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気がかりが多くて眠れない夜の連続ツイート。貼り付けておきます。テーマは、小さな組織から社会が見える。人には夜なべはさせたくないが、自分は平気というか、必要ならやってしまう。ま、そうやって来たから、これからも体力が続く限りは変わらんだろう。しかし、それでいろいろ誤解されてきたことに対しては、修正してもらうべく密かに闘っているのだった。言えば、なんでもやってくれるとは、もう思われたくない。相手にもよるけどね。ただ、お金を出し渋っているくせに、感情的になった勢いで、「お金を払ってでも」と言われると、気持ちがなえる。たぶん、その一言でこころが折れた。上手く利用されてるだけなんだなあって思った。大切なことは、つねに感謝の気持ちを忘れないことだな。まともな報酬の基準を知っているか知らないかの違いではないんだ。本当に路頭に迷っている人々を助けようと頑張ってきたのは知ってる。でも、対象者以外はみな篤志家ってわけじゃないんだ。助ける側まで“施し”が当たり前だって態度になって、どうする? 傲慢以外の何者でもないよ。組織全体に対して言っているのではない。その組織を統べる人に対して感じていることだ。プライベートなことで人を待たせてもまともな謝罪も出来ないのは、よくないよ。功績は認めている。ただ、“偉く”なりすぎないで欲しいだけだ。7月のシンポには同じ業界の育休取得者が登壇してくださる。育休取得者、いるのかな? ふと、気になった。誰が板挟みになって困っているかは承知している。そこはサポートしたい。でも、今日、メールの文面があまりにお粗末だった。だから情感たっぷりのメールを返した。素っ気ないメールだからこそ、言葉には通常の何倍も配慮する。ありがとうございます、お疲れさま、よろしくお願い申し上げます……。最大級の敬語を駆使するのも、それなりの理由があるのだ。まったく別の人が送ってきたメールには、疲労困憊しているのかな?と心配になるくらい、丁寧な言葉が使われていて、逆にとても気がかりだった。トップ級の会議の席上での物言いそもままだったからね。そして、このところずっと心が折れる状況に立たされている友人は、泣き顔で、それでもなんとか気取られまいと振る舞ってた。某社が暴慢な物言いをしていたことを思い出し、「あんたなんか仲間に入れてやんないよ、あっかんべーだ。 って言ってやればいいんだ」って言ってた。自分を窮地に立たせた誰かに対しての思いを、「あっかんべー」という言葉に託してた。大好きな裁縫で気晴らししながら、ぎりぎりのところで踏ん張ってる。そんな彼女も組織のトップ。君臨している誰かより、ずっとずっと若い人たちが、心が折れそうになりながらも踏ん張ってることに、どうしても違和感を感じずにはいられないのだ。今の日本の状況そのものでしょ?昭和の妖怪と言われた人が、彼の米寿を祝う会で「これからは若い者の邪魔にならない用に」と挨拶したときに、「おいおい」って思った。20世紀の話だけれど、全然変わってないし、もっとひどくなってるじゃん。老害ですよ、まさに。もっと若い世代を大事にしないと、ほんとうにこの国は滅びるぞ。そんな話を夕方永田町のとあるところでしていた。すでに、そういう時代に突入しているってことを、国のトップにいる人々が痛感していないんだよね。ま、そんな感じの、久々の深夜の連続ツイートでした。気づいてくださった方、先にお礼を申し上げておきます。つぶやいているうちに、だんだん切なくなってきちゃったよ。
2013.06.13
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星の動きを読む人たちは、満月に特別な意味を読み取る。まさにすべてが満ち満ちて、いよいよ新しい世界が開かれる、とか。2013年4月26日は、まさにそんな満ち満ちた一日だった。子ども・子育て新システム検討会議で各分野の方々の議論が始まったときに、まさか本当に総てのステークホルダーが同じテーブルについて子ども・子育て支援政策のこれからを語り合うようになれるとは悪いけど、想像もしていなかった。それが、見事に財源確保の約束もされ、社会保障の第4の柱に子ども・子育て・若者が仲間入り。そして子ども・子育て会議が実現。新システム検討会議ワーキングチームの時とまったく同じように会議が始まり、各委員が意見を述べた。しかし、この会議がスタートしたということの意義を改めてかみしめる。本当はこれからが正念場なのだ。検討会議ワーキングチームで積み残した基本方針というか、子どもの育ちを保障し、子育てを支えるための基本となる指針づくり。まずは各委員はそこに思い思いの注文をつけた。保育所・幼稚園と子どもの育ちを支える施設。どのような施設であろうと。そこで過ごす子どもたちの育ちを支えるという点では平等性を確保してもらいたい。量の拡大も必要だけれど、質の向上は欠かせない。そのための保育士や幼稚園教諭の待遇も重要。子どもを育てることに対する親の第一義的な責任を総ての親たちが果たせるような支え、環境整備。それでも親が十全にその責務を果たせない場合には社会で支える用意が必要。社会のさまざまな資源や人々が連携して子どもの育ちを、子育てを支える社会全体での連携の重要性。すべての子ども、というからにはしょうがい、難病、貧困にも言及して。保育のニーズ調査は、母子手帳を手渡す時から始めよ。全体に対するニーズ調査では、既存のしくみやサービスについてのみならず、当事者がほしがっていること、求めていることについてしっかりと訊き出せる設問を。企業の責任も重要。自治体は、地元地域の企業と連携を。子ども・子育て支援は未来の担い手を育てることを支える。各委員の熱い思い。これがきちんと反映され、とりまとめられていくことが求められている。ま、初回だから軽いジョブの応酬だとしても。立場の違いは鮮明で、決して平坦な道のりではないことは想像に難くない。このタイミングで、首相が成長戦略の中で待機児童解消を、育児休業最長3年間を語り、フィンランド大使館の外交官がイクメンがテーマの本の刊行を発表。フィンランドの幼児教育・保育を支えるのは保育所。就学前の教育も保育所で行われる。何より、子どもは騒ぐものと受け入れているお国柄。どんなに保育施設を拡充、育休を延長しても、子育てのしづらさという根本的な課題に社会全体で立ち向かわない限り、とうていかないっこない社会のありよう、違いが明らか。完璧なシステムなんてない。だから常に改善して行くのだと、件の著者は記者会見の席で語った。そうだよ。子ども・子育て会議の意義はそこにある。初めから完璧を目指すな。もちろん、より完璧は目指したい。そのための議論。しかし、最善を目指し過ぎて改変しづらいのはごめんだ。常に評価・分析を怠らず、変えることを恐れてはいけない。日々変化、成長して行く子と親を支えるのだから、状況に合わせてフレキシブルな対応が求められる。それを常に保障するための国家の根幹のほうはどうだろう?変えていいんだよと言いづらい動きが一方にはあり。ともあれ。まさにこれから正念場。満ち満ちて、時は来り。
2013.04.27
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年度末。何とか来年度を迎えられそうだという週末の夜、昨年のクリスマスの夕方に亡くなった友人宅へお焼香に伺う。忘れ形見のご長男が迎え入れてくださる。真新しい仏壇は、確かに昨今の流行とてもおしゃれな家具調。故人の好きだった生花が供えられている。何より目を惹いたのは仏像。そして位牌に刻まれた戒名の中の一字。「慈」そこに家族の思いがこめられていた。うん、彼女の業績や家族の思いはそうなんだよね。よかったね。位牌と遺影に語りかける。いや、本当の私の気持ちは違うところにあったけど。そのあとは、仲間と一緒においしい料理とお酒で。ああ、でも、昨晩は妙に肩が軽かった。そして、気づいたのだ。いつだか定かに覚えては居ないけれど、年も押し迫ったある晩、床に就いて何故だか、今夜私は死んでしまうかもしれないと思いながら眠りについたことを。ときに霊的な何かとシンクロする体験をしてきた。あれは、彼女の思いだったんだろうか?まさかね。そんなことはともかくとして。4年前の1月のあの日に、「これが今生の別になるんだろう」と覚悟、下北沢駅で頭を下げたとき、彼女の顔を見ることもなく、振り返りもしなかった。現実のこととなってしまったんだなあ。彼女が自宅ではなく病院で亡くなったことは意外だった。義姉と同じ経緯をたどったものと思っていたから。ジェットコースターの様に、なんども生死の分かれ目のぎりぎりのところを行ったり来たりの4年間だったという。最後のところで、家族総てが間に合った。願いは叶わなかったかもしれないけれど、すべては受け入れられ、祝福されたよね。ありがとう。ようやく言葉にできるのは、その一言だ。あなたの意志を継いで、とか、意外とスタイリッシュだったよね、なんていう有り体な言葉はすべて排除。だって、あなた、ものすごく野暮ったかったもん。そういうことを言えるのはわたしだけだって知ってたよ。なにはともあれ。ありがとうと、手を合わせ、頭を垂れます。
2013.03.30
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必死の思いで打ち込んだ長文の日記が、打ち終えたと同時に消えた。楽天のばか!
2013.02.18
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24年前の12月30日は、学生時代の友人の通夜だった。そして、2012年は再び近しい人の通夜だった。クリスマスの夕方、亡くなったという彼女は、仏教徒だったから、クリスマスとは無縁だったかもしれない。かつては同じ志のもと、活動を共にした。長い療養生活を経たのちの訃報をどのように伝えるべきか。哀しいことに、かつての同志の訃報を主だった人に伝えなおかつセレモニーにも配慮する立場にあった。ずっと見送る者でいたから、そこのところはほどなくして内々にけりを付けた。要は遺された人々が不快に思わなければよいのだ。花を手向けるために因果を含めてあれこれ申し出てみたら、それなりに配慮した対応をしてくれた。でも、故人に対する思いは、会場を埋め尽くしてもいいくらいだよね。その辺りはおとなの判断さ。あるMLには思いがけない方々からの哀悼メッセージが連なり。それでいて、私が知らないことは何もなく。そうやって2012年は暮れた。なにより、死を誰よりも恐れた故人が安らかであることが大事。そして遺族が納得出来るセレモニーであること。それらが満たされた後に、ようやく偲ぶことが出来る。まあ、そんな年の瀬ではあったな。思い出すことは数限りなくある。何度も書いたことも含まれる。ああ、やられた!と思わないでもないが、死に時は選べないよね。それでも、多分故人は思いを遺さずことなく往けたのだろうと思う。あとは、あなたたちに任せた。任された者どものみがそれを知っている。だから重い、けどね。おそらく、遺された者が総動員されたってこの国ではいつ叶えられるかどうかわからない望み。次代に引き継ぐよ。休みなのに、休めなかったのは、現世で生きる者たちに尽くした正。というのが、日本の正月の正体か?
