下っていきます。少し開けて、野原になったところに休憩場所があり、大きな岩があります。行ってみましたが、見た限りは大岩そのものでした。ハズレです。大岩から少し先にあった「唐臼(からす)の壺」これは古くからの分岐点にあたる位置にあるそうです。大きな岩の中央に15cmほどの穴が穿たれている礎石だとか。これが粉を挽く唐臼に似ていることから「からすの壺」と呼ばれるに到ったそうです。(資料1、以下でも参照) 「からすの壺」の近くに建つ歌碑この歌碑に記された「泉涙暮(いずみるいぼ)」とは、調べてみますと、大正4年(1915)3月28日、加茂町に生まれ、昭和5年(1930)10月、父の死後、一家を支え、行商をしながら姉弟を養い、昭和18年(1943)に陸軍に徴用されるも、肺結核で倒れ、昭和20年(1945)3月22日、享年29歳で没した歌人でした。(資料2)「加茂の山河を歩き、しのびよる病魔とたたかいながら、日々の移ろいを歌に託した歌人だった」(資料3)そうです。その短い生涯において、5500首もの詩歌を残したそうです。実弟の鳥井芳英氏が編集された『溺れ蛍:泉涙暮詩集』が1989年に出版され、また2013年10月には、『詩歌集 溺れ螢』(文芸社)が出版されています。孫引きになりますが、泉涙暮の詠んだ歌をご紹介します。 ゆるやかに流れよとてか木津川に教えられたり春の夕暮れ 黄昏て宵待草の泣きたさよ泉河原のおぼろ月かな 肝寒く青く映じる月の影君と別れし泉大橋 病み倦きて春雷をきく音たのし 月影を砕きて溺る螢かな この歌碑から数十メートル先に、「阿弥陀如来坐像・地蔵菩薩坐像」への標識が出ています。 上掲の「からすの壺」にほど近いところの石仏なので、「からすの壺二尊」と表示されているようです。ここに写っているのが舟型光背を持つ阿弥陀如来坐像です。銘文から、1343年に恒性という願主のもとに、造立されたことがわかっています。 阿弥陀像に向かって、右側に灯籠が線刻で描かれていて、火袋の部分が四角く穿たれています。ここにロウソクを立て燈明を奉じることができるようになっています。私は遅れ気味になっていたので、地蔵菩薩立像を見落としたのです。実は、この大岩の阿弥陀像に向かって左側に回り込んだ岩の面に、地蔵菩薩立像が彫られていたのです。造立されたのは同じ1343年ですが、願主は勝珍という人です。名前からすればいずれも僧なのでしょう。東小のバス停に近い分岐点まで来ると、浄瑠璃寺まであと400mという標識がでています。ここに建てられているのが、奇妙な形状ですが、「あたご灯籠」と称されています。「あたご」は「愛宕神」のことで火の神様、火伏せを司る神様です。火の用心、防火の神様。「当尾ではお正月にここからおけら火を採り雑煮を炊く風習があったそうです。」(資料1)余談ですが、私が子供の頃から今まで、見慣れているのが愛宕神社の火伏せのお札です。「阿多古祀符 火迺要愼」という漢字を使ったお札なのです。初めてこのお札を意識したとき、後半の文字をどう読むのか? 現代の表記だと、「火の用心」と同じですね。「迺」という漢字は日本では、「の」と読ませるので、「火の要愼(=用心)」ということなのでしょう。漢和辞典を引くと、漢字の意味は「すなわち」です。「火はすなわち愼を要す」「火の要(かなめ)は愼なり」と読んでよいのかもしれません。愼の漢字の意味は、「つつしむ。気をつけてあやまちのないようにする。用心する。注意深くする」ですから。「火の用心」よりも「火迺要愼」の方が、身を引き締めそう・・・・・。今も、実家にはこのお札が貼られています。この分岐点から府道752号線に出て、浄瑠璃寺前までしばらく府道沿いに歩くのですが、浄瑠璃寺までに、さらに2ヵ所の石仏を訪れます。 一つが、「やぶの中三尊」です。道路から少し入り込んだ、まさに藪の中といえるところです。背後に竹藪が迫っています。2つの大岩に三尊が彫られています。 一つの岩には、地蔵菩薩立像と十一面観音立像です。 地蔵菩薩立像に向かって左下に銘文が刻されています。説明板に記されていますが、1262年に造立された磨崖仏です。当尾の石仏で年号が明かなものの中では最古のものだそうです。銘文から、これら三尊像は、浄土院という塔頭の本尊だったのではと推定されています。彫像したのは、「大工 橘安縄 小工 平貞末」です。 もう一つの大岩に、阿弥陀如来坐像です。近くには、石塔の残欠があります。形からみると十三重石塔の残欠のように思えます。この藪の中三尊磨崖仏からそれほど離れていない道路の反対側の方向に、「首切地蔵(阿弥陀石仏)」があります。こちらは府道から少し奧に入ったところです。 このように石仏が並んで居ます。この場所は「釈迦寺跡」だとか。 「首切り地蔵」という別名がありますが、実は「阿弥陀石仏」です。この石仏も在銘石仏であり、1262年の造立で、藪の中三尊と同じく最古のものだそうです。別名の由来は、昔処刑場にあった石仏と伝えられているそうです。「東小阿弥陀石龕仏」とも。その隣には、光背に梵字が刻された十一面観音菩薩立像の石仏があります。これで、岩船寺前から浄瑠璃寺前に至る散策路での石仏との出会いが一旦終わりです。いよいよ浄瑠璃寺を拝見です。つづく 参照資料1) 当尾の石仏 :「木津川市観光ガイド」2) 詩歌集 溺れ螢 書籍詳細情報 :「文芸社」3) 泉涙暮-木津川市加茂町- :「近畿風雲抄」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺当尾磨崖仏文化財環境保全地区 :ウィキペディア当尾石仏の里ウォーキング ひと足のばしてもっと京都新発見浄瑠璃寺・岩船寺石仏コース てくてくまつぷ 約9km pdfファイル 近鉄 里の野草たち (2) :「当尾(とうの)からの風の便り」総本宮 京都 愛宕神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -1 まず常念寺へ 歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -2 金蔵院・大畑口・六地蔵石龕仏 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -3 岩船寺・白山神社 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -5 浄瑠璃寺 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -6 当尾(西小)の石仏と府道歩き へ
2017.06.07
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[探訪時期:2015年4月]「岩船寺(がんせんじ)」は、標高321mの御本陣山の北麓に位置します。加茂町大畑から加茂町岩船、加茂町西小(にしお)にかけては全体が連なる山々、高原という地形です。岩船寺から南南西方向に位置する浄瑠璃寺にかけての地域が「当尾(とおの)」の里と称されるのです。木津市の観光ガイドで「当尾地区」という言葉が使われています(資料1)。不思議なことに、インターネットで地図(Mapion)を見る限りでは、「当尾」という地名の記載がありません。岩船寺拝観の折にいただいたリーフレットにも、「当尾」という言葉は出ていません。しかし、この「当尾」をあたりまえのように使っています。なぜなのか?京都府のホームページに、「歴史的自然環境保全地域当尾」というページを見つけました。所在地が、木津川市加茂町西小及び岩船となっています。昭和26年(1951)にこの地域が加茂町に編入されるまでは、ここが「当尾村」と呼ばれていたのです。歴史の長さから言えば、「当尾」というのがやはり馴染むのでしょうね。この当尾一帯は古くは浄土信仰の霊地として栄えてきた土地柄のようです。「古来、南都仏教の影響を色濃く受け、世俗化した奈良仏教を厭う僧侶が穏遁の地として草庵を結び、念仏に専心したと伝えられています」(資料1)。そして「当尾」という言葉は「塔婆が立ち並ぶ尾根という意味の『当尾』からきている」と由来が説明されています。(資料2)冒頭に岩船寺の山門を載せました。山の斜面に境内がありますので、山門も石段を上がった上にあります。山門の手前右に拝観受付所があります。右の表札に、真言律宗で、山号が「高雄山(こうゆうざん)」と記されています。いただいたリーフレットによれば、山号に併せて院号があり、「高雄山報恩院」と称するようです。左の表札には、「関西花の寺第15番」と記されています。四季折々、境内には花が咲きますが、特にアジサイの寺として有名なのです。ちなみに、関西花の寺は二十五ヵ所の霊場からなっています。(資料3)この他にも、岩船寺は、仏塔古寺十八尊霊場の第4番(資料4)、神仏霊場第129番(京都第49番)(資料5)でもあります。山門の前に立つと、真っ直ぐ先の木々の間に朱色の三重塔が遠望できます。写真に写っている参道を右方向に歩むと本堂が見えます。 本堂現在の建物は昭和63年(1988)に再建されました。 梁間五間で正面と両側面に外廊がついています。向拝の梁間は二間です。頭貫の木鼻は斗を支える機能だけのものになっていて、最もシンプルな形式です。向拝の蟇股は、草花文様の透かし彫りの簡素なもので、木鼻との均斉を保っています。本堂でご住職の丁寧な説明を拝聴しました。本堂内は撮影禁止でした。ネット検索していて、本尊の写真を掲載されているのを見つけました。こちらをご覧ください。 (NPO法人 ふるさと案内「かも」)本尊はいわゆる丈六の阿弥陀如来坐像です。像高約3m、ケヤキの一本造り。明治期の修理の際、像胎内に墨書銘が発見されたのです。「□□九年丙午九月二日丁丑」と元号が判然としないそうです。しかし、記されている干支から判断して、平安時代・天慶9年(946)と推定できるようです。平等院鳳凰堂は1053年に造立され、安置されている阿弥陀如来像はほぼ同じ像高ですが寄木造という技法によるもの。岩船寺のこの阿弥陀如来坐像はさらに100年余古い時代の作ということになります。10世紀中期の代表的な基準像になるようです。行基作と伝えられています。(資料6)岩船寺と平等院の両阿弥陀如来坐像の写真を対比的に見ていくと、100年という時代差から生まれる作風の差異-体躯の表現、衣紋の形状、台座と光背の意匠・造形など-に興味深いものがあります。鳳凰堂は御堂の中央に阿弥陀如来坐像が一躯安置され、御堂の壁面に天女像が楽器を奏し、舞っています。貴族文化が極楽浄土の華やかさを求めたのでしょう。一方、こちらは須弥壇の四隅に鎌倉時代に造立された四天王立像が配置されています。逆に天女像はありません。また、どちらも阿弥陀三尊像という形式はとっていません。この点も私には、興味深いところで別の課題が残りました。岩船寺の創建とその歴史はお寺の焼失や移転などもありあまり明確ではないようです。いくつかの入手情報から言えることは、天平元年(729)に聖武天皇の命を受け、僧行基が大和国鳴川(現・奈良市東鳴川町)に阿弥陀堂を建立したことに始まるようです。その後、空海の甥で弟子でもあった智泉が嵯峨天皇の皇子誕生の祈願をし、鳴川の善根寺に報恩院を建立します。智泉の祈願後に、皇子(仁明天皇)誕生もあり、弘仁4年(822)に堂塔伽藍の整備がなされます。「最盛期には東西16町、南北16町の広大な境内に39の坊舎を有したが、承久の乱(1221)の兵火により、堂塔の大半を焼失。再建後も再び兵火で失い」という状況に陥ります。この報恩院が現在の地に移されたようです。一説では、弘安2年(1279)に報恩院が移され、同8年(1285)に落慶供養が行われたとか。「高雄山報恩院」の報恩院はここに由来するのでしょう。(資料6,7)鎌倉から江戸時代までは興福寺一乗院の直末寺であり、江戸時代に浄瑠璃寺の末院となったようです。そして、明治14年(1881)に真言律宗西大寺の末寺となり、現在に至るとのこと。(資料6,8)本堂の正面に向かって立つと、左方向に「阿字池」があります。ここからのご紹介で位置関係をイメージしていただきやすくするため、入手リーフレットから境内案内図を切り出し、引用させていただきます。(資料6) 右側から池を回り込み、本堂を眺めた景色 十三重石塔「正和3年(1314)、妙空僧正の建立と伝える。初重の軸石の四面には金剛界四仏の梵字が薬研彫りで刻まれている。昭和18年、軸石のくぼみの中から水晶五輪舎利塔が発見される。」(資料6)金剛界四仏とは、阿閦(あしゅく)・宝生・阿弥陀・不空成就の四仏のことです。 背後の石段を登ると、三重塔があります。 三重塔は山の斜面を切り崩し、平坦地にした場所に建てられています。そのため、さらに高みに上がって、三重塔の背後の山道を半周する形で塔を眺めることができます。平地の境内に立つ塔では見られない塔の姿を間近に楽しめます。仁明天皇が智泉大徳の遺徳を偲んで承和年間(843-847)に宝塔を建立したと伝えるそうですが、現在の三重塔は室町時代に建立されたもの。塔には嘉吉2年(1442)の刻銘があるそうです。建立当初の文様・色彩及び壁画が明らかになったことから、平成15年(2003)に復元されたのです。現在の塔の色彩が鮮やかなのは、この復元による結果です。この三重塔の面白いのは、塔の四隅の垂木を支える「隅鬼」の存在です。 つまり「天邪鬼」の木彫が施されていることです。天邪鬼は、四天王像の足許で踏みつけられているのを見るのが一番ポピュラーです。ちょっと変わったところでは、興福寺にある「天燈鬼像・龍燈鬼像」。灯籠の火袋部分を肩にのせるか、頭の上にのせているあの有名な木像です。興福寺のページはこちらからご覧ください。変わり種の一つが、京都・西本願寺の「天水受け」の下の四隅を支える天邪鬼です。以前に拙ブログでご紹介しています。こちらをご覧ください。 (「スポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -2 御影堂、天水受け、阿弥陀堂、埋め木、装飾彫刻・飾り金具等」)空中の高いところに居るユーモラスな天邪鬼、コレ、必見ですね。地に這いつくばっているんじゃなくて、同じく支える役割でも、高いところから見おろしているんですから・・・・。ここの邪鬼も、龍燈鬼像と同じようなブリーフ様の下着をつけています。赤い色ですが、あの越中ふんどしと言われる純日本式のものではなさそうです。三重塔の左側から山道を上がって行きますと、「鐘楼」があります。 「報恩の鐘」と表示されています。ここから、三重塔の背後の山道をたどると、三重塔の上層部分を目の高さで眺めることができます。 山道からさらに少し高みに開削された平坦地に、「歓喜天(聖天)」を祀った御堂があります。東大寺別当平智僧都が心願成就祈願のために歓喜天を祀ったそうです。入手したリーフレットに記載はありませんが、この僧が岩船寺の中興開山と説明している資料もあります。(資料9) この御堂の頭貫の木鼻は象が彫刻され、その頭の上で斗を支えています。上掲の再建本堂が、それ以前の形式を踏襲しているとするなら、その簡素で機能本意な点から、やはりこの御堂の建立よりも古い時代の痕跡を示すのかなと思う次第です。蟇股に透かし彫りされた動物は、獅子でしょうか。脚が馬の蹄の様な感じですが・・・。これも空想上の動物でしょうね。 山道を下り始めて。三重塔の眺め 歴代住職墓地 開山堂 屋根の鬼瓦が一風変わっていて、惹きつけられる造形です。まるで人面の感じを受けます。こんな相貌のは初めて目にします。また、頭貫も、興味深いものです。一つは、木鼻のシンプルですが切り込みの形と線刻でしっかりと象の形象イメージを伝える造形です。おもしろいのは、頭貫の幅が明かなカーブで細くなり、象の首が柱から抜けて外に突き出た印象を強く持たせる造形であることです。他の木鼻と対比してみてください。併せて、頭貫の線刻文様が花のデザインに見えることです。波形の線刻がわりと多いと思いますので、目にとまりました。開山堂と本堂との間には、数多くの石仏や宝篋印塔が集められています。この場所が、境内図では「身代わり地蔵」と記されています。ここも興味を惹かれる一隅です。宝篋印塔は、その形が縦長でスリムな感じなところからか、ちょっとモダンな感じです。見慣れた定型的な宝篋印塔からすると、ちょっと異質な印象。