ぼくの細道・つれづれ草

ぼくの細道・つれづれ草

2006.11.02
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   (つづき)
姉弟悲傷の巻  ;3

      このへんで一度大津皇子をめぐる情報を整理しておかなければならない。
      古代には、天皇をはじめ、貴族、地方の豪族は一夫多妻の結婚形態が
     一般的で、その子女は多かった。
      大津皇子の父天武には、10妻があり、皇子が11人、皇女が6人いた。
      その系譜はおよそ次ぎのようだった。

      1 讃良皇女   (天智の女、 妃) 草壁皇子の母
      2 大田皇女   (天智の女、 妃) 大伯皇女、大津皇子の母
      3 大江皇女   (天智の女、 妃) 長皇子、弓削皇子の母
      4 新田部皇女 (天智の女、 妃)  舎人皇子の母
      5 氷上娘    (藤原鎌足の女、夫人) 但馬皇子の母
      6 五百重娘   (氷上娘の妹、夫人) 新田部皇子の母
      7 オホヌノ娘  (蘇我赤兄の女、夫人)穂積皇子、紀皇女、田形皇子の母
      8 額田王    (鏡王の女) 十市皇女の母
      9 尼子娘    (胸形君徳善の女) 高市皇子の母 
     10 カヂヒメノ娘 (宍人大麻呂の女)忍壁、磯城、泊瀬部皇子、託基皇女の母

     天智天皇は、自分の皇女を4人も弟天武に与えたのだった。     そのうちの讃良がのちに天武の皇后、さらには持統天皇となる。

     大津皇子をめぐる時系列的な動きは、つぎのとおりだった。

     天智2(663・1歳)  女那大津で出生。2歳上に同母姉大伯。
     天智6(667・5歳)  母大田皇女没。
     天武1(672・10歳) 壬申の乱で高市と共に大津宮を脱出。
                   鈴鹿の関で父天武と再会。
     天武2(673・11歳) 姉大伯皇女、伊勢斉王に卜定される。

     大津皇子の母大田皇女は、大津を生んで間もなく亡くなった。
     大津は母の顔をよく覚えていない。しかし、大津の胸奥には、亡き母に
    対する思慕の情が消えることはなかった。そんなこころの代償行為として
    姉大伯への愛恋の想いもまた強かった。
     姉も大津も、大田皇女の早逝を憐れんだ天智に愛されて育った。
     天智は二人を不憫に思い、近江の宮に屋形を建てて寵愛した。
     宮廷人の話によれば、大田皇女は天智の娘たちのなかでも、とりわけ
    美しかったらしい。父がまだ皇子の時代熱愛していた額田王をあっさりと
    兄天智に譲ったのも兄から大田皇女を貰ったせいらしい。

     父がまだ大海人皇子のころ、天智に疎外され、生命の危険を感じ、髪
    を剃り、吉野の宮滝の離宮に隠棲したのは、天智10年の10月で、大津
    が9歳の時であった。

     そして、この年の12月に天智帝は近江の宮で没するのであるが・・・・

                                 (つづく)                             






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Last updated  2006.11.02 16:11:43
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