2013.01.05
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何かと粗雑な私には、とても出来そうにない、どこまでやればOKなのかも自分なりの基準があるわけでなし、という自信のなさもあって、持っていても使わない(使いたくない)資格がある。訪問リハビリで母の元を訪れる理学療法士は、パソコン操作上で母が抱く疑問も一緒に考えてくれるし、電球の交換も気軽にやってくれる。しかし、別の日に訪問して来るホームヘルパーさんは規定で決められたこと以上のことはしてくれないし、おまけにやることがあまりに粗雑なので、介護認定切り替えと同時に断ってしまった。フレキシブルな対応が出来る人と、そうでない人。ひとつひとつのことが丁寧に出来る人、出来ない人。実際いるんだよね。ホームヘルパー2級講習では、確かに、決められたこと以上のことをやってはいけないと教えられる。が、実際に訪問してみて、どこまでがOKで、どこからがダメなのか、微妙に分かりにくい部分がある。廊下や窓をどこまで丁寧に拭けるかの違い、みたいな。スマイルはプライスレス、というファーストフード店のCMがあるが、こころからのスマイルを見せられるかどうかは、はっきり言って個人差があるよね。だって受け手がどう受け止めるかだもの。同じ人の同じスマイルでも、受け手によって評価は随分違うと思うよ。同じことは医療にも言える。相手が自分にとって名医かどうかなんて関係のないところで診療報酬が決められているもの。そこに対人サービスの難しさがある。あくまで受け手の主観によって評価が分かれるってこと万人向けに点数評価しづらいことそれを敢えて客観的に評価することの難しさ。
2012.12.09
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イベントがらみの出張や仕込み、さらにイベントと、10月はとても忙しく、途中でダウンしてしまった。11月もイベントがらみの出張と仕込みで確かに忙しさは相変わらずだが、10月の比ではない、にもかかわらず、どうしてこんなに疲れているんだろう。ぶつぶつ。と、あれこれ思い返してみたら、当たり前じゃないか。11月6日、夫の姉が親族一同に見守られる中、息を引き取った。享年60歳。4年前に副腎がんが見つかり、切除したものの、翌年には肝臓と肺、血液へ転移。抗がん剤の副作用に苦しみながら長女を嫁がせ、抗がん剤に見切りを付けて長男の結納と次男の独り立ちを見守った。今年の夏は何とか乗り切ったものの、秋風の立つ頃には車椅子の生活となり、いきなり寝たきりとなった。余命幾ばくもないことを悟った本人からイベントの本番直前の夫に電話がかかって来たのが10月初めのこと。時間を見つけては見舞ったが、見舞う度に、その衰えはあきらかだった。亡くなる当日、急報を受けて仕事を切り上げ駆けつけた、夫と娘と私の3人。息は荒く、ほとんど応答はなかったが、まだ息を引き取るまでにはしばらくの猶予があるように思われた。やり残した仕事のために一旦帰宅。私たち家族だけが、その場に居合わせられなかった。セレモニーは本人の強い希望によりごく親しい人たちだけで執り行った。僧侶も呼ばず、本人が生前好きだった歌の演奏と献花のみ。メインは、セレモニー終了後の食事の時間に、懐しい写真をながめながら、思い出話に花を咲かせることにあった。亡くなる1年前に葬祭場を見て回り、ぜひここでと決め、どのような式を執り行ってもらいたいか詳細に書き記していたという。遺族は、総てを故人の願い通りに執り行った。そこには、家族の故人に寄せる強い思い、愛があったと思う。が、遺された家族にとっては、そこからが本当の弔いの始まり。こみ上げる思いを、参列者のために、故人が望んだセレモニーの完遂のために押しとどめる遺族の姿が私たちの涙を誘った。最も泣きたいときに、思い切り泣けたらいいのに。誰もそれを咎めはしなかっただろうに。故人の思いと遺族の思い。実は相反するのだろうな、とこれまでの経験からも思う。生前の業績があまりに大き過ぎて、本当に悼んでいるのは誰なのか分らないくらいの盛大なセレモニー、大勢の参列者に向けて、「どうかご遺族のために場をお譲りください!」と斎場の人が叫んだセレモニーに参列したことがある。そのとき、私は遺族のひとりだった。そんなこととは無縁の、手作りで暖かいセレモニーだったが、やはりセレモニーは遺された人々のためにあるのだろうと思う。華美にしないでね、お金を無駄に使わないでね。もちろん、そういう故人の思いには私も共感する。もっともだ。でも。この世で執り行うセレモニーなのだから、残された人々の思いも、そこに込められて然るべきだ。こうして、先人から学ぶのだ。押し寄せるやるべき仕事の波をさばきながら、誰もが仕事のみに生きているのではないと強く思う。静かに悲しみに浸れる余裕さえ持てない現世はどこか違ってしまっている。それは私自身のことではなく、夫の日々を思いながら痛感することだ。いろいろ思い至ることが出来なくて、ごめん。
2012.11.25
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はからずも書いてしまったことが彼の地では重く大きな意味を持つことだったんだなあと思う。墓前で手を合わせられること。「千の風」という歌が生まれるずっとずっと前から亡くなってしまった人の墓前で語りかける安堵感を知っているので、そのことに対しては強い思いを持っている>私。例えば、9.11の時には、わずかな残り香でさえ、遺族にとってはかけがえのない遺品だったんだよね。3.11に関しては……。墓前に手を合わせられることがまさか有り難いことだなんて、思いもかけなかったよ。身もこころも、未だ元通りとは言えない。でも、何とか生きている。生かされている。悪いけど、このブログでは、ほかでは言えないことも書いていたりする。匿名ということもあるとは思うけれど。ときに、そういう場が必要だということ。
2012.09.25
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お彼岸。仕事でお墓参りに行けない夫の分までちゃんとお参りしようと娘と出かける。その前に、学会帰りの妹と品川駅構内でランチ。学会帰りと言っても、名古屋での学会の帰りに実家に立ち寄り、母とじっくり話をしてからの帰り道。妹の周辺で、何やら生臭い話が立ち上がっているらしい。本人たちは、ただひたすらにこつこつと研究に打ち込んで来ただけらしいのだけれど。やっぱり簡単に止めないで続けている者の勝ち?本当は、勝ち負けはどうでもよい。それを探求して行こうと決め、納得出来るまで、ひたすらに続けているだけなのだ。科学者って、ほとんどがそんな感じだよなあ。ターゲットを徹底的に追跡出来るだけの技術を身につけバグをとことん排除出来るように正確さも追求して数えきれないチャレンジを繰り返し、ようやく見えて来るものがある。そうやって、感染症の原因菌を突き止め、感染経路や防御法、治療法も解明。がんやその他おびただしい数の疾患、病的状態をあぶりだし、治療に結びつけて来たのが医学。同じように物理や化学も発展して来た。科学は知識。謎の解明と追求。工学は、そうした事柄を人間社会で役立てるための方法。医学と医療の違いも同じだ。しかし、どちらもこの世界の解明には、まだまだほど遠いらしい。解明作業の傍らでビジネスという生臭い動きもある。でも、人ひとりの幸せは、理論や理屈とは関係なく。親しい人たちとおしゃべりしながらおいしい料理を食べたり、親しかった人たちの墓前で手を合わせることなどによってもたらされることのほうが多い。妹が一生懸命話してくれることにほんの少しだけ交通整理の間の手を入れ、自分なりに理解した上で強く頷く。家族が出来ることはそれだけ。多分、彼女が望んでいるのもそういうことなんだ。墓前には、桐の箱に入ったとびきり上等のお香を持参。馥郁とした沈香の香りが煙とともに立ち上った。海辺の墓地でも、誰かが手を合わせてくれただろうか。大丈夫。あなたがたの子どもたちは、今日も粛々と生きておりますよ。
2012.09.22
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子ども・子育て関連3法が成立、社会保障経費に子ども関連が入ってようやく4つ葉に!でもでも。この国は1局集中が進んでいて、山間部は特に限界集落化が進行しているのだよね。それを、200近くの市区町村のHPに当たってみて実感。新しい子ども・子育て支援の仕組みのもとではすべての市区町村に子ども・子育て総合計画の立案が義務づけられる。しかし、少子化対策特別法と次世代育成支援法のもとで立案されたはずの次世代育成支援行動計画を地域健康福祉計画や自治体総合計画に吸収させる形でなければ立案出来なかった“限界集落”寸前の自治体のリアルを痛感した。10月半ばに予定しているイベントの広報のために近隣の自治体すべてのHPにアクセス、状況を垣間みてみたのだ。わずか人口1000人の村にも地域子育て支援センターや子育てひろばが設置されている。次世代育成支援行動計画は、ない。高齢化が進行し、高齢者への対策が第一であり、若い世代が迷い込んで来る可能性も極めて低いと思われる地域であるにも関わらず。これをどう受け止めるべきか。いつ生まれるのかも判らない命のために諸々を整える義務を負う。高齢の方々は、なにより若い命に出会うことが好き。それだけで、子どものいない村に子ども・子育て総合計画立案を押し付けられるのか?西日本の山間部の現状に、気持ちが沈んで行く。赤ん坊が生まれない日。それは未来の出来事ではないのだ。すでに、いくつかの村や町で起きている現実。それでも、子ども・子育て総合計画を義務づけるのか?ちゃんと財源的な保証を付けるのよね?そういう地域に対しても。東日本大震災が発生したときに即座に感じたのは同じことだった。衰退しようとしている、忘れ去れようとしている地域に激甚災害がおよんだ。これを、どのように読み解くのか?と。彼の地が思っていた以上にこの国の屋台骨を支えていたことも痛感しつつ。4つ葉が確定しても喜べないのは、そんなこと。内憂外患、まさに今!
2012.09.18
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テーマ選びはどうでもいい。ようやく念願が叶い、任務完了までのカウントダウンが始まった。もちろん、それだけで満足する私たちではない。ちゃんと次の一手を仕掛けている。企画趣旨が決まったら、登壇者の選定もアプローチも即座に始まる。日程も会場もあれよという間に決まる。広報態勢も万全。本業よりも確実、着実に、しかもスピーディーに進んで行く。これが出来るメンバーは、この業界では私たちだけだろう。打てば響く私たち。最高のメンバーだ。もう、何も言うことはない。
2012.09.05
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未だ実感が湧かないのは致し方ないね。まず第一に残念だったことに、宿願叶った当日は夏期休業初日だった。社会保障のしくみに、子ども・子育てを加えて、4つ葉のグローバーに。もうひとつ。子ども・子育て支援にも国家的財源確保を。高齢化社会が予言されてから30年で達成された介護保険制度。子ども・子育て支援は20年、かな?法案が可決成立。もっともっと喜んでいいはずなのに、またしても政争の具にされかかり、政局のおまけつきで、はらはら、どきどき。可決成立した週の月曜日に暗ーいメールを某MLに投げた。でも、金曜日には、好転。ぱちぱちぱちぱち……。その前の週末、勝手に老舗ピアホールで祝杯上げてたけど。なんとなく実感が湧かず、今日、ようやく仲間と祝杯を上げる。心からおめでとうと言えたのは、この法案成立に向け陣頭指揮を執って来た方が満面の笑みをたたえていたから。まだまだクリアすべきハードルがある。だから、関わる活動が終了するのはずっと先のこと。でも、ひとまずはお互いの労をねぎらい合ってもいいよね。一緒に乾杯したかったけれど叶わなかったいくつもの笑顔を思い浮かべながら、乾杯!3年前の政権交代がなければ、今日という日は来なかった。ワンチャンスをモノに出来て、本当によかった!