基壇が何段も積み重ねられ、反り花の造形も大きくて厚みがあり、存在を主張している感じを受けます。塔身が小さいのに比べて、隅飾り突起がバランス的に大きすぎるからかもしれません。今まで見かけなかったタイプです。あるいは、いろんな石造パーツを宝篋印塔の形式に構成しただけなのか・・・。いずれにしてもおもしろいです。 観音の頭部がポツンと置かれた側に、三体石仏のレリーフがあり、宝篋印塔の向こう側には、この石仏があります。下半分が欠損した箱型の中に地蔵尊の上半身像が残っています。これが、たぶん身代り地蔵の一つなのでしょう。こちらは、箱型の中に何体か刻まれた地蔵尊の右側が欠損しています。六体地蔵が彫られていたものの残欠でしょうか・・・・。他にも石仏がありますが、すべてを撮っている時間がありませんでした。参道を挟み庫裡の反対側、山門を入った左側に、「石室不動明王立像」があります。線刻された銘によると、鎌倉時代・応長2年(1312)に造立されたものだそうです。壁の役割りをも兼ねた奧の1枚石に不動明王立像がレリーフされています。手前にある花崗岩製の角柱と不動明王立像の一枚石とで、寄せ棟造りの形にした一枚石が屋根としてかけられているのです。これもまた、興味深い形です。「古寺巡訪」というブログに、この石室不動明王像の由緒について詳しい説明が記されています。ご紹介しておきます。「応長二年(1312)塔頭湯屋坊の住僧盛現が眼病に苦しみ、不動明王に七日間の断食修法をされ、成満日には不思議にも眼病平癒された。そして報恩のために自ら不動明王を彫刻安置し、入滅の時『我が後生の凡俗にて眼病に苦しむものあらば、必ず岩船寺の不動明王を祈念せよ、七日間に祈願成就する』と遺言され」たとされています。(資料10)この不動明王像の左側に、厄除け地蔵菩薩の御堂があります。多くの参拝者がおられたので、写真を撮るのを遠慮しました。その御堂のさらに左側、つまり山門に一番近いところに、「五輪塔」があります。歓喜天(聖天)を祀ったといわれる上述の東大寺別当平智僧都の墓と伝承される五輪石塔だとか。昭和初期に岩船の北谷墓地からここに移されたそうです。(資料6)台座の下に基礎石が置かれ、笠石(火輪)の軒反(のきぞり)が強いところに、近畿地方にみられる鎌倉時代の五輪塔の特色が出ています。山門の内側から外を眺めた景色。本堂・庫裡のある境内が、けっこうな高さの位置にあります。 箱型石に納まる地蔵尊岩船寺を出るときに、気づいた石仏です。門を出るとき右脇に安置されているのを眺めたと思います。隅取りされた箱型の石の中に地蔵尊立像が厚みをもって浮き彫りにされています。「身代り地蔵」として紹介されているブログもあります。 「岩風呂」という表示が出ています。山門の石段下。山門に向かう参道の左脇にあります。ウォーキングのメンバーに教えらるまで、気づいていませんでした。まるで、古墳の石棺に使われたのではと思える大きさです。リーフレットには、鎌倉時代のもので、「修行僧が身を清めるための風呂」と説明されています。(資料6)なぜ、こんな場所に? ここに置かれていること自体がなぜか、不可思議・・・・。だけど、かつてこのあたりも岩船寺境内の一部であり、伽藍が建ち並んでいたと考えると、浴室がこのあたりにあっても、おかしくはないでしょうね。「江戸時代寛永の頃(1624-1643)には、本堂、塔、坊舎、鎮守社等、十宇ほどになる」(資料6)と、リーフレットの「岩船寺縁起」に記されていますので、本堂を中心に境内はもっと広かったのでしょう。門前の石段を下り、すぐ左への道をに進むと、その先に急な石段があり、上に社務所があります。神社境内は自由に参拝できます。 石段の上が、白山神社と摂社春日神社が並ぶ境内です。 白山神社 摂社春日神社この「白山神社」は、天平勝宝元年(749)、岩船寺伽藍守護のために建立されたと伝えられているようです。報恩院がこの地に移る際に、この白山神社の神もこちらに遷座したということなのでしょう。この境内の正面に道があり、進んで行くと、通行止の柵が置かれています。かつては、この先の山道をたどると、歓喜天堂に直接巡拝できたのです。春日神社の右側、境内の縁に、この板碑が建てられています。判読できるのは、右の板碑に「南無 天理 □□」、左の板碑に「月天 星天 日天」という文字です。その前に置かれた先の尖った石には、2つの記号の下に、「大えんくう」と刻されている感じです。その斜め左前には「八王子」、右斜め前には「べんざいてん」と刻された小石が建てられています。本殿の背後には、境内の結界を示すかのように、神々の名前を刻した石が建て並べてあるようでした。こういう形式も初めて見ます。この白山神社境内にも、様々な信仰対象となる諸神が集っておられるようです。岩船寺・白山神社は、時間をかけてゆっくりと拝見するのがよい寺社です。改めて、違う季節に再訪してみたいもの・・・・・。ウォーキングとしては昼食休憩時間を含めて時間をとれた場所ですが、それでもやはり短かった!これからがいよいよ、浄瑠璃寺に向かう行程での、「当尾の石仏巡り」です。つづく参照資料1) 当尾の石仏 :「木津市観光ガイド」2) 歴史的自然環境保全地域当尾 :「京都府」3) 関西花の寺二十五ヵ所 ホームページ 第15番 岩船寺4) 仏塔古寺十八尊霊場会 ホームページ 第4番 岩船寺5) 神仏霊場会 ホームページ 京都 楽土の道 参加霊場6) 「岩船寺」 当日、拝観時にいただいたリーフレット7) 岩船寺 :ウィキペディア8) 岩船寺 :「京都風光」9) 岩船寺 :「京都通(京都観光・京都検定)百科事典」10) 岩船寺 :「古寺巡訪」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺岩船寺 :「木津川市観光ガイド」岩船寺 本堂 新築工事 :「(株)西澤工務店」平等院 沿革 平等院の文化財行基 :「古寺巡訪」真言律宗 :ウィキペディア真言律宗総本山 西大寺 ホームページ南山城のたずねておきたい遺跡や歴史遺産 2004年4月版 選:森 浩一 解説:鋤柄俊夫 「6.浄瑠璃寺と岩船寺(加茂町)」として採り上げられています。岩船寺 京都府木津川市加茂町 雨上がり 鐘の音 :YouTube岩船寺 紫陽花 :「みんなのデジブック広場」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -1 まず常念寺へ 歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -2 金蔵院・大畑口・六地蔵石龕仏 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -4 石仏めぐり 岩船寺から浄瑠璃寺まで へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -5 浄瑠璃寺 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -6 当尾(西小)の石仏と府道歩き へ
2017.06.07
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[探訪時期:2015年4月]常念寺前の道路を東に、竹藪を眺めながら東に進みます。こちらの地図(Mapion)をご覧いただくとイメージしやすいかもしれません。 南加茂台1の北端に至る辺り、道路の分岐点に出る手前に、名も知れぬしかし鳥居の立つ小祠があります。分岐点には、北に向かうと1kmでJR加茂駅、南に岩船寺の標識が出ています。南加茂台1の標識のある交差点で、加茂町尻枝に行く道(府道47号線)を歩みます。 のどかな田園風景が広がり始めます。しばらく進むと、府道と分岐する道があり、そこに道路標識が出ています。 標識の傍に、「椚(くぬぎ)川石」という文字が刻された石標がありますが、これが何を意味するのか、不詳です。府道から分かれる道が、金蔵院に向かう道です。おおまかにとらえると、西に川を見ながら、南東方向に進んでいきます。 覆屋の中に、かなり大きな地蔵尊と小さなお地蔵様が祀られています。 コミュニティバスのバス停「尻枝」があります。この後に見える細い道を少し入ると、右の画像の「金蔵院」です。門構えはありますが、扉はありません。所在地は、加茂町尻枝浅生91です。地図(Mapion)では、こんな位置関係になります。山門の正面奧に、「金蔵院」の扁額が掛けられた本堂があります。山号は念彼山。後で調べたところ、浄瑠璃寺の末寺になり、真言律宗のお寺です。現在の建物が比較的新しい印象を当日受けたのですが、老朽化により、庫裏を1987年、本堂を1993年に建て替えられたそうです。中世の記録はほとんどなく、「浄瑠璃寺の末寺として栄枯を共にし、明治13年4月には尻枝村内の弘念寺、西光寺を、更に東小の釈迦寺、大門の阿弥陀寺を併合して現在の檀家の形態が始まっている。」(資料1)とか。つまり、このお寺がこの地域の要になってきたようです。本尊は銅造の十一面観世音菩薩立像(秘仏)で 白鳳時代のものであり、唐から請来された仏像だといいます。 本堂は宝形造です。たぶん以前の御堂もその形式だったのでしょう。屋根の頂点には、雨仕舞として、瓦の露盤・宝珠がのっています。露盤の格狭間中央に金の文字が見えます。又、屋根には桃の形のような飾り瓦が置かれています。小さな境内だけを拝見したのですが、中々関心を惹かれるものが多い境内です。 一つは、すべての文字が判別できず、部分的に読めるだけなのですが、弘法大師入定の千百年報恩に関連した十万辺念誦記念して建立された石碑です。その上部に四角い龕が穿たれて、ガラス蓋で封印さえていて、中には弘法大師坐像と思えるものが安置されています。こんな形式の記念碑は初めて見ました。 その記念碑の右には、表面が波打ったような巨岩が置かれています。その傍には、石造十三重塔、宝篋印塔、多宝塔や石仏像がまとめて安置されています。十三重塔の塔身には四方仏が彫られています。 石仏は立像の膝から下が欠損していて、別石で補われて残されています。ゆっくりと観察しなければ、まったく違和感がありません。また、なかなか厚みのある浮き彫りです。多宝塔は、多宝塔の下部に宝篋印塔の笠・相輪をのせて一つの石塔にしている感じです。 また、別の境内端には、笠がびっしりと苔蒸した石灯籠、梵字六字名号の板碑、そして、様々な石のパーツを集めて石灯籠風にしたものが建てられていて、これもまた興味深いところです。名号の板碑は室町時代・大永6年(1526)の建立のもののようです。高さ1mくらい。ひっそりと静かで、小さい境内に様々な石造品が立ち並び、面白みもあり味わいのある趣が生まれています。4604金蔵院から岩船寺に進みます。 途中、加茂町尻枝から加茂町辻に入ったところ、下垣外に、木津川市立当尾小学校という文字が入口に見える建物があります。そのの傍にこれまた名前は不詳の神社があります。そして、その境内への石段上の傍らに奇妙な石が置かれています。本来の目的は何なのか・・・・? 雨水がたまっていました。地図を確認すると、現時点ではここに学校の所在する表記はありません。校門に相当するところに「木津川市当尾の郷会館」の銘板が嵌め込まれていました。地図にこの名称が記載されていますので、旧校舎が今はそのままで転用されているということでしょう。すぐ近くには、「曹洞宗寶珠禅寺」の門標を掛けた開放感溢れ、緑豊かな山門が見えます。 そのすぐ隣にも鳥居のある小祠が見えます。名前が不詳の神社があちらこちらに散見されます。 勿論地元の方に尋ねれば、名称も由緒も判明するのでしょうが、眺め筒通り過ぎるだけになりました。 そして、再び府道47号線に合流して、緩やかな府道の坂道を登っていくと、「大畑口」のバス停です。少し侘びしさを漂わせるバス停。そして、いよいよ加茂町岩船に入っていきます。 岩船寺まで400mという標識が目に止まります。 「右 岩舩寺」の石標も見えてきます。 「六地蔵石龕仏」という標示に引かれて、ちょっと寄り道をすることに。道路脇の細い坂道をしばらく登っていくと、坂道の途中にあったのがこの「一龕六体地蔵石仏」でした。 これから先には墓地があるようです。ウォーキングのメンバーから出ていた疑問は、「なぜ6体のお地蔵さんなの?」でした。一度調べてはいたのですが、記憶はおぼろげの知識に堕しており、即答できず終い。そこで、記録整理の折りに改めて事後調べ・・・・・。人は死ぬと六道(地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天)のいずれかの境涯に陥り、輪廻転生するという思想が仏教に取り込まれました。その六道に陥った衆生救済をしてくださるのが地蔵菩薩といわれています。六道のどの境涯に入ろうと、それぞれにおいて地蔵尊が救済の手をさしのべてくださるという信仰です。それぞれに地蔵尊の分身がおられるということで、六道に対して六地蔵というわけです。地獄道-檀陀(だんだ)地蔵菩薩、畜生道-宝印地蔵菩薩,餓鬼道-宝珠地蔵菩薩,修羅道-持地地蔵菩薩、人道-除蓋障(じょがいしょう)地蔵菩薩,天道-日光地蔵菩薩という風に分身が配されているそうです。他にも、この六道の順に、金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵をあてはめる説もあり、さらに異説もあるとか。(資料2,3,4)六地蔵が、墓地の入口に安置される理由がこれでよく理解できます。脇道にそれますが、調べていて知ったことを覚書として記しておきたいと思います。天台宗で重んじられる『摩訶止観』に六観音の教義が説かれていて、10世紀の中国では六観音信仰が盛んだったようです。それは、「大慈・大悲・師子無畏・天人丈夫・大梵深遠という六体の観音を六道に配し、六道に迷う人びとを浄土にみちびこうとする来世的な観音信仰」(資料4)だったとか。観音が身をかえて六道衆生を救われるとする信仰です。一方で、真言宗を中心に、「正・千手・馬頭・十一面・准胝・如意輪の、密教系の観音をそれぞれむすびつけ、これら密教の六観音こそ六道の苦を救う功徳があるのだという」(資料4)考え方もあるようです。日本では六観音信仰が中世の貴族社会に広まっていったそうです。そして、六地蔵信仰は中国ではあらわれず、「日本の天台や真言の僧によって考え出されたと思われる」(資料4)といいます。浄土教が一般民衆の間に広まって行くにつれ、地蔵信仰、六地蔵信仰が浸透して行ったようです。併せて、私が探訪先で今までに出会った六体地蔵尊の写真を載せたブログ記事もご紹介しておきたいと思います。ご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・山科 御陵・安朱を歩く -3 諸羽神社、徳林庵、山階寺跡探訪 [再録] 滋賀・大津 穴太野添古墳群と壺笠山城跡探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -2 三尾神社・長等公園・大津大神宮・慶祚大阿闍梨入定窟・小関越道標・等正寺・喜堂(峠の地蔵)ほかスポット探訪 宇治を歩く 善法・妙楽周辺 -1 善法寺・学校創立碑・「山宣」の墓わたしたちは、回れ右で、坂道を下り、岩船寺を目指します。「野仏の里 当尾観光案内図」があり、一方、野菜の無人販売所があります。タイムスリップした感じを受ける、のどかさが溢れています。つづく参照資料1) 金蔵院 :「ふるさと案内『かも』」2) 六地蔵 :「コトバンク」3) 地蔵菩薩 :ウィキペディア4) 『地蔵信仰』 速水 侑 著 はなわ新書 p63-72【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺加茂町(京都府) :ウィキペディア寶珠禅寺 :「木津川市観光ガイド」宝珠寺 :「ふるさと案内『かも』」お地蔵さまの「正体」を探る :「中原中也とダダイズム、京都時代、日本史探訪・オノコロ共和国」お地蔵さんの手っ手(てって) :「屋根のない博物館ホームページ」六体地蔵の事例 石丸神社 六体地蔵と一領具足供養の碑 :「土佐の歴史散歩」 六面六体地蔵さま(化野念仏寺) :「気まま写真コーナー」 日影・六体地蔵 :「香美町観光案内所」 彦根市 千手寺の六体地蔵笠板碑 :「愛しきものたち」 奈良市下狭川町 二石六体地蔵:阿弥陀石仏 :「愛しきものたち」 世屋の六体地蔵様 :「宮津エコツアー」 六体地蔵・毛原廃寺 :「大和路写真帳」 油屋の六体地蔵様 :「たかおか生涯学習ひろば」 六体地蔵 青森・温泉たび歩き 4日目(2)霊場恐山と薬湯 :「4travel.jp」 童形六体地蔵尊 京都・鞍馬寺 :「雍州路」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -1 まず常念寺へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -3 岩船寺・白山神社 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -4 石仏めぐり 岩船寺から浄瑠璃寺まで へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -5 浄瑠璃寺 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -6 当尾(西小)の石仏と府道歩き へ