2012.08.27
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慌ただしかった7月もようやく終わる。これまでの慌ただしさのおかげで、今年度の事業概要もおおかた固まり、最後の仕上げの段階に差し掛かっている。珍しいことに、秋には関西でのイベントもある。かつて父の診療所があったところからほど近く、とても懐かしい場所での開催だ。周辺地域のあれこれを調べていたら、これまで思いもかけなかった視点が開けた。夫の実家ではなく、妻の実家と同居の子育て。こりゃあ、随分気楽だろうなあと勝手に思っていたのだけれど、もしかしなくても、かなりやっかいなことになっていたかもしれないぞ。非日常という状況でしか、実家を捉えていなかったからね>わたし。「バラの檻」という言葉をご存知だろうか?贅を尽くして娘を育てることを言う。最上級の衣食住環境で育てる。するとどういうことになるかと言えば、たとえば学生食堂の食事では我慢出来なくなるのだ。「値段の割に美味しい」なんて思わない。値段と味が正比例していると知るや、大学の学食には近づかなくなる。学生向けの定食屋にも多分入れない。ほかのことについても同じこと。学生の分際には見合わない暮らしを維持したくなる。親掛かりなら、すべてが可能、というところが、ミソ。それがね、結婚したあともずっと続くのだよ。良家のエリート、もしくは将来を嘱望されるエリートと結婚。親掛かりで瀟洒な家に住む場合もあるけど、男性の側を立てて社宅からスタートの場合もある。生活の質を維持出来ない安月給で狭い社宅住まいでも、実家の絶大なるバックアップがある。目利きの親が射止めた伴侶。まず間違いはない。ので、ほどなくして海外勤務になったりする。というようなことを経て、生活の質は落とすこと無く妊娠・出産・育児においても全面的なバックアップがなされる。もちろん、孫のためならますます財布の紐を緩める実家。いや、ご本人がそれを当たり前のこととして受け入れているなら何ら問題はない。でも、そういう方々ばかりじゃないでしょ?「バラの檻」で育てられても、やんちゃの人は居る。親に服従した振りをしつつ、いつか親の檻から飛び立とうと狙う。(そこで親の側も試されるのだけれど)鎌倉武士の質実剛健をモットー育てられたおかげで「バラの檻」とは無縁だったクァタ氏だけれど、「バラの檻」で育てられた友人は多かった。なんだ、私自身が楽しければ、それでいいじゃんと吹っ切れた友人もいる。でも、そういう人ばかりじゃないのよね>彼の地。「バラの檻」という子育てが存在する彼の地での育児はさぞや大変だろうなと、思うのにはその土地で育った者でなければ解らないことがある。嫁姑問題も深刻だが、婿をためつすがめつするという文化キツいよね。関西のはそれがある。子どもへの愛、と敢えて行っておこう。実の母とふがいない伴侶との板ばさみはキツいよ。実の母に殺意を抱きそうになるくらいに。というのが、阪神南地域の実態だと、実感を持って言える。
2012.07.30
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そうか、今日は母の誕生日。ということとは全く関係のない話。消費税増税するなら、子ども・子育て分野への恒久財源にも充てろというロビー活動に携わって来た。零細企業の経営者である夫は、妻がそういう活動に関与していることに不快感を隠せない。でもまあ、その必要性は痛感しているので家庭内不和には至らない。人は、いろいろな立場を使い分ける。2歳児にして、すでに両親の特性を見分けて使い分けている。国会の表と裏、誰もいないときのつぶやき。それらをつぶさに見て来てこれだけは言える。何かと評判悪く、どじょうの好む泥臭ささえ感じさせる現総理。彼は民主党に向けられるすべての批判、非難を一身に受け止めている。つまりは壁。野党が社会保障関係でいちゃもんつけてうざいから、ともかく消費税増税は実現させて、取り敢えずは増税分を一般財源として地方公共団体に渡せば良いじゃんという暴言を吐いている一派の存在は確認した。でも、それは現総理ではない。脱原発を実現させるためには国内のすべての原発を停止させたままではあまりにハイリスク。これはハードランディング以外の何者でもない。だから再稼働宣言をする。再稼働反対署名が800万筆近くに達しようとも。なぜ、そこまでするのか。壁、すなわちスケープゴート。それを自ら選んだってことだね。ともかくオレが悪者になるから、手段を選ばずにやれ。昭和の妖怪は、安保で首相を降りた。現総理は、社会保障と税の一体改革のみならず、3.11以降の立ち直りを実現させる道筋をつけるため、壁になってるんだ。あまりに不器用だけれどね。でも、その覚悟だけは了解したよ。昭和の妖怪は、暗躍して妖怪と呼ばれたのだけれど、現総理が愚直に壁となっていると了解したとたん、改めて、平成、21世紀は、これまで以上に善意の人に犠牲を強いる時代なのだと悟った。
2012.06.13
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取り敢えずは、直球を投げたいと思う。保育所での保育の質を問う声は多いのに、なぜ、幼稚園での幼児教育の質は問われないのか?例えば、認定こども園へ移行させるために始まった幼稚園の預かり保育=延長保育。実態は、アルバイトの職員を配置、ところによっては、ビデオを見せているだけで、お昼寝したい子どもがいてもお布団の用意さえない。こういうところ、保育所育ちの親子には文明との衝突くらいの違和感、インパクトがある。保育は生活支援、幼児教育は教育。親が子どもを託すときに、どちらを選びたいか?と言えば、当然前者だろうと思う。そりゃ、4、5歳児はかなり自分自身の身の回りのことができるようになっているし、何より3歳児未満と比べて、簡単には死なないくらいに丈夫。しかし、働く親にとって、安心を提供出来ているのはやはり保育所での保育なのだとも思う。その違いはどこにあるのか?と問えば、幼稚園児は通常保育を終えれば、あとは母親に子どもの養護責任を返すシステムでなりたっているものだから、だ。一日のうち、たった4時間の集中プログラム。それが幼稚園なのだけれど、子どもは24時間活動している。あとは保護者にお任せで成り立っている幼稚園と生活の大半を支える保育所との違いは明らかだ。子ども・子育て新システムで論争ポイントのひとつになった幼保一体化。幼稚園昨日と保育園機能のよいところを一体化させた総合こども園化を進めるというもの。真っ先に出されたのが、すでに幼稚園と保育園とがひとつの施設に併設された形の認定こども園制度があり、平成24年現在、911件が認定を受けている。すでにある制度と同じものなら、既存の制度を改良して行けば良いだけではないのか?それなのにん、なぜ総合こども園と名前を変えるのか。認定こども園と総合こども園、どこが違うの?違いは、ほとんど感じられない。幼稚園と保育園というそれぞれが文科省と厚労省という別の省の管轄下にある施設を、ひとつにまとめようとすることから生じる認定申請の手続きの煩雑さ。幼稚園は都道府県、保育園は市区町村が直接的には監督するため、設置後も、何かと言うとそれぞれにお伺いを立てなくては行けない。書いているほうも混乱してしまいそうな、煩雑な施設が、何故誕生したのか。同じ子どもが通う施設なのに、親の就労の有無で施設が違うというのはどうなの?幼稚園ってお弁当食べたらおうちに帰るけど、午後も子どもを見てくれるといざというときありがたいなあ。でも、預かり保育は、子どもの成長を充てにして、保育所のそれと比べたら、内容は明らかに貧しい。幼稚園に託しているというだけで安心している親御さんの信頼を裏切っている可能性は否めない。でも、幼稚園の実態はなかなか明らかにされていない。建学精神、理念と言えばかっこいいけど、今、幼稚園で行われている幼児教育に疑念を抱いている。保育には養護と教育。では、幼児教育は教育だけなの?多分現場で奮闘している教諭たちは否を唱えるだろう。しかし。社会的には奮闘部分は保育所でのみ認められ、幼稚園では教育が行われているからと、実態を問うことなく、何となく高尚な雰囲気のみをそこはかとなく伝えるのみで、誰もまともに検証しようとしていないように感じる。教育という言葉だけで思考停止?それ、おかしくないか?
2012.06.06
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現在、国会で審議中の社会保障と税の一体改革法案で反対勢力の猛烈かつ執拗な攻勢に合い、今回、初めて社会保障に組み入れられようとしている子ども・子育て支援分野が、またもや窮地に追い込まれている。自民党政権時代から、ともかく認可保育所を増やせ、なくすな!と、はがきやファクシミリを関係者に向け大量に送りつける戦法を繰り返して来た反対派に、子どもは家庭に押し付けておきたい前政権党とがタッグを組んだ。保育所と言えば、一応は子どもと親の味方という位置づけだったのに、働きながら育児をする親が大嫌いなはずの超保守な人たちとがタッグを組むなんて、気持ち悪いよね?でも、事実なんだ。悪いけど、あなたがた、保身と勝手な価値観の押しつけをしたいだけで、子どものことも親のことも全く考えていないでしょ。それなのに「子ども・子育て新システムは児童憲章と 児童福祉法に反する」なんて、よく言えるよ。同じ会合で、タッグ組んだ相手が「子ども分野には財源渡さない」と言ってるんだよ。おかしいだろう、それは。保育所で子どもと親のために一所懸命立ち働く保育士の方々には頭が下がる。が、申し訳ないけれど、保育所という施設、制度そのものは雇用対策であって、子ども・子育て支援とは言い難い。働き続けるには、働いている間、子どもの面倒を見る人が必要だからね。それなのに、子育て支援という言葉が使われるとき、多くの場合、保育施設の話だったりする。おかしいだろう、それは。本当にわかっているんだろうか?保育所って「保育に欠ける」と認められた子どもたちが過ごす場所。でも、哀しいことに、今、保育に欠けていないと認定され在宅で育てられている子どもたちにこそ、救いの手が必要だってこと。ほら、大阪市で遺体となって発見された幼児さん二人は保育に欠けた状態だったのに、保育所とは無縁だったんだよ。ほかにも、子どもが犠牲になった事件で、地域の子ども関連施設と縁がなかった例は多い。さらに、貧困と認定出来る低所得世帯に専業主婦が増えているというデータもある。これらを、どう考える?現実に、0、1、2歳児の7割以上が自宅で過ごしている。地域の関係も薄く、サポートも少ない。東日本大震災被災地でのヒアリングでも、直後に最も情報不足で困窮していたのは、乳幼児家庭と高齢で一人暮らしの世帯だった。高齢世帯の状況も深刻だが、子育て家庭の状況も深刻だ。本当に必要なこと、現場のこと、実情について、わかっていない人ほど、新しい動きに反対している。そう受け止めざるを得ない。民主党政権になってから、何だかものが言いやすくなったと言ったのは我が母。しかし、あっという間にある種のことに対してはものが言いにくい同調圧力も一方で働いている。それにしても、だ。現政権党はあまりに相手の意見に耳を傾け過ぎているのではないか?と思う。拝聴する姿勢は好ましいが、耳を傾け過ぎるのもまずいだろう。何より周囲が誤解するじゃないか。そういうことはともかく、本当に今、なんとかしないと、女性は誰も子どもを生まなくなるだろうし、若い世代ほど、あほらしくて将来のことなんて考えたくないてな状況は加速して行くと思うよ。
2012.06.01
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今朝、一緒に出かけたときにはブロンドだったはずの娘の髪の色が帰宅したときには黒くなっていた。反抗期は2カ月足らずで終わり?ここひと月ほどの娘のことを備忘のために記しておこう。髪の色がピンクになったことも重大トピックだが、やはり家族が増えたことも重大トピック。娘の部屋には、いまフクロモモンガの「こふで」が棲んでいる。一番飼いたかったのはキツネだったのだが、あまりに難易度が高いこととお値段もお高かったことから断念。友人が飼い始めたフクロモモンガの愛らしさにモモンガ熱が再燃したらしい。しかし、わんこの立場はどうなる?彼女が我が家に来たのは、あなたの強い願い故だぞ。「モモンガが滑空する家になんて 住みたくない」そう言っていた夫は小筆の写真をさっさと撮影、facebookにアップしていた。姿形は愛らしいが、なかなか人に慣れそうにない。夫や私の声が聞こえただけで威嚇音を発するし、わんこが花を近づけてもうなる。それでも、こふでが我が家にやって来てからというもの、朝になると、わんこが娘の部屋のドアの前で「くぅーん」となくのが日課になった。夫も娘も「嫉妬してる」と言う。違うと思うよ、それ。ただ、仲間に入れて欲しいだけなんだと思う。ともかく、こふでの面倒はすべて自分が見るというのが娘が提示した条件だった。だから、遠巻きにして見ているだけ。それでいて、ミルクを与えるために早起きしなくてはならなかったり、大学の友人のところへ泊まりに行けなくなったりということが続くと、思わず弱音を吐く。「シングルマザーの気持ちがよくわかる」おいおい。シングルマザーじゃなくても状況は同じだよ。そう言いたくなるのをこらえて苦笑する私。そんなこんなのひと月足らず。こふでは、かなり娘に慣れて来たようだ。たまにケージから脱走して、部屋の中をひらひらと動き回っている。誠に申し訳ないね>こふで。木の上に棲み、滑空を好む生き物。人の生活とは、かけ離れた環境で生きる。家の中にそんな野生が暮らしているというのは、なかなか愉快な気もする。娘の夢は、わんこの頭の上に、こふでが乗るようになること。実現するまでに、何カ月を要するだろうか。