2017.06.06
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2015年4月中旬の週末にウォーキング同好会の月例企画に参加しました。快適な天候の下で久しぶりに加茂、当尾の里を巡りました。当日は冒頭に掲げたJR関西線・加茂駅に集合です。駅前のチューリップが満開でした。歩くことを主としながら、かなり探訪の時間があって、お寺や石仏群を楽しむことができました。その記録の整理としてまとめたものを、ここに再録してご紹介します。木津川市は先日ご紹介してきた「京都・精華町」の東隣になります。今回は次のようなルートを歩きかつ探訪しました。 JR加茂駅~常念寺~金蔵院~岩船寺~当尾の石仏巡り~浄瑠璃寺~JR加茂駅距離にすると結果的にけっこう歩いたことになります。加茂駅から常念寺の地域はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。常念寺は駅の南方向です。府道44号線を歩き、関西本線を越えて南に下ると、 浄瑠璃寺・奈良の方向と岩船寺・常念寺の分岐点 常念寺は山号を多聞山と称し天台真盛宗のお寺です。もともとは、真盛上人が加茂の船屋で法話をされた際に、東大寺の大勧進盛憲(せいけん)が感銘を受けて帰依し、延徳(えんとく)年間(1489~92)に船屋に常念仏堂(念仏道場)を建てたそうです。開基は盛憲上人で、開山を真盛上人として創建。常念寺と名づけられます。ところが、1712年に木津川の氾濫で御堂が水没してしまいます。そこで、現在地にお寺が再建されたといいます。盛時は末寺10ヵ寺を数えたようです。(説明板、資料1,2,3)船屋はどこだろうかと、地図(Mapion)を見ますと、字名として船屋が今も使われています。こちらを参考にご覧ください。現在のJR加茂駅の北方向で、加茂町北、加茂町兎並あたりになります。木津川の南岸につづく地域です。船屋という名から推測すると、木津川の河川運航の津(港)として開けていたのでしょうか。 山門手前から眺めた本堂老朽化が進んだため、1990年に事業に着手し、平成8年(1996)3月に落成した本堂だとか。 山門を入ったところに手水舎があります。 竹筒を象った水の注ぎ口にちょこんと蛙が乗っているのがおもしろいところ。丘陵地に移転したことで、お寺の境内は数段の平坦地になって広がっています。 本堂 本尊は等身大の阿弥陀如来立像が安置されているそうです。室町時代の造立と推定される仏像だとか。(資料3)境内の拝見だけでしたので、未見です。 本堂の建てられている境内地の端に、小さな池が造られています。可愛らしい石橋があり、その傍に「赤田橋」と刻された石標があります。ひょっとしたら、船屋に常念寺があった頃の名残りの石標でしょうか・・・・。 腰板で囲われた鐘楼 「子安延命地蔵尊」という扁額が掛けられた地蔵堂 弁財天を祀る御堂弁財天堂よりも一段高みの境内の一隅に、五輪塔や南無阿弥陀仏の名号が刻まれた石碑や板碑、そして石仏などが一列に並んでいます。背後にある大きな石碑は戦没者慰霊碑でした。 「舎利堂」この舎理堂は檀信徒の方々の先祖供養が行えるために新たに建立されたのだそうです。 そして、さらに一段高いところに、「平和観音像」が建立されています。 これは2000年に落慶法要されたそうです。上掲の舎利堂を見おろす位置関係になっています。 この平和観音の背後には、恵安石にレリーフされた釈迦三尊像と十六善神像が祀られています。幅10m、高さ5mの円弧状大きなレリーフです。つまり、常念寺の境内の高みから加茂の街中を、釈迦三尊像、平和観音像そして十六善神などが、見守っておられる感じです。この後、常念寺の前の道路を東に向かい、南加茂台の住宅地の傍を通る府道47号線沿いに歩いていきます。つづく参照資料1) 『京都府の歴史散歩(下)』 山本四郎著 山川出版社 p2002) 常念寺 :ウィキペディア3) 常念寺 :「木津川市観光ガイド」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺大勧進 :「コトバンク」勧進 :ウィキペディア 東大寺大勧進職についての説明もあります。十六善神 :ウィキペディア釈迦三尊十六善神像図 西大寺所蔵 :「奈良地域関連資料画像データベース」加茂船屋雛まつり :「木津川市」京都府木津川市 加茂船屋雛まつり :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -2 金蔵院・大畑口・六地蔵石龕仏 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -3 岩船寺・白山神社 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -4 石仏めぐり 岩船寺から浄瑠璃寺まで へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -5 浄瑠璃寺 へ歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -6 当尾(西小)の石仏と府道歩き へ
2017.06.06
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矢倉小学校のすぐ南に国道1号線の野路町交差点があります。この交差点で一旦「かがやき通り」に入り、再び旧東海道に入ります。冒頭の「教善寺」というお寺が見えて来ます。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 [歩く&探訪時期:2015年12月」 浄土宗のお寺で、本誓山来迎院教善寺という名称です。「びわ湖108霊場」の第101番札所であり、「近江湖南二十七名刹霊場21番札所」でもあります。本尊は阿弥陀如来立像です。(資料1,2)『近江国與地志略』には、野路村にあり、承応二癸巳年建立、知恩院の末寺だと記載されています。(資料3)鐘楼前の道路脇に、「草津歴史海道 東海道」の説明板があります。矢倉地区から野路地区に入ってきたところです。 教善寺の近くで見かけた建物教善寺の西に進むと、旧東海道に面して「遠藤権兵衛家」があり、この民家の庭に「平清宗」胴塚と伝えられる供養塔があるのです。 平清宗は父宗盛とともに、文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いにおいて義経により生け捕りとなります。鎌倉まで連れて行かれるのですが、このとき頼朝は義経が鎌倉入りすることを認めず、追い返します。近江まで戻ってきた義経の命により野洲篠原で宗盛が首を刎ねられ、この野路において文治元年6月21日、清宗は堀弥太郎景光により首を刎ねらたと伝えられています。清宗は17歳だったといいます。その首は京都六条河原に晒されたのです。(説明板より)遠藤家のご好意で、庭に入りこの供養塔を拝見することができます。よく見ると、宝篋印塔と五輪塔の残闕を組み合わせて供養塔にした感じです。宝篋印塔の塔身は普通は立方体ですが、この供養塔には五輪塔の水輪にあたるものが塔身に使われているからです。宝篋印塔において格狭間のある基礎の下に、少しサイズの小さい方形の石が置かれていますが、ひょっとしたら五輪塔の地輪にあたる石なのかもしれません。これはあくまで私の印象ですが。いずれにしても、上記の伝承がある故に、特に諸行無常の一端を感じる供養塔です。この野路町にも史跡・遺跡案内板が設置されています。歴史探訪者にとては重宝する情報提供となっています。その先に「新宮神社」の鳥居があります。鳥居の手前左右に、「新宮神社」「都久夫須麻神社」石標が立っています。この神社は今回通り過ぎるだけになりました。都久夫須麻神社とは「竹生島神社」のことです。この都久夫須麻神社は「新宮神社」の境内社の一つという位置づけです。竹生島から勧請されたのでしょう。新宮神社の祭神は、速玉男命・事解男命 です。(資料4)ここからは旧東海道を離れ、立命館大学のびわこ・くさつキャンパスを目指しました。 草津市野路東に立命館大学のキャンパスが誘致される折りの発掘調査で「木瓜原(ぼけわら)遺跡」が確認されました。木瓜原の中心部である製鉄炉の部分が「製鉄炉地下保存施設」として、キャンパス内にある上掲の総合グラウンドの下に、地下保存遺跡として保存されています。大学に事前申請しておくと、その地下保存施設を見学できるのです。今回はJR草津駅からロクハ公園に歩く途中で迂回して、この遺跡の見学できるように今回のウォーキングのリーダーが行程を企画し、見学の手続きをしていてくれました。かなり前に、この遺跡のことを新聞で知り、一度見学してみたいと思っていたのでうれしい限りでした。これは当日キャンパスでいただいたリーフレットです。広げるとA3サイズよりも一回りおおきなものになり、片面には折りたたんだ表紙の写真の遺跡区域が当時の復元想定図として描かれています。そしてこの「木瓜原遺跡」の簡略な説明が記載されています。この遺跡は7世紀末~8世紀初頭のものだそうで、副題にあるとおり「古代の製鉄コンビナート」ともいうべき総合生産遺跡だとか。製鉄、製陶(須恵器すえき・土師器はじき)から梵鐘の鋳造まで生産していたと推定されています。このキャンパス域での発掘調査は13万㎡に及び、周辺に分布する一部の木炭窯を除いては、ほぼ遺跡の全体が調査されたそうです。(資料5)ここは琵琶湖との比高が50mほどあり、なだらかな瀨田丘陵の一画になります。南西に方向4kmほどには近江国庁が位置します。この瀨田丘陵地帯では、他に製鉄遺跡として源内峠遺跡、野路小野山遺跡が確認されています。私は源内峠遺跡を一度探訪に行ったことがあります。製鉄遺跡の一部遺構の状況が復元されていました。これは保存施設を出る際に階段を撮った画像ですが、グラウンド傍にある「製鉄炉地下保存施設」は結構深いところに位置します。 階段を下りきったところにこのイラスト図が掲示されています。保存施設は、製鉄炉遺跡の周囲に回廊が巡らされていて、この通路を周回して遺跡を見学できるのです。 これはリーフレットに掲載の施設図を引用させていただきました。これは入口側とは反対の北北西地点、上掲設備図の上辺側通路から眺めた調査用トレンチです。この製鉄遺跡の内部構造を調査するために掘られた調査溝です。合計5本のトレンチが掘られています。 南東寄り、つまり設備図下辺の通路端近くからの全景見学を終えて、キャンパスから目的地のロクハ公園に向かいます。名神高速道路を挟み、北側に位置します。JR南草津駅との位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。 ロクハ公園 南ゲート 「ロクハ」というのが何に由来するのかと調べて見ると、この地は昔は「緑波」と記されていたそうです。木々の緑を映して静かに水面が波打つ「緑波池」があり、この名前が由来となっているのです。緑波→リョクハ→ロクハという形で訛って変化をしたといいます。(資料6) 南ゲートの傍に駐車場エリアが西に、お花見広場が東側にあります。ロクハ池の西から北方向に、キャンプ広場、ピクニック広場、多目的広場、室内・屋外プールとつづくゆったりとした公園です。右の写真は、南ゲートの近くにある案内図。この公園のエリアガイドはこちらをご覧ください。入口から少し中に入っていくと、ロクハ池が樹木越しに見えます。かなり大きな池です。 公園の一隅に「愛こそが平和をかなえる」という一文の銘碑を置いたモニュメントが建立されています。公園内のバーベキュー広場の一隅で、同好会恒例の闇鍋会を実施。宴を終えた後は、正面ゲートの方からJR南草津駅に向かいます。 正面ゲートの近くにある花畑 川原池 正面ゲートのそばにこの池があります。 「若人」と名づけられた彫刻像が目にとまりました。 東矢倉南の交差点 JR南草津駅が今回のウォーキングの終着点でした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 第百一番 本誓山来迎院 教善寺 :「びわ湖108霊場」2) 教善寺/滋賀 :仏像ワンダーランド3) 『近江国與地志略 上』 :「近代デジタルライブラリー」 173/214 コマ目上段に見出し項目があります。4) 新宮神社 :「滋賀県神社庁」5) 「木瓜原遺跡」 立命館大学 当日いただいたリーフレット 6) ロクハの由来 :「草津市公園事務所・ロクハ公園」補遺木瓜原遺跡古代製鉄炉の見学受付 :「草津市」木瓜原遺跡 :「立命館大学 学園通信RS」木瓜原遺跡 :「立命館大学 秘密の扉 +R」技術者の系譜~古代近江の金属生産~ 栗東歴史民俗博物館瀨田東文化振興会・源内峠遺跡復元委員会新近江名所圖会 第23回 源内峠遺跡-甦った古代の製鉄遺跡- :「滋賀県文化財保護協会」野路小野山遺跡発掘調査概報 :「全国遺跡報告総覧」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 滋賀・草津 JR草津駅からロクハ公園 -1 旧東海道沿いの史跡点描 へ探訪 [再録] 瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて -4 近江国庁遺跡他 へ
2017.05.25