2012.05.21
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今年もケーブルテレビ会社から、テレビ端子の検査をやりたいと言って来た。もろもろテンパっている最中に連絡があったものだから、断ってやろうと思った。だって、テレビ端子は本棚の裏にあるんだもの。本棚は簡単にかせないよ。が、PCでの細かな作業が要求される仕事が思いのほかさくさくと片付いたことと、本の山がいよいよ大変な状況になって来たこととで本の整理をするチャンスと捉えることにした。で、先週末はひたすら本の整理。150冊強処分したら、豪華晩ご飯が作れるくらいの収入に。しかし、どうしてこの世には、こんなに面白い本がたくさんあるんだろう。つくづく感心してしまう。久しぶりにクリストフの「悪童日記」(早川書房)を読んでみたら、思わず引き込まれてしまって、最初に読んだときには、まだ刊行されていなかった三部作を一気読みしたくなって「ふたりの証拠」(ハヤカワepi文庫)と「第三の嘘」(ハヤカワepi文庫)を購入。合間にフランクルの「夜と霧」(みすず書房)を思わず選んで通勤のお伴に。このところの「きれいごとはもういいよ」って気分にジャストフィット。フランクルの一番のお気に入りは、「それでも人生にイエスと言う」(春秋社)なんだけれどね。面白い本の山に囲まれるのは至福。さらに、本棚にどのような本をどういうカテゴリーに分けて並べるかというのも楽しみ。今回も、ほとんどラインナップを変えてしまった。相変わらず、ままならない毎日だけれど、少なくともやさぐれてはいない。山のような本たちが支えてくれている。
2012.04.27
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長い春休みだったが、ようやく娘の新年度が始まったらしい。今年は特に周囲で入学イベントが多いようなのだけれど、その準備にあたふたしている仲間の様子を見ながら、入学後も、毎年春には書かなきゃならない書類を山のように渡され、悲鳴を上げる……のは、これからか。大学から送られて来るのは学費の振り込み用紙ぐらいで、書かなきゃならない書類は送られて来ないし、大学生ともなると、親に出来ることは学費を払うことだけだねえ。散歩しながら、夫としみじみ話す。こちらが出来ることがほとんどないってことは、それだけ一人前に近づいているってことか>娘。2月、3月と人材派遣会社の入力のバイトで朝から晩まで拘束される日々を送っていた娘。フラストレーションが随分たまったようで、何と髪の毛をピンクに染めて来た。もっともピンクはすぐに落ちてしまい、ほとんとブロンドなんだけれども。「思いっきり頭悪そうな格好がしたい」んですってさ。ブロンド頭でジャージのオールインワンなんてきた日には、本当に悪そうな感じ。就活も射程に入れて、諸々資格取得に励むらしい。それは頼もしいとは思うけれど、そのブロンド頭じゃ、元のバイト先でも働かせてくれないと思うの。「なんだか何もかも捨てたい!という気分。 そう言ったら、ともだちが 今、ものすごく疲れているんだから、 何もしないで、ただただ休んでなさいって」なるほど、賢くも優しい友がいてよかったね。しかし、自暴自棄になるくらい働かなくてもよかったのに。何事も経験してみないとわからない。2カ月足らずのオフィスワークで自暴自棄か。事務能力があることは証明されたけれど、事務職に就かないほうがいいかも。母も今は遊びに行く暇すら作れない状況だけれど、もっと遊んだほうがいいと思うわ>娘。
2012.04.05
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3日間、どんなメールが届いても、絶対に返信しないつまりは仕事しない!と決心。いやあ、残り時間7分の現在、実行出来ているわ。天気予報が外れた昨日、本来ならば出かけようと思っていたアートイベントに出かける。なんといっても、お天気がよいし。西高東低で冬型、というのでそれなりの重装備だったのだけれど、3月下旬の陽射しの強さを計算に入れていなかった。小1時間歩いたら、汗だくで。六本木ミッドタウンから、かつての職場があった場所へ移動し、途中いろいろ立ち寄って、原宿駅からJR。20年経過して、生き残っていた飲食店が1軒もなかったという界隈>乃木坂。昨年立ち寄ったハンバーガーショップが今月末で閉店?青山も、似たり寄ったり?いやいや、生き残ってるお店は結構あるよ。そんなことより、日曜の朝、ゴミを拾い清掃に励むボランティアが六本木の街を支えていたことを、知った。やるじゃん。毎日が今日みたいだといいのにね。次の週末から、ぜひ行きたい展覧会が、大好きなH美術館で始まる。今年は見たいものは全部見ておこうと、思う。
2012.03.25
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最近読んだ言葉の中で、最も共感したのは「「医療」と、「福祉」と、「教育」。3つは似ているようで、全然ちがう。」という言葉。混同されやすいけれど、この3つは似て非なることなのだ。子育て支援と一口に言うが、福祉のプロフェッショナルと教育のプロフェッショナルとでは、アプローチの仕方からして違う。が、カナダで見た子育て支援は、見事にふたつが融合していたな。実は子どもが育つ環境には、上記3つが重要だったりする。重層的、複眼的な関わりが必要。多分、高齢者に対しても同じなんだと思う。真ん中の壮年層(いわゆる生産人口と呼ばれる年代層)は、生涯教育の対象でもあり、定期的に医療的見地からのサポートを受けつつ、あまり福祉のお世話にならずとも暮らしていける人々が大半を占めているというのが、現在のこの国での 前提条件らしい。勝手に国の方で設定しているものだから、上記条件からはずれたら、案外大変な目に遭う。なかなかオーダーメイドになってくれないね。せめてレディメイドぐらいには進化してもらいたいものだけれど。自己防衛的には、3つの違いを言語化出来るくらいにはなっておきたい。でないと、思わぬところでしんどい状況に陥る。はい。経験者は語るのですよ。家族であるということは、3つのいずれかが家族の誰かに必要となった場合、ちゃんと享受出来るだけの環境を整える義務があると言えるのかもしれない。しかし、家族が誰もいなかったら?そのときこそ、まずは福祉の出番なんだろうね。(ちゃんと対応出来るようになってるかな?)あのとき、夫が言ったのは、「その人には、ちゃんと家族がいるんだろ? だったら、家族に任せればいいじゃないか。 他人がどうこう出来ることじゃないよ」この言葉は正しい。自分以外の誰かのために、何か出来ることはあるのか。もちろんあるのだけれど、ときとして、あまりにおこがまし過ぎて何も出来ないこともある。そっか。娘には、「この人を介護することになっても一緒にいたい」と思える人を伴侶に選びなさい、と伝えておこう。「僕のほうが先に逝くからね」相変わらず、そのつもりでいる夫にそれではあまりに私が寂しいのですが、と言い続けている現状ってのもあるけれど。
2012.03.22
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昨年5月に訪問した方が東京でご講演と聞き、あるシンポジウムに参加する。ファシリテータはもちろん、主催者も友人。先月ニューヨークは国連本部で人権に関する発言を行った福島から東京に避難中の小学生が、ワークショップでの諸々を報告。年格好と語ることがとの大きな乖離に誰もが痛みを感じる。まるでおとなのような物言いをする子どもとして、かつて私も要注意な子どもだった。本人には、おとなたちが騒ぎ立てるような理由、自覚(なぜ、子どものくせにというような)はなかった。彼は違う。こういう物言い、言語を駆使しなくては自分を含めた福島の子どもたちの現状をおとなたちに理解してもらえない。だから、僕はおとなが言わんとする背伸びをする。背伸びした表現を使い、発言する。その覚悟。徹底している。でも、同い年の子どもたちとの関係を保つため、そろそろ今の言動は慎みたい。用は、子ども仲間から浮いてしまいたくないということだよね。しがらみ?シンポジウム終了後に、ファシリと仕掛人その3くらいの友人と打ち上げ。もちろん福島県内在住の友人も一緒。子どもを侮ってはいけない。我が娘もそうだったけれど、自己主張する勇気ある子どもをちゃんと守れなくて、どうするんだ?言わされているんじゃんかうて、自ら物申している子ども。今の日本では、そういう子どもがつぶされる現実。つぶされたくないから、と、時限的に自らの能力を抑えてしまう子ども。これじゃ誰も、持てる能力を延ばせないじゃん。ただただ。うなだれるには、訳がある。
2012.03.19
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卒園式や卒業式の便りを訊き、無事にセレモニーが執り行われたことがなんとも有り難いことだなあと思う。それが1年遅れのものであったとしても、ね。このところ、作業に邁進し過ぎていて日にちや曜日を間違える。自分自身を解放してあげないと、ダメだな。と、思いながらも、今月末までの作業の混乱ぶりに思いを馳せれば、軽くめまいがするくらいだ。せっかくの週末なのに、お天気が味方してくれないしさ。庭の花壇では、チューリップが育ちつつある。まだ、つぼみをつけるには時間がかかりそう。梅がようやく盛りで、桜の木々に、ようやくつぼみが目立ち始めた。比較的温暖だった16日には、黒の皮のジャケットに明るい色のチェックのスカート。娘に勧められてスカートを選び直したのだけれど、おかげで、装う喜びを久しぶりに味わえた。なんて、ちょっと大げさかもしれないな。でも、防寒に専念せざるを得ない気候ではあったので、ハードスケジュールに加えて、おしゃれを楽しむゆとりもなかった。実家に滞在中の娘が、ばあばのクローゼットから適当にコートを拝借したのだけれど、いきなりばあばの一張羅であるカシミアのコートを選んだのには笑った。茶系が好きだからね。で、「絶対に着ない!』と言っていたムートンのコートまでちゃっかり着込んでいたりして。諸事に忙殺されて、おろそかになっていることを、娘に指摘されているような気持ちになる。いかんなあ。今年は、もっと自分自身を大切にしたい。せっかく日常を堪能出来る環境にいるんだもの、それを謳歌出来なくて、どうするんだ。美術館にもコンサートにも行きたい。
2012.03.17
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母のために行った介護申請の結果が出た。「要支援1」と、希望通り。これで、レンタル中の歩行器及び週1のホームヘルパーさん訪問にかかる費用が1割の自己負担で済むことに。本人は半年後の再認定では無罪放免となることを勝手に予想しているらしい。その意気や、よし。昨秋、入籍だけは済ませ、2月に待望のベイビーを授かった甥っ子夫妻を祝う会が春分の日に開催とのこと。なかなかいい感じだよね。光の射す方向てな感じだ。義姉が、抗がん剤治療を終了した。がんを叩くことが出来なかったので治療終了とのこと。あとは、なるがままに任せるという選択をした。手術から1年後に転移、余命まで宣告されて始めた治療。それを思えば、姪(長女)の結婚式にも出席出来、さらに1年後の今も健在。今年の末には、甥(長男)の挙式も予定されているらしい。これも励みになる、はず。いいことばっかじゃないけれど、それでも人は、生きられる限り生きていく。今日、やっとひと仕事終えた私。数年後には、仙台に転居、かもという夫の真摯な悩みを聴いた夜のわんこの散歩。ここから、再び、転換期に入るのかな。
2012.03.13
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うん。1年前は本当に一家離散だったけれど、今年は、家族みんな一緒。何より有り難い、と思える。思いがけず、阪神淡路大震災のみならず、東日本大震災でも家族がすべて巻き込まれた。それをことさらに人に伝えようとはしなかったけれど。昨晩は、今日の夕方、世界中からの支援に対する感謝の歌を、保育園の子どもたちが歌うからとメールを頂戴した。今朝は、彼の地に電話。テレビは見ずに使命を全う、とのこと。大事は起こらず、無事に今日を過ごせたことに感謝。思えば、1.17の1周年も、そんな感じだったかな。とふと。
2012.03.11