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2015年12月、ウォーキング同好会の例会でJR草津駅前に集合し、ロクハ公園を目的地とするルートを歩きました。この時の行程において目に触れたもの、また立ち寄り少し探訪した史跡などを点描しつつ、まとめたものを再録しご紹介します。冒頭の写真は、草津駅前の商店街を抜けた道で見かけた道標です。地蔵尊の小祠が旧草津川のトンネルまでにもう一つありました。旧草津川は有名な天井川です。現在の旧東海道にはトンネルを抜けて繋がっています。 旧草津川のトンネル内壁画です。旧街道筋の風景、草津川の渡し、萩の玉川が描かれています。草津川の渡しは、歌川広重が「木曽海道六拾九次之内草津追分」として描いています。(資料1)トンネルを抜けると、東側には中山道と東海道の分岐点の道標が立っています。「追分道標」と称され、ここはかつては草津宿の追分見付と呼ばれていた場所です。1816年に建てられたもので、「街道を往来する諸国定飛脚の宰領中から寄進された火袋付きの常夜灯」なのです。(資料2)現在の火袋は木製ですが、『栗太志』(文政4年[1821]頃の作成)には、当時は銅製だったことが記されているそうです。(資料3)かつてのトンネルはアーチ型のものだったのです。「写真で見る滋賀の20世紀」に「草津川トンネル付近」、1962年頃の写真が公開されています。こちらからご覧ください。これは明治19年、馬車や人力車が通行できるように掘られ、アーチ型レンガ造りの隧道だったそうです。この当時の隧道の扁額が現在は追分道標の傍に保存されています。追分道標から道路を挟んで向かい側に、かつての「高札場」が再現されています。そのすぐ傍に草津市民センター(草津公民館)があり、その前のスペースに見るべき物がいくつかあります。6143,6142最初に目にとまったのが左の写真のポストです。「書状集箱」という文字が見えます。でも、これは現役のポストなのです。傍に立つ駒札には、「このポスト(書状集箱)は、明治4年(西暦1871年)郵便創業時使用していたものと同じ型のものです」と説明されています。ここに投函されたものも、他のポストと同様にちゃんと取り集めされるのです。もちろん、その点も付記されています。その右側に、歌碑と「草津歴史街道」として「東海道」についての説明板があります。「草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った」という経路でした。「草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほか多数の社寺が立ち並び、70軒を超える旅籠をはじめ500軒以上の町家があった」(説明板より)そうです。また、歌碑に刻まれた歌は、 近江路や秋の草つはなのみして 花咲くのべぞ何處ともなき室町時代の歌人堯孝法師(1390~1455)が詠んだ歌で『覧富士記』に所載だそうです。頓阿の曾孫で、応永21年(1414)には二条派の中心歌人だったとか。永享4年(1432)に、将軍足利義教(よしのり)のお供をして富士を見に行く途上で、この草津に来て詠んだと言います。「近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかりで、秋の草花が咲いた美しい野辺を思い描いていただけに心寂しい思いをするものだよ」という歌意です。(説明板より)裏返せば、室町時代には既に、草津は交通の要衝地としてかなりの賑わいの町となっていたということでなのしょうか。 説明板の南隣りに彫刻作品があります。これはこのポケットパークにある街角彫刻。鈴木典明作「時の旅人」と名づけられた平成10年製作の作品です。調べて見ると、草津市の「人と環境にやさしいまちづくり」の一環として、街角に設置された28基の彫刻の一つです。「本作品は、人体とその軌跡は過去から旅を続け、人が行き交う時間性を表現しています。また、過去から現在、そして未来へと人が通い発展していく草津市を作者の願いとして表現しています。素材としては、ステンレスを使いステンレス棒の集積で人体とその軌跡を表現し、それぞれに行き交う人が一部交って、その時間の経過を同時に表現しています。」(資料4)という意図が込められているようです。草津市はこの東海道と中山道が交わる地です。まさに多くの人々が絶えることなく互いの目的地をめざして行き交ってきた地点。今も、これからも、行き交う場所、接点です。一瞬の人々のすれ違いはどれだけの数になることでしょう。互いに認識することなく、再びこの場所で行き交うことの可能性も無限に低い行きずりの機会という接点が集積・凝縮されているように感じます。流動感があり、おもしろい造形です。素材が青銅という金属でなく、ステンレスというのも行き交うだけという無変質性・無機質性に繋がる感じを生み出しています。旧東海道を西に進みます。 草津宿本陣 徳川家康は、慶長6年(1601)に「五街道整備」に着手し、「宿(しゅく)」を制定します。これにより、江戸・日本橋から京都・三条大橋に至る宿駅が53ヵ所、つまり東海道五十三次が誕生するのです。徳川幕府は実際には京都-大坂間の街道も一体整備していきます。草津は五十三次でいえば、江戸より数えて52番目になります。東海道松並木や一里塚は慶長8年に整備されます。参勤交代が制度化されるのは1635年で、三代将軍家光の時代、武家諸法度の改正によるもののようです。しかしその前例は、慶長7年(1602)前田利長が母を人質として参勤したのが最も早い事例となるそうです。参勤交代の制度化が、大名の泊まる宿の常設整備を必然化したのでしょう。(資料4,5)尚、休泊施設としての宿を「本陣」と称するようになった起源は、「室町幕府の二代足利義詮が上洛に際して、その旅宿を本陣と称し宿札を掲げたことに求められます。」(資料3)天保14年(1843)の「宿村大概帳」には、この草津宿には2軒の本陣、2軒の脇本陣が記載されていて、この画像の本陣は、「田中七左衞門本陣」だそうで、寛永12年(1635)に本陣職を拝命したと言います。明治3年(1870)に本陣が廃止になるまでは、代々本陣職を勤めたそうです。(資料3)史跡草津宿本陣の館内図はこちらをご覧ください。(ホームページの「館内紹介」) 登録有形文化財に指定されている「吉川芳樹園店舗兼主屋」江戸末期の建造物だとか。「平入り正面上部の虫籠窓の意匠や漆喰で塗り込められ出桁(だしけた)などが町屋らしい雰囲気をかもし出しており、鬼瓦には文政13年(1830)の銘がみられます。街道に並行した切妻造の背面で、棟が直交するT字形の屋根の形式となっており、草津宿の町屋に見られた特徴を持っています。」(登録説明銘板より)また、この家は「脇本陣藤屋与左衛門家」にあたるそうです。こちらは「草津宿街角交流館」です。近江関係の浮世絵を主体とした中神コレクション、全国の記念切符や駅弁の掛け紙、観光パンフレットなどを中心とする山口正コレクション、そして道中案内記・古文書類などの館蔵品が見られるようです。(資料7)その先にあるのが、「太田酒造 道灌蔵」です。江戸城築城の祖と言われる太田道灌を祖先にもつ太田家は、東海道と中山道が交わり、琵琶湖の水運とも関わる要衝の地であるこの草津で関守を務めてきたそうです。廃藩後、明治7年に近江の良質な米をもとにした酒造りを始めたのだとか。現在は、ワインから日本酒・焼酎まで幅広く手掛ける「日本一小さな総合酒類メーカー」だそうです。清酒のブランド名はズバリ「道灌」なのです。(資料8,9) 道灌蔵の先、旧東海道と県道141号線の交差点が立木神社前です。小川に架かる橋の先が「立木神社」です。 朱塗りの橋を渡ったところに、御神鹿の像が配されています。立木神社の縁起によると、称徳天皇の時代・神護景雲元年(767)に武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、常陸国(現在の茨城県)にある鹿島神宮を白鹿に乗り旅にでて、諸国を巡った後、この地に至り、手にしていた柿の鞭を現在の社殿近くに刺されたそうです。その柿の鞭が木としてこの地に生え育つならば、奈良の三笠山に鎮まろうと告げられたとか。刺された柿の鞭が、柿の木として生え根付き、枝葉が茂って行ったそうです。里人はこの木を崇めたのだとか。神殿を建てて社名を立木神社と称したと伝わるのです。(資料10)境内を入った近くに、県内最古の石造道標が移設されています。傍に説明板があります。そこにこの道標の刻銘が原文通りに記されています。それによると、画像に見える正面が南面でそこに左・東海道伊勢道、西面に中山道多賀道を意味する文字が刻まれています。この道標は、「東海道と中山道との分岐点である草津宿の中央部に位置する追分の地に建てられていたことがうかがわれ、現在の草津追分に建てられている文化13年銘石道標(1816年)の前身のものと推定されます。」(説明板より)また道標の刻銘内容から、京都壬生村のあしだの行者万宝院という人が、伊勢神宮と京都・愛宕神社に7年間毎月参詣し、その記念に延宝8年(1680)11月に建立したということがわかるのです。南面上部には、不動尊を示す種子カーンの梵字が刻まれています。道標の斜め後には、「自然公園 立木の森」という石碑が見えます。境内の東面、旧東海道に面する側の石造鳥居です。 こちらが神社の正面です。 鳥居の手前に石造の狛犬が配されています。6175,6176鳥居をくぐって石灯籠の並ぶ石畳の参道を歩くと、そのさきに築地塀と楼門が見えます。先ほどの朱色の鳥居から境内に入ってきた場合の先がこの石畳のところになり、「手水舎」がその間に位置していることがおわかりいただけるでしょう。手水舎の右斜め手前に建立されているのが、日本の新聞学研究の開拓者とされる「小野秀雄」(1885~1977)の顕彰碑です。傍にこの説明銘板が設置されています。小野秀雄はこの立木神社の中臣家第38代宮司の子息だそうで、新聞学研究の礎を築き、日本で最初の新聞発達史を出版したといいます。1955年に研究の功績に対し、日本新聞協会から新聞文化賞を授与されたそうです。築地塀と楼門の間には空間があります。楼門は四脚門です。この門は、室町時代・長享元年(1487)に9代将軍足利義尚(よしひさ)が栗太郡鈎村に在陣した時に、武運長久を祈願し奉建したものと言います。(資料10)楼門にも扉がありませんので、境内の中にある一種の結界という感じを受けます。幕に記されているのは立木神社の神紋です。手許の本に載る紋章の一覧では九条藤と呼ばれる紋章によく似ています。 拝殿と境内にある末社群 本殿本殿は屋根しか見えませんが、三間社流造で間口三間・奥行三間の建物です。祭神は武甕槌命。「延暦(えんりゃく)20年(801年)、征夷大将軍坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)将軍が、東北鎮圧に際して、当社にて道中安全と厄除開運を祈願され大般若経一部を寄進しました。この霊験に由来し、現在では厄除開運・交通安全の守護神として崇敬を広く集めています。」(資料10)ウォーキング行程での立ち寄りでしたので、末社群や本殿などの細見ができませんでした。 立木神社の先には、現在の草津川が流れ、矢倉橋が架かっています。橋を渡ると、「矢倉」地区です矢倉にも、草津の地酒銘柄「天井川」の蔵元があります。この銘柄は「地元・草津市内産無農薬有機栽培の日本晴で醸し、名前も市民からの公募により決めた地元に根付いたお酒。地元の酒屋や飲食店に並ぶ分だけを仕込むという、まさに地域限定酒」(資料11)だとか。 その先に、「瓢泉堂」があり、その建物の傍に道標が立っています。「右矢橋道」とあり、近江八景の一つ「矢橋帰帆」は歌川広重の絵で有名です。琵琶湖岸の港町として栄えた「矢橋」です。「矢橋道」の終着点になります。琵琶湖と東海道がこの道で繋がっているのです。(資料12)道標には「これより廿五丁 大津へ船わたし」と刻されています。廿五は二十五です。また、お店の正面の窓のところに、「矢倉立場」の説明板が掛けられています。「東海道五十三次の52番目の宿場・草津宿の南に続く矢倉村。立場とは、宿場と宿場の間に茶店などが設けられ、旅人が杖を立てて休んだことからついた名で、矢倉村には草津名物の『うばがもち』を売る店があった。この地にそのうばがもちがあり、歌川広重の浮世絵や『東海道名所図会』『伊勢参宮名所図会』などに、旅人が立ち寄って、うばがもちを賞味する光景が描かれている。 また、ここからは対岸の大津へと琵琶湖の湖上を渡る『矢橋の渡し』の渡し場である矢橋湊へ続く矢橋道が分岐していた。浮世絵などにも描かれた道標が、今も軒先に建っている。旅人は、俗謡に”瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろかここが思案の乳母が餅”と詠まれ、旅人の多くは、ここで東海道を瀬田橋まわりで行くか、矢橋道を経て、矢橋湊から船で大津へ渡るかを思案した。 そして、この地と矢橋の渡し、瀬田橋は、よく使われる俚言で”急がば回れ”の語源になったところでもある。」(説明文転記)そして、末尾に『醒睡笑』に載る 武士のやばせの舟は早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋 を引用して、「近道であっても、湖上が荒れて舟が出なかったり、風待ちをしたりする矢橋の渡しを利用するより、回り道でも瀬田橋まわりのほうが着実であることから、成果を急ぐなら、遠回りでも着実な方法をとる方が良いことを指南したのである。」と「急がば回れ」の出典とその意味に言及しています。『醒睡笑』は京都の僧侶・安楽庵策伝が庶民の間に流行した話を集めた笑話集で、落語の原典になったとも言われる本です。京都所司代・板倉重宗の依頼でこの書をまとめたと言われています。京都の三条通に比較的近く、新京極通の繁華街の真ん中に京都誓願寺があります。慶長18年(1613)にそのお寺の55世となった著名な僧侶です。(資料13)また、浮世絵は歌川広重筆「東海道五十三次草津」。うばがもちやの店先風景です。瓢泉堂は、江戸時代より酒や水を入れる容器として使われてきた瓢箪を、現在は縁起物、装飾品として商われているお店です。隣にある駐車場の傍に、この地元風景の案内板が掲示されています。 矢倉地区の東海道沿いには、愛宕神社や稲荷神社も祀られています。 また、矢倉小学校の正門が旧東海道に面していて、校門近くの柵に「東海道」の木札が掛けられています。つづく参照資料1) 史跡 旧草津川(天井川) :「草津まるごとガイド」2) 史跡 追分道標 :「草津まるごとガイド」3) 草津宿・本陣について :「草津宿」4) 街角彫刻作品 :「草津市」5) 東海道 :ウィキペディア6) 参勤交代 :「コトバンク」7) 館蔵品紹介(草津宿街道交流館) :「草津宿」8) 太田酒造 道灌蔵 :「滋賀・びわ湖 観光情報」9) 太田酒造株式会社とは :「太田酒造株式会社」10) 「立木神社」ホームページ11) 特別純米原酒 天井川 :「蔵元女将に憧れる日本酒好きライター」12) 矢橋 :ウィキペディア13) 安楽庵策伝 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺草津宿 ホームページ草津宿 :ウィキペディア 歌川広重の『東海道五十三次・草津』『木曽街道六十九次・草津』両方の浮世絵が載っています。古川酒造有限会社 :「彼処にあの酒、此処ににこの酒」滋賀県の酒蔵 :「滋賀 地酒の祭典」矢橋 :「コトバンク」瓢泉堂(株)瀬川元 :「草津まるごとガイド」瓢泉堂 ホームページ醒睡笑 :ウィキペディア東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編] : 「古典籍データベース」(早稲田大学図書館) 巻2の26コマ目が「矢橋」港、同30コマ目にうばがもちや・立場の絵が載っています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録」 滋賀・草津 JR草津駅からロクハ公園 -2 平宗清の胴塚・木瓜原遺跡・ロクハ公園ほか
2017.05.24