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夕方に帰宅して、3.11で命を奪われた方々に向けた鎮魂の打ち上げ花火があることを思い出し、あわててブックマークしておいたユーストにアクセス、鎮魂の花火2万連発を見る。ブログを書いていてよかったと思えるのは、マメに書いていたら例えばちょうど1年前に何が起きていたかなんてことも記録されてるってことだったりね。ちょうど1年前の日記にはER最終回のことを書いていた。で、夫は出雲へ出張だったから、3.11の前日からわがやは一家離散だった訳だ。(娘は既に福島に居たので)そうか、ER最終回だったか。ということのほうが、1年後の今は感慨深い。なんだかあまりに乖離してしまったような気がして3.10以前の日記は読む気がしなかったのだけれど、今頃になって読み返してみたら、案外、ほっとしたり、ね。この国は、というかこの国の意識は未だに東京を中心に成り立っている。○十年前に、大学進学で東京に来て、それまでは触れることのなかった東日本の文化に触れた。東京は東北の一部だと、勝手に認識したのは、京都で生まれて西日本で育ったからだ。春に上野駅に降り立つ集団就職の人々のことを実際に存在する人々だと実感できたのも、東北新幹線が開通する以前の上野駅を訪れたことが大きい。文化の違い。と言えば簡単だけれどね。1月末の仙台でのイベントに参加してくださった方々の中には学生時代に阪神淡路大震災を経験したものの当時は何も出来ず、仙台で被災したことを機に、今度こそ、ちゃんと役に立つことをしたいと思ったと打ち明けてくださった方がいた。案外、そういう方は全国的にも多かったみたいだ。ケーブルテレビでアメリカンアイドルを見ながら、地上波での、津波被害が激甚だった自治体の復興に向けて次々にハードルが立ちはだかり未だ道半ばという特集も見る。ともかく、c
2012.03.10
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3.11を都内某所でのイベント会場で迎えた。今日、そのリベンジとなるイベントが行われたのだけれど。験を担いで、欠席。そんな風なこと、考えて去年と違う行動を敢えてとっている人、意外といるんじゃないかと思う。1.17のときだって、1周年を迎えるにあたり結構緊張したもの。諸々作業の後処理で、寝不足。朝一番で会場下見に出向いたけれど、今日は一日中眠かった。夫に「寝なくて大丈夫なのか?」と。ま、そのときがきたら、あっという間ですわよ。もう、いちいち気にしていられないでしょう。祖母が今の私の年齢の時、私が○歳だったということを思い。一瞬先は闇だってことも痛感し。それでも、世の中に迷惑をかけたくないと験をかつぐ。メールの返事が出来なかったこと、申し訳ないけれど。
2012.03.08
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このところ日記を書くのがおろそかになっている。それどころじゃない多忙さというのもあるのだけれど、一番の理由は、アップした数が西暦を越えてしまったということ。未来の日記を書いているような気持ちになるのだ。ちょうど年度末で、1年の振り返りの時期。震災からもうすぐ1年ということで、テレビのほうも震災当日と、その後を振り返る特集が多い。現下の多忙の最大の理由も年次報告書の作成で、なんだか内容が酷似しているんだよね。未来は判らない。過去はいくらでも振り返ることが出来る。未来は変えようと思えば変えられる可能性があるけれど過去は変えられない。しかし、過去から学べることの多さと言ったら……。震災で人生が変わってしまった人々にたくさん出会った1年だった。変えられたしまった人、ではなく。自ら阪神淡路大震災で被災した内田樹さんはかつての被災地だって復興出来たんだから東日本も必ず復興出来るとおっしゃっていた。確かに。傷跡探しはいくらでも出来る。しかし、彼の地は、そんなこと願っていない。それはもう、痛いほどよくわかる。それでも、人生を変えられてしまった人は、まだ傷が癒えていないかもしれないな。そちらのほうにどうしても気持ちが向かってしまう。昨年10月に仙台で聞いた「かくれ被災者」という言葉が、今、一番重く感じられる言葉だ。認めることも、受け入れることも出来ないことがある。認めたくない、受け入れたくない気持ち、「困っている」と言えない辛さ、と言うか。かつて、自らの経験が原動力となって手弁当で関わった活動なのにウェブ上で一方的に「“仲間”を食い物にしている」と攻撃され、言葉に傷ついたけれど誰にも打ち明けられず、いきなり手を引いたら案の定激嵩されて、本当にどん引きしてしまった。今ならわかる。困っていたのも、傷ついていたのも、あんただけじゃない、ひとり悲劇のヒロインを気取るなと多分言いたかったんだろう。人の気持ちは難しい。人の数だけ、苦しみと辛さ、傷がある。自力で回復出来るかどうかが境目だ。もちろん日にち薬というものもあるけれど。日記を更新するたびに思うだろう。今の苦しみが、未来には、ほんの少しでも癒されているといいね。ほんの少しでも、生きやすくなっていると、いいね、と。
2012.03.07
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facebookに2月29日オンエアのテレビ番組に妹の知人が出演していた顛末を書きながらはっとする。ちょうど1年前、娘は福島にいた。妹からのオファーにより、大学の研究室での入力作業を行っていたのだ。それがために3月11日は福島で被災した。そうだよ、まさかあんなことになるなんて。あの日、わがやはまさに一家離散状態だった。夫は仙台への移動日なのに伊丹で足止めをくらい、実家に泊まることになった。娘は福島で被災して、大渋滞に巻き込まれた後妹と暗くて寒い一夜を過ごした。で、私は都心から徒歩と途中から奇跡的にタクシーに乗り帰宅。わんこと自宅にいた。福島第一原発の事故があり、妹は夜通し車を走らせ、娘を連れて来てくれた。3月。もう祈るしかないだろう。鎮魂であったり、すべてを失い、避難先や仮設住宅で過ごす方々へ思いを馳せたり。何とか住める状態だからと自宅に留まる方も少なくないし。おびただしい数の人々が一瞬にして巻き込まれてしまった災害の1年後は、まだ険しい道のりの、スタートラインに立てたかどうか。未だに1.17を祈りながら過ごしている。3.11は、まだ記憶が鮮明で、重い。家族バラバラの地で過ごしたから、今年はそろって、ということも出来ない我が家。夫は仙台出張、娘はバイト、多分私も在宅仕事。1年前を振り返りつつ、祈りながら過ごすことになるだろう。
2012.03.03
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もう○十年、東京と関西とを行ったり来たりしているので、新幹線から眺める風景はいい加減飽きている。だから、結婚して羽田空港に近いところに住み始めてからは敢えて飛行機を利用して来た。にもかかわらず、このたびの母の一件ではすべて移動は新幹線。品川にも止まるようになったのと、予定が読めなくてもすぐに乗れるので便利というのが主たる理由かな。もうひとつ、高圧電柱を眺めるようになったこともあるかもしれない。年末年始、車で帰省してみて改めて思ったんだ。静岡県辺りで高圧電柱が一直線のようにして並ぶあの向こうには、必ず発電所がある。送電線は日本を隈無く走っているが、高圧電柱が立ち並ぶのは、かつては決まって民家のほとんどない地域だった。それが、住宅街のほうが広がって、今では高圧電柱と民家が同居している地域もある。多くの発電所は水力か火力。たまに風力発電もあるけれど、住宅密集地にはほとんどない。風車が回る音がうるさいということもあるかもしれないが、まちおこしの一環という原子力発電所と同じような経緯を持っていることにも留意。コントロール可能で安定した発電量を望むなら火力か原子力という事情があることは否めない。高圧電柱によって運ばれる電気。それのどれが発電所由来のものなのかはわからない。変電所を経由して、またどこかへ運ばれて行くのだということは判っても。そんな乏しい知識しか持ち合わせていないけれど、東京と関西を往復する○十年の間に、ものすごく高圧電柱の数が増えた、と実感するのだ。東北新幹線を利用する時も、やはり高圧電柱の並びが気になる。学生の頃は、屋根瓦を眺めていたんだけれどね。西へ行くほど黒瓦の家並みが目につく。瓦にも好みの違いがあるようだ。もちろん家の造りも違う。家の造りの違いは都市部と田園地帯の違いでもある。思えば、屋根瓦と家の造りだけを気にかけていた頃はのどかだった。これもまた、私にとっての“3.11以降”の変化のひとつ。
2012.02.29
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12日ぶりに自宅に帰る。実家でもメールチェックだけは行い、返事が必要なものには返信していたのだけれど。思っていた以上にメールが溜まっていて、まずはその整理に数時間。で、「帰宅しました」とメールを送る前から携帯に電話がかかって来る。1本目は、ケアマネさんからの連絡で、ほっと一息。2本目、3本目は手ぐすね引いて待ち構えていた人々から。留守の間、本当にお疲れさまでした。入院中に主治医から言われて介護申請をしてみたものの、家族の欲目かもしれないが、頭は極めてクリアな母。現在事情あって、歩行にかなりの難があり、買い物に行けないし、ゴミ出しも不安。はっきり言って、要支援の後期高齢者、独居老人。が、介護認定は半年ごとに行うので、半年後には、ほぼ自立、かな?しかし、買い物は人をしあわせな気持ちにさせるんだね。日曜日、歩行器を使って行きつけのスーパーマーケットへ行った。隣の本屋にエレベーター使って立ち寄り、書棚をためつすがめつして、徒然草と方丈記を購入。で、昨日は税務署にタクシーで乗り付け、確定申告書を提出。さらにタクシーでJR駅前のデパートと大規模商業施設へ。まずは文具店で封筒と鉛筆、有名精肉店でぎゅにく、大型書店で本を購入。デパートのカフェで一服。セーター類を購入して、表のイタリア料理店でランチのあと、デパ地下で食料品を物色。もちろんベンチを見つけるたびに座ってはひと休み。時折立ち止まっては息を整える。もちろんタクシーでご帰還。手術が決まってから恐らく2カ月ぶりの長時間外出。所要時間は3時間半。ま、13時ちょうどに帰宅したのだけれど。本当に歩行にのみ困難を来たしているだけ。買い物かごも下げられないし、荷物も持てないのだけれど、何せ自分で資料をまとめ、計算もして確定申告書を作成、提出できたのだからして、何の不安があろうか?という知的活動状態。これだからね、家族は難しいんですよ。実家をあとにして、新大阪に向かう地下鉄で歩行器を使う若者に遭遇した。歩行器に鞄を乗せ、地下鉄で外出、なんだ。品川駅から山手線に乗り換えたあとには歩行器を使う高齢のご婦人にも遭遇。この方には付き添いの方がいらした。母が現在レンタル中のものとよく似ているけれど、通販系の雑誌で見かけた歩行器だった。年齢や機能に応じて、歩行器も付き添いも選べるんだったら、それはとても素敵なことだね。3月1日、母の元にヘルパーさんがやって来る。それだけで、離れたところで暮らす娘は安堵。高齢者向けの制度が整っていてよかったと思う。その一方で、高齢者という条件を外したときに、同じような境遇、同じように離れて暮らす家族が不安に感じる状況で高齢者向けではない制度はあるのか?仮にあったとしても使えるのか? どこまで頼れるのか?などなど、安堵してばかりはいれらない、職業的性って奴が頭をもたげる。
2012.02.28
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毎度おなじみ夜のわんこの散歩。もちろん今宵も敢行。途中、何度も寒風吹きすさぶ中、ひたすら前に向かってしゃかしゃかと小走りを続けるわんこ。幼犬の頃はその小走りで動かす足の運びがあまりに速く、宙に浮いているように見えた。それが面白くて、駆けたがるワンコをわざと押しとどめ、誰かが数メートル先に歩いて、わんこの小走りを眺めては喜んでいたっけね。我が家近くまで歩いて来て、ふと気づく。滑車を回し続ける誰かに似てないか?まさに娘好みのハムスター。なるほどね。今、なかなか寝床に入らない私を気遣い、足元で様子をうかがっている。いったい彼女は何を心配しているんだろう?愛いやつ。
2012.02.15