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長寿寺を後にして、湖南三山の3つめの「善水寺」までは、まさにウォーキングの同好会本来の「歩き」です。 [歩く&探訪時期:2015年9月]長寿寺のバス停を東に少し行った交差路を左折し、北方向に緩やかな傾斜路を下って行きます。東寺地区、柑子袋(こうじぶくろ)地区を通る道を歩き、旧東海道に至ります。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。あとで地図を確認すると、冒頭の標識は、広野川落合川緑地と記された場所の少し手前、南柑子袋のバス停近くで目にしたことになります。その近くに、まださほど年月を経ていない感じの石碑があります。松尾芭蕉の句碑です。 句碑 山路来て何やらゆ可しすみ禮草 山路来て何やらゆかし菫草傍にまだ設置されて間のない説明板が立っています。石碑は平成6年(1994)に旧甲西町が公園を整備する時に建立されたようです。説明板は「平成躑躅社中(270名)」が設置されたもの。俳句の団体なのでしょう。句碑に刻された草書体を私は判読できませんが、説明板に枠囲みで記されたものが、上記の句碑と冒頭に記した方の句です。下の句はわかりやすく書き直したもの。説明板を一読し、この句がなぜここに建立されているのか要領を得ないまま、通過しました。川沿いの道を進むと、対岸の森に見えたのが「上葦穂(かしほ)神社」の石鳥居です。ここは通過点になりました。調べてみると、祭神は伊邪那岐命と国常立命です。由緒は「孝徳天皇の白雉元年二月に阿星嶽より五色の御旗が降り祀られたのが創祀と伝えられている」とか。明治44年に現在の社号に改称される前は「白雉神社」と称されていたようです。(資料1)そして、旧東海道に出て、ここからまずは、JR草津線甲西駅にほど近い針756番地にある「北島酒造」をリーダーが立ち寄り地点にしていました。柑子袋地区の東隣・平松地区の旧東海道沿いの民家前にあったのが、この「高木陣屋跡」の説明板です。元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が文化年間(1804~1817)に建てた宏壯な二階建て陣屋があった場所だという説明です。「北島酒造」は創業文化2年(1805)という地元の蔵元です。(2014.9.13撮影)今回のリーダーがここに立ち寄る試飲タイムを設けました。この蔵元で醸造された各種のお酒をその場で試飲して、気に入ったものを即購入できます。参加メンバーには、勿論即決購入者も何人かいました。余談ですが・・・・。JR甲西駅から善水寺までの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。針から夏見地区の中間地点あたりで左折し、野洲川に架かる甲西中央橋を渡って岩根西口バス停を経由して、岩根地区にある「善水寺」をめざします。旧東海道の「夏見一里塚」の位置標識のタイルが道路の端に埋め込まれています。今回この「夏見一里塚」の説明板が新しく建てられていることに気づきました。 夏見一里塚の反対側に、少し奥まってこの石碑が建てられています。左の画像は、三雲城跡の探訪(2015年2月)に参加した時、この夏見を通過するときに撮ったものです。右の画像は、今回近くから石碑を撮ってみました。ここは、地元の方が「愛宕さん」と称されるものだとか。石碑には、鳥居が刻み込まれていて、鳥居の中に木札が嵌め込まれています。何が記されていたのか全く不明ですが、祭神名あるいはお札なのかも知れません。京都の総本宮・愛宕神社のお札なら「阿多古 祈符 火迺要慎」が有名です。明治より前の神仏習合時代ならば、ここは愛宕大権現を祀り白雲寺として知られていたところです。現在は本殿に祭神として、「 伊弉冉尊(いざなみのみこと)、埴山姫神(はにやまひめのみこと)、天熊人命(あめのくまひとのみこと)、稚産霊神(わくむすびのかみ)、豊受姫命(とようけびめのみこと)」の五神が祀られているようです。(資料2)まずなによりも火付せ・防火に対する霊験が信仰されていることでしょうから、祈符かなと推測します。デジカメのバッテリーの予備を持参していませんでしたので、この後やむなく善水寺までの行程は写真を撮るのを止めました。野洲川の眺め、善水寺を中腹に抱く岩根山の全景など、道中何カ所か撮りたい景色がありましたが、また訪れる機会に・・・と断念。「正栄寺」への石段前の鋪装道路を上ってくと、善水寺への標識があり、山道を登って行きます。正栄寺は浄土宗のお寺です。調べてみると、「甲賀組第一部法然上人二十五霊場(滋賀県)」の第3番のお寺で、本霊場が十輪寺でその写し霊場という位置づけのようです。本尊は阿弥陀如来像です。(資料3)善水寺を中腹にいだく岩根山(標高405m)は、「十二坊」という通称で知られています。天正年間(1573~1592)に、この山に12の僧坊があったことに由来するそうです。(資料4)ウォーキングですので、ちょっと急な坂道もある最短ルートを登ったことになりますが、現在は善水寺の本堂から5分程度のところに駐車場がありましたので、車なら岩根山の中腹までそのまま来て、平地感覚で本堂にアクセスできます。このお寺はもともと、奈良時代和銅年間(708~715)に元明天皇の勅願により、鎮護国家の道場として草創され、当初は和銅寺と号したといいます。(資料5,6)そして、平安時代・延暦年間に伝教大師最澄が、延暦寺ができる前に、ここに居住していたそうです。その時の最初の伝承が、医王山の頂上で最澄が行ったという薬師仏を本尊としての請雨祈祷です。さらに「平安時代初期、最澄が桓武天皇の病気平癒祈祷を和銅寺で行い、薬師仏の水を天皇に献上したところ病気が治ったことから、『善水寺』という号を賜ったと伝えられる」(資料4)のです。薬師仏の水というのは、山中のお堂の東側に百伝池(ももづてのいけ)があり、「池中より一寸八分、閻浮檀金の薬師仏を勧請され、その薬師仏を本尊とされ」ていたのです。この霊仏が出現された池の水を以て祈祷を行われ、その霊水を天皇に献上したということを意味しているのです。(資料5)閻浮檀金(えんぶだんごん)というのは、「閻浮樹の大森林を流れる川の中から出るという、美しい砂金」(『大辞林』三省堂)のことです。閻浮樹は「インドに自生する、深紫色の果実をつける落葉小高木の名」(同書)です。平安時代に、藤原俊成が「家集」に岩根山を詠み込んだ歌が収載されているようです。 行末を思ふも久し君か代は岩根の山の峰の若松また、百伝池は岩根の池とも称されていたのです。「万葉集」の時代に既に歌が詠まれているようです。 百伝の岩根の池になく鴨をけふのみ見てや雲かくれけむ 万葉集巻三 また次の歌も紹介されています。(資料6) 汲て知る人もあらなし思ふこと岩根の池の言し出ねば 右近 堀川次郎百首 くちなしにいかては匂はん百伝の岩根の池の山婦喜の花 公朝 夫木集 かくとたに岩根の池にせく水の深きにつけてもらしかねつも 頓阿 草菴集お寺の山号は「岩根山」。この岩根山に由来するのでしょう。江戸時代には、「岩根山医王院善水寺」と号したそうです。医王院は天和2年(1682)に東叡山輪王寺が与えた号なのだそうです。(説明板、資料6) 本堂(国宝)桁行7間、梁間5間、入母屋造、檜皮葺の建物です。常楽寺や長寿寺のような向拝はありません。現在の建物は南北朝時代・貞治5年(1366)に建立されたものです。諸資料ではこの年で説明されています。ただし説明板には貞治3年(1364)の建立と説明されています。 本堂正面には「善水寺」の扁額が懸けられていて、中央の一間だけが桟唐戸で、左右の各三間は内開きの蔀戸(しとみど)が嵌められています。正面の左端の一間の蔀戸が内側に開けてあるのがおわかりいただけるでしょう。 このズームアップでわかりやすいと思いますが、組物は斗栱が一手先物、つまり出組の様式です。長押の上には間斗束がのっています。堂内の拝観は、正面を左側に回り込み、廻縁の反対端で靴を脱ぎ、廻縁伝いに正面の桟唐戸の入口から入ります。本堂内は残念ながら撮影禁止です。入ったところが桁行七間・梁行二間の礼堂(外陣)です。外陣と内陣の間は、長寿寺と同様に、格子戸と菱欄間によって仕切られています。内陣は桁行五間・梁間二間で、両脇は桁行一間ずつの脇陣となっています。背後に、奥行き一間の後戸(後陣)があります。堂内でお坊さんが説明をしてくださいました。外陣には左右に、木造金剛力士立像(平安時代作、国重文)があり、印象深いです。本来は仁王門に配されていたのでしょう。内陣は中央の須弥壇の上に入母屋造・柿(こけら)葺きの大きな厨子(室町時代作、本堂の附指定の国宝)に秘仏の薬師如来坐像が安置されれています。後陣には、木造の増長天と持国天の立像(ともに鎌倉時代作、国重文)、木造の兜跋毘沙門天立像・僧形文珠坐像・不動明王坐像(いずれも平安時代作、国重文)、金銅誕生釈迦仏立像(奈良時代作、国重文)などが安置されています。本尊並びに諸尊は、「善水寺」のホームページでご覧になれます。こちらからご覧ください。 本堂正面の左側の庭園(一部)2668本堂正面の右側に「百伝の池」があります。中島に弁才天が奉安されています。「百伝弁才天」です。(資料5) さらに右側には「善水元水」という駒札が立ち、「善水寺と善水の由来」碑が建てられています。由来は上記の主旨が記されています。その善水が湧き出て百伝の池となっているのです。「百伝の池前、50m下の岩石ばかりの中を3ヶ月の月日をかけ掘削し汲み上げた清淨水」がここで頂けるようになっています。平成4年(1992)に掘削寄進されたと記されています。 汲み上げられた水が注ぐ傍の石段の先には、「六所権現」の堂があります。善水寺開創より鎮守の神として祀られているのです。伊勢、春日、加茂、熱田、鹿島という六所の神々がここに奉安されているそうです。延文5年、元禄2年の善水寺の炎上のおりにも、この六所権現は幸いに残ったといわれています。(資料5,6) 元水より右側に「元三大師堂」があります。本尊は元三慈恵大師良源大僧正の等身大像が祀られています。大師の自作なりとの伝承があったようです。古昔大師堂の跡に、江戸時代・正徳3年(1713)に再建されました。(資料5,6) 鐘楼堂江戸時代・寛文3年(1663)に鐘楼が建立され、天保5年(1834)に石垣が新調されたとか。(資料5)今回、拝見して回る時間がなかったのですが、観音堂・地蔵堂・行者堂などもあります。観音堂の傍に、磨崖仏があるのです。これを見たかったのですが・・・・。駐車場に近いところに、こんな案内板が建てられています。善水寺、探訪すべき場所が残りました。次回探訪の課題です。善水寺の駐車場までの車道を、もちろん歩いて下ります。下って行く途中にあるのが「不動寺」。清涼山不動寺と号します。本尊は不動明王で、大きな自然の岩に磨崖仏として刻まれたもの。磨崖不動明王尊。この画像の観音立像の背後に見えるのが、舞台造り(懸造り)の本堂で、間近に建てられた堂内からから磨崖仏を拝むことができるようになっているようです。階段を上ってみましたが、扉が閉じられていました。お堂の下の周囲を回ってみると下から見上げる形で、磨崖不動明王尊を拝見できました。バッテリー切れで写真は撮れず! 残念。磨崖仏の左の脇に「建武元年三月七日卜部左兵衛入道充乗是造之」の銘が刻まれているそうです。建武元年は1334年。鎌倉時代の作です。後は、ひたすら山を下り、JR三雲駅に向かいました。最後に脇道に逸れる蛇足ですが、上掲の芭蕉の句についてです。後智恵で調べ直してみたことを、覚書にしておきます。手許にある岩波文庫の『芭蕉俳句集』(中村俊定校注)、『芭蕉紀行文集』(中村俊定校注)を参照した程度の感想です。『野ざらし紀行』は、芭蕉が貞享元年(1684)8月中旬に江戸を出立し、翌2年4月下旬に江戸に帰着した旅の紀行です。『野ざらし紀行』が芭蕉著・月下編として出版されたのは「明和5年刊」となっています。明和5年は1768年です。貞享元年には、伊勢~伊賀上野~大和・竹内村~吉野山~今須・山中~大垣~伊勢・熱田~名古屋~熱田と巡り、故郷の伊賀上野で芭蕉は越年します。「やまとより山城を経て、近江路に入りて美濃に至る」という文は、貞享元年に吉野山の「先後醍醐帝の御廟を拝む」と記し、句を載せた直後の一文です。貞享2年には、伊賀~奈良・二月堂~京都・鳴滝~伏見・西岸寺~水口~名古屋という風に巡って行きます。 句碑に記された句は、伏見の西岸寺を訪れた時の句の次に、「大津に出る道、山路をこえて」と記して、 山路来てなにやらゆかしすみれ草と句を詠んだという記載です。この句の次は、「湖水の眺望」という前書きで 辛先の松は花より朧にてと詠み、「水口にて二十年を経て、故人に逢ふ」と続けていきます。芭蕉がこの句を詠んだ場所は全く違うようです。句のイメージをこの甲西の地になぞらえたということなのでしょう。もう一つ、手許の『芭蕉俳句集』によれば、芭蕉の『野ざらし紀行』の「山路来て」の句は、この同句形、つまりこの字句通りに『甲子吟行』に載せて安永9年(1780)に出版されているのです。一方で、 白鳥山 何とはなしになにやら床し菫草 (皺筥物語) 何となく何やら床し菫草 (三冊子)が併記されています。校注者は「原則として年次の最も古い出典の句形を最初にあげた。句形に異同や変遷の認められるものについては、出典や従来の諸説を参考として適宜配置した。また、初案・再案・後案のあきらかなものについては、成案をはじめにあげ、初案・後案の順に配置した」を句形についての3つの方針の1つとして設定しています。 『皺筥物語』は元禄8年(1695)跋であり、『三冊子』は安永5年(1776)序のある出版です。併記されている二句と『野ざらし紀行』の句との関係はどうなるのでしょう?野ざらし紀行の句は、他二句を踏まえた成案なのでしょうか? それとも、野ざらし紀行の句の後に、変遷を経た発句なのでしょうか?野ざらし紀行では「すみれ草」であり、「菫草」ではないというのも興味深いところです。植物は同じかもしれませんが・・・・。さらに、石碑にある文字の使い方は、どこかに出典があるのでしょうか?白鳥山は、「飛騨山脈(北アルプス)後立山連峰の最北端にある標高1,287mの山」として存在します。山梨にも白鳥山(標高567.7m)があります。宮崎県のえびの高原にも白鳥山(標高1363m)があります。愛知県にも白鳥山(標高968m)があります。(資料7)探せば、まだ同名の山があるかも・・・・。芭蕉はどこの山を見ていたのでしょか。この一句だけからも、様々な波紋が広がります。ご一読いただいた貴方も、句碑と説明板の内容を併せて、考えていただいてはいかがでしょうか。これでこの湖南三山のウォーキングと探訪のまとめ、ご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 上葦穂神社 (カシホ) :「滋賀県神社庁」2) 愛宕神社 :ウィキペディア3) 甲賀組第一部法然上人二十五霊場(滋賀県) :「法然共生」4) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社5) 善水寺 ホームページ6) 近江國與地志略 下 :「近代デジタルライブラリー」 12コマ/241コマ 7)白鳥山 :ウィキペディア 白鳥山森林公園(しらとりやましんりんこうえん) :「富士の国やまなし」 えびの高原 池めぐりコースの紹介 -池巡り自然探勝路 Nature Trail (IKEMEGRI)- 池巡り自然探勝路 Nature Trail (IKEMEGRI) :「Mihazaki Sightseeing Photograph Collection」 白鳥山 :「トレッキング愛知」 2015.11.2 19:00 付記 『近江國輿地志略』で寒川辰清が、万葉集巻三として引用している歌について 改めて、岩波文庫『新訓 万葉集 上巻』(佐佐木信綱編)を参照すると、416番に次の一首として収載されています。手許にある折口信夫著『口譯萬葉集(上)』も同じ字句です。 ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ 両書とも大津皇子が死罪となった時に悲しんで作られた一首という意味の詞書が付されているのです。この歌だと「磐余」は、「奈良県桜井市西部から橿原市・高市郡にかけての古地名」(日本語大辞典)になります。 万葉仮名の字句解釈の相違によるものなのか、詞書の有無を含めて参照写本に差異があることなのか、寒川辰清の誤りなのか・・・は分かりかねます。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺東叡山輪王子(別称:開山堂・両大師) :「天台宗東京教区」浮世絵ギャラリー :「近江歴史廻廊」 石部宿を描いた浮世絵が集められています。 湖南市(石部) :「近江歴史廻廊推進協議会 近江東海道部会」 昔の面影を残す数多くの文化財を訪ねて総本宮 京都 愛宕神社 ホームページ国宝 善水寺 :「iwane-web」 善水寺に向かう経路(徒歩・車)が詳しく説明されています。善水寺・岩根山不動磨崖仏 :「近江石仏巡り」滋賀県 湖南三山 善水寺の紅葉 :YouTube路線バス情報 善水寺 湖南市コミュニティ不動寺 :「日本の懸造り」 私が眺めた角度からの磨崖仏も載っていて、参考になる記事です。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -1 JR石部駅から常楽寺に へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -2 常楽寺・三重塔と三十三所石仏観音めぐり へ歩く&探訪 [再録] 湖南三山への道 -3 長寿寺・白山神社・十王寺・勧請縄吊ほか へ
2017.05.23