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母の退院日が決定。いよいよ腹をくくってしばし仕事を整理。というわけで、誕生日も返上でPCに向かった週末。夜の会議に明後日の会議の準備を済ませ、事業実施報告書の骨格だけでもわかりやすくしておこうとさらに加筆。「あとはこういうことを盛り込みます」と記しておいて終了。メール送信。あとは、事務所でメールを10通くらい送って会議の場所へ移動。会計処理用の領収書も無事に到着しており、ほっ。子連れ参加一組と聞いてお菓子を山ほど買い込んで行ったのだが、「東京駅で夫に引き渡して来ました♪」と軽やかに必殺経理職人が現れる。その後、遅れて現れた事務局メンバーが続々と広島の「さっちゃん焼き」やら高級手作りクッキーなどを携えて現れ、テーブル中央はお菓子の山に。まるでバレンタインデーが一日早く到着したかのよう。文案2種類の討議が中心の会議なので、議題は少ないが、全員そろうのに1時間超過で、結局会議が終了したのは9時過ぎ。今月後半は皆様にお任せして、実家の母のリハビリに付き合いますと宣言しておく。で、いつものようにおなかがぺこぺこのメンバー7名で繰り出す。10%オフでご提供しますという執拗な勧誘にDさんが根負けし、新しいお店を開拓。3月初めの某会合の打ち合わせをしたかったのに、いきなりセクシーな制服で有名な某レストラン名からアメリカのロックバンドの話になり、なんとなく話題はゆるーい方向へ。一日遅れのハッピーバースデーの乾杯をしていただき、ますます話題はゆるゆるな方向へ。Dさんの目下の担当でもある介護方面では、やはりリハビリの現場にもイケメンが必要で、イケメンのおかげでみなさまのリハビリへの意欲が湧くという話に。で、つい、母のリハビリ担当とその部下が絵に描いたようなBLモードの組み合わせで、娘の妄想が爆走、なんて話までしてしまう。ここまで来ると、打ち合わせは完全に吹き飛んでいる。わはは。(私の右手薬指のリハビリをしてくれた方は、 氷川きよし似の若いイケメンで、 おばあちゃま方から絶大な信頼を勝ち得ていた。 で、彼の故郷が福島は浜通りだったことを思い出し、 つい泣き出してしまったのは、つい数日前のこと。 なんて話は、打ち明けないけど)致し方なく散会。実際に10%オフだっただけでなく、料理もなかなかだった。で収まりきらない会合運営メンバーと必殺経理職人と4名で、例のビアパブへ。いきなりまともな議論がスタート。地域格差がどうした、当事者をどう救い上げるか、侃々諤々のうえに、さっき連絡が入った法案から削除された文言への批判と某都下の自治体の本音とを重ねあわせ、ついでに地元自治体での出来事を打ち明け。気がついたら1時間があっという間に過ぎていた。東京にいる間に、出来ることはなんでもやっておこうと思っていたが、なんと今週前半の夜の予定も3日間びっしりで、実家に赴いた後との落差は明白。何ともメリハリのある毎日ですこと。
2012.02.13
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年度末を控えて、事業報告書のとりまとめにかかる。助成金事業の報告書ゆえテーマは東日本大震災被災地支援。ああだこうだと、事業テーマに則ってプロットを考えるのだけれど、ああ、そうか、と全く別なことを思ったりして。実家が阪神淡路大震災で被災。ということは故郷が被災地だった訳だ。当時、震災で母上を亡くした友人にお花を贈ろうと同窓生と画策、しばらく連絡を取り合う中で感じたこと。何故、故郷を被災地、家族や知人・友人を被災者と呼び続けてるんだろう。そう呼ばれ続けている人々のことを思った。被災地でも、被災者でも、ない。一括りされてたまるか。そこで暮らす何百万という人々には、それぞれ名前があって、被災地と一括りされている地域にも地名と言う言わば名前があって。呼び続けるほうも辛くて悲しいが、呼ばれ続けるほうは、もっと切なく堪え難いのではないか。1995年4月から娘が通い始めた幼稚園での災害連絡訓練の想定が「震度3の地震が起きました」という表紙向けするほどぬるい設定で、電話が使える程度の地震で、いちいち緊急連絡網を回すな!と呆れながら、電話を回した。連絡網が回った翌日の幼稚園のお迎えのときに、母親仲間の一人が笑ってこう言ったのだ。「震度3で、電話かけられるのかしらね」すかさず、こう切り返してしまった。実家のお隣は震災で全壊してしまい、電話をかけてもつながらなかった。彼女は、「えっ?」という表情で絶句した。西側から電車で淀川を渡り、行き着いた梅田の街は何事もなかったような喧噪のまっただ中で、そのあまりの落差に、母と二人、呆然としたことを思い出していた。この落差、向こう側の冷静さ。17年前の東京は、まさにそうだった。が、このたびは違う。今になって、その違いが言語化できる。2011年3月11日、東京も被災したのだ。かなり意地の悪い表現かもしれない。でも、私の実感だ。あまりの温度差に対して、とやかく言うつもりはない。だって、実際に被災してみないとわからないもの。故郷や家族、友人・知人が被災してみないと伝わらないことがあるんだもの。阪神淡路大震災で私が学んだことを、東京は東日本大震災でようやく学んだんだと思うことにした。
2012.02.10
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昨日、娘が朗らかに帰って来た。「ばあばが、私が無事に帰り着くかどうか心配だから、 夜、携帯電話利用エリアから電話するって」ほほう。しかも母は、歩行器を使ってエレベーター前まで娘を見送ってくれたらしい。「多分まだ不安だからなんだと思うけど、 本人が思っているよりもずっと動きがスムーズになって来たよ」立ち上がろうとする動きも安定しており、自分の力でちゃんと自立出来る。お正月に会ったときには、ともかくしんどそうで、よろよろと力なく、とても弱っているように見えたのに、今ではすっかり元気を取り戻している感じ。夕飯の買い物がてら、娘を表を歩きながら、そんな感想を訊く。「ばあばとは 食べ物の話をしている時が一番盛り上がってたよ。 干し柿の作り方を教えてもらったりした」えっ? ばあば、干し柿つくったことなんてあるの?実家の台所を家捜しして干し柿を見つけ出し、おやつは専ら干し柿だったと言う娘。ばあばにも、その話をしたに違いない。干し柿って美味しいわよねえ、なんて盛り上がったのかな。「ひいおばあちゃまが干し柿を作るのが上手で、 教えてもらう約束をしたのに、 教えてもらう前に、ひいおばあちゃまの具合が悪くなって、 入院してしまって教えてもらえなかったんだって」その話も訊いたこと無かったわ。約束通り、母から電話がかかって来る。早速娘と替わり、ばあばと孫娘の会話を訊く。で、再び私と替わり、ケアマネさんとの話を伝え、「明日、電話するっておっしゃっていたから」と携帯電話の電源を付けておくことをお願いする。娘が戻る前に実家そばの高齢者生活支援センターのケアマネさんから電話があり、退院後の生活に必要な器具で介護保険対応のものがあるので、入院中に母に会いに行きたいとのこと。遠く離れて暮らす私たちが気にかけているところも汲み取って母がスムーズに日常へ戻れるよう考えてくださっていることが伝わって来る。「ともかくケアマネさん次第だからね」これが、現在実父を介護中の友人からのアドバイスだった。これまでのやりとりから、“当たり”のケアマネさんなんじゃないかと思ってる。実際に日に日に回復していく母の様子と、10冊以上の本のリクエストリストに応えて病室に届けた本を片端から読了していく姿に、大丈夫、介護認定未満だよ、と勝手に決めてかかってはいるのだけれど。大学3年の春休み、祖母の看病のために海辺の町で過ごしたことがあった。今、娘が再び、ばあばの看病を体験。
2012.02.08
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常に最悪の事態を予測し、備えておく。言うは易し、行うは難し。たいていの場合、備え過ぎて自損事故状態に陥ること多し。関ヶ原付近の積雪で東海道新幹線に40分程度の遅れ。ま、なんとか滑り込みセーフで現地到着かな。なーんて、のんびりしていたら携帯が鳴る。会議のお弁当のキャンセル?済みません、現在新幹線で移動中でして、私何も出来ません。で、誰にどういう風に連絡をすれば良いのか伝え、自らも動く。夜の予定に滑り込みセーフ。名古屋で37分の遅れが、新横浜時点で28分に短縮されていた。確かに、いつもより風景の流れる速度が速かった……。帰路、体調思わしくなく、へとへとになって帰り着き、そのまま就寝。翌朝メールをチェックしてみれば、お弁当とは別に取材の申し込みメール。が、週末で関係者とは連絡が取れず、対応出来ない。これはお断りしよう。ほかにも椿事が勃発。でも、傷は浅い。さらに翌日のお昼過ぎ、さらなるお弁当キャンセル依頼がfacebookのDMで届いている!ぐわっ!お弁当担当に連絡を入れると、先のキャンセルは出来たが、お弁当のランクを上げないと配達出来ないらしくパニクっている。新たなキャンセルをキャンセルすべくDMにレス。夕方になって、OKのDM。で、お弁当係には留守電で連絡。お弁当の金額変更メールは担当者に振ったはずがいっこうに送られた形跡がなく、関西弁でいうところの「いらち」な質なので、つい、自分で送ってしまう。やれやれ。で、当日の朝。急遽会議の議事次第にこちらの配慮で設定した議題を持ち込んで来た方から着信履歴。キャンセル分を自分が食べればお弁当代変更せずに済むのでは?というご厚意だった。が、その時点でお弁当の金額は変更されていたので丁重にお礼を申し上げるのみで済ませる。(ついでに資料関係の打ち合わせも)会場に到着し、三々五々出席者も到着。「おなかぺこぺこなの。 少し早いけど戴いていいかしら」という重鎮の鶴のひと声で、昼食開始。ここで、かねてからの疑問をお弁当担当者に訊く。もしかしたら、お弁当の数、注文時点で数え間違えてなかった?あわてる担当者。事前連絡も含め、実数を把握しつつ敢えて名簿の形でメールにしたためたのだけれど、彼女は、実数を確認せずに到着メールに従って数を上乗せ、したらしい。もとから、当初のお弁当金額での注文は出来ない数だった。金額変更してもなお、最終的な注文数は実数より1個多かった。指差し確認の重要さを、改めて思い知る彼女と私。というか、1個多いのでは?という疑問をちゃんと解決せずに通した私が事態を引き起こしたんだよね。ということで、勉強代としてお弁当を持ち帰り、夫と分けて食べる。まさか、妻が2個分、自腹で支払ったとは知らず。己のおろかさをいちいち綴る日記もどうかと思うが、まだまだ修行が足らん!と言いたかったのだ。配達してくれるお弁当屋さんの多くが、最低注文金額を設定している。揚げ物よりも煮物が多く、量も上品なお弁当は実は単価が高い。故に、10個前後の注文が予想される場合は単価が高いお弁当屋さんを選ぶのが安全。一応、お弁当のランクを上げたことは事前に伝えてあったので、食された方々はみなさま、満足されていたのが不幸中の幸い?まあ、とにかく、本当の大事には至らず、よかった。お弁当が足りない、というのがこの場合、最悪の事態だし。
2012.02.06
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病院のドクターの後押しもあり、退院後の母の生活を支えてもらうために介護保険の申請を行った。当事者本人の様子を巧みに訊き出すケアマネにうまい!と内心、感心することしきり。着実に回復に向かっている母の身体機能ではあるが、医療スタッフも私もあまりに長い入院は、母にあまりよい影響を与えないのでは?と危惧している。ずっとそばにいられたらよいのだけれど、にわかにそれは叶わない状況で。長距離移動を繰り返しつつインターネットと携帯電話のおかげ?で、仕事とプライベートの両立がはかられている。インターネットも携帯電話ももちろんPCもなかった頃には、移動中に別の仕事の原稿書いたり手紙書いたりして出張先でコピーセンターを探してコピーしたり、ファクシミリや郵便を送ったり。そういうことに慣れちゃダメになると思った。だから、今では敢えて自分のPCはデスクトップだし、(いや、DTP作業もするから大画面じゃないとという理由もある)スマホは持たず、携帯メールも使わない。(SMSで携帯電話にメール届くけど)それでも、移動中に電話は鳴るし、実家のPCでは読めないデータが添付で届き、「東京に戻ってから読みます」とメールを送る。あまりに便利になり過ぎて、機械に振り回されているよね。電話とワープロとファクシミリしかなかった頃から、ともかく普段の生活と仕事の場から離れなければ芯からリラックスは出来なかった。一方で、自然災害でいきなり非日常に放り込まれながら、一刻も早く日常を取り戻したいという方々がたくさんいらっしゃる。日常から逃れたい気持ちと日常を取り戻したいという気持ちと。そのどちらも身に迫って来るものだけに、不思議だなあと思う。要はバランスか?少なくとも、今の私は非日常の中にいる。そして、その非日常が、日常に変わろうとしていることも理解している。それにしても、くたびれた。思いがけず自堕落な週末を過ごすことができ、私の代わりに母を見舞ってくれている娘に感謝。明日からは気持ちを引き締め直して行こう。
2012.02.05