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ウォーキングで常楽寺を訪れる時に通りすがりに撮った「三聖神社」です。こちらは長寿寺に向かう途中で見た「西教寺」の本堂。 [歩く&探訪時期:2015年9月]後で調べて見ますと、三聖神社は、もとは「天台宗常楽寺の境内にあって、山王三聖と称される日吉大社の上七社のうち大宮(西本宮)二宮(東本宮)聖真子(宇佑宮)を祀り三聖権現と称し同寺の護法神であった」(資料1)という神社です。祭神は「伊弉諾尊 速玉之男神 事解男神」だそうです。西教寺は天台宗のお寺で山号は常楽寺と同じ「阿星山」。寛平2年(890)十行法印により開山され、もとは庵だったところが、回向寺院となったようです。長年常楽寺住職がこの寺を兼務されているといいます。現在の建物は平成15年(2003)に茅葺きから瓦葺き屋根に改修され、景観も回復された結果、通りからこのように本堂だけのお寺ですが眺めることができる状態になったそうです。(資料2) キバナコスモス エーデルワイス西教寺の前を通り過ぎ、道端に咲く花々を楽しみながら、長寿寺に向かった道は緩やかな下り坂となっていきます。常楽寺から長寿寺への地図(Mapion)はこちらからご覧ください。わかりやすい道筋です。 カワノギク 途中で栗も・・・。2563,2567歌碑が建立されている傍を通過。 契るとも逢ひみんことやかたからん 石部の山の松の千年は 香川景継香川景継は、江戸時代中期に元武士で出家し、宣阿と改名して二条派の歌人となった人のことでしょうか。(資料3) 「ひろのはし」を渡ります。 田園風景の中の彼岸花 長寿寺のバス停のところに、「長寿寺」への道路標識が立っています。道を左折したところでみかけた民家。江戸時代にタイムスリップするようなイメージを抱かせてくれる屋敷構えです。 長寿寺門前山門には「阿星山」の扁額が懸かっています。バス停から約100mほど進んだところにあります。常楽寺が西寺と称されるのに対し、「長寿寺」は「東寺」とも呼ばれます。山門を入り、拝観受付所を通ってすぐ左側に、「長寿庵」と掲げられた門があります。 建物玄関までの前庭に石臼をオブジェ風に並べてあるのがおもしろい。その隣には、「内佛堂」という扁額が懸けられたお堂があります。 堂内には「子宝祈願の石」が厨子に収められて祀られています。霊験あらたかそうな感じ・・・・・。「子宝開きます」ということばがいいですね。参道を少し先に進むと、進行方向左側は一段高くなり、「白山神社」の石鳥居があり、神社への参道となっています。右側が長寿寺本堂に向かう真っ直ぐの参道です。参道の両側がモミジの並木になっていますので、ここの紅葉はすばらしいです。ここは紅葉の季節に、一度訪れたことがあります。 受付所のすぐ傍にある、たぶんもとは燈籠。火袋内に小さな地蔵菩薩石仏が置かれています。この参道の両脇には小物の飾りを含めて、いろんなものが置かれていて、実に遊び心があって、楽しいのです。 こんな具合に・・・・。これは一部なんです。参道の途中、右側に「日本大最大級」と銘打った「石造多宝塔」が安置されています。鎌倉時代の多宝塔だそうです。多宝塔への参道右側には、五輪塔が一列に並んでいます。五輪塔の建立時期はかなりの幅がありそうです。 正面に本堂が見え始めると、手前に石灯籠が参道の左右に立ち、右の石灯籠の傍に、 鐘楼があります。 本堂(国宝)鎌倉初期の建造で、桁行と梁間がともに五間の寄棟造・檜皮葺、和様建築の建物です。本堂の正面には三間の向拝があります。境内の説明板によると、「内部は内外陣にわかれて礼堂造(らいどうづくり)の名残をとどめ、構造・意匠的に質の高い密教本堂の代表建築」なのです。 白山神社の境内からの眺め 正面から見て左側面本堂右手奥の小高いところにある収蔵庫側からの眺め 正面から見て右側面側と背面が見えます。こちらから屋根を見ると、寄棟造であることがよくわかります。建物正面は、向拝の三間分が桟唐戸の入口、その左右は上部が連子窓になっています。 建物の両側面には二間に桟唐戸、背面には中央一間に桟唐戸が設けられていて、建物の周囲に高欄付きの廻縁がめぐらされています。この向拝部分は後世に付け加えられたとも考えられているようです。 向拝の頭貫の先端部はそのまま組物の一部となっています。蟇股の意匠もシンプル!建物本体の組物は平三ツ斗の形式です。そのため外観はいたって簡素です。長寿寺の開創伝承では、奈良時代に活躍した無名の山林宗教者が存在していたのが基となり、良弁または禅師と称された古代山林宗教者が開創した寺だそうです。聖武天皇に皇子がない時、陰陽師の占いで近江路に勅使が派遣され、阿星山の中で修行僧に皇子誕生の祈祷が懇願されたと言います。その効験があったのか、皇女が誕生したそうです。そこで、聖武天皇が「安穏谷(あんおんたに)に七堂伽藍24宇の坊舎を建立され、行基菩薩に命じて5尺の地蔵菩薩を造らせ、天皇自ら長寿寺を号し給うた」といいます。長寿寺と常楽寺は、聖武天皇が紫香楽宮に遷都の時に建立され、鬼門守護の寺という位置づけでもあったようです。(資料4)本堂内部は手前が礼堂(礼拝を行う外陣)で、格子戸と菱欄間で区切られた奧に内陣があります。内陣が礼堂より一段低くなる平安時代の様式を残しているようです。内陣はもとは土間形式だったらしくその痕跡が残されているそうですが今は板張りです。貞治5年(1366)に改造されたと推定されています。(資料4)堂内で上を見上げると、礼堂・内陣ともに天井ははられていなくて、棟木や垂木がそのまま見える化粧屋根裏となっています。さらに、礼堂の屋根組は寄棟で、内陣の屋根組は切妻という方式です。お寺のガイド嬢が説明してくださいました。内陣には、須弥壇上に春日厨子が置かれ、その中に本尊の子安地蔵尊(秘仏)が祀られています。本尊は50年周期で開帳されるだけ。この春日厨子は、墨書から文明12年(1480)に建立されたことがわかるそうです。厨子に向かって右側に木造阿弥陀如来坐像、左側に木造釈迦如来坐像が安置されています。これらは平安時代の作で、ともに国重文です。(資料4,5) 堂内は撮影禁止です。 弁天堂(国重文)本堂に向かって右側に池があり、その中に弁天堂が設けられています。天文19年(1550)の建築です。一間四方、入母屋造・檜皮葺きで正面に軒唐破風がついています。(境内説明板、資料5)ちょうどアメジストセージが咲き誇っていました。 三重塔跡本堂左後方の高台にここに三重塔があったという場所で、礎石が残っているだけです。この長寿寺の伽藍配置は常楽寺(西寺)と同じであったそうですから、常楽寺での本堂と三重塔の位置関係をイメージしていただくとよいでしょう。三重塔は信長により、安土に移築されてしまったのです。摠見寺に三重塔が現存します。本堂の右後方の高台には、最近になって建てられた収蔵庫があり、ここには丈六の阿弥陀如来坐像が安置されています。3mほどの大きさで、金箔が貼られているので全身黄金色です。開扉されていますので外から拝見できました。本堂内と同様に、ここも撮影禁止でした。本堂正面に向かって、左側には石段があって、少し高台になっています。 本堂と横並びの状態で、この高台に白山神社がありますが、高台からさらに石段で一段高い位置に社殿が建てられています。 石段下からズームアップして撮ってみました。祭神は白山比咩神(しらやまひめのかみ)です。もとは長寿寺の鎮守社として建てられた神社です。 白山神社の拝殿拝殿の屋根の棟の瓦は、お寺の本堂の棟の積瓦の様式とはことなり、私の見聞の範囲ではめずらしい形です。鬼瓦もちょっと異色な感じです。おもしろい。比較的ゆっくりと拝見した後、最後の善水寺をめざすことになります。長寿寺に入るときは気づかなかったのですが、山門を出て、道路の反対側が同じく天台宗の「阿星山十王寺」です。後で調べて知ったことですが、十王寺と長寿寺は同じご住職が兼務されているのです。十王寺は神亀元年(724)行基菩薩が開基されたお寺。寺名は、十王経にのっとり、本尊脇に十王像が祀られていることに由来するそうです。本尊は阿弥陀如来像。天慶2年(938)に憲際上人が、村中の減罪寺とされたのだとか。その主旨からすると、こちらが現在は地元の人々の日常に直接結びつくお寺なのでしょうね。(資料6) 十王寺の門前にある石仏群左の方に三体の石仏が並び、右の方は箱仏群となっています。一体が彫られた箱仏と二体が彫られた箱仏が混在しています。長寿寺の本尊のことを考えると、これらの石仏はたぶんすべて地蔵菩薩像だろうと推測します。興味を持ったのは、右側中央の坐像石仏の台座に、「六十六部」という語句が彫られていることでした。調べてみると、回国巡礼僧を意味する言葉のようです。「法華経を六六部書き写し,日本全国六六か国の国々の霊場に一部ずつ奉納してまわった僧。鎌倉時代から流行。江戸時代には,諸国の寺社に参詣(さんけい)する巡礼または遊行(ゆぎよう)の聖」(『大辞林』三省堂)(資料7)だそうです。ここから、善水寺に向かいます。 長寿寺からしばらく歩いたとき、道路に跨がってこんな飾りが吊されています。道路の左端に、石標があり、説明も付されています。これは、「勧請縄吊」と称するものだそうです。次の様に説明がされています。「集落の結界に位置し五穀豊穣、村内安全、病気祓いなどを願う注連(しめ)縄として現在に至る」ネット検索でリサーチすると、湖東から湖南地域にかけて、「勧請縄」年頭行事として受け継がれているそうです。(資料8)さらに、京都や奈良でも「勧請縄」を吊るしきたりが維持されているところがかなりあるようです。例えば、京都新聞で「サカキ飾り勧請縄作る 長岡京・走田神社」、「勧請縄の木札へ石投げ息災願う 滋賀・近江八幡でまじゃらこ」という記事が載ったことがあります。 (掲載当時にネット検索で入手した情報ですが、記事へのアクセスが切れています。)一つのきっかけが波紋を広げていきます。おもしろいものです。つづく参照資料1) 三聖神社 :「滋賀県神社庁」2) 西教寺 :「天台宗滋賀教区」3) 宣阿 :ウィキペディア4) 本堂内に掲示されている3つの額に入れられた説明資料5) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p171-1726) 十王寺 :「天台宗滋賀教区」7) 六十六部 :「weblio辞書」8) 近江の祭礼行事 左欄のシリーズ一覧参照 :「サンライズ出版」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺三聖神社 村の鎮守さま :「万葉集を携えて」長寿寺・湖南市東寺 :「滋賀文化のススメ」 堂内の写真が1葉掲載されています。湖南三山 長寿寺 ぶらりこなんTV :YouTube 本堂と収蔵庫に安置されている仏像が動画に一部登場しています。長寿寺本堂 :「閑古鳥旅行社」長寿寺本堂 滋賀県 鎌倉時代前期 社寺建築逍遙 :「日本建築の底流」悪霊追放と家内安全を願う奇祭「鬼ばしり」 長寿寺(東寺) :「滋賀の風景」滋賀県 湖南市(旧甲賀郡石部町)東寺 長寿寺石造多宝塔 :「石造美術紀行」摠見寺 :「近江の城郭」 このブログ記事に、三重塔の写真が掲載されています。「六十六部」とは何か :「徳島県立博物館」十王経 :「コトバンク」十王経物語絵図(冥途旅行絵物語) :「奧三河の古刹・釣月寺」木津川市銭司・春日神社の勧請縄 :「歴史探訪京都から」京都府和束町 白栖の勧請縄 :「愛しきものたち」京都近辺の勧請縄 滋賀県の勧請縄 :「Tagawa3の自転車と一緒」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -1 JR石部駅から常楽寺に へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -2 常楽寺・三重塔と三十三所石仏観音めぐり へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -4 旧東海道(夏見)、善水寺ほか へ
2017.05.23
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この画像は三重塔を石段下から眺めたところです。 [歩く&探訪時期:2015年9月]三重塔を近くで見るために、本堂から石段に向かったとき、石段下の近くで石仏に出会いました。西国三十三観音霊場の第一番「那智山青岸渡寺」の石仏観音像でした。如意輪観世音菩薩です。傍の立て札には、石段を上がると、そこに第二番の石仏観音が祀られ、三重塔の山側斜面の道を右回りに巡ると、三十三観音を巡ることができるようになっていると説明があります。ここの石仏観音像は江戸時代の作だそうです。坂道ですが、15分ほどで巡ることができると記されています。三重塔もまた様々な角度から眺めることができ、近辺の風景も眺めることができるので、勿論三十三の石仏観音の拝見を試みました。今回は、こちらをご紹介します。この各札所については、ネット検索で調べた後掲のサイトにアクセスいただき、参考にしていただければと思います。尚、「西国三十三所巡礼の旅」というサイトで紹介されている各札所のページとここでご紹介する石仏観音を繋がせていただきたいと思います。ご関心があれば、各札所の名称をクリックしてみてください。(資料1) 第二番 金剛宝寺 十一面観世音菩薩金剛宝寺は別称が「紀三井寺」です。こちらの方が良く知られている気がします。この石仏観音は、本堂を背景にしています。本堂の屋根が間近に見えます。石段を上がると、正面に三重塔が聳えています。右の画像は一層部分の正面です。中世の天台宗寺院では、本堂より少し高い場所に三重塔を配置する伽藍形式をとっていたそうです。ここ常楽寺もその通りの伽藍配置だということになります。初重は中央の間が板唐戸で、左右の間は上半分が連子窓の形式です。上部の組物は三手先の構造です。三重塔の傍にある説明板によると、木造釈迦如来坐像が祀られ、「来迎壁に釈迦説法図が描かれている」のです。お寺の三重塔でも五重塔でも、インドで仏舎利を安置するために建てられたストゥーパが原型です。インドのサーンチー第1塔(1世紀初)が特に有名です。そのストゥーパが中国を経て日本に来た段階で、奈良・法隆寺の五重塔の形となり、その形が様々なバリエーションで各地に伝播して行ったのでしょう。「天台宗では法舎利(釈迦の根本教典の法華経を仏舎利の替わり)を安置して法華経の功徳による国家安穏、護国豊穣を願った」と説明されています。それでは石仏観音めぐりを致しましょう。山道を登り始めます。 第三番 粉河寺 千手千眼観世音菩薩 第四番 施福寺 十一面千手千眼観世音菩薩 第五番 葛井寺 十一面千手千眼観世音菩薩この石仏観音の右方向に、三重塔の全景を間近に眺めることができます。前回に少し触れていますが、初重は三間四方で幅は約5mあり、総高は22.8mと説明板に記されています。二層、三層目も組物は三手先の構造です。この三重塔は、室町時代の応永5~7年(1398~1400)に再建されたものだそうです。応永5年に記された勧進状の文書が残っていて、調査によると屋根瓦に応永七年というへら書があったことから建立年代が特定できたのだとか。屋根の緩やかな曲線が美しい塔です。相輪の部分をズームアップしてみました。この画像で見える部分は、下から宝輪(九輪)、水煙、竜車、宝珠です。水煙はシンプルな意匠です。 第六番 南法華寺 十一面千手千眼観世音菩薩 第七番 岡寺 如意輪観世音菩薩 石仏観音の近くに、紫陽花が咲いていました。 第八番 長谷寺 十一面観世音菩薩石仏観音の背景に三重塔を眺め、石仏の右方向には、樹間から西寺地区の集落が見えます。このあたりから紅葉を眺めるとかなりきれいだろうと思います。 第九番 南円堂 不空羂索観世音菩薩像 第十番 三室戸寺 千手観世音菩薩山道は三重塔を眺めながらその周囲を回っていくことになりますので、さらに少し上ります。三重塔の角度が変化する景色を眺める楽しさが石仏観音参拝の副産物としてあります。 第十一番 上醍醐 准胝堂 准胝観世音菩薩 第十二番 正法寺 千手観世音菩薩 第十三番 石山寺 如意輪観世音菩薩この辺りでは、三重塔と本堂の屋根を見おろす俯角になります。山腹からの全景が楽しめます。 第十四番 三井寺 如意輪観世音菩薩三重塔の屋根の二面の美しいカーブ全体が見おろせるところです。また、相輪部分全体も間前に見えます。屋根の上に露盤がまず置かれ、その上に伏鉢が載っています。この伏鉢は、奈良の法隆寺と同じ形式のようです。九輪には、法隆寺にある風鐸の飾りがなくてシンプルです。蒼空に紅葉だと、まさに絶景なのですが・・・・・。 第十五番 今熊野観音寺 十一面観世音菩薩相輪の水煙から上部をズームアップしてみました。水煙の図柄がちょっと見づらい・・・角度でした。 第十六番 清水寺 十一面千手千眼観世音菩薩 第十七番 六波羅蜜寺 十一面観世音菩薩 第十八番 六角堂 頂法寺 如意輪観世音菩薩右の景色は、巡り始めて最初に眺めた方向の反対側に来て、三重塔を眺めるあたりになります 第十九番 革堂 行願寺 千手観世音菩薩 第二十番 善峯寺 千手観世音菩薩 第二十一番 穴太寺 聖観世音菩薩 第二十二番 総持寺 千手観世音菩薩三重塔の正面側が眺められるようになります。このあたりも、常緑樹の緑と紅葉のコラボレーションの中に佇む三重塔の景色がいいでしょうね。第二十三番 勝尾寺 十一面千手観世音菩薩 このあたりは遠景を望むのにいいところです。 第二十四番 中山寺 十一面観世音菩薩 第二十五番 播州清水寺 十一面千手観世音菩薩 第二十六番 一乗寺 聖観世音菩薩 第二十七番 圓教寺 六臂如意輪観世音菩薩 第二十八番 成相寺 聖観世音菩薩本堂の屋根が手前になり、三重塔の左側に三十三観音めぐりの最初の山道部分が見えています。 第二十九番 松尾寺 馬頭観世音菩薩 第三十番 宝厳寺 千手千眼観世音菩薩(観音堂) 第三十一番 長命寺 千手十一面聖観世音菩薩三尊一体反対側の本堂の屋根が間近に見え、本堂の背面も眺められるところです。 第三十二番 観音正寺 千手千眼観世音菩薩 第三十三番 華厳寺 十一面観世音菩薩番外として、一体の石仏観音が祀られています。前回ご紹介した収蔵庫の奥側にあるのが「薬師堂」です。この画像の左下角にほんの一部写っているのが、第三十三番の石仏観音像です。 薬師堂の左側、山の斜面には、数多くの地蔵菩薩石仏や宝塔などが集められて祀られています。常楽寺のある西寺地区で、1980年から1990年にかけて、大規模な整備事業が行われたそうです。そのおりに整備地に祀られていたものをここに安置されたといいます。室町時代から江戸時代にかけての地蔵菩薩石仏などだそうです。本堂正面の右端の前に、この立て札があります。「照千一隅(しょうういちぐう)」その背後に「一隅を照らす木」という木札が架けてあります。素直に見ると「千」という漢字に見えます。ルビ「う」で漢字変換すると「于」という漢字があります。墨書をよく見るとハネがありますので、やはり「千(せん)」ではなくて「于(う)」なのでしょう。一画目が少し左下がりなので・・・・・しかし超微妙です。出典は天台宗の伝教大師・最澄が「山家学生式(さんげがくしょうしき)」に書いた文に記された一節なのです。(資料2)なお、この「于」という一字については議論があるようです。ここではふれないでおきましょう。ご関心のある方は、補遺をご参照ください。常楽寺を出る前に、本堂前境内の違う位置から本堂を眺めてみました。本堂の全景は木々の後になります。ここが紅葉していて、青空だったら・・・・そして、人が居ない静寂そのもののだったら・・・・そんなシーンをついイメージしています。ふと思い出したことです。石山寺は西国三十三所観音霊場の第十三番札所です。石山寺の境内でも三十三所巡りができるのです。石山寺を一人探訪した折に知って巡ってみました。拙ブログで既にご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。この後、再びウォーキングに戻り、まずは近くの長寿寺に。つづく参照資料1) 三十三所MAP :「西国三十三所巡礼の旅」2) 一隅を照らす人になろう :「天台宗 一隅を照らす運動」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺西国三十三所巡礼の旅 トップページマイカーで行く三十三ヶ所巡り 三十三ヶ所の地図 ホームページ西国三十三所古道地図 特定非営利活動法人「西国古道ウォーキングサポート」西国三十三所巡礼の旅:「旅と散策 思い出のアルバム」洛陽三十三所観音巡礼 ホームページ近江西国霊場33ヶ所 一覧表 :「湖国寺探訪」近江三十三観音霊場巡礼の旅へようこそ! グーグルマップお寺ネット 巡礼研究室 目次奈良の塔 法隆寺 :「日本の塔」一隅を照らす人、千里を照らす人 井上宏氏 :「心学明誠舍」 ~最澄「山家学生式」における「照于一隅」説と「照千一隅」説について~ 「一隅を守り、千里を照らす。これ則ち国宝なり(照千一隅此則国宝)」 :「Bontakaのブログ/from Duesseldolf」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -1 JR石部駅から常楽寺に へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -3 長寿寺・白山神社・十王寺・勧請縄吊ほか へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -4 旧東海道(夏見)、善水寺ほか へ
2017.05.22
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この画像は、JR草津線石部駅前にある「石部宿のモニュメント」です。ここは江戸時代、東海道五十三次の石部宿が栄えたところです。2015年9月下旬、この駅前を起点にウォーキングの同好会で湖南三山(常楽寺・長寿寺・善水寺)のルートを歩きました。この3ヵ寺を拝観しながらのウォーキングなので、私には二重に有意義でした。以前に整理してまとめたものを、ここに再録しご紹介します。 白壁の築地塀の内側に、時計台が建てられていますが、その傍で築地塀の手前には、この幼い二人の子供像の彫刻があり、石柱の台座に「道」と刻されています。右方向にある黒塗りの冠木門が冒頭の画像。門を入った斜め前方に、「歴史のまち いしべ」の説明板があります。その説明によれば、古くは伊勢までの街道として栄え、江戸時代に東海道五十三次の宿が整備されると五十一番目の宿場町となったのです。当時は「京立ち、石部泊まり」と言われたようです。 ネット検索で調べると、石部から京都までの距離は約九里五町であり、当時の旅人には一日の平均行程になるそうです。天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』によると、石部宿の町並は15町3間、人口1,606人、家数458、2つの本陣と32の旅籠屋があったと記録されているとか。(資料1)石部の町の北側に野洲川が西方向に琵琶湖に流れ、南側には阿星山があります。その山麓に、湖南三山のうちの常楽寺と長寿寺が位置します。一隅に、この万葉歌碑が建立されています。 白眞弓石辺の山の常盤なる 命なれやも恋ひつつ居らむ 巻11 2444この歌に詠まれている石辺は、この石部の地をさすという説があるようです。そうだとする石辺の山というのは阿星山あたりをさしているのでしょうね。詠み人は未詳です。尚、手許の『新訓万葉集 下巻』(佐佐木信綱編、岩波文庫)を参照しますと、「石邊の山」と表記して、「いそべ」とルビがふられています。一方、『折口信夫全集第五巻 口譯萬葉集(下)』(中公文庫)を参照すると、折口信夫は「磯邊の山」という表記をしています。そのため口語訳は「岩濱のいつ迄も変わらぬ、石のやうな命でありたいものだ。さうして何時迄も、恋ひ続けてをらう」としています。 JR石部駅 駅舎の一角には、近江東海道の道筋を案内するパネルが掲示されています。水口~土山の道筋です。浮世絵とともに、要所の史跡が写真入りで紹介されています。この画像の上から大津、草津~栗東、石部~甲西の道筋です。 石部駅からまずは「常楽寺」をめざします。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。石部駅から南東方向、3kmほどに位置します。主要道路の交差点で言えば、西庁舎前~石部中央~宝来坂~石部高校前に至る道路沿いを進むことになります。私たちは、それと併行する南西側の道に入り、川の方向に近づき、途中から川沿いの遊歩道側を歩きます。 フサフジウツギ途中は、様々な草花が満開でした。まずは、花々を眺め、こんな写真を撮りながらのウォーキングです。花の名前を手許の図鑑やネットで調べて見ましたが、わからないものも・・・。わかる範囲でこれかなと思う名前を付記します。間違っていたら、教えてください。 半八重のピュアデライト ムクゲ遊歩道沿いのそこかしこに、花、花、花・・・。 ブッソウゲ ルドベキア石部西2丁目あたりで眺めた花々です。 その後、遊歩道から再び市道沿いを歩きます。この道標があり、その傍の道路には「いしべえどん」というキャラクターが出迎えてくれます。「宝来坂」の道路標識のある交差点近くです。 スイフヨウ 石部中学校が見え始め、その先に「雨山文化運動公園」に向かう橋が架かっています。橋を渡ったところに、このゲートがあります。この坂道を登って行くと、運動公園の手前に、「東海道石部宿歴史民俗資料館」があります。今回ここはパスです。このあたりは「雨山生活保護保全林」ゾーンになっているようです。橋の片側にこの表札が出ています。 雨山文化運動公園への橋の前を通過し、川に沿う道路の端を歩き始めると、川向うのすぐ傍に右の画像の石や、少し離れた樹林の間に石碑見えます。左の画像が好奇心からズームアップしてみた石碑です。「山林愛護彰徳碑」と刻されています。その碑名の上には、少し小さく細めの文字で「故笹倉重五郎氏」と刻されています。2421「石部高校前」交差点で左折して、石部高校の正門前を通過。石部高校は丸山地区にあり、この先が西寺地区です。この交差点手前の道標には、常楽寺まで1.5km、長寿寺まで2.3kmと距離が併せて表示されています。 西寺地区に入ると、稲の稔った田や畑が見えてきます。彼岸花が真っ赤に咲いていて稲の黄色とのコントラストがきれいでした。集落の屋根の先に塔の上層の屋根が見えて来ます。いよいよ「常楽寺」です。 板塀の先にある拝観受付所 受付所に近いところにある鐘楼 境内を進むと、本堂(国宝)が見え、左奧に塔の上部が見えます。 本堂正面には、「常楽堂」の扁額が懸けられています。常楽寺は湖南三山の一つで「西寺」とも呼ばれるそうです。栗東市と湖南市にまたがる阿星山(あぼしやま、693m)の麓にあります。天台宗のお寺で、山号が「阿星山(あぼしさん)」です。近江西国三十三番札所の第一番でもあります。奈良時代、元明天皇の和銅年間(708~715)に金粛菩薩が甲賀郡の大岳(阿星山)に霊地を開き、阿星寺(あせいじ)を創建したとされています。数宇の殿堂を構え、僧坊が甍を並べる山岳寺院があったのです。この阿星寺は魔風のために火災に遭遇し、衰退に向かいます。今は、山腹に「堂立遺跡」や「阿星寺跡」と名づけられた寺院遺跡が残るだけになっているようです。金粛菩薩は、東大寺の建立に尽力し初代別当となった良弁僧正であり、良弁が金粛菩薩の異称を持つと一般的には言われています。しかし、『興福寺官務牒疏』の諸寺開創伝承によれば、金粛菩薩は良弁とは別人で、文武・元明・元正朝(697~724)に活躍している人物という説もあります。阿星寺は良弁と金粛菩薩と称する行者とが開山したとする見方です。いずれにしても、当時は東大寺とこの地の山岳地帯の関係が深かったことがわかります。阿星寺が火災に遭遇したとき、本尊の千手千眼観音像がこの常楽寺に飛んできたという伝承(『常楽寺文書』「近江国常楽寺勧進帳」)があるそうです。(資料2,3)常楽寺は当初法相宗のお寺だったようですが、平安時代初期、延暦年間(782~806)に天台宗に改めたそうです。そして、「阿星山五千坊」と称された中で中心寺院として栄え、阿星寺の由緒をひくお寺なのです。また、紫香楽宮の鬼門を守護する寺としても位置づけられていたようです。この常楽寺は南北朝時代、延文5年(1360)に落雷によりすべての堂塔を全焼。しかし、その年に僧観慶(かんぎょう)を中心とした勧進により、再建されたのがこの本堂だといいます。そして、鎮護国家の道場としての役割を継承したのです。入母屋造、檜皮葺で桁行7間・梁間6間で向拝3間の建物です。内部は礼堂(外陣)、内陣、後戸(後陣)に3区分されています。内陣に置かれた厨子の中に、秘仏の本尊・木造千手観音菩薩坐像(国重文)が収められています。厨子の両側の脇壇には鎌倉時代末期作の二十八部衆立像と雷神像がまつられています。後戸には、木造釈迦如来坐像と普賢菩薩・文珠菩薩の二像が安置され、仏具類が展示されています。(資料4)常楽寺が全焼した折、仏像は僧侶達によって何とか持ち出されたことにより難を逃れ、今に伝わるのです。二十八部衆立像は小ぶりなものですが、見応えがあります。江戸時代に出版された『東海道名所図会』の巻二には、石部のところで、常楽寺は「西寺」という名称で記載されています。なぜか「本尊如意輪観音」と説明しています。(資料5) 本堂前の境内にたつ石灯籠銘は未確認ですが、「応永13年(1406)」銘が残ると手許の本に説明がある石灯籠はたぶんこれでしょう。形の良い燈籠です。今回は、同好会のリーダーが事前に拝観の予約をしてくれていたおかげで、本堂内の仏像を拝観できました。常楽寺は秋の特別公開期間以外は予約が必要ですので、ご注意ください。 本堂建物の構造部分をクローズアップしておきましょう。向拝の頭貫に木鼻はなく、三間向拝の屋根部分を支える組物の一部に組み込まれています。尾棰の部分をみると、出組は二手先の形式になっているようです。この建物の軒の支輪と呼ばれる部分が目に付きました。他所で観てきたものとは少し異なり、特徴的な気がします。 本堂正面左の斜め前方側から眺めるとこんな感じのお堂です。建物の正面には、格子造りの蔀戸(しとみと)がはめられ、左右が連子窓になっています。建物の側面は柱二間分が桟唐戸(さんからと)となっていて、廻廊がこの桟唐戸のある二間で終わっています。これは近江にある天台伽藍の特色に一つでもあるようです。左の植栽の前にあるのが、この詞章碑です。 自然の恵みをうけて 花は咲き鳥は唱う そんな四季が 好宗一と記されていますが、誰でしょうか? 少しネット検索してみましたが不詳です。 本堂の左奧にあるのが、三重塔です。 真っ直ぐに長い階段を登った一段高い場所に、室町時代に建立された三重塔(国宝)が立っています。高さ23m、幅4.5mの塔です。(資料6)本堂と三重塔をぐるりと囲むようにして、三十三体の観音石仏が祀られています。三重塔をいろいろな角度から眺めながら、観音巡礼のお参りができるというスポットです。この散策路は次回、ご紹介します。本堂正面の右側面に堂内への参拝入口が設けてあります。 この本堂の右側境内には、行者堂と普賢堂という説明札の懸けられたお堂があります。その奥に収蔵庫と思われる土蔵風の建物もあります。一番奥には、山肌の前に石仏群があります。これも次回、ご紹介します。つづく参照資料1) 近世の石部 東海道における石部宿 :「湖南市立石部南小学校」2) 古寺と阿星寺 :「湖南市立石部南小学校」3) 常楽寺本堂と三重塔・湖南市西寺 :「滋賀文化のススメ」4)『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p1705) 東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編] :「古典籍総合データベース」 早稲田大学図書館蔵 巻2の38コマ目参照。6) 常楽寺 :「ぶらりこなん」(湖南市観光ガイド)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺郷土歴史 総合目次 :「石部南小学校」ホームページ 石部の郷土歴史について詳細な説明ページが作成されていて、秀逸なページです。 学ぶことが多いです。常楽寺 公式ホームページ滋賀県 湖南三山 常楽寺の紅葉2 三重塔 :YouTube常楽寺(湖南市) :ウィキペディア 常楽寺本堂 常楽寺三重塔 :「閑古鳥旅行社」東海道石部宿歴史民俗資料館 :「湖南市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -2 常楽寺・三重塔と三十三所石仏観音めぐり へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -3 長寿寺・白山神社・十王寺・勧請縄吊ほか へ歩く&探訪 [再録] 滋賀 湖南三山への道 -4 旧東海道(夏見)、善水寺ほか へ