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気仙沼、仙台と周って自宅に戻り、今度は娘を伴い、実家へ。自力でトイレやシャワー室に行けるようになった母。今朝は、自力で手術をしたほうの足に靴下を履かせることに成功!した。手術後、自力で出来ることがかなり制限されてしまったからこそ自力で出来ることが増えるたびに本人は喜ぶ。で、その姿を見ているこちらも幸せ♪人は一生成長し続ける。母は身を持って示してくれている。昨年5月ぶりの気仙沼は人懐っこい子どもたちに迎え入れられ、にわかに注目された昇り龍を見に行き、現地の極寒状態を身をもって感じ。で、とびきりおいしい海鮮丼も食し。瓦礫の放射性物質汚染を気にする人々には悪いけど、反対運動を展開するあなた方のおかげで、ほとんど汚染のない現地であるにもかかわらず、まだまだ片付いてはいないからね。うん十年ぶりにディーゼルカーに乗った。昨年10月ぶりの仙台は元気。熱い意見交換がなされ、参加してくださった方々へ、ひたすら感謝の思い。震災の現地でも、実家でも笑顔を見せてくださる方の様子を見るのが嬉しい。そんなこんなもあるけど、2月もまた、うかうかしてはいられない。
2012.01.31
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娘の成人記念家族写真の撮影に。これまでは実家分も含めて3セット注文していたが、残るは母だけとなると、当然1セットのみに。特典がいろいろあって、撮影写真を使用したキーホルダーにミニアルバム付き。結果的には2セットwwwデジタル時代故、撮った写真をその場でセレクト。家族写真のわが身というか顔を見てうんざり。もう、おばあさんじゃないの。それでなくてもくたびれているのに、夕べ夜更かしするからだよ。夫に笑われる。主役は、なんといっても娘なのだから、彼女のはつらつとした若さが表現できていればいい。生き物として、わが国の伝統は正しいと思う。我が子を育て上げるためにへとへとになる。いわゆる仕送り文化だものね。自分自身が、そうやって育てていただいた。次世代にきちんとバトンを渡すために出来ること、やるべきことがある。どうしてそれを、まともに報道しないのだ?と友人ライターさんが某編集会議で激怒したら、それがそのまま特集に決まったんですって。まだまだ捨てたもんじゃないわね。明日は再び東北のかの地へ。美味しい魚をたらふく食べられるといいな。娘と夫は娘の部屋を大改造、らしいわ。
2012.01.28
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お年賀もらったおそばやさんでランチ。実家近くの関西には珍しい本格的そば屋が残念なことになっていたので、つい、そばが食べたくなってしまった。それにしても、実家の近所はなんともすごいことになってる。またしても本格的フランスパンを供するパン屋が徒歩3分ぐらいのところに出来ていたし、ビストロやリストランテが続々出来ている。どのお店にもちゃんとお客さんが入っているんだろうか?と勝手に心配になる。年末に家族そろって神戸屋レストランに出かけるようになってすでに10年近くになる。その間にも、もっと近くに続々とレストランが出来ているのだけれど、開拓しようという気持ちにはならない。なぜか。どこもあまり長続きしないんだよね。1軒良さそうなところを見つけて次も行こうと思っていたら、もうなかったということが幾度かあった。初詣に赴く天神さまのそばのレストランは別。あと、昔ながらのお寿司屋さんも。そうだ、全国展開している高級洋菓子店もあったね。あまりにお店が多くなり過ぎて、いちいち覚えきれない、というのも開拓欲を萎えさせる原因になっているかも。神戸屋レストランは、亡き父が健在だった頃から折に触れては利用して来たから、信頼度も高い。神戸に出かけたら、中華は第一楼で、洋食は伊藤グリル。フロインドリーブのアーモンドパイと同じ、高校時代からの定番。これは決して歳を取ってしまったせいだけではないと思うの。先日は、わんこの散歩のときに目をつけていた母校の近くのビストロに行ってみた。悪くないのよ。ワインリストも好みにあっていたし、スープとメインはとても美味しかった。でも、オードブルが謎だった。だから、今度はガードをくぐった先にある別の店に行ってみようかなと思っている。新しく開拓してみようと入る新しいお店で出されるものの味や佇まいが、多分、本当に多分そうだろうと思っているのだけれど、なかなか納得できない感じなんだよね。定番になっているお店はいつもよい意味で裏切られることがない。だから、納得出来るお店に出会ったら、それはもう、出会いものというか、通い詰めることになると思うの。ただし、もう実家に帰ったときにはおそばは食べない。いつの間にか関東風の味覚になっているのかしら?それでも、うどんは東京ではほとんど食べないけれどね。
2012.01.27
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今年に入って3度目の帰省から戻って来た。どちらも同じくらい寒い。週末には、さらに寒い東北へ行く。昨日は、ずっと母に付き添ってくださっていた看護学部の学生さんの実習最終日だった。人工股関節置換術を受けた人が避けるべき姿勢を図解して説明する資料を作成、解説付きで母にプレゼントしてくれた。それでなくともじ~んとしてしまう状況で、さらに、しんみり。彼女の口癖が気になっていた私は、お別れに、その口癖はやめたほうがいいよと老婆心ながら、言ってみる。「わたしなんかが」なんて、絶対に言っちゃダメ。言葉は案外恐ろしいもの。その言葉がいつかあなたを縛るようになる。頑張っている自分を認めようよ。夜になって、「わたしなんかが」の反語は「わたしだから(出来る)」だと思いつき、その言葉こそを贈りたかったなあと、後悔。病に苦しむ人を支えるのが仕事なんだから、その仕事に携わる本人が「わたしなんかが」なんて思い続けて欲しくないと思ったのだった。若いからこそ、出会う患者さんたちのバックグラウンドに触れるたび「わたしなんかが」と感じることは多いだろう。その謙虚な気持ち。それだけではない。ふと出てしまう言葉には、もっともっと深い意味があるかもしれない。と、勝手に推察しながら。本当はいけないことだと知りつつ、食べきれなかったロールケーキを無理矢理差し入れたりもしたけれどね。妹が駆け出しの医者だった頃。昼食を食べ損ねたことを知った患者さんにパンを差し出されて看護師さんに叱責されたと舌を出して報告してくれたことあったっけなあ。その距離感の保ち方は難しい。何せ、いのちの現場だけに、ね。そこでは誰も取り繕うことさえ出来ない。圧倒的なやりとりがある。医療者と患者はチームなんだ。ただし、患者それぞれに、チームとして認める認め方というか、やりとりのルールが違う。医療側は一線の引き方を決めてはいるけれどね。でも、大病院と地域の開業医とではその線の引き方は違うよ。母と私は、学生さんに近づき過ぎたかもしれない。でも、学生さんの挨拶のあとに教官が訪れて、私たちの感謝の気持ちがちゃんと伝わったことがわかった。あなただから出来るケアを。大丈夫、絶対出来るようになるよ。母が入院する病院にはNICUもある。エレベータで上階へ向かうとき、NICU関係者とおぼしきスタッフが乗り込むたび、思わず声をかけそうになる。来週、娘を伴って母の元へ赴く。
2012.01.26
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とあるイベントに参加する。月末のイベントでお世話になる方がご登壇なので、ご挨拶を兼ねて。会場内は、子ども支援業界のさまざまな方でいっぱい。チャイルドラインの元事務局長はお子さま連れ。ほかにも子ども連れがいらして、何とも微笑ましい。終わりのほうで驚いたのは、まさかの知人がいらしたこと。仕事の傍ら子どもサポート系の活動を続けている方。フィリピンのストリートチルドレンを取材して、その根源に日本人男性の買春ツアーが深く関与していると知り、義憤にかられた経験が現在の彼のルーツだということは、初めて出会ったときにお訊きしていた。元取材相手ということ。その彼が、億単位の財源を持つ東日本大震災被災地支援活動に携わっているのだけれど。現地は、その支援を未だ受け入れる体制にない。体制が整わないと受け入れられない支援というmのだあるのだ。それを準備し続けている団体があるということは、現地にとっては励みになるだろう。(励みだけじゃないかもしれないけれど)いよいよ本格化していく被災地の再建、復興。それなのに外部からの支援は徐々に衰退している印象だ。お金も必要だけれど、本当は人材が欲しい。それも、現地のことをよくわかっていて、現地の人との信頼関係があり、現地のために動くことの出来る人材が。現地で奔走するkさんからは、“その後”の残念なエピソードを訊いた。復興をもり立てようとイメージ戦略でも頑張るK市で、子どもたちの心身の復興をと作られた冒険遊び場を恒久的なものとするために、地元の実力者の協力をも取り付け、あとは行政が実施要項さえ作ってくれれば継続できる環境を整えたのに行政が動かない。似たような話を、昨年秋にお会いしたときにも訊いたような。そういう話は、現地に行けば山のように出て来るんだろうね。子どものことに関していえば、やはり子ども権利条例を震災前から制定していた自治体ほど、震災後の子ども関係のサポートに威力を発揮できている。条例があるから、復興プランの立案にも当然のように子どものことをも重視、子どもたち自身の意見反映をともれなくすべてが動かせる。少子高齢で、人口減少、過疎化が進む地域であっても、子どものことがおろそかになることはない。そう。平時から準備されていたものしか、非常時には発動されないのだよ。
2012.01.22
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ふと嫌な予感がして携帯電話を取り出す。着信あり、しかも留守電あり、おまけに母が入院中の病院がある地域の市外局番から着信の様子。まずは留守電を確認。SECOMのコールセンターからだった。よかった、病院からではなかったと、少しほっとする。昨日、留守中の見回りをお願いしていたんだっけ。もちろんコールバックする。なんと、サンルームの鍵が閉められていなかったと。「施錠しておきましたので、そのご連絡でした」それはそれはお世話さまでした。誰の仕業かってのは、もちろんわかっているけれど、それを確認し切れていなかったのは私の責任だ。何事もなくてよかった。母はリハビリに勤しめているだろうか。血糖値や体重に変化はあったかしら。気がかりだけど、こっちにいればこっちにいたで、目の前の諸々に忙殺されて気が抜けない。月曜日には、母の笑顔に会える。その前に我が家をもう少し片付けておかないと。と言いつつ、久々の休日は、つい朝寝坊に昼寝。これで風邪を遠ざけられるかな。
2012.01.21
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このところ私が床に就く前にわんこが私の寝床で寝ているらしく寝床に入るとほかほかして暖かい。「ありがとう」と声をかけるとそっと布団に潜り込んで来る。一人と一匹とで温めあいながら就寝。寒くなると同時に膝に乗せてとせがむ頻度がぐっと高くなる。久しぶりに在宅で仕事をしていた今日はそうでもなかったけれど。私が留守の間に、体調を崩していたらしい。「わんこ、何度か吐いたんだよ。 もう治ったけど」娘の報告を訊きながら、1年前も体調を崩していた時期があったと思い出す。あのときは、本当に元気がなくて歩行もおかしかった。今回は何か怪しげなものを食べてしまったらしい。どうも新しいフードが口に合わない様子。昨年秋に7歳になった。犬の7歳はシニア犬の仲間入りらしくて、フードも7歳未満と7歳未満で分けられている。シニア犬用のフードはお口に合わないのかしらねえ。無理に歳に合わせなくても食べられるのなら変えなくてもいいのかな。明日の天気予報は東京にも雪だるまのマーク。さらに寒くなるのかな。明日の夜は外出予定があるから、仮に雪が積もっても元々散歩が出来ない。今夜は散歩の途中から、ぽつぽつと雨が降り始めた。寒くても、またひとつ歳を取っても散歩の時はとっても元気。今夜も寝床を温めておいてね。一緒にぬくぬくしながら素敵な夢を。
2012.01.19
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今日もリハビリで頑張っているだろう母は軽い糖尿病がある。で、無類の甘い物好き。入院当日、そろそろおやつの時間というときになってハンドバッグをがさごそ、出がけに放り込んで来たというキャンディーを取り出し1粒を自分の口に、もう1粒を私に差し出した。夕食前の血糖値測定で高めの数値。あ、さっきのキャンディー!という訳で、持参したキャンディーをすべて回収する。忍ばせていたのはキャンディーだけではなかった。バンホーテンのココアの素まで!それが知れたのは、入院4日目の午後。車椅子で院内散歩をと看護師さんに勧められて病院内のカフェへ行き、ホットチョコレートを1杯。その後の血糖値測定でまたもや高い数値が出て、うなだれながらバンホーテンの袋をハンドバッグから差し出した。ふうう。その後も、高めの血糖値が出て朝食に出たジャムのせいかも、と言ってみたり。病院の管理栄養士さんを頼りに密かにウエートダウンと血糖値改善を目論む母。その結末やいかに?