2017.05.22
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JR石山駅から立木観音(安養寺)境内まで歩いた行程を再録として前回ご紹介しました。 昼食・休憩後の復路は、第3選択肢のルートを歩くグループに加わりました。まずは立木山の頂上に登り、尾根伝いに展望台を経由してから袴越山に向かい、山を下り石山駅に戻るという行程です。この復路のご紹介をします。 [ウォーキング時期:2015年1月]冒頭の写真は、「国土地理院ホームページ」から歩いた地域の地図を切り出してみたものです。立木観音から尾根伝いに山歩きをした復路のポイントを地図にマーキングしています。(資料1)立木観音の境内を外れ、15分位山道を登ったところの少し広い場所で昼食休憩をしたことまでは前回説明しました。その後、まず立木山の山頂を目指します。 立木山山頂の三角点。近くの樹木に登山者が残された記録。標高305.6m。ここからは、尾根伝いに進みます。途中途中の分岐には、こんな標識が設置されています。 そして、展望のきく場所に出ました。「見晴台」と記された記念札が樹木に取り付けられています。 遠望先の場所を同定する一つのメルクマールが、膳所にある特徴のあるのっぽビル・プリンスホテルです。これで位置関係が把握しやすくなります。 瀬田川に目を転じると、その傍を歩いてきた瀨田川洗堰が遠望できます。 ハンディなデジカメのズームアップ機能をフルに使って、カメラを手持ちのまま、拡大で撮ってみました。瀬田川洗堰と保存されている旧南郷洗堰の一部もちゃんと捉えることができました。現在の瀨田川洗堰は、1961年に完成。全長約173m、ゲート10門。鋼製越流えつりゅう(溢流いつりゅう)式2段引上扉を備えたもの。「電力を用いた遠隔自動制御による全開閉は、30分で行える。また1992(平成4)年には、この東側に、水位低下時にも正確な水量を流せるバイパス路や、排水ポンプの設置工事が完成した。この水路は、低落差少水量の高効率水力発電設備を備えており、全国的にもめずらしい」(資料2)とか。旧南郷洗堰は2002年に土木学会より歴史的土木施設に認定されています。 瀬田川に突き出ているように見える小高い山が大日山(129m)。大日山古墳群があります。これがたぶん見晴台近く、341mのピークのところで撮った写真 袴越山の山頂。標高391mです。この袴越山北側の山下を、往路に歩いてきた赤川交差点近くで取水された河川水が「宇治発電所導水路」を経由し流れているのです。 袴越山から下る途中で眺めた景色 下山地点となる湖南変電所です。 再び眺めた膳所近辺と対岸の景色 南郷の住宅地と瀨田大橋 袴越山を下ったところが湖南変電所の傍でした。標識が出ています。ここから谷川沿いに、芋谷を下ります。後で調べていて知ったこと:この袴越山の北麓になる南郷には、南郷製鉄遺跡があるそうです(資料3)。関連して、こんな説明の資料にも出会いました。「瀬田川右岸の南郷から左岸の瀬田丘陵には、南郷・芋谷・源内峠・木瓜原・野路小野山遺跡など、7世紀中頃から末頃までに操業を開始した数多くの製鉄遺跡が分布しています。中でも大津宮時代頃の源内峠遺跡では、鉄を作る時に生じる鉄滓の量が遺跡全体では50トン以上と推定でき、大規模な操業が行われていたと考えられます。」(資料4) 南郷の住宅地の中を通過して、まずは瀬田川の畔まで出てしまいました。そして、堤防沿いに瀬田川上流、つまり琵琶湖方向・石山に向かいます。 山から眺めた瀨田大橋に近づくところ。 石山寺の近くに停留する瀬田川の遊覧船「瀬田川リバークルーズ」です。 「茶丈藤村」。和菓子と甘味のお店です。 瀬田川の下流方向のながめ。堤防の先に、係留されている遊覧船の前面が見えます。 京阪電車石坂本線の石山寺駅付近。河川敷に作られた池。右手奥に見えるのが瀨田唐橋です。手前は中の島・下流側先端。瀨田唐橋についても、拙ブログ記事で次の記録を再録し、ご紹介しています。「探訪 [再録] 瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて -1 JR石山駅~瀬田唐橋周辺」「探訪 [再録] 瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて -2 龍王宮秀郷社、雲住寺、橋守地蔵他」「探訪 [再録] 瀬田川流域とオランダ堰堤(上桐生) -5 明治29年洪水標、瀬田唐橋」併せてご覧いただけるとうれしいです。この先もしばらく河川敷を歩いて、瀬田川沿いの道路に戻り、後はJR石山駅に直行しました。今回のウォーキングも結構歩きました。携帯電話内蔵の歩数計の記録は31,400歩でした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 国土交通省国土地理院 ウエブサイト2) 『滋賀県の歴史散歩 上』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p1033) 鉄鉱石の発掘地と製鉄遺跡の関係についての試論 -滋賀県の事例を中心に- 大道和人氏 『紀要』第9号 1996.3 滋賀県文化財保護協会4) 「近江の飛鳥・白鳳時代、古代国家の誕生」 埋もれた文化財の話 28【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺立木観音 :「滋賀県観光情報」(3)立木観音と鹿跳(ししとび)伝説(大津市石山南郷町) ふるさと昔語り ;「京都新聞」瀬田川リバークルーズ :「石山寺」一番丸のご紹介 :「瀬田川・琵琶湖リバークルーズ」茶丈藤村 ホームページ立木観音から袴腰山のハイキング tnknboさん公開 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く [再録] 滋賀・大津 JR石山駅・芭蕉像から立木観音(安養寺)・立木山 へ
2017.05.13
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2015年1月、ウォーキングの同好会でJR琵琶湖線の石山駅に集合し、立木観音のある立木山まで歩きました。帰路は、1)同じルートを逆に歩きで駅まで戻る、2)立木観音のバス停からバスを利用する、3)山の尾根伝いに袴越山・芋谷経由で瀬田川畔に出て駅まで戻る、というオプションでした。私は第3選択肢のグループに加わりました。この往路と復路の行程記録をまとめて載せていたものを再録し、ご紹介します。冒頭の像は、石山駅の駅前に立つ松尾芭蕉像です。石山は石山寺に縁のある紫式部だけでなく、松尾芭蕉にも縁のあるところです。現在の住所で言いますと、大津市国分2-5、国分山に「幻住庵跡」があります。今はここに往時を偲んで、大津市により新たに建てられた建物ができています。芭蕉の弟子、膳所藩士菅沼曲翠(すがぬまきょくすい:曲水)が、伯父の定知(さだとも:幻住老人)の旧庵を補修して、師・芭蕉に提供したと言われています。松尾芭蕉は元禄3年(1690)4月から7月までこの幻住庵に滞在したのです。そのときの生活の様子を『幻住庵記』として著しています。冒頭から寄り道してしまいました。まずは、駅前の市街地を通り、東海道の高架下から県道104号線に出て、鳥居川の交差点まで南下します。この鳥居川交差点からは南西角・長徳寺前の道に沿って、京阪電車石坂本線とほぼ平行する道を南に歩きます。御霊神社、地蔵寺、医王寺という寺社の傍を通ると、京阪電車の終点・石山寺駅の西側に至ります。このあたりの経路は拙ブログ記事「スポット探訪 [再録] 石山・蛍谷からJR石山駅への道」でご紹介しています。こちらをご覧いただけるとうれしいです。ここから、瀬田川沿いの歩道を進めば「石山寺」です。 石山寺の少し手前の歩道から入れるのが、この「郎澄大徳ゆかりの庭園」です。 没後は、「石山寺経蔵の一切経、並びに聖教を守護し、万民の降魔招福の為、鬼の姿となることを誓い」(説明板)、入滅されたのだとか。それでこの石像碑が建立されているのでしょう。石山寺の東大門前でちょっと休憩。境内には入りませんが、門前見物とトイレタイムです。 仁王像(木造金剛力士像)を撮ってみました。 この山門と瀬田川沿いの道路との間の北側は緑地になっていて、島崎藤村の詞章が刻まれた碑と、「琵琶湖八景 夕陽 瀨田石山の静流」と刻された碑が立っています。「瀨田の夕照(せきしょう)」は近江八景の一つとして有名です。琵琶湖八景は新た選定されたものです。(資料1)島崎藤村は22歳の頃、この石山寺門前あたりに2ヶ月近く寄宿していたそうです。石山寺の境内には、今は「東池坊光蔵院」と称される建物が移築されています。その建物が「島崎藤村ゆかりの家」なのだそうです。拙ブログ記事「スポット探訪 [再録] 石山寺細見 -2 比良明神影向石、くぐり岩、密蔵院、閼伽井屋ほか」をご覧いただけるとうれしいです。この碑は、島崎藤村の「石山寺にハムレットを納むるの辞」より採録されたものです。 湖にうかぶ詩神よ 心あらば 落ちゆく鐘のこなたに 聴けや 千年の冬の夜ごとに 石山の 寺よりひびく読経の こえ『文学界』第二号に掲載された一文のようです。(資料2)石山寺東大門のすぐ前に南に向かう道があります。瀬田川沿いの道路とほぼ平行して通る少し幅のせまい道路です。立木観音への石柱道標が立っています。 石段の先には「石山寺保育園」このあたりは「旧石山尋常高等小学校跡」なのです。少し南下すると岩間寺への道との分岐点です。道標があります。 「戸隠神社」の参道が西側(右手)に。 平津1丁目 その名の通り、信濃国の戸隠山に鎮座する戸隠神社から勧請された神社です。祭神は天手力雄命(あまのたじからおのみこと)この神社の西隣りが滋賀大学の教育学部のキャンパスです。 円照寺の前を通過。浄土真宗本願寺派のお寺。この先で、瀬田川沿いの国道422号線に出て、赤川の交差点を通過し、南郷公園に入ります。JR石山駅から南郷洗堰・南郷公園への地図(Mapion)はこちらをご覧ください。南郷公園の北端部にあるお堂と休憩所の合体した建物。 お堂の方には「神鯉」が安置されています。「神鯉のいわれ」の説明板が掛かっています。「大昔、天皇が病気になったとき、南郷でとれた大鯉を献上すると即座に病気が治ったとの伝えがある」のです。(資料3) 覗くと、木彫の大鯉が見えます。この鯉は、5月5日に「南郷鯉まつり」が行われるときに、全長3.2mの大きさの鯉みこしとして使われるもののようです。竹細工師・清水風外の作だそうです。(資料3,4) 南郷公園から少し先に、この石標が立っています。立木観音への参道入口です。南郷公園の前が、南郷洗堰です。こちらも拙ブログ記事「探訪 [再録] 瀬田川流域とオランダ堰堤(上桐生)-3 旧南郷洗堰と瀬田川洗堰」でご紹介しています。こちらをご覧いただけるとうれしいです。参道は「立木山」に登る山道です。この参道(山道)は比較的ゆるやかですが、その分時間がかかります。約2kmで、1時間くらい歩くことになります。この石標の傍に、「立木観音 是より廿丁」と刻された石標もあります。その側面にはなんと、「月恭三百回記念」と彫られています。25年間連続とは実にすごいものです。八丁目にはごつごつとした岩があります。面白いのは左側の石標です。「町」という文字を左右分割して、縦に並べています。この字で「チョウ」と読ませるのでしょう。ATOKで手書き文字入力をすると、「町」の異体字として「甼」が登録されています。手許の『角川漢和中辞典』(初版)には、異体字としてすら記載されていません。「町」は尺貫法の長さの単位として使われると60間(けん)に相当し、メートル法換算で約109mです。大岩の上に立つと、このような景色が眺められます。 5丁目まで登ると、そこから瀨田川の景色が垣間見えます。 そして、1丁目の標識が見え、石段が見えました。この上が立木観音の境内です。立木観音前バス停脇の登り口から約800段の急な階段を20分ほど登ると境内に着くそうです。(資料5)正式には、立木山安養寺と称し、今は浄土宗のお寺。「立木山境内図」はこちらをご覧ください。(資料5) 手水 蟇股の意匠がおもしろい。懸魚のところに菊花が丁寧に彫られています。 山の上ですので境内地はそれほど広くはありません。左写真の一番奥に見えるのが本堂の建物です。「新西国三十八霊場」(三十三箇所+客番五寺)の第20番でもあるからでしょうか、団体の参拝者も多く見かけました。境内の中央に、鹿に乗った僧が合掌している少し大きい銅像が建立されています。そして、その傍に、金属製の灯籠と「厄除立木観世音略縁起」の銘板がはめ込まれた石碑もあります。 この略縁起と手許の本をあわせると、次の通りです。(略縁起銘板、資料6)弘仁6年(815)、空海は42歳の厄年で諸国を行脚していました。瀬田川の畔に来たとき、この山に光を放つ霊木があるのに目がとまったそうです。奇異に思っていると、白い雄鹿が現れ、空海を乗せて瀬田川を跳び渡り、立木山に導いたと言います。そして、雄鹿は観世音に変化したのだそうです。空海が、光明を放つ霊木に、立木のままで等身大の聖観音像を刻まれたのだとか。それが立木観音の始まりとされているのです。瀬田川の浅瀬を鹿が跳んだことから、麓の渓谷を「鹿跳」(ししとび)と呼ぶようになったそうです。立木観音の麓を通る国道422号線には南の方に「鹿跳橋」が架かっています。つまり、この僧が空海なのでしょう。空海像は三鈷を片手に持つ姿を見慣れていますので、合掌している姿はを私は初めて見る思いでした。 本堂の入口 瀬田川の 霧も立木の 観世音 峰吹く風に 晴るる身のうさ (御詠歌)「立木さん」「厄除けの立木観音さん」「立木山寺(たちきさんでら)」として親しまれているお寺です。「(弘法)大師はその後、高野山を開基されたので、立木観音は『元高野山』とも呼ばれています。」(資料5)とのこと。南郷公園から立木観音(安養寺)の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 本堂を反対側に抜けて行くと、宝篋印塔があり、その先の石段の山道をさらに登ったところに、「鐘楼」があります。ここでの休憩タイムにこの「鐘楼」までは参拝客に並んで訪れました。さらに石段を登っていけば、奥の院があるようです。「歩く」会なのでこちらは訪ねる時間がありませんでした。私たちは、この鐘楼の傍の道から、境内を外れて山道を登って行きます。少し広い場所で食事休憩を取り、その後、下山ですが、最初に述べたオプションで参加メンバーは分散しました。 立木山頂上の三角点第3の選択肢による復路については、次回にご紹介します。つづく参照資料1) 琵琶湖八景・近江八景 :「滋賀県」2) 石山寺と島崎藤村 そして 茶丈藤村のこと :「茶丈藤村」3) 南郷鯉まつり :「大津市歴史博物館」4) 南郷鯉まつり :「瀨田川流域観光協会」5) 厄除 立木観音 立木山-安養寺- ホームページ6) 『滋賀県の歴史散歩 上』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p106-107【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺文学界 :ウィキペディア新西国霊場とは? :「新西國霊場-新しい巡礼の旅」 第20番札所 立木山立木山寺 立木山寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.05.13
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