2012.01.18
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また1月17日が訪れた。この日を実家で迎えるのも悪くないなと思いつつ、あれこれ用事が溜まっていくのに耐えられずというのは言い訳で、あるイベントに参加したいと一日早く自宅に戻って来た。手術後、日に日に元気になっていく母を見て、これならしばらく病院にお任せしようと安堵したのは事実だ。看護大の学生さんが実習のため、ずっと付き添っていてくれることも大きな安心材料のひとつ。リハビリ初日には、歩行器を使って頑張って歩いていたと彼女がにこやかに報告してくれた。帰りの新幹線で新聞各社のニュース速報を読みながら、浦島太郎になったような気持ちになる。実際、帰宅後にメールチェックをしながら、待ち構えていたかのように届いていたメールの数々に臆してしまった。リハビリが必要なのは私のほうだ。まずは現状把握に努めることにして、今朝から臨戦態勢に入ったら、残念ながら、参加したかったイベントには間に合わなくなってしまった。17年経っても、未だ復興道半ば。そんなことを、毎年書いているような気がする。住み慣れた街を歩けば、どうしたって気づくことがたくさんある。急激な変化に驚愕し、強い喪失感に苛まれた震災後の数年間は、まだまだ目くらましっぽかったかもしれない。でも、急激な街の復興の様子に強い不安を感じたことも事実で、今、ちょうどN○Kが特番で放映しているのが、急激な復興の裏で引き裂かれた人々の信頼や絆。高齢で被災し、仮設住宅で亡くなった近隣の方がいらっしゃる。現在は、そのお子様方が家を新築して暮らしている。実家周辺もすっかり代替わりの時期に入り、お隣もお向かいも、私とほぼ同年代の方々がご当主となった。今、実家で母と暮らすことになっても、代替わりしたコミュニティに入れていただければなじめるのかしら。多分、そうだろう。でもね。父の子ども時代から反映していた商店街は、もうないの。最も被害がひどかったことから、はやばやと商店街はなくなり、中心に防災公園が出来て、まったく別の街並になってしまった。父は結局、変わり果てた街並をみることなく逝ってしまったんだなあ。地元の友人と、そういう話をしたことはない。震災の話自体、ほとんどしてこなかった。亡くなった人のことに触れたくないとか、再建するまでに年月がかかり、ようやく再建できたとたんに両親が次々と亡くなってしまったりといったことがあり、どうも話すきっかけを失ったままだ。ただ、あの日起きたことがとてつもなく悲しくて辛かったということだけは何も言わなくてもお互い判っている。今日参加したかったイベントは、東日本大震災支援の一環として企画された編み物カフェだ。実家滞在中に、東日本と西日本とではトップ記事となる事柄が随分違うんだなあと思っていたが、今日という日が、距離を超えてお互いを一気に近づけたような気がする。まあ、明日になればまた、違う世界に戻っていくのかもしれないけれどね。仕事に邁進している間は大丈夫だけれど、はっと我に返ると、感情の波が押し寄せて来る。1.17は、私にとって、そういう日だ。
2012.01.17
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明日から1週間実家に滞在。留守中のことを考えてあれもこれも作業を進めるものだから、どうしてもばたばたしてしまう。幸いに留守中に届くと思っていたものが今日届き、対応することができた。今月末のイベントの広報だから、ちゃんとしておかないと。という訳で、チラシの印刷や発送も。もうこれ以降のことは対応できませんと、暗に示しているつもりなのだけれど、次々に何かが押し寄せて来る。あることに対しては断りを入れ、別のあることに対しては、放置という対処の仕方で、別の人に振る。帰宅後にfacebookをチェックしたら、20年前にお世話になった“元締め”から友達申請が届いていた。ウォールを覗いてみると、元気にますますのご活躍!俗に言う業界人そのものという感じだったけれど、仕事では常にあらゆるところで最高のものを求める人。現在も現役であることは言うまでもなく。彼の姉上が著名な文化人の伴侶であったことから、その著作物の管理を任されるなどして共に仕事ができなくなってしまったのだけれど、彼が紹介してくださった方々はみな、素晴らしい仕事をしている方々だったし、何よりご本人がとても魅力的な人物だった。20年ぶりの邂逅。ご本人の人あたりと同様、ほんわか、ほわほわと親交が続きそうな予感。
2012.01.10
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娘の成人式。寝坊した上に、髪型がなかなか決まらず遅刻決定で、夫が会場まで車で送っていった。まあ、一人でちゃんと支度したのだから、よしとしよう。新成人であふれんばかりの会場には、母の知人が主催側スタッフで立ち働いていたとか。またしても母の知り合いに出会ってしまったのね。小中学校時代の同級生にたくさん出会って旧交を温めて来たらしい。懐かしい名前がいくつも出て来た。あまりに人が多過ぎて落ち着かないからと、終了を待たずに会場を出て、予定通りに仲良し5人組でプリクラを撮り、Mちゃんを伴って帰宅。夕方から都心で中学時代の同窓会があり、誰もが一旦帰宅して着替えてから出直すとのこと。自分が育った街で迎える成人式って楽しそうでいいね。おかあさんのときは、大学入学後にじいじの診療所に住居を移したから、知らない人ばかりの成人式で、まったくもってつまらなかったよ。会場に入らず、そのままタクシーで写真スタジオの近所まで戻り、時間が車でコーヒー飲んでた。というようなことは、ともかくとして。子どもが成人した喜びは、確かに親のみがかみしめるもので、ご本人たちには別の感慨があるのだろうし。幼稚園時代からの大親友とともに、そそくさと同窓会に出かけて行く娘を見送り、夫婦二人で焼き鳥屋にでも行こうと決める。娘の二十歳のお祝いに連れて行こうと思っていたちょっと高級な焼き鳥屋さん。座敷奥の窓際の席に通され、満月を眺めながら。極上の焼き鳥と野菜の盛り合わせに、ラストはとりのスープで作った雑炊。もう、それだけでお腹いっぱいになって、ほろ酔い加減でしばしの散策。それにしても驚いたのは、成人式にまでついて来た親御さんが何人かいて、ひたすらカメラマンに徹していたんですってさ。「成人式について来る親っているのかなあ?」と娘が事前に夫に質問して、成人式なんだから、親がついていくわけねえだろと夫が笑い飛ばしていたらしいんだけれど。何も言えねえ(苦笑)。子どもの親離れよりも、親の子離れに課題あり?まさか新婚旅行には、ついていかないよね?新婚旅行も記録係をやっておかないと気が済まないかしら。よそさまのことは、どうでもいい。とは言え、いつまでも親につきまとわれる子どもの行く末が、ほんの少し気になる、かも。
2012.01.09
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ようやく仕事始め。しかし、前日既に在宅で仕事は始まっている。お昼休みに思いついて、最寄りのそば屋へ。神楽坂沿いには、名の知られたそば屋があるけれど、ここはどこの街にでもありそうな、家族でこじんまりとやってます、という風情のお店。もちろん入るのは初めて。壁に並んだお品書きはお値段リーズナブル。鴨せいろを頼んでみる。ちゃんと普通に美味しかった。別に三味そばとか、柚子切りそばみたいな通っぽいメニューを求めず入った訳だからこれで十分。ただし、臨時のお手伝い風の女性の身内の身の上話が延々と続いていて、ふうん、という感じ。お勘定の際に、お年賀を頂戴する。どこかの航空会社の機内サービスみたいな干支を象った陶器製の爪楊枝入れかと思ったら、七味唐辛子のミニ缶だった。なんて気が利いているんでしょう。贔屓にしちゃおうかな、と思う。夕べは「チェルノブイリの祈り 未来の物語」(岩波現代文庫)を読了。彼の地での出来事については、昨夏、NHKBSでルポルタージュを見ていたこともあって、当事者たちの苦悩や戸惑い、悲しみを冷静に読むことができた。唯一の原爆被爆国の国民のひとりとしては、原発全体が火災を起こす事態で何が起きているかぐらいは想像出来たと思う。知らないことの恐ろしさ、悲しさ。もし、先に福島原発の事故が起きていたとしても、申し訳ないけれど、消防士を無装備で現場に急行させ消火活動につかせるなんてことは、しなかった=出来なかっただろうと思ってしまう。でも。ルポルタージュ番組を見たときに、あれほどの重大事故が起きてしまったら、収束させるためには、何人もの犠牲を余儀なくされてしまうのだなと、心底恐ろしいと震えてしまったのは確かだ。知っているからこそ、恐ろしくて何も出来ない。というか、誰もが動けなくなるに違いない。フリーズしている間に、最悪の状態に陥ってしまうかもしれない。TVで原子炉建て屋の爆発を見ることができた日本とわずか数行のベタ記事で隠蔽しようとしたかの国との違いも確かにあっただろうけれど。それで思い出したのは、もともとラジウムやウランなどの鉱脈を持つ地域で井戸を利用している人々にがんで亡くなる人が特異的に多いかもしれないという疑問を検証してみたいと言った、父の言葉。しかし、父が持った疑問の答えは、チェルノブイリの人々の体験の中にあったかもしれないと思う。それについて詳述することは出来ない。原爆が投下されて以降、この星で、どれほどの核実験が繰り返されたことか。むしろ今は、そちらの検証のほうが重要なんじゃないかとさえ思う。未来を思えば、出来ることならシェルターに住みたい。図らずも、夫は密林でオーダーしたCDの到着を待ち、結局在宅で仕事をしていたんだって。わたし?昨秋からの懸案事項にようやくゴールが見えて、ほっと胸を撫で下ろしているところ。
2012.01.06
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子どもの頃から、名神の天王山辺りの渋滞は当たり前だった。で、東京に戻るにあたり、京都を通り過ぎるまでが勝負と勝手に決めて、帰りも早立ちを決定。3が日ではあるが、既に雑煮は取りやめ。ふぐ雑炊とおせちの残りでささっと済ませる。母がおにぎりを用意してくれた。で、渋滞知らずで小牧まで通過という快挙。ひゃっほう。夫はこの勢いで浜名湖SAで休憩と思ったらしいが、そうは問屋が卸さず、岡崎を過ぎた辺りでどうしても渋滞に遭遇らしい。致し方なく上郷SAで最初の休憩。ここにはドッグランがある。タリーズでコーヒーを買う間にわんこと夫が下車。トイプードルにミニチュアダックスなどなど、確かに犬連れが多い。残念ながら大型犬が先にドッグランを謳歌していたため、わんこはドッグランに近寄れず。渋滞というよりは、のろのろ状態。本格的な渋滞は厚木IC手前の事故渋滞のみで、日のあるうちに帰宅。所要時間8時間。Uターンラッシュの時期にこのタイムは素晴らしいかも。夕食は、もちろんいつものインド料理店。このパターンは10年近く続いている。車は苦手な娘は、行きも帰りも薬服用で乗り切った。本来なら、年末の椿事ということで日記に記してもよいのだけれど、既に年が明けてしまっているので、備忘のために記しておこう。母からの依頼で12月28日の午後3時に某金融機関の担当者を我が家に迎えることになっていた。対応すべきは娘ということで、親子でお待ち申し上げていたのだが、30分以上経ってもいらっしゃらず。思わず母に電話をいれてみる。その10分後に担当者から電話があり、「お待ちしているんですが」とこちらが言うと、留守電を入れたとおっしゃるのだが、間違い電話だったらしく。で、さらに待つこと20分で到着。娘ったら、友人と約束していたものだから意地悪く「外出姿で待ってよう」ですって。で、ひたすら低姿勢な担当者。商品説明もしどろもどろで、寒いのにコートも羽織らずに去っていく。「あの人、涙目だったね」娘はそう言って出かけて行った。この日は午前中、生協関係のトラブルがあり、なんだか波乱含みの予感を醸していた。(この生協の1件のほうがよほどたちが悪く、 初めのほうこそ温和な態度で接していたが、 後日電話で怒鳴る事態となる。 が、最終的な結果は不明)涙目で現れたのは、多分寒風のせい。が、コートを着て威圧的な視線で相手を見つめひたすら相手を威嚇していたのは娘。長身細見の彼がびびっていたのは、娘のせいだと思う。敵に回したら手強そうだなあ>二十歳の小娘。同じように手強そうな妹は、大晦日の午前中、なんと姪である娘からメイクのコツを習っていた。アイシャドウやチークの使い方、眉の描き方、アイラインの引き方。で、その勢いで神戸大丸の化粧品コーナーに突撃。私たちは地下の食料品コーナーで買い物。そんなこんなで、今のところ向かうところ敵無しなのは、妹ではなく娘のほうだろうね。作戦参謀として情報分析と作戦の立案は私がやるから、実動部隊として作戦を最大限活かしてね、と信頼して頼めるくらいには、娘も成長してるってことかもしれない。しめしめ、と密かにほくそ笑むのは私だけ?
2012.01.03
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